軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

浅間石(3)

2016-11-25 00:00:00 | 軽井沢
浅間石に新たな仲間、それも国指定天然記念物(昭和13年指定)の仲間が加わるかもしれない。
群馬県前橋市の市街地にある「岩神の飛石」がそれである。


岩神稲荷神社にご神体として祀られている「岩神の飛石」(2016.9.17 撮影)


岩神稲荷神社(2016.9.17 撮影)

この「岩神の飛び石」は岩神稲荷神社のご神体で、従来は赤城山からもたらされたものと考えられていた。

少し長いが、この「岩神の飛び石」の前に立てられている金属製の案内板の説明を引用する。

「国指定天然記念物 岩神の飛石
所在地:前橋市昭和町三丁目29-11 岩神稲荷神社

 周囲が約60m、高さは地表に露出した部分だけで9.65m、さらに地表下に数mは埋もれているこの大きな岩は、「岩神の飛石」と呼ばれています。昔、石工がノミをあてたところ、血が流れ出したとの伝説があります。

 岩は赤褐色の火山岩で、表面には縞のような構造も見えます。しかし、大きさのそろった角ばった火山起源の岩や石が多い部分もあります。この岩は火口から溶岩として流れ出したものではなく、火口から噴出した高温の火山岩や火山灰などが、冷えて固まってできたものと考えられます。

 この地点より約8km上流の坂東橋の近くの利根川ぞいの崖では、10万年以上も前に赤城山の山崩れでできた厚い地層の中に同じ岩が認められます。このことから、この岩は赤城火山の上半分が無くなるほどの大規模な山崩れに由来することがわかります。

 さて前橋の街の地下には、「前橋泥流」と呼ばれる地層が厚く堆積しています。これは約2万年前に浅間山で起こった山崩れが、水を含んで火山泥流に変化して流れてきてできた地層です。この地層の中にも、「岩神の飛石」と同じような石が多く含まれています。

 またここは火山泥流の堆積後、平安時代以前までの間に、利根川が流れていたところでもあります。

 これらのことから、この岩は現在の坂東橋のあたりに堆積していた地層の中から、約2万年前の火山泥流によってこの近くまで押し流されてきたものと思われます。さらにその後の利根川の洪水によって、今の場所まで運ばれてきたと考えられます。「岩神の飛石」は、私たちに前橋とその周辺の自然の歴史とその営みを教えてくれます。

 文化庁・群馬県教育委員会・前橋市教育委員会」

とある。

ここに書かれているように、現在のこの場所は利根川の左岸で、川からの距離はおよそ500mくらいであるが、古い写真によると、神社のすぐそばを廣瀬川が流れている様子が示されている。


明治時代の岩神神社の様子
(国指定天然記念物 岩神の飛石環境整備事業報告書2016前橋市教育委員会刊 より)


「岩神の飛石」の前にある天然記念物を示す石碑と由来の説明板(2016.9.17 撮影)

ところが、この飛石の由来については2000年ごろから説明板にある赤城山由来ではなく、浅間山由来ではないかとの説が提出されていた。

しかし、この飛石は神社のご神体ということもあり、その由来を明らかにするための科学的な調査は行われてこなかった。

そうした中、2011年3月11日の東日本大震災で、この飛石が動いたのではという懸念が出て、安全性の確認に関する詳細な調査が企画され、同時にこれまで疑問が提起されていた由来についても調査することになったという。

そして、3年にわたる調査の結果、これまでの10万年以上前の赤城山噴火に由来するという説を覆し、約2万4000年前の浅間山噴火に由来するものであるとされた。

岩石の結晶の状態や組成を分析した結果、浅間山由来であることが確実視されている群馬県中之条町にある巨岩「とうけえ石」に最も近いことが判明し、浅間山由来の決め手になった。

