軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

日本一のシラカバ林

2019-07-26 00:00:00 | 信州
 八千穂高原には素晴らしいシラカバの自然林があり、現地に行くと、「日本一のシラカバ群生地」という看板も見られ、まことにその通りと思える規模と美しさで、シラカバ林が広がっている。関西方面からの来客があると、よくここに案内している。

 すぐ近くには、八千穂レイクという人工湖もありここは管理釣り場になっていて、レインボートラウトやイワナ釣りができるので、違う楽しみもある。

 地元佐久穂町観光協会公式HPには次のような記載があり、「日本一美しい」とこの白樺群生地を謳っている。

 「八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。ヤマツツジ、ミツバツツジ、レンゲツツジ、ドウダンツツジの群生地としても有名で白樺とのコントラストが美しい。
 クリンソウやベニバナイチヤクソウなどの山野草が高原のあらゆる所に咲く頃、白樺やミズナラ、カラマツが一斉に緑濃くなる。八千穂高原の頂上には、2,100m以上の湖としては日本一広い白駒の池があり、苔と原生林が神秘的である。そこは、清らかに流れる大石川の源流でもある。白樺林の中の遊歩道、白樺林に囲まれたキャンプ場、白樺群生地に隣接する八千穂レイクを散策すれば、自然と森林浴も楽しめる。
 紅葉の訪れは、高原一面が白樺とカラマツにより黄金色へと変わる時。その美しさに、多くの写真家が魅了される。雪化粧した高原は、澄み切った白銀の世界。深い青空が雪化粧をした高原をより輝かせ、満天の星空は手を伸ばせば届くかのような光を放つ。このように四季折々の光を心に残す八千穂高原。そこには、いつも白樺の白い森がある」


八千穂高原の案内図(佐久穂町観光協会公式HPより)

 軽井沢からは、佐久平経由で国道141号線を南下し、途中清水町の信号を西に入り、メルヘン街道(国道299号)を登ることになるが、行程50km、1時間と少しで到着する。比較的便利なこともあり、季節ごとに訪れている。

 春の芽吹きの頃、秋の紅葉の頃とそれぞれに、次のような美しい景色を楽しむことができる。


春のシラカバ林1/5(2017.5.22 撮影)


春のシラカバ林2/5(2017.5.22 撮影)


春のシラカバ林3/5(2017.5.22 撮影)


春のシラカバ林4/5(2017.5.22 撮影)


春のシラカバ林5/5(2017.5.22 撮影)


秋のシラカバ林1/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林2/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林3/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林周辺4/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林周辺5/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林周辺6/6(2018.10.17 撮影)

 周辺の草地では、蝶の姿も見られるので、私にとっては尚一層の楽しみがある。最初にこの八千穂高原を訪れた時に、初めてクジャクチョウの飛ぶ姿を見ることができた思い出がある。

 スジボソヤマキチョウやヒョウモンチョウなどの姿もあった。


スジボソヤマキチョウ(2015.9.13 撮影)


ミドリヒョウモン♂(2015.9.13 撮影)


ウラギンヒョウモン♀(2015.9.13 撮影)

 この八千穂高原のシラカバ林のことは、軽井沢に住むようになる以前から知っていたので、現地で言われているとおり、ここが「日本一のシラカバ林」であると思っていた。

 ところが、2015年に東北地方を旅行し、久慈で琥珀採集を楽しんだ後、駅近くに戻って来た際に、地元の観光案内板に、「日本一の白樺林」という文字を見つけて、オヤと思った。


岩手県久慈市の観光案内板(2015.11.11 撮影)


「日本一の白樺林」の文字が見られる、上記写真の部分(2015.11.11 撮影)

 その時は、旅行中で詳しく調べなかったが、帰宅後調べてみると、そのシラカバ林は久慈市の平庭高原のものであることが判った。

 岩手県久慈市の公式HPを見ると、平庭高原を紹介するページには、次のような記述が見られる。

 「日本一の白樺林『平庭高原』です。四季を通じて自然の息づかいを満喫させてくれます。久慈平庭県立自然公園には、スキー場、パークゴルフ、闘牛場、平庭高原ビール工場、ワイン工場、ロッジ、レストラン、キャンプ場、春夏秋冬通じて楽しませてくれる観光地帯です」。

