軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

干支のこと

2019-02-22 00:00:00 | 日記
 友人のIさんのブログを見ていたら、十二支と干支のことが紹介されていた。私たちは十二支のことを通常「干支」(エト)と言っているが、干支は本来「十干」と「十二支」の組み合わせで、暦をはじめとして方位や時刻などを表す数詞で、今年は己亥(「つちのとい」または「きがい」)の年だということであった。

 たしかに、一般的には、今年の「十二支」(エト)は「亥」(イノシシ)などと言って、猪の絵柄が年賀状に登場する。我が家は今年喪中であったので、その猪柄の年賀状をいただくことはなかったが、ショップで出した年賀状には猪を彫刻したグラスの写真を用いている。

 十干十二支のことは、私もある程度は知っていて、60年のサイクルでひとまわりして元に戻るので、これを還暦としてお祝いをしたりしている。しかし、現代は年を表す際には西暦が中心で、日本独自の紀年法である和暦を併用することがあるものの、中国式の十干十二支による数え方は、その年のことを占う時に用いるくらいであって、実生活にはほとんど登場することはない。

 この際、この「エト」、「十干」と「十二支」のことをもう少しきちんと整理して理解しておこうと思い、先ず手始めにウィキペディアでどのように書かれているかを見たところ、「概説」には次のように書かれていて、いきなりの指摘である。

 「・・・日本では「干支」を「えと」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支のみを指すことが多いが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重に誤りである。・・・」

 この十干と十二支のほかに、毎年新聞配達店から届けられる「暦」をみると、最初のページにはさらに、年ごとに九紫火星、八白土星、・・・と続く九星と、海中金、爐中火・・・と続く納音(なっちん)というものが記されている。

 これらを合わせると、今年2019年(平成31年)は八白土星・平地木・己亥の年ということになる。

 さて、これらすべてとなるとずいぶん複雑な話であるが、こうしたいくつもの年の数え方・表し方が、どのようなルールになっているものかを整理すると、西暦と和暦は既承のとおりであるが、干支・九星・納音については以下のように決められるという。

 まず干支であるが、十干とその日本語の読み、意味は次のとおりである。「え」は「兄」を、「と」は「弟」を指すとされる。


 
十干とその日本語の読み

 次に、十二支とその日本語読みは次の通りとなる。

 
十二支とその日本語読み

 この十干と十二支とを、先頭から順に組み合わせていくと、60の組み合わせができる。十二支が一巡する12番目までの干支とその日本語読みを次に示す。


干支とその日本語読み

 10種の干と12種の支との組み合わせは、全部で120あるが、このように先頭から順に組み合わせていくと、可能な組み合わせは半分の60ということになり、干支は60年ごとに繰り返されることになる。数学的には10と12の最小公倍数は60であるということになる。

 若干わかりにくいかもしれないので、図示すると次のとおりである。左上の「甲子」からはじまり、右下の「癸亥」で終わる。空白の部分に相当する組み合わせは現われない。


十干十二支の組み合わせ図

 次に九星(きゅうせい)とその日本語読みとを示す。九星は、古代中国から伝わる民間信仰で、一から九の9つの数字に白・黒・碧・緑・黄・赤・紫の7色と木・火・土・金・水の五行を配当し作られたものである。

 干支とは異なり、数詞ではなく、人の相性や年月日、方位などの吉凶を見るものとされ、名前の字面から、太陽系の惑星などに関連があると誤解されることもあるが、九星はそのような天文の星とは無関係とされている。


九星とその日本語読み
 
 九星もまた、月、日にもあてはめられるが、年の九星には次のような計算法が存在するとされる(ウィキペディア「九星」より)。

 西暦年数を9で割った余りを11から引くという計算法である(余りが0なら、余りを9と置き換える。余りが1なら、余りを10と置き換える)。たとえば2018年は9で割ると2余るので、11-2=9となり九紫火星ということになる。

 干支にも同様の計算法があるが、これらをみていると干支の最初の年とされる「甲子」と九星の最初とされる「九紫火星」とを、過去のある年に一致させたのではないということがわかる。

 干と支の組み合わせの場合と同様に考えると、10種ある干と9種ある九星との組み合わせは全部で90あり、10と9の最小公倍数も90なので、90年に一度同じものになる。ある「甲」の年に「九紫火星」であったとして、これに続く年の十干と九星の組み合わせを次の図に示すが、十干と十二支の場合とは異なり、10x9=90の全ての組み合わせが実現する。左上の「甲・九紫火星」から始めると、右下の「癸・一白水星」で終わる。


十干と九星の組み合わせ図

 一方12種ある支と9種ある九星との組み合わせは全部で108あるが、その最小公倍数が36になるので、36年ごとに同じ組み合わせができることとなり、不可能な組み合わせが多くできる。その様子は次の図のようである。


十二支と九星の組み合わせ図

 「九紫火星」と「子」の組み合わせは存在しないので、「丑・九紫火星」から始めるとすると、最後は「子・一白水星」で終わり、次の年は元に戻るというように繰返される。

 2018年は「九紫火星」、「戊戌」の年であるが、ここから始めていっても決して九星の最初の「九紫火星」は十二支の最初の「子」と一致することはない。すなわち、干支の数え初めの「甲子」の年は、九星のはじめとされる「九紫火星」と一致するように決められたのではないことになる。

 さて、納音(なっちん)である。これはおそらく一番なじみのないものと思われるが、ウィキペディアから引用すると次のようであり、九星と同様、数詞ではなく運命判断のためのものである。

 「納音(なっちん)とは、六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水の五行に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。生れ年の納音によってその人の運命を判断する。 」とある。

