現象学では図(主題、Figure)と地(背景,Ground)との入れ替えを問題とする。例えば・・・
モノクロ画像だが白を背景とするか、黒を背景とするかといった観点(Viewpoint)の差異が図の見え方を180度変えてしまうという訳だ。黒に注目すると白部分は背景化され、対面する二人の顔を描いたイメージということになるが、逆に白に注目すれば黒部分は背景化されお洒落な壺にしか見えないイメージになってしまう。現象学は真理を棚上げにして事象とか事物の、したがって事実それ自体の相対性ー対象は観察対象と観察者の観点如何によって如何様にでも変わってくる式の優柔不断な論を強調するきらいがあり、こまった思考モードではあるのだ。やはり物事には正誤・真偽・虚実の間に明確な境はあるし、またそれが必要だ。
ただボーっと眺めるだけの風景は全体が生活空間の中の背景(意識されない、ふつう見過ごされる対象)にしかすぎないのだが、風景の中に名前・呼称が付与されるとたちまち自覚的に意識の中に立ちあらわれてくる意味を持った対象へと変身するのである。このように今回例示したような名称・呼称の内容はそうした意識の在り方に一定の方向性を与えてしまう。
こちらの写真は松永・上之町から北方を見た、何でもない何処にでもあるような風景だが、わたしが注記を加えたことによって、これからはその風景(あとで紹介する風景図屏風との関係でいえばわたしが文字注記をいれた次の風景写真はもう一つの「風景図屏風」といえるもの)が生活空間の中の「地」から「図」へと転換され同一風景に対して見る目が(個人差はあるかもしれないが)これまでとは大きく異なってくるはずだ。この変化は先述した背景から主題への変化と論理的には同じことなのだ。
グレー色の点滅する山地部分は今津町の翠峯会が管理する町有林(数年前に山火事で大半を焼失。現在は植林中)
本郷森林公園の山上駐車場(松永・上之町から見えた山の山上駐車場)から第八鉄塔へ徒歩15分の地点(Y)から見た松永湾の風景。
その美しさは瀬戸内海という多島海と松永湾という封鎖性海域が紡ぎ出したまさに奇跡の風景なのだ。
屏風絵の注文主の意図を反映した形で絵師によって美的に再構成された松永湾の風景
美的に再構成する方法は①当時の絵画の伝習的方法に即した形で、②漢詩の中で詠まれた遺芳湾を10or12(「遺芳湾十勝詩」「遺芳湾十二勝詩」)に分節しそのシーンを名勝・名所という詩的カテゴリーに合致(多くの場合不完全な形で合致)する形で形象化するというものだった。
看過してはいけない点は作品化されたこの種の漢詩や名所絵は一旦公開されると、こんどは逆に現実の風景(例えば松永湾岸の風景)を見るときのフィルター(あるいは準拠枠)のようなもの、前に使った言い方をすれば意識の在り方に一定の方向性を与えるものとして多かれ少なかれ作用するようになっていった(or いく)という部分だ。
松永稲荷神社から高須・山波方面
潮崎神社から藤江・浦崎方面・・・・浦崎半島の突端・戸崎のシーンは梅(桜)が満開、高須沖の松永湾には水鳥(渡り鳥)が飛翔する季節としては初秋以後の風景を感じさせるという風に(春夏秋冬を描き分けたり、特定の季節を念頭に描き切ってるというよりも気ままに)雑多な季節性を混在させている。
この風景画研究を通じて松永湾岸がこのように描かれたその時代的・社会的特質といったものやこの絵の中に投影された屏風絵の注文主を含む作成主体の在り様が透かし見えてくるように思われる。
屏風絵の注文主を含む作成主体という事でいえば、例えば藤江・山路氏や浦崎在住の笠井氏など松永湾をこのような構図で、しかも松永村の鎮守さんである松永・潮崎神社にスポットを当てるような屏風絵は間違っても注文しないだろう。
ありのままの風景というのは背景→主題(背景の主題化)という過程の中で無意識の政治性というか自己中心的な意識(たとえば屏風絵の注文主の有する自分勝手さ)が投影されるものなのである。その辺の見極めが歴史研究(史料批判段階)においては必要となってくる。
