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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

「天タマ」第6号

2018年11月11日 | カ行
「天タマ」第06号(1998年11月13日発行)
                    浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回は皆さんの姿勢について、2・3の問題提起をします。お互いに感情的にならないように気をつけて、対話しましょう。

     「講師の話が分からない」

 こういうレポートがありました。

──〔10月30日の「アンケートの記述」についての〕話の主旨がよくわかりません。哲学との関係性が見えてきません。人間的には自分の気づかない考えや、自分自身の考えを堂々と持っている人は、好意を持っているけど、理解できないとつらい時があります。でも、それは「=嫌い」になるとは限りません。わからないことを「わからない、11月2日にもっとくわしく教えて欲しい」と思います。この言葉を言える授業であることはとても幸いに思います。わからないから嫌いになる、そんな先生は今まで多かったように思います。勉強以前の問題です。

 ★ まず問題にしたいことは、Aさんが「分からない」という言葉で表現していることは、①言葉として理解できない、という意味なのか、それとも②賛成できない、という意味なのか、ということです。

 「それは『=嫌い』になるとは限りません」という言葉からみて、多分、②でしょう。「分からない」という言葉は本来は①の「言葉として理解できない」という意味だと思いますが、日本人はよく②の「賛成できない」という意味に使います。Aさんの場合もそうだと思います。

 しかし、一応両方の場合を考えて、①だとしたら、カンファレンスの時に他の人に相談してみるべきだったと思います。そして、レジュメのどこが「分からない」のか指摘して欲しいと思います。

 ②なら、自分の考えを展開すれば、それで好いと思います。講師の考えに賛成できないと、強く反発する人がいますが、哲学の授業の目的は、「授業概要」に書きましたように、「自分の考えを自分にはっきりさせ、発展させること」です。講師の意見は参考意見です。

 Aさんも全体として、やや興奮気味で、文章がつながっておらず、言葉が固くなっていると思います。これは反省して欲しいです(尚、Aさんも「この授業が嫌いだというのではない」と断っています)。

     「哲学の授業は楽しい」

 もう5回も授業をしたせいか、2日までの宿題のレポートには、授業についての感想を多くの人が書いていました。中には「授業が段々難しくなってきた」というのもありましたが、多くは「一つ一つ〔の事柄〕を深めていくのが、こんなに充実したものとは知らなかった」とか、「どの先生も牧野先生のように、生徒と言い合える機会がほしい」とか、「哲学の授業は他の授業と違って自発性が求められます。そのため、終わった後、軽い疲労感を感じますが、いまはそれが心地よい」とか、「話も関心あることばかりなので眠っている暇などありません。他の先生に見てもらいたいくらいです」とか、「哲学の授業がすごく楽しい」とか、「2回目くらいから、社会に出ていった時の考え方の基本を学んでいるのかなと思った」とか、「哲学の授業では、身近な問題であるのに、今まで考えたことのなかったこと、問題としてみていなかったことを考えていくので、新たな発見が一杯あり、おもしろいです」といったものです。「哲学の時間はすぐ終わってしまいます。それだけ充実した内容なのだと思う」という意見も複数あります。

 確かにこう言われれば嬉しいに決まっています。まず感謝します。しかし、本当を言うと「嬉しさも中ぐらい」です。なぜなら、皆さんが「他人を褒める時は陰で褒める」という原則を実行しているとは思えないからです。ゴマスリを書いていると感じるほど、私と皆さんの関係はもう浅薄ではないと思いますが、「どの先生も牧野先生のように、生徒と言い合える機会がほしい」とか、「他の先生に見てもらいたいくらいです」というのは、やはりどこか別の所で言った方が適切だと思います。

 去年の生徒がもし「怖い先生だ」と教えた先生達に、「〔牧野先生は〕怖くありません」と言っていたら、今年はそういう噂は出なかったと思います。この噂は別に大した問題ではないのですが、要するに、「褒めるのは陰で褒める」という原則を皆さんはどう思うかということです。


     『天タマ』をがんばって欲しい

 「がんばりすぎて体調を崩したので、少しセーブしなければならない」と言いましたが、声援はいただいています。しかし、その声援にも2種類あって、A・ただ「がっばって下さい」というのと、B・「がっばって欲しいが、ムリをしないで」とか「金・月をまとめて1回ではどうか」といった提案などのあるのと、あります。自分の気持ちから出発するのは当然ですが、それをそのまま出すのではなく、相手の立場も考えて発言し、行動するのが大人ではないでしょうか。Aの発言は少し冷たいと思います。

 又2日に、1組の人から「〔今日は〕『天タマ』が配られなくて残念でした」という言葉もありました。これは誤解で、授業の終わりに配るということは伝えてあり、黒板にも書いてあったのですが、気づかなかったのでしょう。

 しかし、たとえ実際に配られなかったとしても、「『天タマ』がなかったけど、具合でも悪かったのですか?」と言うのと、どちらが親切でしょうか?

 「休憩」がなかった場合でも、なぜなかったのか、授業の組み立て方が悪くて休憩が取れなかったのか(これは教師の責任)、どうしても休憩を取る時間が作れなかったのか、一度考えてから発言するのが大人ではないでしょうか。

     VTR「病院、採点します」を見て

 知らない人が多かったようですが、こういう医療評価機構のようなものを作ることは好いことだという点で、皆さん一致していたと思います。改善点についても、ビデオに言われていた事が支持されていました。

 ここの病院がこの評価を受けたら、ということを考えた人も何人かいました。Bさんは「合格できるのではないか」として、内装の新しさ、患者をあきさせない、薬が院外処方である、待合室がロビーで広い、カルテも個人で1冊である、カンファレンス室や治療室
に戸がある、といった点を挙げています。

 Cさんは、病院や歯医者などは夜も開いているとよいのだが、と提案しています。同感です。徳州会系の病院はたしか夜も診察すると思います。役所も夜9時までやっている曜日とか、月に1回は日曜日にもやるとかするべきだと思います。

 Dさんは、学校にも評価団体が入ったら面白いと指摘しています。これも賛成です。学校の問題はそのうちに取り上げましょう。

 しかし、この評価機構(評価表)もNHKの人もゲストの人も、「組織は内部の研鑽体制(話し合いのシステム)が一番大切である」ということに気づいていないと思います。

 「長」の付く代表者だけの会議。それも30人以上集まって、二重の輪になって座っている。こんな会議で本当の話し合いが出来るのでしょうか。平の看護婦や看護助手はどこでどのように意見を言えるのでしょうか。下の人の方が本当の事を知っているのではないでしょうか。

 本県でトップを切って認定証をもらったS病院でも、皆さんの先輩でそこに務めるTさんは「何かあったみたい」と言っていました。つまり、平の看護婦レベルには浸透していないのです。あの番組にも朝日新聞の社説にも、こういう「本当の話し合いを保証するシステム」に対する問題意識がゼロでした。これが13日のテーマです。

 前回までは「組織はトップで8割決まる」と言いました。今回の事を合わせると、「トップの第1の最大の任務はその組織内の意思の疎通のシステムを絶えず改善すること」となります。この哲学の授業も始めからこうだったのではありません。皆さんの意見を聞き、他の人の実例を学び、反省して少しずつ改善してきたのです。

       成績について

 成績は皆さんの年からABCDEでつくことを知りました。Cを「真面目に努力した」とします。これを標準として、特に優れた点がある場合はBとし、それが大いに優れている場合はAとします。逆に、水準以下の点がある場合はDとします。

 C以外は、いずれも根拠を書きます。中間に一度成績を出して欲しいという要望については、少し考えます。アンケート形式にしたら、という提案は、今年はできないと思いますが、事実上今のでも項目別評価になっていると思います。

 成績の客観性を問題にする人がいます。これは哲学などの場合ではいつもいます。曰く「先生自身の考えが入ってしまう」、曰く「レポートの点数(悪い点だった)だけ書いてあって、コメントも何もなかったのは、納得がいかない」など。

 私の見る所では、ここには3つの問題があると思います。①数学などの成績は客観的だが、哲学の成績は客観的ではありえない、と多くの人が考え、言っているが、この考えは正しいか、②レポートで評価すると、文章のうまい人が有利になる、という考えをどう考えるか、③レポートで評価する場合、その根拠の説明が欲しいという要望をどう考えるか。

①は人間の価値判断は客観的でありうるかという難しい問題につながるのですが、それはともかく、こう考えたらどうでしょうか。数学の試験でもどういう問題を作るかは先生の主観であり、それによって成績は左右される。逆に、例えば音楽のコンクールなどで優勝した人はたいていその後世界的な音楽家になっている、つまりああいう評価も結構客観的である。私は、成績がどの程度客観的かは、その学問なり対象には何の関係もなく、ただ評価する人の能力と公正感覚によるだけだと考えています。

 ②については、Eさんは「他の学科はその先生の見方があるから、哲学は哲学の評価があっていいと思う」と書いています。同感です。哲学で要求される方面に得手な人は哲学では有利になる。当然ではないでしょうか。もしこれが悪いとするなら、走るのが速い人が体育で有利になるのも不公平だということになります。

 ③は、やはり根拠を説明するべきだと思います。

         その他

── 朝の通学電車の中で『囲炉裏端』を読んでいます。久々に字ばかりの本ですが、結構はまって読んでいます。もう少しで読了です。(Fさん)

── 〔レポートが宿題だったので〕ゆっくり時間をかけて、納得のいくレポートができると思う。(Gさん)

── 教師にはテストの成績(教科の理解度)を教師自身に対する理解度と勘違いしている人がいる。そして、好き嫌いの感情を持つ。しかし、高校の時のある数学の教師は「テストでいい成績をとれないのは生徒が理解できないような授業をしている教師が悪い」と言って、わからない所を聞き、そこを補強するという態度だった。お蔭で嫌いな数学が普通くらいになった。(Hさん)

 ★ 教師は生徒を嫌ってはならないという前半は賛成です。生徒の素質ややる気といった前提条件がありますから、全員に同じように理解させるのは、原理的に無理だと思います。これを口実にして授業の工夫を怠るのも間違いですが。

 私は、大学では、やる気と才能のある学生を最大限伸ばすのが教師の仕事で、下の人は60点に達してくれればよい、と考えています。現在の哲学の授業でも理解度は一人一人違うと思います。

── 病院付属のふたば保育園では、看護婦の子供だけ預かると聞いています。S病院ではその病院で働く人の子供はみな預かっているそうです。それにしても、1クラス15人に保母3人以上で、保母の多さにびっくりしました。(Iさん)

 ★ 患者に対するサービスと比較して、身内の者にばかり親切すぎるということはないのでしょうか? もしそうなら、公務員のあり方として問題だと思います。

- 病院は奇妙な空間だと思う。服を脱ぐにしても、なぜ病院の中ではあんなにも当たり前で、事務的なんだろう。(Jさん)

- 今日(30日)の休憩時間に「明るい悩み」の相談の本を読んで、見事私が「アタックNo.1」という所を読み、「♪苦しくったってえー♪」という所を本当に歌ってしまいました。ここは歌わなければ、と思い、はずかしながらも歌いました。本当にはずかしかったです。(Kさん)

       NHKラジオ深夜便

 皆さんは、NHKの「ラジオ深夜便」という番組を知っていますか? もう始まって10年くらいになると思います。眠れない中高年の人々を念頭においた落ちついた番組です。NHKのベテランまたは退職した名アナウンサーを選りすぐってアンカーマン(ウーマン)にしています。その知識と人格とが番組の味となって、聞くものに安らぎと喜びを与えています。そのため物凄い人気です。

 各地で「深夜便の集い」が開かれています。その模様が放送されるのですが、その発言を聞いていると、まるで恋人に会いに行くような雰囲気です。今では「ラジオ深夜便の治療効果」ということすら言われるようになっています。この番組を聞いている年寄りが元気になってくるというのです。最近何かの賞をもらったはずです。

 入院患者でもこれを聞いている人は多いはずです。若くて健康な皆さんはこれを聞く機会は少ないでしょうが、患者との対話のための予備知識として。

      授業の記録

    11月2日(月)
講師の話 - 裁判について
VTR 「病院、評価します」を見る。病院の評価から1年の「社説」
カンファレンス - なし
休憩 - なし
レポート

 ★ 第1回のアンケート「より良い授業のために」を宿題とした。1組では全体カンファレンスのために15分取った。宿題のレポートと今回のレポートの2つを持ち帰った。


「天タマ」第05号

2018年11月08日 | カ行
「天タマ」第05号(1998年11月 2日発行)
                    浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回はレポートが宿題になりましたので、レポートについての報告などはありません。今まで載せられなかった事、先輩たちの書いたものなどを特集してみます。

       学習日記から

1995年9月29日(金)3限
 初めに、日本の女性について。資料にあった日本の女性の世界での位置は、私にとっても印象強く、がっかりさせられた。日本で男女平等とさけばれ、最近では政界にも女性が多く見られるようになったので、かなり平等になってきたのだと感じていたが、「女性の社会進出度指数」の27位には、期待をうらぎられてしまった。世界女性会議の参加状況にも現れているが、日本人の性格である実行力のなさを破らないといけないと思う。口や頭だけでなく、実行していく行動力が必要だと思う。

 次に、いじめについて。個人的には、私の周囲で今までにいじめというものはなく、逆に生徒と先生の間柄はとてもよかったので、資料の恵さんほどに問題になってしまうのが考えられない。先生も行き過ぎだと思うが、恵さんも、もっと冷静になったらよかったのではないかと思う。又、先生もおっしゃっていたように、親が中に入ったり、子供と共に考えていたら、もっと丸くおさまったのではないかと思う。(21回生)

1997年1月10日(金) 4限
 初めに1月の授業について先生の意見をうかがった。「1月は授業がやりにくい」と先生は言う。冬休みが終わり最初の授業が今日で次回が2月の終わりになってしまい、授業間隔があきすぎる程、あいてしまっているため、前回の授業内容とのつながりが薄くなってしまうからである。人間は忘却の生き物であるので、記憶は話を聞いた直後から薄れて行く。それは先生でも生徒でも同じであると思う。授業を行う先生も記憶をたどりながらの進行で大変だが、生徒も記憶をたどりながらの授業で、けっこう大変である。

 ケーキのレシピについて、先生がなぜケーキを作るようになったかという理由を聞いて、先生の家の父親と娘の関係に大変興味を持った。以前、授業で家庭内の会話が激減しているという話を聞いた。我が家においても言える事だが、家庭内の会話でも特に父親と娘の会話はすごく減少していると思う。先生の家でも我が家と同じく、父親と娘の会話は少ないらしい。

 しかし、先生が家に一人でいる事の寂しさをまぎらわすためにケーキをつくり、そのケーキを先生の娘さんが批評する事によって、娘さんとの会話がはずんだ。先生はそれからケーキを作り始めるようになったと言う。

 女性は大半の人が甘い物が好きである。甘い物を食べている時は、すごく幸せな、やさしい気持ちになる。「先生が作ったケーキ」と「女性の好きな甘い物(ケーキ)」という父と娘においての共通点ができ、また、「先生(男性)が作った」という意外性と、「甘い物を食べている時の気分」が会話を盛り上げたのだろうなと思う。

 「娘さんとの会話がはずんだ」と話している時の先生の顔はうれしそうに笑っていて、自分の父親も私と会話がはずんだら、先生みたいにすごく喜ぶのかなと思った。「父の日のプレゼントは話をしてあげるのが一番喜ばれる」と、男性であり父親である先生がそう言うのならば、年に一度意識的に父親との会話の機会を設けてもいいかな、と思う。

 休憩では、「指圧」についての話を聞いた。高校生の時、自由研究でも体の「ツボ」について取り上げた事もあり、すごく興味を持った話題であった。しゃっくりを止める指圧は初めて聞いた。時間がたって、ちょうどしゃっくりが出たのでためしてみたら、その効果か否かはいまいち分からなかったが、止まった。信じる者は救われると昔から言うので、指圧の効果であると信じておこうと思う。(22回生)

1997年12月5日(金) 4限
 今日の授業では「先生と生徒の人間関係、好き嫌いの関係」をテーマに、先生のレポートを基にして考えた。

 「善悪と高低と好悪を区別して考える」については、私も「好きだ」という言葉をよく使うということに気づいた。「好き嫌いに理由はない」と逃げられるというのも、全くその通りだと思った。なぜこう言ってしまうのか。私は、自分の言葉に自信がないからではないかと思う。「好きだ」という言葉で答えをあいまいにしてしまっている気がする。

 「教師と生徒の感情的な関係」については、平等にも二つの平等があるということが印象的だった。また学校での成績評価も私はとても興味があった。個々の生徒に対する好悪を持ち込まないで評価してほしいと思う。成績が何を基準につけられているかわからない。先生がおっしゃったように、成績に対する理由があってもいいのではないかと思う。また、教師に生徒に対する好悪を持ち込まないでほしいと思うなら、生徒側も教師に対する好悪の感情を態度やアンケートに出すべきではないと思う。