 干支の最初から2年ごとに、納音が対応していて全部で30種ある。次の図にこれを示した。


納音とその日本語読み

 我々にもなじみの、荻原井泉水(1884.6.16~1976.5.20)、種田山頭火(1882.12.3~1940.10.11)などの名はこの納音から俳号をつけたとされている。ただ、井泉水の場合は生年の「甲申」に対応してつけられているが、山頭火の場合は生年の「壬午」からすると「楊柳木」のはずである。このことについて、山頭火自身が、「30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけである」と『層雲』の中で書いているという。

 以上のようにみてくると、「干支」は60種で、「納音」もまた「干支」と対応しているので、60年ごとの繰り返しになる。一方、九星は9年ごとの繰り返しになるので、「干支」・「納音」と「九星」が共に同一になる年は、60と9の最小公倍数である180年ごとの繰り返しということになる。

 よく言われる、「丙午」(ひのえうま)や「五黄寅」(ごおうのとら)なども上の表でみると、それぞれ60年に1度であったり、36年に1度であることが判る。

 フーテンの寅さんは何年生まれなんだろうか。こたえは1940年(昭和15年)11月29日、庚辰の年まれ、六白金星・白鑞金である。寅年の生まれではなかった。何故、1938年(昭和13年)の寅年生まれにしなかったのだろう・・・。





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氷と雪の季節(2)

2019-02-15 00:00:00 | 軽井沢
 氷のできる様子を前回に続いて紹介させていただく。撮影方法は前回の記事と同じであるが、今回は、ガラスの間隙を左右で1mmから0までのくさび型にしたものも追加したので、これを後半で紹介する。外気温についても、前回と同様でガラス容器を屋外に出した時のものを示していて、実際に凍り始める時刻には対応していない。あくまで参考程度の数字である。

 そして、最後のところでは、夜間凍っていたものが、朝日を受けて再び溶けていく様子を見ていただく。ここでは前夜凍った部分が溶けていく一方で、新たな針状の結晶が成長するという、少し面白い映像が見られた。


左右方向に、間隙を1mmからゼロまでのくさび型にしたガラス容器を追加して撮影した

 以下で、最初の2回は水道水との比較のため、手元にあったシリカ水というペットボトルに入っている水を使ってみた。ボトルにはシリカ42.5mg/lと表示されているが、この程度の量が水の結晶化に影響するものかどうか、まったくわからない。またこの水は炭酸水であるが、炭酸は時間をかけて抜いてから使用した。



氷のできる様子6(2019.1.13 03:18~03:55 30倍のT/Lで撮影、-1.5℃、シリカ水使用)
 
 細かい羽毛状の結晶になったが、似たものは先週のブログで紹介した水道水を使用した中にも含まれていた。20時頃、外気温がマイナス1.5℃の時に、外に出して撮影を開始したが、記録を見ると凍り始めたのは、日をまたいで深夜3時であり、この時の外気温はわかっていない。

 次は、これまでのタイムラプス撮影では、変化が速すぎて、凍り始めるところの変化を追えなかったので、実時間で撮影したもの。右下から凍り始める様子がわかる。そして氷が成長していく左側に向かって伸びるように氷が成長していくのがみられる。
 


氷のできる様子7(2019.1.14 00:20~00:50 実時間で撮影後編集、-6.5℃、シリカ水使用)

 この2回の結果は、外気温の差によるものと思われるが、ずいぶん違った形状の氷の結晶ができた。どちらの形状も、水道水でも類似の結果が得られていたので、特にシリカ成分の影響が出たのではないと思われるが、色に関してはやや異なっていて、きれいな色が見られない。氷の厚さの違いとも考えられるが、十分時間が経過した後では結晶化は厚さ方向にも広がっているはずなので、この差についてはよくわからない。

 次は、水を再び水道水に戻して撮影したが、より明確な色が確認できた。この違いについて、今後もう少し繰り返して確認しておこうと思っている。



氷のできる様子8(2019.1.16 21:31~22:50 30倍のT/Lで撮影、-7.0℃)

 さて、次の2回は前述のくさび型のガラスセルを使ったもの。ガラスの間隙は向かって左側が1mmで、右側がゼロになっている。ここでも、2回でそれぞれ異なる形状の結晶化であった。この結果から判断すると、きれいな色を得るには水の層の厚さは0.2-0.8mm程度がいいのでないかと思われる。
 


氷のできる様子9(2019.1.26 19:28~20:46 30倍のT/Lで撮影、-5.5℃、くさび型ガラス使用)



氷のできる様子10(2019.1.27 21:31~22:30 30倍のT/Lで撮影、-5.5℃、くさび型ガラス使用)

 ガラス容器は、南面のウッドデッキに置いているので、朝日が差し込んでくると、夜間にできていた氷は溶け始める。通常のガラス容器に水道水を入れて撮影したときのもので、くさび型のものではない。この様子も何回か撮影したが、その内の1回で少し興味深い現象をとらえることができた。

 最初の映像は、夜間にできた氷が普通に溶けていく様子であるが、2番目の映像では溶けていく氷と同時に、新たに針状の結晶が成長しそしてその後再び溶けて行く様子が映っていた。1mmの厚さ方向で起きた温度差によるものだろうか、不思議な映像になった。
 


氷の溶ける様子1(2019.1.22 11:14~13:32 300倍のT/Lで撮影)



氷の溶ける様子2(2019.1.19 9:16~10:06 30倍のT/Lで撮影)

