軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

中国地方のガラスと霧の旅(3/3)

2019-12-27 00:00:00 | 日記
 高谷山で霧の海を見てすぐにホテルに戻り、朝食を済ませた。この日、三次では2か所の観光施設を訪問した。「妖怪博物館」と、昨晩人形芝居を見た時に関係者から聞いていた「辻村寿三郎人形館」である。

 最初に出かけたのは「妖怪博物館」の方で、正式には「湯本豪一記念日本妖怪博物館・三次もののけミュージアム」というとても長い名前がつけられている。
 三次市には、江戸時代から伝わる「稲生物怪録(いのうもののけろく)」という妖怪譚があることは、以前から聞き知っていたが、このような立派な施設へと発展していたとは驚きである。昨日訪れた境港市が「ゲゲゲの鬼太郎」で地域おこしに成功したことに倣ってのものかもしれない。

 この妖怪譚は、江戸時代中期、三次藩の武士・稲生平太郎の屋敷に1ヶ月にわたり連日、怪異現象が頻発し、その目撃談を元にして描かれたというもので、「稲生物怪録絵巻」として残されている。また、平太郎本人が書き残したと伝わる、「三次実録物語」、柏正甫著「稲生物怪録」などもある。

 現在、この三作品は「稲生物怪録」(京極夏彦訳、東 雅夫編)として角川文庫から出版されている。


角川ソフィア文庫の「稲生物怪録」の表紙

 この本には、「稲生物怪録絵巻」(堀田家本)がカラー写真で88ページにわたり紹介されており、続いて寛延二年七月一日から晦日三十日までの毎日続いて起きた怪異談が「三次実録物語」として文章で綴られている。

 ミュージアムはこの三次市が舞台となった妖怪物語《稲生物怪録》とともに、絵巻や錦絵、焼き物など約5,000点の妖怪資料から厳選されたものを展示しているという。これらは民俗学者で妖怪研究家でもある湯本豪一さんから寄贈を受けたもので、日本最大級の妖怪コレクションとされている。
 

もののけミュージアム入り口(2019.10.26 撮影)

 入り口付近には怪しげな猫が居座っていたが、これは妖怪とは関係がなさそうであった。


ミュージアムの入り口で頑張る猫(2019.10.26 撮影)


もののけミュージアム 1/2(2019.10.26 撮影)


もののけミュージアム 2/2(2019.10.26 撮影)


もののけミュージアムの看板 (2019.10.26 撮影)

 ミュージアム内部は展示コーナーと体験コーナーからなっている。展示コーナーの最初は、「日本の妖怪」ということで、「人智を超えた自然現象に対する畏怖や、心の不安から生み出されてきた妖怪、絵画や書籍、日用品、玩具などから、妖怪が人々の生活に密接に関わってきた様子」を紹介している。「稲生物怪録」では、「本や絵巻を中心に、実在した主人公とその歴史背景、伝播し続ける物語の魅力」が展示されている。「企画展示室」では「湯本豪一氏から寄贈を受けた妖怪コレクションを中心に、様々なテーマによる企画展示」が開催されていた。


「湯本豪一記念日本妖怪博物館・三次もののけミュージアム」パンフレット


最初の部屋の入り口には妖怪猫がいた

 上で紹介した角川ソフィア文庫に収録されている「稲生物怪録絵巻」(堀田家本)では毎日毎夜様々な化け物が登場して、平八郎と権八を驚かせるのであるが、中には風変わりな話も含まれている。二十四日の所にはチョウが登場する物語があり次のような絵が添えられていてなかなか興味深い。