 日本一が二箇所あってはいけないが、どのような経緯でそうなったのか、興味がわいてきたので調べてみることにした。そして、私たちが東北を旅行したのと同じ年、2015年の1月31日付けの産経ニュースに次のような記事が出ているのを見つけて納得した。

 「NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』の舞台で知られる岩手県久慈市が1月19日、市内の平庭高原(旧山形村)の白樺林を『日本一』と宣言した。初の本格的調査で、生育本数31万846本▽群落面積369ヘクタール▽国道281号沿いの群落距離4・5キロ-がいずれも『日本一』と分かったためで、市は『あまちゃん』と並ぶ観光の二本柱に育てようと意気込んでいる。・・・
 日本一を宣言したこの日に合わせて制作した国道281号沿いの白樺林をバックに『白樺美林』310000本を超える日本一の白樺ロードへ-の文字が躍るポスターを持つS社長と遠藤市長に満面の笑顔が広がった。・・・
 しかし、(この『日本一』という表現は、それまでも使われていたのであるが)具体的に生育本数や群落面積を調べたことはなく、自称にすぎなかった。・・・長野県佐久穂町が八千穂高原の白樺林を約200ヘクタールの敷地に50万本の『日本一美しい白樺群生地』と宣伝していたからだ。これが正確ならば生育本数は平庭高原の1・6倍以上。強力なライバルの存在にトーンダウンせざるを得なかった。」

 そこで、本格調査を行うことになったが、

 「調査は白樺林に20×20メートル以上の広さの標準的なサンプルを任意に11カ所設定。昨年8~9月の現地調査で生育する白樺の密度が1ヘクタール当たり平均643本であることが分かり、衛星画像で解析した群落の面積369ヘクタールにかけて31万846本の生育本数を割り出した。
 (八千穂高原の場合)白樺が約200ヘクタールに50万本が生育するには間隔が平均2メートルしかなく、客観的にあり得ないとした。これで生育本数と群落面積、さらには国道281号沿いにつづく白樺林の距離約4・5キロを名実ともに『日本一』と宣言した。
 ところで、佐久穂町観光協会が日本一と称する約200ヘクタールに50万本について問い合わせたところ、これも自称だった。『広葉樹の標準植生本数、1ヘクタール当たり3000本から推計したといわれています』という答えで、いつから日本一を称しているかは分からないということだった。・・・
 『日本一の白樺林』宣言を受けて、先月26日から3日間、東京・銀座にある岩手県のアンテナショップのいわて銀河プラザで樹液でつくった清涼飲料水『森の恵み・白樺の一滴』の試飲会が開かれ、反応も上々だったという。第二の『あまちゃん』に地元の期待は大きく膨らんでいる。」

 やや一方的な「日本一」宣言のようにも見えるが、客観的な判断基準も示されているので、佐久穂町のほうでも特に異議を唱える様子もなく、お互いに「日本一美しいシラカバ林」という表現を使ったりしているようである。

 私も、久慈の平庭高原のシラカバ林をまだ見ていないので、美しさについては何とも判定のしようがない。


平庭高原の日本一の白樺林を謳うポスター

 私にはシラカバについて、もう一つ別の子供の頃の思い出がある。当時住んでいた大阪市内にはシラカバの木はなく、珍しさも手伝ってのことであったが、父がまだ若く、戦地に赴いた時のアルバムに、シラカバの樹皮が多数貼られていたのをよく眺めていた。このシラカバの樹皮を見て、若い頃の父の様子や、遠い大陸・満州に出かけていた時の様子などを思い浮かべていたのであった。


父のアルバムの表紙


シラカバの樹皮が貼られているアルバムのページ

 軽井沢の家の庭にはまだシラカバは植えていないが、我が家とほぼ同時期に建てられた隣家の庭に植えられたものは数年たち大きく美しく成長してきている。いずれ、我が家でも植えてみたいものと思っている。

 ところで、シラカバ林のある八千穂高原へのアクセスが昨年から幾分便利になった。中部横断自動車道の建設が進んだからである。現在、上信越自動車道の佐久小諸ジャンクションから中央自動車道の長坂JCTと双葉JCTを経て新東名高速道路の新清水ジャンクションを結ぶ高速道路建設が進められているが、この内、佐久小諸JCTと佐久南ICの間は少し前に完成し、一部利用が始まっていた。

