八ッ場ダムが完成して2年半ほど経つが、ようやく機会を得て見学に出かけてきた。この八ッ場ダムの周辺には「やんば天明泥流ミュージアム」ができていると聞いていたので、むしろこちらに関心があったが、両者を見てみようと思い出かけることとなった。
八ッ場ダムについては、軽井沢から北軽井沢方面に出かけるときに通過する峰の茶屋近くの交差点に案内が出ていることに気が付いていた。この案内を見るたびに「ああ、八ッ場ダムが完成したのだ」との思いがして、近いうちに見学に行ってみたいものと思っていた。
峰の茶屋付近の交差点に設置された「八ッ場ダム」の案内板
この八ッ場ダムは、昭和27(1952)年に利根川改定改修計画の一環として調査着手以来、幾多の変遷を経て令和元(2019)年6月に八ッ場ダム本体コンクリート打設完了、令和元年10月に試験湛水を開始し、令和2(2020)年3月に完成した。
この間には民主党政権時に前原前国土交通大臣による建設中止発表(2009年)もあり、大きな社会問題となった。
私が、この場所を最初に訪れたのは建設再開(2011年)が決まってからのことで、2013年4月下旬ころであった。現地近くにカタクリ群落があると知り、ここを訪れたが、その際すでに出来上がっていた「道の駅」に立ち寄ったのであった。
その八ッ場ダム周辺に「やんば天明泥流ミュージアム」ができていることを知ったのはやや遅れてからであった。1783年に起きた浅間山の天明大噴火で、吾妻川流域が泥流に襲われ、大きな被害を受けたことは知っていたが、その詳細についてはまだよく知らなかった。
この天明の大噴火の被災地としては「鎌原観音堂」のある嬬恋村鎌原地区が日本のポンペイとしてよく知られており、現地にはこの時に起きた大規模な土石なだれによって埋没した鎌原村の資料や絵図、発掘した民家の出土品などを中心とした展示を行っている「嬬恋郷土資料館」もある。また、最近になって更に発掘調査を進めているとの報道もある。
これに比べると、吾妻川流域の長野原町で起きた泥流被害についてはまだよく知られていないのではと思う。そうしたこともあり、今回八ッ場ダムの完成とともに、周辺にこうした災害の記録を展示する施設ができたことを知り、かねて出かけてみたいと思っていたのであった。
当日は、まず以前にも行ったことのある道の駅・八ッ場ふるさと館を訪問した。場所は、次図のようにダム湖のほぼ中央にかかる「不動大橋」のたもとにあり、地元の特産品や野菜などの農産物を販売する市場のほか、食事処・コンビニもあり、土曜日ということもあって多くの人で賑わっていた。
八ッ場ダム周辺地図(道の駅・八ッ場ダムふるさと館のパンフレットから)
建物の中央付近には八ッ場ダムに関する展示と情報提供を行う「情報コーナー」があり、観光情報を入手することができた。また事務員のいる窓口では、八ッ場ダムを撮影し、その写真を持参して提示すると、記念のダムカードがもらえると書かれていた。
昼食後、最初の目的地である「やんば天明泥流ミュージアム」に向かった。道の駅に来る途中、車から案内が出ているのを見ていたので、場所は分かっていたが、道の駅で入手した上記の地図には出ていない。このミュージアムは令和3(2021)年に開館ということで、新しくできた施設だからだろうか。
次の地図は、ミュージアムで入手したパンフレットからのものである。
やんば天明泥流ミュージアムを示す地図(ミュージアムのパンフレットから)
道の駅の賑わいからはやや離れており、我々のほかには来訪者がいなかったが、駐車場に車を停めてミュージアムの建物に向かった。
駐車場から見た「やんば天明泥流ミュージアム」(2022.12.10 撮影)
入館料を払って館内に入ると、先ず「天明泥流体感シアター」に案内された。ここでは、江戸時代後期の日常生活の様子と、その生活が浅間山の大噴火により起きた天明泥流に襲われるまでのストーリーを発掘調査の成果をもとに再現し、大画面で上映して見せてくれる。
別室の展示室では、災害当時の八ッ場を被害の痕跡が残る出土品や古記録で解説しているが、見学の途中から説明員の年配の男性に付き添っていただき、詳しく聞くことができた。
「やんば天明泥流ミュージアム」の室内(パンフレットから)
ここで、1783(天明3)年8月に起きた天明泥流についてミュージアムの展示内容を、図録を参考にしながらみておこうと思う。浅間山の噴火自体は5月に始まっていた。
【噴火の経過と天明泥流】
*8月4日昼過ぎ
●浅間山の東から東南東方向で大雨のような激しい降灰
●降灰の下では昼でも行灯が必要なほど暗くなる
*8月4日夕方から5日朝
●北麓で大規模な火砕流・溶岩流発生
●東にたなびく噴煙が夜空を染める
●朝、東南東にたなびく噴煙のため南麓では西の空から夜が明ける
*8月5日午前7時30分ごろ
●噴火・鳴動がおさまる
*同 午前9時30分ごろ
●鬼押出しにあった柳井沼付近で何らかの爆発と崩壊発生
●これが鎌原土石なだれと天明泥流となる
*同 午前9時35分ごろ
●鎌原(浅間山山頂から約12㎞)に土石なだれ到達
*同 午前9時45分ごろ
●長野原(同 約23㎞)に泥流到達
*同 午前9時50分ごろ
●川原畑(同 約30㎞)に泥流到達
*同 午前10時20分ごろ
●原町(同 45㎞)に泥流到達