 
「稲生物怪録絵巻」の二十四日の昼、「大きな蝶が一羽飛び回っていたが、柱にぶつかり微塵となって数千の小蝶と変じる。」

 最終日の三十日には、朝からさまざまな怪異が起こるが、終には平太郎少年のもとから魔物が去り、その後は何事も起こらず、静かな日々が戻ったとされる。
 

「稲生物怪録絵巻」(堀田本)の三十日、「自ら魔物であると名乗った五郎左衛門は庭に飛び降り、乗り物に乗り込んで消えていった。」

 そして、「無事にすんだのは、すべて氏神のご加護だ」と平太郎は喜び、権八たちと神社に参詣するところで話は終わる。ミュージアムでは「柏本」として伝わる内容を載せた資料を配布していて同様の絵巻物語を見ることができる。

 「チームラボ★妖怪遊園地」と名付けられた体験コーナーには大型スクリーンやモニターが備えられており、「みんなの描いた妖怪がスクリーン上で動き出す、インターラクティブな作品を体験しながら学べる空間。妖怪存在をより身近に、面白く感じることができる」演出がなされていた。ここには「妖怪カメラ」があり、参加者が「妖怪に変身したり、妖怪と一緒に記念撮影をして、SNSでシェア」できるようになっている。私たちもこれを体験し、目の前のモニターに変身した姿を映し出すとともに、それぞれのスマホのアプリに変身した動画を送信して、後で見たり、知人に送ったりできることを体験した。なかなかの最新映像技術である。

 このミュージアムの隣には「三次地区文化・観光まちづくり交流館」が建てられていて、ここでは「三次まるごと博物館事業の拠点として、三次地区の歴史・文化、自然等を活かした文化・観光まちづくりを推進するとともに、三次地区をはじめとした地域の歴史、伝統および文化の継承に係る取り組みを推進し、観光・交流人口の拡大」を図っている。

 次に向かったのは、ミュージアムからは少し南に、巴橋方向に戻ったところにある「辻村寿三郎人形館」。この日は、「令和元年度・後期企画展」(阿久利姫生誕350年記念)の期間中であった。


「辻村寿三郎人形館」のパンフレット。


阿久利姫(瑶泉院)人形(2019.10.26 撮影)

 阿久利姫は初代三次藩主浅野長治の娘で、1669年に生まれ、7歳までこの三次に住み、14歳の時赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり) に嫁いだ女性である。夫は江戸城の松の廊下で吉良に短刀できりかかり切腹を命じられた。その後彼女は剃髪し瑶泉院となり赤穂藩士の敵討ち後の関係者の菩提を弔ったり伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児たちの赦免運動をし、最後は1714年に45歳で三次で亡くなっている。墓は夫と同じ江戸高輪泉岳寺にあって、三次市の桜の名所尾関山公園には瑶泉院の石像が建てられている。

 元三次市郷土資料館であった、この「辻村寿三郎記念館」には、阿久利姫のほか代表作の新八犬伝で使用された人形や、ご本人の近影、経歴などが展示されていた。


辻村寿三郎人形館(2019.10.26 撮影)


三次市郷土資料館の銘板(2019.10.26 撮影)


辻村寿三郎氏の近影と前日の劇で使用された人形作品(2019.10.26 撮影)




NHK人形劇「真田十勇士」使用に使用した人形(2019.10.26 撮影)

 この記念館のある周辺は、無電柱化が進んでおり、以前に比べ町並はすっきりと生まれ変わっていた。三次市の夏の名物「きんさい祭り」で、職場の仲間が作った「トーマス君」の山車を引いて通った思い出が蘇ってきた。


無電柱化された人形館前の道路(2019.10.26 撮影)

 三次を昼前に出て、次は岡山市立オリエント美術館に向かった。ここには、ガラス工芸の発祥地である古代メソポタミア・エジプトからローマン・ガラスやササン朝を経てイスラム期に至る古代ガラス約141点が収蔵されている(このほかにガラス玉などを合わせると414点とされる)。これらは、故安原真二郎岡山学園理事長の収蔵品が岡山市に寄贈されたものである。


岡山市立オリエント美術館(2019.10.26 撮影)

