- 松永史談会 -

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武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41

2016年11月07日 | 高島平三郎研究
尊敬する人々の中に、高島平三郎・徳富蘆花・三宅雪嶺が挙げられている。
武者小路は高島には興味はなかったが、兄貴の影響で強制的に高島邸で開催された「楽之会」に15,6歳ごろから作家としての駆け出し時代を通じ10年程度毎回出席していたようだ。
実篤の兄貴公共は終生、学習院初等科一年のクラス担任だった高島の、高弟であることを名誉に感じていたと述懐している。それは公共の弟である武者小路実篤にとってもそうであったはずだ。多少、つむじ曲がりのところがあった弟武者小路実篤は兄貴公共に関して自分との違いをいろいろ挙げているが、東大中退の時もそうだが、兄貴の了解を取り付けるなど母子家庭で6つ年上の姉も3歳の時に失うといった身の上の置かれた実篤は、若いころ、いろんな意味で兄貴の影響下にあった。

実篤はトルストイ一辺倒で高島の思想には興味を感じなかったらしい。とはいえ、「新しき村」運動は楽之会で受けた感化が契機になったと語っている。そういえば洛陽堂はこの当時盛んに「都会と農村」に関して、天野藤男らを動員して田園再生をテーマとした書籍を多数刊行していたなぁ。武者小路自身は「あたらしい村」運動はトルストイや半農生活を送っていた母方の叔父勘解由小路資承(すけこと)の影響から始めたというような印象の文章を『自分の歩いた道』の中に残していたが・・・・。


武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41はその後、『作家の自伝7―武者小路実篤―』1994に所収されている。


これらの本(中古品)はアマゾンでも比較的安価に入手できる。武者小路実篤全集・第十五巻を底本とした『作家の自伝7―武者小路実篤―』の方は武者小路の年譜・編集者による解説付で便利。


「楽之会」の言葉の由来は論語の『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)からきていることに言及にこの年になってその意味が解るようになったと書いている。

意味
あることを理解している人は知識があるけれど、そのことを好きな人にはかなわない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人に及ばないものである。

武者小路の意識の中には高島平三郎からの教えを自らの中では欠落した実の父親に関する記憶&実父からの教えにも匹敵するものとして享受しようとするものがあったのでは・・・・。

高島が信用できる人を呼んで講演させた
②(自分は)高島さんに敬意を感じている。
③好之者不如楽之者の境地に入ることの本当さ(武者小路にとっては本物・本当というのは最大限の賛辞)を老いてますます感じている。
これらの武者小路の言葉からも高島に対する尊敬の念がいかに大きかったが判ろう。武者小路の漱石や露伴に対する感情と高島に対するそれとはまるで質が異なる。武者小路という生命に大きな感化を与えたのは高島だった。
『思い出の人々』は昭和41年、実篤81歳時の作品であり、わたしには人生の晩秋に語られたその述懐には大きな質量(=真実味)が感じられる。

新しい村をはじめ僕の家で「村の会」を開いたのは高島邸で開催された楽之会の影響。そういう意味でも高島さんの僕への影響は無視できないとも書いている。
なお、河本亀之助に関しては楽之会で同席した洛陽堂主人に雑誌白樺の出版を頼んだという下りで触れられるだけだった。河本亀之助に関しては『作家の自伝7 武者小路実篤』所収の「自分の歩んだ道」においては”はげ頭の人の好い洛陽堂の主人はいまも懐かしく思い出す”という形で紹介されている(36-38頁)。雑誌白樺が洛陽堂刊として出版されるようになって予想外に売れたのは河本の営業努力(新聞記者に出版情報を流したこと)の賜物だと武者小路は少しく感じていたか・・・。

武者小路実篤の人柄(心配性タイプの無頼漢)がよくわかる一文。


今回取り上げた話題に関する詳細は他日を期したい。武者小路とか志賀直哉の自伝に興味あるかって?
こういう作家連中の人格・人間性に関してもともと興味がない。
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