マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

「天タマ」第20号

2018年12月27日 | カ行
「天タマ」第20号(1999年11月1日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 10月18日も「先生と生徒は対等か」というテーマを続けました。その前の授業で事例研究しましたので、今回は「問題を更に広い範囲に広げて考える」ということをしました。物事を考え深めていく方法としてはこういう方法も大切です。

 「お母(父)さんは私(僕)の話を聞いてくれない」という子供の不満について。そこで問題になっている本当の事は何か。自分が親になった時、子供の話を聞くに当たってどういう事を心掛けるか。

──私は両親に話を聞いてもらえなかったという思い出がないけれども、弟がよく「なんで話を聞いてくれないの!」と言っていたので、それについて書きたいと思います。

 弟が、友達のことを父親か母親に話すとします。両親はそれに対して、何か返事を返したり、「うん」と相槌したりしているのですが、弟は話を聞いてくれないと怒ります。

 怒っている時の状況を思い出してみると、大体が両親が何かをしている時です。父親だったら洗車している時とか、母親だったら夕食を作っている時とかです。聞いてはいるけど、他の事をしながらなので、弟にとっては「ちゃんと話を聞いてくれていない」と感じているのかもしれません。

 自分が親になって子供が話してくる時には、夕食を作っていたら、途中で作るのを止めてちゃんと聞こうと思います。ゆっくりと話ができる時間を作ることが大切だと思います。

 ★ これは多くの人が書いている点でした。つまり、親も忙しい、または忙しい時に話すと聞いてくれないという印象を持つ、ということです。しかし、食事の準備を中断することは現実的でしょうか。食事しながらきちんと聞くとか、日曜日の夕食後に話を聞く時間を作っておくとか、家庭内の制度を作っておくというのはどうでしょうか。

──親身になって子供の話を返さず、親が「上の立場」から物語を言ってしまうことに問題があると思います。子供が成長していく中で、親を含めた大人の矛盾のようなものを感じとります。それを隠して子供に対し、大人という力を出しても、子供はそれを感じ取ります。子供は物分かりのいい親を期待しているのではなく、大人の矛盾したところを見せながらも、なぜこう思うのか、なぜ子供にそう言うのかという理由を言ってくれれば、親は自分の話をちゃんと聞いてくれた、と思えるのだと思います。

 ★ 子供ときちんと話のできない親もかなりいるようですが、逆に話し合う姿勢の出来ている親も少なくないようです。子供は親を選べません。しかも、個人にとっての家庭ないし親の影響度は7割以上だと思います。大人になったということは、親から受けた影響をしっかり自覚して、自分で自分の道を決めていくことだと思います。

 最近は、子供の話を聞いているつもりなのに「お母さんは私の話を聞いてくれない」と言われて困惑する親もいると聞きます。子供を言い負かすのが民主主義だと思っている親の、反論しようと思って聞いている心が伝わってしまうのではないでしょうか。

 子供の意志を尊重するということを書いている人もいました。ベートーベンの親が嫌がる息子をピアノの前に無理やり座らせなかったら、ベートーベンの曲は生まれたでしょうか。最近は二世の選手や芸術家が沢山います。逆に、親の要求に押しつぶされた子供も多いと思います。子供の「意志」をどう考えたらいいのか、難しい所です。

 ★ 看護婦(士)になった時、患者の話を聞くに当たってどういう事を心掛けるか

 皆さんは基礎看護学の授業で、患者の話を聞く態度について教わったようです。曰く、共感的な態度で傾聴する、曰く、鵜呑みにしないで批判的に聞く、と。

──しかし、具体的にどうしていいのかが全く分からず、実習に行った時、患者さんとのコミュニケーションがうまくいっていないような気がしていた。けれども、ずっと側にいて少しずつ私のことを話していったら、患者さんの思いや生い立ちを話してくれた。患者さんの話を聞くのはとても大切だが、患者さんが話をしてくれるようにするには、私のことを知ってもらわなければならない。つまり、受け身の態度ではなく会話として成立させることが大事だと思った。