 この美術館については、以前古書店で買い求めた「ガラス工芸-歴史と現在-」という、1999年に開催された展示会の図録が手元にあって、ここに141点のガラス器すべての写真と共に、古い時代の工芸技術を復元したり、或は古代の技術や作品に想を得た19名の現代のガラス工芸作家による作品の写真が合わせて掲載されている。この図録を見ていたので、一度訪れてみたいと思っていたのであった。
 現代の作家の名前の中には、先日訪れた「妖精の森ガラス美術館」でもみかけた小谷栄次さんの名前も見られた。


1999年開催「ガラス工芸-歴史と現在-」展の図録表紙 

 数々の珍しく貴重なガラス器を見たが、中に含まれていた「円形切子椀」(イラン、6世紀)2点と同様のものは、正倉院の御物にも含まれていて「白瑠璃碗」として知られている。後日、上野の国立科学博物館で開かれた「正倉院の世界-皇室がまもり伝えた美-」展でこの白瑠璃碗の実物を見ることができた。岡山市立オリエント美術館も国立科学博物館でも写真撮影ができなかったので、ここで比較してお見せすることはできないが、正倉院の白瑠璃碗は保存状態がとてもよく、透明度が維持されているのに対し、岡山市立オリエント美術館の収蔵品は現地での発掘品であり表面は白濁していて、大きなヒビが入ったものであった。


「正倉院の世界-皇室がまもり伝えた美-」展のパンフレット

 正倉院の白瑠璃碗の方は、1990年に開かれた第42回正倉院展(奈良国立博物館)でも展示され、その時の出品目録に次のような側面および底面からの写真が掲載されているので、カットの様子を確認することができる。


正倉院の白瑠璃碗(側面)


正倉院の白瑠璃碗(底面)

 大きさは、正倉院のものと岡山市立オリエント美術館のものは全く同一で、口径12.0cm、高さ8.5cmである。また円形のカットは底部に大きな切子1個を施し、側面最下段に7箇、さらにその上四段に各18箇、合計80箇の深い彫りの円形切子が廻らされているところも同じである。

 ちなみに、この「白瑠璃碗」の復元には、ガラス工芸の研究家である由水常雄氏も取り組んでいて、3500年前から近代にいたる特徴あるガラス器の数々と共にぐい吞みサイズに再現したこの白瑠璃碗が私のショップにあって、大切にしている(2018.9.21 公開の本ブログ参照)。


由水常雄氏監修によるガラス工芸3500年史のぐい吞み

 岡山市立オリエント美術館を後にして、この日の宿泊地牛窓に向かった。日が沈み始めた海沿いの道では、イノシシに出会うというハプニングもあったが、無事到着。東洋のエーゲ海といわれる景色を見ながらの夕食になった。


牛窓での宿泊先(2019.10.27 撮影)


朝食をとったテラスからの瀬戸内海の眺め(2019.10.27 撮影)

 翌日、大阪箕面で開催された「いとこ会」に参加し、みんなで叔父の米寿を祝ってから帰路についた。長いドライブ旅行であったが、各地で霧とガラス作品を見ることのできた印象深い旅になった。