 これに加えて、佐久南ICから八千穂高原ICの間約15kmが昨年秋に完成し、すでに完成していた部分も含めて、佐久北ICから八千穂高原ICの間約23kmが無料で解放され利用できるようになったのであった。このことを報じる地元紙を読んで、我々も早速出かけてみることにした。佐久北ICと八千穂高原IC間の高速道路の利用で、軽井沢からだと10分ほど八千穂高原が近くなる。


佐久北ICから佐久穂IC間の開通を伝える地元新聞軽井沢ニュース

 この中部横断自動車道が全線開通するようになれば、首都圏や中部・関西から八千穂高原までのアクセスが更によくなって、「日本一便利に行けるシラカバ林」と言えるのではないかと、肩を持っている。

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雷電くるみの里

2018-03-09 00:00:00 | 信州
 軽井沢から小諸・上田方面に行く時や、長野方面に出かけるため高速道路に乗るまでの間を利用するのに便利で、かつ国道18号よりも一段高い高原地帯を走っているため、とても眺望の良い道路に「浅間サンライン」がある。この道路は信濃追分の追分別去近くで国道18号から分岐し、上田市までを結んでいるバイパスで、正式名称は浅間山麓広域農道であり、1993年に全区間が開通している。

 この道路の小諸インター入口の少し先の道路沿いに、「雷電くるみの里」という道の駅があって、長野市や新潟の上越方面に出かけるときにはたいていここに立ち寄り、少し買い物をしてから東部湯の丸インターで高速道路に乗るようにしている。


道の駅「雷電くるみの里」(2018.3.4 撮影)

 この道の駅では、名称通りクルミを使った商品が多く販売されている。この辺りではクルミの木が多く、クルミの生産量が多いためである。

 先日の日曜日に、今回のブログ用の撮影に出かけた時、一人一回のだけの無料「クルミ掴み」のイベントが行われていたので挑戦してみたところ、私が12個、妻が8個掴むことができた。私達よりも先にこれに挑戦した同年齢のご婦人は8個掴むことができたのだが、そのすぐ後で私が12個掴んだものだから、「指が長くてずるい!」と叫んでいた。

 この道の駅の建物内にはクルミについて説明したボードが掲げられていて、次のように書かれている。

 --胡桃 「クルミの世界」 Walnut--
「クルミは高木性の落葉樹で、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカの温帯地域に分布しており、およそ15種類といわれています。
 このうちオニグルミとヒメグルミは日本原産の野生種で、河川に沿って自生しているものが多く、古くから食用され、現在も料理や菓子に利用されています。
 一方、世界各国で果樹として営利栽培されているのは、ペルシャクルミとその変種です。原産地は西アジア一帯、かつてのペルシャ地方からヨーロッパ東南部までの広い範囲です。
 栽培は紀元前の古代メソポタミア文明と共に周辺に広がり、東回りはシルクロードを経て中国に伝わり、江戸時代頃日本に伝来し、テウチグルミ(カシグルミ)の名で栽培されるようになりました。
 また、西回りでヨーロッパ各地に伝わったものは、栄養価が高いことから”生命の樹”として盛んに栽培され、新大陸発見と共にアメリカへ持ち込まれ、大生産地に発展しました。
 日本へは明治時代、通商のため訪れた欧米人がペルシャクルミ(セイヨウクルミ)を持参し、避暑に訪れた軽井沢で、地元の人に与えたことが栽培の始まりです。
 これが発端となって、長野県東部で集団栽培が始まり、在来のカシグルミと交配した新種のシナノグルミ (信濃胡桃)を誕生させました。さらに苗木も全国に発送を始め、この地は日本のクルミ栽培の中心地として発展し「くるみの里」と呼ばれるようになりました。
 世界にはこの栽培種のほかにも独特のクルミがあり、各国で利用されています。」とある。


日本原産の野生種オニグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「日本原産で殻の表面に溝や突起があり、ゴツゴツしていることから、オニグルミ(鬼胡桃)と言います。全国に自生していて殻果の形は多様ですが、独特の風味が喜ばれ、昔から食用されています。中には自然に殻の開く種類があり、名付けて栽培もされています。」とある。