 この氷の結晶の撮影をしている時期に、軽井沢の大賀ホールで「軽井沢クリスタルコンサート」が行われた。これは、軽井沢町教育委員会主催によるもので、軽井沢少年少女合唱団、軽井沢中学校吹奏楽部、軽井沢吹奏楽団の発表会であるが、これに東京都交響楽団団友会オーケストラが加わって行われた。


「軽井沢クリスタルコンサート」のパンフレット

 妻も知っている若い友人が軽井沢吹奏楽団に参加していて、この演奏会のことを聞いていたので、聴きにでかけた。

 曲目は、軽井沢少年少女合唱団による、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」からの合唱組曲に始まり、軽井沢中学校吹奏楽部による「ハナミズキ」と続くが、友人が所属する軽井沢吹奏楽団の2曲目は私の好きなフィンランドの作曲家、J.シベリウスの交響詩「フィンランディア」であった。

 もう、ずいぶん前のことになるが、仕事で冬の季節にフィンランドのヘルシンキに行ったことがある。その時、同行したYさんが、上司のUさんから、ヘルシンキに行くのであれば、ぜひシベリウスのデスマスクの写真を撮ってきて欲しいと頼まれたという。

 ホテルに一泊した翌朝早く、2人で雪が薄く降り積もった中を、ホテルから約1kmほどの距離にあるという公園に向かった。途中、出勤途中と思われる背の高い女性に出会い、場所を確認しながらであったが無事公園内のシベリウスのモニュメントにたどり着き、写真を撮って帰ることができた。


ヘルシンキの地図(1983年12月に入手)、で、ヘルシンキ駅、宿泊したホテル、シベリウス公園を示す

 当時の写真を探してみたものの、なにしろ35年程も前のことで、すぐには見つからないのが残念であったが、シベリウスのことと同時に北欧のヘルシンキの雪と氷のことを思い出させてくれた楽しいコンサートであった。


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氷と雪の季節(1)

2019-02-08 00:00:00 | 軽井沢
 今年1月15日の新聞に、木曽町三岳の西野川右岸の崖に「白川の氷柱群」が姿を現し、観光客やアマチュア写真家らが訪れているとの記事が掲載されていた。この時期気温が下がると共に、各地でこうした氷柱が見られている。

 3年ほど前に、埼玉県小鹿野町の「尾の内氷柱まつり」に出かけたことがあった。秩父百名山のひとつ、両神山を源流とする尾ノ内渓谷で氷柱を見ることができるものである。我々が訪れたのは昼間であったが、夜にはライトアップされ、赤、青、緑に氷柱が色づいた様子は一層幻想的なものとなるそうである。


埼玉県小鹿野町の「尾の内氷柱まつり」のポスター(2016.2.12 撮影)

 ここでは、自然に凍る川の水の他、放水して周囲の木々にも氷柱を作り出していて、「地元の方が丹精込めて造った氷柱です」という表現もあり、意外な思いであったが、他場所でも同様にして壮大な氷柱を作り出しているようだ。


尾の内の氷柱 1/3(2016.2.12 撮影)


尾の内の氷柱 2/3(2016.2.12 撮影)


尾の内の氷柱 3/3(2016.2.12 撮影)

 ところで、氷はカラー・ライトアップすることで、美しく見せることができるが、もう一つ偏光を利用することで美しく色をつけることもできる。氷柱のような大規模なものではないが、以前「Focus in the Dark 科学写真を撮る」(伊知地 国夫著 2008年岩波書店発行)という本で氷の美しい写真を見たことがある。これはスチロールのカップに水を入れ、冷蔵庫内に置き、薄氷が張ったところでカップを取り出して、水面にできた円盤状の氷を、透過軸を直交させた2枚の偏光板の間に置き、撮影したものであった。

 このところ、軽井沢でも夜間の気温がマイナス7度くらいまで下がる日が続き、1月になって数cmほどの雪も積もった。そこで、この低温を利用して、伊知地さんに倣って氷の表情を見てみたいと思い立ち、以下のような工夫をして、ビデオ撮影(タイムラプス:T/Lを主に用いた)を行ってみた。

 雪の結晶も撮影したいとかねがね思っているのであるが、こちらはなかなか難しく、きれいな写真が撮れず、まだ休止状態である。


氷の撮影方法。面光源側に偏光板を配置し、その前に2枚のガラス板を1mmの間隔で貼り合わせ、その隙間に水を満たしたものを、夜間屋外に置く。ビデオカメラの側にも面光源側と透過軸を直交にした偏光板を用いる。撮影したのはおよそ10cmx5.6cmのエリアとした。

 氷の常光線と異常光線の屈折率は、それぞれ1.309、1.313(波長589nm,0℃)であり、屈折率差は、0.004である。氷の屈折率の波長分散のデータは理科年表にはないが、水の屈折率の場合は1.331(波長656nm, 20℃) 1.335(546nm) 1.343(404nm)である。よく知られているように、氷の密度は水よりも小さいが、屈折率も氷の方が2%ほど小さくなっている。

 さて、1波長の位相差を生じる氷の厚さは、0.1mm程度になるが、作りやすさを考え、ここでは2枚の板ガラスの間隔を1mmにして貼り合わせ、ここに水を満たして、夜間屋外に出しておき、氷ができる様子をビデオ撮影した。各映像の下に示した温度は、ガラス容器を屋外にセットした時のもので、凍り始める時の温度ではない。あくまで参考程度のものである。


 その結果を次に見ていただく。何度か試みたが、外気温の違いによるものか、氷のできる様子はずいぶん違っている。そして、凍り始めるときは最初の映像のように、シャープな形状の氷ができることもあるが、過冷却状態から、一気に全面が毛糸か羽毛のような形状に凍ることが多い。