 今日の休憩は恋愛の歌をよんだ。二首ともとてもステキな歌だと思った。こんなに短い歌の中に、あんなにたくさんの「想い」が込められているのかと思うと、恋をするということはすごいことなんだと思った。また好意度診断テストはすごく盛り上がった。いろんな人に試してみたいと思った。(23回生)

      「群盲、象をなでる」

 この譬え話は古くからインドのバラモン教やジャイナ教の人々の間で使われていたそうです。仏陀(ゴータマ、というのが本名)もこれを使って弟子を教えたことがあるようです。日本には中国をへて、いろいろなルートで入ってきたようです。

 象のそれぞれ勝手な部分に触れた盲人が、自分の触った部分を象の全体だと思い込んで互いに争ったということです。牙に触った人は「象とは犂の先のようなものだ」と言い、脚に触った人は「柱のようだ」と言い、~というわけです。ここからどういう事が分かるのでしょうか。

 小学館の『現代漢語例解辞典』は「物の一部のみを見て、全体の把握のできないことのたとえ」と解説し、集英社の『暮らしの中の国語慣用句辞典』は「凡人は大人物や大事業の一部分しか理解できず、広い視野で全体を判断することができないという時のたとえ」と説明しています。

 講師の解釈(昔の人はこう解釈したのだろうという推測)

① 人間の(ある対象についての)認識は完全ではありえない。
② その事を自覚せず、自分の知っている事実だけから、全体を勝手に推測しながら、そ れと気づいていないことがある。これを盲人に譬えた。
③ この種の「盲人」が議論しても結論は出ないし、本当の事も分からない。

 講師がここから更に引き出したい結論

④ ①はその通り。
⑤ 百パーセントの認識はないが、人によってどの程度完全かの違いはある。従って、個人は自分の認識がどの程度かを自覚して判断し、発言するように心掛けるべきである(ここで言う「盲人」にならないために)。

⑥ 話し合いでは互いに自分の認識の程度を自覚しながら話し合うことが大切である。より高い認識を持っている人がより低い認識を持っている人よりつねに正確な判断をするとは限らないから、高い人が低い人の意見を聞くのも有効である。ただし、低い人は自分の低さを自覚しながら発言するべきである。

⑦ 社会的に通用する認識の程度というものがある。これを仮に60パーセントとすると、それ以上の認識を持っている人は「(その対象について)知っている人」「識者」と言える(この60パーセントというのは、単に量的に理解するのではなく、質的につまりその対象の本質を一応理解しているという意味に理解するべきである)。

⑧ 自分にとっては未知の或る対象について、誰かに聞く時には、相手の認識がどの程度一面的かを考えながら聞くべきで、鵜呑みにするべきではない。

──「哲学の先生は怖い先生だ」という「噂」にフンガイして、私はここまで考えました。哲学の先生は怖くはないけれど、理屈っぽい。これは当然でした。──

      ビデオ「大隈通り」について

 専門学校生であることにコンプレックスを持っている人が多いという手紙を、元生徒からもらいました。又、第2志望でここにきている人もいるそうです。そういう人を傷つけるかな?と思いつつ、敢えて取り上げました。

 感想を読んでいると、やはり自分もこういうのを経験してみたかったという声もあるようです。しかし、テレビは好い面だけ描いているということもあると思います。ウィーンのハイリゲンシュタットのベートーベンの散歩した小川なども、「名曲アルバム」の背景ではとてもきれいでしたが、実際はそれほどでもありませんでした。

 それはともかく、専門学校で教えてみて、クラスがまとまっているということの良さを感じています。皆さんが、「自分たちは大多数の大学生より充実した勉強をしているのだ」という誇りを持てる授業にしたいと思います。

 この哲学の授業は、皆さんの友達が大学で受けている哲学の授業と比較してみるとどうなるでしょうか? 冬休みにぜひ友達と話してみて、その結果を報告して下さい。レベルの高さ、内容の多彩さ、話し合いがどの程度充実しているか、先生と生徒の交流がどの程度あるか、などで比較して下さい。

      アプヘェル・クーヘン

 東京の銀座に「ケテル」というドイツ料理の店がある。散歩の途中でお茶を飲みに入った。リンゴのケーキも取った。美味しかった。もっと沢山食べたいと思った。随分昔の話である。

 ドイツでケーキの作り方を習ってきたという人が、4~5年前、NHK・TVで「アプヘェル・クーヘン」(英語で言えば「アップル・ケーキ」)の作り方を教えていた。忘れもしない昔の片思いの人に再会した気分だった。ビデオに取って練習した。

 いろいろと作ってみて、これはリンゴを味わうケーキだということが分かった。好いリンゴ(と言うのは、農薬と化学肥料で作られたのではない本当のリンゴ)でないと、本当の味が出ないことも分かった。

 私の通う病院から少し先に行った所に、H農園がある。そこでおばあさんが自家用に好い「ふじ」を作っていた。それを発見したためにこのケーキは我が家の秋を代表するケーキとなった。去年、「今年もアプヘェル・クーヘンの季節が来たんだな」と思いながら、H農園に車を走らせた。おばあさんには会えなかった。息子さんらしい人が「あのリンゴは止めた。木も切った」と、教えてくれた。私は呆然として立ちすくんだ。

 去年は生協で「完熟リンゴ」とやらを買って我慢した。今年は人に紹介されたものを買ったが、ニセものだった。本当のリンゴはどこに行ってしまったのだろう、と考えてながら、もう少し探してみようかと思っている。

        授業の記録

   10月2日(金)
講師の話──「授業要綱」を配り、その1枚目だけ説明した。
カンファレンス
 (1) 学級通信の思い出(どういう教科通信を貰ったかを含む)
 (2) 自分の受けた道徳・社会・倫理の授業
 (3) 「授業要綱」について
 (4) 成績について、内申書について
 (5) その他(「その他」は毎回あるので、今後は記さない)
休憩・「日本一短い家族への手紙」から10通を読む
レポート

    10月9日(金)
講師の話……金大中韓国大統領が来日して「未来志向の関係」を確認した、ということが
   報じられていたので、朝鮮と日本の歴史的な関係についておさらいした。
カンファレンス
 (1) 新米の看護婦が、患者に、「あなたでは心配だから、他の看護婦に代わって」と言われた。これをどう考えるか。
 (2) 市看における縦の関係を強めるための方法
休憩・「ディベート甲子園」のVTR
レポート

   10月16日(金)
講師の話──レポートを読んだ感想。教科通信に書いた事の説明。
カンファレンス
 (1) 病院における苦情処理のシステムの現状とその改善案
 (2) 市看における苦情処理のシステムの現状とその改善案
 (3) 「天タマ」について
休憩・VTR「大隈通り」
レポート

    10月19日(月)
講師の話
 (1) 「組織はトップで8割決まる」
 (2) 欠点や間違いについて考える場合、根本的な欠点と部分的な欠点とを分けて考える必要があるのではないか。
 (3) 「先生の授業は早すぎて分からない」と言ったら、「予習や復習をしていないからだ」と逆に説教されてむなしかった、というレポートについて。
 (4) 昨年の学生版「アンケート」での「自分の考えが一番正しいと思っている」及び「理解不可能な人」という批評について
カンファレンス
休憩・心理テスト「あなたの恋愛のタイプは?」
レポート

   10月30日(金)
講師の話──学生版アンケートの発言「自分の考えが一番正しいと思い込んでいる」をど
   う考えるか。善悪と高低と好悪の区別。教師と生徒の好き嫌いの関係、など。
カンファレンス・(1) 講師の話、(2) 「授業要綱」の「(5) 成績」
休憩・中島らも『明るい悩み相談室』から2編を読む。
全体カンファレンス・学生版アンケートをどうするか。

「天タマ」第04号

2018年11月05日 | カ行
    「天タマ」  第04号 (1998年10月30日発行)

       浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 皆さん、〔恋愛のタイプの〕心理テストの結果はいかがでしたか? 自分の思っていた通りの「恋愛のタイプ」と出ましたか? 

 「先生は私たちが興味を持っていることまでわかっているなんて、すごいな!と思った」と書いてくれた人もいましたが、皆さんが率直な感想を書いてくれるから一人でに分かってくるのです。授業は教師と生徒の共同作品です。

 それにしてもこの心理テストに取り組む皆さんの態度は真剣そのもの。圧巻でした。

 「好意度診断テスト」の方はどうでしたか? 何番で盛り上がりましたか? アンケートを取ってみましょうか?

     組織はトップで8割決まる

──ここの病院の或る病棟に実習に行った時、私は「何て居心地のよいナースステーションなんだろう」と、そこに入った瞬間に思いました。その前の実習ではすごく居づらい雰囲気で、そこに居たくないと感じていました。それを先生(指導教員)に話したら、「こ
こは婦長さんがしっかりしているってことだよ」と教えて下さいました。

 確かにその通りだと思います。そこのナースステーションでは、看護婦同士、看護婦と医師、助手、その他の医療スタッフとの間で穏和な会話が時々ありました。もちろん婦長も含めて。そして、常に病室に患者さんの様子を伺いにいく婦長の姿が見られました。前
の病棟はみんな黙々と働くばかりで、余裕なんてものはなく、堅苦しいだけだと思いました。

 ★ とても好い実例を紹介して下さったと思います。これはこの通りだと思います。しかしここで終わっては哲学の授業の意味がありません。ここに止まらないで、もう一歩先まで考えて欲しいのです。そこで、次の問題を考えて下さい。

 A病院では、分かりやすく点数で表しますと、婦長の出来が90点から30点まで大きくバラついていたとします。B病院ではそのバラツキが小さく、どの婦長も60点以上だったとします。この違いは何によって説明されるでしょうか?

──講師の考え。総婦長と院長の違いによる。

 「ここのような大病院では院長の目が全てに行き届くのは難しいのではないか、忙しいから」という同情論もありました。これから皆さんも世の中に出ていくと「忙しい」という言葉をよく聞くと思います。

 「忙しい」って何でしょうか。「仕事がある」ということだと思います。しかし、全体を見るのはトップの「仕事」ではないのでしょうか? 忙しいからしなくて好いというものではないと思います。

 つまり、ここには2つの場合があります。(1) 仕事量が人間の能力を越えていて、誰がやっても無理な場合と、(2) そのトップの能力と情熱が不足しているために、すべての任務を全うできない場合と。

 (1) の場合は組織を小さく分割するしかないと思います。(2) なら、適任者に代わってもらうべきでしょう。「忙しい」の中身を検討しないで、これを放っておくのは正しいとは思えません。

   欠点を根本的なものと部分的なものとに分けること

──私たちが嫌いになる先生は、根本的に60点以下だから、アンケートをしても意味がない。問題はそれをどう伝えるか、どうやってその先生に分かってもらうか、である。根本的に嫌いな人は、その人の全てを受け入れられなくなっているわけで、その人が学校を辞
めるか、私たちがやめるか、どちらかしかない。何かが起こらない限り、和解は絶対にない。お互いがお互いをさけ、悪循環を引き起こす。生理的に受け付けないとはまさにこの事なのだろうか?

 ★ 少し感情的ではないかなという気もしますが、正直な気持ちではあるのでしょう。どうしたらよいのか、授業で考えましょう。

 このテーマは難しかったようです。設問を、「授業要綱の(4) をどう考えるか」とすると具体的になって考えやすかったかもしれません。

   下位の人の話を聞くときには、その場で反論するな

──私達は〔カウンセリングの〕授業で、人との接し方、聴く態度などをならう。人の話を聴く時は、否定・批判をせず、まず共感的・理解的な態度で接するべきだと、先生達が教えているのに、その先生達の中に、私達の言ったことに対してすぐに反論・批判をする
人がいる。これでは説得力がない。

 ★ 同趣旨のレポートがかなりありました。私は、哲学の第1前提は感情的にならないことだと思っています。私の通っていた大学院の或る教師はよく大きな声を出していました。私は教室から出てきてしまったこともあります。

   アンケートの発言(「自分の考えが一番正しいと思い込んでいる」及び「理解不可能な人」)について

──生徒の意見はひどいと思う。今まで、先生の授業を受けて、どう思っていたのか。心の中で批判ばかりしていたと思う。かわいくない。信頼関係が成立していない。生徒は根本的欠点と思っていたのに、約束だった上の人への相談をせず、アンケートで言っている。ルール違反である。

 ★ 「理解不可能な人と簡単に言える人の方が、私にとっては理解不可能な人です」と反発していた人もいます。逆に、「アンケートは名前を書かないから、どんな意見が出てもしょうがない。書いてもよい範囲があるなら、〔悪い事と同様に〕どんなに書きたくて褒めたくて、良いと評価したことも制限されなくては、フェアじゃない」という意見もありました。この問題は30日の授業で詳しく取り上げます。

   アンケートでの記名・無記名についての講師の考え

 (1) 根本的に悪い先生だと思っている人は、管理者に抗議しているはずだから、出席している人は一応「先生」と認めているはずです。すると、アンケートに欠点(と思うこと)を書くときでも、部分的な欠点なのだから、原理的には、記名で言えないことはないはずです(部分的欠点を指摘されて仕返しするような教師は、その点で「根本的に間違った教師」です)。私は、指摘してくれた人の名前を見て、その人に対して「さすがに○○さんだな」と思ったことが何度もあります。記名の大メリットです。

 (2) では、無記名のアンケートは要らないのか? いや、必要。
 名前に用のない統計のためのアンケートの場合。記名では「ごますり」等と思われるから書きたくない褒め言葉を書く場合。一般的に言って、「人を褒めるのは陰で言い、批判は直接言う」というのが原則ではないでしょうか。去年、1組のTさんの異才を2組で褒め
ました。Tさんには、「2組であなたの噂話をしちゃった」と言っておきました。

     心理テスト

──自分の恋愛のタイプは、自分が考えていたのとは反対で、「本当に?」って感じです。なかなかおもしろい。型にはまった恋愛なんてないと思いますが、これからの私の恋愛に生かしていくのもいいと思う。今は相手がいないのでこういう結果なのかもしれないけれど。相手ができたらきっと変化するでしょう。その変化が恋愛のおもしろさ、と思っている私は、やっぱりルダス型!?でしょうか。

     「天タマ」応援歌

──「天タマ」をいつも楽しみにしています。「あ、これ私と同じこと考えてる」とか、「みんなこんなことを考えてるんだ」と分かって、とっても楽しいです。病院の人や学生、先生達と「天タマ」みたいに意見の言い合える通信があったらいいのになあ、と思いました。

──「天タマ」はいつもいろんな事を考えさせてくれるので、とても好きです。前回の授業で考えたことについて、先生がもう一歩ふみこんだ意見を書いてくれるので、こういうことなんだ、と再確認するとともに、自分の考え方の偏りというか、足りない部分が見えてくる気がします。~大変とは思いますが、ずっと続けていってもらいたいです。

     その他

──授業の回数を重ねるごとに、だんだん先生のことが分かって(!?)きたみたい。先生は私たちのことを〔高校生以上になると先生と生徒の〕考え方は同じ、と言ってくれて、嬉しかった。先生方は立場は上でも、そういう気持ちで接してくださると、私たちもやる気
になります。

 ★ これは単純ではないと思います。要点だけ言います。人間の考え方は、2歳で言葉を使い始めて第1段階。3歳で「どうして?」という発問を覚えて第2段階。15歳前後で思春期になって「人間とは何か」を考えるようになって第3段階に達します。皆、ここで
「考え方としては」終わりです(だから高校生以上は教師と考え方は同じ第3段階なのです)。ヘーゲルという哲学者が初めてこの上の第4段階を発見しました。

──昨年までのことはいざ知らず、今年の哲学の講義はとても関心が持て、興味がそそられる。前日に、「明日はどんな講義内容なのかな?」とか、「レポートの感想はどんなかな?」とか、つい考えてしまう〔……恋人に会いに行く雰囲気ですね……〕。この講義では、今まで見えなかった問題について問い正してみたり、牧野先生個人の考えや、仲間の考えを知ることが出来るからである。

   スイートポテト・ババロア

  ──味覚の秋です。ヘルシーでシックな一品を!──

 ① ココアスポンジをパウンド型で焼いておきます。160 度、30分
 材料・・卵2個、砂糖65g、粉50g、ココア大さじ1、牛乳大さじ1

 ② ゼラチン8gを40ccの水でふやかしておきます。
 ③ さつま芋約150gを蒸して裏ごしして、さつまいもペースト100gを作っておきます。

 ④ 牛乳60ccに砂糖30g を加えて、約60度に熱し、火を止め、②を加えて溶かします。
 ⑤ 別のボールで卵1個をほぐし、③を少しずつ混ぜ合わせます。

 ⑥ ⑤に④を少しずつ加えてよく混ぜ合わせます。ブランデー15ccを加えます。
 ⑦ 生クリーム140cc に砂糖20g を加えてホイップします。⑥を加えて混ぜます。

