「天タマ」第14号(1999年01月08日発行)
浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信
この授業では一昨年から、講師が企画するアンケート「より良い授業のために」のほかに、学生が企画・実行するアンケート(授業評価)をしています。これを「学生版アンケート」と言います。今年は、授業が2ヵ月半で終わるため、2クラスとも、アンケートは1回にしたようです。その結果を発表します。
1組のアンケート結果
1、授業について
01, 講義は生徒と共に進めていたか 3,3
02, 授業内容に興味が持てたか 3,5
03, 授業の進行の速さは適当だったか 3,3
04, 授業により考えの視野が広がったか 4,1
05, 授業は分かりやすいか 3,4
06, 先生は授業に対して熱心か 4,7
07, 授業は工夫されているか 3,9
08, 望ましい態度で授業を受けられたか 3,9
09, 意欲的に取り組めたか 3,6
10, 授業内容は自分に役立てることができたか 3,6
11, 授業は面白かったか 3,7
2、カンファレンスについて
01, カンファレンスは自分の意見を述べることができたか 4,3
02, カンファレンスは積極的に参加できたか 4,2
03, カンファレンスは有意義だったか 4,0
04, グループで十分話し合うことができたか 3,9
05, カンファレンスではんろんな人の意見が聞けたか 4,3
3、休憩について
01, 休憩は充実していたか 4,6
02, 休憩時間は楽しめたか 4,6
4、レポートについて
01, レポートのテーマは興味深いものであったか 3,4
02, テーマに沿ったレポートを作成できたか 3,0
03, レポートに意欲的に取り組むことができたか 3,4
04, は自分の意見を十分に書くことができたか 3,3
05, は自分にとってプラスになるものであったか 3,6
5、「天タマ」について
01, 「天タマ」は楽しむことができたか 4,2
02, 「天タマ」に興味があるか 4,1
03, 「天タマ」を読んで自分の考えを深められたか 4,1
2組のアンケート結果
授業は楽しかったか 3,6
授業中の時間配分は適当であったか 3,9
先生の言いたいことが理解できたか 3,3
先生の話し方は適当だったか 2,8
カンファレンスでは自分の意見が出し合えたか 3,8
レポートは8割がた自分の意見が書けたか 3,5
レポートの返事が自分の学習により生かせたか 3,28
「天タマ」が自分のプラスになったか 4,0
先生の意見に共感できたか 3,46
先生の意見を聞くことで自分の考えを深められたか 4,6
哲学の時間を通して自分で考えるという事ができたか 3,9
哲学の時間に何か一つでも得るものがあったか 3,9
授業中に考えたことを生活で生かせたか 2,87
哲学とは〔何か〕理解できたか 2,68
自分の視野は広がったか 3,7
授業は充実していたか 3,8
休憩の時間は楽しかったか 4,4
学生版アンケートを見て
(1) 両クラス共、「授業が楽しかった」の項より、「休憩が楽しかった」の項の方が高い数字になっています。これは本当に笑える事実ですが、「楽しい」という言葉には授業の知的楽しさより、休憩の感情的な楽しさの方がぴったりするということではないでしょうか。いずれにせよ、休憩のある授業というのは珍しいですが、それが好評なのはよいことと考えるべきでしょう。
(2) 低い数字の出たのは講師の話し方(早口すぎる)ですが、これは授業中にも説明した通りで、1時間半の中に、レポート執筆(30分)、休憩(10~15分)、カンファレンス(15分)を前提すると、講師の話す時間は30分しか残らなくなるという、どうしようもない事実があるのです。
では1コマ1時間半というのは決まっているのでしょうか。いいえ。大学設置基準では、大学の1コマは「休み時間を入れて2時間」と定められています。それをほとんどの大学では1時間半の授業と10分の休み時間にしているのです(東大の本郷とかの極めて少数の所だけが授業1時間50分、休み10分、合計2時間にしています)。
そして、この市看でも2年前からそれに合わせて、授業時間を1時間40分から1時間半に減らしたのです。つまり改悪したのです。私の理想は授業時間1時間45分、休み時間15分です。しかし、それを言っても仕方ないので、やはり今後は30分で話せるように内容を絞るべきだと思います。
(3) 進行速度が適当、時間配分も適当という評価は一安心です。私の欠点として、沢山の事を押し込みすぎること、時に先を急いでしまうことがあると思っています。そこで、今年はこの欠点を克服しようと思い、出てきた問題は全部丁寧に扱うという方針でやってきました。その結果、ディベートを入れる機会をついに見いだせないということにもなったのですが、ともかく「消化不良」ということにはならなかったと思います。
(4) 授業の成果を生活で生かせたかという項があり、低い数字が出ています。しかし、これは設問が無理だったと思います。つまり、哲学で学んだ事を生活に生かすのは社会人になり、家庭をもってからだと思うからです。その意味で、出来れば、5年後、10年後に、アンケートをとるとか、レポートを書いてもらえると面白いと思います。その気のある人は、自分で5年後にレポートを書いて下さい。今回も、既に看護婦などをしている先輩にこの「天タマ」を読んだ感想を書いてもらう予定ですが、それはそのような問題意識をもって読むこともできると思います。