 ビデオ映像の画面上部には、その映像の最初、中間、最終のキャプチャー画像を載せておいた。各映像の長さはまちまちなので、この静止画を参考にご覧いただければと思う。



氷のできる様子1(2019.1.9 22:00~1.10 00:53 300倍のT/Lで撮影、-7.5℃)



氷のできる様子2(2019.1.10 21:16~1.11 06:00 300倍/2400倍のT/Lで撮影後編集、-5.5℃)



氷のできる様子3(2019.1.11 20:29~22:58 30倍のT/Lで撮影、-5.5℃)



氷のできる様子4(2019.1.12 06:14~07:43 30倍のT/Lで撮影、-5℃)



氷のできる様子5(2019.1.22 21:25~23:47 300倍T/Lで撮影、-6.5℃)

 美しい色が見られているが、これは直接氷を観察しても、もちろん見ることはできない。偏光の助けを借りてはじめて見えるようになるのである。色の違いは、氷の結晶の向きや、厚さが異なっているからであり、でき始めのように非常に薄い氷の層の場合には無彩色であったり、氷が成長してからでも、結晶の向きが特別な方向に並んでいるときには、まっ黒に見えたりすることがある。

 このまっ黒な状態は、初期にはまだ氷ができず水のままの場合ももちろんあるが、動画の後半でも黒く見えているのは、氷の結晶構造の軸の一つがガラス板に垂直になっている場合や、水平でかつ特定の方向に向いている場合であって、氷ができていないのではない。

 ところで、氷は身近なものであるが、その結晶構造はとなると、意外に知られていないのではと思う。ウィキペディアなどで調べてみると、氷の結晶構造はウルツサイト型の六方晶構造であり、その中で酸素原子の配置は、正四面体の4つの頂点と、正四面体の中心にくるとされている。

 ウルツサイトはZnSを主成分とする鉱物で、繊維亜鉛鉱と呼ばれるもので、同型の構造を持つものには、CdS、BeO、ZnOなどがあるとされている。ただしかし、こう聞いても結晶構造を思い浮かべることができる読者は少ないのではないだろうか。

 少し面倒な話になるが、氷の結晶構造がどうなっているか見ておこうと思う。

 原子や分子が規則的に配列した個体の状態を結晶と呼んでいるが、原子・分子はできるだけぎっしりと詰め込まれた状態になろうとする。パチンコ玉を隙間なく積み上げた状態を思い浮かべるとよいとされているが、実際このような状態の原子配列をとるものがある。しかし、原子・分子の性質上の制約で、全ての原子・分子がこうした単純な配列をするわけではなく、いくつもの複雑な結晶構造が知られている。

 次の図は、この原子をパチンコ玉と見立てた時に、これを隙間なく平面配列し、さらにその上にも積み上げる場合に採りうる2つの場合を示している。最初の1層目の配列Aに対して、2層目を積み上げる場合には配列Bと配列Cのいずれかを選ぶことができる。ここでは配列Bを選ぶことにして、次に3層目を積み上げる。この場合には、配列Aに戻る選択と配列Cと更に異なる配列を選ぶことができる。


原子を球状と仮定した場合の平面配列と、その上の層での配列の仕方

 このような積み上げ方は、実際の結晶でも起きていて、A-B-A-Bと交互に積み上がっているものと、A-B-C-A-B-Cと3層ごとに繰り返しながら積み上がっているものとがある。前者を六方最稠密構造とよび、後者を等軸(立方)最稠密構造とよぶ。次の図はこれを横方向から見たものである。この六方最稠密構造の配列AやBに対して垂直な方向はC-軸と呼ばれる。この言葉は後に出て来る。


球状の原子をぎっしりと積み上げる2つの方法

 六方最稠密構造の元素結晶の例としては、Au,Ag,Cu,Pt,Ca Al,Niなどがあり、等軸(立方)最稠密構造にはBe,Mg,Zn,Cd,Zr,Ru,Osなどがある。

 さて、氷の結晶構造は、ウルツサイト型の六方晶構造であるとしたが、その中での酸素原子の配置だけをみると、上記の六方最稠密構造の変形となっていて、配列のしかたで見ると、A-A-B-B-A-A-B-B・・という配列をとっていることがわかっている。一つ置きにみると、A-B-A-Bになっていて、氷の場合にはこの六方最稠密構造のつくる正四面体構造の中心部分に、もう一つ酸素原子が入り込むという、六方最稠密構造を2つ組み合わせた形になっていると考えることができる。六方最稠密構造に比べて、隣接する酸素間の距離が大きくなっているのは、最後の図に見る通り、最近接する酸素原子間に、水素原子が1個入っているためである。


氷の結晶構造における、酸素原子の配列

 各酸素原子間の距離は次のようになっていて、正四面体の幾何学構造から計算されるC軸方向(配列A面に垂直方向)の格子定数は7.377Åになるので、実際は0.2%程度縮んでいることになる。


氷の結晶構造における、酸素原子の配列


正四面体の構造と寸法

 ではここで氷の結晶構造を見ていただく。この図では隣接する酸素原子間に1個づつ、すなわち1個の酸素原子の周囲に4個の水素原子を書き入れている。各酸素原子は2個ずつの水素原子と強く結合していて、残る2個の水素原子とは水素結合という弱い結合になっているとされている。このような結果として、酸素原子すなわち水分子の作る個体の構造には、液体の水に比べても隙間が多くなり、氷は水よりも比重が小さく、水に浮かぶという不思議な特徴を持つことになっている。