 ⑧ 紙を敷いたパウンド型に⑦の半分を流し、冷蔵庫で冷やします。
 ⑨ 型より一回り小さく切ったココアスポンジを中央に置き、残りの⑦を流し、底になるスポンジをのせて冷蔵庫に。
(森山サチ子『和風ケーキ』ひかりのくに社、から)

「天タマ」第3号

2018年10月30日 | カ行
    天タマ  第3号

1998年10月19日発行  浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 授業もレポートも3回目となって、皆さん益々乗ってきたきたようです。

ここの病院の苦情処理システムの現状とその改善案

 これについては、①患者の病院に対する不満、②実習生の病院に対する不満、③患者の実習生に対する不満の言い方に対して、と3種に分けられます。

①についての代表的な意見を紹介します。

- 今、ここの病院には苦情を言えるシステムなどない。苦情がくるといえば、患者の家族が直接ナースに言いにくるくらいだろう。しかし、実際には患者が病院に対して不満を持っている事は多い。ただ病院に苦情を言える設備がないだけのことである。

 私も実習を通して患者の不満の声をいくつか聞いた。例えば「ロッカーがないから荷物を置けない」、「ここではCTばっかりとっているが、体に害はないのか。それにお金がかかってしょうがない」、「看護婦さんはすぐどこかへ行ってしまって、私の話を親身になって聞いてくれない」等である。

 これらは患者から見た不満であるが、私達学生から見ても看護婦さんに対して不満がある。例えばお風呂に入れない人に対してタオルを配っているが、検査等で病室にいない時もタオルを配っているので、冷たいタオルで体をふいている患者さんがいたり、食事の30分前からエプロンをさせられ車椅子に抑制されテーブルの近くに座らされているお年寄りの患者さんがいたりする。

 本当に患者さんのための看護をするためには、やはりアンケートを配ったり、苦情について医療従事者が話し合う場をつくらなければならないと思う。

 ★ その他。前回の実習の時、患者さんが「ドクターにいろいろ聞きたいけれど聞けないのよ。みんなそう思っているわよ」と教えてくれたとか、「態度の悪い看護婦に患者さんが激怒して怒鳴ったという事件があったそうだが、その時に看護婦が『何を言っているの、この人は』という感じで、笑って済ませるという様子で、特別な謝罪はなかったらしい」という噂を紹介していた人もいます。

 逆に、患者が褒めていた例としては、「婦長は他のナースと違って全体をみて行動しているから、ちょっとの事でもすぐ気がつく」と或る患者が言っていた、というのもありました。

 改善案としては、看護婦に(は忙しくて)できない事を学生が(時間があるので)できるようにするというシステムが提案されていました。

 又、改善点を提案し合うための悪意のない自由な苦情処理システムがあるといいと思うという意見ももっともだと思います。

 他の病院の実例として、入院時に患者に1冊のノートを渡し、毎日、そこに色々な思いを書いてもらって、患者と看護婦の交換日記みたいなものにしている、という実例の紹介がありました。

 問題点も解決案の核心も出ていると思います。要するに、学校とか病院とかは、原則として、大きくなればなるほど悪くなりがちである、ということです。

 市看は割合に好い学校だと、私は気に入っていますが、その理由は、①小さいこと、②国家試験があること、によると思います。そして、人間関係では、人間の中にある負の要素=悪意を直視すること、人間は誰でも悪く言われるのは嫌なこと、を考慮する必要があると思います。

 では、どうしたらよいか。その時、どんなシステムも結局は人であり、組織はトップで8割決まるということを知っておくことだと思います。つまり、トップにやる気があって、改善しようという雰囲気が全体にあることです。

 それを偶然にしないために、トップと組織全体を外部から評価するような制度を作ることが、そういうシステムの根本だと思います。

 ② 実習生としての不満もかなりあるようです。

次のは必ずしも代表的な意見というわけではありませんが、明確に不満点を挙げているものを紹介します。

──私たちも病棟に実習に行って結構不満を感じています。(本校の)先生は病棟の看護婦さんとそれほど深く接していないから気づかないようですが、直接指導してもらっている私たちは不満をもっています。

 私たちは学校の物品であればどこに何があるのか、どういう風に使ってよいのか分かるけれど、病棟のものはどこにあるか分からなかったり、どうしていいか分からずに看護婦さんに聞くと、すごく無愛想に言う。

 また、私たちが選んで午前中から病棟に行くのではないのに、或る看護婦さんは「なんでこんなに忙しい時にくるのかねえ。午後からにしてほしい」と、私たちに聞こえるように言った。

 私たちではなく、先生に直接言ってくれれば、なぜ午前中から来るのかという理由も分かりそうだし、病棟の意見も私たちに伝わってくる。だから、私たち学生の不満、病棟の看護婦の不満を伝える機会を作ってほしい。

 ★ この点については、実習の最後に、婦長が「不満があったら言ってほしい」と意見を求めたという話もいくつありました。しかし、それでも言いにくいようです。

 これは実習生と看護婦(病院)との関係だけでなく、看護婦同士、医者と看護婦、看護婦と看護助手といった間にもあるようです。これが大問題なのです。

 根本的には私は①と同じだと思います。人間は誰でも否定的な事を言われると好い気持ちがしないという人間心理をどう処理するかに関係します。しかし、特殊的には、看護婦が忙しすぎるという労働条件的な面も考慮する必要がありそうです。

 ③ 実習生としての態度について患者から間接的に不満を言われたことを取り上げている人が一人いました。

- 実習中の私たちの態度を看護婦に、学校に電話のみで「態度が悪かった」と言われたりしますが、直接でなく、学校の先生を通しての間接的な形では、納得できないと思ったりします。おまけにこちらはこの先就職の事とかいろいろあるから、強く言えない。

 指導してもらう時も「私たちのためを思って言ってくれるんだ」と思う時もありますが、なんか明らかに悪意を感じるという時もあります。

 患者も言いたい事がいろいろあるだろうと思う。学生にそれを言う患者さんもいます。でも私たちが言われた事を報告しようと思っても、病棟の誰に言ったらいいのか、分からない。ソーシャルワーカーがやってくれるのかな、と今までは思っていたけれど、違うのでしょうか?

 病院も内側から変わらなければダメだと思う。病院の職員には、サービス業だっていう自覚のない人もいろいろいると思う。

 ★ 批判は直接が好いか、それとも間接が好いか、という問題はよくよく考えるべきでしょう。授業で取り上げましょう。これはアンケートは匿名か記名かというテーマとも関係します。

 尚、ここの病院には意見箱みたいなものも置かれているようですが、あまり知られていないようですし、大して機能していないのではないかという意見が大勢でした。投書は、どういう投書があったか、それをどうしたか、を発表すべきであるという意見がいくつかありました。

 私も、かつてはアンケートへの返事を伝えませんでした。レポートへの感想も書きませんでした。悪かったと思っています。感想を書いて返すようにしたのは3年前からです。皆がとても喜んでくれるので、今では過去を取り戻すつもりで熱心に書いています。

学校の苦情処理システムについて

 これは、学校によって実に様々のようです。投書箱への投書などをきっかけとして、頭髪自由化が実現されたという例もあります。高校でも、生徒会の要望が実ってスニーカーの色が5色になった、という例もあります。又、相談室があって、先生が相談にのってくれた所もあるようです。小中では日記を毎日書いていて、担任との意見交換が出来たという人もいます。

 しかし、中学と高校、特に高校では先生と学校に対する不満がとても強いようです。

- 自分の苦情が事件として取り扱われることがある。私もこれらの事で様々な思いをしてきた。現在では、もう先生に言ってもしょうがないと思う気持ちで一杯である。やはり日本の学校にも苦情を受け入れてくれる人が必要である。

 アメリカでは学校カウンセラーが各校に一人ずついて、このような役割を果たしてくれる。私はこのような人は、教職とは無関係で独立した立場の人でなくてはいけないと思う。つまり、生徒と教員の間に立つ人でなくてはならないと思う。生徒が素直に苦情を出せる場が必要である。そして、それを正確に、かつ人権を守って教員に伝える技術を持った人が必要である。

 ★ 或る高校では、投書箱に投書した苦情について、朝礼で先生がそれを読み上げて、「こんな事を書いた人がいる」などと怒ったそうです。こうして、生徒は諦めていくのです。

 しかし、ここは分析すると、①生徒の教師や学校への要望や批判は、どんな事でも好い、どんな言い方でも好いということではないから、その内容自体は何らかの形で問題になりうる、②しかし、それを朝礼で一方的に「失礼だ」と決めつけてよいかは又別である、の2点を区別して考えて下さい。

 意見の内容とその表現形式の区別、言われた側が反論する権利とその方法の区別です。これはこれからの授業のテーマです。「苦情を伝える側にもそれなりの態度と感情に流されない理論が必要」という意見もありました。

 市看ではアンケートもあり、先生にも相談にのってくれる人が多いようですが、一部に「あなたはそんな事言える立場なの?」と言われて不満だった人もいます。しっかり授業を聞いていても分からない先生がいるのに、言うと「予習や復習をしないからだ」と言われて納得のいかない人もいます。又、講師の先生にも不満があるようです。

 根本的には、結論の如何ではなくて、話し合ってよかったという気持ちになれない所に不満があるようです。私は皆さんの気持ちに共感しますが、残念な点もあります。それは、自分が主任になった時にこうしようとか、立場的に下の人(例えば看護助手とかいずれ迎える看護学生とか自分の子供)の意見を聞くために自分はこうするといった、主体的な考えがなかったことです。これは縦の関係を論じた時もそうでしたが、皆さんは自分が上級生になった時どうい
う行動を取ったのでしょうか。こういう事は反省しなくて好いのでしょうか。

「天タマ」について

 「天タマ」はお蔭様で好評で、疲れも吹き飛びます。「いつもは読まないのにこれは読む」という人もいました。「哲学の授業内にとどめないで他の先生にも読んで欲しい」という意見もありました(哲学講師はこれ以上出しゃばっていいのでしょうか?)。

 名前の原則は「本人の意志による」です。講師の判断で匿名にすることもあります。

エピローグ

 私は中高一貫の学校でした。縦の関係もよく、先生の評判からあだ名まで、先輩から後輩へ連綿として受け継がれていました。先生の担当教科に関係した言葉を使ったうまいあだ名がありました。

 数学の先生に「π」(パイ)というあだ名の人がいました。その心は「割り切れない」でした。

 化学の先生で「ナフタリン」というあだ名の人がいました。その心は - 「虫が好かない」








「天タマ」第2号

2018年10月27日 | カ行
   天タマ

(第2号、1998年10月16日発行) 浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 患者が「あなたじゃ心配だから、他の看護婦に代わって」と、新人看護婦を断った。これをどう考えるか。

 次のAさんのレポートが標準的な考えのようです。それをまず掲げます。

───例に挙げられた看護婦の話は難しいところだと思った。私たち看護婦側からいうと、やはりそれなりの経験を積んでいるのだし、経験の浅さだけで全面的に否定されるのは辛い。でもやはり患者さん側から言えば、新米看護婦に任せるのがこわいのも仕方ないと思う。

 学校では、「堂々とした態度で接して患者に不安が伝わらないようにする」と教わっているが、経験の浅さや不安がどうしても表れてしまうと思うし、患者さんは自分に対してだけでなく、他の患者に対しての看護婦の失敗なども覚えているのだと思うから、十分に実力をつけることが私たちにとってまず大切なことだと思った。

 ★ これを中心にして、

 「一年目の看護婦だからといって、技術や知能が他の先輩看護婦より劣っていると、頭ごなしに決めつけるのは、まちがっていると思う。新米看護婦だからこそ、初心を持って慎重に看護行為を行うものだし、ベテラン看護婦にも、慣れたころにおこるミスがあると思うから」、「患者もあるがままに振る舞うのではなく、一人の人間としてその場に在ってほしい」という意見と、

 「そういう患者の気持ちを理解してあげられる看護婦になりたい」、「看護婦の誰もが通る道なので、気にせず仕事に励んでほしい」と看護婦を励ます意見とに分かれるようです。

 更に分析して、「看護婦のケアは医療的なものと身の回りの世話に分かれる。医療的なことで新人が拒否されても仕方ない面もあるが、身の回りの世話まで拒否するのは偏見ではなかろうか」という意見もありました。

 実習の中で同じような事を言われた例を挙げます。

- このままじゃ〔あなたは〕絶対に看護婦にはなれないね、と言われた。
- 先生には話してくれるのに、私たちには話してくれなくて、悲しく悔しかった。
- 9月の実習で患者に「自信をもってケアしろ」と言われた。
- 1人でやろうとしたら「看護婦呼んでこい」と怒鳴られた。

 ★ 対策としては、「先輩看護婦に付いていてもらって援助を行う」という意見が多数ありました。ここの病院ではこういう事は認められているのでしょうか。「甘ったれるな」と言われるような事はないのでしょうか。又、「なんで嫌なのかその理由を後で聞いて、それに対応する」という意見もありました。

 自分に密接な関わりのあることなので、よく考えたと思います。しかし、考え方としては、看護婦個人の問題として考える域を出る発想はなくて、もの足りません。私は、
 ① 病院のシステムの問題として考えること、
② 患者と看護婦の関係だけでなく、生徒と教師とかいった病院以外の世界に広げて考えること、の2点を求めていました。

①は、患者が看護婦や医者に不満を持った時、それを処理するシステムがあるか、又看護婦が困った事があったら、仲間で相談する場が設けられているか、ということです。

②は分かるでしょう。皆さん自身、「こんな先生代わって欲しい」と思ったことがあると思います。それなのに、その時どこにもそれを言えなかったと思います。この患者にしても、看護婦だから言ったけれど、医者には不満があっても言わないと思います。力関係で言える関係になったり、言えない関係になったりするのは、民主的な社会ではありません。

縦の関係をより良くするために

 「他の学年との接触がないからといって特に困ったこともないし、今更縦の関係を良くしたいとは思いません」という意見も少数ながらあるようです。高校の関係や寮の関係で個人的に良い関係を持っている人も何人かいるようです。が、全体としてはもう少し良くしたいという意見が圧倒的に多数のようです。

 その関係の中身については「先輩とも友達と呼べるような関係が築けたらいいな」が多いと思います。

 その方法としては、
 ① 体育祭をクラス対抗ではなくて、混成チームにする、
 ② 3学年交流会を2回でなく、もっと多くする、グループの人数を減らし、内容も工夫する、時期も4月でなくもう少したってからにする、
 ③ 可能な授業(例えば哲学など)は3学年合同にする、
④ サークルを多くする、がありました。

③は私も望む所ですが、現実には難しいでしょう。④は生徒が自由に作れるのではないでしょうか。

ある中高一貫校では「姉妹遠足といって中1から高3まで各学年1人ずつのグループを作り、遠足に行ったり、掃除も一緒に行ったりした。そのため先輩や後輩と仲良くなれた」という経験の紹介もありました。

学校における上下関係の経験は社会に出た時の勉強になる、という意見があります。しかし、これは日本社会が「タテ社会」(中根千枝)と言われる特異な社会であることを無批判に肯定した意見で、賛成できません。日本社会自体を考え直す視点がほしいです。私は、先生と生徒も友達のような関係でよいと思います。では、その時、先生と生徒の最後の一線はどこに引かれるのか。これが問題です。

 いずれにせよ、中学時代のいびつな上下関係で傷ついた人も多いようです。残念な事です。問題は校長にあると思います。「学校教育は校長を中心とする教師集団の行うもの」です。この集団がしっかりしていれば、大抵の事は出来ます。「校長が変われば学校が変わる」という報告もあります。校長の責任は重大です。しかし、この事が十分に認識されていません。

 3年になると卒業生の現役看護婦の話を聞く会もあるようです。

ディベートのビデオについて

 ここに出てくる高校生のしっかりしていることに、又ディベートの迫力に皆さんびっくりしたようです。相手を言い負かそうという感じに付いていけないと思った人もいたようです。しかし、それは誤解だと思います。ディベートはどこでも通用する訳ではありません。今アメリカでは対話の重要性ということが言われているそうです。どっちが勝つかではなくて、話し合いの中からより良いものを、一緒にやっていける方法を見いだしていくマナーです。対話の必要な時には対話が、ディベートの必要な時にはディベートが出来る社会人を目指すべきではないでしょうか。