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軽井沢文学散歩(10)川端康成

2019-12-20 00:00:00 | 軽井沢
川端康成もまた、軽井沢に別荘を持っていた。その別荘について自身で次のように書いている。

 「軽井沢の私の山小屋は、<幸福の谷>にある。野上君の『軽井沢物語』の主人公弓月明とその母の山小屋も<幸福の谷>にある。私がこの<幸福の谷>の山小屋を外人宣教師から買ったのは、たしか昭和十二年の秋だったと思ふ。尾崎士郎君の『人生劇場』と私の『雪国』とが文藝懇話会賞に選ばれて、軽井沢の宿に長逗留していた私は賞を受けるために東京へ出、真直軽井沢に帰って、賞金(1000円)をそっくり山小屋の代金に入れた。その後毎夏の山小屋暮らしを考えると、私としてはめずらしく金を生かした方である。・・・
 山小屋を買った年、私夫婦は十一月の末までいた。まわりの小屋はみなとざされ、雑木の葉は落ちつくし、町に出る道はまだら雪だった。私たちが去ったあとに、堀辰雄君が来て冬を過ごし、この山小屋で『風立ちぬ』の終章ができた。・・・
 今、野上君の『軽井沢物語』では、『弓月の亡くなった父は<幸福の谷>という言葉のひびきにひかれて、晩年をしずかにここで暮した。<南幸の谷>という言葉のひびきに。』とあるものの、弓月の一人息子明と母のふさなどのために、その呼び名通りの<幸福の谷>となった。
 尾上君もここに明たちの山小屋をおいたのは、やはり少し『言葉のひびき』にひかれてだろうが、また野上君が長年のあいだしばしば私の山小屋を訪れてくれ、泊って行ったこともあるからであろう。・・・
 <幸福の谷>とか<南幸の谷>とかは無論数十年前ここらに山小屋をつくった外人宣教師たちの名づけである。」(野上彰著「軽井沢物語」川端康成の序文から)

 川端康成が上に書き記しているように、川端が1307番別荘を購入直後、5歳年下で川端と親しかった堀辰雄がその別荘を借りて、難産だった『風立ちぬ』の終章「死の影の谷」をそこで完成させたことが知られている。終章に描かれた舞台は、執筆別荘のあった桜ノ沢周辺だとされる。この逸話とは逆に、堀辰雄が以前から気に入っていた軽井沢・釜ノ沢の1412番別荘が売りに出たさい、川端が逸早くそれを知り、堀に速達で知らせ、紆余曲折の末、堀が1941(昭和16)年に米人牧師から購入するに至ったという話も残されている。

 このことを書いた堀辰雄の作品を見ると、次のようである。
 「私の借りた小屋は、その村からすこし北へはいった、ある小さな谷にあって、そこいらにも古くから外人たちの別荘があちこちに立っている、-なんでもそれらの別荘の一番はずれになっているはずだった。そこに夏を過ごしに来る外人たちがこの谷を称して幸福の谷と云っているとか」(堀辰雄『風立ちぬ』最終章「死のかげの谷」)。」

 もう一つ、この別荘購入について、夫人の川端秀子さんの回想が残されている(川端康成とともに)。
 「・・・ちょうどいわゆる支那事変の起きた年で外人の引き揚げが目立った年ですが、外人は決して投げ売りなどはしませんし、その頃の日本もそろそろ軍需景気で土地など上り目でした。結局先方の言い値を値切って二千三百円ぐらいで買ったはずです。持主はシップルという仙台に住んでいた人で、軽井沢町一三〇七の別荘でした。買うことに話が決ったのは八月二十日過ぎ、登記は九月に入ってからで、九月二十二日附の石井(佐藤)碧子さんへの手紙に『宣教師の建てた山小屋を一つ買ひました』とあります。 この昭和十二年十三年という頃は、作家が、軽井沢に別荘を買ったり借りたりした時期で、それが一種の流行にもなっていたようですが、満州事変、支那事変で外人の引き揚げが続いて売り物が出たということがあったのでしょう。・・・」。
 二回目の購入については、「・・・この秋に軽井沢の別荘の隣の山小屋を一軒外人から買いました。外人の所有権が認められていなかった頃の話で、九百九十九年の地上権の引き継ぎという形です。これが戦後になって住むようになった一三〇五番の別荘で、当座はドイツ人に貸していました。・・・」

 この「幸福の谷」の別荘で川端康成自身もまた多くの作品を残してる。現在残されている別荘は、この二回目に購入したものの方であり、一回目の別荘はもう何も残っていないとされる。

