開催日時と場所:
5月15日(月)、午前10‐12、喫茶店「蔵」
テーマ:湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―
頼山陽(宮島誠一郎筆写)「東遊漫録」(富士川英郎によって偽書の可能性は考える必要はないとされる)の分析を通じて山陽一行が下船した今津とは何処だったのか、考えてみたい。この点の解明ができれば福山藩領内でも数少ない興行場(芝居・相撲などの興行を公認された場所)が形成されていた剣大明神境内一帯を包含しつつ瀬戸内海の水運ともリンクしていた今津宿の新たな地域像(瀬戸内地方の風土性や備後福山藩領と芸藩領との境界性など)が浮かび上がらせていく。
頼山陽一行の尾道―今津間の推定航路(賴山陽が下船した今津湊の場所は高諸神社南:慶応期に干拓された前新涯北端/千本松原部か、本郷川河口に当たる旧今津小学校敷地東横松原のあった本郷川河岸部あたりだっただろうか。船着き場との関連は不明だが、雁木遺構が高諸神社境内の東御池岸に見られる)
尾道商人たちが寄進した剣大明神の狛犬。
中島屋忠三郎・茶屋儀八・播磨屋松之助については詳細は不明だが、今津宿内の「「宿」を舞台に芸者や遊女たちを置いて客に遊興・飲食をさせるいわゆる茶屋(水茶屋・引き手茶屋・色茶屋・芝居茶屋・相撲茶屋などの総称)経営者たちではなかったかと思われる。尾道にある浄土真宗浄泉寺入口には播磨屋松之助が父親(戒名:釈松寿信士)のためにジャンボな常夜灯形式の供養塔を建立(文化14年)しており、敬神観念が旺盛でありかつ、剣大明神に対して何がしかの献金代わりに自己顕示欲を満足させるやり方で狛犬一対を寄進したものであろう。これは祭礼と経済活動とが一体となっていた時代の貴重な遺物に他ならない。
こういう娯楽・商業活動が期間限定付きではあったが公認された場(福山藩は芝居相撲興行を剣大明神・鞆祇園社と備後一宮において公認)が剣大明神境内とその鳥居前には存在したということはもっと注目されてよい。
文化十一年→文化十年
旅籠や芝居小屋が立地したのは剣大明神鳥居前だった。ここを一円的に所有したのが薬師寺。芝居相撲興行は剣大明神の祭礼とタイアップした形で剣大明神境内及び当該鳥居前で行われた。
【参考】
後掲の文明17(1484)年備後国尾道権現堂檀那引注文には古志氏の支配下にあった新庄(荘鎮守は本郷八幡宮)内「今津」及び「今伊勢」が悉皆的に熊野権現の信仰者だとしていること、また毛利氏の行った惣国検地には熊野権現を地主神とした蓮花寺・金剛寺・薬師寺三ヶ寺の記載があることから判断して今津湊が尾道及び瀬戸内海水運との関りをもっていた熊野権現とのかかわりを持つ存在であったことが判る。そういうことから鑑みて、おそらく今津+剣大明神というのは遠い昔から受け継がれてきたもの(正統性を有する伝統)ではなく後代に人工的に創られた伝統であるかあるいは他所から持ち込まれたものだったのだろう。同様の検討は神村伊勢宮さんと熊野信仰についても必要である。ちなみに神村町では現在熊野権現は八幡さん内に摂社として祀られている。
【メモ】文化期の尾道の遊郭事情については青木茂『尾道市史』『新修尾道市史』に関連史料掲載。尾道では洗濯女と呼ばれた遊女も尾道町と後地村の同業者間で客の取り合い。大崎島辺りからの遊女の出張営業、沼隈郡山波村沖合で「おちょろふね」を使った営業など尾道地区の業界は不況状態だったようだ。そういう時代状況の中での久保浄泉寺のジャンボ供養塔を含めた播磨屋松之助の狛犬寄進だった。