 又、反駁者が答えを途中で遮ったことが気になった人もいます。これも誤解です。反駁者は、答弁がスムーズでないとか冗長と判断した時は遮ってよいのです。そうでないと、時間を引き延ばされて自分の聞きたいことを全部聞けなくなりかねません。しかし、その判断が間違っていて、答弁がスムーズなのに遮った場合は「非礼行為」として減点されます。つまり、審判の判断によるのです。

講師から

 名前を出さないでくれと言う人が出ました。皆さんは2回分を見て、名前を出すことについてどう思いますか。載った人、まだ載っていない人、両方の意見を聞きたいです。

 今年の授業は今までになく順調にスタートしました。協力に感謝します。今後一層盛り上げていく工夫を考えています。乞御期待。乞御提案。

 新しい事も始めました。しかし、教科通信を出すこと、レポートの感想をワープロで書くこと、成績の根拠を説明すること(その準備をしていくこと)は、かなり大変だということも分かりました。が、もう少し頑張って続けてみます。

 9日はとても早口になってしまいました。自分の話す時間を制限したのに、話したい事が沢山出てしまったからです。この矛盾に困っています。

 私の声はビートたけしとかいう人に似ているそうです。去年も言われました。

 昔、東京の或る高等専門学校で哲学を持っていました。面白い生徒がいて、試験の答案を中断して、こんな名句(?)を書いていました。

 ここで一句。
   名調子、そら始まった牧野節

「天タマ」第01号

2018年10月26日 | カ行
お断り・ブログ「教育のひろば(第2マキペディア)」を解消するために、教科通信「天タマ」をこちらに引っ越します。45号ありますので、大変です。

「天タマ」第01号
  (1998 年10月09日発行) 浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

「天タマ」か「大玉」か

 「天タマ」と聞いて連想するものは何か。私は「大玉」を思い出す。「大玉」というのは、早稲田大学の学生街である大隈通りにある牛飯屋のメニューで「大盛り玉子入り牛飯」の略称のことである。

 思うに、東京で典型的な学生街はこの大隈通りと一橋大学のある国立(くにたち)ではなかろうか。国立は上品だが、早稲田はがさつである。しかし、共に学生街らしい。国立は遠いので1~2回しか行ったことがないが、大隈通りはよく行った。古本屋を歩くのである。どこに何という本がいくらで出ているか、覚えていたものだ。昼に行った時は、この「大玉」を食べることがよくあった。

アカウンタビリティ

 最近よく聞く言葉に「アカウンタビリティ」という言葉がある。たいてい「説明責任」と訳される。社会人には自分はどういう考えで行動しているのか、きちんと説明する義務がある、という考えである。日本の官庁や企業や個人はこれが出来ていない、と言われる。大学では「シラバス」が出るようになった。しかし、内容の不十分なのが多い。私は去年から「授業要綱」を配るようになった。説明責任を果たそうと思ったのである。

先生と生徒の関係は対等か

 Aさんが、「その他」に次のように書いています。

──今日初めて哲学の授業を受けてみて思ったことは、「哲学という難しそうなイメージではなく、楽しくやっていけそう。先生も生徒と対等に授業をしていこうとしていて、いい印象」と思った。私も、ウワサで「哲学の先生はこわい人」と聞いていて、「どんな人がくるんだろう」と思っていたが、授業要綱の紙を見て、生徒の意見も反映しようとしてくれているところが印象良く感じた。(後略)

 ★ 今年も、先生と生徒の関係はどうあるべきかを一つのテーマにして考えていきたい。というのは、多くの人が悩み、疑問を持ちながら、本当の事が分からないまま、流されていると思うからです。

 なぜこういう事になるかと言うと、先生になる人が大学でこういう事を習ってこないからです。それは更に、大学教授がこういう問題を避けているからです。

 さて、Aさんの文からは沢山の問題が出てきます。それを箇条書きにします。

 ① 先生と生徒は対等か(何が対等なのか、何が対等でないのか)。
② 生徒の意見を聞いて、反映させることは何の「対等」を意味するか。
③ 先生と生徒の意見が違った時(勉強の内容、学校の運営などで)、両者は議論するべきか。
④ 話し合うことと議論することとは同じか。違うとしたらどこが違うか。
⑤ 先生は一段高い所(教壇で)で話し、生徒は一段低い所にいるのは何を意味するか。
⑥ 先生と生徒が話し合う(議論する)として、その時先生が司会者を兼ねているのは何を意味するか。

Aさんの言いたい事は私にも嬉しい事なのですが、それをこのように突っ込んで考えると哲学になるのです。そうすると、Aさんの本当に言いたかった事が一層正確に表現されるようにもなると思います。

学級通信について

──小学校の時「学級通信」というものを、担任の先生からもらっていた。学級通信の題名は「あしあと」とか、「たけのこ」とか、「タンポポ」などのように、成長を意味した類のものが多かった。内容は、日頃書いている日記が載ったり、水泳大会や本読み大会の結果が載ったりして、いい事ばかりが載っていた。

 私はそこに載るのが非常に嬉しかったのを覚えている。自分の事が学級通信に載ると、その日は何だか自分がヒーローにでもなったかのように、自分に自信がついて、帰って直ぐ母親に見せていた。

 私にとって学級通信というものは非常によかった。自分のことを両親にあまり話せなくて、学校であったこともほとんど話さないような子だったので、たぶん私の両親は、私のことを、非常に静かで、友達もあまりいない子として誤解していた気がする。私はそう思われているのがとても嫌で嫌でしょうがなかった。学級通信を通して、少しでも私の学校生活のことを分かってもらうことで、私は救われていた気がする。

 ★ ここにはどういう大切な点があるか、私の考え。

① 好い事だけ載せる。つまり、悪い事は載せない。では、悪い事はどうするか。悪い事の種類を分けて(本人の人生を傷つけること、他人の人権を侵害すること、成績が悪いこと)対処する。

② 親が子供について持っている評価なりイメージなりに、子供自身が賛成していない場合がある。→人間は誰でも、特に子供は、「○○は~というタイプなんだ」と決めつけられたくないと思っている。

③ 人間のコミュニケーションには、口で言うのが好い場合と、文字で伝えた方が好い場合とがある。両方をうまく使い分けましょう。特に、愛の表現には!

それはともかく、皆さん、多くの人が学級通信では好い思い出を持っているようで、よかったと思いました。教科通信をもらったことのある人はやはりとても少なかったです。

道徳や倫理の授業について

──道徳・社会(倫理はやったことがない)は、ゆっくりと物事を考えられる時間だった。良否を追求するのではなく、自分の感じたことを追求した結果、「私はこう思う」という意見が導き出された。小学校時代の授業で互いの意見を発表することは、自分の思いもしないことが出てきたり、同じように感じている人がいたり、新しい発見の場だった。今ではこういう機会が少ない。

 ★ 多くの人が道徳の時間は楽しかったと書いています。しかし、皆の前で発表するのが嫌だったという人も何人かいました。又、話し合いのない授業もあったようです。次のような意見もあります。

──小学校の頃の道徳は、社会的に正しいと考えられていることを教えるための教科だということが、今になってよく分かる。あの頃は素直に意見を手を挙げて発表していたなあ、と思う。先生達は一所懸命に社会性を身につけさせようと思って授業をしていたと思うが、実際にはいじめなどがまかり通っていたから、頭では分かっていても行動には移っていなかったと思う。

──高校生のとき受けた倫理の授業は、仏教やキリスト教など宗教の思想、体制の変遷などを教科書に沿って学んでいきました。歴史のようなものでした。宗教・思想を内面からではなく、外から眺めるような授業でした。もちろん、発言の機会や話し合う機会もなく、ただ先生が板書した事柄を後に控えるテストのために、ノートに書いていました。つまらないけれど、楽な教科ではありました。

 ★ 「授業の善し悪しは教師の実力と情熱で8割決まる」と私は考えています。皆さんの意見を聞いていると、やはり、生徒参加型の授業を求めているようです。それは当然だと思います。そうでなければつまらないし、身にも着かないからです。

 昨年の哲学のテーマは「教育と学校の問題」としました。或る時、私は教師の問題を取り上げ、上のように言いました。その時、レポートに次のように書いた人がいます。

──「授業の善し悪しは教師の実力と情熱で8割決まる」。確かにそのとおりだと思います。残りの2割は生徒が握っていると私は考えます。教師は授業という名のショーを行う。生徒という名の観客はそれをみて、善し悪しを決める。ショーの主人公である教師は観客にあることを教えようと必死になる。良い授業は生徒がもっと続けてほしいと願うショー、つまり授業だと思う。(後略)

 ★ 私も去年まではそう思っていたと思います。だから、このレポートにもこの点については何も書きませんでした。しかし、この春、例の中学の英語の授業にディベートを取り入れている中嶋先生の本を読んでいて、考えが変わりました。先生は俳優ではいけない、先生は俳優である生徒に演技をさせる演出家でなければならない、と。私はこれからは、及ばずながら、演出家を目指します。

成績について

──成績をつける時の基準をはっきりしてほしいと思う。今はほとんどがテストの点でつくのでいいのですが、高校の時は、「あんなにがんばったのにどうして?」と思うこともたびたびあり、そのたびに「何でこの成績なんだろう。どこで引かれたのだろう」と思いました。がんばった課目に限ってそういうことがあり、とてもくやしかった。全課目を通して評価のしかたを一定にしてほしかったです。

 ★ 私も成績のつけ方については揺れ動いてきました。今年は皆さんの意見も聞きながら、本当の成績とは何かを考えたいと思っています。

休憩、その他、について

──「休憩」の「日本一短い家族への手紙」はとても面白かったです。本屋に行って私もそのようなエッセイ集を見るので、自分の世界やホンワカした気分にひたれた気がします。またこれからも続けていくのですよね~。カンファレンスではお互いのことがよく知れて、こう思っていたのかと分かりました。ずっと同じ形態で授業を行わないので、時間がすすむのが早かったです。

──〔哲学の先生はこわい先生だと〕うわさには聞いていたので、どんなものか~楽しみだった。皆がこんなに真剣に取り組む授業は、今までなかったような気がする。必ず、クラスの中の一人は内職したり、居眠りをしたり~。何か後ろから皆の姿を見て、何だか笑えた。やればできるんだ、ということもわかった。

講師から

 授業中に休憩を入れるという考えは、21回生の人が提案してくれました。こういう休憩にしたのは私のアイデアですが、休憩という発想は生徒からもらいました。アンケートはやはり役立ちます。とにかくこの休憩によって授業の幅が広がったと思います。

 次回のレポートの時、名前にかなを振って下さい。1回で結構です。

 鉛筆で薄く書かれたレポートはとても読みにくいので、濃く書ける筆記用具を使って下さるよう、お願いします。

 4日(日)、わが町の小学校(全校生徒50名足らず)の運動会でした。部落対抗の綱引きに出ました。「よいしょっ」と掛け声を掛けていたのに気づきました。昔は綱引きの掛け声は「おーえす」に決まっていたものです。

 このワープロはカットなども入れられるのですが、私がそこまで出来ないので、こういうつまらないものになりました。最後にサラ川(サラリーマン川柳)から一句。

  父帰る娘出かける妻眠る  欠く家族


国語辞典はこれでいいのか(改訂版)

2018年09月26日 | カ行

 岩波書店が『広辞苑』の第7版を出して以降、ものすごい広告を張り続けています。「広辞苑大学」などというものも、どんな大学か知りませんが、開校したようです。朝日新聞紙上でのその狂騒を見る度に、「さすがの岩波も、紙の辞典の売れなくなっている時代に危機感を抱いたのか」との感慨を禁じえません。

 また、先日はNHKTVの「プロフェッショナル」という番組で、辞書編集者を取り上げていました。

 しかし、私は、これだけの情熱を以て辞書(ここでは一応、日本語の「国語辞典」だけを問題にします)の改善に取り組んでいる人たちがいるのに、実際の辞書は日本語の現実の問題に答えていないと思います。なんだかその活動はピントが狂っているのではないかという印象を持っています。

 彼らは第1には、あまりにも語釈にばかり意識を集中しすぎていると思います。辞書編集者を題材にして書かれた小説『舟を編む』に出てくる辞書編集者も、語釈をどうするかばかり論じていました。最新の『広辞苑』でも「間違い」とやらが話題になったのものが2つありましたが、いずれも語釈の間違いでした。第2には、世間の関心も編集者のそれも辞書で取り上げるべき新語に集中するのは必ずしも悪いとは言いませんが、取り上げるべき「新語」の基準が間違っているとも思うのです。

 そこで、これまでにも本ブログで取り上げてきた問題も含めて、日本語の「語句」についての問題点を整理しておくことにしました。日本語の「文法」にも問題はあると思います。その根本は、文法(現代語文法)の全領域をカバーしたものは中学の国語の時間で教えられる橋本文法以外にはない(らしい)という事にあると思います。「研究は常に研究対象の全体を見ながら進めなければならない」のです。日本語文法でも個々の点については優れた提案があるようですが、「日本語文法」と題する著書を公刊する蛮勇を持っている人はいないようです(私は知りません)。外国人に日本語を教える人はたくさんいるようですが、どうなさっているのでしょうか。

 文法はさておき、今回は「辞書」の問題をまとめます。たくさんの辞書が出ていますが、実例としては大修館書店の『明鏡国語辞典』を主として取り上げます。他の辞書で私見を補充する、あるいは反証する実例がありましたら、教えてください。私一人でこのような大きなテーマを扱いきれるとは思っていませんし、その気もありませんし、すべての辞書を揃える余裕もありません。

  小目次

A・用法
その1・他方
その2・お話を聞く
  その3・~に注目です
その4・~を決める
その5・下り坂に向かう
その6・立ち居振る舞い
その7・すごい
B・重言
その1、ひしめき合う
その2・注目を集める(→Aのその3)
C・語釈
その1・冷笑
その2・皮肉
その3・募金
  その4・王道
D・意味を曖昧にする新語
その1・事実関係
その2・方向性
その3・方法論
E・発音(漢字の読み方、アクセント)
その1・七
その2・市場
その3・他人事
その4・本性

付録1・アクセントについて
付録2・サ変動詞の上一段化
付録3・手皿

   A・用法

 ここで「用法」とは「他の語句との関係」のことです。「まとまった言い方を変更する言い方」も含めます。

その1・他方
 第1に問題にしたいのは、「他方」という語が死語になりつつある、という事実です。どうもこの事実に気付いている人がほとんどいないようなのです。「一方」と「他方」は対比を表す最も基本的な用語です。思考の根本が、弁証法の説くように、「対立した事柄の統一」であるならば、この「対比」を表す語は絶対になくしてはならないものであるはずです。それなのに、「他方」が「一方」で取って代わられたり、使われなくなったりしているのです。しかも、これに気付いて警告している辞書がない(私は知りません)のです。最低です。

 用例を挙げます。

 1-1、日本アンチ・ドーピング機構の浅川伸専務理事によると、コンタクトレンズの保存液が原因で、アセタゾラミドが検出され、ドーピング違反が問われたケースは聞いたことがないという。一方で、使っている点眼薬に禁止薬物が含まれ、ドーピング検査で陽性を示したケースは日本でもあった。(朝日、2018年3月2日)
 1-2、北朝鮮の脅威を除くための外交の試みは20年余りの経緯がある。核やミサイルの開発を許した失敗の歴史にすぎないとの見方がある。一方で成功に至る好機はあったという見方もある。(朝日、2018年03月08日。天声人語)
 1-3、(自動翻訳機の発達で)日本人が苦労してきた「英語の壁」は低く成りつつある。一方で、英語が再来年度から小学校の教科になり、大学入試の英語も変革期にある。(朝日、2018年04月19日、編集委員・山脇岳志)

感想・自動翻訳機の発展に驚嘆したことを報告している筆者は「現在最高のそれは、英語検定のTOEICで900点を取るビジネスマンと同等以上の和文英訳の能力がある」という話を聞いてきたそうです。では、その優れた翻訳機がこの引用文を訳したら、「一方で」の部分をどう訳すのでしょうか。文脈を理解して、「ここは本当は『他方』というべきところだから」と判断して、on the other handと訳すのでしょうか。それとも「原文に忠実に」on the one handとするのでしょうか。自動翻訳機もいいですが、それと同時に新聞記者の文章や国語辞典の語釈や見落としを校正する「自動校正機」も発達してほしいものです。

 1-4、崔(チェ)氏は昨年10月、モスクワで一部記者団に、対話による核問題や米朝関係の解決を訴える一方、「(米国は)最大の圧力を加えて、我々が核を手放すように強要している」と批判した。(朝日、2018年03月08日夕刊、ソウル=牧野愛博)
1-5、野田政権は「30年代原発ゼロ」に舵を切る一方、使用済み燃料については当面、再処理を続ける方向で調整に入っていた。(朝日、2018年04月22日。関根慎一)