と、このように浅間山の北麓で起きた大爆発により発生した土石流は、その後吾妻川に流れ込んで泥流と化し、約15分後には浅間山山頂から23㎞離れた吾妻川流域の村を襲っている。
この泥流は吾妻川を流れ下り、利根川に合流後現在の群馬県・埼玉県・千葉県を経て翌日8月6日の18時ごろには浅間山山頂から約285㎞も離れた銚子にまで到達している。
鎌原土石なだれと天明泥流による死者数と被害家屋数はそれぞれ、1,523人と2,065戸に及んだとされる。このうち、最大の死者が出たのは鎌原地区をはじめとする嬬恋村で786名、次いで今回訪れた長野原町一帯で440名、そしてはるか下流域と思える川島地区を含む現在の渋川市で221名もの死者を数える。
この川島地区には吾妻川を流れ下った巨大な溶岩・浅間石が畑の中に今も残されていて、金島の浅間石と呼ばれている(2016.11.4 公開当ブログ「浅間石(2)」参照)。
浅間山からの泥流が襲った吾妻川流域地図(ミュージアム図録より)
天明泥流の総量については詳しい数値は示されていなかったが、八ッ場地域の村落は吾妻川との高低差が30~60mとされていて、ここにさらに3mの厚さで堆積していることが発掘調査で明らかにされている。
展示館にはこの堆積地層を樹脂で固めて剥ぎ取ったものが展示されている。
「天明泥流」堆積地層の剥ぎ取り作業(ミュージアム展示より)
樹脂で固め、剥ぎ取られた高さ3m余の地層(ミュージアムの展示より)
吾妻川から溢れだして、流域の八ッ場地区の村落を襲った天明泥流の範囲は次のようであったとされる。八ッ場ダムの建設・完成により、こうした範囲の約半分が水没していることが分かる。
八ッ場における天明泥流の到達範囲(茶色の部分、ミュージアム図録より)
天明噴火時の鎌原火砕流と、吾妻川で泥流と化した土砂移動に関する論文(井上ら、応用地質35巻1号、1994、pp12-30)によると天明泥流の総量は、水分を含めて1.4億立方メートルとの推定がなされている。
ミュージアムには浅間山の活動の歴史が、年表形式で展示されているが、それによるとこれまでに3回にわたり、山麓に大きななだれ現象をもたらしている。
1回目は、今から約2.5万年前頃に起きた大規模山体崩壊により発生した岩屑なだれで、吾妻川流域からさらに利根川流域の前橋に流れ下った泥流が、この地方に厚さ10mの台地を形成した。崩壊岩屑の総量は40億立方メートルとされる。
2回目は1108年に起きた天仁噴火の時のもので、浅間山の南北に総量10億立方メートルの噴出物が流れ出した。この時の堆積物は吾妻川流域には達していない。
3回目が1783年の天明噴火で、噴出物の総量は4.5億立方メートルとされ、その一部が天明泥流となっていることになる。
八ッ場ダムはこうした環境のもとに建設された。ミュージアムを見学した後、その八ッ場ダムサイトに移動した。最寄りの駐車場に車を停めて、少し歩くと「なるほど!やんば資料館」のある建物に着く。
ダムサイトに設けられている「なるほど!やんば資料館」(2022.12.10 撮影)
ここでは、八ッ場ダム建設の歴史が映像と年表で示されていて、ダム周辺のジオラマも見ることができる。
「なるほど!やんば資料館」の展示室(2022.12.10 撮影)
ここから、ダム堤の上を歩いていくと、ダムの下に降りるエレベータがあり、一般の見学者が利用できる。これを使ってダム下の放水流路にかかる真っ赤な橋からダム全体を見上げることができる。
ダム上部、左奥にエレベータ乗り場が見える(2022.12.10 撮影)
エレベータで降りることができるダムの下部(2022.12.10 撮影)
ダムの下部とダム堤をつなぐエレベータの通路(2022.12.10 撮影)
ダム下でスマホ撮影した写真を、帰路道の駅にあった「情報コーナー」で提示すると、次のようなカードを受け取ることができた。ダム全体が写っていることが条件であったので、それもあって、ここまで来て撮影したのであった。
道の駅八ッ場ふるさと館の情報コーナーでいただいた記念カード(表)
道の駅八ッ場ふるさと館の情報コーナーでいただいた記念カード(裏)
壮大なダムに感激しながら帰路に就いたが、このダムと八ッ場地区そして浅間山について思いを巡らすことになった小旅行であった。
八ッ場ダムは2019年10月に湛水を開始したが、その直後日本を襲った台風19号がもたらした豪雨の際にその力を発揮し、首都圏を救ったと報じれらていた。
一方、これまで浅間山の活動が周辺地域に与えた影響の大きさを考えると、天明泥流時のような噴火や、それを10倍も上回る山体崩壊のような事態が発生したときに、いったいどのようなことになるのだろうかと考えてしまう。
「やんば天明泥流ミュージアム常設展示図録」の冒頭の「ごあいさつ」に書かれている次の文章がとても印象に残る。
「長野原やんば天明泥流ミュージアムは『八ッ場ダム』建設にともなって行われた、26年間、約100万m2におよぶ発掘調査の成果に基づき、天明3(1783)年の浅間山大爆発で発生した天明泥流によって埋没した村落、および縄文時代からの八ッ場の歩みを展示する博物館です。
本館の展示資料は、天明泥流とダム建設という、二度にわたる八ッ場地域の人たちの苦難の歴史を経て、目にすることができるようになったものです。・・・」
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