 ★ しかしここでも「忙しい」という問題が立ちはだかります。

──4月の実習の時、患者さんが「看護婦は話を聞いてくれない」と言っていた。なぜなら、話しかけても足が違う方向を向いていたり、すぐ近くにきても話には上の空だったりするそうだ。看護婦自身も忙しすぎて、どうしても一人一人と真剣に話をすることができない。また、横に座っていても「○○さんの点滴は~」などと違うことで頭が一杯なのだそうだ。看護婦が聞いているふりをしても患者はそれを察し、自分の心のうちを話そうとしなくなる。なので患者にとってはずっと側に居てくれる実習生はよき話し相手だろう。真剣に聞くことで、不安や悩みを話してくれた。嬉しかった。

 ★ しかし、この事は、皆さんが実習生でなく正式の看護婦になった時は〔ずっと側に居ることは〕実行出来なくなる、ということではないでしょうか。さて、どうしたら好いでしょうか。これが問題です。言葉づかいに悩む人もいるようです。

──実習にいくと、決して馬鹿にしたり幼稚な扱いをしているわけではないが、「○○さん~しようね」とか、「~したかやぁ」みたいな言葉を使ってしまうことがある。こういう場合、どこまでが良くて、どこからが失礼なのか分からなくなることがある。信頼関係が出来てきて、このように自然に出てしまうが、やはり失礼なのだろうか。逆に、敬語ばかり使っている方がかえって境界を作ってしまうような気がする。

 ★ 学校で授業や学校のあり方について話し合えるようにするにはどうしたらよいか

 これは問題の説明不足で、分からなかった点もあったようです。私の真意は、「学校や授業のあり方についての疑問を公正に話し合って解決するシステムはどうあるべきか」ということでした。

 授業のあり方について話し合う場があればいいなという気持ちを多くの人が持っていると思います。その方法としては、1対1の面接ではなく、クラス全員で話し合う、その時は円になって話し合う、無記名のアンケートをとる、「天タマ」みたいなもので意見交換、といった提案がありました。

──まず先生が生徒の意見を聞くという雰囲気を持つこと。次に、そういう場を先生や学校側がつくること。「目安箱」のようなものでもいい。先生同士で授業を見合って、生徒になったつもりで、その先生の授業を聞く。

 ★ 皆さんの年齢では無理もないと思いますけれど、皆さんの最大の欠点は、「目に見えるものしか見ていない」ということだと思います。看護婦も教師も個人で行動しているのではありません。病院とか学校とかいった組織の中で働いているのです。

 しかるに、「組織はトップで8割決まる」のです。個々の看護婦の背後に院長の姿を見、個々の教師の中に校長の指導力を見られるようになって下さい。更に大きく言えば、一国の医療制度や教育制度の中で仕事をしているのです。これは根本的には政治の仕事であり、私たちも国民としてかかわっていることです。今後の授業で具体的に考えていきましょう。

  ★ 「天タマ」にある講師の考えについてどう思うか

 これはどうも「授業は教師の実力と情熱で8割決まる」という考えと取った人が多かったようです。19号にはその他の考えもかなり書きました。全部を論じて考えて欲しかったです。しかし、これも私の話し方が不正確だったと反省すべきかな。

──ある先生がテスト後にテストの平均点が悪かったことから、先生が自ら反省をしていました。テスト問題が悪かったのか、授業が悪かったのかと。そんな先生の授業には私もがんばってやらないとな、という気持ちになります。

──教師と生徒の責任の比重は8対2であるという考えにはほっとした。私が今までに教えてもらってきた先生には、ここまで言ってくれる人はいなかったように思う。皆たいてい先生たちは、自分の授業のやり方は正しい、と思っていると思うので、やっと分かってくれる人に出会えたという感じがした。

──予習を具体的に指示するとなると、それは宿題になってしまうのではないか。予習は自主的に行うものである。よって先生は次の授業で何を行うか、どこまで進むかを明確にすべきではないかと思う。

 ★ 「宿題は復習の宿題」とは決まっていないと思います。予習には復習の10倍の価値があります。そして、予習能力は独習能力であり、自立して勉強する能力です。従って、学年が上に行けば行くほど予習の宿題に比重を移すべきだと思います。私のドイツ語の小テストは予習のテストです。「答え合わせをしてからにしてくれ」と言う学生もいますが、「ここは大学である」と答えておしまいです。

