弁道
原文
先王の道は、先王の造る所也。天地自然の道に非ざる也。蓋(けだし)、先王、聡明(そうめい)叡知(えいち)の徳を以て天命を受け、天下に王たり。其の心は、一(いつ)に天下を安んずるを以て務(つとめ)と為(な)す。是(ここ)を以て其の心力を尽くし、其の知巧を極め、是(この)道を作為(さくい)して、天下後世の人をして、是(これ)に由(よ)りて之を行はしむ。豈天地自然に之(これ)あらんや。・・・・
夫(それ)、先王孔子の道は、天下を安んずるの道也。天下を安んずるは、一人の能(よ)く為(な)す所に非ず。必ず衆力を得て以て之を成す。辟(たと)えば諸(?)春夏秋冬備りて、而後(しかるのち)歳功(さいこう)成すべく、椎(つち)・鑿(のみ)・刀(はもの)・鋸(のこぎり)備りて、而後(しかるのち)匠事(しようじ)なすべく、・・・・爾(しか)らずんば、先王、天下を治むるに、その材を用ふる所有ることなきなり。・・・・
後世の人は古文辞を識(し)らず。故に今の言(げん)を以て古語を視る。聖人の道明らかならざるは、職(しよく)として是に由る。
現代語訳
先王の道は、先王が創造したものである。天地の間にある自然の道ではない。思うに、先王は聡明で英知の徳を具(そな)えていたために天命を受け、天下に王となったのである。その意図するところは、ひとえに天下を安泰にすることを以て、責務とすることであった。それにより心を尽くし、力を尽くし、知恵を絞り、この道を作り上げ、天下の後世の人々が、それにより行動できるようにさせたのである。どうして道が(初めから)天地自然のままにあるということがあろうか。・・・・
そもそも先王と孔子の道は、天下を安泰にする道である。天下を安泰にするのは、一人でできることではない。必ず大勢の協力により成ることである。たとえば春夏秋冬の四季がそろって、初めて一年の成果が成し遂げられるように、金槌(かなづち)・鑿(のみ)・小刀・鋸(のこぎり)がそろって大工仕事ができるようなものであり、・・・・そうでなければ、先王が天下を治めるのに際して、その人材(才能)を活かすことができないのである。・・・・
後世の人は「古文辞」(古代の言葉)ということを知らないので、現在の言葉で古代の言葉を見ている。聖人の道が明らかにならないのは、主にこのためである。
解説
『弁道(べんどう)』は、古文辞学派の祖である荻生徂徠(おぎゆうそらい)(1666~1728)が著した思想書で、「弁」とは「物事を十分に理解する」という意味ですから、「道とは何か」ということが主題です。それで荻生徂徠の思想を理解するには、『弁道』が最適なのです。
朱子学では、個人の修養により五常(仁義礼智信)の徳を実践し、聖人に近付こうとするのが人の道であると説かれました。つまり「道」を道徳的・観念的に理解しているのです。それに対して徂徠は、「先王」(尭(ぎよう)・舜(しゆん)・夏(か)王朝の禹(う)・殷王朝の湯(とう)・周王朝の文王と武王・周王朝の諸制度を調えた周公)が、民を安んじて国を治めるために整えた諸制度や文物こそが、「道」であると考えました。要するに「道」を政治的・社会制度的に、儒学を「経世済民(よをおさめたみをすくう)の学」と理解しているわけです。『弁道』にはそのことが、「道なるものは統名(総合的名称)也。・・・・礼楽刑政(れいがくけいせい)(社会秩序維持に必要な諸制度)を離れて別に所謂(いわゆる)道なる者非ざる也」と記されています。そして孔子は先王の道を「六経(りくけい)」(易経(えききよう)・書経・詩経・礼記(らいき)・楽経(がくきよう)・春秋)などの経書として編纂し、先王の道を後世に残したので、先王と孔子を合わせて、「聖人」としました。因みに早くに失われた楽経を除いたものを「五経」と言います。
ですから「道」を理解するためには、宋の朱子学や明の陽明学の解釈ではなく、それらの経典から直に学ぶ必要があり、そのためにはそれらが成立した頃の古語を究明しなければならないと考えたのです。何しろ朱子学の成立よりも千数百年前の古語で書かれているのですから。そういうわけで、「古文辞」はあくまでも「先王の道」を正確に理解するための手段であって、目的ではありませんでした。徂徠の古代中国語へのこだわりは尋常ではなく、白文のままの語順で読み書き、理解できました。ただし発音については学ぶ機会が少なく、長崎の中国語通詞には及ばないと自覚していたようです。
徂徠は後に『政談』を著し、将軍徳川吉宗に政策を提言しますが、あまり実現はしませんでした。しかし社会の安泰のための道を説く徂徠の思想は、幕藩体制の行き詰まりに伴って、経世済民の学がさらに提唱される動機となり、後世に大きな影響を与えます。ですから徂徠の弟子から『経済録』を著す太宰春台が表れるのも、道理なのです。また弟子の個性や得意を尊重し、様々な分野で活躍する弟子を養成したのは、道は「一人の能(よ)く為す所に非ず」と考えていたからでしょう。また古語を研究して古意を明らかにする研究仕法は、対象は異なりますが、国学者に大きな影響を与えることになります。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『弁道』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