一方、岩石の生成年代については熱ルミネッセンス法による年代測定が行われ、2~3万年以前のものと推定されている。

この結果は、2016年3月15日に前橋市教育委員会から発表され、翌16日には新聞各社が一斉に伝えることとなった。

現地にある説明板の内容は、私が訪問した2016年9月17日の段階ではまだ従来のままになっていたが、その表面は先に写真を示したとおり不明瞭で文字もはっきりと読み取れない状態になっていた。これは、今回の調査内容を受けて、手が加えられていたのかもしれない。


「岩神の飛石」の側面(2016.9.17 撮影)


「岩神の飛石」の背面(2016.9.17 撮影)

この「岩神の飛石」が浅間山由来であるとかねて主張をしていた群馬大学の早川由紀夫教授によると、外観が赤い「岩神の飛石」によく似た巨岩は浅間山の南側にも多数発見されていて、これが浅間山由来の根拠のひとつとされていた。

早川教授が2003年に上毛新聞に書いていたという文章がある。

「岩神の飛石 浅間山が崩壊し流れ着く
 前橋市北部にある「岩神の飛石」は、周囲の平坦な地表から10メートルも高く突出した大きな火山岩です。その鮮やかな赤色のために、稲荷としてまつられています。この岩は、マグマのしぶきが火口の周囲に積み重なってできたものです。そのような岩は火山の火口のすぐ近くにしかできません。では、むかし岩神に火山があったのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。飛石と同じ岩は、吾妻川沿いにたくさんみつかります。そのなかでも中之条町の国道145号脇にある「とうけえし」が一番立派です。小野上村村上の畑の中や吾妻町岩井田中の吾妻川河床にも大きなものがあります。

 いまから2万4000年前、浅間山がまるごと崩れました。崩壊した大量の土砂は北に向かって流れて吾妻川に入り、渋川で利根川に合流し、関東平野に出て、そこに厚さ10メートルの堆積層をつくりました。

 「岩神の飛石」は、この崩壊土砂のひとつとして浅間山から前橋まで流れてきたものです。
 飛石になった岩は浅間山の心棒をつくっていた硬い部分だったから、大きいまま前橋にたどり着きました。その後、利根川の水流によって、飛石の周囲にあった小さな石は運び去られましたが、飛石は大きすぎたのでこの場に残りました。高崎市の烏側川床にある聖石も同じものです。つまり前橋市と高崎市は、浅間山の崩壊土砂がつくった台地の上に形成された都市なのです。

 浅間山のような大円錐火山が崩壊することはめずらしいことではありません。むしろ大円錐火山にとって、崩壊することは避けられない宿命のようなものです。ゆっくりと隆起してできる普通の山とちがって、火山は突貫工事で急速に高くなりますから、とても不安定です。大きな地震に揺すられたり、あるいは地下から上昇してきたマグマに押されたりして、一気に崩れます。

 2万4000年前の浅間山崩壊で発生した土砂の流れは、北側の群馬県だけでなく、南側の長野県にも向かいました。佐久市には、まさに赤岩という地名があって、田んぼの中に小さな丘が点在しています。それらは、浅間山の崩壊土砂がつくった流れ山です。そこにも赤い岩がたくさんみつかります。

 浅間山の崩壊土砂がつくった土地の上にはいま、群馬県で50万人、長野県で10万人が住んでいます。私たちはこのことをどう考えればよいのでしょうか。答えは、簡単にはみつかりそうもありません。いろいろな角度から研究を進める必要がありそうです。(早川由紀夫)上毛新聞に2003年9月4日に掲載された郡大だより65教育学部を、わずかに書き換えた」
とある。

ここに書かれている浅間山の南側にある佐久平の赤岩地区と、別な情報源から得た軽井沢下発地にもあるという赤い岩を訪ねてみた。


佐久平の赤岩交差点から浅間山を望む(2016.11.5 撮影)

この赤岩交差点を北側に入った所に赤岩弁天堂がある。ちょうど紅葉が美しい時期であった。


紅葉が美しい佐久市塚原赤岩にある赤岩弁天堂(2016.11.8 撮影)