 川端康成の別荘はどうなっているだろうかと思い、現地に出かけてみた。旧軽井沢のテニスコート横の道を東に万平ホテルの方に向かい、途中で左に折れると付近一帯は静かな別荘地帯となっている。近くには室生犀星の別荘(現在は記念館)もある場所である。矢ケ崎川にかかる橋を渡ると「幸福の谷(ハッピーバレー)」と呼ばれる道に通じるが、このやや奥の方に川端康成の別荘はあった。

この一帯はせせらぎの森という別荘地である。古い案内板がある(2019.9.17 撮影)

川端康成の別荘のある「桜の沢」を示す案内板(2019.9.17 撮影)

川端康成の別荘地の前の道は珍しく浅間石が固められ、舗装されている(2019.9.17 撮影)

別荘敷地内へのアプローチ(2019.9.17 撮影)

傍らに今も残る別荘番号1305と所有者名「川端」の名(2019.9.17 撮影)

アプローチの手前には駐車スペースと思える場所がある(2019.9.17 撮影)

傍らには英字でKAWABATAと書かれた名板が残されている(2019.9.17 撮影)

 これまで、室生犀星に始まり芥川龍之介まで、明治・大正期に活躍した文士と軽井沢との繋がりを紹介してきたが、その中では、生年で見ると川端康成は芥川龍之介と堀辰雄の間に位置する。72歳に没したということもあり、先の二人に比べると昭和期の作家という印象が強い。

明治・大正期に活躍した文士とその中の川端康成(赤で示す。黄色はこれまでに紹介した文士)

 川端康成と軽井沢の出会いは1931(昭和6)年8月、菊池寛らと旅行した際のこととされている。その後、別荘購入の前年の1936年(昭和11年)に再び軽井沢に来ている。その時の様子は、2019年に軽井沢高原文庫で開催された「川端康成と軽井沢」という講座で、小川和佑の「文壇資料 軽井沢」からの引用として次のように紹介されている。

 「・・・川端康成は軽井沢に入って先ずつるやの玄関に立った。中山道の古い道場の俤を残す建物が彼の心を魅きつけた。芥川龍之介や室生犀星の愛したつるやはその後、昭和期に入っても、やはり多くの作家たちの集る旅館だった。彼の親友の一人、片岡鉄兵もしばしばここで長編を執筆している。川端はそんな倹しさもあってつるやを訪れたのであったが、相憎満室で、番頭は丁寧に断りを言い、その代り少し下手の小さな藤屋を紹介してくれた。 事実、つるやは六月の末になると予約の客で例年満員になる。突然訪れた川端を泊める部屋はどこにもなかったのだった。この最初の川端の軽井沢訪門には一説があって、例のつるや七不思議の一つの居眠り番頭が川端の顔を知らず、極めて索気なくこの高名な作家を一見の客と思い断ったため、川端がひどく不快を覚えたというエピソードもある。 しかし、それは飽くまで誤りであろう。作家を大切にした佐藤不二男が、川端康成を知らなかったはずはない。満室でどうにもならなかったことの方がより真実に近いのではなかったか。 藤屋は旧軽井沢の本町通りの中程に近い、神宮寺の入口右手にある小さな旅館であった。そこで応対に出たのは藤屋主人小林忠義氏の妹愛子さんだった。藤屋も満員。一つだけ広い部星に学生が宿泊していて、そこに合部屋ならばと招じ入れてくれた。川端康成は苦笑しながらそれも仕方がないと部星に上った。改装前の藤屋は旅籠風な旅館だった。しかし、それがいかにも宿場らしい旅情があったことが、川端の気に入った。彼は気軽に学生と相部屋になった。学生もこの高名な作家の顔を知らなかった。翌朝、朝食時になって、昨夜の客が、作家の川端康成と気がついたのは、愛子さんだった。もう二、三日宿泊したいという彼を、愛子さんは急いで、空いたばかりの別室を用意した。その部屋は窓から神宮寺の境内の見下ろせる小部屋だった。・・・」
 