 感想・このように「一方」ないし「一方で」を「前の文の最後に」付ける言い方の場合は、これで自然だと思います。文頭に置かなかったので、文末に置いただけと考えるべきでしょう。いったん句点で文を切った後に、次の文で「一方で」と始めるのが、昔は無かった(らしい)のに、今では当たり前になってしまったのが問題なのです。それはこのように「前文の最後に付ける言い方の影響もあったのかもしれません。

 1-6、委員には多くの有能な方に参加して頂きたいと思っていますが、他方実際には~(2018年03月02日、薬師寺みちよさんの質問に対する安倍総理の国会答弁から)
 感想・ラジオでたまたま聞いていただけなので、「実際には」以下の言葉は「女性の適任者が多くない」といった趣旨ではなかったかと思いますが、はっきりとは分かりません。しかし、最近では珍しく、本当に珍しく、「他方」という語を正しく使ったので記録しました。この点だけは安倍総理を評価します。

1-7、英国のEUからの離脱が決まってから2年になる。メイ政権は国内政治に手一杯で、煮え切らない英政府にEUがしびれを切らすという構図は続く。その一方、欧州全体が米国やロシアの問題に直面していて、離脱どころではなくなっている。(中日新聞、2018年6月23日)
 感想・「一方」がのさばっていることに問題を感じていないので、「一方」を使おうとしたのだが、何となくおかしいと感じて、「その」を付けてその場をしのいだ、という所でしょうか。そもそも、英国対EUの問題から、「更に」欧州全体対アメリカあるいはロシアという問題に移ってゆく場合、どういう「つなぎの語句」を使ったらよいでしょうか。やはり「さらに視野を広げると」くらいではないでしょうか。読者の意見を聞きたいものです。

 では、この事実を辞書はどう扱っているでしょうか。『広辞苑』の第7版はその「序」の9頁で「語義や語法説明の精密さ」と自慢しています(笑)が、「他方」はこう説明しています。
 ①他の方向、他の方面。「~の言い分」「~からの視点」
 ②一方では。別の面から見ると。「頑固だが、~実直である」
 『明鏡』の説明はこうです。
⑴(名詞)ほかの方面・方向。また、二つのうちのもう一方。「一方を青く、他方を赤く塗る」⑵(副詞)別の面から見ると、(もう)一方では。
 
 感想・私見では、「他方」を説明するならば、「一方」と対になる語である事をまず書く。そして、用例を挙げる。「死の念は、一方においては、人の考えをこの固定した生命の有限を超えさせ、他方においては、日常生活を真面目に考えさせるように引き締める」(鈴木大拙『禅と日本文化』北川訳岩波新書49頁)。次いで、「一方」の代わりに「他方」を使うのが当たり前になっている現状を確認し、それは間違いであると主張する。「一方」の項には上の用例1-4、1-5のような使い方もあることを説明する。明鏡の「一方」を引くと、これは②で説明してあります。が、その明鏡も「純粋な他方」の代わりに「一方」が使われている事実には気づいていないようです。

その2・お話を聞く

 「お話を聞く」という言い方は頻繁に耳にします。NHKのアナウンサーでも平気で使っています。私見によれば、「お話を」と言ったら後は「伺う」と受けるべきでしょう。逆に「聞く」と言うならば前は「話を聞く」だと思います。こういう事を教えるのは辞書の仕事ではなく、文法書の仕事かもしれません。

付記・NHKの雑誌『ラジオ深夜便』2018年8月号にはこの2種類の用例が共にありました。
 1-1、まさか約40年後、こんなにすてきなお話が聞けるとは……(58頁。遠藤ふき子アンカー)
 1-2、老いや死は誰もが必ず向き合う世界、お話を伺っていて、……(113頁。石澤典夫アンカー)
 (以上、2018年07月23日)

その3・~に注目です

 「~に注目です」という言い方はいつ頃から、どのようにして出てきたのでしょうか。今では全然違和感なく使われています。しかし、「注目」で『明鏡』を見てみますと、その品詞は「名詞、自動詞、他動詞、サ変動詞」とあります。ここで問題になってくる「~に注目です」はもちろん名詞としての「注目」の1つの用法でしょう。ではそれはどういう用法なのでしょうか。他の名詞で同じように使われるものがあるのでしょうか。
 それはともかく、「~に注目です」という所は、昔ならどう言ったでしょうか。「~に注目しましょう」くらいでしょうか。「~に注目するとよいでしょう」とか「~に注目するべきでしょう」は強すぎるでしょう。
 そうこうするうちに、「とりわけ注目なのが~」という言葉を聞きました。やはり「注目だ」という形容動詞が生まれていると考えるべきなのでしょうか。

注・そもそも「注目を集める」という言い方が今では完全に定着していますが、本来は、これは重言だと思います。しかし、『明鏡』は「不適切な重言ではない」としています。これについては既に~に書きました。

その4・~を決める

 「決める」の前に置く助詞には「~を決める」「~と決める」「~に決める」の三つがあると思います。しかし、いつごろからかはっきりとは知りませんが、かなり前から、ほとんどの場合に「~を決める」が使われるようになってきているように思います。
 『明鏡』を見ますと、私の問題にしているようなことには関心がないようです。しかし、この問題は2009年05月19日に書きましたので、繰り返しません。

 と、書いたら、次の用例に出くわしました。
 4-1、トルコ大統領選で再選を決めたエルドアン大統領は~(朝日、2018年06月25日夕刊、アンカラ渡辺丘)
 4-2、トルコ大統領選は24日、即日開票され、~エルドアン大統領が再選を果たした。(朝日、2018年06月26日、イスタンブール其山史晃)
 感想・後者の方が日本語らしいと思いますが、偏見でしょうか。ともかく、少し嬉しかったです。「~は決勝進出を果たした」という言葉をたまには聞きたいものです。

その5・下り坂に向かう

 テレビでもラジオでも同じですが、天気予報を聞いていますと、「天気は下り坂です」という言い方のほかに、「天気は下り坂に向かっています」という言い方が使われていることが分かります。後者の方が多くなってきているとさえ感じます。これでいいのでしょうか。
『明鏡』の編集者である碩学先生はこのような問題は歯牙にもかけないようです。いや、お気づきでないようです。この問題は2006年10月21日に書きました。

その6・立ち居振る舞い

 これは「用法」ではなく、二つの表現法ですが、ここに入れます。すなわち、「立ち居振る舞い」には「立ち振る舞い」という「居」を除いた表現もあるらしいということです。意味はおなじですから、辞書もそう書いていますが、問題はどちらからどちらがなぜ、あるいはどういう経過で出てきたのか、という起源の問題です。明鏡にはそういう事は書いてありません。分からないなら、「起源がどちらかは分からない」と書くべきでしょう。黙っているのは学問ではないと思います。

その7・すごい

 多くの人が気付いていると思いますが、程度のはなはだしいことの表現に「すごく」ではなく「すごい」が使われています。今や、この「間違った」使い方は9割以上の場合と言ってもよいくらいです。
 鈍感な国語辞典編集者もさすがにこれは気付いていまして、明鏡をみますと、「すごい」の項目に、「話し言葉では『すごい』を『すごく』と同じように連用修飾に使うことがある」と書いてあります。
 なぜ、いつ頃からこのような事が起きたのでしょうか。国語辞典はこの現象をただ記載するだけでよいのでしょうか。私は、「これは間違いだから、止めましょう」と提案するくらいの見識があっても好いと思います。 

   B・重言

その1、ひしめき合う

 「犇めく」で済むところを「犇めき合う」という言い方が多くなっていると思います。つい最近も、次の例を見ました。
 01、新宿駅は利用者数国内1位の座を守り続けるが、1番線から16番線までひしめき合う線路が街の東西を分断。(朝日、2018年6月11日夕刊。細沢礼輝)
 感想・「ひしめく」は漢字で書けば「犇めく」となります。牛が3頭集まっているわけで、これだけで既に「合う」は表現されているのではないでしょうか。『明鏡』には「大勢の人が一か所に集まって互いに押し合うようにする」という語釈があるだけです。「人」に限らず「他の物事」についても転用される、と書くとよかったでしょうが、今言いたいことは「犇めき合う」という重言が一般化しつつあることに気づいていないらしいことです。
 なお、学研の『国語大辞典」には語釈の第一に「ぎしぎしと音がする」を挙げています。3頭の牛が角を突き合わせるとそういう音がするのでしょうか。私はこの意味で「犇めく」を使った文に出会ったことがありません。

その2・「注目を集める」については上に言及しました。

   C・語釈

その1・冷笑

 ウルマンの詩「青春」の最後の方に When the aerials are down, and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism という句があります。ネットで和訳を調べてみたら、新井満訳と岡田義夫訳と作山宗久訳の3つがありました。cynicismの部分を、それぞれ、「雪のように冷たい皮肉」「皮肉の厚氷」「皮肉の雪」と訳していました。
 日本語では「シニシズム」を「皮肉」と訳すのが常態化していると思います。新井満でさえこう訳すのですから。私は前からこれの不当性を主張してきました。2006年12月09日にあります。
そこに書き落したことを追加します。①冷笑は英語ではcynicism、仏語ではcynisme、独語ではZinismusですが、この語の起源である古代ギリシャのキュニク派のことは英語ではCynics、仏語ではcynique、独語ではZynikerです。語源が良くわかります。
 ② 西欧の人もcynicをironicalという意味で使ったりすることがあるのでしょうか。英和、仏和、独和辞典にはここに「皮肉な」という訳語が載っています。
 ここで再度、論じます。
 皮肉の本質をとてもよく表現したのが次の川柳だと思います。「本降りになって出てゆく雨宿り」です。つまり「良かれと思ってしたことが逆の結果となってしまう」こと、これが皮肉の正体です。「ソクラテスの皮肉」というのも、相手を「知者」と認めて対話を始めますが、その結果、相手は自分が無知者であることを認めることになるというものです。
 ③『明鏡』の説明は、「人をさげすんで笑うこと」とあります。これでは説明不足です。「誰もが尊重するような事柄を」という限定が落ちています。

その2・皮肉

 皮肉については2007年06月29日の記事で私見をまとめました。しかし、「皮肉」の乱用は本当にひどいものです。しかも、辞書がこれに警告を発していないのですから、希望がありません。
 最近も、次の用例に出会いました。
 1、年齢を重ねると、見えるものが多くなる。でも、それを語り合う知己が次々と世を去っていく。この皮肉が、言いようもなく寂しい。(山藤章二。朝日、2018,04,16)
 感想・「見える物事が多くなるのに反比例してそれを語り合う知己が減少する」というのですから、一見「皮肉」のようですが、どうでしょうか。まあ、これくらいなら「あり」かな?

 2、ウクライナ保安局(SBU)は5月30日、首都キエフで隣国ロシアのプーチン政権を批判したロシア人記者が射殺されたと報道された事件が、実は同局による偽装で、記者は殺されていなかったと明らかにした。殺人事件を装ったおとり捜査の一環だったとし、これによって実際に記者殺害を計画していた関係者の拘束に成功したと発表した。(略)
 SBUによると、バプチェンコ氏に対する殺害計画があるのをSBUが探知。バプチェンコ氏本人に協力を求め、29日夕に本当に殺害事件が起きたかのように見せかけて関係者のあぶり出しを図ったという。
 「事件」では、バプチェンコ氏が自宅近くで血まみれになっているのを妻が発見し、病院へ搬送される途中で死亡したとされ、各国メディアが報道した。
 フリツァク長官は、おとり捜査によって拘束された人物はウクライナ国民で、「ロシア治安機関に3万㌦(約326万円)で雇われていた」と話した。ロシア外務省は30日夜、「反ロシアの挑発行為だ」とする声明を発表。「ウクライナ当局は自国で本当に起きている犯罪は捜査せず、代わりにやらせの殺人事件をやってみせるくらいしか能力を示す道がないのだ」と皮肉った。(モスクワ=喜田尚。朝日2018年05月31日夕刊))
 感想・これのどこが「皮肉」なのでしょうか。「皮肉」でないとしたら、これは何と評したらよいのでしょうか。私案は、「~と負け惜しみを言った」ですが、「強がってみせた」、「嫌味を言った」、「あてこすった」などを考えましたが、どれも適当でないと思います。皆さんはどう思いますか。こういう具体例で考えないと、言語感覚は鍛えられないと思います。ともかく「皮肉」はかくも不正確に乱用されているのです。それなのに辞書編集者自身がそれに気付いていないのです。世も末です。 

その3・募金

 1、しかし、奨学金を支える募金(1) は年々減少。2011年の約3億6600万円をピークに17年は約1億8100万円にまで半減した。寄付を募る(2) ボランティアの不足も続く。募金活動(3) は22、28日にも全国約150カ所で実施する。集めたお金(4) は全額、「あしなが育英会」を通じて遺児学生の奨学金に充てられる。(朝日、2018年4月21日夕刊。金山隆之介)
 感想・(1)の「募金」は「集まった寄付金」の意でしょう。こういう使い方も出てきています。賛成は出来ません。「寄付金」とするべきでしょう。(2) の「寄付を募る」はあまり聞かなくなりましたが、正しい表現だと思います。(3) の「募金活動」も正しいと思います。(4) の「集めたお金」は、よくぞ「集めた募金」と言うのを踏みとどまったと思います。

 「募金」は今では「寄付金を出す」、つまり「拠金」の意味でも使われるようになってきています。NHKテレビのニュースを見ていますと、花を手向ける人の映像に交じって、寄付金を置く人の姿を映しながら「中には募金をする人も」というナレーションがなされることがあります。
 この「募金」の意味の変遷(寄付金→寄付金を集める行為→寄付金を出す行為つまり拠金)は、私の知る限りでは『明鏡』が良く追跡しているようです。その第2版では「〔寄付集めの〕主催者側からいう言葉」と「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」との「説明」が付いています。しかし、「醵金」の項には「今では多くの人がこの意味で『募金』ということもある」という説明がありません。片手落ちでしょう。私は「醵金の意味で募金と言うのは『間違いだから止めましょう』と書いて、NHKにも注意をするのが辞書編集者の仕事だと思います。

その4・王道

 予備校の広告などを見ていますと、「何々への王道を伝授する」といったような文句が出てきます。これで好いのでしょうか。「学問に王道なし」という言葉は間違いで、実際には「学問にも王道、つまり『楽をして目的地に達する道』がある」のでしょうか。
 『明鏡』━━①儒教で、有徳の君主が仁徳を以て国を治める政治の道。覇道の反対概念。②安易な方法。「学問に王道なし」。③最も正統的な道。「古典研究の王道を行く」。
 ③の意味で使われている事実を事実として認めているわけです。しかし、これで好いのでしょうか。学研の『国語大辞典』を見ると、③は載っていません。つまり、これは最近になって(と言ってももう20~30年以上も前から使われてきていますが)、使われ、何の疑問も持たれなくなってきたのです。私の記憶でもそうです。ということは、誤用の始まった頃にいち早く警鐘を鳴らさなかった辞書編集者にも大きな責任があるということです。『明鏡』の編集者にはこの種の反省がないと思います。私は、今からでも、③の意味では「正道」を使うように変えてゆくべきだと思います。

  D・語義を曖昧にする新語

その1・事実関係

 01、野党議員は2日午後、東京労働局に出向いて勝田氏に会い、事実関係を確認。(朝日、2018年04月03日)
 02、東京労働局が公表済みの是正勧告の事実さえ、加藤氏が説明を拒んだ理由も不可解だ。(朝日、2018年04月03日)
 感想・いまでは「事実関係」のオンパレードの様相を呈してきています。この「事実」(「事実関係」ではありません)に気付いていない方は、注意してニュース番組を聞き、新聞を読んでください。『明鏡』で「事実」を引きますと、「実際に起こった事柄」といった語釈の後に、説明もなく「事実関係」と載っています。そして、「事実関係」という項目はありません。辞書編集者の責任を放棄しています。

その2・方向性

 01、選手の意見を尊重するのが西野監督のスタイルだ。ミーティングは活発になった。ただ、ピッチ上で攻守に方向性が見えぬチームに、話し合いが有効になっているのかどうか、疑問に思っていた。25歳の大島は言う。「皆がそれぞれの成功体験を話すことで、一つの方向に行かない難しさはある。」(朝日、2018年6月13日。藤木健)
02、(東電の福島第二原発の廃炉決定に関して)小早川社長は〔県知事との〕面会後、報道陣に「大きな方向性を示させて頂いた」と繰り返し、すべて廃炉の方向はごく最近、取締役会で説明し、賛意を得たと述べた。(朝日、2018年6月15日)
 感想・このようにごっちゃに使われています。全体としてはやはり「方向性」の方が多く使われていると思います。『明鏡』には「方向性」は載っていないようです。「方向」欄にも言及はありません。「他方」の用例2に「方向」が使われています。