斜め方向から見た氷の結晶構造


C-軸方向から見た氷の結晶構造

 今回の氷を見ていても、この結晶構造を思わせるような外形形状は見られなかったが、ご存知のとおり雪の結晶ではこの結晶構造が反映されていて、あの美しい六角形を基本とした形になっている。雪の結晶に似た構造が少しは見られるのではと期待していたのであるが、その点では残念な結果になった。


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軽井沢文学散歩(5)津村信夫

2019-02-01 00:00:00 | 軽井沢
 今回は津村信夫。これまで室生犀星(2017.10.13 公開)、堀辰雄(2017.11.10 公開)、立原道造(2018.2.9 公開)、正宗白鳥(2018.6.27 公開)と軽井沢ゆかりの作家をとりあげてきたが、これらの作家の軽井沢での日々をみると、その中に決まってと言っていいくらい登場してきていたのが津村信夫であった。

 しかし、軽井沢町で発行している「軽井沢文学散歩」を調べても、津村の名前を見つけることはできない。津村信夫は軽井沢にしばしば来ているが、ここに住むことはなかったし、また、氏の文学碑も軽井沢にはないことがその理由であろう。

 津村信夫が最初に軽井沢にきたのは慶応大学在学中のことらしく、室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」(1974年⦅昭和49年⦆ 中央公論社発行)には次のように書かれている。

 「(兄津村秀夫の紹介で)その弟の津村信夫が登場した軽井沢の家では、まだ白面豊頬の青年で慶応の学帽をかむり、いつも闊達に大声で談笑した青年であった。・・・軽井沢では(津村)秀松博士は三笠ホテルに毎夏滞在され、博士も見えられ私も訪ねたが、温顔謹直な紳士であった。信夫は軽井沢では鶴屋旅館に泊ったが、宿泊料はいつも支払わずに立ち去った。後から秀松博士が来沢された折に、支払う習慣になっていて至極暢びりした風景だった。・・・だんだん親しくなると私は信夫のことをノブスケ君と呼び、ノブスケと呼び放しにした。家の娘や息子もやはりノブスケさんと呼び、ノブヲとは呼ばなかった。彼は(大森の家の)門から這入って来ると、もう笑いを一杯に顔の中にならべて、おっさん、留守か、と子供たちばかり出て迎える様子にそれを察して言った。子供達は今日はだぶちんは出掛けていない、宜いところに来たと言わんばかりであった。・・・」

 また、室生犀星の娘朝子の著書「詩人の星 遙か」(1982年⦅昭和57年⦆ 作品社発行)にも次のように紹介されている。

 「慶応の制服の金釦を胸に光らせて、体格がよいというより太った津村信夫が、書斎で犀星と話をしていた姿が、私の第一印象として強く残っている。年譜によると大正十五年の夏、父津村秀松氏と一緒にいた信夫は、軽井沢の万平ホテルで犀星と会ったのが最初とあるが、私の記憶は昭和八、九年頃からである。・・・」

 この年譜とは「津村信夫全集・第三巻」(1974年⦅昭和49年⦆ 角川書店発行)記載のものと思われるが、その大正十五年・昭和元年の項に、「八月 始めて家族とともに軽井沢のマンペイホテルに避暑生活を送り、生涯の師となった室生犀星を見識る。」とある。


万平ホテル(2016.7.25 撮影)

 室生朝子のもう一つの著書「父室生犀星」(1971年⦅昭和46年⦆ 毎日新聞社発行)には、津村信夫が立原道造を伴って、室生犀星の別荘を訪問した際のことが次のように書かれている。

 「立原道造は東大の学生であった頃、津村信夫につれられて父のところに来た。背の高い瘠せた道造は、金ぼたんの学生服がよく似合った・・・・」

 津村信夫は立原道造より5歳年上であり、1909年(明治42年)1月5日生まれであった。これまでに紹介した、軽井沢ゆかりの明治・大正期に生まれ活躍した文士達と共に、津村信夫の生没年を次の図中赤で示す。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥と津村信夫(赤で示す)

 軽井沢での津村信夫と堀辰雄、立原道造の様子も、前記の書に紹介されている。少し引用すると次のようである。

 「彼(立原道造)はいつも軽井沢の私の家に先き廻りして、追分から出て来ると、次の列車で堀さんも今日は出て来るといい、それがその日の一等愉しい事であるらしかった。
 列車が付く時間になると、表の通りに出て行ってもうそろそろくる時分だが、お客でもあったのかと独り言を言い、落ち着かずそわそわしていた。そうして堀の姿が丘の上に現れると、嬉しそうに来た、来た、と言って私に知らせる時なぞ、まれに見る子供っぽい友情の細やかさがあった。そして堀と私が話をしていても何も言わずに、邪魔をしないで一人遊びするように、娘なぞと遊んでいた。
 そんな日の帰りには堀の買い物を持ってやり、一緒に追分村に夕方には連れ立って帰って行った。絶対に堀を好いていた彼は、堀辰雄のまわりを生涯をこめてうろうろと、うろ付くことに心の張りを感じていたらしかった。そこに津村信夫が東京から来合せたりすると、彼はますます機嫌好くなって、津村を誘って町に出て行って永い間返らなかった。
 私もつい気になり堀と一緒に町まで出かけて、テニスコートの周辺や喫茶店やにぎやかな横丁なぞを探して歩くことがあった。探している間は決して見つからないこの二人は、突然、町の下手の方から登って来たりして、にこにこして落ちあい、喫茶店にもはいらずにただぶら付くだけで、暑い日の下を愉しく歩いた。
 異様ともいえるこの四人づれは結局、私の家にもどるのがせいぜいだったが、話もせずただむやみに機嫌好くぶらつくことが、心を晴れやかにする重要な要因であった。しかもこの若い三人の友達はさっさと先に死んでしまい、私は一人でこつこつ毎日書き、毎日くたびれて友を思うことも、まれであった。・・・」