日本原産の野生種ヒメグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「日本原産で殻の表面がなめらかで、ハート形のやさしい形からヒメグルミ(姫胡桃)と言います。オニグルミと混じって自生していて、殻果の形も多様ですが、昔から食用されています。中には自然に殻の開く種類があり、改良され名付けて栽培もされています。」とある。


セイヨウクルミとカシグルミの交配種シナノグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「地球を東西に分かれ伝播したカシグルミとペルシャグルミが、長野県東部でめぐりあい交配されました。その中から大粒で殻の薄い優良品種が誕生し、シナノクルミ(信濃胡桃)と名付けられました。日本生まれの栽培推奨品種で、世界に誇れるクルミです。」とある。

 さて、この「道の駅」の名称のもう一方の雷電についてであるが、「雷電」とはもちろん江戸時代の力士「雷電為右衛門」のことである。建物の入り口付近に地元東御市出身の竹内不忘作の大きな銅像が建てられていて、周りを圧している。そして、建物の一角には「雷電資料館」が設けられていて、力士雷電に関する貴重な資料が展示されている。物産販売所や食堂は混雑していたが、この資料館を訪れる人はあまりいない。

 
竹内不忘作・雷電立像(2018.3.4 撮影)


雷電資料館の入り口(2018.3.4 撮影) 

 雷電為右衛門は1767年(明和4年)、信濃国小県郡大石村(現東御市滋野)に父半右衛門、母けんの長男として生まれ、幼名を太郎吉と称した。幼いころから怪力の持ち主であったが、この噂をきいた隣村・千曲川の対岸の庄屋・上原源五右衛門方が1781年(天明1年)、太郎吉14歳の時に引き取って寄宿させ、道場「石尊の辻」で学問と相撲を教えた。

 そんな折、1783年(天明3年)の浅間山の大噴火が起きた。このため全国的に大飢饉となり、ちょうど北陸巡業中の浦風一門一行の力士たちが、上原源五右衛門の元で長らく逗留することとなり、太郎吉との運命的な出会いがあった。

 翌1784年(天明4年)17歳で、浦風の門人となり、当時江戸で第一人者だった谷風梶之助の預かり弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごしている。

 このころの力士は各大名のお抱えであったが、太郎吉の力と技と学徳の傑出しているところを見てとり、また推挙もあって1788年(天明8年)21歳の時に雲州松江藩主、松平治郷(不昧公)に召し抱えられることとなった。そして、翌1789年(寛政元年)雲州力士の四股名を冠し「雷電為右衛門」となった。22歳の時のことである。

 ちなみに、雷電という四股名の力士は歴史上この為右衛門のほかにも8人いるとされる。雷電為右衛門はその中で7番目で、後には1790年代(寛政)の雷電灘之介(明石藩)と明治初期の雷電震右衛門がいる。

 雷電為右衛門は1790年(寛政2年)23歳の時に、江戸本場所西の関脇で初土俵し、8勝2預かりで鮮烈なデビューをしたとされる。横綱小野川を投げるも「預り」(注:物言いのついたきわどい勝負で、あえて勝敗を決めない場合に適用)となっている。

 1795年(寛政7年)には大関に昇進し、その後16年(27場所)の長きにわたり大関の地位を保持し、1811年(文化8年)45歳で引退するまでに254勝10敗14預り、9割6分2厘という勝率をあげた。資料館には大関雷電の名前の記された1797年(寛政9年)三月場所の大相撲番付が展示されている。


1797年(寛政9年)三月場所の大相撲番付(2018.3.4 撮影)

 この資料館では雲州松江藩主、松平治郷(不昧公)より拝領した雷電所用の化粧まわし(レプリカ)がまず目を引く。


松平不昧公より拝領した雷電所用の化粧まわしのレプリカ、外国製の臙脂色の別珍製生地に金糸で稲妻模様を刺繍している(2018.3.4 撮影)

 また、雷電は身長197cm、体重188kg(注:いつの体重かは不明、これとは別に初土俵時には169kgであったとの数字がある)であったとされるが、その雷電の体格を示す図や、長さが約23.5cmあったとされる手形などが展示されていて、雷電の実像を感じとることができる。

 雷電の身長と体重とを現役の力士と比べてみると次の図のようになり、現代の力士と比較しても、非常に大きいことが実感される。ちなみに、ここでは身長が2mを超えているのは琴欧州ただ一人である。


