最近、NHKの番組「チコちゃんに叱られる」の過去の放映内容を見ているのですが、今回気になったのは、「雑煮の雑ってなに?」というテーマです。
その中で雑煮については、「神様に豊作や一年の無事を祈るのが起原」と解説されていました。雑煮が出現するのは室町時代ですが、その頃そのような理解が共有されていたことを示す文献史料は何一つありません。あると主張するなら見せてもらいたいものです。江戸時代の農村にそのような理解があったことは、民俗学的資料によって確認できるのでしょうが、それが室町時代に遡る根拠がありません。少なくとも起原説としては誤りなのです。
そしてさらに次の様に説明されていました。室町時代の雑煮は「保臓」と称し、「内臓をいたわり健康を保つ」ことを意味していた。それが「いろいろな食材を煮炊きする」ことから同音の「烹雑」と表記されるようになり、さらに「同じ意味をもつ雑煮」と表記されるようになった。だから雑煮の「ぞう」は本来は「臓」のことである、というのです。
確かに江戸時代に「保臓」という理解があったことは事実であり、また「烹雑」とも呼ばれていたことも文献史料で確認できます。しかし雑煮は室町時代に最初から「雑煮」の呼称で登場するのです。しかも最初は正月の料理とは限っていません。保臓から烹雑を経て雑煮と呼称が変わったという説には矛盾があり、とうてい歴史事実とは認められないのです。
『続群書類従』に収められた明応元年(1492)の「山内料理書」という書物には、「夏肴くみ之事」と題して、膳の中央に「雑煮」が置かれた図が載せられています。これが今のところ雑煮の最古の文献で、ここでは夏の料理となっていて、正月の特別な料理とは理解されていません。明らかに年神に供えた餅を野菜と共に煮たことに始まるという解説とは矛盾しています。室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』(1544年)には、12月27日に「煤掃(すすはき)」(煤払)を行う際に、「御すすはききの御祝」として雑煮が振る舞われたことが記されています。また山科言継(やましなことつぐ)という貴族の日記である『言継卿記』には,「天文三年(1534年)正月一日・・・・雑煮祝例年の如くこれ有り」と記されていて、ようやく正月元日を雑煮で祝う風習が始まっていることを確認できます。江戸時代初期の1604年に出版された『日葡辞書』には「Zoni」の項があり、「正月に出される餅と野菜で作った一種の煮物」と記されていますから、元日に食べることが始まったのは室町時代の後期で、桃山時代には一般にも広がり始め、江戸時代には広く庶民も正月に食べるようになったと考えられます。
江戸時代の多くの文献には、餅と共に各種の具材を入れるので「雑煮」と呼ばれると記されています。例えば、季語の解説書である『華実年浪草』(1783年)には、「多種を交へ煮る故に雑煮と称するか」と記されています。実際江戸時代の雑煮の具材は大変にぎやかな物でした。『料理物語』(1643年)という書物には、餅の他に豆腐・芋(里芋)・大根・煎海鼠(いりこ)(ナマコを茹でて乾燥したもの)・串鰒・平鰹・茎立(きくたち)(青菜の一種)などを具として入れていたことが記されていています。前掲の『華実年浪草』にも、鰤・鯨・鰯・数子・煎海鼠(いりこ)・串鰒・牛蒡・大根を入れると記されています。『諸国図会年中行事大成』には、「大低京師辺の俗間には、餅、蘿蔔(大根)、芋魁(いもかしら)・芋子(こいも)・結昆布・開牛房(ひらきごぼう)・打鮑(熨斗鰒)・煎海鼠(いりこ)・串鮑(くしあわび)等を加へて羹となし、多種をまじへ煮るが故に雑煮といふ。餅は歯固の意なるか」と記されています。
それなら実際はどうだったのでしょうか。各種の具材を煮る(烹る)という意味で烹雑や雑煮と呼ばれていたものが、「烹雑」が「ほうぞう」と読むため、それに後に「保臓」の字を宛てて、牽強付会の解釈が行われるようになったと考えるのが最も自然であると思います。もちろん私の説も史料的補強は不十分ですが、最初から「雑煮」という呼称があるのですから、チコちゃん説が成り立たないことは動かし様がないのです。