 ウィンブルドンのテニスの試合を視聴していたら、「正確性を欠いている」といった言葉に気付きました。日本人は、やたらと「性」を付けて曖昧な表現を作るのが好きなようです。

その3・方法論

 「方法」と言うべきところで「方法論」と言う人が少なくありません。これについては2012年01月17日の項をお読みください。

その4・哲学の世界では、「関連」の代わりに「連関」という用語が使われるが普通です。なぜでしょうか。「哲学用語は日常用語とは『ちょっと』違う」という考えと関係があるのではなかろうか。賛成できません。関連で十分です。

   E・漢字の読み方

 その1・七

 今年(2018年)の3月11日は東日本大震災の7周年記念日でした。朝からラジオやテレビを聞いていますと、「震災から7(なな)年経って」という言葉が繰り返されました。「おや、『しち』年ではないのかな?」と思いました。その後は「しちねん」と言う人も多く出てきました。どちらが正しいのでしょうか。

 ① 「しち」──七福神、七転八倒、藤井総太七段、
 ② 「なな」──七転び八起き、七回の表、河津七滝(かわづななたる)、
 特注・証書などで金額を記す場合は間違いを避けるため「漆」とも書く。(明鏡)
 
 どういう場合に「なな」と読み、どういう場合に「しち」と読むのかを教えている辞書はあるのでしょうか。知っている人は教えてください。

 考えてみますと、日付の読み方では、月は「いちがつ」「にがつ」「さんがつ」……、日は「ついたち」「ふつか」「みっか」……ですから、「七月七日」は「しちがつなのか」と読むはずです。この「月」と「日」の読み方の違いはどこから来たのでしょうか。日の読み方はしかし、十一日以上は「二十日(はつか)」を除いて、漢字読みと言うのでしょうか。大和言葉ではないと思います。

その2・市場

 築地市場(つきじしじょう)の移転問題で、この名前が頻繁に聞かれています。しかし、「これは昔は『築地いちば』と呼んだはずだったのだがなあ」と思う人は、私のように「棺桶に片足を突っ込んだ老人」だけでしょうか。
 「いちば」と「しじょう」の違いを辞書はどう説明しているでしょうか。これは既に2014年08月29日に論じてあります。

 今回は『明鏡』を見てみました。

b・しじょう━━①売り手と買い手が集まって、商品や株式取引を行う特定の場所。中央卸売市場、証券取引所。②商品の売買や交換が行われる場を抽象的にいう語。国内市場、国際市場、金融市場。③商品が売買される範囲。販路。マーケット。④いちば。
a・いちば━━⑤定期的に商人が集まって商品の売買を行う所。市(いち)。⑥食料品や日用品などの小売店が集まった常設の共同販売施設。
 念のために「市(いち)」も引いてみました。⑦多くの人が集まって品物の売買や交換をすること。また、その場所。市場。「市(いち)が立つ」「朝市」。⑧多くの人が集まる場所。「市(いち)に虎を放つ」。
 「市(いち)」という言葉が先に出来て、それの場所をも表すようになったのが第2段階でしょう。そのように「現物」を扱う所であることは当然の前提だったのですが、資本主義の発達で株や債券の市場(しじょう)が開かれた時、これは「現物」ではなく「観念的なもの」を扱うので「しじょう」と読むようになったのではあるまいか。今では、株や債券の売買も一般化して、特殊な専門家だけの事ではなくなったので、「しじょう」という言葉が日常用語になったのでしょう。その時、多くの人が両者の違いを意識しなくなり、現物を扱う所もある種の場合には「しじょう」と言うようになったのだと、推測します。
 私は今でも、現物を売買する所はどんなに大きくても「いちば」と言ってほしいと思っていますが、もう無理な願いでしょう。しかし、今でも地方の魚市場(うおいちば)とかはそのままですし、卸売り市場でも「いちば」と呼ばれているところはあるようです。ニュースを注意して聞いていてください。
 「築地中央卸売市場」でさえかつては「おろしうりいちば」と呼ばれていたと思います。私の若いころはそうだったと思います。最近のニュースでも、昔からある従業員の組合(団体)の名前は固有名詞であるがゆえに「築地いちば~組合」と呼ばれている例を1つだけですが聞きました。何だったか、記録しなかったのは残念です。興味のある方は、築地市場に行って、年配の人やおかみさんに聞いてみてください。「昔は『いちば』と言った」とか「今でも『築地いちば』と言っている団体はある」と教えてくれるはずです。こういう言葉の問題に関心のないジャーナリストが多すぎて、私は孤立無援です。

 思い出したことを1つ付け加えます。築地の「場外市場」も今では「場外しじょう」と呼ばれているのでしょうか。ここは完全に「現物」を売買していますから、「場外いちば」と読むべきだと思いますし、昔はそうだったと記憶しています。これも興味のある人は調べてくださるようにお願いします。

 付記・書くのを忘れていた事を思い出しました。それはネット通販の大手「楽天市場」はその創業の当初から自分の名前を、正しく、「楽天いちば」と呼んでいることです。(2018年07月23日)

その3・他人事

 これについては『明鏡』が明快な説明を与えています。
━━明治・大正期の文字で「ひとごと」とふりがな付きで書かれていたものが、後にふりがなが取られ、「たにんごと」とも読むようになった。

その4・本性

 これは「ほんしょう」と読むのが本来の読み方でしょうが、哲学の世界ではなぜか「ほんせい」と読むようです。哲学者はくだらないところで「差」を付けようとするようです。情けない習性です。「呪物」でいいところをわざわざ「物神」という新語で置き換えるのも、そういう所でしか新味を出せない無能学者の負け惜しみでしょう。

付録1・アクセントについて

 日本語は高低アクセントなので、紙の上に表示するのは難しいですが、かつては高低のあった語が今では平板に発音されることが多くなっているようです。サークル、クラブ、など。
 私のような老人は世を去るべきなのかもしれません。最後のあがきとして、いくつかの出版社の辞書編集部にこの論文を送ってみようかと考えています。

付録2・サ変動詞の上一段化

 「論ずる」を「論じる」と言い、「感ずる」を「感じる」と言い、「信ずる」の代わりに「信じる」というように、本来はサ変動詞であったものを上一段動詞として使うのは今では一般化していると思います。少し古い方には同じ語について両方を、使い分けているのではなく、多分無意識にごっちゃに使っている人もいます。
 いつ頃からそうなったのか、調べたことはありませんが、たまたま読んだ鈴木大拙の『禅と日本文化』(岩波新書、1940年初版)では訳者の北川桃雄は「転ぜられる」ではなく「転じられる」と書いています(63頁)から、この変化はかなり前から起きていると推察出来ます。先に申しましたように、今ではこれは基本的に上一段になったと言ってよいと思います。実際、語釈は上一段の方に書いて、最後に「=感ずる」と断っているだけです。これでは不十分だと思います。代表的な語を決めてきちんと書くべきでしょう。
 この点で例外があるのを発見しました。「禁ずる」です。明鏡ではサ変の方に語釈を書いて、上一段の項にはただ「=禁ずる」とあるだけです。どちらに語釈を書くかで基準を決めていないのでしょうか。こういう事に無頓着な事自体、褒められた事ではないと思います。

付録3・手皿

 「手皿」という名詞は本当にあるのでしょうか。ヤフーの「辞書」で検索すると、「長手皿」といった語しか出てきません。しかし、そのヤフーでも「WEB」で検索すると、手皿が礼儀に適った作法か否かでの議論が沢山載っています。
 私は、手皿はダメだと聞いています。箸で持った物を口に運んでいる途中で落としたら、それが食卓に落ちるのを防ぐのに何で受けるべきでしょうか。手で受けたら、手が汚れます。その手は何で拭うのでしょうか。ですから、茶碗とか皿とかを常に左手で持っていて、運んでいる食べ物の下にセイフティネットのように構えているのが日本の食事作法だと聞いています。
 テレビを見ていますと、美しい方々の多くが、この手皿を使っています。子供たちはそれを自然に「模範」として理解して育ちます。
 まず、国語辞典に「手皿」を掲載することから始めなければならないようです。これが「礼儀正しい日本国の現状」です。

キーンさんの日本語

2018年09月24日 | カ行
   キーンさんの日本語

アメリカ人の日本文学研究家として名高いドナルド・キーンさんが朝日新聞夕刊のコラム「時のかたち」に寄稿しています。

(2003年)01月07日の文は「日本との出会い」と題されていました。その中に次の文がありました。

「ニューヨークに帰ってから父にフランス語の家庭教師を頼んだが、そんな金がないと言われた。」

ここはやはり「そんな金はない」だと思います。

キーンさんほどの方でも「が」と「は」の使い方では間違えるのです。我々が定冠詞と不定冠詞の使い方を間違えても恥ずかしいことはありません。

かつてキーンさんの話をラジオで聞いた時に思ったのは、日本人の友人も沢山いるだろうに、誰もキーンさんの日本語のおかしい所を注意してあげないのかなということでした。

というのは、キーンさんの日本語には「違うのではないかな」と思われるような表現が散見されるからです。

外国人の日本語に注意してあげるのが正しいか否かは問題ですが、キーンさんのような方の場合は注意してあげた方が親切だと思います。

(メルマガ「教育の広場」2003年01月10日発行から転載)

論争的報道番組のあり方

2018年09月19日 | カ行
   
 去る(2005年)03月28日、NHKの夕方の看板番組「クローズアップ現代」で、東京都(の主として都立高校の入卒業式)における日の丸・君が代の「強制」問題が報道されました。

 4月5日、都議会自民党はこの番組について、「番組は著しくバランスを欠いている」として、批判の「コメント」を発表しました(NHKに対する申し入れは、時節がらでしょう、避けたようです)。

 4月6日、東京都教育委員会は「『趣旨説明』を聞いた上で取材に協力したのに、その『趣旨説明』とは異なる内容だった」ことを問題にして、NHKに文書で申し入れをしたそうです。

 これらに対してNHKは、「教師たちの意見と教育委員会の考え方とを丁寧に伝えた公正な内容だった」と答えています。

 以上は、4月15日付けの朝日新聞に書いてあったことです。

 その後の朝日紙の報道によりますと、この「強制」に反対している教員たちは、都議会自民党のコメント発表に対して抗議したようです。

 私もこの問題に関心を持っている者としてあの番組を見ました。その感想は、「キャスター(国谷裕子さん)の準備不足で内容のない番組だったな」というものです。

 決定的に欠けていたものは、双方の言い分をかみ合わせる努力です。横山教育長の主張の中心は次の2点でした。第1に、学習指導要領に従ってやっている、第2に、学習指導要領は判決によって「法的拘束力を持つ」とされている、です。

 これはこの問題を少しでも注視している者にとっては十分に予想された発言です。それなのに、これを予想した次の質問がないのです。教師たちの意見の中にもこれに反論するものはありませんでした。

 それに対して、横山教育長は教師たちの「内心の自由」の主張に対して、「内心の自由は当然だが、それが表に出て式典を阻害するなら自由ではない」との反論を用意していました。

 全体として、横山教育長は余裕しゃくしゃくで、薄ら笑いすら浮かべながら話していました。当然でしょう。

 私は前号のメルマガ「小林俊太さんへ」でこの問題を論じた時、「これを押し進める勢力と反対する勢力の動きを冷静に評価してみると、前者は巧妙かつ組織的であるのに対し後者は拙劣ないし幼稚であると思います」と書きました。これが又証明されました。残念ながら。

 都教委では「担当部署が録画を見直して分刻みで点検した」そうです。自民党は90年代から報道モニター制度を造ってメディア監視を強めてきたが、それが地方組織でも定着してきたようです(15日付けの朝日紙に載っている服部教授の話)。

 それに対して、教師の側では、いまや組合すら動けなくなっています。法律(それに準ずるものを含む)と人事権を武器にした反動勢力に対する武器が、相も変わらず「内心の自由」と個々の教師たちの抵抗だけではどうしようもないと思います。

 そして、このような現状をくっきりと浮かび上がらせるべきキャスター(国谷裕子さん)もただ心情的な態度で教師の側を応援しているように見えます。卓球では「3球攻撃」というのがあるそうですが、まず質問したら、相手の答えを予想して、それを踏まえた次の質問をするのは常識ではないでしょうか。

 私の好きなラジオ深夜便では、アナウンサーが誰かにインタビューする場合、アナウンサーは相手の書いた本を何冊か読んでおくとか、相当の準備をしているようです。放送を聞いているとそれが分かります。

 報道番組では毎日、新しい問題と取り組まなければならないからそんな事をしているヒマがないとでも言うのでしょうか。それなら、キャスターなど辞めるべきです。国谷さんはもう長い間この仕事をしているはずです。女性で英語が出来ればいい、という時代ではないと思います。

 換言するならば、争いのある問題を扱った報道番組を公正で客観的なものにするためには、キャスターはディベートの審判のような技術を持っていなければならないということです。

 そういえば10年ほど前、この「クローズアップ現代」で「ディベート甲子園」を取り上げたことがありました。高校生が「首相公選制は是か非か」でディベートの全国大会を開いたときの様子を報じたものです。

 とてもありがたかったです。授業で使いました。しかし、これはその後どうなったのでしょうか。ディベートのやり方の勉強になるような番組はその後見当たりません。それを報じたキャスター自身がその技術を知らないということと関係があるのかもしれません。

 03月28日の「クローズアップ現代」は落第番組でした。唯一の収穫は、都教委が校長を集めた「会議」で、課長が今の式典の様子を「寒々しい光景」などと話をしていましたが、その態度の傲慢無礼なのがはっきりと分かったことだけです。話し合うのではなく、命令し説教するという態度でした。

 世の校長の中にもこういう態度で教師や保護者に接している人がいますが、それはこういう課長の態度を見習ったものらしいと思いました。

 では我々は、こういう態度の教委や校長とどう戦ったら好いのか、それは回を改めて考えましょう。
 (メルマガ「哲学の広場」2005年05月02日に初出。ブログ「教育の広場」2005年06月12日に転載)

議論は真理にとってのみ有利である

2018年09月18日 | カ行
★ メルマガ「哲学の広場」2005年07月30日からの転載です。

 これまでにも何回か投書をいただきましたUさんから又投書をいただきました。これをまず全文掲げます。

 1、Uさんからの投書

牧野様

 いつも拝読しています。

 第 177号「社民党は公明党から学べ」を読んで、同様の疑問を持ちました。そして、私も牧野さんと同様の投票をしました。政権交代を期待して、さほど好きでもない民主党に入れました。

 ただ私は、公明党から学べなどと言う気はさらさらありません。そんな例を出さずとも、野党が協力しあえば好いと言えばよいと思います。

 創価学会を母体とするインチキ風見鶏政党などを例に出す必要はないと思います。私の家の周囲は学会の人間が多く、その一人にいわれのない嫌がらせを受けたりしたことがあります。また、こういった宗教団体を母体にした政党には、民主的に問題を解決する能力は無いと思います。

 話は変わりますが、文中の言葉がとても偉そうですね。今回も、政党に対して子供、大人という表現をされています。確かに、全体的な事柄を表現するのにこうした言葉があなたにとってはぴったりなのかもしれませんが、読んでいる方は、「何をこいつ偉そうに~」と思いますね。

 以前、ノーベル賞学者の批判をするときもそういった表現があったと思います。読んでいて不快です。

 牧野さんの考え方は非常に参考になりますし、現実的、建設的だと思いますが、感情的に受け入れられない人は多いような気がします。あなたのいま置かれている立場がそうさせているような気もします。

 私はたとえ気に食わなくとも支持しますが~。

 PS・このメールはプライベートなものです。公開されなくて結構です。当方としてはコメントの必要ありません。 -

2、牧野の感想

 「PS」を読みますと、これは「投書」ではないのかもしれません。しかし、こういう発言を「プライベート」と断って、公開やコメントを拒否する自由があるのでしょうか。それなら始めから投書するべきではないと思います。

 そのように考えましたので、投書者の考えに反して公開し、コメントを書きます。公の問題についての議論は公の場で冷静に議論することが真理のためであり、そういう議論はただ真理にとってだけ有利なものだと思います。

 私への批判は「言葉が偉そうだ」ということだと思います。

 ご忠告はありがたく伺い、繰り返し反省するつもりですが、私の基本的な立場を申し上げます。

 それは、第1に、最近の日本語ではあまりにも「~させていただく」という謙譲語が多すぎると思う、ということです。批判する場合には、相手が反省してほしいという思いを持って、又自分の方が間違っているかもしれないということを忘れずに、対等な立場で客観的な言葉で話し合うという態度で話せば好いと思います。

 第2に、原則として言ってはいけない言葉もあると思います。例えば、「バカ」とかです。しかし、又、なるべく使わない方が好いが場合によっては根拠を挙げて使うならば、使っても好い言葉もあると思います。