雷電の身長・体重(赤で示す)と現代の力士との比較(筆者作成) 


雷電の手形(2018.3.4 撮影、左は筆者)

 雷電にまつわる逸話は、信濃の民話集、「信州の民話伝説集成」(和田 昇編集 2006年 一草舎発行)にも2題採り上げられている。「雷電の力持ち」と「」雷電と陳景山」である。

 雷電の力持ちの話は、資料館にも絵物語として展示されているが、「ある夏、母が庭で風呂に入っていたところ、急に雷鳴をともなう激しい夕立がやってきた。太郎吉は、母を風呂桶ごとかかえて、家の中に運び込んだ」という話である。

 民話集には出ていないが、この絵物語にはもうひとつある、「細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出会ってしまった。狭い道、よけることもできず困った太郎吉は、荷を積んだ馬の足を持って目よりも高くさしあげ、無事行列をお通しし、『あっぱれじゃ。』と殿様からお褒めにあずかった」という話である。この後者については、以前どこかで聞いたような気がするが、思い出せないでいる。


雷電と同じ滋野出身の寺島武郎氏の描いた「雷電の一生」から、③風呂桶を抱える太郎吉(2018.3.4 撮影)


雷電と同じ滋野出身の寺島武郎氏の描いた「雷電の一生」から、④馬を抱え行列を通す(2018.3.4 撮影)

 民話集に出てくるもう一つの話は、陳景山との飲み比べの話である。「長崎巡業において、中国の学者で『李白の再来』と噂された酒豪『陳景山』と飲酒対決を行った。一斗飲んで陳景山がダウンした後、雷電はさらに一斗を飲み干し、高下駄をつっかけて宿へ帰った。陳は雷電の酒豪ぶりに脱帽し、自筆の絵や書を贈ったと伝えられている」というものである。


陳景山が贈ったとされる掛け軸(レプリカ)、雷電の生家(再建)に飾られている(2018.3.4 撮影)

 ところで、現役時代の雷電の輝かしい成績にもかかわらず、横綱になることはなかった。当時の相撲番付の最高位は大関で、横綱の地位は強豪力士への称号として肥後熊本藩の細川家に仕える吉田司家から与えられた。同時代の横綱には谷風梶之助(第四代横綱 仙台藩)と小野川喜三郎(第五代横綱 久留米藩)がいた。

 この二人の横綱に続いて現われ、強さにおいては二人を凌駕していたとされる雷電に横綱が与えられなかったのは、不思議というほかないのであるが、その背景には、当時の大名家の関係があったのではとされる。「吉田司家を抱える細川公と雷電を抱える松平不昧公の相撲をめぐる確執を考えると、薄々想像がつく」との話が紹介されている(両国大相撲殺人事件 風野真知雄著 大和書房発行)。

 第七代横綱稲妻雷五郎は雲州藩のお抱えであったが、吉田司家から正式に横綱を授与されたのは、松平不昧公(1751年~1818年)没後の1830年のことであった。また、第八代横綱不知火諾右衛門は雲州藩から肥後藩に、第九代横綱秀ノ山雷五郎は雲州藩から盛岡藩に転向後横綱免許を授与されている。

 同じ雲州藩であった雷電と稲妻のことをうたった次の川柳がある。

 ・・・雷電と稲妻雲の抱えなり・・・

 大関を引退した後の雷電は松江藩相撲頭取に任ぜられ、引退後も巡業では相撲を取っていたとされる。晩年の雷電は妻八重の生地、下総国臼井(現千葉県佐倉市)で永く暮らしていたが、1825年(文政8年)2月に江戸四ツ谷伝馬町本宅で妻にみとられながら59歳の生涯を閉じた。遺骨は、江戸赤坂三分坂の松江藩ゆかりの報土寺に葬られ、遺髪は、故郷の大石村、松江市西光寺に分葬されたと伝わる。また、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市臼井台の浄行寺跡地には、雷電自身と妻子の墓があるとされる。

 雷電くるみの里からほど近い場所に、再建された雷電の生家や墓、石碑を見ることができる。


東御市教育委員会監修によるパンフレット記載の「雷電ゆかりの地マップ」


雷電の生家(2018.3.4 撮影)