 さて、今年は川端康成の生誕120年の年にあたる。2年前に偶然その生誕地に行く機会があり、「川端康成生誕之地」と彫られた石碑を見ることができた。このことは前にも紹介したが(2017.9.21 公開の本ブログ)、この石碑は以前この地にあった和風建築の料亭の玄関脇に設けられていたという。その当時の様子はウィキペディアに写真が出ているので見ることができる。

 2017年に、私がその場所に行った時には、元の料亭は取り壊されて、その跡地はマンションの建設工事中であったが、石碑は大切に守られていた。

「川端康成生誕之地」の石碑(2017.9.13 撮影)

石碑上部の文面(2017.9.13 撮影)

 石碑上部には次のように記されている。

 「『伊豆の踊子』『雪国』などの名作で、日本的抒情文学の代表作家とされる川端康成は短編小説の名手として国際的に知られ、昭和43年(1968)に日本人では初めてノ-ベル賞を授与されました。彼は明治32年(1899)6月14日の生まれで、生家は料亭相生楼敷地の南端あたりにありました。」

 川端康成の生い立ちを見ておくと、1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋 1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生。7か月の早産だった。
 4歳上には姉・芳子がいた。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった。蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった。
 しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」という書を遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記したとされる(ウィキペディアから)。

 川端康成ゆかりの碑などは、前記の生誕之地石碑の他、次のようなものがある。

・旧居跡
 茨木市宿久庄1丁目11-25には「川端康成先生旧跡」の碑がある。
・文学碑「以文会友」
 1969年10月26日に、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)で除幕式が行われた。
・「川端康成ゆかりの地」の記念碑
 1974年(昭和49年)4月16日の三回忌に、伊藤初代の父親・忠吉の郷里の岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区)の増沢盆地を見下ろす向山公園の高台に建立された(題字は長谷川泉で、裏側の銘文は鈴木彦次郎)。尚、伊藤初代は川端康成の元婚約者。15歳の時に22歳の川端と婚約し、その1か月後に突然婚約破棄を告げた女性である。その事件による失意が川端の生涯の転機となり、様々な作品に深い影響を与えたことで知られる。
・「川端康成記念館」
 1976年(昭和51年)5月に、鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に落成・披露された。
・「反橋」の文学碑
 1981年(昭和56年)5月20日、大阪の住吉神社境内に建立された。
・「牧歌」の一節と、川端自筆の道元禅師の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑
 1981年(昭和56年)6月に、長野県上水内郡鬼無里村(現・長野市鬼無里)松巌寺境内に建立された。
・「伊豆の踊子」の冒頭文を刻んだ新しい文学碑
 1981年(昭和56年)5月1日に、伊豆の湯ヶ島の水生地に、川端の毛筆書きによる文学碑が建てられ除幕式が行われた。左半分の碑面には川端の顔のブロンズのレリーフがはめこまれている。
・ 茨木市立川端康成文学館
 1985年(昭和60年)5月に開館した。
・小説「篝火」にちなんだ「篝火の像」(長良川に向い、鵜飼船の篝火を眺める川端と伊藤初代が並んだ像)
 生誕110年の年に当たる2009年(平成21年)11月14日に、岐阜県岐阜市湊町397-2のホテルパークから鵜飼観覧船乗り場に行く途中のポケットパーク名水に建立され除幕式が行われた。

(2021年8月4日追記)
 ここで紹介した川端康成氏の別荘の解体情報が突然舞い込んできた。信濃毎日新聞(2021.8.2付け)によると、「現在別荘を所有する神奈川県内の不動産会社の関係者が7月下旬、別荘周辺の住民に9月からの解体作業着手を伝えたという。
 軽井沢町内の文化団体や文学愛好家からは『解体されれば、町の貴重な文化遺産が失われる』と危惧する声が上がっている。」と報じている。
 こうしたことを受けて、「軽井沢文化遺産保存会」をはじめとした団体が共同して、川端康成別荘の保全に向け町議会への請願書提出の動きが始まった。
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ナガサキアゲハとトランプ大統領(3/5)

