寛政8年8月6日夜、夜間魚取りのため本郷川(土手)を下っていたところ松永方面から川を渡ってくる不審者たちと遭遇。忠右衛門・留八が𠮟責したところ、かれらは前新涯角土手に備後表7荷を残したまま逃走したという話だ。
備後表の抜け荷は絶えなかったようだが、おそらく舟でやってくる尾道の商人に密売するために備後表をひそかに前新涯角土手に置いていたのだろう。
前新涯角の地先には幕末・明治期にかけて通称「三角」(末広新涯)が造成され寛政期の景観は一変したがこのあたりは備後表7荷積み出す舟の着舟可能な場所であった訳だ。
頼山陽が辿った尾道―今津間の航路。矢印アニメは舟の動き。
寛政9年当時でも九州往還の川尻(藤井川デルタ地帯)付近で通行不能になることがったらしく、その場合は険しい迂回路を避け、尾道ー今津間を舟で行き来することがあったらしいことがわかる。