佐世保便り

2008年7月に佐世保に移住。
海あり山あり基地あり。そしてダム問題あり。
感動や素朴な疑問など誰かに伝えたくて…

2010年日本平和大会in佐世保

2010-12-05 | 平和



ひょんなことから、この大きな会に参加することになった。

1986年から始まったというから、四半世紀に亘る歴史を持つ全国大会。
しかも毎回、海外からのパネリストを数人迎えてのシンポジウムや分科会を開催しているらしい。

また、開催地が沖縄や神奈川に多いというのは、基地問題を中心に考える平和の大会なのだろう。
佐世保での開催は6年ぶり、3回目のことだという。
今回のテーマは「米軍基地・軍事同盟のない平和なアジアの実現を目指して」となっていたし、
スローガンには「いま、沖縄と心ひとつに」と掲げられていた。

そういう大会の存在すらも知らなかった私が関わることになったきっかけは「うたごえ」だった。

平和大会は12月2日~5日まで開催されたが、4日の全体集会で、
長崎の合唱団が「平和の旅へ」という、合唱と語りによる構成曲の演奏をすることになり、
その語りをやってもらえないか…という依頼が舞い込んできた。

その依頼主は、「川原のうた」でたいへんお世話になった『ながせん』の方々。
断るわけにもいかず、また、それがどんなに大きな舞台なのかも知らず、安易に引き受けてしまった。。

一度だけ長崎での練習に参加して、音楽の演奏と合わせて語ることの難しさを実感。
でも、録音した演奏に合わせて自宅で練習すればなんとかなるだろうと軽く考えていた。

当日4日、午後2時頃から舞台リハが始まった。
家での練習のおかげで何とか音楽に合わせて語ることができ、無事にリハも終わりホッとしていたら、
客席で見ていた舞台監督とやらがやってきて、
「あなたの語りは独り言を言っているようだ。もっと語りかけるという気持ちを持ちなさい。
 平和の旅へ出かけるところでは、それまでとは全く違った明るい声の調子に変えなければ…」
と厳しい指摘。

私は指摘通りに声を変えていたつもりだった。
そしてもちろん、客席に向かって語りかけていたつもりだった。
それが全く伝わってなかった事にびっくりした。
これ以上感情を込めて語ると、いかにも演じてるという感じがして私にはできないと思った。

楽屋に戻る途中、何人もの方が「気にしなくていいよ。今のままで十分伝わるよ」
「あなたの語りをすればいいのよ」と言って下さったが、
その優しさに、却ってなんとか修正しなければ…という前向きな気持ちになっていった。

幸い合唱団の中に以前語りをやった方がいたので、その方にお願いして語りのところを読んでもらった。
全然違った。
私は音声訳の中でやってきた、感情を極力排した読み方に慣れていて、
私としては十分喜びを表現したつもりでも、それでは半分も表現されていないことに気付いた。

本番の幕が上がったとき、客席の方は暗くて見えなかったが、
このどこかに、川原の皆さんがいる、「ふれんど」の仲間もいる、東京から参加している友人もいる、
その人たちに伝えるつもりで語ってみようと思った。
いつもよりうんとオーバーに声の調子を変えてみた。
恥ずかしいという気持ちはどこかに置き忘れていた。

終わってから、合唱団の皆さんに再びたくさんの声かけをいただいた。
「良かったよ!」という同じ言葉でも、以前とはそれこそ声の調子が全然違う。
それまでは社交辞令や、私に自信をつけさせようとの温かい思いやりの賛辞であったことがよくわかった。
「語りをきいて涙が出そうになってしまった」という言葉を聞いた時は本当に嬉しかった。

その後、川原の皆さんが楽屋に入ってきて、楽屋は「川原のうた」練習会場に一変した。

約1時間後、先ほどのステージに、川原の住人だけでなく、私たち支援者と、長崎の合唱団も加わって、
今までにない大人数で「川原のうた」を合唱した。

指揮者のK子さんは途中から泣いていたそうで、(私は視力が悪いので気付かなかったけれど)
気づいていたS子さんは、彼女も胸が詰まって声が出なくなった、と言っていた。

終わってから合唱団の皆さんは、「川原に行ってみたい、石木川のほとりで歌ってみたい」と言ってたし、
川原のS子さんは、「同じ長崎県に住んでいながら私たちは原爆のこととかあまり考えていなかったね」
とつぶやいていた。
どちらの言葉も、私はとても嬉しかった。
私にとって、とても意義深い「平和大会」だった。


もちろん、そのような個人的な思いばかりではなく、シンポジウムや分科会も有意義だった。

2日の国際シンポジウムでは、ジョゼフ・ガーソン(米国)、イ・ジュンキュ(韓国)、コラソン・ファブロス(フィリピン)、モハンマド・イブラヒム・アルコザイ(アフガニスタン)各氏の貴重な話を聴くことができた。

特に印象的だったのは、韓国のイさんが言った言葉。
「韓国人にとって脅威の第1位は北朝鮮であり、第2位は日本。
 これからの日本はどうなっていくのだろう。戦前のような道を辿っていくのではないかと不安を感じている」

また、コラソンさんの話で私は初めてフィリピンに今も米軍が駐留していることを知った。
1991年に米軍基地を撤去したはずのフィリピンに、実は、1999年にVFA(訪問軍隊協定)を締結して米軍は戻ってきており、今や農村では重装備の米兵の姿が風景の一部になっているという。
いわゆる「軍事演習」で犠牲となった死傷者や、米兵による殺人やレイプなどの被害も後を絶たず、
また米兵が罪に問われることはなかったと聞いて、本当に驚いてしまった。

こちらは、アフガニスタンのジャーナリストのモハンマドさん。
戦争が続くアフガニスタンでは、42%が貧困ライン以下の生活をしており、
乳幼児の死亡率は25.7%という世界最悪の状況で、
70%の国民が清潔な水へのアクセスがないという。

「日本政府に求めたいのは、軍事的な支援ではなく民生支援をしてほしいということ。
 私たちには軍事基地ではなく病院が必要です。人を殺す銃ではなく食料が必要なのです」

沖縄は名護からやってきた大西照雄さんは、知事選の敗北を認めながらも、
「仲井真氏の政策は伊波さんに近づいてきた、
 告示前に移設容認を「県外移設」に変えた。この変化は明日への展望。
 私たちは県外移設と言い続けます。皆さんは基地が来るのはイヤだと言い続けて下さい。
 平和の衣をつけて歩み出した時にアジア情勢は変わります」

5日の最終日。朝9時半佐世保公園に集合。
10時に「うたごえ」で開幕。
「青い空は」「願い」「折り鶴」「沖縄を返せ」「We shall overcome」などなどを歌う。

10時半集会が始まり、各国からの参加者のスピーチの後、山下市議や各地からのアピールが続く。

11時過ぎ、ピースパレードに出発。

再び、歌で皆さんを送りだした後、私たちも行進のシンガリについて歌い続けた。


佐世保公園の桜の木は、すべて葉っぱを脱ぎ棄てて、裸木になっていた。

その向こうには真っ青な空が…。

歌う声にも思わず力が入る。

        青い空は青いままで 子どもらに伝えたい…♪

コメント (3)
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