 「土曜日の午後一時頃、軽井沢への直行が着く時分になると、信夫は革の鞄を提げて現れた。これから戸隠の山に行くとか、ちょっと千ヶ滝まで行くのだとか、また一、二日軽井沢に遊びに来たとか言い、毎週の土曜ごとに例の快活そうに笑い、機嫌よく泊っていった。そして、二三日するとこれから帰京するのだと言い、出先から戻って来ると、また一泊した。この忙しい小旅行の中心地が軽井沢から、やや離れた千ヶ滝附近にあるよりも、もっと遠い距離にあるらしく、しかも千ヶ滝の旅館に直行することもあって、ちょっとわかりかねる地理の不分明があった。或日信夫は茅野粛々の別荘の位置と、草深い構えとを説明してああいう家に住みたいといい、芒とか萩とかが一杯別荘の周囲にあることを美しく話し出した。茅野粛々は慶応の教授で詩人だったから、信夫も在学中からしたしんでいたのである。・・・」

 「・・・彼ははじめて繁々と東京と千ヶ滝の間を往復するわけを話し出した。自分としては余りに内気でおとなしい人であることが気に入り、不達の美点につながっているのだと、その話し振りには私にその女の人を一遍見せたい気がたくさんあるだけに、見せるのを惜しむような気もあるらしい。・・・
・・・ある日津村信夫は私の家の上手の小さい丘から、嘗つて立原道造がつれて来て見せた愛人と同じ道を、信夫は一人の少女を伴うてもう門の前からにこにこして、どう思われるかという心づかいを忘れて了い、ただ、事の新鮮無類ないきさつの愉快さで、わざと大きい声で、や、今日は暑くてバスが混んで了ってと言った。背後であんしんした微笑の顔が、ちょっと足を停めてシトヤカに頭を下げて見せた。眼が大きくいっぱいに開かれ、その眼にも微笑があふれていた。『昌子さんです。』と、彼は彼女を紹介した。・・・
・・・かれらが夕方、長野市に向け出かけてゆくので、はじめて昌子という人が長野にいることが判った。千ヶ滝あたりの別荘に滞在していたことも実際だが、長野の町にいるのでは、暑いのに度たび東京から訪ねて行ったことは大変だったであろう。
 夕方、かれらは軽井沢の駅で、西と東に別れて列車に乗った。かりそめの宿を求めた私の家は、その後も、しばしばこの二人をかくまった。誰も知らずまた知る必要もない二人は、どんな時でも、音も言葉も、話し声も立てないで四畳半にこもった。立原道造も泊り堀辰雄も泊った離れは、百田宗治、萩原朔太郎も旅行にくると此処で昼寝をして、立って行った。・・・」


軽井沢歴史のみち・犀星の径の案内板(2017.10.8 撮影)


津村信夫ら多くの文士が訪れた室生犀星別荘の離れ(2017.10.8 撮影)

 「・・・父を愛し母を愛し姉を愛し兄を愛した彼は、昌子を貰うために飽くまで父と戦い母と戦い兄とも戦い、兄秀夫を先ず味方に惹き入れ、ついに父母の城をおとしいれた。
 ・・・ある日、父秀松博士は私の家に大きいオーヴァーを着用に及んで、あれには困ったものですが、何とか媒酌の労を取って下さいと言いに見えられ、私はついにこの城を陥しいれた彼のまごころに、ひそかに舌を捲いたくらいである。・・・」(「我が愛する詩人の伝記」より)。

 室生犀星の娘朝子の著書にも、昌子とのことが次のように描かれている。

 「母の口ぞえも力があったのかもしれないが、なんといってもノブスケの昌子さんに対する情熱が、母君の心を動かしたのだろう。犀星と母が仲人担って結婚は決まった。結婚式の日どりも決まると、昌子さんは一ケ月ほど家に来て、母と一緒に料理を作ったり、買い物に出掛けたりして日を過ごした。・・・
 昭和十一年十二月十八日、東京会館で豪華な結婚式が行われたのであった。
 ノブスケと昌子さんの新居は、目黒の原町であった。買い物の品々は三日目に配達になるというので、その日の午後、私は昌子さんについて原町の家に行った。『信夫さんが白がいいと言われたから、壁などもすべて真っ白にしたのよ』
 洋間が一部屋あって、門も白いペンキで光り、門から玄関までのアーチには、薔薇の蔓が巻いていた。・・・
 結婚後五年して長女初枝さんが生れ、ノブスケ夫婦の喜びは深かった。すべてが倖せであったにもかかわらず、その頃奇病といわれたアジソン氏病にとりつかれ、終に昭和十九年六月二十七日に亡くなった。
 葬儀は北鎌倉の浄智寺でとり行われた。・・・
 初夏の強い陽の光が老木の杉の枝を透かして、照りつけていた。暑い日であった。一粒種の初枝ちゃんはまだ三歳になったばかり、葬式の意味もわからずに、人々の間を歩き廻っていた。犀星の囲りの親しい人がまた一人欠けた。・・・」(「詩人の星 遙か」より)