(5) 今年は両クラス共、自由記述の項を設けなかったようですが、不適切な回答が出た場合の処理の面倒を予め避けたのだと思います。確かにそこまで責任を負うのは大変な事です。しかし、回答にルール違反がないかを全員で確かめる大変さを背負いつつ、自由記述に挑戦する気概が欲しかったと思います。逃げていては成長しないと思うからです。
無記名のアンケート
昨年作った「無記名のアンケート」を、今年もしてみました。短時間でやったせいか、何か雑に○をつけているという印象を持ちました。そこで、次の時間に4項目を選んで、考え直してもらいました。評価する場合は、評価対象について事実認定し、それを何らかの基準にあてはめて評価するわけです。自分は対象(この場合はこの哲学の授業)をどう判断し、どういう基準で評価するのか、その根拠を書いて、やり直してもらいました。評価できない場合は○を付けなくてもよいと念を押しました。
統計は、重ねた用紙の中程から12枚抜き出して集計し、最高点と最低点を除いて、10枚の平均を取りました。
結果 最初 反省後
1組 2組 1組 2組
・自分の学科(専門)が好きで、
よく研究している 4,5 4,5 4,5 4,5
・授業自身が楽しい 3,6 3,8 3,8 4,4
・講師は一人一人の生徒を理解し
ようと努力している - - 3,9 4,5
・この授業に参加してよかった 4,2 4,0 4,4 4,3
(第1項目については白紙が1組で4枚、2組で6枚もありました。これは判断出来ないということでしょう。第4項目も白紙が少しありました。これは時間が足りなかったのでしょう)
○を付けるだけのアンケートについては、「天タマ」第9号にAさんの詳しい反省を載せました。又、他の授業でのアンケートについては第13号に感想が載っています。私もこ数年、いろいろなアンケートを試みてみて、考える所があります。結局は、やはり生徒と教師の間に日頃からどの程度の信頼関係があるかが根本で、その上にたって十分に準備してアンケートを実施してこそ所期の目的が達せられると思います。
この「最初」と「反省後」を比較すると、後者の方が高い数字になっています。では、いつでもこうなるのでしょうか。そうではないと思います。いわゆる悪い授業の場合だったら、逆に、「反省後」の方が低い数字になるのではないかと、推察しました。つまり、大雑把に○をつける時は、良い授業の場合でも悪い授業の場合でも、当たり障りのない点数になりがちだということではないでしょうか。
エ コ ー
──私は看護婦として、 気になるテーマに対し自分の考えを述べてみたい。
第2号のテーマより。『患者が「あなたじゃ心配だから、他の看護婦に代わって」と、新人看講婦を断わった』について。
私は看護婦2年目である。未だに行っていないこともあるし、初めて行うようなことも、多々ある。しかし、常に思うことがある。患者は治療をしに来ているのである。看護して貰う人により、治療、看護を十分に受けることかできない、ということは決してあってはならない。つまり、1年目、2年目が行うため十分な看護が出来ない、と甘えは言えないと考える。1年目、2年目でも、患者にとっては同じ看護婦なのである。プロとして、 ただ、 今患者の必要としている最良の看護を提供したい。そのため、 私は日々学習し、自分は責任の持てる仕事をしているつもりである。自信のない仕事はしない。自分が学習するか、もしくは、 人に尋ね、 行えると思う仕事しかしない。この、実際の場面は分からないが、自分の出来るという自信が新人看護婦には甘く、患者に伝わってしまったのかもしれない。
私は、 学生の時も同様であった。医療行為以外、患者にはこんな行為をしたいとプランをたて、報告し、自信のあることは自分で行っていた。少しでも不安な事や、自信のない行為に対しては、どんなに看護婦が忙しそうにしていても、一緒に行ってもらえるよう依頼した。それは、自分のためではなく、患者のためなのである。そこで患者に嫌味を言われたとしても、それは患者にとって必要な行為であり、動機をもっていれば怖くはなかった。間違っていないという自信もあれば、自分はこう思っているからこの看護をしたいと自分の意思をはっきり伝えた。きっとかわいくない学生だったであろう。しかし、患者のためであり、今考えると自分自身の看護を高めることにもつながっていたと思う。自分が学習し、しっかりとしたプランをもっていれば恥じることはないのである。みなさんも、そうである。学生なんだからと言う甘い気持ちはもたず、 私も医療者の一員であるという、責任と誇りを持てるような心構えで、勉強していって欲しい。看護婦は全て正しいのでは決してない。自分の看護に自信を持って、 頑張っていって欲しい。
また、 私は患者側から考えてみた。患者はお金を払って医療を受けに来ているため、 患者側には選ぶ権利はある。しかし、今の医療では、まだ患者側が弱者という傾向がある。患者が不満を持っていても口にだせないということがその一つと言えるであろう。しかし、この事例の患者は自分の心配という気持ちを訴えることができたのだから、良かったのではないか。そこで、 言われたことに腹を立てたり、ショックを受けるのではなく、その後の自分の対応が一番大功だと思う。もしそこで自信があれば、「心配ないですよ」と伝え、まだ不安のようであれば、 他の看護婦と代わって貰えばよい。自信がなければ、もちろん代わって貰う。そして、 なぜ患者にそう思わせてしまったのたのか考え、 二度とそんなことが起こらないよう対処することのほうが重要である、と私は考える。
