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「天タマ」第21号

2019年01月01日 | カ行
「天タマ」第21号(1999年11月 4日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回は、人間関係をそれだけとして考えるのではなく、それを取り巻く状況の中において考えるということを主題にしましたが、そのテーマより「レポート発表における匿名希望の自由」の問題に皆さんの関心が大きかったようです。少し感情的になっているような所もあったと思いますが、これは自制して欲しいと思います。

 これを巡る賛否両論を網羅します。

  ★ 匿名のメリット、記名のデメリット

──先生の意見に対して否定的な意見が名前付きで載ると、「あの子、先生に反論してるよ」、「当たり障りのない事を書いておけばいいのに」とか思われそうで、怖い。

──他人に自分の意見を見せると、他人がどう評価するか気になるので、苦手です。こういう人達が多いので匿名希望が多くなっているのではないか。

──知られたくない事や個人のプライバシーに関する事は匿名にしてよい。

──みんなは私のことをあまり知らないし、私もみんなのことをあまり知らないので、恥ずかしい。

──自分のクラスだけならまだしも隣のクラスまで配られるので恥ずかしいと思うのかもしれない。

──自分の考えを伝える相手は自分で決めたい。だから少しでも自分の考えを守るために匿名希望にするのである。

──先生が名前を載せても構わないと思う内容でも、本人にとっては名前を出したくないものかもしれない。

──人のは見たいけれど自分のは見せたくないというのは誰にでも少しはあると思う。

──考え(どんな意見か)が知りたいのであって、誰の意見かは問題でない。

──匿名だから言えるということは意外に多い。

──先生には言えるけれど他の生徒には知ってほしくないことがきっとあるのだと思う。

──私も匿名希望にしたことはあるけれど、それは「何となくいやだから」という感じです。自信がないのです。

──匿名で自分の意見が載っていたら、自分の考えに対する友達の考えも聞ける。名前を出したら、友達の本音は聞けないかもしれない。

  ★ 匿名のデメリット、記名のメリット

──哲学とは人と人との対話の中から生まれ育つのであり、匿名希望で「以降話し合いお断り」とした人は、本人はそのつもりがなくとも、物見の塔信者が剣道の授業を拒否したように、哲学の授業を拒否した形になっていると思う。

──哲学の授業では意見を発展させて考えを深めることが大切だと思います。匿名希望だと、その人の意見をみんなに伝えることは出来ても、他の人からその人への意見が伝わらず、考えが深まらないので、私もなるべく匿名希望を使わない方がいいと思います。

──匿名希望にしたい気持ちは分かるけれど、自分の意見を言うのは気持ちがいいし、それに同調してくれる人がいたならばなおさら気持ちがいい。

──名前があると、人との交流の上でいいきっかけになることもあると思う。意外な一面や共感出来る考えを読むと、「この人はこんなこと考えてたんだ」とその人を知れていい機会になる。

──私は「天タマ」に名前が載ると、恥ずかしいけれどちょっと嬉しい。読む方として見れば、いい文があると、これ誰のだろう、と思ってしまうのが当然であると思う。

──日常の付き合いではあまり真面目な話をし合わないためか、「天タマ」の人の意見は新鮮で、みんなすごいことを考えているなと、感心したりできる。むやみに匿名希望を使うのではなく、「これは身内のことだから」とか根拠があって仕方のない場合のみ使っていくのが、匿名希望の目的ではないだろうか。

──こういう形式の授業は今までなかったので、慣れなくて、自分の意見を載せられることに抵抗を感じるかもしれないが、だんだん慣れてくれば、特に気にならなくなってくるのではないかと思います。あの人はこういう考えを持っているのか、と思えていいです。

──家族やプライバシーに関わることは匿名希望でもよいが、テーマについての自分の意見はしっかりと名前を出す方がよいのではないかと思う。その意見が合っているかは、その後みんなで考えればいいことである。

──カンファレンスで話し合うことですでに自分の意見を相手と交わしているのではないか。そう考えると、文章にしたものはなぜ匿名希望なのか。グループの人の意見だけでなく、もっとクラスの人の意見を聞いてみたいから、なるべく匿名希望は避けてほしい。

   次のような具体的な対策案がありました

──カンファレンスの班を毎回、変える。匿名にしても、今まで話さなかった人と話ができる。

 ★ これは皆さんで考えて、時々席替えしてくれるように希望します。

    講師の感想

 初め少なかった匿名希望がだんだんと増えてきましたので、どうしてかなと考えました。女子高校生のスカートやルーズのように、ほかの子がするから~ということで、安易に匿名希望をしているのかな、とも思いました。そこで、皆さんに問題を提起しました。

 「講師の意見を聞いていると、匿名希望に対して自分の意見を押しつけていると思ってしまう」とか、「匿名希望で書くのはイケナイ事なのでしょうか?」といった反発気味の意見もありましたが、皆さんよく考えてくれたと思います。

 名前を出すのは恥ずかしいという心理についてはこんな事を思い出しました。

 中学時代、『山びこ学校』とかいう農村の作文教育が評判になったころ、私の国語の先生(この人は担任でもあった)が、みなの作文を読ませようとしました。最初、ある女子生徒が指名されましたが、その人は泣きだしてしまい、ついに先生は諦めました。次に私が指名されて読みました。

 その後、どうなったかは覚えていません。中学生の作文は身の回りのことを書くので、私は魚屋の住み込み店員さんと裏の池で魚釣りをしたことを書いたのですが、友達からその後少し聞かれました。

 しかし、やはり一番関係していることは、そのクラスがどの程度本当のクラスになっているか、ということではないかと思いました。これは直観みたいなもので、証拠はありません。S大学のドイツ語の授業の教科通信では名前を全然載せていません。2クラスあり、相互に無関係だということ、大学のクラスはクラス自体が本当のクラスになっていないということ、がその理由です。

 それ以上の感想としては、皆さんは本当の話し合いに慣れていないな、と思いました。これは皆さんの責任というより、学校教育の問題かもしれません。ともかく、多くの人は、人と話す場合、馴れ合いと感情的対立の両極端しかないようです。話し合うというのは馴れ合いでもなければ、感情的対立でもないと思います。自分の意見も冷静に言い、相手の意見もきちんと聞く。その中で本当の事はどうなのだろうかと一緒に考えていく、これが話し合いだと思います。どんな結論になっても、あるいは結論が出なくても、話し合ってよかったなと思えるような対話をしたいものです。

   今回の結論

 授業要綱はそのままです。つまり、「匿名希望も可」です。「匿名希望の意義について考えて、安易に使わないように」と言う必要はないと思います。もう既にしっかり考えたのですから。

   「哲学の授業が苦痛だ」という「疑問」について

──私達が将来看護婦になった時、深く考えることは重要なことになると思う。安易な考えでは場合によっては患者の生命の危機へと結びついてしまうこともあるだろうし、患者にとってより良いケアが出来ない気がする。だから、自分の考えにとらわれず、客観的にものをみつめ、様々な方向からの意見、考えができなくてはならないと思う。創造性も養わなくてはいけないと思う。自分の考えを見せるということは、つまり自分の考えを相手に伝えることはどんな時でも大切なことである。看護婦はチームプレーが鍵となる。

 患者に説明する時も、人に何かを伝える時も、納得のいく説明や自分の気持ちを伝えるためにも、人に自分の考えを見せるということは大切なことではないだろうか。しかし、これらのことはすぐに出来るものではない。だからこそ哲学というこのような時間を利用して、深く考えることや相手に伝えることが出来る能力を養っておかなくてはいけないのではないだろうか。

──この人は今回このような事を書いて後悔していると思う。自分がこの授業に対して思っていることを正直に書いたことで、このようなテーマとなり、周りから批判(批評)を受ける。先生だけに伝えて一つの意見として見てほしかったと思う。

──私は今まで生きてきて、こんなにも物事を深く考えたことはありません。考えていると言ってもいつも表面ばかりで、そこから先に進みません。でも、哲学の授業を学び、身近な「対話」や「先生と生徒」、「親」などのことからも深く考えられるのだと思いました。また、よく考えてみると奥が深いということを感じました。

 この人のように、自分が考えたことを心にしまっておきたいという人もいると思うけど、私は、自分の考えた事を言うことにより、相手の考えも聞くことが出来るし、そうすることでより深く物事を考えることができる、ということにつながると思います。他の人の考えを聞き、新たな自分にはないものを得られるかもしれません。

   講師の考えの一部

 深く考えないで生きたいのも、人に自分の考えを見せたくないのも、それ自体としては「個人の自由」だと思います。問題は、看護婦になること、看護学校に来ていること、哲学の授業に出ることと、その自由との関係です。

 体操の授業の目的は柔道をすることではなく、体を鍛えるとかですから、柔道をしないでも、ほかの手段で替えられます。しかし、哲学は考えることであり、授業に出ることは最低限、先生に見せることを含んでいると思います。従って、深く考えたくないとか、先生にも見せたくないという人は哲学の授業の前提に抵触するわけです。ではこの時どうしたらよいか。これが本当の問題なのです。或る事柄をそれだけとしてだけでなく、状況の中において考えるとはこういうことです。

   状況と人間関係

──今の制度で看護婦が患者の話をじっくり聴くことは、困難かもしれないが無理ではない。ある看護婦に患者の話を聴く時間はあるのかと質問すると、「時間を作って行く。業務的に夜になってしまうけれど」と言っていた。その時はベッドサイドで椅子に腰掛けて話をするそうだ。「忙しいからできない」というのはもっともらしい理由に聞こえるが、実は適当な言い訳なのかもしれない。

   組織はトップで8割決まる

──私は中高と吹奏楽をやっていたが、指導内容と大会での成績とは比例していた。そして、いい先生がいなくなるとすぐに成績は落ちた。あの先生はいい先生だといううわさがあると、よけいに付いていこうという気持ちが大きくなった。こういう評判もプラスになりマイナスになると思う。

──組織はトップで8割決まる、というのが現状かもしれない。しかし、それではトップだけの世の中になってしまって、トップ以外の人の意見はどうなってしまうのだろう。でも、今は、学校でもそうだけど、意見を言う所がないので困ってしまう。もっとトップがこの現状を知ることと、トップ以外の人は、自分たちが意見の言えるような場所をつくったら、もっと割合が変わると思う。

   コスモス寺のVTR

──私は結婚して子供が出来たら、家族で花畑に行って、寝ころがったり、香りを楽しんだりしてのんびりしてみたい。好きな人ときれいなものを感じることは、同じものを共有して、また一歩距離が縮まる気がする。

──コスモスは安らぎを与えてくれる花だと思います。中学生のころ、私は姉にコスモスの種をもらい、温水で育ててみたら予定より3ヵ月も早く花が咲いてびっくりした思い出があります。しかし、咲いた30本のコスモスは次の日、祖母が1本 100円で売ってしまいました。種は 100円なのに3000円のもうけ! うれしいのも束の間、もうけ分はすべて祖母のもとへ。悲しい思い出でした。

   その他

──先生は、学校の教育はサービス業だといいましたが、私は違うと思います。予備校や塾はサービス業だと言われても仕方がありませんが、学校は、勉強を教える場所でもありますが、人間を育てる場でもあります。サービス業というだけで軽い物のような感じがしてしまいます。

──「宿題」について、なぜ先生は「お父さんの方がよい」とおっしゃったのでしょうか。

 ★ お父さんは会社勤め、お母さんは専業主婦かパートというのが多いと推定される。日頃からお父さんとの対話がとても少ない人が多い。当の問題を話し合うのに適当な人ならもちろん誰でもいいし、お母さんとの話も否定していません。

──「授業要綱の修正」で「Eメールで意見を送ってもよい」とありますが、先生は勤務時間外のプライベートな時間でも哲学や生徒との関わりを持つことがいやではないのですか。

 ★ 教師は学校でだけ働くのではないと思います。授業の準備、テストの採点など、私の場合なら教科通信の作成など、家庭ですることがあります。問題はそれをどの程度するかということだけだと思います。メールが少し来る程度なら問題はありません。

──今回の「天タマ」で私の意見が取り上げられていた。この事について私は何か悲しい気分になった。今考えてみれば、私は先生の考えに対して否定的にとらえてしまっていたように思う。しかし、私が先生の考えをそのようにとらえてしまったことは事実である。そのとらえ方が本来先生が言いたかった事とは違ったのでしょうか。

 ★ 「天タマ」第20号の記事で、皆さんが判断して、こういう載せ方では筆者が悲しくなると思う、という記事がありましたら、お知らせ下さい。私は少し困惑しています。少なくとも冷たい扱いはしていないつもりなのですが。

──「天タマ」で先生が書かれているように私たちは「目に見えているものしか見ていない」かもしれない。でも、私は今は学生で患者に接する時はまだ患者のことだけを見ていいのではないかと思う。たしかに周囲の状態が見えていないし、まだ社会というものが見えていないのかもしれない。社会のルールについて甘い考えかもしれない。でも、これはこれから社会の波みたいなものにもまれて自らが感じ取れていければいいのではないかと思った。

 今、学生のうちでしかできない一人の患者さんと向き合い、いろいろなことを学んでいる。これから看護婦になる上でとても貴重な体験をしていると思う。看護婦になったらなかなか出来ないことだと思う(看護婦を見ていると)。それを私は大事にしたいと感じた。

──ある授業でデンマークは老人の自殺率が高いと聞いた事があります(記憶違いかもしれませんが)。またある本で、日本とデンマークは文化が違うのでデンマークのような福祉制度は日本にはそのまま使えない、というのを読んだことがあります。それも踏まえてデンマークの制度について学ぶことは、すごく哲学的なことだと思います。

   読みやすいレポートのために

 まだ読みにくいレポートがあります。字を直すというのはなかなか大変なことだと思います。もちろんきれいな字で書こうと思う気持ちも大切ですが、次のことなら実行しやすいのではないでしょうか。

・濃い字で書く。これはとても読みやすくなります。2B以上にしてほしい。
 ・大きめの字で書く。これも役立ちます。
 ・行間と左右の隅を空ける。

「天タマ」第20号

2018年12月27日 | カ行
「天タマ」第20号(1999年11月1日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 10月18日も「先生と生徒は対等か」というテーマを続けました。その前の授業で事例研究しましたので、今回は「問題を更に広い範囲に広げて考える」ということをしました。物事を考え深めていく方法としてはこういう方法も大切です。

 「お母(父)さんは私(僕)の話を聞いてくれない」という子供の不満について。そこで問題になっている本当の事は何か。自分が親になった時、子供の話を聞くに当たってどういう事を心掛けるか。

──私は両親に話を聞いてもらえなかったという思い出がないけれども、弟がよく「なんで話を聞いてくれないの!」と言っていたので、それについて書きたいと思います。

 弟が、友達のことを父親か母親に話すとします。両親はそれに対して、何か返事を返したり、「うん」と相槌したりしているのですが、弟は話を聞いてくれないと怒ります。

 怒っている時の状況を思い出してみると、大体が両親が何かをしている時です。父親だったら洗車している時とか、母親だったら夕食を作っている時とかです。聞いてはいるけど、他の事をしながらなので、弟にとっては「ちゃんと話を聞いてくれていない」と感じているのかもしれません。

 自分が親になって子供が話してくる時には、夕食を作っていたら、途中で作るのを止めてちゃんと聞こうと思います。ゆっくりと話ができる時間を作ることが大切だと思います。

 ★ これは多くの人が書いている点でした。つまり、親も忙しい、または忙しい時に話すと聞いてくれないという印象を持つ、ということです。しかし、食事の準備を中断することは現実的でしょうか。食事しながらきちんと聞くとか、日曜日の夕食後に話を聞く時間を作っておくとか、家庭内の制度を作っておくというのはどうでしょうか。

──親身になって子供の話を返さず、親が「上の立場」から物語を言ってしまうことに問題があると思います。子供が成長していく中で、親を含めた大人の矛盾のようなものを感じとります。それを隠して子供に対し、大人という力を出しても、子供はそれを感じ取ります。子供は物分かりのいい親を期待しているのではなく、大人の矛盾したところを見せながらも、なぜこう思うのか、なぜ子供にそう言うのかという理由を言ってくれれば、親は自分の話をちゃんと聞いてくれた、と思えるのだと思います。

 ★ 子供ときちんと話のできない親もかなりいるようですが、逆に話し合う姿勢の出来ている親も少なくないようです。子供は親を選べません。しかも、個人にとっての家庭ないし親の影響度は7割以上だと思います。大人になったということは、親から受けた影響をしっかり自覚して、自分で自分の道を決めていくことだと思います。

 最近は、子供の話を聞いているつもりなのに「お母さんは私の話を聞いてくれない」と言われて困惑する親もいると聞きます。子供を言い負かすのが民主主義だと思っている親の、反論しようと思って聞いている心が伝わってしまうのではないでしょうか。

 子供の意志を尊重するということを書いている人もいました。ベートーベンの親が嫌がる息子をピアノの前に無理やり座らせなかったら、ベートーベンの曲は生まれたでしょうか。最近は二世の選手や芸術家が沢山います。逆に、親の要求に押しつぶされた子供も多いと思います。子供の「意志」をどう考えたらいいのか、難しい所です。

 ★ 看護婦(士)になった時、患者の話を聞くに当たってどういう事を心掛けるか

 皆さんは基礎看護学の授業で、患者の話を聞く態度について教わったようです。曰く、共感的な態度で傾聴する、曰く、鵜呑みにしないで批判的に聞く、と。

──しかし、具体的にどうしていいのかが全く分からず、実習に行った時、患者さんとのコミュニケーションがうまくいっていないような気がしていた。けれども、ずっと側にいて少しずつ私のことを話していったら、患者さんの思いや生い立ちを話してくれた。患者さんの話を聞くのはとても大切だが、患者さんが話をしてくれるようにするには、私のことを知ってもらわなければならない。つまり、受け身の態度ではなく会話として成立させることが大事だと思った。

 ★ しかしここでも「忙しい」という問題が立ちはだかります。

──4月の実習の時、患者さんが「看護婦は話を聞いてくれない」と言っていた。なぜなら、話しかけても足が違う方向を向いていたり、すぐ近くにきても話には上の空だったりするそうだ。看護婦自身も忙しすぎて、どうしても一人一人と真剣に話をすることができない。また、横に座っていても「○○さんの点滴は~」などと違うことで頭が一杯なのだそうだ。看護婦が聞いているふりをしても患者はそれを察し、自分の心のうちを話そうとしなくなる。なので患者にとってはずっと側に居てくれる実習生はよき話し相手だろう。真剣に聞くことで、不安や悩みを話してくれた。嬉しかった。

 ★ しかし、この事は、皆さんが実習生でなく正式の看護婦になった時は〔ずっと側に居ることは〕実行出来なくなる、ということではないでしょうか。さて、どうしたら好いでしょうか。これが問題です。言葉づかいに悩む人もいるようです。

──実習にいくと、決して馬鹿にしたり幼稚な扱いをしているわけではないが、「○○さん~しようね」とか、「~したかやぁ」みたいな言葉を使ってしまうことがある。こういう場合、どこまでが良くて、どこからが失礼なのか分からなくなることがある。信頼関係が出来てきて、このように自然に出てしまうが、やはり失礼なのだろうか。逆に、敬語ばかり使っている方がかえって境界を作ってしまうような気がする。

 ★ 学校で授業や学校のあり方について話し合えるようにするにはどうしたらよいか

 これは問題の説明不足で、分からなかった点もあったようです。私の真意は、「学校や授業のあり方についての疑問を公正に話し合って解決するシステムはどうあるべきか」ということでした。

 授業のあり方について話し合う場があればいいなという気持ちを多くの人が持っていると思います。その方法としては、1対1の面接ではなく、クラス全員で話し合う、その時は円になって話し合う、無記名のアンケートをとる、「天タマ」みたいなもので意見交換、といった提案がありました。