巨大な赤岩が社殿を支えるように配置されている。また、周囲の石垣や階段などに用いられている石も多くが赤い色をしており、赤岩を加工して作られたものと思われる。


赤岩弁天堂を支える巨大な赤岩(2016.11.8 撮影)

階段を上ると左側にも巨大な赤岩があり、こちらは社殿の壁に一部が食い込んでいる。また、岩の上には像が建てられている。


赤岩弁天堂の壁面に食い込むように取り入れられている赤岩(2016.11.8 撮影)

この赤岩弁天堂から西に100mほどの畑の中には、赤い岩が点在していて、中には巨大なものもみられる。


佐久市塚原赤岩の畑の中にある赤い岩の南側から浅間山を遠望(2016.11.4 撮影)


同上の赤い岩の西側面(2016.11.4 撮影)

これら点在している赤い岩のある場所は、北陸新幹線の佐久平駅からも直線距離では500mほどの場所にあり、イオンモールにも近く、周囲には住宅が迫っている。

もうひとつ、軽井沢の南西部に広がる下発地の畑の中にもよく似た赤い岩がある。主要道路から外れているので、これまで気がつかなかったのだが、南軽井沢の別荘地に行くときにたまに通ることのある道路から50mほど入った畑の中にあった。岩の周囲は木に覆われていて遠くからは判りにくい。


周りを畑に囲まれた下発地の赤い岩から浅間山を望む(2016.11.4 撮影)


下発地の赤い岩(2016.11.4 撮影)


赤い岩の下に祀られているお地蔵さん(2016.11.4 撮影)

軽井沢の街中にある浅間石に始まって、浅間石のことを見てきたが、1783年の天明の大噴火に伴うもの、1108年の平安時代の大噴火に伴うものに続いて、2万4000年前の古代の浅間山(黒斑山)の山体崩壊による巨岩を見ることができた。

今回の「岩神の飛石」や佐久平と軽井沢の赤い岩は、浅間山由来と判明してはいるものの、今のところまだ浅間石とは呼ばれていない。が、これらも浅間石と呼んでもいいであろうと思う。

このうち「岩神の飛石」は国指定天然記念物であるが、佐久平と軽井沢の赤い岩にはまだ何の指定もないままに畑の中に放置されているものもある。

これまでは地域の人々の素朴な信仰心に支えられて保存されてきたが、「金島の浅間石」周辺の状況に見られるように、いつこれらが取り崩されて持ち去られてしまうかもしれない。

浅間山の過去の活動を現在に伝えるこうした自然遺産を大切にして、後代にも引き継いでいきたいものだ。
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軽井沢高原文庫

2016-11-18 00:00:00 | 日記
地元軽井沢の情報紙、「軽井沢新聞」のEvent Calendarで「昆虫がキーワードの本」という展示会が軽井沢高原文庫で開催されていることを知り出かけてきた。


南軽井沢の塩沢湖畔にある軽井沢高原文庫の入り口(2016.11.13 撮影)

この展示は「軽井沢高原文庫」の敷地内裏庭にある「堀辰雄1412番山荘」で9月5日~11月30日の期間展示が行われているものであった。


旧軽井沢から移築したという堀辰雄が愛した山荘(2016.11.13 撮影)

展示会場となっている山荘の前には、この山荘の由来を示す次のような説明板が設けられている。


「堀辰雄1412番山荘」の由来を示す説明板(2016.11.13 撮影)


別荘番号の1412が見える(2016.11.13 撮影)

また、建物入り口には今回の展示についての説明として次の文章があった。

「地球上のあらゆる生物の中で最も種類の多いのが約100万種といわれる昆虫です。本展は昆虫標本とともに、北杜夫、三木卓、芝木好子、鳩山邦夫ら、昆虫に関心を寄せた本を展示・紹介します。
協力:新部公亮(日本昆虫協会理事)」


山荘入り口に貼られていた、今回の展示に関する説明書き(2016.11.13 撮影)