私は、現在看護婦である。しかし、学生という道も歩いてきている。誰でもそうである。いずれは同じ職場で働いていく同僚なのである。看護婦、学生と隔たりをつけるのではなく、一緒にその患者のことを思う医療の一員として看護していけたらいいと思う。(先輩の感想)
──「天タマ」通信、興味深く読みました。哲学の授業は新カリキュラムなのでしょうか。私の学年は哲学の授業はありませんでした。とても学生に人気のある授業みたいですね。私も受けてみたいなあって思いました。通信を読んで、以前無記名のアンケートがあった時のことを思い出しました。教員に対しての意見を書いたら、私の筆跡に特徴があったらしく、あとで教員に呼び出されて、いろいろ言われたのですが、まあその時は教師・学生の関係は上下関係なんだなとつくづく思い知らされましたけど。(インターネットのHPへの書き込み)
★ 生徒がアンケートで学校や教師を批判したことについて、本人を呼び出して文句を言ったり、朝礼で皆の前で、注意をしたりという例が結構、あるようです。逆に、アンケートに感情的な事を書く生徒もいます。アンケートは取りさえすれば好いというものではないと思います。
(1) アンケートの目的は何か。(2) その目的を達するには教師と生徒はそれぞれどういう事に気をつけなければならないか。(3) アンケートを教師ないし生徒がその目的に反して利用する行為を防ぐにはどうしたらよいか。(4) アンケートを学校(組織)内部のコミュニケーションのためのそれ以外の方法とどう結び付けるか、といったことを考え合う授業が必要だと思います。
──「天タマ」の感想
私目身も医療関係の学校に3年間通った経験があり、「天タマ」を読んでいるととてもなつかしい感じがしました。人間生活のあらゆる場面で、感情的にならずに論理的に物事を考えるということは、非常に重要なことだと思います。
(1) まず自分の問題としてどうするべきかを考える。
(2) 問題の核心は何かを考える。
(3) 自分の問題をはなれ、広い視野にたって考えてみる。
ということを日常生活でこころがけてみるだけでも、自分自身の生活の質をかなり向上させることができると感じました。このことを怠ったために、誤った判断をしてしまったと反省することも多い毎日です。
この哲学の授業のように、個人で考えたことをさらに集団で話し合えるならば自分の考えを一層深めることができるでしょう。が、残念ながら、このような話し合いのできる人間関係を築いている社会人は、たいへん少ないのではないかと思います。(インターネットへの書き込み)
──牧野宛の手紙から
教科通信『天タマ』2~4号拝受し拝読しました。どうも有り難うございました。小中学校で熱心な先生が出しておられる学級通信、学級新聞は知っていましたが、高等教育の場で「教科通信」として出ているのは知りませんでした。「大好評」とのことですが如何にもと思いました。
(1) 具体的な、個人の問題に適切なアドバイスをしながら、同時に、一般的な場や普遍的な理論に結び付ける、(2) 講義についての学生の意見や感想を知ってつぎの講義のときに再びとりあげたり補足をしたりする、なによりも、(3) 牧野先生のことを(考え方や思想それに性格までも)学生たちはよく知ることができる、もちろん、(4) クラスメイトの考えや経験がわかり、参考になる、といったことが「好評」の要因ということでしょうか。
それにしても、患者は看護婦さんにいろいろ言うのですね。私は幸か不幸か入院したことがありません。病気になればお医者さんまかせ、看護婦さんまかせで、俎板の鯉のようにしているものと思っていましたが、そうはいかないものと見えます。病院(医者)、患者、看護婦、実習生の間で、不満や問題やトラブルが発生する。第2号の2頁の二つの「感想」のとおりと思います。人と民主主義とリーダーの問題ですね。「先生にいいつけてやる」という科白が無力無効の時代では、学校カウンセラーの存在は必要ですね。ただ学校カウンセラーが、保健室や保健婦さんのようなあり方になるかどうか( ── そこでたむろし、ときに叱りとばされたりする)。
実は私は、教育学を講じて30年になるものです。「話し言葉と書き言葉と、あらゆる手段を使って対話を促し深めていく、それが哲学であり、教師であると思います」との言葉のとおりに実践しておられることに深甚の敬意を表します。教育、教師についての私の考えと重なります。私もある科目の講義の時間を30分ばかりのこして、講義を聞いている間に考えたことなどを、学生に書かせています。その何枚かをコピーしてくばりコメントしたり、ただ読み上げてコメントしたり、はしています。しかし貴氏のようにはしていません。いろいろな考えがあり、いろいろな書き方があるということを知らせているだけです。
以上『天タマ』を拝読しての寸感です。ところで『天タマ』って、どういう意味ですか。いろいろ憶測したのですが思い当たりません。
★ 看護婦=白衣の天使。看護学生=そのたまご。しかし既に「天使のたまご」という題のマンガがありますので、「天タマ」としました。