──まず先生が生徒の意見を聞くという雰囲気を持つこと。次に、そういう場を先生や学校側がつくること。「目安箱」のようなものでもいい。先生同士で授業を見合って、生徒になったつもりで、その先生の授業を聞く。

 ★ 皆さんの年齢では無理もないと思いますけれど、皆さんの最大の欠点は、「目に見えるものしか見ていない」ということだと思います。看護婦も教師も個人で行動しているのではありません。病院とか学校とかいった組織の中で働いているのです。

 しかるに、「組織はトップで8割決まる」のです。個々の看護婦の背後に院長の姿を見、個々の教師の中に校長の指導力を見られるようになって下さい。更に大きく言えば、一国の医療制度や教育制度の中で仕事をしているのです。これは根本的には政治の仕事であり、私たちも国民としてかかわっていることです。今後の授業で具体的に考えていきましょう。

  ★ 「天タマ」にある講師の考えについてどう思うか

 これはどうも「授業は教師の実力と情熱で8割決まる」という考えと取った人が多かったようです。19号にはその他の考えもかなり書きました。全部を論じて考えて欲しかったです。しかし、これも私の話し方が不正確だったと反省すべきかな。

──ある先生がテスト後にテストの平均点が悪かったことから、先生が自ら反省をしていました。テスト問題が悪かったのか、授業が悪かったのかと。そんな先生の授業には私もがんばってやらないとな、という気持ちになります。

──教師と生徒の責任の比重は8対2であるという考えにはほっとした。私が今までに教えてもらってきた先生には、ここまで言ってくれる人はいなかったように思う。皆たいてい先生たちは、自分の授業のやり方は正しい、と思っていると思うので、やっと分かってくれる人に出会えたという感じがした。

──予習を具体的に指示するとなると、それは宿題になってしまうのではないか。予習は自主的に行うものである。よって先生は次の授業で何を行うか、どこまで進むかを明確にすべきではないかと思う。

 ★ 「宿題は復習の宿題」とは決まっていないと思います。予習には復習の10倍の価値があります。そして、予習能力は独習能力であり、自立して勉強する能力です。従って、学年が上に行けば行くほど予習の宿題に比重を移すべきだと思います。私のドイツ語の小テストは予習のテストです。「答え合わせをしてからにしてくれ」と言う学生もいますが、「ここは大学である」と答えておしまいです。

          その他

──今日のビデオは宝石ということだった。私の誕生石は12月なのでトルコ石です。私自身はこの宝石はあまり好きではありません。できればダイヤとかルビーといった豪華な方がよかったです。宝石にはいろいろな意味があり、それぞれに含まれている言葉の意味を知りたいと思った。トルコ石にはどんな意味が込められているのかな? 知れば好きになるかもしれないと思った。

──私は宝石を欲しいと思ったことはないが、とてもキレイだなぁと思った。1つの石でも、見る角度や方向によっても輝きや印象が違って、ずっと見ていても飽きない気がした。それは宝石そのものの輝きと宝石の美しさを最大限に引き出そうとしている職人さんの技と心が反映されているんだなと感じた。

──中学校の時の校則は「麁玉〔あらたま〕を磨く」だった。「原石を磨いて宝石になる」ということだ。人間も宝石と同じだと思う。はじめは原石でも磨き続けることで宝石(キラキラした自分らしさ)になることができると思う。そのためには努力が必要である。宝石の種類によって削り方が違う(光の反射の仕方)ように、人間も輝き方がちがう。みんなそれぞれ良い所がまだ眠っていると思う。いつか宝石になれるようにがんばって磨くのみ!!

──私は学校を一歩出ると、社会の一員として会議を司会しなくてはならないことがある。しかし、世の中、男性優位なのか、私より年長の男性に進行をほとんど奪われ、司会しても、「そんな事あとあと!」と進行表を勝手に変えられてしまい嫌になってしまう。

 『囲炉裏端』を読んで、私も対等であるし、会議の運営について真剣に考えたいと思った。前回は皆のアンケートから議題を上げてもらい、レジメにして事前配付したのに、いま一つ思考のまとまりに欠けた。次回は各人の話題中心に問題点を座談会風に話し合う予定だ。そこからいかに結論を導くかは司会の力によるところが大きい。

 ★ 会議のあり方自体をテーマにして話し合う機会を持つ、そしてルールを確認し、時々それが守られているか、改善点はないかを反省する時間を持つ、というのはどうでしょうか。内容について話し合うだけでなく、時には話し合いの形式について反省し合い、話し合ってみる、これが哲学的なやり方だと思います。

──哲学の授業が始まってから「天タマ」を読むことがとても好きになった。みんなの考えが聞けて、どう自分の考えと違うか、この人はこう考えていたのかなど、みんなの考えを知ることができて面白い。それに先生の考え方も知ることができてよい。また早く「天タマ」が読みたい。

 ★ 哲学の授業も軌道に乗ってきたようで嬉しいです。家族や友達とも話してその結果を知らせて下さい。

 こんな「疑問」が寄せられました。

──どうしてこんなにも物事を深く考えなくてはいけないのか、それと、なぜ人に見せなくてはいけないのか、私は自分が考えた事を心にしまっておきたいので、少しこの授業が苦痛です。

 これと関連して、今年は去年に比べて「匿名希望」がとても多いのです。内容的に見て匿名にする必要がないと思うものまで匿名希望になっています。この「天タマ」に載った文がきっかけで今まで話さなかった人とも話すきっかけになったという例が、去年は報告されていました。匿名だとそういう可能性がなくなると思います。どうしてもという場合以外は、匿名は避けてほしいと思いますが、いかがでしょうか。

 尚、この「疑問」は皆で考えましょう。参考になるかなと思うのは、例えば物見の塔というキリスト教の一派があります。この派の学生は柔道とか剣道などの授業に、信仰で禁止されているので参加出来ないと言ってきます。一応、認められているようです。この「疑問」はそれと同じでしょうか。参考までに。

      授業要綱の修正

病気などで休んだかとか授業中にレポートを出したか否かに関係なく、あとでEメールでレポート(2度目になってもよい)を送ってきても構いません。人間の考えは、その場で終わるものではありませんし、哲学はいつまでも続きます。学校という制度がありますから一応区切っているだけです。後から送られてきたレポートでも内容によっては可能な限り「天タマ」に反映させたいと思います。

「天タマ」第19号

2018年12月23日 | カ行
「天タマ」第19号(1999年10月18日発行)

           市立看護専門学校 哲学の教科通信

 4日は「先生と生徒は対等か」のテーマを深めるために事例研究をしました。

 この事例の話し合いは公正ではないと殆どの人が感じたようです。腹立たしく思っている意見を紹介します。

──私はこの事例を読んですごく腹立たしくなりました。面接で、「授業はどう? わかりにくいのある?」と、先生が聞いているのに、自分のことを言われ、「『あの授業だけで理解できると思ってるの?』という返事はないだろう!!」と思います。

 この生徒さんも予習や復習をやっていないから、それが悪いのかもしれないけど、私だって出された宿題以外、そう簡単には予習・復習なんてしません。それでも授業によってはよくわかるものもあります。先生も、早すぎて付いていけない、と言われているのだか
ら、もう少しゆっくりやろうとか考えてほしいなと思いました。

 ★ 実際にはそれほど感情的な文章ではないと思いますが、「『あの授業だけで理解できると思ってるの?』という返事はないだろう!!」といった言葉は公的な文章では避けた方がよいと思います。「~という返事は教師の言い方ではないと思う」くらいにしたら
どうでしょうか。

 Bさんは次のように表現しています。

──この話し合いは公正に行われなかったと思う。先生は生徒の意見を聞こうしていない。しかも、親身になろうという姿勢をみせておきながらというのは、少しひどいと思った。

 生徒も本心は「分かりにくい」ということだったのに、言いづらさから「早すぎて、付いていけない」という言葉に変わってしまった。黒板の字が読みづらいとか、話すペースが早いというような具体的な問題だったら先生にとっても分かりやすいと思うが、ここで
問題になっているのは授業自体が分かりにくいという根本的なものである。

 先に挙げたような部分的な問題なら言いやすいが、根本的なものであると、その先生自体を否定してしまうようで、とても言いづらい。それが言えるようになるには、「この事を言ってもこの先生なら受け止めてくれるだろう」という気持ちに生徒側がならないと無
理だと思う。今回の話し合いが不公正だったのは先生側に責任があると思う。きっとこの生徒は今後はこの先生に相談事をしないと思う。

 ★ しっかり分析した上での冷静な表現だったと思います。

  生徒にも責任があるとする意見も少なからずありました。それは、どこが分からないのか具体的に言うべきだったとか、先生の言葉にひるまずに反論すべきだったとか、分からないなら、授業中に分からない時に言うべきだ、の3つが主でした。

        自分の体験から

──こういう事は現在でもよく体験する。特に強く感じるのが実習の時だ。自分なりに考えて行動した事について、「ダメじゃない」と言われる。でも、先生は何故その行動がいけないのか、何が正しいのか示してくれなかった。私が何故そのような行動をしたのかに
ついて、聞いてくれなかった。悲しかった。何のための教員なのだろうと強く思った。生徒の意見に耳を傾けるぐらいのことは最低限して欲しい。

──人気のある先生とそうでない先生があるけれど、人気のある先生は、生徒の言う事に耳を傾け、共感してくれる。その上で、間違っていることはきちんと「違う」と怒る。むやみに説教をしたりしない。そういう先生には心を開いて話ができる。やはり、相手の言
う事を聞き、受け入れることは大切だと思う。

──私も本校の面接で同じような事を聞かれ、「○○先生の授業は分かりにくい」と答えたことがある。しかし、なぜ分からないのかと聞かれて、その答えに困った。なぜ分からないのかが分からなくて、何が分からないのかも分からなかったからだ。取りあえず、「
勉強不足だからだと思う」と答えたが、何となく自分自身もはっきりしなく、授業の事について聞いてきた先生の考えもよく分からなかった。

       講師の考え

 皆さんはやはりこの「先生と生徒は対等か」についてはいろいろな経験をし、考えてきたようです。しかし、どう考えてよいのか分からない部分もあるようです。問題点をまとめてみましょう。

 (1) 授業の質(善し悪し)については「先生にも責任があるけれど、生徒にも責任がある」という考えがあります。これは相手のあることで問題の起きた場合大抵言える事です。

しかし、この考えの不十分な所は、そのような言い方で済ますことによって無意識の内に「両者の責任の比重は半々である」としていることです。実際には、両者の責任の比重は10対1から1対10までありえます。そのどれなのか、ここまで考えてこそ本当に考えたことになるのです(交通事故で2台の車がぶつかった時は、ここまで問題になると思います)。
 授業について言うならば、教師の責任と生徒の責任の比重は8対2だと思います。つまり「授業は教師の実力と情熱で8割決まる」のです。    

(2) この事が生徒の立証責任と関係してきます。生徒に、どこが分かりにくいか説明しろとか、反論せよとか、分からない時にその場で聞くべきだ、というのは無理な要求だと思います。生徒が真面目なら(これは前提されています)、生徒は「分からない」と言うだけでよいのです。その原因を考え、対策を立てるのは教師の仕事です。教師はそのために給料をもらっているのです。

 21回生がアンケートに「休憩を入れて欲しい」と書いていました。この言葉を考えて、今のような休憩にしたのは私のアイデアです。私も生徒と教師の両方を長い間やってきてようやく、自分の先生たちの授業のどこがどう間違っていたのか、なぜ間違っていたのか、はっきりと分かるようになりました。

 最近、医療過誤について法的に追及すること(つまり裁判)が多くなっていますが、ここでも患者に立証責任はないとする考えが強まっているようです(これは今日取り上げます)。

(3) Fさんは「授業が分からないと言うと、先生は必ず『予習・復習』のことを言う」と書いています。皆さんは、こういう先生の主張も、「どこか奇怪しい」と思いながら、どこが間違っているのか、分からないようです。

 予習を要求するならば、先生は例えば、「何頁から何頁まで読んできて下さい」とか、具体的に指示するべきです。これをしたのに生徒が予習をして来なかったら、その時初めて生徒の責任になるのだと思います。予習の内容を具体的に指示しなかったとしたら、先
生の方が悪いと思います。復習について言うならば、授業が分からないのに復習のしようがありません。

(4) 先生と生徒の場合に限らず、一般に相手を批判するような場合、その話し合いが公正に行われるためには、互いに相手を尊重する気持ちがなければならないと思います。生徒が先生に何か意見する場合なら、生徒は先生を尊敬し、先生は生徒を信頼していなければならないと思います。

 しかるに、「この授業はひどい」と思っていたら、それがどうしても態度などに出てしまい、先生も自分を守ろうとして、自分の立場を悪用するということになりがちです。ですから、私は、根本的な批判は、事実上「この先生はクビにするべきだ」と言うのと同じなのですから、管理者に言うべきだと考えるのです。根本を認めた上での部分的な問題なら、一部の先生を除いて、冷静に話し合えると思います。

Gさんはこう書いています。「講師が、不満ないし批判を根本的なものと部分的なものに分けた理由は、根本的な不満を生徒から言われた場合は、『うん、そうだね』と、感情的にならずに話し合えないと思ったからだと思う。生徒も直接だと思ったことを言えないと思うし、管理者を間におけば、両者の意見を中立的な態度で聞き、二人と話し合えるからだと思う。よい方法だと思う。」

 (5) この教師と生徒の公正な話し合いの問題は、上司と部下、親子、医者と患者、看護婦と患者という形でも同じ事だと思います。つまり、皆さんの仕事での大問題になってきます。今までは皆さんは生徒の立場、子供の立場だけでしたが、これからは逆の立場に立
つようにもなります。だからこそしっかり考えておく必要があるのだと思います。

 (6) 結論がどうなるにせよ、話してよかったと思えるような対話をしたいものです。

      授業の感想、及び家族と話したこと

──教科通信「天タマ」はいろいろな人の意見を知ることができて、大変面白かった。みんないろいろな考え方を持っているのだなぁと、当たり前の事だが、実感した。同じくらいの年齢なのに、考え方にこんなに差があり、また私の幼稚な考えや表現方法を見直すき
っかけになりそうだ。

──「哲学って?」と、授業が始まるまでは思っていた。しかし、始まってからプリントが配られ、そこには先生の自己紹介、これからの授業について、哲学というものについてなど、とても詳しく書かれていた。そのプリントに目を通しただけで、何を行っていくの
か、どのような授業を進めていくのか、大体知ることができた。このように授業の進行度やどのようにやっていくかが書かれていると、把握しやすくてよい。

──1・2回目の哲学の授業のこと、先生のこと、私は家族に話しました。いつも授業の文句ばかり話していたようで(自分では気づいていなかったが)、母に「いつもグチグチ文句ばかり言っている人が、今日はめずらしいねえ」と言われました。新しい授業が始ま
ったこと、外部から来られる先生であることに期待が大きく、それが話す内容や表情に表れていたようです。

──母と話をし、人間の間で対等はありえるのかという話になった。対等ということは、相手と自分を同じ高さで見ることだと思う。母と私は同じ意見で、2人として同じ人がいない人間の間で対等はありえない、という考えになった。一番対等に近いのが同級生など
の歳の近い人ではないかということになった。少し寂しい気もするが。

    「恋のうた」を読んで

──この「恋の歌」を読んで、なんだかとてもすてきな歌だなと思った。こんなに短い歌の中にあんなにたくさんの意味や感想、気持ちを表現するのはとても難しいことだと思う。自分が短歌を詠んでみたら、あんな少ない字数の中にあれだけの意味が込められるだろうかと思った。

──大田美和さんの短歌はかっこいい女性だなと思った。私は、この歌とはどちらかといえば逆で、だれかに奏でられることを待っている方だと思う。しかも、だれかの思いどおりのメロディーを無理して出してしまう方なので、この歌を少し見習いたいと思った。

       お願いと感謝

 始業前に「天タマ」を読んで、前回の授業を思い出し、今日の授業の心の準備をしておいて下さい。哲学の授業は休み時間から始まります。

 レポートの字はとても読みやすくなりました。ありがとうございます。


「天タマ」第18号

2018年12月22日 | カ行
「天タマ」第18号(1999年10月04日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 2回目のテーマは「先生と生徒は対等か」でした。ヒントの中の「何が対等で何が対等でないか」が十分に考えられなかったようです。また、「対等」という言葉には、(1) 本来は対等である、という意味と、(2) 現実に対等になっている、という意味と、2つの意味がありますが、この両者を区別できなかった人もいるようです。しかし、皆さん熱心に考えていました。

Aさんのレポートを紹介します。

──先生と生徒は対等かというと、理想としては対等であるべきだと思います。もちろん教える人・教えられる人としては対等ではないけど、人間としては対等であると思います。対等でなければ良い授業は出来ないと思います。小中学校の事を思い出して、先生のイメージというと「こわい」ということが浮かんできます。今では考えられないけど、あの頃は先生が平気で生徒をなぐったりして言うことを聞かせていて、先生の言う事に納得して従うのではなかったように思います。

 「先生」は確かに私たちより多くの知識を持ち、経験をつんでいて、多くの先生はすごく尊敬の出来る人です。しかし先生の言う事はすべて正しいと思ってしまうのは危険だし、学びながらも自分で考えていくことが大切だと思います。先生がいつも上から見下すような態度だったら良い人間関係は作れないと思います。これは先生と生徒の関係だけでなく、親子、友人関係でもそうだと思います。やはり授業も対話といっしょで、相互作用が大切だと思います。

 だけど対等であるとしても、もちろん必要最低限、言葉使いや態度は気をつけるべきだと思います。平等であっても友人と同じではない事を勘違いしないようにしたいと思います。本校の先生は学生の意見をよく聞いて下さる先生達ばかりなので、高校の時と違って面白い授業が多いです。

 ★ これを「人格としては平等、権限としては不平等」とまとめることにしましょう。

 第1点から「先生も生徒も互いに相手の人格を傷つけるような言動をしてはならない」ということが出てきます。これが守られていない場合があるのは残念です。

 第2点は「能力や理解力の不平等」から出てきます。しかし、これは少し微妙で、スポーツや一部の芸術では、現役生徒の方が既に現役を引退したコーチより能力が上である場合もあります。しかし、経験や考え方などでコーチから学ぶものがあるのです。
 それと同時に第2点で大切なのは、生徒の方が先生を「自分の先生」と思い、尊敬して従う気持ちになれることだと思います。しかるに、学校では、多くの場合、先生が学校によって決められてしまって、生徒に選択の自由がなく、尊敬できない場合があります。

   先生と生徒の対等を考えるその他の観点について

──先生と生徒の意見が違ったからと言って、議論をする必要はないだろう。議論をして、どっちが正しいかということを決定するのではなく、先生が意見を聞き入れ、考える余地を持ってくれればよいのだ。そうすることで、授業にも反映され、よりよい授業を作っていくことができていくのではないだろうか。

──先生と生徒の意見が違った時、両者は議論すべきかというと、私は、議論すべきであると思う。最終的な決定権は先生が持っていると思うけれど、議論することで先生にも生徒がどういう意見を持っているかが分かるから、議論すべきだと思う。こういう時、司会
をするのは先生でなくて、生徒がやった方が、生徒の意見を尊重できるし、先生と生徒が中立的な立場にいられるので、良いと思う。

──教壇は先生が生徒を見やすいようにある、と今まで思っていた。しかし、先生が生徒より上であるということを示してもいるのか、と感じました。対等ではないから一段上にいて当然なのだけれど、先生は生徒より上であることをより一層生徒に植えつけているよ
うな気がする。