 軽井沢には、津村信夫の詩碑あるいは文学碑はないとはじめに書いたが、それは戸隠にあった。室生朝子の「詩人の星 遙か」に次のように紹介されている。

 「ノブスケがはじめて戸隠に行ったのは、昭和八、九年頃で、昌子さんが案内をされたのだそうだ。ノブスケは戸隠を愛し、詩に、作品にたびたび戸隠を書いた。
 昭和四十九年六月二十七日、ノブスケの三十回忌に、戸隠に文学碑が建ち、その除幕式が行われた。
 私も出席したが、久しぶりに昌子さんや初枝さん、秀夫氏ご夫妻にお会いして、若かったノブスケの思い出話に花が咲いた。ノブスケのふるさとでもない戸隠に、人間ノブスケと作品を愛する人たちの手によって、完成した文学碑は、なかなか意味のあるものであった。
 中社の右側の石段を登り五斎神社の横の細い道を入ると、左側の杉の木立の中に、文学碑は立った。横約1.5メートル、高さ約1メートルの自然石に、黒御影石の碑文がはめ込んである。

  戸隠姫

  山は鋸の歯の形
  冬になれば人は往かず
  岸の風に屋根と木が鳴る
  こうこうと鳴ると云ふ
  「そんなにこうこうつて鳴りますか」
  私の問ひに
  娘は皓い歯を見せた
  遠くの薄は夢のやう
  「美しい時ばかりはございません」
  初冬の山は不開の間
  峯吹く風をききながら
  不開の間では
  坊の娘がお茶をたててゐる
  二十を越すと早いものと
  娘は年齢を言はなかった
             津村信夫

 碑の横の石には、
  津村信夫を愛する人々の集まり 
  津村信夫三十回忌に建之
  碑面「戸隠の絵本」原稿より
  昭和四十九年六月二十七日」(「詩人の星 遙か」より)

 この、津村信夫の文学碑を訪ねるべく、1月25日に妻と戸隠にでかけてきた。翌日は大雪との情報もあり、その前にとの判断があった。軽井沢から戸隠までは上信越高速道路を使っても2時間はかかる。午前10時に自宅を出た。
 戸隠は豪雪地帯でもあり、目的の文学碑を見ることができるものかどうか判らなかったのであるが、とにかく出かけてみようとの思いであった。

 長野市内からは、バードラインが整備され、除雪もきちんとされていたので順調に中社の前に来た。ちょうど昼時でもあったので、妻がまだ学生時代に家族と立ち寄ったことがあるという、蕎麦屋「うずら家」の主の元気な声にも誘われて、中に入った。


バードラインからの戸隠山(2019.1.25 撮影)

 そばを食べ終わって、さてこれから文学碑を見に行こうと思っていた時、テーブルの上に置かれた伝票の裏に書かれている文の中の津村信夫という文字に目がとまった。「・・・詩人の津村信夫や作家の開高健氏は厳冬の戸隠で、蕎麦や酒を愉しんだ・・」とある。


蕎麦屋「うずら家」の伝票の裏面の文

 そば代金を支払いながら、そのことに触れ、店を出ながら文学碑のある場所を店員に聞いていると、先ほどの元気のいい主が、雪が深いので今は近くには行くことができないと教えてくれた。文学碑の内容を記したものなら、2階にあるので見ていくといいと言っていただいたので、再び店内に戻り2階に上がった。

 それは、2階の座敷の上の方に掲げられている1枚板に刻まれたもので、津村信夫の文学碑の内容をそのまま写しとったものであった。


「うずら家」の2階座敷にかけられていた津村信夫の文学碑の内容を写した板額(2019.1.25 撮影)


上記板額の文面(2019.1.25 撮影)

 礼を言って店を出て、ここまで来たのだから少し近くまで行ってみようということで、中社に向かった。正面階段脇の案内板には、津村信夫の文学碑の案内も出ていた。ここだけはしっかり除雪されている正面の石段をのぼり、右手の五斎神社の方に向かったが、文学碑の方を示す案内柱は見えるが、それ以上進むことはできなかった。


中社の案内図(2019.1.25 撮影)


津村信夫の文学碑の場所も記されている(2019.1.25 撮影)


中社の大鳥居(2019.1.25 撮影)


正面の石段は除雪されている(2019.1.25 撮影)


津村信夫の文学碑の方向を示す案内柱も雪に半分埋もれている(2019.1.25 撮影)

 もと来た道を戻り、先ほどの「うずら家」の前の道路までくると、急斜面の上方の雪の中に、津村信夫の文学碑が見えた。20mほどの距離があるので、刻まれた碑文内容を確認することはできなかったが、持参したカメラを超望遠にして撮影したのが次の写真である。


中社前の蕎麦屋「うずら家」(2019.1.25 撮影)


津村信夫文学碑(2019.1.25 撮影)


同上部分(2019.1.25 撮影)

 間近に訪れることはできなかったが、津村信夫の文学碑の場所を確認することができ、また思いがけずその文面を写しとった板額を見ることもできた幸運を喜びながら、雪道を駐車場に向かった。戸隠の人たちが津村信夫に寄せる思いの一端を感じることもできた一日であった。