建物内には、昆虫をキーワードとした著書名、その内容の簡単な説明、著者に関する説明と共に著作に関連した昆虫の標本がドイツ標本箱に納められ展示されている。

ここで紹介されていた本の中には私が知っているものも多少あったが、多くはまだ読んだことの無いものであった。
以下許可を得て撮影した展示内容の写真を交えて紹介する。

1.アルフレッド=ラッセル=ウォーレス著 「マレー諸島」
展示昆虫・・アカメガネトリバネアゲハ


アカメガネトリバネアゲハの標本を配した展示ケース(2016.11.13 撮影)

2.手塚治虫著 「昆虫図鑑」
展示昆虫・・オサムシ、マイマイカブリ


ペンネームの由来になったオサムシ類を名前の「虫」状に並べている(2016 11 13 撮影)

3.新部公亮著 「抱きしめられた標本箱」
展示昆虫・・クモマツマキチョウ

4. 芝木好子著 「黄色い皇帝」
展示昆虫・・テングアゲハ

5. 畑正憲著 「天然記念物の動物たち」
展示昆虫・・ウスバキチョウ


2016.11.13 撮影

このウスバキチョウには思い出がある。

大学に通っていたころのあるとき、高校・大学と一緒であったG君が堺市内の自宅に招いてくれた。そこで、大学教授である彼の父君が趣味でコレクションをしているという「ウスバキチョウ」の標本箱を見せてくれた。

世界各地の「ウスバキチョウ」だけを集めているということで、研究のため訪問した各地で採集したり、友人からプレゼントされたものがこの標本箱に収まっていたが、そのほかにもまだ展翅をしていない三角紙に入ったままの標本がたくさんあった。

これらの中から数頭を選んで二人で展翅をした。初めて手にする「ウスバキチョウ」の美しい姿に感動したのを覚えている。

このG君は、今から数年前に亡くなっていたことを今年になって知った。定年を迎えて、お互いに時間に余裕ができ再び交流することもできるようになっていたのだが、あの時のことを懐かしく話し合うことももうできなくなってしまった。

6.ヘルマン・ヘッセ著 フォルカー・ミヒェルズ編 岡田朝雄訳 「蝶」
展示昆虫・・ニシキオオツバメガ

7.ヘルマン・ヘッセ著 岡田朝雄訳 「少年の日の思い出」
展示昆虫・・ヒメクジャクヤママユ


2016.11.13 撮影

標本の「ヒメクジャクヤママユ」は日本にいるヒメヤママユによく似た姿をしている。今年秋、偶然にこの「ヒメヤママユ」のペアを採集することができ、少しではあるが卵も得ることができた。来年は何とかこの卵をかえして育ててみたいと、今から楽しみにしている。

8.北杜夫著 「たにまにて」「ドクトルマンボウ昆虫記」
展示昆虫・・フトオアゲハ、シナフトオアゲハ


北杜夫氏の写真が並んでいる(2016.11.13 撮影)

高校生の頃、北杜夫氏の小説を紹介してくれた級友がいた。北杜夫氏が昆虫好きだということがわかり、一気に親しみが持て、その後は純文学作品を含めてほとんどの小説を読んだものであった。

9.鳩山邦夫著 「チョウを飼う日々」
展示昆虫・・オオウラギンヒョウモン


1996年発行の「チョウを飼う日々」とオオウラギンヒョウモンの標本(2016.11.13 撮影)


「チョウを飼う日々」の一節、「追憶の軽井沢」のページ(2016.11.13 撮影)

鳩山邦夫氏については、今年急逝されたことをニュースで知り、とても驚いた。直接お話をする機会はもてなかったのだが、数年前に江戸東京博物館で開催された「大昆虫博」のお手伝いをしたことがあり、前夜祭のときにお目にかかった。

また、数年前から長野県小県郡青木村にある「信州昆虫資料館」に時々行くようになり、ここで鳩山邦夫氏が共著者になっている「信州 浅間山麓と東信の蝶」を紹介していただき、愛読している。