その中で雑煮については、「神様に豊作や一年の無事を祈るのが起原」と解説されていました。雑煮が出現するのは室町時代ですが、その頃そのような理解が共有されていたことを示す文献史料は何一つありません。あると主張するなら見せてもらいたいものです。江戸時代の農村にそのような理解があったことは、民俗学的資料によって確認できるのでしょうが、それが室町時代に遡る根拠がありません。少なくとも起原説としては誤りなのです。
そしてさらに次の様に説明されていました。室町時代の雑煮は「保臓」と称し、「内臓をいたわり健康を保つ」ことを意味していた。それが「いろいろな食材を煮炊きする」ことから同音の「烹雑」と表記されるようになり、さらに「同じ意味をもつ雑煮」と表記されるようになった。だから雑煮の「ぞう」は本来は「臓」のことである、というのです。
確かに江戸時代に「保臓」という理解があったことは事実であり、また「烹雑」とも呼ばれていたことも文献史料で確認できます。しかし雑煮は室町時代に最初から「雑煮」の呼称で登場するのです。しかも最初は正月の料理とは限っていません。保臓から烹雑を経て雑煮と呼称が変わったという説には矛盾があり、とうてい歴史事実とは認められないのです。
『続群書類従』に収められた明応元年(1492)の「山内料理書」という書物には、「夏肴くみ之事」と題して、膳の中央に「雑煮」が置かれた図が載せられています。これが今のところ雑煮の最古の文献で、ここでは夏の料理となっていて、正月の特別な料理とは理解されていません。明らかに年神に供えた餅を野菜と共に煮たことに始まるという解説とは矛盾しています。室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』(1544年)には、12月27日に「煤掃(すすはき)」(煤払)を行う際に、「御すすはききの御祝」として雑煮が振る舞われたことが記されています。また山科言継(やましなことつぐ)という貴族の日記である『言継卿記』には,「天文三年(1534年)正月一日・・・・雑煮祝例年の如くこれ有り」と記されていて、ようやく正月元日を雑煮で祝う風習が始まっていることを確認できます。江戸時代初期の1604年に出版された『日葡辞書』には「Zoni」の項があり、「正月に出される餅と野菜で作った一種の煮物」と記されていますから、元日に食べることが始まったのは室町時代の後期で、桃山時代には一般にも広がり始め、江戸時代には広く庶民も正月に食べるようになったと考えられます。
江戸時代の多くの文献には、餅と共に各種の具材を入れるので「雑煮」と呼ばれると記されています。例えば、季語の解説書である『華実年浪草』(1783年)には、「多種を交へ煮る故に雑煮と称するか」と記されています。実際江戸時代の雑煮の具材は大変にぎやかな物でした。『料理物語』(1643年)という書物には、餅の他に豆腐・芋(里芋)・大根・煎海鼠(いりこ)(ナマコを茹でて乾燥したもの)・串鰒・平鰹・茎立(きくたち)(青菜の一種)などを具として入れていたことが記されていています。前掲の『華実年浪草』にも、鰤・鯨・鰯・数子・煎海鼠(いりこ)・串鰒・牛蒡・大根を入れると記されています。『諸国図会年中行事大成』には、「大低京師辺の俗間には、餅、蘿蔔(大根)、芋魁(いもかしら)・芋子(こいも)・結昆布・開牛房(ひらきごぼう)・打鮑(熨斗鰒)・煎海鼠(いりこ)・串鮑(くしあわび)等を加へて羹となし、多種をまじへ煮るが故に雑煮といふ。餅は歯固の意なるか」と記されています。
それなら実際はどうだったのでしょうか。各種の具材を煮る(烹る)という意味で烹雑や雑煮と呼ばれていたものが、「烹雑」が「ほうぞう」と読むため、それに後に「保臓」の字を宛てて、牽強付会の解釈が行われるようになったと考えるのが最も自然であると思います。もちろん私の説も史料的補強は不十分ですが、最初から「雑煮」という呼称があるのですから、チコちゃん説が成り立たないことは動かし様がないのです。