          その他

──今日のビデオは宝石ということだった。私の誕生石は12月なのでトルコ石です。私自身はこの宝石はあまり好きではありません。できればダイヤとかルビーといった豪華な方がよかったです。宝石にはいろいろな意味があり、それぞれに含まれている言葉の意味を知りたいと思った。トルコ石にはどんな意味が込められているのかな? 知れば好きになるかもしれないと思った。

──私は宝石を欲しいと思ったことはないが、とてもキレイだなぁと思った。1つの石でも、見る角度や方向によっても輝きや印象が違って、ずっと見ていても飽きない気がした。それは宝石そのものの輝きと宝石の美しさを最大限に引き出そうとしている職人さんの技と心が反映されているんだなと感じた。

──中学校の時の校則は「麁玉〔あらたま〕を磨く」だった。「原石を磨いて宝石になる」ということだ。人間も宝石と同じだと思う。はじめは原石でも磨き続けることで宝石(キラキラした自分らしさ)になることができると思う。そのためには努力が必要である。宝石の種類によって削り方が違う(光の反射の仕方)ように、人間も輝き方がちがう。みんなそれぞれ良い所がまだ眠っていると思う。いつか宝石になれるようにがんばって磨くのみ!!

──私は学校を一歩出ると、社会の一員として会議を司会しなくてはならないことがある。しかし、世の中、男性優位なのか、私より年長の男性に進行をほとんど奪われ、司会しても、「そんな事あとあと!」と進行表を勝手に変えられてしまい嫌になってしまう。

 『囲炉裏端』を読んで、私も対等であるし、会議の運営について真剣に考えたいと思った。前回は皆のアンケートから議題を上げてもらい、レジメにして事前配付したのに、いま一つ思考のまとまりに欠けた。次回は各人の話題中心に問題点を座談会風に話し合う予定だ。そこからいかに結論を導くかは司会の力によるところが大きい。

 ★ 会議のあり方自体をテーマにして話し合う機会を持つ、そしてルールを確認し、時々それが守られているか、改善点はないかを反省する時間を持つ、というのはどうでしょうか。内容について話し合うだけでなく、時には話し合いの形式について反省し合い、話し合ってみる、これが哲学的なやり方だと思います。

──哲学の授業が始まってから「天タマ」を読むことがとても好きになった。みんなの考えが聞けて、どう自分の考えと違うか、この人はこう考えていたのかなど、みんなの考えを知ることができて面白い。それに先生の考え方も知ることができてよい。また早く「天タマ」が読みたい。

 ★ 哲学の授業も軌道に乗ってきたようで嬉しいです。家族や友達とも話してその結果を知らせて下さい。

 こんな「疑問」が寄せられました。

──どうしてこんなにも物事を深く考えなくてはいけないのか、それと、なぜ人に見せなくてはいけないのか、私は自分が考えた事を心にしまっておきたいので、少しこの授業が苦痛です。

 これと関連して、今年は去年に比べて「匿名希望」がとても多いのです。内容的に見て匿名にする必要がないと思うものまで匿名希望になっています。この「天タマ」に載った文がきっかけで今まで話さなかった人とも話すきっかけになったという例が、去年は報告されていました。匿名だとそういう可能性がなくなると思います。どうしてもという場合以外は、匿名は避けてほしいと思いますが、いかがでしょうか。

 尚、この「疑問」は皆で考えましょう。参考になるかなと思うのは、例えば物見の塔というキリスト教の一派があります。この派の学生は柔道とか剣道などの授業に、信仰で禁止されているので参加出来ないと言ってきます。一応、認められているようです。この「疑問」はそれと同じでしょうか。参考までに。

      授業要綱の修正

病気などで休んだかとか授業中にレポートを出したか否かに関係なく、あとでEメールでレポート(2度目になってもよい)を送ってきても構いません。人間の考えは、その場で終わるものではありませんし、哲学はいつまでも続きます。学校という制度がありますから一応区切っているだけです。後から送られてきたレポートでも内容によっては可能な限り「天タマ」に反映させたいと思います。

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