今回も、「追悼 鳩山邦夫氏」としてこの「信州 浅間山麓と東信の蝶」に鳩山邦夫氏が寄せた文章「舞姫たちよ、永遠に!」の全文が展示されていた。


「信州 浅間山麓と東信の蝶」の前書き「舞姫たちよ、永遠に!」の全文(2016.11.13 撮影)

蝶をこよなく愛する鳩山邦夫氏を失ったことはとても残念でならない。

今回このほかにも、鳩山邦夫氏が蝶の飼育をしている様子を紹介した本の一部や私信などを交えて、氏を追悼する展示も行われていた。


蝶を飼育する鳩山邦夫氏を紹介した雑誌の展示(2016.11.13 撮影)


鳩山邦夫氏の私信などの展示(2016.11.13 撮影)

10.三木卓著 「蝶の島-沖縄探蝶紀行」
展示昆虫・・オオゴマダラ、タンブシシオオゴマダラ

11.山崎洋子著 「きらきらと闇に堕ちて」
展示昆虫・・マルスフタオ


ギリシャ神話の軍神マルスの名を持つというマルスフタオの♂♀が並ぶ(2016.11.13 撮影)

この小説はTVドラマとして放送されているのを見た覚えがある。舞台の一つになったマレーシアの蝶がたくさん紹介されていて、いつかマレーシアに行って蝶を見たいという気にさせてくれたドラマであった。

12.澤口たまみ著 「虫のつぶやき聞こえたよ」
展示昆虫・・カラスアゲハ

13.小山内龍著 「昆虫放談」
展示昆虫・・ギフチョウ


日本各地のギフチョウが並ぶ(2016.11.13 撮影)

この「昆虫放談」ではないのだが、漫画家である小山内氏が書いた「昆虫日記」(株式会社オリオン社 1963年発行)は蝶に興味を持っていた高校生の頃何度も読みかえしていた。

オオムラサキを飼育したところが印象的で、昨年私も縁あってオオムラサキを飼育し、蛹化や羽化の様子を3D撮影をする機会を得たが、その時この小山内氏の本のことを思い出し、本棚の中から探し出して50数年ぶりに読んだものだ。

14.フリードリッヒ シュナック著 岡田朝雄訳 「蝶の生活」
展示昆虫・・ヤマキチョウ、スジボソヤマキチョウ

15.ファーブル昆虫記1-ふしぎなスカラベ
展示昆虫・・スカラベの仲間たち

16.奥本大三郎著 「虫の宇宙誌」
展示昆虫・・ギンヤンマ

17.志賀卯助著 「日本一の昆虫屋-わたしの九十三年」

18.五十嵐邁著 「アゲハ蝶の白地図」

こうして一通り見てみると、やはり昆虫の中では蝶への注目度が一番であることが判る。楽しいひと時を過ごすことができた満足と昔の思い出に浸りつつこの山荘を後にした。


2016.11.13 撮影


2016.11.13 撮影
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モミジ

2016-11-11 00:00:00 | 日記
軽井沢は今紅葉が見ごろになっている。先週末にはNHKのニュースで、雲場池の紅葉が見ごろになっていると報じられていたが、たしかに少し前まではやや黒ずんで見えていたモミジやドウダンツツジも真っ赤に色づき美しく池に映えるようになった。

雲場池の紅葉(2016.11.9 撮影)

同上

同上

 雲場池周辺の別荘地の庭のモミジも、池を訪れる観光客に美しい景観を提供している。

雲場池に隣接する別荘の庭のモミジ(2016.1.9 撮影)

 池の周囲にはコナラの木も見られるが、こちらは黄~褐色に色づいている。

黄褐色に色づいているコナラの葉(2016.11.9 撮影)