──先生は一番高い所で生徒が低い所にいるということはいちがいには言えないと思う。大学は階段教室になっている所もある。そうすると生徒の方が高くなる。

          先生の思い出

──私は高校時代の部活の顧問の先生を今でも心から尊敬している。毎日毎日、怒られては泣きながら練習をしていた。しかし、どんなに厳しくても、先生はいつも励ましつづけてくれた。先生を信じていれば絶対に勝てる、と本当に信用していた。私が悩んでいる時
には、「試練は克服出来る者にだけ与えられる」という言葉をプレゼントしてくれた。今、つらいことは乗り越えるためにあるのだと、とても勇気づけられたのをよく覚えている。先生と生徒の関係。あたらめて考えてみると難しかったが、私にとって先生とは大切な何かを教えてくれるかけがえのない人である。

          その他

──私は今、看護学生という生活がとても充実している。しかし東京の大学に行っている友人はつまらないと言うことが多い。和敬塾にいた大学生はとても楽しそうだったのに、どうしてこのような差が生まれてしまうのか、疑問に思った。

 ★ 私は、和敬塾はそこの学生にとって第2のサークルなのだと思いました。つまり、サークル活動が充実しているのです。授業がつまらないという1年生の訴えに、4年生は「授業を面白いと思っている学生が何人いるか」と答えていました。しかし、本当の学生
生活の中心は勉強を軸にした先生及び仲間との関係だと思います。本校の皆さんは、これが充実しているのだと思います。ですから充実といっても和敬塾の学生の充実と皆さんの充実は違うのではないでしょうか。

──集団生活に憧れる部分がある。スポーツをやっていた時、夏休みに3泊4日で合宿した経験がある。練習じたいは毎日とてもつらくて逃げ出したいほどだったが、宿に戻ってみんなでワイワイ遊んだり、悩みを相談しあって夜遅くまで過ごすのはとても楽しかった。今はもうそういう機会もなくなってきてしまっているし、寮というのもあまり見かけない。集団生活もいい所ばかりではないと思うが、学生のうちにしか経験できない貴重なものでもある。

──「哲学」と聞いて固いイメージを持っていました。でも、予想に反して、今までみんなが一度は考えたことのあることや、日常にしていることについてしっかり考えるものであって、考えれば考えるほど深いものだと思いました。

──カンファレンスでは、今まで自分たちの話題のテーマにならないようなことで話し合うことで、いろいろな人の意見を聞くことができていい。

──先生はなぜ哲学を学ぼうと思われたのですか。又、先生はご自身でどう生き、どう人生の最終を迎えようと思っていらっしゃるのですか。私は「自分らしくある」をポリシーにしていて、それは時代や背景の中で少しずつ変化していくものです。私はそのあいまい
さも又自分が自分であるために必要なものだと考えているのですが。

 ★ 人間は自分を突き動かしている根本の衝動みたいなものを完全に自覚しているとは限らないと思います。それは不可能かもしれません。しかし、後から振り返ってみると、客観的にはその人を根本で動かしているものがあるようにも思えます。

 自己認識としては、感情的な態度が嫌いだったということがあると思います。一番覚えていることは、社会問題などで、とても感情的になって自説を主張した多くの人々です。高校時代、「数学みたいに、社会生活の分野でも理論的に解決できるといいな」と思った
ことを覚えています。私自身が感情的になったこともあります。

 真理が貫徹する真なる方法は何か、これがテーマかな。人間の心の中には天使と悪魔の両方が住んでいます。問題はその割合をどう見るかです。昔は9対1くらいに考えていて失敗しました。今は半々に考えて警戒するようにしています。すると、悪魔も活動しにくくなるようです。教科通信とか書き言葉を使った対話はとても有効だと思っています。

 ターミナルのことは余り考えていない、と言うより、考えられません。仕事が残っています。あと10年頑張って、社会的責任を果たしてから死にたいです。(講師の回答終わり)

 今日は第2回のテーマを更に深めることにしましょう。「先生と生徒は対等か」というテーマを深めるための事例研究

 「どんな組織でも人間には考えの違いや感情の行き違いがあるものだから、それをなるべく理性的に解決するためには苦情処理のシステムを作っておくことが大切だ」ということを考えていた時の、或る学校での或る生徒のレポートです。

──本校では全然、言えません。実際、すごくいい授業をする人には言うけれど、苦情なんてとてもとても。〔担任との定期〕面接のとき、「授業はどう? 分かりにくいのある?」と聞かれて、本心は「あなたの授業は分かりにくいです」と思いながらも言えない。

 でも、少し勇気を出して、「あのぅ、先生の授業ちょっと早すぎて、付いていけないとこがあります」と、言ってみたら、「アラー、あの授業だけで理解できると思ってるの?予習とか復習してる?」。(「してません」)。「それじゃあ、だめよ。これからもっと付いていけないわよ」と、言われてしまいました。

 確かに予習や復習はしていないけど、でもしっかり授業聞いているのに分からないのは、先生の教え方もまずいのではないか、と思うんです。というか、私の訴えは全然受け入れてくれないし、反対に説教されてしまったのが、すごく悲しかった。言わなければよかった、と思いました。

 この事例を分析して考えて下さい。考えるべき点は次の通り。

 (1) この話し合いは公正に行われて正当な結論に達したと言えるでしょうか。
 (2) イエスと思う人も、ノーと思う人も、そう判断する根拠を挙げて下さい。
 (3) この話し合いが不公正だったとしたら、誰にその責任があるでしょうか。

 参考にして欲しいものは、第1に、「授業要綱」の次の言葉です。「この授業が根本的に間違っていると考えた場合は管理者に相談して欲しい。以下は、「この授業は根本的には適当だが、部分的に改善して欲しい点がある」という立場で考えるものとする。」
 講師はなぜ不満ないし批判を根本的なものと部分的なものに分けたのでしょうか。このように分けることが本当に正しいか、正しいとするならなぜ正しいのでしょうか。

 第2に、『囲炉裏端』の「司会者の立場と討論者の立場」(87頁)及び「ある体罰反対運動の民主主義」( 129頁)を読んでください。

 第3に、次の諸点です。国会などで議長不信任動議を審議する時、なぜ議長の任務を副議長にゆずるのか。議長と副議長はなぜ党籍を離脱するのか。学校への入学の申込書はなぜ「願書」と言うのか。

 なお、授業のこと、対話のこと、先生と生徒は対等かという問題について、家族とか友人とその後話し合った人はいませんか。ありましたら、それも報告してください。


「天タマ」第17号

2018年12月17日 | カ行
「天タマ」第17号(1999年10月04日発行)

                 浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

第1回のテーマは対話でした。なるべく多くの意見を紹介しましょう。

 「対話の基礎は親子の対話にある」という講師の考えについて

──先生のような決まりきっていない授業はいいと思います。トイレは自由に行ってよいとか、授業の途中に休憩を入れるとか、集中できるやり方で、今までの授業とちがい、新鮮です。
 あと、教科通信とか、クラス内での交流っぽいものは、小学生の時にやっていたクラスで出していた新聞を思い出しました。あと、それを家族に見せたりするのも、いまではやらなくなって、小学校や中学の頃、よく母に学校であったことをいろいろと話していたなと、久しぶりに見せたりしたいなと思いました。私も先生の「基礎は家族の対話」というのにとても共感できます。家族というのはお互いにすごい影響を受けるものだと思います。

──グループの1人の子が「親とうまく会話していない人がいるけど、回りの人との対応はうまくやっているよ」と言っていました。きっとその人は親との対話の中で、ダメな部分、良い部分を見つけて、まわりの人とは良い対話をしている人なんだなと思いました。

──先生の考えには同意しかねる。我が家は共働きであり、子供の時はずっと祖母の家で1日を過ごしていたし、仕事も忙しかったので、兄弟や友人と過ごすことが多く、親子の甘えの関係ではなく、それぞれ違う人々と関わる事で自分も学んだ事が多かったので、そうとは言い切れない事もあるのでは、と思う。

        いろいろな対話経験

──私はよく小さい頃から父に怒られるときは必ず正座させられ、「人生とはなぁ~」と、訳の分からない話を聞かされました。その時はまだ幼く、その父親の怒った顔が怖くて、ただ意味も理解できずに聞いていた。だんだん大きくなるにつれて、父親の言っていたこと、それをなぜ言ったのか、分かってきた気がする。今はゆっくりと父親と話す機会がなくなったので、今度ゆっくり話したいと思う。

──高校3年の時に体育の授業で逆立ち40秒というのをやって、1人でも途中で倒れたら又皆でやり直し、という過酷な事をした。私は逆立ちが苦手だったので、30を過ぎた所で倒れてしまった。結局やり直しはなかったけど、泣いてしまい、次の時間もずっと保健室。
 放課後になって、部活の先生の所へ行って「休みたい」と言ったら、「どうした?」と聞かれ、また泣いてしまった。そしたら別の部屋に連れていかれて、その先生は私の担任でもあったので、いろいろと聞いてくれたし、アドバイスもしてくれた。仕事が忙しいのに、親身になって聞いてもらえてうれしかった。

──病院実習の時、必ずグループと指導教員とカンファレンスを行い、困っていること、今日の反省などを話し合う。その時、実に中身のある対話が出来ているように思う。1つの話題について皆が口々に自分の意見や、自分ならこうするだろう、こうしたらいいのではと、さまざまな意見が出される。対話というのはこのように一人で成り立っているのではなく、どの人も平等に意見が言えることにあるのではないか。

──私が「対話」と聞いて思い出すことは友達との対話です。高校時代に仲良くしていた友達で、その人とは何でも話せる仲でした。それ故に衝突することも多く、毎日のように大ゲンカをしてしまうんだけど、おかしな事にケンカをすればする程仲良くなっていることに気づきました。
 2人とも言いたい事を全て言える仲なので、最近は「会いすぎるといけない」と分かり、間隔を空けて会っています。対話すればケンカや衝突があるんだけれど、分かっていても対話してしまいたくなる私達ってどんな関係だろうと思います。

        和敬塾のビデオを見て

──初めて和敬塾の存在を知った。一般の寮と違うところは行事があるということだろう。私はたまに「男に生まれたかった」と言う。それは、和敬塾の生徒たちのように、男の人には「一致団結」とか、「青春」とか、憧れるものがあるからだ。女には群れのようなものがあって、別にうっとうしいと思っていないけれど、男のような分け隔てない関係を羨ましく思う。

──私が一番印象に残っている映像は自己紹介である。よく高校の応援団員が発するような声で寮全部の先輩たちにあいさつをする。なかなかの大仕事だなあと思った。あいさつをするだけでなく、お互い自己紹介してから、相手のことをもっとよく知るために話し合う場面があった。いろんな考え方を知ることが出来、世界が広がって、羨ましいと思った。

 ★ なぜああいう自己紹介の仕方をするのでしょうか。少し考えてみました。照れ隠しなのではないかと思いました。初対面では誰でも「照れ」を感じます。相手がどういう人か分からないので、どう振る舞っていいのか分かりません。そこで、少しずつというのと反対の「大声を出す」という方法で一気に打開するのではないでしょうか。
 Jさんはこういう経験を紹介してくれています。「私は小学校3年の時からガールスカウトに入っているが、県合同キャンプに行った時のこと、テントに入ると知らない人が5人もいた。初めとまどい、みんな沈黙だった。ご飯の時も沈黙であった。全然楽しくなかった。しかし、1人の子が沈黙を破ってしゃべった瞬間にみんなしゃべり出した。みんなしゃべりたいという気持ちは同じだったのだ」。
 ガールスカウトのようなしっかりした歴史のある団体にしては少し不思議ですが、ともかく、ここではこの初対面の照れをどう解決するかについて、自分たちのやり方が確立していなかったのです。
 私も新しいクラスを受け持った時、最初の授業をどう切り出し、どう持っていくか、困りました。90分全部を使って、「大学で勉強するとはどういうことか」と熱弁を振るったこともあります。ドイツ語の授業では何の前置きもなく、「後に付いて発音して下さい」とだけ言って、音読の練習を始め、それを90分続けて学生を驚かせたこともあります。本校でもいろいろありました。
 それらの経験をへて、今のような始め方にしました。生徒は「どんな先生かな」とか、「どういう授業かな」と思い、場合によっては「一体、どこに連れていかれるのだろう」と思っているのです。この不安にちきんと答えるのが一番好いと思うようになりました。それは自分の授業の全体を自分で見渡すことにもなって、結局授業の改善に役立っているようです。
 皆さんも、各々の先生が最初の授業をどう組み立てるか、考えてみませんか。そして、どうしてそういうやり方をするのだろうか、この哲学の授業の始め方と比べてどうだろうか、と考え進んでみて下さい。するとこれがもう哲学になっているのです。筋道をつけて考えているのですから。

        哲学の授業を受けてみて

──このような授業の型は初めてだったので少し驚いたが、受け身の授業ではないので、眠くならなくて、いいと思う。

──授業要綱について先生が解説していくのを聞いていて、「努力する」という言葉はいいなあと思った。努力して出た結果なら、たとえそれが自分にとってよくないことだったとしても納得がいくような気がした。

    お願い

・濃い目の字(鉛筆なら2B以上)で書いて下さい。薄い字はとても読みにくく、疲れます。昔、中学の時、或る先生が「鉛筆の字は電灯が反射して読みにくい」と言っていたのを実感します。私のお勧めは「ボールペンテル」です。
・大き目の字で、行間を空けて書いて下さい。
・番号を必ず入れて下さい。

「天タマ」第16号

2018年12月14日 | カ行
「天タマ」第16号(1999年 9月27日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 まず、「授業要綱」として、こういう授業を目指しますということをお話します。

1、哲学とは筋道をつけて考えることとする。従って、その練習をし、各自が自分の考え を自分にはっきりさせ、発展させることを目的とする。
 テーマとしては、人間の相互理解ということにしたい。しかし、実際は成り行きを尊 重して、テーマにはこだわらず対話と反省を深めることを優先したい。

2、授業の方法
 (1) 与えられた資料を手掛かりにし、また講師の意見を聞いたりして考え、カンファレンスをして、自分の考えをレポートにまとめる。

 (2) レポートを書く時の注意
   メモをとって3分は考えてから書く。
   日付を入れる。
   「その他」としてテーマとは無関係な事、私生活上のこととか、授業の感想とかを書いてよい。書いて欲しい。
  「教科通信」に載せられては困ることは、その旨記すように。匿名希望も可。

 (3) 講師は「教科通信」を発行して、考えを深めるのに役立てるように努力する。

 (4) 「教科通信」を家族にみせたり、授業の事を家族に話したりすることを歓迎する。家族の意見をレポートで報告するのも大いに歓迎する。
   個人の対話体験の基礎は家族との対話、特に親子の対話にあると思う。

 (5) ディベートの練習も出来たらしたい。

 (6) 講師はレポートには感想を書いて返すように努力する。

 (7) レポートは学校の原稿用紙に書くのを原則とする。
   授業中はメモ用紙に書き、後で原稿用紙やワープロで清書するのもよし、始めから原稿用紙に書いてもよし。それを、学期末にまとめて綴じて文集にする。文集は同じものを2部作り、2部共提出する。講師は1部を自分に取り、1部に成績の根拠を書いて返すように努力する。

 (8) 授業中、適当な時に「休憩」を入れるように努力する。たいてい、授業と無関係なものを読んだり、ビデオを見たりする。

 (9) 配付する資料等は A4 に統一するので A4 のファイルを用意して欲しい。

 (10)授業中、気持ち悪くなったり、トイレ等の用のある人は、黙って出ていくこと(断らなくてよい)。

 (11)当番の人は始業15分前には来てほしい。

 (12)教科書『囲炉裏端』は「筋道をつけて考える」ことの参考書とみなす。

3、哲学の授業に臨む態度ないし心構えについて
 (1) 自分の言いたい事を全部分かりやすく言うように努力する。

 (2) 相手の言う事を最後まで聞くように努力する。

 (3) 感情的にならないように努力する。根拠をあげて客観的に冷静に意見を言う。

(4) 講師は先を急がないようにする。生徒のレポートなどで問題に気づいたとき、自分の意見を言う前に、生徒に問題を提起して考えてもらうように努力する。

4、授業のあり方の反省
 この授業が根本的に間違っていると考えた場合は管理者に相談して欲しい。以下は、「この授業は根本的には適当だが、部分的に改善して欲しい点がある」という立場で考えるものとする。

 (1) レポートの際、いつでも、「その他」として、授業の感想・提案を書いてよい。

 (2) 講師の作ったアンケート「より良い授業のために」を2回取る予定。

 (3) 学生が企画・実行する「アンケート」も1~2回行う予定。

 (4) この「授業要綱」にあることにはつねに意見を出せる。従って変更もありうる。但し、最後的決定権は講師にある。

 (5) Eメールで意見を下さっても結構です。ホームページ「哲学の広場」も開いています。

5、成績
 (1) 生徒に相応しくない態度は、1回でC、2回でD、または酷い場合には1回でDとする。(感情的な態度、私語と内職、規律を乱す行為、等)

 (2) 受講態度に問題がない場合は、レポートの内容によってSABCDをつける。
   その観点──独創性、考察の広さと正確さ、文章のまとまりと分かりやすさ、等。特に独創性を評価する。

 (3) 成績の根拠を生徒に伝えるものとする。異義申し立ては1回だけ聞くものとする。最後の決定権は講師にある。

6、希望
 内容のある楽しい授業にしたい。


      第1回の授業のテーマ

 対話の思い出、実りある対話の条件は何か、「対話の基礎は親子の対話にあり」という講師の考えをどう思うか、その他

        講師の自己紹介

 皆さん、初めまして。足掛け4ヵ月の授業ですが、「哲学」という訳の分からない看板の下で何か怪しげな事をしていきましょう。私も今年で5年目になりますので、この学校でも「仏の牧野」という評判が定着してきたようです。評判を裏切らないようにやって行きたいものです。

 東京に生まれ育ちましたが、引佐の山の中に引っ越して、イノシシと一緒に暮らしています。お蔭でこの学校に来ることになってラッキーだったと思っています。好い生徒に恵まれて、哲学教育に新しい境地を開くことが出来ました。

 私は1週1回、水曜日に、余技のドイツ語で国立大学でも授業をしています。こちらは7年目になります。後期はこことS大と、週に2回の授業です。といっても、こちらは不規則で、11月は週3回になりそうです。

 還暦が近くなり、体力の衰えを感じるこの頃ですが、こうして若い皆さんと付き合っているのが心の若さを保つ秘訣かな、と思っています。

        夏休みの1コマ

 8月10日、本校の去年の生徒たちと掛川郊外の「ねむの木村」を訪ねました。宮城まり子さんの主宰する肢体不自由児のための施設です。浜岡町から移転しました。吉行淳之介文学館が出来て、宮城に宛てた恋文が展示されてあるとか聞いていました。

 台風が来ていて雨模様の日でしたが、私たちの歩いている時は幸い雨は降りませんでした。まり子という喫茶店には他の客はおらず、半年ぶりに会った元生徒たちとカレーセットを食べ、談笑しました。宮城さんの好みなのでしょう。メルヘンチックな内装で、静かにモーツアルトが流れていました。ここのトイレは身障者用トイレのあり方として一見の価値があると思います。

 文学館の展示には、宮城の心の中に今でも生きている吉行に話しかけるような言葉が添えられていました。その後、茶室で抹茶を飲みました。少し離れた所には美術館も出来たとか、そしてそれが自然採光で、太陽の動きと共に絵の見え方も変わっていくようなものだとか、聞きました。これは秋晴れの日の夕方に見に来たいな、と思いました。

