7日、コンサートから帰ってテレビをつけると、NHKの画面にその人が大きく写っていた。
?、チャンネルをまちがえたかな?
そうでないことは、すぐにわかった。その人の死を伝えていたのだ。
身内でも友人でも勿論なく、知人とも言えない。その顔も声もこちらはよく知っているが、向こうは全く知らないのだから。
常にTVという受像機の中にいる人だった。
それでも、こんなにショックを感じるのはなぜだろう。
その人が癌と言う深刻な病と闘っていたのは、最近ほとんど「ニュース23」を見ない私も知っていた。いや、見なくなったのは、その人が闘病生活に入って画面に出なくなったからだ。わさび抜きのお寿司のような味気なさを感じるようになったのだろうか。
いつかこんな日が来ることは予測できていたはずなのに、予想外のショックだ。なぜだろう。
ジャーナリストという仕事人として、その見事な仕事ぶりを、門外漢の私でも感じていたからか?
私人としての人柄は何一つ知らないくせに、画面から伝わってくるその人の人間像が親しみと信頼を感じさせるものであったからか?
それらは私の個人的な印象のはずだが、それが勘違いでなかったのは、ここ数日の多くの人々の反応が物語っている。
新聞、テレビ、ラジオなど報道関連の同業者は、先輩も同僚も後輩も皆この上もなく彼を讃え、惜しみ、偽りでない無念の表情を見せる。
立花隆さんは、「戦後日本が生んだ最大のジャーナリスト」と言いきっている。
政治家も芸能人も、その人を知る人々は皆一様に肩を落としていた。
8日の長崎新聞には、平戸市や長与町の人々の惜しむ声が掲載されていた。
長与町にある県立大学シーボルト校で1999年から4年間講師を勤められたそうだ。
「地道に継続して問題点を明らかにしていく謙虚な姿勢が印象的だった」と同大教授は語る。
平戸市では昨年の地域フォーラムでパネラーとして心に残る提言をなさったそうだ。
町を案内した方は「日本を知り尽くしたすごい人だった。政治家にもないような器の大きさを感じた。惜しい方をなくして寂しい」と肩を落としたと書かれている。
やはり、そういう方だったのか。
直に話さなくても、毎日のできごとを伝えるなかで、彼は自分自身をも結果的に視聴者に伝え続けていたのだ。
何か大きな事件や国際会議があるときは、よく現地から発信されていた。
それまでメインキャスターと言えば、いつもスタジオにでんと座っていて、サブキャスターやリポーターと言われる人々が現地に飛んでいたのに、彼はちょっと違っていた。
自分の目で確かめなければ気が済まない人?現場主義?
いずれにしても、だから彼の言葉には説得力があった。信頼を寄せることができた。
政治問題や国際情勢など、新聞の社説も大きく異なるときがある。
自分の考えに自信が持てない時がある。
そんな時、ジャーナリスト筑紫哲也の明確な論理と豊富な知識に裏打ちされた「多事総論」を聞いて安心したり、気付かされたり…そういう年月を経てきたのは私だけではないだろう。
そういうことを考えていたら、友人からメールが届いた。
まるで私の心を代弁してくれているような内容だった。
筑紫哲也さんが亡くなりましたね。絶対に復帰して、またニュース23で私たちに勇気と力を与えてくれるものとばかり思っていたのに。。驚きと失望は大きすぎます。武力でなく、「論」で、言葉で平和に暮らす価値を常に主張されていた彼の功績は本当に大きいものが有ります。
筑紫さんは、私がなんとなく思っていたこと、漠然と心に浮かんだ、言葉に表せなかったことを、しっかりとした言葉で表現してくれた人でした。
私は久しぶりに泣きました。自分の考え方を確認する羅針盤が無くなってしまったようです。
今後のテレビ界が薄っぺらいものにならないよう祈るばかりです。後を引き継いだ方たちには、筑紫さんの築いてきたものを大切に、彼のように、ただ平和を願いつつも自分に自信を持てない私のような一般庶民の羅針盤になって欲しいと願います。
私たちのような喪失感に襲われている人々が、日本中にはきっとたくさんいることだろう。
でも、私たちはいつまでも喪失感に浸ってはいられない。
羅針盤を失くしても、船は旅を続けるのだから。
夜空の星を羅針盤とする、有能な水先案内人を育てよう。船に乗り込んでいる私たちみんなで。
そういえば、この日のコンサートの中で、谷村新司が語っていた。
「ハワイでは航海士のことをマカリーって言うんですよ。星を読む人と言う意味。
そしてまた、マカリーには昴と言う意味もあるんですよ。」
そう言って、島の小学生たちと、まだ未公開の新曲を披露してくれた。
よーそろー よーそろー こころ運んで行く マカリーの星を超えて
?、チャンネルをまちがえたかな?