 長野県の紅葉人気ランキングの上位には、軽井沢プリンスホテルや碓氷峠見晴台などの名前が見られる。

 軽井沢プリンスホテルの紅葉はまだ見たことがないのだが、軽井沢は町全体にモミジの木も多く、またそれ以外にもカラマツやコナラなどの木々の紅葉もあって、今の季節は町全体がとても美しく見える。

 今回は、このほか私が見て歩いた軽井沢の紅葉を少し紹介させていただく。

追分宿辺りでは、9月にはすでに色づき始めていた(2016.9.11 撮影)

軽井沢市街の南側、発地のモミジ(2016.10.27 撮影)

中軽井沢、星の温泉の紅葉(2016.10.31 撮影)

 ただ、例年に比べると今年の紅葉はあまり美しくないとの声もよく聞かれる。夏からの天候不順や台風の影響もあったのだろうと思う。モミジの葉がきれいな赤に変化するには気温、日照、湿度などさまざまな条件がうまく重なることが必要だといわれる。

 一本のモミジの木でも、部分的に真っ赤になっている葉のすぐ横にはまだ緑の葉があったり、また一枚の葉でも部分的に真っ赤になっているのを見ることがある。なかなか、微妙なものだ。

南軽井沢の別荘地で見かけた部分的に紅葉したモミジ(2016.10.27 撮影)

 全国的にみると、やはりモミジの名所が多いのは京都だろう。長年にわたり人の手が加わった寺院などのモミジには自然の中のものとはまた違った歴史の重みや完成度の高さといったものが感じられる。

 数年前に、その名所のひとつである東福寺に行き、大混雑の中で紅葉を見たことがあるが、確かにすばらしくて一見の価値があった。

大混雑の京都東福寺の通天橋と紅葉(2012.11.24 撮影)

苔の上に散り敷いた様子が美しい東福寺の紅葉(2012.11.24 撮影)

東福寺石庭とよくマッチした紅葉(2012.11.24 撮影)

 ところで、軽井沢の我が家の狭い庭にもモミジの木が4本もある。大きい2本は15mくらいの樹高があり、残る2本も10m前後である。

見上げる大きさの庭のモミジ(2016.11.4 撮影)

 これらは、数年前に土地を購入したときにすでにこの場所に生えていたものであり、大きい2本ともう1本はイロハモミジ、もう1本がヤマモミジである。

 イロハモミジは赤く、ヤマモミジはやや黄色に変化する。

庭のイロハモミジの紅葉(2016.11.4 撮影)

庭のヤマモミジの紅葉(2016.11.4 撮影)

 この4本のうち2本が、家の建築予定場所にひっかかり、伐るか移動するかの必要に迫られた。
 設計士のMさんに相談すると、これくらい大きい木の移動となると、とんでもない費用が発生しますよとのことで、どうしたものか悩んでいたところ、土地購入でお世話になったI さんが友人の造園業のSさんを紹介してくれた。

 Sさんによると、移動はそんなに難しいものではなく、費用もMさんから聞いていたものの1/10くらいで済むというし、準備して進めれば絶対に枯れることはないと太鼓判を押してくれた。

 すぐに、Sさんに2本のモミジの移動をお願いし準備に入った。

 まず最初は、木はそのままにして太い根を切り、1年程度かけて新しく細い根が成長するのを待つことから始まった。

 そして、翌年家の建築が始まる時期に合わせて、これらを所定の場所に移動してもらった。

 この移動から今年で2年半、おかげで移動したモミジも根付いたようで今年も紅葉を見せてくれているのだが、さすがに元から隣にある木に比べると、枝先の葉の数は少なく、落葉も早い。

 近いうちに、2本の木が元通り同じように葉を茂らせ、美し紅葉を見せてくれることを願っている。

移動した庭のイロハモミジ(左側)と元からあったイロハモミジ(右側)の落葉の様子(2016.11.4 撮影)

 この大きな2本のイロハモミジは2階の窓からも見ることができ、春の新緑から秋の紅葉まで楽しませてくれている。Sさんには感謝である。

2本のイロハモミジの木がピクチャーウインドウになっている(2016.11.1 撮影)
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浅間石(2)

