- 松永史談会 -

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大正10年松永高等小学校解散記念アルバム

2014年02月25日 | 教養(Culture)
大正10年10月 河本家の菩提寺:蓮花寺にて河本亀之助追悼法要が営まれた。


場所はJR松永駅のすぐ南側


大正天皇の御真影・・・・まさにこれは学校内の御真影室という”神殿”に勧請されてきた御祭神だったのだ。


柔道場


優勝旗には福山藩主阿部家の家紋(丸に右重ね違い鷹の羽」で羽に斑模様が付く)入り。阿部家からの寄贈品だったのだろ。当時は神社の幕などにも同様の家紋が・・・・


職員室(西川・大内・福原の三代に亘る校長の肖像写真が掲額されている)


朝礼風景、服装・体格、男女数に注目。校舎の向こう側(背後)の建物(民家=石井家住宅、破風の一部が見える)は現在も残っている。校長は福原。


古民家は高等小学校があった時代からの石井家住宅。


小使いさん(校僕)、明治31年より勤務した石井亀次郎=副校長、運動場の校長さんと親しまれた。


三原・浅野家の家臣の子:西川國臣(初代校長)、長谷川櫻南の弟子。わたしの祖父や丸山鶴吉の恩師。


第三代校長:福原甚之助。奏任官の大礼服姿。文化功労者福原麟太郎の親父。


福原麟太郎自身も一時教師をしていたようだ。下段右端が麟太郎。







佐藤角治(柳津町)は村田露月没後、村田の年譜を完成し、その半世紀亘る業績をまとめた人物だ。




橘高銀三郎は校医、第四代松永町長


山本慎(真)太郎(祖父の従兄弟) わたしの姉のピアノ教師。


山本コマ・・・・我が家ではお駒さんと呼んでいた。


松永高等小学校が解散したあとは各町村役場ごとに小学校が設置。この場所は『松永町誌』中では松永高校敷地とある。


このアルバムの所蔵者河本英太の親父:河本猛郎(わたしの祖父とこの学校での同級生)や山本慎太郎(わたしの祖父の従兄弟)、福原麟太郎の名前が・・・。


当時の初等教育制度とリンクさせた分析が必要だ。

空中写真の所在

干拓地である長和島の北端にあたる。


学校敷地面積1406坪だから50M×80M(4000㎡)


大正10年には存在した石井家住宅(江戸時代の干拓堤防上に立地)。この住居の東隣に高等小学校があった。破風に特徴あり。


1962年の空中写真に見る松永高等女学校→松永高等学校(その北西域に旧松永高等小学校)周辺の景観

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