 出世した雷電は、1798年(寛政十年)に生家を改築しているが、その後183年が経過し老朽化したため、1982年(昭和57年)に復元し永く保存しようとの気運が盛り上がり、地元および同郷の寄付により1984年(昭和59年)12月に復元を完成している。内部の土間には稽古土俵があり二階の桟敷席から相撲ぶりが観覧できるようになっている。


生家内の稽古土俵(2018.3.4 撮影)


故郷大石村の関家墓地の雷電の墓(2018.3.4 撮影) 

 雷電の法名は雷聲院釋関高為輪信士である。雷電の墓の右手前にあるのは、こよなく酒を愛した父半右衛門のために雷電が建てたもので、台座には枡、本体が酒樽に盃を伏せた独特の形状をしている。ここには雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えないという。
 

雷電の石碑、正面の南面するものが新碑、右にある西面するものが旧碑(2018.3.4 撮影)

 雷電の没後、旧北国街道牧家一里塚のかたわらに、雷電の徳をしのんで建てられたという石碑を今も見ることができる。この碑は雷電の妹の子・関義行の求めに応じた松代藩士・佐久間象山が碑文を自らしたため、1861年(文久元年)に建立された。

 碑を欠き取り身に付けると、立身出世するとか勝負事に勝つとか強い子が授かるというような俗信により、碑面が全体に欠き取られ、碑文が読めなくなってしまったため、象山の未亡人と象山門下の勝海舟・山岡鉄舟や多くの関係者により、1895年(明治28年)に新碑が建てられ、その後道路工事に伴い現在の場所に移されたとされる。

 碑文には、雷電が禁じられたという手が三つあったことが記されている。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」のことである。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。それでも雷電は今なお破られることのない、歴代最高の記録を残している。

 碑文全文は次のとおりである。


石碑・雷電顕彰碑の碑文拓本(2018.3.4 雷電資料館にて撮影)


石碑・雷電顕彰碑の碑文現代語訳(2018.3.4 雷電資料館にて撮影) 


自ら雷電のために文を選び字を書いた佐久間象山(2018.3.4 雷電資料館にて撮影)
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信州サーモン

2017-04-14 00:00:01 | 信州
 信州サーモンをご存知だろうか。海のない県、長野県とサーモン/鮭とはオヤと思う組み合わせであるが、これは長野県水産試験場が独自開発した自慢の養殖魚の名前である。


信州サーモンのPRポスター(長野県公式ホームページから引用)

 この信州サーモンとは、ニジマスとブラウントラウトの交配種だが単なるかけあわせではない。おいしさを追求するとこうなるのかという例のようだが、バイオテクノロジーを駆使して出来たものということで、他県からもいくつかの類似のブランド・トラウトが開発され販売されているが、私にはこの信州サーモンが一歩抜きんでているように思えるのは贔屓目だろうか。

 7年ほど前、まだ新潟県上越市に住んでいたころ、軽井沢のリゾートホテルに母と妹二人とを招き宿泊したことがある。そのときの夕食に出されたものがこの信州サーモンのムニエルだと説明を受けた。

 普通であれば、こうした宿泊先での夕食のメニューのことは忘れてしまいそうなものだが、やはり何か心に残るものがあったようで、今でもよく覚えている。残念ながら、記憶にあるのは名前の方で、肝心の味は美味しかったというだけで、詳細は覚えていないのだが。

 長野県のホームページ(http://www.pref.nagano.lg.jp/suisan/jisseki/salmon/salmon.html)にはこの信州サーモンのことが次のように紹介されている。

 「長野県の養殖魚の主流であるニジマスは、育てやすく肉質もよい反面、IHN(伝染性造血器壊死症)などウイルス性の病気に弱いという欠点があります。そこでこうした病気に強いブラウントラウト(ヨーロッパ原産の鱒)と交配させることで、両方の長所を持った魚を開発しました。

 普通、ニジマスとブラウントラウトを交配させても、その子どもはほとんど死んでしまいます。そこで、

(1) 普通のニジマスの受精卵(2n=二倍体)に高い水圧をかけて染色体を2倍(4n)に増やします。
(2) 成長した四倍体(4n)の雌から採った卵子にブラウントラウトの精子を受精させ、三倍体を作ります。