2016-11-04 00:00:00 | 軽井沢
軽井沢の町で石垣などに多用されている「浅間石」は、1108年平安時代の浅間山噴火にともなう追分火砕流の中から掘り出されたものとされているが、同じく「浅間石」と呼ばれているものには1783年江戸時代の浅間山の天明大噴火にともなって発生した火山泥流にによるものもある。

この天明大噴火の時に浅間山の北側に流れた溶岩は、今は観光名所になっている鬼押出しを形成したが、同時にこのときに発生した火山泥流は、浅間山の北側を流れる吾妻川を流下して利根川にまで流入したとされている。

この時に泥流と共に巨大な岩塊が運ばれていて、現在もその姿を見ることができ、火山活動のすさまじさを今に伝えるものとなっている。その一つが群馬県渋川市川島地区にある「金島の浅間石」である。

この「金島の浅間石」は現在吾妻川の右岸段丘上、上越新幹線の橋脚のすぐ近くに見ることができる。近くに寄って正面から見ると左右で様子が異なることに気がつく。


群馬県渋川市川島にある「金島の浅間石」(2016.10.29 撮影)


「金島の浅間石」の右側部分(2016.10.29 撮影)

正面から見て右側半分は、大きなひとかたまりの岩塊に見える。


「金島の浅間石」の左側部分(2016.10.29 撮影)

一方、左側は小さな岩塊をまとめたようで、部分的にセメントで結合して積み上げたようにも見えた。


「金島の浅間石」の右側面からの写真(2016.10.29 撮影)

前に設けられた説明板によると、この「金島の浅間石」は昭和27年11月11日に群馬県指定天然記念物になっていて、その大きさは高さ4.4m、上面の直径は東西15.75m、南北10m、周囲は43.2mとされている巨大なものである。

石質は普通輝石と紫蘇輝石を含む両輝石安山岩とされていて、天明3年(1783)の浅間山大噴火の際、吾妻郡の鎌原一帯を押し流した泥流によって吾妻川を伝い、当地に運ばれたとしている。


「金島の浅間石」の由来を書いた説明板(2016.10.29 撮影)

この巨大な岩塊が、浅間山から直線距離でみても50kmほども離れた場所まで運ばれたことに驚くのだが、古文書には、火が燃え煙が立つ「火石」として記録されていることにさらに驚かされる。

通常、火山泥流は常温とされているが、この巨大岩塊は高温のまま泥流に飲み込まれて数十キロも離れた場所に運ばれたことになる。その時速は100kmにも達するといわれている。

にわかに信じがたいようなことではあるが、この「金島の浅間石」は磁化測定でキュリー温度である395~400℃を現地で保っていたことが示されていて、古文書の「火石」の記述は正確であることが実証されている。

僅か、230年ほど前にこうした火山活動が起きていたことに驚異と共に脅威を感じる。

この「金島の浅間石」は群馬県指定の天然記念物となっているということだが、途中特に案内表示などは無く、私が現地に行った時も車で近くまで行き、ガソリンスタンドで詳細な場所を聞くこととなった。

その時、場所を教えてくれた年配の店員が、「あの石や、周辺の石に触れたり移動したりすると死人が出るという言い伝えがある」と教えてくれた。

これは、巨大な浅間石と共に、周辺に散在している小さな浅間石をも大切に思った昔の人たちの知恵ということであろうか。

しかし、それにもかかわらず、「この地区では段丘内の川砂利が採石され、田畑中に残されていた浅間石が取り崩され、この一部は庭石として持ち去られている」とこの浅間石のことを調査研究している中村庄八氏はその報告の中で嘆いている(地学教育と科学運動 32 号 1999年10月 p61)。

1000年に一度という地震・津波災害に見舞われたばかりの日本であるが、これに伴って活発になったといわれている火山による災害がもたらす規模の大きさについても改めて思い起こしたいものだ。

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