そうでないことは、すぐにわかった。その人の死を伝えていたのだ。
身内でも友人でも勿論なく、知人とも言えない。その顔も声もこちらはよく知っているが、向こうは全く知らないのだから。
常にTVという受像機の中にいる人だった。
それでも、こんなにショックを感じるのはなぜだろう。
その人が癌と言う深刻な病と闘っていたのは、最近ほとんど「ニュース23」を見ない私も知っていた。いや、見なくなったのは、その人が闘病生活に入って画面に出なくなったからだ。わさび抜きのお寿司のような味気なさを感じるようになったのだろうか。
いつかこんな日が来ることは予測できていたはずなのに、予想外のショックだ。なぜだろう。
ジャーナリストという仕事人として、その見事な仕事ぶりを、門外漢の私でも感じていたからか?
私人としての人柄は何一つ知らないくせに、画面から伝わってくるその人の人間像が親しみと信頼を感じさせるものであったからか?
それらは私の個人的な印象のはずだが、それが勘違いでなかったのは、ここ数日の多くの人々の反応が物語っている。
新聞、テレビ、ラジオなど報道関連の同業者は、先輩も同僚も後輩も皆この上もなく彼を讃え、惜しみ、偽りでない無念の表情を見せる。
立花隆さんは、「戦後日本が生んだ最大のジャーナリスト」と言いきっている。
政治家も芸能人も、その人を知る人々は皆一様に肩を落としていた。
8日の長崎新聞には、平戸市や長与町の人々の惜しむ声が掲載されていた。
長与町にある県立大学シーボルト校で1999年から4年間講師を勤められたそうだ。
「地道に継続して問題点を明らかにしていく謙虚な姿勢が印象的だった」と同大教授は語る。
平戸市では昨年の地域フォーラムでパネラーとして心に残る提言をなさったそうだ。
町を案内した方は「日本を知り尽くしたすごい人だった。政治家にもないような器の大きさを感じた。惜しい方をなくして寂しい」と肩を落としたと書かれている。
やはり、そういう方だったのか。
直に話さなくても、毎日のできごとを伝えるなかで、彼は自分自身をも結果的に視聴者に伝え続けていたのだ。
何か大きな事件や国際会議があるときは、よく現地から発信されていた。
それまでメインキャスターと言えば、いつもスタジオにでんと座っていて、サブキャスターやリポーターと言われる人々が現地に飛んでいたのに、彼はちょっと違っていた。
自分の目で確かめなければ気が済まない人?現場主義?
いずれにしても、だから彼の言葉には説得力があった。信頼を寄せることができた。
政治問題や国際情勢など、新聞の社説も大きく異なるときがある。
自分の考えに自信が持てない時がある。
そんな時、ジャーナリスト筑紫哲也の明確な論理と豊富な知識に裏打ちされた「多事総論」を聞いて安心したり、気付かされたり…そういう年月を経てきたのは私だけではないだろう。
そういうことを考えていたら、友人からメールが届いた。
まるで私の心を代弁してくれているような内容だった。
筑紫哲也さんが亡くなりましたね。絶対に復帰して、またニュース23で私たちに勇気と力を与えてくれるものとばかり思っていたのに。。驚きと失望は大きすぎます。武力でなく、「論」で、言葉で平和に暮らす価値を常に主張されていた彼の功績は本当に大きいものが有ります。
筑紫さんは、私がなんとなく思っていたこと、漠然と心に浮かんだ、言葉に表せなかったことを、しっかりとした言葉で表現してくれた人でした。
私は久しぶりに泣きました。自分の考え方を確認する羅針盤が無くなってしまったようです。
今後のテレビ界が薄っぺらいものにならないよう祈るばかりです。後を引き継いだ方たちには、筑紫さんの築いてきたものを大切に、彼のように、ただ平和を願いつつも自分に自信を持てない私のような一般庶民の羅針盤になって欲しいと願います。
私たちのような喪失感に襲われている人々が、日本中にはきっとたくさんいることだろう。
でも、私たちはいつまでも喪失感に浸ってはいられない。
羅針盤を失くしても、船は旅を続けるのだから。
夜空の星を羅針盤とする、有能な水先案内人を育てよう。船に乗り込んでいる私たちみんなで。
そういえば、この日のコンサートの中で、谷村新司が語っていた。
「ハワイでは航海士のことをマカリーって言うんですよ。星を読む人と言う意味。
そしてまた、マカリーには昴と言う意味もあるんですよ。」
そう言って、島の小学生たちと、まだ未公開の新曲を披露してくれた。
よーそろー よーそろー こころ運んで行く マカリーの星を超えて