 先日、教育テレビで宮城まり子さんとねむの木村のことを紹介した45分番組がありましたが、ご覧になりましたか。外からは分からない内部の事が描かれていました。

     昨年の「天タマ」第1号から

 「その他」にAさんが次のように書いています。

── 今日初めて哲学の授業を受けてみて思ったことは、「哲学という難しそうなイメージではなく、楽しくやっていけそう。先生も生徒と対等に授業をしていこうとしていて、いい印象」と思った。私も、ウワサで「哲学の先生はこわい人」と聞いていて、「どんな人がくるんだろう」と思っていたが、授業要綱の紙を見て、生徒の意見も反映しようとしてくれているところが印象良く感じた。(後略)

 ★ ここからは沢山の問題が出てきます。それを箇条書きにします。
(1) 先生と生徒は対等か(何が対等なのか何が対等でないのか)。
(2) 生徒の意見を聞いて反映させることは、何の「対等」を意味するか。
(3) 先生と生徒の意見が違った時(勉強の内容、学校の運営などで)、両者は議論するべきか。
(4) 話し合うことと議論することとは同じか。違うとしたらどこが違うか。
(5) 先生は一段高い所(教壇で)で話し、生徒は一段低い所にいるのは何を意味するか。
(6) 先生と生徒が話し合う(議論する)として、その時先生が司会者を兼ねているのは何を意味するか。

 Aさんの言いたい事は私にも嬉しい事なのですが、それをこのように突っ込んで考えると哲学になるのです。そうすると、Aさんの本当に言いたかった事が一層正確に表現されるようにもなると思います。

 この「天タマ」を送った卒業生(元生徒)は手紙の中で次のように書いてきました。

──「先生と生徒の関係は対等か」という部分ですが、私達も、同じことを考えました。その時は、対等ではないと、答えたと思います。知識も多く、経験も豊富なため、かなわないから、尊重、尊敬すべきであると、答えました。職場に出ても、やはり上司は尊重すべきであるという考えは変わりません。しかし、なんでも言い合える関係でなくては、よい仕事はできないと、気づきました。「上司だから、上司の言うことは全て正しい」のではないのです。同じ人間なので、間違いはあります。そこで意見を言えなかったら、いい仕事にはなりません。上司であっても、自分の思うことはしっかり伝える、これが、今私の働いている職場の目指していることです。先生、生徒に置き換えても同じでしょう。良い授業をと考えるなら、お互いが意見を言い合わないといけません。これが、社会に出て考える私の意見です。


「天タマ」第15号

2018年12月09日 | カ行
「天タマ」第15号(1999年1月25日発行)

          浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

  2回目のアンケート「より良い授業のために」から

 ディベートは出来なかったが、先を急がない方針で、対話と反省は深まったか

──1つのテーマを何回にも分け、段階をおって考えることができたので、多少難しいテーマも、とけても深く追求することができたと思います。「天タマ」を見てもう1度反省し、考えることで、かなり考えも深まりました。カンファレンスでの話し合いはとても充実していて、この方針でよかったと思います。

  12月14日の初めての全体での話し合いについて

──少し人数が多い気がしました。4~5人のグループで席をまとめていましたが、全体をまるく円状に机を並べて、お互いの顔が見えるようにしたら、意見を言う人も全体に向けて問い掛けることができて、もっと意見を言い合えるように思いました。

           結婚と夫婦

──それまで別々の生きかたをしてきた他人同士が一緒に暮らすということは大変なことだと思う。初めのうちにルールを作っておけば、うまくいくのではないか、と思います。

──結婚についてのテーマはとても興味深かった。最後の先生の言葉「相手の欠点を全て含めて受け入れられる人でなければ結婚しない方がいい」というのが、深く心に残っている。結婚は相性だと思うけれど、一生幸せでいられるような良い相性の人は、本当に存在するのかと思ってしまう。価値観の占める割合がとても大きいと思う。良い結婚ができるよう、あせらずじっくりと品定めをしたい。

──結婚て本当に難しいと思います。価値観の異なる同士が共に暮らすので、けんかはあっても仕方ないと思う。~価値観の似ている人を探すのは困難だと思う。相手に合わせるのは大変だと思うけど、私はいつかそれが苦痛になる日がくると思ってしまうので、結婚は特にしたいとは思わない。

 ★ 結婚生活がうまく行った場合の喜びは独身生活の喜びより何倍も大きいと思います。失敗の危険を犯してでも、大きな喜びのために努力する方が、生きる甲斐があるのではないでしょうか。虎穴に入らずんば、虎児を得ず。

         キリスト教

──私はキリスト教の学校だった。クリスマス会なども行い、キャンドルサービスや聖書朗読というおごそかな雰囲気の中でのクリスマスもとてもよかった。まだクリスマス当日に教会のミサに参加したことがないので、いつか行ってみたいと思う。

        対話にはテーマが必要

──〔先生は〕夫婦にはお互いの関心を持てる「社会テーマ」が必要だと言っていた。私の両親について考えてみた。けれどお互いが関心を持っている「社会テーマ」は見つからなかった。しかし、私の両親は仲が好い。私の両親の場合、夫婦関係のひけつは何なのだろう? 私には分からない。

        シャタイナー教育と病院

──知り合いにシュタイナー教育の勉強をしている人がいますが、VTRを見て、ちょっと興味をもったので、少しいろいろ調べてみようと考えています。VTRでの障害児のいきいきした表情が印象的でした。

──シュタイナーの病院はハード(施設)の面でも、ソフト(音楽療法)の面でもすばらしいと思う。日本の病院でも音楽療法を取り入れている所はあるだろうが、シュタイナーの病院のように、温かみのある病院臭のしない広々とした部屋で、1対1で、それもハープ(のような楽器)を使って音楽療法を受けられる所はないと思う。医学のレベルは高いかもしれないが、医療のレベルは低いのが今の日本なのかと寂しくなった。

         「天タマ」と家族

──冬休みに父と話をしました。ふだんは学校のことをあまり話さないので、父はとても熱心に聞いてくれました。先生も大変だなあ、感心するよ、おれも何かもっと深く考えることをしなきゃなあ、と言っていました。

──亡父がなんて言いそうかと、家族で話したら、母「お父さんと気の合いそうな先生ね。二人で思い切り討論させたらすごそうね」。兄「この先生になら哲学の授業を受けてみたいよ」。姉「お父さんと一緒にね」

──「天タマ」についてではないけれど、家族でちょっとした事でも深くカンファレンスのようにして話ができるようになった。

          その他

──今までずっと気になっていたのですが、先生がどういう理由で哲学を勉強するようになったのか、またドイツ語との関係など、授業の度に気になっていました。

──この冬休みに文集を作っていて、レポートの数の多さにびっくりした。授業があっと言う間に終わって、とても短く感じたためか、こんなにたくさんレポートを書いたんだと驚いた。この授業に「天タマ」があったことで、考えが広がりました。来年も授業で「天タマ」を続けてほしいと思います。

──先日、NHK教育TVで「教育」について討論会をやっていました。試験勉強もそっちのけで思わず見てしまいました。「組織はトップで決まる」とか、「目上の人は話の途中で反論してはいけない」とか、哲学で習ったなあ、と思い出しました。それにしてもルールが守られていないようですね。反対に笑えてしましいました。

──「天タマ」について。いろんな人が意見を言っていて、どんどん「天タマ」が大きくなっていくようで、なんだか嬉しい気がした。1つのことでもみんなの意見でこんなにも大きくなるんだなと思った。

──哲学は、本当に集中でき、貴重な時間だった。物事を考えていくきっかけを学べた。哲学の授業が終わると、なんだか少し寂しく思う。他から来られる講師と違い、生徒との距離はとても近いように感じ、授業も人間味を感じた。

──先生は最初に聞いていたほどこわい人ではなかった。むしろ真剣に話をしている途中に時々見せてくれる笑顔が仏のように思えて、いい先生だと思った。

──私は最後の授業の先生の挨拶にとても感動しました。「命を大切にする」ことは「人生(生活)を大切にする」ということであり、また「この90分の授業を大切にする」ことであるという先生の考えに共感すると共に、先生のこの90分の授業への思いが伝わってきました。

      文集の「あとがき」から

      最後に

 これまでに自分の書いたものを読み返して思ったことは、まだまだだなということでした。自分が書いた文章で、その時の私の状態がよくわかります。また、今ならもっと違うことが書けるのにとか、違う考えなのにとか思ってしまいます。新にもう一度書き直したい気持ちです。でも、これらは記録として残しておきたいとおもいます。何年か先に見た時、また違った考え方をしているでしょう。

 哲学の授業で話した内容を、家族で話し合ったことがありました。それ以来、毎回の内容を家族の夕食の話題として話しています。社会について、学校について、教育について色々なことを話しました。母親は、授業参観で見る視点が変わったと言っていました(今までは、子供の様子しか見てなかった、授業の内容や先生に関して無関心だったようです)。

 ある時、祖母が「こういう授業を受けれて幸せだね」といっていました。私もそう思います。この授業を受けていなかったら、きっと自分の考え方に変化がでなかったと思います。このような授業を受けることができたことに、感謝しなくてはなりません。ちなみに、父親は「へりくつばかり言うようになって」と言っていました。

 私は哲学の授業は「考える」授業だと思います。「考える」ことは、とても難しいことです。でも、考えなくては何も始まりません。これから、いろいろな角度から物事を考えられる人になっていきたいと思います。

 最後になりましたが、「天タマ」やレポートの返信ありがとうございました。

     終わりに

 今まで哲学の授業を学んできて、最初は先生の印象のことで先生の話を聞き、これからの哲学に興味を持ちました。先生の考えはいつも根拠に基づいていて「なるほどな」と思うことばかりでした。

哲学の授業は私だけでなくみんなも興味深い教科だったと思います。それは受講態度でよくわかります。90分という時間がいつも早く過ぎてしまいました。先生の熱心な気持ちが伝わってきているからこそ、みんなもその気持ちを感じていたと思います。

 なかでも印象に残っているのは、「牧野先生は哲学の授業で勉強だけを教えている」ということについて考えたことです。初めはそのようには思わなかったけれど、ドイツの子供の生活についての話をきいて、地域との結び付きを知り、学校は勉強を教える所という考えがわかってきました。また、記名・無記名のアンケートについて考えたことも印象深いです。

 こんなにひとつひとつのことについて深くつっこんで考えたことは今までありませんでした。私には、根拠に基づいて考えたり、深く追求することが苦手だったと思います。「苦手」といえば、苦手と嫌いについても考えました。哲学の授業はこのように考えてみると印象深いものばかりです。

 これからもいろいろな授業を受けていきますが、哲学で学んだようにもっと追求していきたいと思います。

 先生、今まで毎回熱のこもった授業、レポートの丁寧なお返事、ありがとうございました。いつまでも忘れない授業になったと思います。お体に気をつけて、これからも頑張ってください。本当にありがとうございました。

      お別れの挨拶(牧野 紀之)

 最後に簡単にご挨拶をしたい。哲学の授業は普通、「哲学とは何か」という話から始まります。しかし、結局何のことだか結論ははっきりせず、たいてい、そのまま哲学史の授業になっていきます。私は「哲学とは何か」の説明から入りません。それは、そういう事より、現実の問題を考えることの方が大切だと思うからです。現に考えるべき問題があり、それを他の教科が取り上げていないならば、それを取り上げることが大切なのであって、それを考える事が哲学に属するか否かは大した問題ではないと思います。逆に、哲学の定義が出来たとしても、そこで扱われる事が大して重要な問題ではないならば、そういう「哲学」はやらなくても好いと思います。

 2年前、それでも一度は「哲学とは何か」の説明があってもよいのではないか、という意見がありました。そこで去年は最後に、宗教と哲学について考えました。しかし、やはり難しかったようです。

 今年は「本当の哲学の授業の内容にはどのような事が入るか」を考えてみようと思います。私の考えでは、それは3つです。第1に、現実の問題を考えること。第2に、本の読み方の練習をすること。本としては、日本語の本と外国語の本とがあると思います。哲学科の授業などは大体、外国語の本を読んでいるのですが、読み方の練習にすらなっていなくて、読んで訳すという、語学の授業としても最低の授業になっています。第3に、文章の書き方の練習をすること、あるいは発表の仕方とか、討論の仕方の練習も含まれます。ディベートなどはこれに入ります。

 私もこの学校での最初の年には、少しまとまった文章を読んだり、文章の書き方の練習をしたりしましたが、今年はほとんど第1点の「現実の問題を考える」ことに絞りました。この学校での哲学の授業の置かれている条件を考えると、これで好いと思っています。

 では本校では公式には、哲学の授業の目的としてどういう事が言われているかと言いますと、それは「いのちの大切さを教える」とかいった事になっているようです。それは看護学校ですから、ある程度当然の事です。又、この「いのちの大切さを教える」ということは、特に最近、中学生による殺人事件などがあるとよく聞かれる言葉です。しかし、ああいう事件の後、それでは「いのちの大切さを教えなければならない」ということで、実際にはどういう事が行われているのでしょうか? それは効果が上がっているのでしょうか? 私の推測では、先生が何かの話をするといった事が行われているのだと思います。そして、効果は上がっていないと思います。だからこそ、いつまで経ってもいじめも殺人事件もなくならないどころか、増えているのです。

 では、「いのちを大切にする」とは、本当はどういう事なのでしょうか。いのちというのは人生の事であり、生活の事です。ですから、それは「人生を大切にする」ということです。大切にするといっても、人間は永遠に生きるわけではありません。ですから、いのちを大切にするというのは、生きている間の時間を充実させるという事以外ではありえないと思います。80年で死ぬとしましょう。すると、「いのちを大切にする」ということは、実際には、「この80の人生を充実して生きる」ということになると思います。

 では、更に、「この80年の人生を充実して生きる」とはどういうことでしょうか。それは1年1年を大切にすることであり、1日1日を大切にするということになります。私と皆さんとが関係する時間を考えてみますと、それは結局、「この90分15回という授業時間を充実させる」ということになります。ですから、「いのちの大切さを教えなければならない」と言って、校長が何かの話をしたりすることは本筋ではないのでして、そんな話をしても、授業が充実していなかったら、意味がないと思います。逆に、授業が充実していれば、その外に何かの説教をする必要はないと思うのです。

 では、授業を充実させるというのはどういうことでしょうか。それはその授業を通じて認識が広がり、深まるということであり、同時にこうして集団で授業をしているのですから、お互いの心の交流が深まるということだと思います。従って、この授業で「いのちの大切さを教えているか」を判断するには、この授業を通じて認識がどれだけ広がったか、深まったか、お互いの心の交流がどれだけできたか、ということになるわけです。
 その観点から反省する時、私としては、個人的に言葉を交わした人がとても少ないということを残念に思っています。レポートでは沢山話し合っているのですが、こうして顔を合わせているのですから、二言三言でもいいから、一度は言葉を交わしたいと思っているのですが、なかなかうまくできません。

 まあ、そういうことで、先の哲学の授業内容からみても、又言葉を交わした生徒が少ないといった欠点はあるのですが、全体としては、やはりかなり充実した時間を過ごすことができたと思います。レポートと感想のやりとりを中心として、又全員のための広場とし
ての教科通信で、心の交流は今までよりずっと広がり深まったと思います。皆さんのレポートも回を追うごとに充実してきて、「天タマ」にどれを載せようかと迷いました。

 皆さんにお会いできて、嬉しかったです。後1年、どうぞ実習をがんばって、立派な看護婦さんになって下さい。



「天タマ」第14号

2018年12月08日 | カ行
「天タマ」第14号(1999年01月08日発行)

             浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 この授業では一昨年から、講師が企画するアンケート「より良い授業のために」のほかに、学生が企画・実行するアンケート(授業評価)をしています。これを「学生版アンケート」と言います。今年は、授業が2ヵ月半で終わるため、2クラスとも、アンケートは1回にしたようです。その結果を発表します。

    1組のアンケート結果

1、授業について
 01, 講義は生徒と共に進めていたか         3,3
 02, 授業内容に興味が持てたか           3,5
 03, 授業の進行の速さは適当だったか        3,3
 04, 授業により考えの視野が広がったか       4,1
 05, 授業は分かりやすいか             3,4
 06, 先生は授業に対して熱心か           4,7
 07, 授業は工夫されているか            3,9
 08, 望ましい態度で授業を受けられたか       3,9
 09, 意欲的に取り組めたか             3,6
 10, 授業内容は自分に役立てることができたか    3,6
 11, 授業は面白かったか              3,7

2、カンファレンスについて
 01, カンファレンスは自分の意見を述べることができたか 4,3
02, カンファレンスは積極的に参加できたか     4,2
 03, カンファレンスは有意義だったか        4,0
 04, グループで十分話し合うことができたか     3,9
 05, カンファレンスではんろんな人の意見が聞けたか 4,3

3、休憩について
 01, 休憩は充実していたか             4,6
 02, 休憩時間は楽しめたか             4,6


4、レポートについて
 01, レポートのテーマは興味深いものであったか   3,4
 02, テーマに沿ったレポートを作成できたか     3,0
 03, レポートに意欲的に取り組むことができたか   3,4
 04, は自分の意見を十分に書くことができたか    3,3
 05, は自分にとってプラスになるものであったか   3,6

5、「天タマ」について
 01, 「天タマ」は楽しむことができたか       4,2
 02, 「天タマ」に興味があるか           4,1
 03, 「天タマ」を読んで自分の考えを深められたか  4,1

    2組のアンケート結果

 授業は楽しかったか                3,6
 授業中の時間配分は適当であったか         3,9
 先生の言いたいことが理解できたか         3,3
 先生の話し方は適当だったか            2,8
 カンファレンスでは自分の意見が出し合えたか    3,8
 レポートは8割がた自分の意見が書けたか      3,5
 レポートの返事が自分の学習により生かせたか    3,28
 「天タマ」が自分のプラスになったか        4,0
 先生の意見に共感できたか             3,46
 先生の意見を聞くことで自分の考えを深められたか  4,6
 哲学の時間を通して自分で考えるという事ができたか 3,9
 哲学の時間に何か一つでも得るものがあったか    3,9
 授業中に考えたことを生活で生かせたか       2,87
 哲学とは〔何か〕理解できたか           2,68
 自分の視野は広がったか              3,7
 授業は充実していたか               3,8
 休憩の時間は楽しかったか             4,4

     学生版アンケートを見て

 (1) 両クラス共、「授業が楽しかった」の項より、「休憩が楽しかった」の項の方が高い数字になっています。これは本当に笑える事実ですが、「楽しい」という言葉には授業の知的楽しさより、休憩の感情的な楽しさの方がぴったりするということではないでしょうか。いずれにせよ、休憩のある授業というのは珍しいですが、それが好評なのはよいことと考えるべきでしょう。

(2) 低い数字の出たのは講師の話し方(早口すぎる)ですが、これは授業中にも説明した通りで、1時間半の中に、レポート執筆(30分)、休憩(10~15分)、カンファレンス(15分)を前提すると、講師の話す時間は30分しか残らなくなるという、どうしようもない事実があるのです。

 では1コマ1時間半というのは決まっているのでしょうか。いいえ。大学設置基準では、大学の1コマは「休み時間を入れて2時間」と定められています。それをほとんどの大学では1時間半の授業と10分の休み時間にしているのです(東大の本郷とかの極めて少数の所だけが授業1時間50分、休み10分、合計2時間にしています)。

 そして、この市看でも2年前からそれに合わせて、授業時間を1時間40分から1時間半に減らしたのです。つまり改悪したのです。私の理想は授業時間1時間45分、休み時間15分です。しかし、それを言っても仕方ないので、やはり今後は30分で話せるように内容を絞るべきだと思います。

(3) 進行速度が適当、時間配分も適当という評価は一安心です。私の欠点として、沢山の事を押し込みすぎること、時に先を急いでしまうことがあると思っています。そこで、今年はこの欠点を克服しようと思い、出てきた問題は全部丁寧に扱うという方針でやってきました。その結果、ディベートを入れる機会をついに見いだせないということにもなったのですが、ともかく「消化不良」ということにはならなかったと思います。