 Uさんが問題にしている「コドモ」という言葉は後者だと思います。Uさん自身、「インチキ風見鶏政党」という悪罵を投げつけていますが、これの方が感情的で不適切だと思います。

 第3に、批判する場合には特に根拠を示すべきだと思います。「以前、ノーベル賞学者の批判をするとき」と言っていますが、このメルマガはすべてバックナンバーが残っていて調べられるようになっていますから、それくらいは調べて確かめて、どの言葉が不適当なのかを指摘するべきだと思います。批判のモラルも守ってほしいと思います。

 尚、Uさんは牧野と同じ投票行動を取ったと書いていますが、自分の政治的見解及び支持政党については述べていません。多くの日本人は自分の支持政党を言わないで、何党が勝つかなどを論じるのが好きですが、残念ながらUさんもこの日本人的特徴を持っているようです。

 私は自分の支持政党を言わない人は政治の話をする資格がない、あるいは半分しかないと思います。

(メルマガ『哲学の広場』2004年07月21日、ブログ『教育の広場』2005年07月30日に転載。今回再度、転載)

 3、参考までに、Uさんが問題にしている「社民党は公明党から学べ」を以下に再掲します。

(2004年)07月11日、第20回参議院議員選挙が行われました。自公連立与党が何とか安定多数を確保したようです。

 今回の選挙について1つだけ述べます。

 それは、与党は自民党と公明党とが協力したのに、野党は民主党と社民党と共産党との協力が極めて少なかったということです。そして、この事がその分だけ政権交代を遠ざけたということです。そして、この事の原因は社民党と共産党が政治的にコドモだという点にある、ということです。

 今回の参議院選挙の結果について1人区だけで見てみますと、共産党はともかくとして、社民党が民主党を応援したら民主党が議席を取った(従って自民党が議席を取れなかった)であろう選挙区が4つあります。山形県と富山県と徳島県と香川県です。

 社民党が民主党に協力したら、民主党が議席を取れたかもしれないと思われる選挙区も4つあります。鳥取県と山口県と佐賀県と熊本県です。

 後者は除いて前者のほとんど確実に逆転していたであろう4つを逆転して計算しますと、自民党は45議席になり、民主党は54議席になります。

 これなら民主党の大勝で、小泉首相は退陣していたでしょう。従って、次の総選挙は近づいていたでしょう。

 ではなぜ、社民党(共産党も同じ)は民主党に協力しないのでしょうか。民主党に協力すると自党の存在感が薄れるからであり、民主党の憲法観に賛成できないからであり、消費税引き上げに賛成できないからだそうです。これらの点を憲法第9条で代表させますと、要するに、民主党に協力したのでは憲法第9条を守れないからであり、民主党と自民党は同じだからだと言うのです。

 では、民主党に協力しないで、独自に戦って「憲法第9条を守れる」でしょうか。否。社民党の議席は変わりませんでした。共産党は大敗しました。

 どこに間違いがあるのでしょうか。公明党を見るといいでしょう。公明党は自民党に協力しながら、自党の存在感をどんどん高めています。今回、自民党に恩を売ったために、自民党の憲法改正と教育基本法改正はその分だけやりにくくなったと言われています。

 つまり、選挙では、政権に対する態度が根本であって、それ以外の点は二の次、三の次なのです。社民党と共産党に分かっていないのはこの点なのです。公明党が心得ているのはこの点なのです。これがコドモと大人の違いです。

 小選挙区の比重が高まり、二大政党時代になった今、選挙は常に政権維持か政権交代かが根本問題なのです。その時、どちらかと組まなければ自党の存在感を出すことは不可能なのです。大政党と組んで自党の存在感が薄れたとするならば、それは大政党と組んだからではなくて、自党の組織のあり方が間違っているからなのです。

 現在の日本の政治では政権交代が最大の課題であり、これに比べたらほかの問題は小さな事柄です。この事については既に本メルマガ第 141号「政権交代はなぜ必要か」(2003,09,25配信)で詳論しました。私は決して民主党支持者ではありませんが、今回も民主党に入れました。

 政策的には社民党が正しいと思います。正しいで悪ければ、私の考えと一致します。憲法第9条を守れということも、自衛隊は憲法違反だということも、国民全員に月8万円の年金を保障せよということも、皆賛成です。

 しかし、私は社民党には入れませんでした。なぜなら、社民党の考えは中学生の社会科のレポートみたいなものだからです。被選挙権のない党に投票することはできません。

 確かに憲法改正の足音は高まっています。だからこそ、それに現実的に対処することが必要なのだと思います。ドイツのみどりの党は社民党と協力しながら政権につきました。  なぜ日本の社民党に同じ事が出来ないのでしょうか。それはただ、社民党の人々、特にその指導者がコドモだからだと思います。

 次の総選挙までに社民党の中にこういう大人の考えが根づくことを願っています。

 なお、昨年(2003)年11月の総選挙でも共産党が民主党に協力していれば政権交代が実現したという説があります。一応これをお断りしておきます。(2004年07月14日発行)

話し合いのない社会

2018年09月11日 | カ行
 
 学校や教師に対して生徒の保護者が「無理難題」を言うそうです。それがかなりひどいのでしょう。朝日新聞が取り上げたところ反響があったとして又07月10日に特集していました。

 もちろん教師側の非を責めるものと保護者側の非を責めるものとの両方が載っていますが、どちらも自分の主張に合った事実だけを根拠として述べています。

 こういう問題に対する私の基本的な考えを述べます。

 第1に、未成年者の教育は家庭と学校と地域社会の3者が協力して行うものである。

 第2に、組織はトップで8割決まる。

 第3に、学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである。

 第4に、問題があれば、関係者で話し合い、それぞれの規則に基づいて処理するのが民主主義である。

 さて、この基準を適用して考えてみましょう。特に学校側のトップの意見を検討します。朝日紙に載った埼玉県の或る小学校長(56)の意見は次の通りです。

- 保護者の批判は教師の日々の言動や指導力不足など多岐にわたりますが、うわさによるものが多くあります。複数の保護者からセクハラの苦情が寄せられたことがありましたが、実は子どもが「先生いじめ」でうその話を親にし、それが親の間で広まった結果でした。多くの教師は一方的な攻撃を受けると自信と意欲を失います。大切なのは事実を把握し、問題に取り組むことです。 -

 これは最後に「大切なのは事実を把握し、問題に取り組むことです」と言っていますが、それが実際にどういう事なのか書いていませんし、自分の実践の報告もありません。こういう書き方しかできないのがそもそも校長として情けないです。

 私の提案は、日頃から学校の方針や活動を保護者や地域社会に知らせ、意見や批判も聞いて話し合い、その話し合いも報告するようにしておく、です。今ではインターネットという武器がありますが、古典的な紙による通信も重要だと思います。

 しかるに、その紙による報告(主として「学校だより」)が内容の乏しいものになっていますし、何よりも「議論のない通信」でしかありません。これでは問題が起きたとき、対処できないでしょう。なぜ議論がないかと言いますと、校長が自分の学校運営に対する批判を聞くということをはっきりと言っておかないからだと思います。

 愛知県小牧市の教育長は自分の考えを積極的に発表する人ですが、07月22日付けの「教育委員だより」でこれを取り上げています。

 大阪大学の小野田氏が日本教育経営学会で発表されたこともこういう問題が取り上げられるようになった機縁ではないかと言っています。又、平成14年には『子どもより親が怖い』という本も出ていると紹介しています。

 そして、肝心の対策についても、この本の提言を紹介しています。曰く「親を変えるのはあきらめましょう」「目の前の子どもで勝負」「学校でできることを精一杯やろう」「保護者との人間関係づくりに積極的に打って出よう」。

 結論として「満点の教師や親はいないことを前提に、言うべきは言いながらも、協力し合うこと以外に方法はありません」と結んでいます。

 この程度の考え方しか出来ないような教授や教育長ではもの足りません。

 教育長のするべきことは、第1に、上の4点を確認し、各学校長に指導性を求めることです、第2に、保護者から出された「無理難題」とその処理を報告させて、校長会で本音を出し合った議論をするように指導することです、第3に、必要な場合には、PTAの会長たちや自治会長たちとの話し合いの場を持つようにイニシアティブを取ることです、そして第4に、それが難しい場合には県知事や市長や町長にリーダーシップを求めてそういう場(議論の場)を作ってもらうことです。原則として、全て公開しつつ進めた方が好いと思います。

 わが町の中学校の教頭が、自分の娘の通っている小学校のPTAの副会長になったようです。PTAの「通信」に一文を寄せていました。保護者の問題を指摘したものですが、その最後の方に次の文がありました。

- 昨日(7月14日)は、私の学校〔この人が教頭をしている中学校〕の開放日だった。

 ガムをかんでいる保護者、携帯電話のメールに夢中になっている保護者、子どもはそっちのけでうわさ話に興じている保護者。

 この小学校〔この人の娘さんが通っている小学校〕の参観会では見られない光景であり、これも様変わりである。 -

 これも教頭の発言としてはおかしいと思います。学校の参観会のことは校長に責任があると思います。まずこれが分かっていないようです。

 そもそも校長に意見を言ったり、話し合ったりする雰囲気がないのでしょう。初めから校長の学校運営を批判的に検討する習慣なり姿勢がありません。これでは民主教育は不可能でしょう。

 私がどうしているかを報告します。

 教師としての私は、第1に、最初の授業で「授業要綱」を配ってルールを説明します。その中に、私の授業に不満ないし疑問を持った場合の対処について書いてあります。

 「この授業について、根本的に間違っていると思う場合は大学と相談して下さい。根本的には肯定できるが部分的に改善してほしい点があるという場合は、アンケートに書くとか、小テストの際に書くとか、メールで伝えるとかして下さい」。

 第2に、今年もそうですが、授業内容ではなく、私の態度とかやり方とかの形式的な批判が出ることがあります。昨年から、「講師の話す口調がきつくて、怖い感じがする」という意見が出ています。

 こういう時は、全体の問題にします。アンケートの時に皆の意見を聞いた上で私見を述べます。今年も先日そうしたところです。

 第3に、親との話を奨励します。夏休みの宿題にはいつもの通り「親及び他の多くの人と話した上で、組織はトップで8割決まるという講師の考えについての自分の意見をまとめよ」というのを出しました。

 第4に、「言いやすい人にだけ言う」という卑劣な態度とか、根本を問題にしないで派生的な問題を論じる間違いとかは適宜、指摘します。

 教科通信を出しているからこそ、これも可能なのだと思います。

 次に親としての私、または地域社会の一員としての私はどうしているか。学校とのやりとりは自著などにも発表してきました。全体として、学校(主として校長)と関わるほど疑問が大きくなっています。かつて校長を訴えたこともあります。

 昨年度は自治会長をしましたので、又新たな事がありました。その一部は「私の自治会長」で報告しました。まだ決着が付いていない事もあります。その内、報告できるといいと思っています。

 (メルマガ「哲学の広場」2005年08月06日発行。ブログ「教育の広場」2009年05月30日に転載)

お断り
 ブログ「教育の広場」をやめて「マキペディア」に一本化しようとしています。

議論のない教育

2018年09月10日 | カ行
      
 「ハダカの学校」というメルマガがあります。題名から推察できますように、学校と教師を批判することを主目的にしているメルマガです。このメルマガの非民主的性格(自分に対する批判的意見は載せない)については本メルマガの第8号(まぐまぐでの配信日は2001年03月21日)に書きました。

 投稿がないと長い休んでいるようですが、最近は又々教師批判で盛り上がっているようです。次に2人の意見を引用します。

 第1の意見(女子中学生の意見です)

── 私は、今まで学校の校則を守ってきましたが、破ることに決意しました!「ハダカの学校」(241 ~ 243号)のおかあさんからのメールを見て、すごく感動しました。

 私の学校は、靴下の色・形・長さから、カサの色も決まっていて、個性の出せる場所がひとつもありません。

 このまえの掃除の時の話です。私は廊下の拭き掃除をやっていますが、長い制服のスカートがジャマで、スカートが汚れるし、拭きにくいし、つまずいて転ぶから、スカートを膝上程度に上げました。当たり前の行動だと思います。

 でも、それをみた担任の先生は「なにやってんだ! そのスカートは! 」と後ろからいきなり怒鳴ってきました。周りにいた友達は一斉に振り向いて、一瞬シーンとしました。

 びっくりして、足が震えたけど、ゆっくり「掃除のときにジャマだったので~」と説明しました。先生にはわかってもらえなかった。「でもここは学校だから、この校舎に入っている以上は制服をだらしなくすることは許しません」といわれた!もう、友達が見てるもおかまいなしに言い返した!

 「じゃー、スカートが汚れても、転んでも、膝下丈でしっかり掃除やれって言う意味ですね?」って言いました。
 「そんなこと言ってないじゃない。それに、掃除は膝丈でもできるでしょ。言い訳しないの!」
 「言い訳じゃないです。」

 こんな会話の後、先生は怒って帰っちゃいました(逃げた?)。

 何回か抗議はしたんですけどね ─- 。必ず逃げちゃうんです。「話にならん」って感じで。(←こっちのセりフだって!)

 校則を守ると、自分がダメになっちゃう気がするし、指示持ち族にもリモコンロボットにもなりたくない。よく友達が「校則は破るためにあるもんなんだ!」ってふざけて言うけど、その通りですね。

 学校は、「服装を自由にするとオシャレにエスカレートする」とか言ってるけど、掃除の時まで~っていうのは逆の意味での先生のエスカレートですよねえ。って後で思いました。 -

 第2の意見(元不登校で今は母親のようです)

 全国の大学、高校、専門、または予備校の先生方ヘ。

 言いたいことが山の様にあります。覚悟してくださいよ。ねえ。たまに良く耳にする言葉があるんですけど。あれは一体どういう了見なんですかっ。

 たとえば、「自分の説明がいいからだ」、「こんな問題も分からんのか」とか。「やな生徒(学生)」とか。まるで生徒、学生を馬鹿にしてません? それを聞いて呆れて物も言えませんですよ。情けないと思いませんかっ、大の大人がっ。

 はっきし言って、要りませんよ。そんなことばを言う先生なんか。だいたいな、あなた方は何の為に教飾をやってるんですか。「給料が良いから?」。ふざけるなっ。たいがいにしなさいよ!