安政4年 松永湾風景図屏風(福山城博物館蔵)
モノクロ画像だが白を背景とするか、黒を背景とするかといった観点(Viewpoint)の差異が図の見え方を180度変えてしまうという訳だ。黒に注目すると白部分は背景化され、対面する二人の顔を描いたイメージということになるが、逆に白に注目すれば黒部分は背景化されお洒落な壺にしか見えないイメージになってしまう。現象学は真理を棚上げにして事象とか事物の、したがって事実それ自体の相対性ー対象は観察対象と観察者の観点如何によって如何様にでも変わってくる式の優柔不断な論を強調するきらいがあり、こまった思考モードではあるのだ。やはり物事には正誤・真偽・虚実の間に明確な境はあるし、またそれが必要だ。
ただボーっと眺めるだけの風景は全体が生活空間の中の背景(意識されない、ふつう見過ごされる対象)にしかすぎないのだが、風景の中に名前・呼称が付与されるとたちまち自覚的に意識の中に立ちあらわれてくる意味を持った対象へと変身するのである。このように今回例示したような名称・呼称の内容はそうした意識の在り方に一定の方向性を与えてしまう。
こちらの写真は松永・上之町から北方を見た、何でもない何処にでもあるような風景だが、わたしが注記を加えたことによって、これからはその風景(あとで紹介する風景図屏風との関係でいえばわたしが文字注記をいれた次の風景写真はもう一つの「風景図屏風」といえるもの)が生活空間の中の「地」から「図」へと転換され同一風景に対して見る目が(個人差はあるかもしれないが)これまでとは大きく異なってくるはずだ。この変化は先述した背景から主題への変化と論理的には同じことなのだ。
グレー色の点滅する山地部分は今津町の翠峯会が管理する町有林(数年前に山火事で大半を焼失。現在は植林中)
本郷森林公園の山上駐車場(松永・上之町から見えた山の山上駐車場)から第八鉄塔へ徒歩15分の地点(Y)から見た松永湾の風景。
その美しさは瀬戸内海という多島海と松永湾という封鎖性海域が紡ぎ出したまさに奇跡の風景なのだ。
屏風絵の注文主の意図を反映した形で絵師によって美的に再構成された松永湾の風景
美的に再構成する方法は①当時の絵画の伝習的方法に即した形で、②漢詩の中で詠まれた遺芳湾を10or12(「遺芳湾十勝詩」「遺芳湾十二勝詩」)に分節しそのシーンを名勝・名所という詩的カテゴリーに合致(多くの場合不完全な形で合致)する形で形象化するというものだった。
看過してはいけない点は作品化されたこの種の漢詩や名所絵は一旦公開されると、こんどは逆に現実の風景(例えば松永湾岸の風景)を見るときのフィルター(あるいは準拠枠)のようなもの、前に使った言い方をすれば意識の在り方に一定の方向性を与えるものとして多かれ少なかれ作用するようになっていった(or いく)という部分だ。
松永稲荷神社から高須・山波方面
潮崎神社から藤江・浦崎方面・・・・浦崎半島の突端・戸崎のシーンは梅(
この風景画研究を通じて松永湾岸がこのように描かれたその時代的・社会的特質といったものやこの絵の中に投影された屏風絵の注文主を含む作成主体の在り様が透かし見えてくるように思われる。
屏風絵の注文主を含む作成主体という事でいえば、例えば藤江・山路氏や浦崎在住の笠井氏など松永湾をこのような構図で、しかも松永村の鎮守さんである松永・潮崎神社にスポットを当てるような屏風絵は間違っても注文しないだろう。
ありのままの風景というのは背景→主題(背景の主題化)という過程の中で無意識の政治性というか自己中心的な意識(たとえば屏風絵の注文主の有する自分勝手さ)が投影されるものなのである。その辺の見極めが歴史研究(史料批判段階)においては必要となってくる。
安政4年 松永湾風景図屏風(福山城博物館蔵)