(4) 授業の成果を生活で生かせたかという項があり、低い数字が出ています。しかし、これは設問が無理だったと思います。つまり、哲学で学んだ事を生活に生かすのは社会人になり、家庭をもってからだと思うからです。その意味で、出来れば、5年後、10年後に、アンケートをとるとか、レポートを書いてもらえると面白いと思います。その気のある人は、自分で5年後にレポートを書いて下さい。今回も、既に看護婦などをしている先輩にこの「天タマ」を読んだ感想を書いてもらう予定ですが、それはそのような問題意識をもって読むこともできると思います。

(5) 今年は両クラス共、自由記述の項を設けなかったようですが、不適切な回答が出た場合の処理の面倒を予め避けたのだと思います。確かにそこまで責任を負うのは大変な事です。しかし、回答にルール違反がないかを全員で確かめる大変さを背負いつつ、自由記述に挑戦する気概が欲しかったと思います。逃げていては成長しないと思うからです。

       無記名のアンケート

 昨年作った「無記名のアンケート」を、今年もしてみました。短時間でやったせいか、何か雑に○をつけているという印象を持ちました。そこで、次の時間に4項目を選んで、考え直してもらいました。評価する場合は、評価対象について事実認定し、それを何らかの基準にあてはめて評価するわけです。自分は対象(この場合はこの哲学の授業)をどう判断し、どういう基準で評価するのか、その根拠を書いて、やり直してもらいました。評価できない場合は○を付けなくてもよいと念を押しました。

 統計は、重ねた用紙の中程から12枚抜き出して集計し、最高点と最低点を除いて、10枚の平均を取りました。

   結果              最初      反省後
                  1組 2組  1組 2組
・自分の学科(専門)が好きで、
 よく研究している          4,5  4,5  4,5  4,5
・授業自身が楽しい          3,6  3,8  3,8  4,4
・講師は一人一人の生徒を理解し
 ようと努力している          -  -    3,9  4,5
・この授業に参加してよかった     4,2  4,0   4,4  4,3

 (第1項目については白紙が1組で4枚、2組で6枚もありました。これは判断出来ないということでしょう。第4項目も白紙が少しありました。これは時間が足りなかったのでしょう)

 ○を付けるだけのアンケートについては、「天タマ」第9号にAさんの詳しい反省を載せました。又、他の授業でのアンケートについては第13号に感想が載っています。私もこ数年、いろいろなアンケートを試みてみて、考える所があります。結局は、やはり生徒と教師の間に日頃からどの程度の信頼関係があるかが根本で、その上にたって十分に準備してアンケートを実施してこそ所期の目的が達せられると思います。

 この「最初」と「反省後」を比較すると、後者の方が高い数字になっています。では、いつでもこうなるのでしょうか。そうではないと思います。いわゆる悪い授業の場合だったら、逆に、「反省後」の方が低い数字になるのではないかと、推察しました。つまり、大雑把に○をつける時は、良い授業の場合でも悪い授業の場合でも、当たり障りのない点数になりがちだということではないでしょうか。

     エ コ ー

──私は看護婦として、 気になるテーマに対し自分の考えを述べてみたい。
 第2号のテーマより。『患者が「あなたじゃ心配だから、他の看護婦に代わって」と、新人看講婦を断わった』について。

 私は看護婦2年目である。未だに行っていないこともあるし、初めて行うようなことも、多々ある。しかし、常に思うことがある。患者は治療をしに来ているのである。看護して貰う人により、治療、看護を十分に受けることかできない、ということは決してあってはならない。つまり、1年目、2年目が行うため十分な看護が出来ない、と甘えは言えないと考える。1年目、2年目でも、患者にとっては同じ看護婦なのである。プロとして、 ただ、 今患者の必要としている最良の看護を提供したい。そのため、 私は日々学習し、自分は責任の持てる仕事をしているつもりである。自信のない仕事はしない。自分が学習するか、もしくは、 人に尋ね、 行えると思う仕事しかしない。この、実際の場面は分からないが、自分の出来るという自信が新人看護婦には甘く、患者に伝わってしまったのかもしれない。

 私は、 学生の時も同様であった。医療行為以外、患者にはこんな行為をしたいとプランをたて、報告し、自信のあることは自分で行っていた。少しでも不安な事や、自信のない行為に対しては、どんなに看護婦が忙しそうにしていても、一緒に行ってもらえるよう依頼した。それは、自分のためではなく、患者のためなのである。そこで患者に嫌味を言われたとしても、それは患者にとって必要な行為であり、動機をもっていれば怖くはなかった。間違っていないという自信もあれば、自分はこう思っているからこの看護をしたいと自分の意思をはっきり伝えた。きっとかわいくない学生だったであろう。しかし、患者のためであり、今考えると自分自身の看護を高めることにもつながっていたと思う。自分が学習し、しっかりとしたプランをもっていれば恥じることはないのである。みなさんも、そうである。学生なんだからと言う甘い気持ちはもたず、 私も医療者の一員であるという、責任と誇りを持てるような心構えで、勉強していって欲しい。看護婦は全て正しいのでは決してない。自分の看護に自信を持って、 頑張っていって欲しい。

 また、 私は患者側から考えてみた。患者はお金を払って医療を受けに来ているため、 患者側には選ぶ権利はある。しかし、今の医療では、まだ患者側が弱者という傾向がある。患者が不満を持っていても口にだせないということがその一つと言えるであろう。しかし、この事例の患者は自分の心配という気持ちを訴えることができたのだから、良かったのではないか。そこで、 言われたことに腹を立てたり、ショックを受けるのではなく、その後の自分の対応が一番大功だと思う。もしそこで自信があれば、「心配ないですよ」と伝え、まだ不安のようであれば、 他の看護婦と代わって貰えばよい。自信がなければ、もちろん代わって貰う。そして、 なぜ患者にそう思わせてしまったのたのか考え、 二度とそんなことが起こらないよう対処することのほうが重要である、と私は考える。

 私は、現在看護婦である。しかし、学生という道も歩いてきている。誰でもそうである。いずれは同じ職場で働いていく同僚なのである。看護婦、学生と隔たりをつけるのではなく、一緒にその患者のことを思う医療の一員として看護していけたらいいと思う。(先輩の感想)

──「天タマ」通信、興味深く読みました。哲学の授業は新カリキュラムなのでしょうか。私の学年は哲学の授業はありませんでした。とても学生に人気のある授業みたいですね。私も受けてみたいなあって思いました。通信を読んで、以前無記名のアンケートがあった時のことを思い出しました。教員に対しての意見を書いたら、私の筆跡に特徴があったらしく、あとで教員に呼び出されて、いろいろ言われたのですが、まあその時は教師・学生の関係は上下関係なんだなとつくづく思い知らされましたけど。(インターネットのHPへの書き込み)

 ★ 生徒がアンケートで学校や教師を批判したことについて、本人を呼び出して文句を言ったり、朝礼で皆の前で、注意をしたりという例が結構、あるようです。逆に、アンケートに感情的な事を書く生徒もいます。アンケートは取りさえすれば好いというものではないと思います。

 (1) アンケートの目的は何か。(2) その目的を達するには教師と生徒はそれぞれどういう事に気をつけなければならないか。(3) アンケートを教師ないし生徒がその目的に反して利用する行為を防ぐにはどうしたらよいか。(4) アンケートを学校(組織)内部のコミュニケーションのためのそれ以外の方法とどう結び付けるか、といったことを考え合う授業が必要だと思います。

──「天タマ」の感想
 私目身も医療関係の学校に3年間通った経験があり、「天タマ」を読んでいるととてもなつかしい感じがしました。人間生活のあらゆる場面で、感情的にならずに論理的に物事を考えるということは、非常に重要なことだと思います。

 (1) まず自分の問題としてどうするべきかを考える。
 (2) 問題の核心は何かを考える。
 (3) 自分の問題をはなれ、広い視野にたって考えてみる。

ということを日常生活でこころがけてみるだけでも、自分自身の生活の質をかなり向上させることができると感じました。このことを怠ったために、誤った判断をしてしまったと反省することも多い毎日です。

 この哲学の授業のように、個人で考えたことをさらに集団で話し合えるならば自分の考えを一層深めることができるでしょう。が、残念ながら、このような話し合いのできる人間関係を築いている社会人は、たいへん少ないのではないかと思います。(インターネットへの書き込み)

──牧野宛の手紙から
 教科通信『天タマ』2~4号拝受し拝読しました。どうも有り難うございました。小中学校で熱心な先生が出しておられる学級通信、学級新聞は知っていましたが、高等教育の場で「教科通信」として出ているのは知りませんでした。「大好評」とのことですが如何にもと思いました。

 (1) 具体的な、個人の問題に適切なアドバイスをしながら、同時に、一般的な場や普遍的な理論に結び付ける、(2) 講義についての学生の意見や感想を知ってつぎの講義のときに再びとりあげたり補足をしたりする、なによりも、(3) 牧野先生のことを(考え方や思想それに性格までも)学生たちはよく知ることができる、もちろん、(4) クラスメイトの考えや経験がわかり、参考になる、といったことが「好評」の要因ということでしょうか。

 それにしても、患者は看護婦さんにいろいろ言うのですね。私は幸か不幸か入院したことがありません。病気になればお医者さんまかせ、看護婦さんまかせで、俎板の鯉のようにしているものと思っていましたが、そうはいかないものと見えます。病院(医者)、患者、看護婦、実習生の間で、不満や問題やトラブルが発生する。第2号の2頁の二つの「感想」のとおりと思います。人と民主主義とリーダーの問題ですね。「先生にいいつけてやる」という科白が無力無効の時代では、学校カウンセラーの存在は必要ですね。ただ学校カウンセラーが、保健室や保健婦さんのようなあり方になるかどうか( ── そこでたむろし、ときに叱りとばされたりする)。

 実は私は、教育学を講じて30年になるものです。「話し言葉と書き言葉と、あらゆる手段を使って対話を促し深めていく、それが哲学であり、教師であると思います」との言葉のとおりに実践しておられることに深甚の敬意を表します。教育、教師についての私の考えと重なります。私もある科目の講義の時間を30分ばかりのこして、講義を聞いている間に考えたことなどを、学生に書かせています。その何枚かをコピーしてくばりコメントしたり、ただ読み上げてコメントしたり、はしています。しかし貴氏のようにはしていません。いろいろな考えがあり、いろいろな書き方があるということを知らせているだけです。

 以上『天タマ』を拝読しての寸感です。ところで『天タマ』って、どういう意味ですか。いろいろ憶測したのですが思い当たりません。 

★ 看護婦=白衣の天使。看護学生=そのたまご。しかし既に「天使のたまご」という題のマンガがありますので、「天タマ」としました。


「天タマ」第13号

2018年12月06日 | カ行
「天タマ」第13号(1998年12月14日発行)

        浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

   (その1)

 11日はレポートの最後の日となりました。2回分のテーマをみな、黒板に書くとよかったのですが、それをしなかったので、例えば学校カウンセラーについて、又1組では7日に読んだ「恋の歌」について書く人が少なかったです。

 講師の考え方についての印象をまとめてもらうことが中心でした。やはり哲学の授業では、講師の考え方と対決するということが一番大切な事だと考えたからです。「考え」と「考え方」とを混同した人もいたようですが、皆さんしっかり考えていたと思います。授
業全体のまとめになったようですので、沢山の人の意見を収録したいと思います。

      講師の考え方について

──先生の考え方は、1つの文があったとしたら、その文を2通りで考えている。私は文を深く考える方ではないので、1つ文があったら、読んでいる時に理解した意味で考えている。しかし、この授業で先生の話を聞いていて、1つの文にも2通り、又は3通りとい
ういろいろな考え方ができることを知った。そして、確かに1つの文を1つの意味だけで考えてしまうのはどうかな?と思うようになった。そのため、最近は、この文はこうも考えられると、自分の中で1つの文を2通りで考えるようになった。

──無職氏の投書についても、私は「この先生はいい人だな」とか、表面的なことしか考えられなかったが、牧野先生は無職氏の考え方の間違いを指摘している。さらに、どこがどう違うかをきちんと筋道立てて考えていてすごいなと思う。

──無職氏の投書の件でも、「指導歴がある」というのは、前の学校の教師の判断で、間違っているかもしれない、「指導」したのだからその後改善されているかもしれないということ。あの投書を見た時、そこまで考えはしませんでした。牧野先生はすごく深い所ま
で考えて意見を言うなと、思います。

──初めてのレポートで私は「授業の進行の説明や、成績のつけ方など、しっかり説明してくれるし、生徒の意見も聞いていくなんて、いい先生」ということを書き、「天タマ」に載り、問題としてあげられていた。そのレポートは哲学で初めてのレポートで、私なり
にいろいろ考えをめぐらせて書いたつもりだったが、先生の感想は一歩奥まで入り込んだ感想だった。

 「先生の意見は自分の考えを押しつけているだけ」という生徒もいるようだが、先生本人としては「押しつけているのではなく、あくまで参考に」と言っている。実際、私にとって本当に参考になっていたと思う。

──牧野先生の考え方は常に現実に基づいて構成されているので、筋道が通っていて、分かりやすいと思う。小・中学校の先生、一部の高校の先生等の物事の善悪の判断についての考え方には、筋道の通っていないことが多く、結局納得のいかないことが多かった。牧
野先生とどこが違うかと言えば、小・中学校、一部の高校の先生の考え方は、「学生とはこうあるべきだ」という彼らの信念のもとに私達を当てはめようとしていることだと思う。

 どうして「学生はこうあるべき」でないとだめなのかについての根拠がない。少し疑問を問い掛けてみれば、一般常識という言葉だけで片づけられてしまった。生徒の意見に耳を傾けようとしてくれない。哲学とは、物事を筋道を立てて考えることと先生は教えてく
ださいましたが、牧野先生の考え方は本当に細かく細かく筋道が立っていると感じています。

──授業が始まった頃は、自分の考えだけが正しくて、他人の意見に耳を貸さない人だなあ、というように思っていた。正直言うと、最初の2・3回目くらいは哲学の授業が苦痛だった。その初めの印象が、先生の話を聞く時に邪魔をしてしまい、全て、賛成できずに
いた。そのお蔭で、先生とは話が合わないのだろうかという思いも出てきました。

 しかし、この間の、教師の仕事・役割は何であるかの事例について、先生が話している時、初めて先生の考え方が自分の中で納得のいくものとなった。今までの自分自身がどうしても或る一方向の考え方しか持っていなかったという気づきにもなった。先生が人の意
見、他の見方をしないのではなく、自分が偏見にとらわれて、いろいろな角度から物事を推測できていなかったということを知ることができた。そういう意味でもこの気づきは自分の中で良いものとなった。

──哲学という授業のイメージとのギャップから始まったこの講義は、いつも新鮮な気持ちで受けられた。この授業をただ「哲学」という名前のもとに終ってしまうのはもったいないような感じがする。もっとふさわしいネーミングがあるのでは~。

──哲学の授業を通して先生の考え方をたくさん学びました。それまで当たり前のように流してきた会話の1つ1つに注目することで、どれだけその言葉が理に合っていないかなどを知りました。私たちはよく「普通~だよね」とか、「みんな~って思ってる」などと
いう言葉を使い、知らず知らず他人をまきこんで会話を成立させている。自分一人が違う意見を持つのが怖くてそうなっていると思う。なぜ皆と一緒でなければ不安になるかといえば、それは自分自身の考えに自信がないからだと思う。~

 牧野先生は、自分の意見を根拠に基づいて持っていて、何度も感心させられました。今回の professorは「教授」(教え授ける人)ではないという話はとても興味深かったです。生徒は聞く義務はあっても、必ずしもそれに賛成する必要はない。私は、これが哲学な
んだなあと思いました。授業を聞いて、自分と意見が合わない→つまらない。これまでは私はこうでした。しかし、意見が合わない→自分の意見はこうである→それはこういう根拠に基づいていると、そこから自分を発展させていけることを知り、とても感動しました。

 ★ professor =前に運ぶ人=自分の考えを明確に述べる人

──授業以外にみんなのレポートを読み、まとめ、感想を一人一人に書くこと、熱の入った授業がきっと今の私を変えたところもあります。授業前に「天タマ」を読む。休み時間に授業の準備をするのは哲学の授業だけのような気がします。

──「天タマ」やコメントを下さる様子からは、牧野先生は「言語というものにとても誠実な人」という印象を持っています。私はこんなに言語(コミュニケーション)というものに真剣に取り組んでいる人は少ないのでは、と思います。

──先生は大学教授は勉強が足りないとおっしゃっていましたが、現在大学生である友人やS大生に授業はどうなのか、教授との関連はどうなっているのか聞いてみました。すると、「ただ一人でしゃべっているだけで、さっぱり意味が分からない」とか、「私はこう
思うとか、こう考えたなどと言う教授は1年に1人会えれば良い方だ」という返事でした。

 私は、大学ってもったいないことをしている、どうしてそうなってしまうの?と思いました。市看の先生はよく勉強していると思います。私たちと一緒に考え私達の何倍も勉強しています。「私はこう思う」とはっきり言う先生も多いと思います。

──私は先生の授業を聞いて、「考え方」と「考え」というのは微妙ではあるが、異なるものだと感じた。「考え」というのは、人それぞれのものを持っているので、異なるのは当たり前だし、また同じになることもある。~でも先生の「考え方」というのは持ってい
る人が少ないように感じる。

 先生の「考え方」というのは、自分の意見を押しつけるのではなく、いつも「こういう根拠のもとにこう考える」という、考えに対する自分の導き方を話していた。冷静かつ豊富な知識・経験のもとに導いてきていると思う。「考え」を教えるのではなく「考え方」
を教える。この2つは同じだと言う人もいるかもしれないが、私はこう思ってしまったのである。

──最近の私は、先生が問題提起の前提として話すことを聞きながら、ん?今日はどこがおかしいのかな?と、私なりにここはちょっとほっておけない問題だぞぉ、というのを探しながら聞いている。先生と一致している箇所はあった時も1回や2回くらいあったと思
う。だが先生と自分の視点は違っていて、自分の中でもある程度「ここが問題だ」と理論的に考えてみるのだけれど、結局先生の話を聞いて「あっ、そうか」と納得してしまう。というのも、私が理論的に考えたことはまだまだ中途半端であって、だからどうするべき
かという具体的な内容、解決まで達していないことが多いからである。

──まさしく professor=自分の考えを前に出す人であると思う。自分の考えを言わずして何が教師か、という考えに賛成です。この20年間に私はこのような「教師」に出会ってきただろうか。いや、きっと初めてだと思う。初めてだから最初は戸惑ったりもした。し
かし、今ではすっかり慣れてしまったし、牧野先生の言葉はストンと胸に落ちてくる感じだ。「哲学は筋道をつけて考える」ことである。物事に筋道をつけて考えるというのは実に「面白い」ことだと思ってしまうのは不謹慎だろうか。

 授業前は一般論みたいな教科書に載っているようなことを学ぶことが「哲学」であると考えていたが、実際に私達の生活している回りにも「哲学」が生きていることを知るのと同時に、ずんぶん世の中には「間違っていること」が当たり前のようにまかり通っている
な、という印象を受けた。「正しい」ことは「正しい」と言える、そんな哲学の授業は大変興味深く、刺激を受けた。同時に自分の考えを持つ(持ちつづける)ことの難しさも感じた。自分の考えを他人に理解してもらい、受け入れられるのは何と大変なことだろうか
。私にはまだまだ努力と経験が必要なようである。