 三倍体は、雄も雌も子どもを生むことはありませんが、雌は卵をもたないため、その栄養が成長にまわり通常よりも大きくなり肉質もよくなります。

 そこで、

(3) ブラウントラウトの雌を雄性ホルモンで性転換させ、将来雌になるX精子しか作らないようにして四倍体ニジマスの卵子と受精させます。

 こうして、すべて雌の三倍体(信州サーモン)が生まれます。長野県水産試験場が開発したこの技術(四倍体を使ってすべて雌の雑種三倍体を作り出す)は、全国初の手法です。」


ニジマスとブラウントラウトの交配により信州サーモンを得る説明図(長野県公式ホームページより引用)

 さっと書いてあるので、判りにくいかもしれないが、ポイントは三倍体の雌だけのハイブリッドを効率よく作り出すところにあるようだ。こうして、病気に強く育てやすい、しかも成長の早い種が得られている。また、繁殖能力が無いので逃げ出したとしても一代限りとなり、自然界への影響が抑えられるということも考慮されているようである。

 この三倍体とは普通には馴染みの無い言葉であるが、学生時代に学んだとおり、通常、生物の体は二倍体、すなわち両親から1本づつ受け継いだ染色体が2本のペアになっていて、これが生物の種に応じた数だけ備わっている。

 上記の説明のとおり、信州サーモンの場合には母からは2倍の2本づつの染色体を、父からは通常通り1本づつの染色体を受け継ぎ、結果3本づつの染色体のセットを持つようになっていて、三倍体ということになる。

 こうした世界のことをほとんど知らない私には、受精卵に高圧をかけると染色体数が2倍になるということや、雌を性ホルモンで雄に性転換させるというのも驚きだが、三倍体や四倍体といった染色体数を持つ信州サーモンや、ニジマスの個体が(生殖能力や体の大きさは別にして)種としての正常な発達をするということがとても不思議に思える。

 しかし、自然界にはこうした二倍体以外の倍数体の染色体数を持つ生物も種々存在しているようであり、植物には特に多く見られるという。

 人為的なものでは、種無しスイカは三倍体、栽培種のジャガイモは四倍体ということである。

 さて、この信州サーモンは、冒頭に書いたとおり、長野県水産試験場が約10年かけて開発し、種苗生産や養殖を行うために水産庁に申請したマス類の新しい養殖品種で、2004年(平成16年)4月26日付けで承認されて、稚魚の出荷が始まっている。初年度の出荷数量は10万尾強、4年後の2008年(平成20年)には30万尾に達している。

 この頃の水産試験場の方針は大量に売りさばく量販店対象ではなく、料理店や宿泊施設であったという。私たちが、ホテルで提供を受けたのが2009年頃のことなので、まさにこうした手探りで販売状況の様子を見ている時期であったということになる。

 その後の稚魚の出荷数量は2016年度で36万尾というから20%程度増加したものの、この頃の状況はその後もさほど大きくは変化していないということになる。

 最近は、ようやく軽井沢のスーパーの魚売り場にサクの状態や、刺身としてスライスされたものが普通に並ぶようになっているが、私たちが移住してきた2015年にはまだいつでもスーパーに並んでいるという状態ではなく、2軒しかないスーパーをあちらになければこちらと探さなければならなかった。

 東京や横浜から訪ねてきてくれる友人には、信州産の食材を食べてもらいたいので、定番としてこの信州サーモンを出すようにしている。刺身やムニエルが一般的だが、我が家ではコンフィにしたり昆布〆にしたりしていているので、一味違ったものになっていると思っている。

 このコンフィだが、実はTVの番組から頂戴したものである。オーストラリアのシドニーだったかと思うが、ここでレストランを経営している日本人が作る人気料理がタスマニア・サーモンのコンフィだった。1年以上先まで予約が入っていると放送していたように記憶している。

 70~80gのタスマニア・サーモンの切り身を、ディル、バジル等のスパイスを入れたオリーブオイルに浸して、40℃で8分間加熱した後オイルを落とし2cm程度の厚さに切る。

 これに細かく刻んだ万能ねぎと塩昆布をまぶし、はらこを添えているところが特徴であったが、これを我が家でも真似ている。本場のタスマニア・サーモンのコンフィの味はいつか旅行をして確かめてみたいものと夢見ているが、信州サーモンのコンフィもなかなかのものではないかと思っている。

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