- 松永史談会 -

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社会史の史料としての墓石たち

2016年11月29日 | 断想および雑談




松永を代表する製塩業者の一つだった浜・大木屋岡本家(岡本総本家)の墓地。明和期の大きな墓石を一基残し、あとはすべて撤去されている印象だ。この寺の墓地ではこういう墓石の整理方法が進められている感じ。

系図(典型的な偽文書・・・大職冠中臣鎌足を祖する)には先祖は山南庄荘官とあったが、岡本さんだという80歳くらいの男性から聞いた話では沼隈町出身だということだった。ついでにご先祖のことを質問したら過去帳を見ないと解らないという話で、最近墓地の整理が終了し胸のつかえが取れたといった雰囲気だった。大木屋の御当主(若い塾経営、ご先祖が松永を代表する製塩業者だったという話は親からほとんど聞かされなかったとのこと)の方にあったが、分家には松浜屋(自動車学校南)、松島屋(エブリの隣)、大松屋(旧中外となり)、松井屋など色々あるようだ。大正町歯科医院岡本も一族。


同上、大松(おおまつ)屋岡本家の墓地・・・・・山陽鉄道の建設により、塩田経営が困難となり製塩過程での不要物を原料とした新規事業に着手し岡本一族が中核となって松永製薬所(のちの中外製薬松永工場)を創業。判るのは第五代に当たる同志社英学校卒の岡本織之助以後。




大松屋→松浜屋に分出。岡本一族の中では岡本織之助(大松屋)・岡本脩吉(大松屋の次男で松浜屋を起こす)・岡本勝(屋号は調査中)ら


村上亀吉家の家族の死亡状況

亀吉は奥さんが大正3年旧暦6月、子供たちが大正8-9年に3人も亡くなっている。旧暦6-9月なのでインフルエンザではないかもしれない。結核かコレラやチフスか・・・・死因は不明だが、家族が感染症を発症し相次いで亡くなるということがわたしの知る限りでも、当時はよくあったようだ。


家族全員が死亡した佐藤茂吉一家の悲劇。

身寄りのない静代は上下町の角倉家に奉公に出され、そこで亡くなったようだ。上下角倉家の出身者に我が国における代表的な音楽学者(東京芸術大学、バッハ研究)の一人角倉一朗がいるが、この一朗の父親(内務警察官僚・在家禅の師家角倉蘿窓)は静代のために立派な供養塔を寄進している。


お墓のおひっこし・・・・首都圏にいる子孫のもとへ骨壺を移動させる工事中。墓じまいが急速に拡大するご時勢だ。お墓の主・大村軍太は静代の後見人的な役割を果たした人物だった。


今回紹介した「岡本織之助」は松永塩業史の中に製塩から製薬というアイディアを持ち込んだ人物として重要である。岡本織之助は高島平三郎とは共に長谷川櫻南の浚明館で学んだ仲だったようで、高島の顕彰碑が神村須江に建立されたときは松永町の住人では唯一お祝いに出向き大東坊の那須師・得能正通共々記念写真に納まっていた。
製薬と言う面で言えば松永湾一帯では備中売薬などの置き薬の売人たちが出入りしていた。沼隈郡今津村の長波屋三藤氏(傳助、現在子孫たちは大阪在住)は丸薬の製造、丸薬製造機械の発明を行っていた。三藤六平の時代には明治25年段階に長信稲荷(備中最上稲荷神を勧請)の社を造営し、その神官に収まっていた。この神社の氏子には今津村の長波地区の住民が多かった。かれらは三藤氏が製造した薬の、薬売りの行商人を兼ねていたのだろうか。わたしの時代は富山の薬屋の置き薬、いまの我が家には常盤製薬の置き薬が・・・・

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