 牧野先生に出会ったことで、自分は今まで何と片寄った視点からしか物事を見られなかったのだろうと気づかされると同時に、うまくは言えないが、目の前が切り開かれたような、今までごちゃごちゃしていた物事がスッと片づいていくような、そんな感じを受けた。「筋道を立てて考える、相手のことを考えて発言する」ことを心に留めておきたいと思った。

      ドイツの子どもの生活

──はっきり言ってうらやましいです。学校は1時で終わり、部活などもなく、真っ直ぐ家に帰ることができるなんて。やっぱり日本は勉強ばかりやりすぎだと思う。小学生でも部活をやったり、塾へ行ったりと、家にいる時間がドイツに比べて少ない。だから、家族
がバラバラになったり、家族の会話が少なかったりするのではないかと思う。

 小学校は10歳まででもう進路を決めることができるなんて、考えられないことだと思った。もうそんな小さい時から選択できるなんて、自立が早いなと思う。又、家庭を基本として、あったかい感じがするし、18歳をすぎたら大人ということで、一切指図されないな
んて、信用されてるんだなと思う。親と子のきずなが強いんだなと思う。そう思うと、日本は教育がだめだったのかなという感じがする。受験戦争なんて親のエゴなのかもしれないと思う。

──〔幼稚園が〕環境の好い所にあるということは魅力的な事だとうらやましく思えた。私は焼津なので、ほどよく緑もあって自然にふれて育った。小さい頃に自然にふれることはとても大切だと思います。~部活は学校の仕事ではないということも印象に残りました
。私は中高と運動部で、休みもなく一番遅くまで残って部活をしてきました。やっている時は本当に辛かったけれど、今となっては良い思い出です。

        学校と教師の仕事

──例えばこの学校の先生は私たちに看護を教えて下さるわけで、みな看護婦です。その道の経験者で、専門職です。それではここで先生の仕事は終わりかというと、そうではないと思います。みんな、少々学校がきつくて嫌になった時、その他、悩みがある時、さり
げなく聞いてくれる先生が数多くいると思います。

 この学校は年2回ほど、担任の先生との面接があります。本当に先生の仕事が看護を教えることだけだったら、個人のプライベートにまで関わる必要はないわけです。そのような悩み相談は先生のプライベートの時間が削られて行われるのではなく、学校の勤務内で
行われているのですから、教員として対処してくれているので、仕事として行ってくれているのだと思います。先生の仕事は教えることだけとは限らないと感じます。

──神戸小学生連続殺傷事件のことで、先生は事件の前の暴力事件の時、警察に引き渡すべきだったと言いましたが、それはどうかと思う。まだ未成年であり、責任能力もなく、すごい負担になると思う。世間体に関する事、重荷を一生背負っていくこと等、無理では
? だから、その時に違った方法で(カウンセラーなど)原因や次の行動を予防すればいいと思う。

 神戸事件は結果的に最悪なことになったが、暴力事件の時の担任はもっとその子に注意を向け、必要な対処法を見つけるべきだった。「学校に来なくていい」は、他の生徒への〔同じ〕被害〔の発生〕を防ぐためであったろうが、それでも家を訪ねてみたりする等、
少年に関心を持つべきだったのでは?

 ★(質問) あなたの考えではどういう場合なら警察に引き渡すのも仕方ないということになるのでしょうか? 鑑別所や少年院などは原理的にあってはならないということでしょうか? あっても良いとするなら、どういう人のためにあるのでしょうか。犯罪を犯
したなら、少年院等に入らなくても、重荷を一生背負う(償いの人生を生きる)のは、当然ではないでしょうか? そこまで考えてみて下さい。

「天タマ」第13号の2     (その1から続く)

         教師の実力

──先生の実力は誰が一番よく分かるのだろうか? 生徒なのか、同じ教師なのか。高校生くらいになれば、この先生はよく勉強しいてるなとか、教える意欲があるなとか、教え方が上手だなというのが分かってくる。学校の先生が勉強を教えるというけれど、学校の
先生より塾の先生の方がよっぽど教え方が上手いし、分かりやすく工夫されているし、分かるまで教えてくれる。私は、学校の先生に教えてもらったというより、中・高と、塾の先生に教えてもらったことの方が印象的だし、覚えている。

 教師も塾の先生も同じ勉強を教えるという仕事なのに、こうも違うのは何故だろう? それは、塾の先生には、自分の専門教科を学習する時間があるし、塾によっては生徒による評価もある。学校の先生は公務員であったり、教師という組織の中で守られている。実
力主義ではない。塾は実力主義である。この違いも大きいと思う。もっと教師は自分の専門性を理解し、自分の仕事をしてほしい。組織に甘んじてはいけないと思う。

        学校カウンセラー

──先週の学校カウンセラーのVTRを見てカウンセラーの存在の大きさを知った。私は不登校の経験はないが、ちょっと悩み事のある時はいつも保健室に友達と行ったのを覚えている。進路のこととか、特に私が看護学校を受験しようと決めた高校3年の夏以降は、
けっこう聞きに行った。誰かに自分のことを聞いてもらう、誰かに自分の意見を受け止め、共感してもらうということは、すごく心強いことがということを感じた。

          親に感謝

──最近、私の両親の子育て、私が受けてきた社会での教育(学校)を振り返り、私の両親がこの両親でラッキーだったと思う。愛情等はもちろんだが、それは別として、しつけに限らず、教養をつけてくれたと思う。私の中では出来上がってないものの、感性や性格
、教養など、本当にお金では買えないものを与えられた。今のところ自分を好きでいられる自分があり、感謝している。

       俵万智と読む恋の歌

──俵万智と読む恋の歌は心あたたまるものでした。そして、すごくその場の雰囲気が伝わってきます。そして、自分も「ある、ある」と、うなづいてしまうものでした。ただの男友達だったのに、ふとした時に2人になってしまい、ドキッとしてしまったことなど、
思い出しました。やっぱり2人ともギクシャクしてしまい、思い出しても笑ってしまうような行動をとってしまいました。これも青春の1ページなんだと思いました。あの時、もっと女らしくしていたら~と後悔することもあったけど、彼とは今でもいい友達です。

──私は銀色夏生さんの詩がけっこう好きです。こんど本を全部集めようかと思っています。心にジーンときたり、妙に納得してしまう詩ばかりです。

         ピカソの絵

 これは極端に二つの意見に別れるようです。

──私はピカソの絵のどこがいいのか分からない。それは価値観の違いだと思う。お金持ちの人がピカソの絵を売ってくれると言っても、お金を出してまで欲しいと思わないし、タダでくれるといっても迷うかも~。目の左右上下がバラバラで,鼻がどっか向いてて、
顔が青くて~などという絵はスバラシイのか? 発想は豊かだと思うけれど。芸術とは難しい。

──ピカソは、不思議な絵しか見たことがなかったので、小さい頃の絵を見てびっくりした。笑っている顔や、楽しそうな絵は1枚もなかった。どんな気持ちでかいたのだろう。どんな人だったのだろう。もっと知りたくなった。

──私はピカソの不思議な絵になんとなくひかれます。画家になった頃の絵は、自分の目に写ったそのままを描いていたような気がするけれど、不思議な絵は違います。不思議な絵には、絵の中に出てくるものの訴え、雰囲気など様々なものが読み取れるし、またピカ
ソ自身の感情も読み取れるような気がします。いつも何か考えさせられるような感じだけど、あの絵にはピカソの人間全部が出ているような感じがします。

──先月、名古屋市美術館にピカソ展を見に行った時のことを思い出しました。それまでの私のピカソに対するイメージは、理解できないようなキバツな絵を描く人といった感じだった。そのピカソ展では、ピカソの絵が時代にそって飾られており、その時代のピカソ
がどんな感じだったのかなどの説明もついていて、今まで理解できなかった絵も、なんとなくその思いを感じることができた。ピカソ展では「青の時代」というシリーズにとても心がひかれた。VTRにも出てきた「自画像」も青の時代の内の1枚だ。あのなんとも言
えないような青い色が今でも心に残っている。 ……

 ★(絵画のシロウトとしての講師の感想)

 人間は対象を自分の主観を通して受け取ります。印象派の絵でも同じことだと思います。ただピカソなどではその「主観」が必ずしも分かりやすいものではないだけではないでしょうか。対象に対する理解と愛情をどうしてもこのようなデフォルメ(変形)や色によってしか捉えられず、表現できないその画家の心の必然性に、鑑賞者がどこまで共感できるかの問題ではないでしょうか。

 ピカソの大作「ゲルニカ」を見たことがありますか。スペイン内戦の時、ファシスト・フランコの軍がゲルニカという町を無差別爆撃しました。爆撃された民衆の阿鼻叫喚(あびきょうかん)を描いています。民衆に対する愛情とファシストに対する怒りがひしひし
と伝わってくる名画です。

       アンケート

──この前、他の授業でアンケートを書く機会がありました。6段階評価だったので、何を基準にしてよいのか分かりませんでした。ここで哲学の授業のことを思い出しました。しかし、結局自分の中で勝手に基準を決めて評価しました。みんな、どうやってつけてい
るのか気になりました。

 ★ 私も色々なアンケートをしてみて、アンケートを取りさえすれば好いという考えは間違いだと分かりました。授業を良くしたいという意思が教師と生徒に共有され確認されていて、或る程度以上の信頼関係が必要だと思います。教師は返事をすること、それによ
って生徒は「これが授業の改善に役立つ」と知っていること、こういった前提が必要だと思います。しかし、哲学の無記名のアンケートでも全ての項目に「3」を付けた人もいます。人間というのはなかなか難しいものです。

          哲学の授業

──前回のレポートの感想に「あなたのレポートの雰囲気が以前より落ちついてきたと思います」と書いてありました。それをみてちょっと驚きました。私はレポートが苦手で、このレポートを書くのもいつも必死で書いていました。考えがなかなかまとまらず、あせ
ってしまうのです。何度も書いて慣れてきたのでしょうか。もっとレポートがうまく書けるようになりたいです。

 ★ そのテーマについて思い出すままに箇条書きにする。全部書き出してから、どう書こうかと考えて書きはじめる。これを実行するだけでも随分上達します。

──哲学は、今までの授業とは違った感覚があり、楽しかった。これを続けていけば知的な人になれる気がする。人間は、広い範囲の知識があると、頭がよく思える、私は。はじめは牧野先生とはどれほどの人物かと思ったけど、結構笑顔のすてきな良い人でよかった。あまり気合を入れすぎないようにして下さい。

──私はこの授業を受けて、自分の社会への関心のなさに気づかされ、とても恥ずかしく思った。今後はもっと自分の身の回りからまた日本や世界まで、深く考えられるような知識を身につけていきたいと思う。

──今日でレポートも終わりということで、少し淋しい気がします。90分という時間がそれほど長くないと感じられていたのは、その時間、自分がいかに集中できていたかの表れだったと思います。私でも集中できるのだということが分かり、それにはやはり授業の内
容というものが大きく関係しているということを実感できました。このような授業に出会えて、本当によかったと思います。哲学というものがどういうものであるのか、分かってきた気がします。これからも、筋道を立てて考えるということができるようになるために、いろいろなことを考え続けていきたいと思います。

            

──12月になって寒くなってくると恋しいのは鍋。今、私の家族の中で人気なのがキムチ鍋。骨つきの鶏肉を水から入れて、アクを取るのは大変ですが、後は切ったごぼうやきのこ類、しらたき、そしてキムチなどを入れて、だしの素で味をととのえれば出来上がり。
これは簡単で私でも作れるので、私がキムチ鍋の係みたいになっています。体もあたたまって最高です。

──今年、私は初めてスノボ(スノーボート)をやる予定です(冬休みに)。去年まではスキーだけで十分だと思っていましたが、オリンピックでの里谷たえさんの金メダルを見たり、雑誌や友達からの情報をもらったりと、どんどん夢はふくらむようになって、つい
に今年スノボをやることにしました。先週の土曜日にスノボ用品を集めて買ってきて、家に帰って着てみたりして、今からワクワクしています。

──もうすぐお正月です。私の家は何かあるごとにお餅をつきます。私は小さいころからお餅つきに参加していましたが、これが結構大変なのです。朝早くから薪で火を燃やし、釜でもち米をたくのです。つくのにもかなり力がいるし、もち米自体が熱くて火傷するこ
とがあります。ふつう四角もち、あんころ餅、きなこ、鏡餅なども作ります。でも、小さい頃から食べているせいか、店で売っているものより、つきたての自分で作る餅の方がとてもおいしいです。ちなみに、もち米も自家製です。

       クリスマスとキリスト教

 間もなくクリスマスです。彼との楽しい時間を夢見ている人も多いでしょう。しかし、この機会にクリスマスとキリスト教について少し考えてみませんか。

 イエス・キリストというのは全体が個人の名前なのではありません。イエスだけが個人の名前です。苗字ではなく、名前の方です。昔の人は出身地と名前で呼びました。「どこそこの誰々」と。イエスは「ナザレのイエス」と言いました。次に、キリストとは、元の
意味は「油を塗られた者」という意味ですが、そこから転じて「救い主」、もっと正確に言うなら「旧約聖書でヤーヴェの神が約束してくれた救い主」という意味です。ですからイエス・キリストとは「ナザレのイエスこそがキリストである」という判断を含んでいま
す。「帝王カラヤン」とかいうのと同じで、評価を含んだ通称なのです。ですからキリスト者以外の人は本当はイエス・キリストと言ってはならないのです。ユダヤ教の人達はイエスをキリストと認めませんから、絶対にイエス・キリストという言い方をしません。

 クリスマスはそのイエス・キリストの生誕を祝うキリスト者の祭礼です。一度でいいですから、クリスマス・イヴを教会で過ごしてみることをお勧めします。
コメント

教科通信「天タマ」の目次

2018年12月04日 | カ行

        教科通信「天タマ」の目次

「天タマ」(第1号)
「天タマ」(第2号)
「天タマ」(第3号)
「天タマ」(第4号)
「天タマ」(第5号)

「天タマ」(第6号)
「天タマ」(第7号)
「天タマ」(第8号)
「天タマ」(第9号)
「天タマ」(第10号)


「天タマ」(第11号)
「天タマ」(第12号)
「天タマ」(第13号)
「天タマ」(第14号)
「天タマ」(第15号)

「天タマ」(第16号)
「天タマ」(第17号)
「天タマ」(第18号)
「天タマ」(第19号)
「天タマ」(第20号)

「天タマ」(第21号)
「天タマ」(第22号)
「天タマ」(第23号)














「天タマ」第12号

2018年12月02日 | カ行
「天タマ」第12号(1998年12月11日発行)

          浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

   この哲学の授業は勉強だけを教えているか?

 これは問題の出し方が不適切だったかな、とも反省しました。ともかく、私は「教師は勉強だけ教えていればよい」と考えているのですが、「勉強だけ教える」という言葉で考える内容が、皆さんと私とでは異なっているようなので、それを確認する目的で出しまし
た。

 皆さんは「教師は勉強だけ教えればよいというものではない」と考えていると思いますが、この哲学の授業については肯定してくれているのです。しかるに、私の考えでは、この哲学の授業では「勉強しか教えていない」つもりなのです。問題の出し方のどこが拙かったかと反省してみると、「教師は勉強だけ~」がテーマなのに、今回は「この授業は~」と問題を出してしまったことだと思います。

 レポートから3つの意見を拾います。

──私のイメージの中の「勉強」は、授業中に問題を出されたりテストがあったり、家へ帰ると宿題をするということです。英語・数学などがそうです。その事から考えると、哲学の授業は違います。「勉強を教わっている」というよりむしろもっと広い「教育を受け
ている」イメージを持っています。

 現にこの授業の休憩は、休み時間のような休憩ではなく、その日の授業の本題からは離れていますが、考えさせられたり参考となる話、ビデオが多く出てきます。そのため広い範囲での知識が身につきます。この点からこの哲学の授業は「勉強」ではなく、「教育」なのだと思います。

──「勉強」の意味にも色々あると思います。哲学では物事のとらえ方、筋道を立てて考えることを学んでいると思います。それがこれから社会に出て、いつか親になろうとするために必要な事ならば、「勉強」と言えると思います。

 しかし、私達自身に問いかけをして考えさせる哲学の授業は、教えてもらっているというよりも、考えさせてもらっているという感じがします。いつも私が思いもつかない考えを先生が述べる時は、新発見として驚いています。

──この哲学の授業は、社会勉強、人としての勉強、病院のシステムの勉強と多方面にわたっていろいろな事を考えさせるものだと思う。分野的には別であるが、物事の実質を見抜く上では全てに共通しているものがあると思う。

 ある(資料)事例をみると、自分の価値観、偏見が優先してしまうのだが、先生は客観性を高めて、いろいろな考えがあると示してくれる。そういう意味でもこの哲学の授業は物事をとらえるにはそれなりのルールがあるということを教えてくれているのだと思った。

      無職氏の投書の件についての講師の考え

 (1) あの投書の出来事の核心はどこにあったのでしょうか。「指導歴がある」ことで「問題がある」と判断したことだと思います。「指導歴がある」ということは、前の学校の教師(他人)の判断です。間違っているかもしれません。又、「指導」したのですから、その後改善されているかもしれません。

 ともかく自分で判断するべきでした。結果から見て、その女子生徒は悪い生徒ではなかったのです(遅刻は問題になりません)。ただそれだけの話です。悪くない生徒が入ってきたのですから、問題の起きる筈がなかったのです。

 従って、これによって「悪い生徒を直すのは教師の仕事」という「一般常識」とやらが証明された訳でもありません。無職氏が女子生徒を救ったのは事実です。立派な事です。ただその解釈に誤解があったようです。

(2) この「一般常識」は、「悪い生徒を直すのは教師だけが全責任を負ってなすべき仕事」という意味に理解されていて、これは完全に間違いです。従って、教師の仕事の範囲を狭め、同時にその仕事については厳しく要求する必要のある現在、このような間違った理解を助長する不正確な表現は使うべきではありません。

 (3) Dさんの考え(学力検査で通っているなら入れて、後で問題を起こしたら退学)に賛成です。しかし、日本ではこの退学が例の「一般常識」のために難しい。そこで、学校は入り口で規制しようとするのです。根本は間違った「一般常識」にあります。

(4) 現在の学校には問題が多すぎますが、核心的な問題は2つです。第1は「学校教育は校長を中心とする教師集団の行うもの」という考えが定着していないことと、第2に、教師に専門の実力のないことが最大の問題だということが十分に知られていないことです。

 前者は今日の授業で取り上げます。後者は前回の授業で話しました。「授業の神様」と言われている大村はま氏の『教室をいきいきと』3の「あとがき」から引用します。

 「私は先生方の皆さんに、国語教師として一人前の学力、国語の力を持つことに、もっともっと努力してほしいと言いたいのです。~国語教師なら当然持っているはずの力、持っているかどうか~など、自他ともに問題にもしないような素朴な基礎的な国語の力のことです。子どものことばでいえば『国語ができる』ということです。充実した読み、書き、聞き、話す力です。この基礎的な力が不足しているために、いろいろ研究して来られた指導の方法が生かされない、使えないことになるのです。」

 これは国語教師だけのことではありません。どの教科でも同じです。では、このように先生に専門の実力がないという事態はどこから来るのでしょうか。私は、例によって大げさに言いますが、一国の教師の実力は大学教授の実力で決まる、と思っています。実力と熱意のない教授が高校以下の学校教師を育てているのです。出来ない教師が多くなるのは理の当然です。つまり、大学教授に根本の問題があるのです。

 (5) 学校改革の基本は、学校の仕事を限定すること、情報の公開を制度化すること、外部による評価制度(学校オンブズマン制度など)を確立することでしょう。

           その他

──VTR「宝石博物館」で宝石がすごくきれいだった。原石が、磨くことによってあんなにキラキラと輝く宝石になるなんてすごい。宝石の輝きを生かすも殺すも職人次第だと言っていた。私にとっての職人て誰なのだろう。私を輝かせてくれる人はいるのかなぁ。そんな人が見つかるまでは自分で自分みがきに徹しよう。いつでも輝いている女になりたいですね。