 最後に、津村信夫の略年譜を記して、本稿を終る。
 
津村信夫、
・1909年(明治42年)1月5日生まれ
 神戸市葺合地区に法学博士津村秀松、久子夫妻の一女二男の末子としてうまれる。
・1915年(大正 4年)6歳
 葺合区熊内町の雲中尋常高等小学校尋常科に入学。
・1922年(大正11年)13歳
 尋常科を卒業し、雲中校の高等科に通学。このころ父が大阪鉄工所の社長に就任し、月の半分を東京で暮らすようになる。
・1924年(大正13年)15歳
 高山樗牛や国木田独歩を愛読する。
・1926年(昭和 元年)17歳
 家族と共に軽井沢に避暑し、室生犀星を知る。島崎藤村や石川啄木の詩歌に親しみ、自らも詩作を始める。
・1927年(昭和 2年)18歳
 県立神戸一中を卒業。信州の松本高等学校の受験に失敗。東京三田の慶應義塾大学経済学部予科に入学。父の寓居東京麹町区に移る。受験勉強も災いし肋膜炎にかかり、東京帝大附属病院に入院、その療養期間中に文学への素養を深めた。
・1928年(昭和 3年)19歳
 一家で軽井沢に避暑、室生犀星を兄・姉とともに数回尋ねる。高田町に白鳥省吾を訪問し、省吾の主宰する同人詩誌「地上楽園」に、初めて詩「夜間飛行機」を発表。
・1930年(昭和 5年)21歳
 丸山薫と文通を始め、丸山に兄事するようになる。室生犀星に師事し、生涯にわたってその指導と愛顧を受ける。
・1931年(昭和 6年)22歳
 父の親友の内池廉吉博士の次女省子を知り、信州・沓掛(中軽井沢)で暑中休暇を共にすごす。室生犀星の紹介で、「今日の詩」に詩「葱」「青年期」を発表。「三田文学」に詩「水蒸気、母」を発表。兄の知り合いの植村敏夫の紹介で、山岸外史や中村地平を知る。山岸の主宰する同人誌「あかでもす」に兄、植村、中村とともに作品を発表。兄、植村、中村と信夫で「四人クラブ」を結成し、同人誌「四人」を5号まで刊行。
・1932年(昭和 7年)23歳
 父が健康を理由に大阪鉄工所社長を辞して文筆生活に入り、母が結核のため再び入院する。慶應義塾大学経済学部本科一年に進級。フランス語学習のため、アテネ・フランセの初等科(夜間)に入学。入院中の三好達治を見舞い交友を深める。省子の不意の婚約によりその恋愛に破れる。「四人」四月号に省子との別れを記念した詩「小扇」ほかを発表。「センパン」に「林間地で」ほかを発表。「季刊・文学」に兄と共に、旧作詩8篇と詩「雪の膝」「海の思ひ」を発表。
・1933年(昭和 8年)24歳
 丸山薫を訪ねる。「四人」や「あかでもす」の同人による文学研究会「木曜会」に参加。室生犀星を通じて、堀辰雄や坂本越朗を知る。「文藝」に詩「若年」ほか2篇を発表。「帝国大学新聞」に詩「日記」を発表。
・1934年(昭和 9年)25歳
 長野で小山昌子と知り合い、交際するようになる。水上滝太郎邸で開かれていた「水曜会」に出席、「三田文学」の執筆者らを知る。丸山薫の推薦で「四季」の同人に加わる。四季を通じて、葛巻義敏、立原道造らを知る。「文藝」に詩「愛する神の歌」「我が家」を発表。太宰治の「青い花」に詩「千曲川」他3篇を発表。
・1935年(昭和10年)26歳
 慶應義塾大学を卒業し、東京海上火災に勤務する。四季社から処女詩集「愛する神の歌」を自費出版する、出版記念会が四季関係者によって催される。「四季」に詩「抒情の手」、丸山薫論「郷愁について」を発表。
・1936年(昭和11年)27歳
 室生犀星夫妻を晩酌人として昌子と結婚。目黒区に新居を構える。神保光太郎とともに信夫は四季の実務を担当する。「現代日本詩人選集」に「津村信夫詩篇」として詩「ある雲に寄せて」ほか2篇が収録。
・1937年(昭和12年)28歳
 辻野久憲、中原中也が結核で死去。「四季」は追悼号を発行。
・1938年(昭和13年)29歳
 東京海上火災を辞す。小説を書くことを志し、小説「風雪」「坊の秋」を構想。佐藤春夫の「新日本」に詩「ある遍歴から」を発表。
・1939年(昭和14年)30歳
 立原道造死去。「四季」は追悼号を発行。萩原朔太郎の主宰する「パンの会」に助講として出席。十二月二十九日に父が敗血症で急逝。
・1940年(昭和15年)31歳
 「文藝世紀」に同人として参加。抒情日誌「戸隠の絵本」を「ぐろりあ・そさえて」から刊行。父の遺著「春秋箚記」「春寒」が刊行され後書を添える。萩原朔太郎編集の「昭和詩鈔」に詩「夕方私は途方に暮れた」ほか4篇が収録される。「現代詩人集・第二巻」に24篇が収録される。
・1941年(昭和16年)32歳
 長女初枝誕生。神奈川県大船町に転居する。日産自動車会社内青年学校で教師を務める。丸山薫編集の「四季詩集」が刊行され、詩「詩人の出発」ほか四編が収録。
・1942年(昭和17年)33歳
 第二詩集「父のゐる庭」を臼井書房から刊行。健康を害し、アディスン氏病との診断を受ける。
・1943年(昭和18年)34歳
 健康不調のため授業を休講とする。築地の大東亜病院(現・聖路加病院)に入院。「文学界」に詩「冬に入りて」を発表。
・1944年(昭和19年)35歳
 第三詩集「或る遍歴から」を湯川弘文堂から刊行。6月27日死去、享年35歳。信夫死去の日を刊行日として「四季」廃刊となる。多磨墓地にある家族の墓に葬られる(多磨霊園8区1種2側5番地)。
・1945年(昭和20年)「善光寺平」刊行。
・1948年(昭和23年)兄の編集で、矢代書店から総合詩集「さらば夏の光よ」、小詩集「初冬の山」刊行。
(白凰社「津村信夫」年表、角川書店「津村信夫全集」を参考とした。年齢は現在の数え方による)





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