先王の道は、先王の造る所也。天地自然の道に非ざる也。蓋(けだし)、先王、聡明(そうめい)叡知(えいち)の徳を以て天命を受け、天下に王たり。其の心は、一(いつ)に天下を安んずるを以て務(つとめ)と為(な)す。是(ここ)を以て其の心力を尽くし、其の知巧を極め、是(この)道を作為(さくい)して、天下後世の人をして、是(これ)に由(よ)りて之を行はしむ。豈天地自然に之(これ)あらんや。・・・・
夫(それ)、先王孔子の道は、天下を安んずるの道也。天下を安んずるは、一人の能(よ)く為(な)す所に非ず。必ず衆力を得て以て之を成す。辟(たと)えば諸(?)春夏秋冬備りて、而後(しかるのち)歳功(さいこう)成すべく、椎(つち)・鑿(のみ)・刀(はもの)・鋸(のこぎり)備りて、而後(しかるのち)匠事(しようじ)なすべく、・・・・爾(しか)らずんば、先王、天下を治むるに、その材を用ふる所有ることなきなり。・・・・
後世の人は古文辞を識(し)らず。故に今の言(げん)を以て古語を視る。聖人の道明らかならざるは、職(しよく)として是に由る。
現代語訳
先王の道は、先王が創造したものである。天地の間にある自然の道ではない。思うに、先王は聡明で英知の徳を具(そな)えていたために天命を受け、天下に王となったのである。その意図するところは、ひとえに天下を安泰にすることを以て、責務とすることであった。それにより心を尽くし、力を尽くし、知恵を絞り、この道を作り上げ、天下の後世の人々が、それにより行動できるようにさせたのである。どうして道が(初めから)天地自然のままにあるということがあろうか。・・・・
そもそも先王と孔子の道は、天下を安泰にする道である。天下を安泰にするのは、一人でできることではない。必ず大勢の協力により成ることである。たとえば春夏秋冬の四季がそろって、初めて一年の成果が成し遂げられるように、金槌(かなづち)・鑿(のみ)・小刀・鋸(のこぎり)がそろって大工仕事ができるようなものであり、・・・・そうでなければ、先王が天下を治めるのに際して、その人材(才能)を活かすことができないのである。・・・・
後世の人は「古文辞」(古代の言葉)ということを知らないので、現在の言葉で古代の言葉を見ている。聖人の道が明らかにならないのは、主にこのためである。
解説
『弁道(べんどう)』は、古文辞学派の祖である荻生徂徠(おぎゆうそらい)(1666~1728)が著した思想書で、「弁」とは「物事を十分に理解する」という意味ですから、「道とは何か」ということが主題です。それで荻生徂徠の思想を理解するには、『弁道』が最適なのです。
朱子学では、個人の修養により五常(仁義礼智信)の徳を実践し、聖人に近付こうとするのが人の道であると説かれました。つまり「道」を道徳的・観念的に理解しているのです。それに対して徂徠は、「先王」(尭(ぎよう)・舜(しゆん)・夏(か)王朝の禹(う)・殷王朝の湯(とう)・周王朝の文王と武王・周王朝の諸制度を調えた周公)が、民を安んじて国を治めるために整えた諸制度や文物こそが、「道」であると考えました。要するに「道」を政治的・社会制度的に、儒学を「経世済民(よをおさめたみをすくう)の学」と理解しているわけです。『弁道』にはそのことが、「道なるものは統名(総合的名称)也。・・・・礼楽刑政(れいがくけいせい)(社会秩序維持に必要な諸制度)を離れて別に所謂(いわゆる)道なる者非ざる也」と記されています。そして孔子は先王の道を「六経(りくけい)」(易経(えききよう)・書経・詩経・礼記(らいき)・楽経(がくきよう)・春秋)などの経書として編纂し、先王の道を後世に残したので、先王と孔子を合わせて、「聖人」としました。因みに早くに失われた楽経を除いたものを「五経」と言います。
ですから「道」を理解するためには、宋の朱子学や明の陽明学の解釈ではなく、それらの経典から直に学ぶ必要があり、そのためにはそれらが成立した頃の古語を究明しなければならないと考えたのです。何しろ朱子学の成立よりも千数百年前の古語で書かれているのですから。そういうわけで、「古文辞」はあくまでも「先王の道」を正確に理解するための手段であって、目的ではありませんでした。徂徠の古代中国語へのこだわりは尋常ではなく、白文のままの語順で読み書き、理解できました。ただし発音については学ぶ機会が少なく、長崎の中国語通詞には及ばないと自覚していたようです。
徂徠は後に『政談』を著し、将軍徳川吉宗に政策を提言しますが、あまり実現はしませんでした。しかし社会の安泰のための道を説く徂徠の思想は、幕藩体制の行き詰まりに伴って、経世済民の学がさらに提唱される動機となり、後世に大きな影響を与えます。ですから徂徠の弟子から『経済録』を著す太宰春台が表れるのも、道理なのです。また弟子の個性や得意を尊重し、様々な分野で活躍する弟子を養成したのは、道は「一人の能(よ)く為す所に非ず」と考えていたからでしょう。また古語を研究して古意を明らかにする研究仕法は、対象は異なりますが、国学者に大きな影響を与えることになります。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『弁道』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。