──私は今、2つ宝石を持っています。どれも成人式の日に母からもらいました。1つは祖母の形見で、祖母の母親が大切にしていたものだそうです。VTRにも出てきたブラックオパールで、祖母が死ぬ前に(その時私はまだ小学生でした)、これはK子の分と、母
にあずけてくれた、とあとで聞きました。

 もう1つの指輪も、母が若い頃大切にしていたものです。昔のものなのでデザインも古くて、あまりふだんは身につけることはないけれど、ずっと昔から祖母も母も大切にしてきたものを引き継いでいく感じがとてもうれしくて、あの十倍の大きさのものと交換する
と言われても、絶対に手放さないと思います。職人さんが一つ一つ手作りで作っていく様子を見て、私の指輪もあんな風につくられてきたのだと、さらなる愛着がわいてきました。

──この前の授業で講師の給与を初めて知った。なかなかいい給与だと思った。でも牧野先生は、天タマを作ったり、みんなのレポートを読み、そして感想を書いたり、授業の題材を考えたり、とてつもない時間を費やしているんだということを知った。先生が私たち
のレポートを読んで感想や意見を下さるようになってから、他の先生たちからレポートの感想がない時は、感想が欲しいなあ、と思うようになりました。でも先生達も忙しいから仕方がない、とも思います。

──今日の「天声人語」にあった少年院の話。ここにいる人たちは、小中学校、または高校でいろいろな体験をすることができなかったのだと感じる。「やり遂げる、協力する、認められる」。私は幸いこのような体験を今までに何度となく経験したことがある。もち
ろんこれは家庭、学校、地域を問わず経験していくことが出来ると思う。そんな機会に出会わなかった、出会えなかった人にとって、更生施設はとても貴重な場所だと思った。

──私の中学校、特に私たちの学年はとても荒れていた。私も小学校が一緒だった人で不良グループ(のようなもの)の中でリーダーのようになっていた男の子がいた。彼はいわゆる家庭に問題のある子だった。だから学校で荒れるのか、よく分からないけれど、大酒
飲みでどうしようもない父親のかわりに妹弟のめんどうをみる母親にとっては頼もしい長男だった。

 こういう場合誰に責任があるのか。いない父に代わり、働く母の代わりに思春期の長男を妹弟のめんどう見のために犠牲にさせた家庭なのか。私は彼にとって家庭に恵まれなかったことが非行の一番の原因だと思う。しかし、2番目に、彼の非行行為が始まった時、
友達の誰一人としてとめる者がいなかったということもあると思う(私も含めて)。見てみぬふりをした教師にも責任がある。誰か一人の責任にはならない。でも彼の周りの彼を含めた誰もに責任があると思う。

 ★ カウンセラーのビデオで出てきた「問題生徒」はみな、不登校のように自分に籠もってしまうタイプの人でした。この場合のような「外に出て、非行をする」タイプにどう対処するのか。これも知りたいものです。

 私の考えは、校長を中心として教師集団がまとまっていることを前提として、教師は授業で勝負する以上の事は出来ないし、する必要もないということです。そういう問題を考え話し合う授業の中で、教師や同級生との関わりの中で本人が立ち直ってくれれば一番よ
いのですが、よい結果にならない場合は仕方ないと思います。原因はともかく、暴力的な行動がある場合は更生施設の仕事になると思います。

──小学校の頃、通信簿に性格評価のようなものもあり、◎○●でなされていた。これは、学校がしつけをした結果こうでした、という評価なのか、お宅の子供さんは学校ではこういう子なので注意して直して下さい、ということなのか。今日の授業を受けてふと疑問
に思った。私は●はなかったと思うが、いつも大抵同じ所が○で、成績よりもそのことで怒られた記憶がある。自分の性格を評価されることは気持ちのいいものではなかったことを覚えている。

──「天タマ」をさりげなく机の上に置いておきました。お母さんも読んでくれたみたいで、「おもしろそうだね。看護学校でこんなことまでやってるんだ」と驚いていました。お父さんはパソコン通信をやっているので、「ホームページのアドレスあったよな。こんどアクセスして、ダウンロードしといてやるよ」と張り切っていました。「天タマ」の威力は凄かったようです。



「天タマ」第10号

2018年11月29日 | カ行
「天タマ」第10号(1998年12月4日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 1996年6月11日の朝日新聞に66歳の無職氏の投書がある。「職場の不正」というテーマに寄せられたものである。

──最近、私は公立高校の講師を務めましたが、教員の生活に慣れると判断が一方的になり善悪感もマヒするんだ、と思いました。

 ある日、他県から引っ越してきた生徒の編入試験の合否判定会議に出ました。事前の学年会で不合格が決まっていたから追認の会議でしたが、教師の利益に合わないというのが不合格の理由でした。家庭に問題があり、本人も指導歴があるから教育しにくい。こうい
う生徒を受け入れるのは、教員の労働条件の面からも問題、というのです。

 私はパートですから、組織を怖がる理由がなく、一般社会の常識を述べました。(1) 手続き通り受験し、学力に支障なく定員も空きがある、(2) 教員の労働条件は受験生と無関係、(3) 悪い生徒を直すのが教師の仕事~。

どうせ教職経験のない人の言うことと思っていましたが、決をとると、若い女教師の手があがり、賛成が半数を少し超え、合格が決まりました。入学後は遅刻指導などあったらしいが、成績は上の方。あわや私は少女の一生を狂わせ、老いて悔いを残すところでした。(引用終わり)

 これを読んで意見を書いてもらいました。そのレポートを読んで、「授業の成果が出てきたな」と思いました。「校長は何をしていたのだ」という発想があったこと、看護婦と患者の関係で捉え直してみる発想があったこと、この2点がその理由です。代表的なものを拾います。

──看護婦の仕事も利益に合わないくらい大変な仕事だと思うが、それを行っている看護婦は、人の死と直面しているから、手を抜くことができないというか、無責任なことができないのではないかと思う。教師も生徒の人生を今回の事だけでなく、左右することがあるので、無責任な事だけはしないでほしいと思う。

──このことを言ったことについては「えらいなあ」と思うけど、パートだから言えたというあたりが、今の現状を見た気がする。こういうのを見ると、この前の授業で考えた「トップで決まる」っていうのに通じていると思う。本当なら校長とかが言うことじゃないのかな。それなのに、パートの人しか言えないなんて、何か間違っていると思う。

──私が看護婦になって、もし同じような事があったら、病気以外で問題を抱えた患者が入院してきたら、快く受け入れられるのかは、今はまだ自分に自信もないし、分からないが、自分が嫌だと思った事は他人にしてはいけないと思うので、その場限りの感情に流さ
れないで、一度立ち止まって考えてから結論を出したいと思う。

──違う意味かもしれないが、看護婦になると「人の死に慣れる」というのと同じなのかなあと思ってしまいました。(もちろん学生だから、人の死についてもまだ理解できないけど)。「教員の生活に慣れると善悪感がマヒする」。職業病なのでしょうか。

 ★ 「教師の労働条件は生徒と無関係」などというのは「一般社会の常識」ではないと思います。反対です。1人の看護婦が夜勤をして、50人の患者を受け持つのと、60人の患者を受け持つのとでは、患者にとって無関係でしょうか。

 私も「天タマ」とレポートへの感想との両立が難しいと分かりましたが、1クラスの人数が今のように32~33人でなく、国際標準の20人だったならば、もっと感想を沢山書けると思います。

 この無職氏は、労働条件は生徒と関係があるという一般論ないし総論と、この個別的な事例で専任教師たちの挙げた理由が不合格の理由として正しいかという各論とを区別することができなかったために、間違ってしまったのだと思います。

      「悪い生徒は直すのが教師の仕事」?

 まあ、労働条件の問題は考えやすいと思います。それ以上の根本的な大問題が「教師の仕事は何かという問題」です。これは、毎年、講師と生徒の皆さんとの間でもっとも鋭く対立する問題ですので、冷静に細かく考えたいと思います。

 Eさんは皆さんの反発を代表して次のように言っています。

──先生は何の為にいるのか。それはただ生徒に授業を教えるだけのためにいるのではないと思う。この子は問題児だから嫌だ、ではなく、この子は良い生徒・悪い生徒と区別することなく、人間対人間として対等に接していくことが必要になってくる。自分の利益に
合わないから不合格にする、この子は問題ないから合格にする、そのような事で合否をつけるなら、自分からこういう学校は願い下げである。

 自分の学校に傷が付く、変なうわさをたてられると困る、という考えではなく、「よし、この子を良い生徒に更生させよう」という気持ちで、生徒と関わっていく事も大事であると思う。まだ十代である少年少女の一生を狂わす事をしてはいけないのである。暖かく見守ることが大人・先生の義務であると思う。(引用終わり)

 匿名希望の方からはこういう抗議もありました。

──問題のある生徒だから入学させたくないと言っているが、誰でも問題は抱えている。私だって友だちだって、教師には言わなかったが、家庭に問題のあった一人です。(引用終わり)

 不合格も必ずしも不当とは言えない、という意見はFさん一人です。

──転入生でも何でも、何か行う時、この学校では2段階に分けて会議がなされているのか。それはともかく2回行うというのは良いと思った。より多くの人の意見を取り入れられるし、違った見方ができることで充実すると思う。裁判でもそうなっている。

 でも、学年会で「不合格」と決めた事の理由は間違っていないと思う。この場合は転入生だったから個人のみの会議になってしまっているけれど、ふつうの高校入試の時は皆が同じような会議にかけられているはず。入試の時、中学での素行とかもチェックされてい
る。

 全体をふるいにかける時はそういう「不合格」者が出てもよくて、個人を判定する時はダメなのだろうか? あやうく不合格になりそうだったこの少女が、その後問題を起こさなかったからといって、〔この考え方で〕よかったということにはならないと思う。(引用終わり)

 現実的な対案を出しているのはGさんさんです。

──私も無職氏の考えに賛成である。試験で一定のレベルに達していれば、合格は当然だろう。そして、彼女の過去に問題があるなら,入学してから、退学をさせても良いと思う(高校なのだから)。不合格で彼女の可能性を無にする権利は誰にもないのではなかろうか。

 実際に彼女と接し、教育をした上でだめであったなら、それはそれで仕方ないと思う。教員は生徒を教育する職種なのだから、最初から彼女を不合格で投げ出したら、教員とは言えないだろう。彼女の過去で不合格にするのは公正とは言えない。

 ★ 今回は、私の意見は直ぐには言わないようにします。まず、私として、この問題を考えるにはこういったことを考慮する必要があるのではないかという観点を出したいと思います。

 (1) 未成年者の教育機関には家庭、地域社会、学校の3つがあるが、その役割分担は、今の日本ではどうなっているか。これからはどうあるべきか(最近言われている「学校のスリム化」とは何か。それをどう考えるか)。

  参考

 Eさんは「教師はただ勉強を教えるだけではない」と言うけれど、その「勉強だけ教える」という言葉で皆さんはどういう事を考えていますか?

 第1問・学校教師は勉強だけ教えればよい、という考えに賛成か?
 第2問・牧野の哲学の授業は勉強だけ教えている、という判断に賛成か?

 (2) 更生施設(鑑別所、児童自立支援施設、少年院)が存在するという事実があるが、これの存在を認めるか(どんな悪い生徒でも学校と教師が直すべきか)。どういう人はこれらの更生施設に送られるべきか。

   参考

 戻るべき家庭のない児童(非行者ではない)のための「自立ホーム」もある。

 (3) 問題生徒(悪い生徒)と一口に言うけれど、問題の性質を分類する必要がある。

 A・自分の人生を傷つける行為
  A-1 ・法律で禁じられている事 ……飲酒、喫煙、麻薬、援助交際など
  A-2 ・学校(教師)が規制している事 ……服装、頭髪、化粧、ゲームセンタ ーなど
 B・他人の人権を侵害する行為
    いじめ、暴力、盗み、ストーカーなど
 C・成績不良

これらについて考えるべき問題
 ・今の学校ではそれぞれはどう扱われているか。
 ・本当はどう扱ったらよいか。

 (4) 神戸小学生連続殺傷事件で犯人が中学3年生と分かった時、教師がその犯人生徒に「学校に来なくていい」と言ったか否かが、大問題になった。これは何を意味するか。

 これは最後の殺人の前に、同級生を殴り、殴られた生徒は転校した時についてである。

 (5) 文部省は教員養成課程に「問題生徒の指導技術を学ぶこと」を含ませ始めた。これをどう考えるか。


        その他

──私は、昨年一年間地元にあるホテルでフロントのアルバイトをしていました。VTR「秘書検定」を見て、アルバイトをしていた時の事が思い出され、とてもなつかしかったです。

 私はウェイトレスを希望して面接に向かいましたが、面接の際に「君はフロントに向いているから、フロントへ行って下さい。君なら大丈夫だよ」と言われてフロントへ~。フロントの仕事はとても楽しかった。自分に向いていると思いました。私が笑顔で応対し、お客様も笑顔で接していると、嬉しくなりました。

 毎月1度は会議で見えるお客様に「君の笑顔があるとホッとするね」と言われ、その日一日きげんが最高潮だったこともしばしばありました。本当に勉強になりました。



「天タマ」第9号

2018年11月26日 | カ行
「天タマ」第09号(1998年11月30日発行)

                 浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 2週間ぶりのレポートとなり、又テーマも多かったので、皆さん沢山書いて下さいました。講師の都合で1度には全部を扱えないので、2回に分けて考えることにします。

        アンケートの反省

 教師に対して公正な成績を求め、「どういう根拠でその成績をつけたのか」を教えて欲しいというなら、生徒が授業を評価する時にも客観的な根拠に基づいて公正に行わなければならないのではないか、と問題を提起しました。無記名のアンケートから4つを選び、
カンファレンスをし、やり直してもらいました。レポートの中から力作を紹介します。

──あんなに色々と考えながらアンケートを書くのは初めての経験だった。あれだけ時間をかけたのに2問しか答えられなかった。多分、このペースでいけば、この前のアンケートは2時間以上かかっただろう。

 先生が言う通り、確かに何を基準として評価したのか分からなければ、公平なアンケートとは言えない。でも、私が思ったのは、5段階で評価する事そのものが難しいということ。

 5段階で5が「非常に優れている」、4が「優れている」、3が「普通」~となっているが、こんな言葉だけでは表現できない。5と4の間が私の気持ちにピッタリだと思ったり、3と2の間がピッタリなのに、という時もある。でも、5と4の間の気持ちは5段階
アンケートでは表現できない。だから、私はこの5段階アンケートは好きではない。

 何も考えなくても○さえつければいいから簡単だけど、5段階アンケートが私の本当の気持ちではない。だって、自分でさえ何が基準でなぜこの数字をつけたのか分からないからだ。はっきり言うと、「なんとなくこのぐらいかな」という程度の気持ちである。

 それに、1つの質問について、「この部分は5といえるけど、あの部分は3かな」と思うことが多い。そうなると、5と3を足して2で割った平均値の4をつけるという事になるけど、それもなんだかしっくりこない。とにかく5段階アンケートではどこかしら落ち
つかない気分になる。

 だから私は記述式のアンケートに力を入れている。5段階に比べて、的確に先生の好い所や直してほしい所を表現できるから。本当のことを言うと、前はアンケートなんて簡単でいいかげんな5段階でいい、と思っていたけれど、やっぱり、好い先生や好い授業に出
会った時は、その人にどんな所が良かったのか伝えたい!と思うようになる。

      VTR「福祉オンブズマン」を見て

 社会的な機関なり活動なりを外部の人に見てもらって反省する方法として、先に医療評価機構を勉強して考えてみました。今回はもう一つのあり方として、最近増えてきているオンブズマン(オンブズパーソン)制度を勉強してみました。知らなかった人も多かった
ようですが、皆さん、とても好感を持ったようです。

──福祉オンブズマンのビデオを見て、こういう人の存在って大きいなと思った。施設を利用している人→オンブズマン→施設を経営している人。とてもうまくいっていた。

 ビデオに出てきたオンブズマンの人はとても優しそうで、暖かい雰囲気を持った人だった。しかも、しっかり会話の中はポイントを押さえて、利用者の人と会話していた。オンブズマンの役割とはちょっと違ってきてしまうが、そういう「この人になら話せる」って
いう雰囲気も大事だと思った。私も看護婦として、人として、そういう雰囲気を持てる人になりたい。

        東芝の「議論の3原則」

 これは「天タマ」第7号に紹介したものですが、20日の授業で詳しく検討しました。

 これについても多くの人が「この3原則が守られれば好い話し合いになる」と感心したようです。自分がどこかでリーダーに成ったとき実行してみようという意見もいくつかありました。第3原則の「話し合いが付かない時はリーダーが独断で決める」という点につ
いては、疑問も少し出ていました。

──東芝の3原則を読んでまず私はなるほどと思った。この3原則になぜ私は気づかなかったのだろうと思った。しかし次の瞬間には、実際にこの原則を守って議論するのは大変だと思った。

 まず(1) の全員対等というのは、クラスでの議論ではみな対等に言えるけど、先生や先輩看護婦と議論になったら対等に言えるかといったら、言えないと思う。それは普段から上下関係がはっきりしていて対等という立場になったことがないからだと思う。

(2) の「中傷する言葉を言えば即退場」は、当たり前だけど、実際にはあまり行われていないと思う。それは、その言葉が中傷したという判断を下す人がいないからだと思う。それをはっきりと判断できる司会の役割は大きいと思う。今まで私は、司会は進行役だと思っていたけれど、他にも大きな役目があったんだと、分かった。

(3) の「決着がつかなければリーダーが独断で決める」というのを読んで、リーダーはいいなと思った。でも、その判断の責任はリーダーが取らなければいけないので、大変だと思った。前まで、自分が婦長になった時話し合いのシステムをどうするかについて、自分は意見を持っていなかったけど、もし私が婦長になったら、この3原則を取り入れていきたいと思った。

──先日、「町長と町政を語る会」に出席したが、上座に町長と役場の管理職がテーブルの前にネクタイ姿で座っており、何メートルも離れて町民のための座ぶとんがテーブルもなく並んでいるという会場で、「お上に直訴」の様なセッティングにがっかりした。

          その他

──「天タマ」を見ていたら、小学校の時にもらって製本してもらった学級だよりを思い出し、押入れから引っ張りだしてきました。小学1年生ということもあり、日本語がおかしく、笑えました。今読むといろいろな先生の気持ちが伝わってきて、これを作ってもら
えてよかったと思います。「天タマ」も何年後かに読むと変わるかなと思いました。

──哲学の授業配分が好きです。最初は、こんなに沢山の事、90分じゃ終わる訳ないよ、無理!って思っていたけど、90分を細かく分けることでたくさんの内容を教われるし、メリハリが出て、どの授業よりも短く感じます。

──「組織はトップで8割決まる」を母親と話し合いました。私の家も自営業をしているため、人を使っています。下で働いている人たちが不満を言えるシステムが確立しているか、話し合いの場が持たれているか、考えてみました。

 やはり、従業員間で人間関係の不満は少なからずあるようです。家では、3ケ月に1度食事会を持ち、その中で意見・不満を聞くようです。これは、働いている人が少人数だからできることです。母親もこの議題に関して興味を持っているようで、「天タマ」を読ん
でいました。人間関係の不満はやはり対処に困るそうです。「難しいねえ」と、母親がつぶやいていました。