5月15日(月)、午前10‐12、喫茶店「蔵」
テーマ:湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―
頼山陽(宮島誠一郎筆写)「東遊漫録」(富士川英郎によって偽書の可能性は考える必要はないとされる)の分析を通じて山陽一行が下船した今津とは何処だったのか、考えてみたい。この点の解明ができれば福山藩領内でも数少ない興行場(芝居・相撲などの興行を公認された場所)が形成されていた剣大明神境内一帯を包含しつつ瀬戸内海の水運ともリンクしていた今津宿の新たな地域像(瀬戸内地方の風土性や備後福山藩領と芸藩領との境界性など)が浮かび上がらせていく。
頼山陽一行の尾道―今津間の推定航路(賴山陽が下船した今津湊の場所は高諸神社南:慶応期に干拓された前新涯北端/千本松原部か、本郷川河口に当たる旧今津小学校敷地東横松原のあった本郷川河岸部あたりだっただろうか。船着き場との関連は不明だが、雁木遺構が高諸神社境内の東御池岸に見られる)
尾道商人たちが寄進した剣大明神の狛犬。
中島屋忠三郎・茶屋儀八・播磨屋松之助については詳細は不明だが、今津宿内の「「宿」を舞台に芸者や遊女たちを置いて客に遊興・飲食をさせるいわゆる茶屋(水茶屋・引き手茶屋・色茶屋・芝居茶屋・相撲茶屋などの総称)経営者たちではなかったかと思われる。尾道にある浄土真宗浄泉寺入口には播磨屋松之助が父親(戒名:釈松寿信士)のためにジャンボな常夜灯形式の供養塔を建立(文化14年)しており、敬神観念が旺盛でありかつ、剣大明神に対して何がしかの献金代わりに自己顕示欲を満足させるやり方で狛犬一対を寄進したものであろう。これは祭礼と経済活動とが一体となっていた時代の貴重な遺物に他ならない。
こういう娯楽・商業活動が期間限定付きではあったが公認された場(福山藩は芝居相撲興行を剣大明神・鞆祇園社と備後一宮において公認)が剣大明神境内とその鳥居前には存在したということはもっと注目されてよい。
旅籠や芝居小屋が立地したのは剣大明神鳥居前だった。ここを一円的に所有したのが薬師寺。芝居相撲興行は剣大明神の祭礼とタイアップした形で剣大明神境内及び当該鳥居前で行われた。
【参考】
後掲の文明17(1484)年備後国尾道権現堂檀那引注文には古志氏の支配下にあった新庄(荘鎮守は本郷八幡宮)内「今津」及び「今伊勢」が悉皆的に熊野権現の信仰者だとしていること、また毛利氏の行った惣国検地には熊野権現を地主神とした蓮花寺・金剛寺・薬師寺三ヶ寺の記載があることから判断して今津湊が尾道及び瀬戸内海水運との関りをもっていた熊野権現とのかかわりを持つ存在であったことが判る。そういうことから鑑みて、おそらく今津+剣大明神というのは遠い昔から受け継がれてきたもの(正統性を有する伝統)ではなく後代に人工的に創られた伝統であるかあるいは他所から持ち込まれたものだったのだろう。同様の検討は神村伊勢宮さんと熊野信仰についても必要である。ちなみに神村町では現在熊野権現は八幡さん内に摂社として祀られている。
【メモ】文化期の尾道の遊郭事情については青木茂『尾道市史』『新修尾道市史』に関連史料掲載。尾道では洗濯女と呼ばれた遊女も尾道町と後地村の同業者間で客の取り合い。大崎島辺りからの遊女の出張営業、沼隈郡山波村沖合で「おちょろふね」を使った営業など尾道地区の業界は不況状態だったようだ。そういう時代状況の中での久保浄泉寺のジャンボ供養塔を含めた播磨屋松之助の狛犬寄進だった。