 学生の親は高すぎる学校の学費を必死に働いて出してるんですからね。その代償として給料を貰ってるんですから。持ち逃げは、許しませんよっ。ちゃんと教師としての責任を果してください。只じゃないんですから。

 学生ときっちり向かい合ってください。逃げないことに挑戦して下さい。とくに、苦手な人は。お金でかたずけないでください。学生を褒めてあげてください。教師だということを自覚してください。

 皆、奇跡を持って生まれてきた人間ですから。学生にも可能性がある訳です。それを打ち切るような言い方で、馬鹿にしないで下さい。いいですね! 学生の将来も、勝手に能力差別で決めないで下さい。皆、同じじゃないんですから。

 まだ四の五の言うのなら、私は教飾を必要としません。時間の無駄ですから。教えてもらわなくても結構。自分でやります。元不登校者。─-

     感想

 このメルマガ(「ハダカの学校」)はこれをただ載せているだけですが、その後第1の意見を肯定するような別の母親の意見も載りました。これらの2つの意見を読んだ感想を箇条書きにします。

 第1に、これらの(元)生徒たちは未成年者であり、間違った教育(家庭教育と学校教育)の犠牲者ではあると思いました。ここで大切な点は、これらの2人のお粗末な考えは学校と教師のお粗末な教育の結果であるだけでなく、親のお粗末さの結果でもあるということです。

 これらの2人の生徒たちは自分の親の事に言及していませんが、親たちは「保護者」なのです。学校に子供をやる時、学校での事を、特に学校や教師に疑問をもったら親に相談するように、と言わなかったのでしょうか。多分、言わなかったのでしょう。ここには親と相談した形跡が全然ありません。そして、「ハダカの学校」の主催者もその点に注意していません。これでは困ります。

 第2に、それと関係していますが、この2人の方は自分が「直接」接した教師たちだけを批判していますが、その教師たちの言動が間違っていたとして、その間違いの本当の原因(校長、教育委員会、文部行政など)を考える姿勢がありません。その結果、こういう現実を是正するにはどうしたら好いのかも分からず、メルマガに投書して自己満足し、結果的には現状維持に貢献しているという訳です。

 私はよく学生にも言うのですが、目に見える事だけでいいなら学校に来て勉強する必要はない、目に見えないで頭で考えなければ分からない本当の事を考えられるようになるために学校にきて勉強しているのだ、ということです。

 そして第3に、これらと結びついているのですが、生活の中での個々の問題を教師(校長を含む)と親と生徒全員とでじっくり考えていく場も方法もないということです。しかるにこの話し合い(討論)こそ本当の教育の場であり方法なのです。

 日本の教育は1から9まで間違っているという私の持論を再確認する投書でした。

(最初はメルマガ「哲学のひろば」2004年05月20日。2度目はブログ「教育のひろば」2006年11月19日)


お断り・今、ブログ「教育のひろば」をやめて、「マキペディア」に一本化しようとしています。
 前者の残したいものだけは後者に移しています。

国語辞書は語釈よりも語法を重視せよ(再掲)

2018年07月06日 | カ行
 お断り・メルマガ「教育の広場」2005年10月24日の載せ、その後「教育の広場」に転載したものを、再度転載します。


   国語辞書は語釈よりも語法を重視せよ(再掲)

 以前から「日本語疑典」を書いていますが、2日も続けて疑問を持つと又書かなければならなくなります。

 朝日新聞の国際欄に、多分毎週でしょうが、「水平線地平線」というコラムがあります。筆者は交代制ですが、10月23日は市川速水氏で「クールに進む『日本離れ』」と題する文を書いていました。その中に次の文がありました。

──日本の植民地統治下の強制動員に関しても、約20万件の被害申告を元に補償の対策案づくりが佳境に入っている。……

 これのどこに疑問を持つかと言いますと、「佳境に入っている」という表現の使い方です。これは好い事柄について使うのではないかと思うのです。

 学研の国語辞典で「佳境」を引きますと、「物事が進行してもっとも興味深くなる所」とあり、その使い方の例としては「物語が佳境に入る」を挙げています。

 たしかに「対策案づくり」は悪い事ではありませんが、元の「強制動員」が悪い事で、それの償いの仕事ですから、全体としては楽しい事ではありません。

 ですから、こういう事柄が大事な場面に差しかかった時に「佳境に入っている」とは言わないと思います。

 「対策案づくりが山場に差しかかっている」くらいでどうでしょうか。あるいは「対策案づくりがもう少しという所まで来ている」でもいいでしょう。

 次に今日、10月24日の朝日新聞は日本シリーズでロッテが2連勝したことについて2頁を割いて報じています。ロッテファンの私としては痛快な事ですが、それはともかくとして、見出しの文の最後にこうありました。

──阪神は3回無死1、2塁で藤本が送りバントを失敗。6回1死1、3塁ではシーツが2ゴロ併殺打。一方的な試合で連敗。──

 どこに疑問を感じるかと言いますと、阪神の側で論じている時にロッテの負けを「一方的な試合で連敗」と「一方的」を使っていいのか、ということです。

 他の辞書はたいてい「一方的な試合」を載せていますので、新明解国語辞典で「一方的」を見てみますと、「一方だけにかたよる様子」とあり、「一方的な勝利」という例が載っています。

 では逆に、「一方的な敗北」という表現はあるのでしょうか。多分、そうは言わないでしょう。

 たしかに、上で引用した所は「一方的な試合で連敗」であって、「一方的な連敗」ではありませんが、私は不自然に感じます。「好い所無く連敗」くらいでよかったと思います。

 それにしてもこのように単語や熟語の使い方に疑問を感じることが多いように思います。私がこれまでに書いてきたのもほとんどがこの使い方の問題でした。

 それなのに、「国語辞典の使命は語義を明らかにすること」という固定観念は変わっていないと思います。私もかつてそう書きました。今では、語義も大切だが、それと同時に、あるいはそれ以上に「語句の使い方」の説明が大切だと思っています。上の例から分かりますように、使い方の中にこそ語義を正しく理解しているか否かが現れるのだと思います。

 そういう語句の使い方を説明した国語辞典には、悪例(間違った使い方の例)も載せなければならないと思います。

 私は機会あるごとに、国語辞典の編集者たちにこれを伝えているのですが、理解してくれる人が出てきません。編集権を握る国文学者の先生にはこういう問題意識がないと見えます。

 誰かがインターネットのホームページでこういう本当の国語辞典を作ってほしいと思います。私はその試みを「ヘーゲル哲学辞典」(今は掲載していません)の中に入れましたが、私にはそれを続けて完成させる力も余裕もありません。

 誰かがやってくれるなら協力します。

  

高山岩男著作集(玉川大学出版部、2007年)の目次

2018年04月28日 | カ行
     

  第1巻

西田哲学、角川文庫、1951年
続西田哲学、改訂版、秀文館、1948年
西田先生と哲学的概念、高山岩男・島谷俊三編『西田寸心先生片影』黎明書房、1949年
呼応的同一の論理、『西田先生とその哲学』西田幾多郎先生項徳記念会、
1949年
西田先生の思い出、高山岩男・島谷俊三編『西田寸心先生片影』黎明書房、
1949年
田辺哲学の史的意義と特色、弘文堂編集部編『田辺哲学』弘文堂、1951年
田辺元「社会存在の論理」、(もとのタイトルは「思想時評」)、
 『思想』第157号、1935年
田辺先生の想い出、『哲学研究』第489号、1964年
愛の本質、『校友会雑誌』第八号、山形高等学校校友会、1924年
個性の問題と反省的判断力、『哲学研究』第147号、1928年

 第1巻・解題


  第2巻

哲学的人間学
ヘーゲル
弁証法入門
弁証法の歴史
 『高山岩男著作集』第二巻 解題
『哲学的人間学』、福井一光
『ヘーゲル』『弁証法入門』「弁証法の歴史」、中岡成文


  第3巻

文化類型学
 一章、文化類型学の概念
 二章、ギリシャ文化の類型
 三章、インド文化の類型
 四章、キリスト教文化の類型
 五章、仏教文化の類型
 六章、シナ文化の類型
 七章、西洋文化の類型
 八章、日本文化の類型
 九章、日本文化の発展
 十章、原題文化の問題

文化類型学研究
世界観の問題
哲学の歴史と世界観の類型
  ──ヘーゲルの哲学史の理念とディルタイの世界観説の理念

『高山岩男著作集』第三巻 解題
『文化類型学』他、田中久文


第4巻

世界史の哲学
世界史の動学
文化国家の理念
協同社会の理念
世界史の理念
世界史の転換と現代日本

『高山岩男著作集』第四巻 解題
『世界史の哲学』他、高橋文博
『世界史の転換と現代日本』、小坂国継


第5巻

理性・精神・実存
  ──理想主義・汎神論・実存主義の内面的連関
哲学と哲学的実存
歴史的実存と実存的歴史
  ──歴史主義に克服の道ありや
哲学的実存とニヒリズム
宇宙に於ける人間の地位

『高山岩男著作集』第五巻 解題
 『理性・精神・実存──理想主義・汎神論・実存主義の内面的連関』他、
森哲郎 


  第6巻

『場所的論理と呼応の原理』
改訂版への序
前篇 場所的論理と呼応の原理
第一章 序説 種々の論理(1~2)
第二章 論理の根本原理(3~7)
第三章 呼応の原理と場所的論理(8~10)
第四章 呼応的論理の段階(11~16)
第一節 技術と科学
第二節 社会と歴史
第五章 宗教と呼応的論理(17~20)

後篇 所の倫理
第一章 所の倫理の概念について
第二章 所の倫理と秩序の理念
第三章 欲望と自然的均衡秩序
第四章 理性的人格と法的秩序
第五章 場と所と個と
第六章 文化の所と創造性
第七章 無我の道義性と創造的世界観

『教育哲学』
第一章 教育とは何か
第二章 教育の前提となる人間観
第三章 教育の課題と哲学的人間学
第四章 場所的論理と呼応の原理
第五章 教育の場(家庭・学園・社会)の問題
第六章 教育と保守主義
第七章 技術の本質と教育的諸問題
第八章 文化の本質と教育的諸問題
第九章 道徳教育の諸問題
第十章 歴史教育の諸問題
第十一章 政治教育の諸問題
第十二章 職業倫理と教育者倫理
第十三章 教育愛・権威・師道
第十四章 全人教育と生涯教育

『高山岩男著作集』第六巻 解題
『場所的論理と呼応の原理』、大橋良介
『教育哲学』、花澤秀文

高山岩男 年譜
高山岩男 著作目録

 感想

 私は『マルクシズムの超克』の読みやすい版を求めて(紙も印刷もあまりきれいではない古本は持っていますので)これを調べたのですが、この「著作集」には入っていないようです。編者はなぜ入れなかったのでしょうか。

 私にとって一番関係のある第2巻は既に利用しています。

 今回の収穫は第3巻の中にヘーゲルの哲学史についての文章があるということを知ったことです。よくよく考えてみますと、ヘーゲルの著作の中で、その重要性に比して翻訳も研究も一番少ないのが『哲学史講義』だと思います。岩波から出ています『全集』でもこれは軽視されています。長谷川宏の「翻訳」という名の「妄想」は論外です。

 『マルクシズムの超克』についての書評を書いてから、御礼(図書館のホームページで全集物の詳細目次が必ずしも必要十分には提供されていないのではないかという私の問題提起に対する二人の方の親切なご教示に対する御礼)を発表するつもりでしたが、まだ時間がかかりそうなので、これを発表して御礼の「前半部」だけに代えます。「後半部」は高山の本の書評が書けるように成ったらその時に発表します。

 高山の本は他のヘーゲル論などに比して物凄く分かりにくいです。概念規定が不明確です。根本的には昭和24年という執筆時期の混乱とそれに対する自分の立場を建てられない自信の無さが原因でしょう。しかし、死ぬ前にマルクス思想に対する全面的な評価を書いておこうという私の試みにとってはマルクス批判派の重要な一人物である高山の本書の検討は欠かせません。

 そこでもう少し粘ってみようと考えている訳です。

 事情を考慮して読者の皆さんの寛容な態度をお願いします。

 なお、遅れに遅れています『小論理学』未知谷版の出版は、三校が終わりましたが、更に遅れそうです。ここへ来て、『精神現象学』未知谷版がこのところ売れ行きが上がって品切れになったので、重版することになり、それを先に回しているためです。単に重版にするだけなら簡単なのですが、「改訂新版」というほどではなくとも、初版(2001年)からの17年間に少しずつまとめてきていました「訂正」などは入れたいと思いましたので、少々手間取っている次第です。
 しかし、これは目途が立ちましたので、早ければ大型連休明けから少し後くらいには出るのではないでしょうか。
 よろしくお願いします。

4月28日、牧野紀之

活動報告、2018年3月28日

2018年03月28日 | カ行

        活動報告

 前回の報告が昨年の10月16日ですから、ずいぶんご義無沙汰してしまいました。定期的な活動報告は公人の義務と考えています私にとっては、言行不一致も甚だしく、恥ずかしい次第です。

 理由の第一はもちろん、『小論理学』の最後の校正が大変で、気持ちに余裕がなかったことです。「最後の校正」は普通は大した事が無いものなのですが、今回は「ものすごく詳しい索引」を作りましたので、特に大変です(「大変でした」ではありません)。

 思うに、索引は初校が出てから、それを見て「作り始める」(「校正を始める」ではありません))わけですから、本文の校正より一歩遅れるのは仕方のない事でしょう。すると、索引では頁の指示が重要(それが目的)ですから、初校で本文に変更を加えて頁が動くと、間違った頁番号を付けることになり、再校ではそれを全部正さなければならなくなります。今回もこれが起きました。ヘーゲルの『小論理学』を校正で読み直せば、どうしても書き換えたい所が出ます。なるべく頁を動かさないように努力はするのですが、校正(ゲラ)の出るのを待っている間にも勉強しますから、それにも限度があります。

しかし、ゆっくり仕事をすると、好い事もあるものでして、今回も大きな気づきがありました。今回は「付録」としては「『パンテオンの人人』の論理」と「昭和元禄と哲学」の2つは既に出ているものの再録でしたが、そのほかに「ヘーゲル論理学の概念と本質と存在」という文章を書き下ろしました。普通には「頭の中にしかない」と思われています「概念」をヘーゲルは客観界にも存在すると考えているのですが、その考えを唯物論的に理解し直すとどうなるかを論じたものです。

これは言われてみれば別にそれほど深遠な事でもないのでして、「概念が客観界に実在するなんて、牧野も気が狂ったか」などと心配するには及びません。原稿をお読みになれば多分、誰でも分かるだろうと思います。皆さんがただ、こういう発想すら考えつかなかっただけでしょう。しかし、初めて書いたこともあってか、どうも文の終わり方がうまく出来ませんでした。校正刷りを待っている間に、適当な結び方がヒラメイタのです。嬉しかったです。『小論理学』全巻を締めくくるに相応しい「結語」となりました。

 以上が「直接的な理由」ですが、そもそも「索引作りは本作りに欠かせない仕事の一部である」という認識が私には無さ過ぎて、この仕事を軽く考えていたことが「本当の理由」だと反省しています。実際、私の本には「索引」の付いたものは少ないです。『西洋哲学史要』の「増補新版」がその始まりでしょうか。『精神現象学』では索引の事は思い浮かびませんでした。『関口ドイツ文法』で初めて詳しいものを付けましたが、頁数だけで、そこに何が書かれているのかの要旨を書くという重要なことに気付きませんでした。読者の批判を聞いて反省し、自分でも「このままでは使いにくい」ことに気付いて、一部の項目についてだけですが、ネット上に「詳細索引」を載せることになりました。

 このような経緯がありましたので、今回は「全部拾おう」と考えて取り組みました。頁番号に「内容要旨」を付けることは「完全には」実行しませんでしたが、必要十分なものにはしたつもりです。一部では不必要に細かすぎた所もあるくらいです。作成している間に、「これなら『小論理学』の索引どころか、『ヘーゲル哲学小辞典』に近い物になったかな」と自惚れたくらいです。それは冗談として、『小論理学』こそ原典自身が「百科辞典」(の一部)なのですから(原典に索引は付いていませんが)、索引は必須でしょう。ともかく約60頁もの「索引」になりました。それだけに校正にも時間がかかり、その仕事を優先する気持ちが強くて、「活動報告」が遅れました(これは言い訳です)。

 しかし、お陰様で、この仕事もついに終わりが見えてきました。まもなく、三校(索引については事実上の再校)を出版社に返送できそうです。

 もう1つの理由は、私のPCの動きが遅くて、最近はインターネットを使うのがイヤに成ってきている事です。原稿を書くことだけは、ネットとは無関係で、ワープロとして使っている訳ですから、これは問題ないのですが、ネットに繋いで、検索したりしますと、その頁が出るまでに物凄く時間がかかるのです。サクサク動いてくれることもたまにはあるのですが、たいていの場合、1分くらいかかるのは当たり前で、5分以上かかることもザラです。niftyの人の話では「最近はデータが大きくなっているから」とのことですが、根本的には、我が家のある地域には未だに光ファイバーが来ておらず、ADSL回線を使っているからでしょう。「ネットを見るだけのためにタブレット端末を買おうかな」と考え始めている次第です。

 以上の「言い訳」が事実上の活動報告ですが、最後にビッグニュース(?)を一つ。私は一昨年は帯状疱疹に罹り、昨年は自家感作性皮膚炎になりましたが、それぞれ基本的には(98%くらい)治っています。しかし、カユミが残っていまして、「一日中、全身に」というわけではないのですが、特定の時に、身体の一部が、毎日カユクなるのです。いや、カユクなるの「でした」。それが劇的に治ったのです。

 きっかけは朝日紙で或る人が「自分の経験」を書いているのを読んだことです。その人の経験では、サウナの入り方は、「110度のサウナに10分間身を置き、その後17度の冷浴を2分間する。これを1セットとして、2セットか3セットする。これが一番好い結果をもたらした」というものでした。

 私の病気の根本原因は「自分の体の免疫力の低下」だと考えていますが、「これは役立つかもしれない」と思い、早速スーパー銭湯へ行って実行しました(2月16日)。最初も気持ちよかったのですが、2週間後の3月2日、今度は近所の温泉スーパー銭湯に行ってみたのですが、その後、「何か、おかしいな」と感じ、「カユミが消えたのだ」と気づきました。

 希望が出てきました。神様が「お前はもう少し頑張れ」と認めてくれたのです。この「サウナ温冷浴」は今後も続けるつもりです。その後、「水出し緑茶」では免疫力を高める物質(名前は忘れました。認知症の初期です)が出るという記事を読み、実行しています。今後も、健康には十分に気を付けて、仕事をやり残して死ぬことのないようにしたいと思っています。

 最後に。図書館のホームページでは「全集物」の目次も分かるようにしてほしいという私の問題提起に対して2人の読者から親切なご教示をいただきました。そのうちの1人はこれから大学に入ってヘーゲルをやろうと意気込んでいる方のようです。これ又ビッグニュースでした。嬉しかったです。これへのお礼の言葉は近いうちに改めて書くつもりです。

2018年3月28日
牧野紀之