 ★ 身の回りの大切な問題を直視して取り組んだの姿勢、それを受けとめてしっかりと向き合ったお母さんの姿勢、これにとても感動しました。

 思うに、哲学の最大の難しさは自分の生きている現実とごまかすことなく取り組むことの難しさです。たいていの人はここから逃げてしまうのです。そして、哲学と縁が切れてしまうのです。世の中の哲学教授もこうして哲学から離れていくのです。

──この学校ですごいなあと思っていることがあります。ここの先生は一人一人しっかり自分の意見を持っていて、それを根拠に基づいて、生徒や他の先生の前で堂々と発言します。会議中は先生同士、先輩・後輩の関係なく、自分の意見を言っているようです。そこ
はすごいなあといつも感心しています。

──今日の「天タマ」に、お父さんと話をしない、ということがありました。私も昔は父とあまり話をしませんでした。何故か、話づらいのです。でも最近はよく、いろいろなことを話すようになって、父の好きな釣りの話とか、2人とも好きな映画の話とか、成人病
の一歩手前にいる父の健康の話とか、どちらかというと父親というより、友だちのようです。

 今思うと、何故父親と話せなかったのだろうか、と思います。昔は本当に一言も口をききませんでした。自分でも昔を振り返ると、変な意味で感心します。「昔は話しなかったのにねえ」、「そうだねえ」と、一緒にビデオを見ながら話していると、笑えてきます。父親って何だろうと思いました。

         十年振りのボッカ

 観音山(標高約 580m)の頂上からほんの少し下った所に、清水寺(せいすいじ)があった。それを今度、で再建することになった。車で材料を近くまで運び、最後はの人達で担ぎ上げるということになった。28日と29日の両日でそれを行うというのであ
る。

 私は28日、予定通り出た。天気もよく風もなく、とても好い日だった。午前中は道普請(みちぶしん)をした。担ぎ上げる道の途中の荒れている所を修理したのである。又、寺を建てる所も整地した。午後、いよいよボッカとなった。荷物を担ぎ上げるのを山仲間は
昔「ボッカ」と言っていた。

 日頃、の仕事に出ても、要領も分からずに大した事も出来ない私であったが、そしてこの日も午前中は大した働きが出来なかったが、この担ぎ上げだけは違った。

 日頃鍛えた足腰で、山仕事や畑仕事の専門家の皆さんの2倍のスピードで担ぎ上げた。そもそも足拵(こしら)えが違う。皆さんは地下足袋だが、私は登山靴なのである。こういう私がこういう所にいることが本当は場違いなのだろうが、それを受け入れてくれるの
が我がの包容力である。全身に疲れを感じながらも、快い満足感をもって帰宅し、風呂に入った。

 思うに、の仕事はたしかにそれ自体としての意味もあるのだが、それと同時にここに住む人達にとってはそれは一種の社交場なのである。こういう機会にいろいろな話をし、情報を交換する。それによって同じに住む者としての連帯感を養うのである。

 葬式の時も必要以上に沢山の人が出て手伝うが、その本当の趣旨は同じことである。都合が悪くて来られない人もいる。しかし、絶対に咎められない。後で何かの機会に働けばよいのである。「人を責めない」──これがこのという共同体を成り立たせている。


「天タマ」第8号

2018年11月23日 | カ行
「天タマ」第08号(1998年11月27日発行)

          浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

    記名式アンケート「より良い授業のために」

 まず第2項の「家族や友達に『天タマ』を見せたり、授業の事を話したりしていますか。相手の反応はどうですか」はとても聞きたかった事です。

 なぜこれを聞きたいのだろうか、と反省してみると、その理由として、自分が皆さんとほぼ同年令の子供を持つ親であるということがあると思います。子供が学校の様子を話してくれるのはとても嬉しいからだと思います。そして、自分に合う先生に出会って楽しく
やっている様子を聞けば「よかったなあ」と思いますし、逆に「英語の先生は『1年くらいやったって大した事は出来ない』と言って、雑談ばかりしている」といった事を聞くと、とても残念に思います。

 私もドイツ語講師をしていますが、1年間でも工夫をして熱心に教えれば随分出来るようになります。持ち上がりで2年間教えたクラスからは独検3級合格者を3人出しました。

 それに、Aさんも言うように、「この授業内だけでなく、関係するすべての人達とも話し合う必要のある重要な課題ばかり」だと思っているからでもあります。これを機会に対話が少しでも広がって欲しいと思っています。

 しかし、皆さんの中で家族と話している人は3分の1以下でした。中学・高校時代では心理的に難しい場合も多いかと思いますが、もう20歳です。そろそろ家族と大人の関係を作る努力をしても好いのではないでしょうか。

 それに、話した人でも、お父さんという言葉が全然出てこないのはどうしたことでしょうか。家族と離れて生活している人は冬休みに話して下さるようにお願いします。

         回答から

──哲学ってどんなのか知らなかったけど、授業面白そうだね(母)。
──母に見せたが、「おもしろいね」と言っていた。

──私と同年代は哲学=難しいというイメージがあり、概論を学ぶと思われるけれど、通信や授業の様子を友達に話すと、意外な感じを受けるようです。

──母に話したら、「まめだねえ」と一言。
──「専門学校でもこういう風にやってくれるんだねえ」と言っていた。
──家族に話をする事はあります。個性的だと言っています。

──授業で話した事を私がしゃべると、「あんまり哲学っていうお堅い授業じゃないんだね」と言われた。

──姉に見せた。先生は大変だと言っていました。
──友達は「いわゆる哲学のイメージとは違うね」と言っていました。

──家族は「面白い授業だね」と言ってくれている。他校の友達も興味をもってくれ、友達同士で討論している。
──親は興味深く読んでいた。「何の授業なの?」って聞かれた。

──教師をしている知人に話したら、面白そうだと、ちょっと興味をもったようでした。

──家族が私の机の上にあった「天タマ」を読んだ時、母が「みんなしっかり自分の意見を書いてるね。先生もコメントをのせてくれていて、その生徒に対してプラスになるプリントだね」と言っていました。

──驚いていた。毎回読みたい、と言っていた。
──裁判の話など家族に話したら、家族も納得をしていました。病院の評価の話にもとても興味をもって聞いてくれていました。

──裁判をニュースでやっているのを見て、母に裁判のことを授業でやったと話した。また姉には休憩のプリントを見せたり、好き嫌いの区別のプリントを見せた。姉からは『明るい悩み相談室』の本が欲しい。また好き嫌いの区別については、「この分け方は難しい。私はこうやって好き嫌いを分けて考えたことならある」などと言い、2人で話し合いになった。

──恋愛のパターンのテストを行った時、妹に授業のことを話したら、「哲学の時間にそんなこともやるんだぁ」と驚いていた。

   第6項「レポートに対する講師の感想は十分親切でしたか。
       どう思いましたか」

 講師への不満ないし要望はほとんど「レポートへの感想をもう少し沢山書いてほしい」ということでした。まず、皆さんの声を拾ってみます。

──私はテーマが飲み込めてないのであまりよいレポートは書けていないので、いつも感想が少ないのは分かるが、多い人のを見るとやはり羨ましいと思ってしまう。

──先生は忙しいと思うけど沢山書いてもらえるとうれしいです。
──言葉が少し難しい時もある。
──感想がとても短かったりすると、少しさみしい。

──少し簡単すぎる時もあるけど、多くの人のを見るから仕方ないかなと思っている。
──もう少し先生のこともプラスしてあるとよかったと思います。

──もっとコメントがほしい。
──もっとたくさん書いてほしいです(大変だと思いますが、できるだけ)

         講師の考え

 「天タマ」と「感想」の両方を続けるのは難しいと分かった時、私は「天タマ」を優先しました。感想は1人3行を原則として、いろいろな事情で多く書く場合もあります。

 皆に同じ分量を書くのは悪平等だと思います。この授業に取り組む生徒の姿勢や熱意などが違うのですから、そしてそれがレポートに出てくるのですから、それへの反応も違うのが本当の公平だと思います。

 もちろん生徒に対する好き嫌いの感情で区別しているとしたら、それは依怙贔屓であり、悪い事だと思いますが、レポートの内容とか、休んだ人を励ますとかの理由なら、悪くないと思います。

 上の人々への感想を確かめて見ましたが、他の人より特に少なく書いているという訳ではありませんでした。皆さんはどう思いますか?

 大多数の意見は次の3種です。

──先生の感想が少ないと、私のレポートは大したこと書かったかなと思う。ちゃんと読んでくれてるなと思うこともある。
──自分の考え方をより深くさせてくれる感想で、とてもためになる。
──「天タマ」を作る上に感想を全員書くというのは本当に大変な事だと思う。

        講師からのお願い

 「感想」の中に、あなたへの質問を書いているのに、答えてくれない人がいます。これでは対話になりません。ストーカーをしている訳ではありませんから、なるべく答えて欲しいと思います。

            その他

 休憩は好評でした。カンファレンスの人数(3~4人)と時間(10~15分)も、これで好いという意見がほとんどでした。

 レポートを宿題にすることについては、3割くらいの人が「時には好い」で、7割が「止めて欲しい」でした。

 話すスピードを落として欲しい、という意見は、当然の事ながらありました。

 「その他」からいくつか拾います。

──ケーキ作りが趣味ということをもっとくわしく聞きたいです。

──先生の授業は最初に思っていたより楽しかった。「天タマ」ではみんなの意見に触れることが出来、いろいろ考えさせられた。

──より良い授業のために、私達の意見を取り入れようとする先生の姿勢を、他の先生方にも見習って欲しいな、なんて思ったりしています。
──先生のドイツ語、1度聞いてみたいです。

──先生は自分の意見をしっかり持っていて、それに自信を持てているのがすごいと思いました。

──哲学の授業は他の授業にくらべて参加しているという感じがします。

──哲学と聞くと難しいと思っていたが、自分で考え、皆と話して、考えも広がり、興味深いものであると思いました。

──あきない授業で楽しいです。休憩では又、心あたたまるユーモアのある話を聞かせて下さい。

      「マッターホルンの麓」から

 村の北のはずれから、風に騒ぐ小波のように、チーゲ(山羊)の鈴の音が高く低く響いて来る。

 南へだらだら上りになった、たった一本しかない村の通りを、牧童に追われつつ、チーゲの群れが進んで来る。両側の家の間から、一匹二匹、ひょいひょいと現れて、この仲間が殖えてゆく。鈴の音はますます賑やかになる。からんころんと忙しげに鳴る鈴の音が、村の南のはずれに消えかかると、教会の鐘が鳴り出す。そしてツェルマットの朝が始まる。(中略)

 両側から谷を抑(お)し狭めるように、差し挟んでいる高い崖に切り取られて、青空が北から細長く流れている。……峠の向こうにイタリアの空がのびのびとしている。

 地の底から生え抜けたような、マッターホルンの大きな姿が、ただ一つその大空に聳えている。茶褐色の岩肌にまばらに残った白雪が、朝日に眩(まばゆ)いほど爽やかに輝いている。

 思えばこの山一つのために、幾万の人がこの谷へ、自然への限りない憧れに駆られて入って来たことか。それほど底知れない力をもって、人の心に迫って来る。美しいの一言だけでは言い尽くせない。力強いと付け加えてもなお足りない。はっきりと大空に、鋭い直線で描き出す二本の山稜の上に、ゆらぐ光を見るがいい。青でもない、緑でもない、身も魂もその中に溶かし込んで、空高いあの岩の上に、しがみつかずには置かない、不思議な光が燃えている。(以下略)(浦松佐美太郎著『たった一人の山』)

「天タマ」第7号

2018年11月17日 | カ行
「天タマ」第07号   (1998年11月20日発行)
                浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回は、他人に対して不満を言ったりするだけでなく、自分の出来る範囲でどう世の中を改善していくかという問題を考えました。

 部活で最上級生になった時、話し合いのシステムをどう改善したか

───私が中1のときは、部活の仲間の中の2~3人が同じ部活の先輩に呼び出されていろいろ注意を受けたりしていた。でも私たちが中3になった時は、何か問題があったら1~3年までの部員全員が集まり、部長が司会をしながら問題の解決ために意見を言い合ったりするようになった。

───1・2・3年生を3つぐらいのグループに分けて、1年生が6人、2年生が6人、3年生が4人で1つのグループを作り、そこで話し合うようにしたら、下級生も意見が出しやすくなった。

 ★ 多くの中学校の部活では、ヘンな上下関係があって、上級生が下級生をミーティングと称して呼び出して、一方的な説教をするといったことがあるようです。多くの人が「自分たちはそういう事をしたくない」と思って、自分たちは変えた、と書いています。これは嬉しかったです。残念ながら、自分たちもされたのだから、ということで、下級生に同じ事をした人もいるようです。

 学校と教師は多かれ少なかれこういう事態に気づいているのに、積極的に是正しようとしている所は少ないようです。それどころか、教師の間にいじめがあったりします。

 或る校長は私と私の娘を快からず思っていました。私が或る事で学校に問い合わせたら、電話で十分に答えられることなのに、「~日までに来てくれ」と一方的に呼び出し、娘を「協調性がない」と罵り、私にも「お父さんは我が儘なのではないか」と罵りました。その校長にはその後、裁判を通して反省していただきました。公務員は憲法第15条に「全体の奉仕者」と定められています。「奉仕者」ということは「威張ってはいけない」という意味です。

  自分が婦長などになったら、話し合いのシステムをどう改善するか

 自分が主任に成ったときとか、婦長に成ったときというのを想像すらできないような人が多かったようでした。仕方ない面もありますが、今後の実習の中で意識的にこういう事を考えてみて下さい。これと同じ事ですが、自分の生まれ育った家庭のあり方を反省し、自分はどういう家庭を築くかと考えてみることも大切な事だと思います。提案されていた具体策を箇条書きにします。

───申し送りやカンファレンス以外の時間を設ける。その時に仕事で出られない人は又別の時間を作る。部屋は2列にならないようにする。途中で反論しないようにする。

──部活(吹奏楽)で各学年、各パートの代表がいて、その代表たちが事前に話し合ったのでうまくいった。この経験から、各立場(看護婦・助手・実習生)に代表をおいて、その代表でまず話し合い、その上で皆で話し合うと好い。

──10人(実習生6人、看護婦4人)くらいのグループで毎日話し合うようにする。あるいは、婦長が毎日実習生と話すようにする。

──3回とかに分けて看護婦の会議をし、特定の人がその全部に出てまとめる。

──週1回とか曜日を決めてみんなで話し合う時間を作ると好いと思う。その時婦長が下の人の意見を引き出すようにする。

──申し送りの時間に話し合いを入れる。1日3回持つ。終わらない事柄は別に話し合いの時間を持つ。看護助手やクラークや医師を含めた話し合いを持ちたい。

──ナースステーションの全員の集まりだから意見が出ない。婦長が2~3人ずつと会うと好い。婦長が新聞を出すと好い。

──看護婦と看護助手の関係は、婦長と看護助手の関係に左右される。後者に信頼関係があれば、看護婦も自然に看護助手を尊重すると思う。

──交換日記のようなものを回し、婦長がそれを読んで、会議には代表者として出ると好い。

──どう話し合いをしていくのかを考える前に、まずお互いの人間関係を把握することが先決である。立場についての共通の認識がなければ、話し合いにならない。ここの病院は現在そこの所があいまいだから、「助手さん」「学生さん」といったひとくくりにされているのだと思う。

──新人から婦長まで活発な意見が出る状況にしたい。そのためには話し合い以外の場で色々な人に声をかけ、信頼関係を築く。そして、司会者は上の者だけでなく、新人の人にもやってもらったりすると、意見を出しやすいのでは。

──まず初日はカンファレンス室に集め、病棟の説明、どんなケアを中心にしているか、看護方針、注意点をじっくり話す。そして、物品は事前に聞いて備えておく。3日目くらいになって少し慣れた頃、学生側の不満を聞いたり、看護婦のこと、患者とのコミュニケーションなどの悩みを聞く。気楽に、そして秘密を守ることが前提。5日目か1週間くらいしてアンケートをとって、実習生とのコミュニケーションを深め、残りの日を改善して過ごす。

──横(1年目の看護婦同士とか)のつながり、と縦のつながりの両方で小グループを作り、話し合い、それをまとめる。

       講師から

 朝日新聞の土曜日の夕刊に「ビジネス戦記」という題のコラムがあります。題名から分かる通り、ビジネス社会で活躍している方々が自分の経験と考えを書いているのです。長さは一定しておらず、2~5回くらいの連載が多いようです。

 2年程前、東芝の常務をしているという森健一氏が「創造一生」と題する文を寄せられました。その内容はほとんど東芝におけるワープロ開発の苦心談でしたが、その中に次のような一文がありました。

──ある商品を開発する際には、徹底的に議論してコンセプトを詰めておくと、他社の動きは気になりません。次に何をやるべきかが分かっていますから。この手法の元となったのは、大学時代の研究室での経験です。

 私の恩師は「学問の発展のためには徹底した議論が必要」といい、議論の三原則を定めました。①チームで議論を始めれば全員対等、②相手を誹謗中傷する言葉を一言でも言えば、即退場、③議論で決着がつかなければ、リーダーが独断で決めて、全員がそれに従う、というものです。(以下略)

私はこれを読んで、日本企業の強さの秘密を知ったような気がしました。普通に思考と言われているものを「個人的思考」とするならば、議論は「集団的思考」(集団で考えること)と言えます。

 この東芝のやり方が成果を挙げたということは、この3原則は「物事を考える時に必ず守らなければならない原則」だということです。この1つ1つがなぜ正しいのか。こういう事を考えるのが私は本当の認識論であり、本当の哲学だと思っています。

         その他

──看護助手さんには、この前の実習のときとてもお世話になった。看護婦よりも何だか安心できるところがある気がする。

──昨日フリーワークでテニスをしたら、今日筋肉痛に襲われている。久しぶりに体を動かすと気分もすっきりしていいのですが、体の方が疲れを訴えてきます。

 ★ 看護婦になった元生徒で、患者さんを動かしたら筋肉痛になり、体力の落ちているのを痛感したので、それ以来スイミングプールに通っている、という人もいます。社会に出たら、健康と体力がすべての第一前提です。

──西式健康法は初めて聞きましたが、温冷浴は何かどこかで聞いたような気がします。カイロプラクティックの先生も、脊椎を矯正すれば体の調子はよくなる、と言っています。時々、医者って何だろうと思うことがあります。

──私は昨年、今年と夏休みは1ヵ月くらい山小屋で住み込みのバイトをしました。山は空気も水もおいしくて、みんな心が暖かく、帰ってくると、よっしゃー頑張れる、という気分になります。これが私の健康法かな。

──私はミシマの泉(スーパー銭湯)にはまっています。この間は1週間に2度も行ってしまいました。ラジオ深夜便も時々聞いています。とても心おだやかになる番組です。

──授業の時、先生はなんか楽しそうに笑顔で話しはじめることに気づきました。聞いていると楽しい気分になるので、いいなあと思いました。

──今日、先生から感想の紙をもらってびっくりした。前回欠席したので、来るはずがないと思っていたから、嬉しかった。欠席者に対してもここまでする先生はそういないと思う。こういう心掛けをこれからも続けて欲しい。

      お知らせ

 私のホームページ「哲学の広場」が出来ました。「授業参観をどうぞ」のコーナーにはこの「天タマ」も載っています。そのほかに哲学日記(第1回は「心の教育」)、日本語疑典(第1回は「どういたしまして」)などが載っています。ゲストブックには既に読者からの反響が寄せられています。「すてきなHPですね」と書いてくれた看護婦さんもいます。なお、本校に関係する地名、病院名、個人名などは皆匿名にしました。

     「ナース大辞苑」
   (別冊宝島『ナースという生きかた』)から

 ナースの節目にスピーチ──看護学校受験、病院実習、病院の就職面接のたびに「看護婦になった動機」を聞かれる。だから改めてこの質問をすると嫌がるナースが多い。