2019-12-13 00:00:00 | 日記
 2年前のブログ「ナガサキアゲハとトランプ大統領(1)」(2017.7.14 公開)を書いた当時、目に留まった地球温暖化とトランプ大統領に関する強烈な印象を与える記事の一つが、次の故ホーキング博士のものである。ニューズウィーク日本版が伝えていた。
 
 『地球の気温は250度まで上昇し硫酸の雨が降る』ホーキング博士
                             2017年7月4日
 「アメリカのパリ協定離脱を批判したホーキング博士が、地球の『金星化』を予言。さらにこれを裏付けるデータも。」
 「著名な理論物理学者スティーブン・ホーキング博士が、人類に警告を発した。地球上の気温はいずれ
250度まで上昇し、このままだと手遅れの状況になる可能性があるという。
 2017年7月2日に母校のケンブリッジ大学で行われた75歳の祝賀記念講演でホーキング博士は、アメリカの『パリ協定』からの脱退が原因で、地球上の気温上昇が加速するとの見方を示した。人類にとっての最善策は、他の惑星を植民地化することだと語った。
 ホーキング博士は『地球温暖化は後戻りできない転換点に近づいている』と指摘し、ドナルド・トランプ米大統領によるパリ協定脱退の決断がさらに地球を追い詰めることになると非難した。気温は250度まで上がって硫酸の雨が降るという、まるで金星のように過酷な環境だ。
 さらにこれを裏付けるような調査結果が出た。アメリカ気象学会の衛星データから地球表面と地球全体の温度が連動してどんどん暑くなってきていることが確認されたとワシントン・ポストが報じた。」


1980年代の撮影とされるホーキング博士(1942.1.8-2018.3.14, ウィキペディアから)

 ここで博士が指摘している、「後戻りできない転換点」については、以前のブログ(2019.11.15 公開)で紹介した少女グレタさんが国連でのスピーチで「ティッピング・ポイント」という表現で言及している。

 この「ティッピング・ポイント」とは何か。一般には、「ティッピング・ポイントとは、物事がある一定の閾値を超えると一気に全体に広まっていく際の閾値やその時期、時点のこと。」とされている。

 地球温暖化に関しては、地球の温度がある一定温度以上になると、それが例えば北極海の夏季海氷の融解を引き起こし、それがまた太陽エネルギーの吸収増加をもたらすため、更なる地球の温暖化につながって行くといった連鎖的な変化を引き起こす気温を指している。そうして、急坂を転がり落ちるように、地球は高温の惑星へと変わっていくというものである。

 こうした変化を示す要素は「ティッピング・エレメント」と呼ばれているが、地球の温暖化に関しては、「北極海夏季海氷の消失」のほかにも「アルプス氷河の消失」、「サンゴ礁の白化」、「グリーンランドと南極氷床の融解」などが指摘されている。

 パリ協定で取り上げられた、温暖化の上限値である1.5度、あるいは2度といった数字は、このティッピング・ポイントを示すものとして受け止められている。すなわち、人為的な温暖化ガスの増加により、地球温度が産業革命以前の平均気温よりも1.5度~2度上昇すると、こうした「ティッピング・エレメント」の不可逆的な変化を引き起こして、地球温度は人類が生存できないまでに上昇してしまう危険性があるというものである。

 このことに関して、今年各国の気象に関する専門機関から連盟で、次のような声明が発表されている。日本語への翻訳は、この声明にも名前を連ねている公益財団法人地球環境戦略研究機関(IGES)である。

 「著者:Earth League、翻訳者:地球環境戦略研究機関(IGES)、
  出版日:2019年9月、出版者:地球環境戦略研究機関
 私たちは現在、地球の生命維持システムの行方を間違いなく左右するであろう社会・環境システムの二つのティッピング・ポイント(転換点)に近づきつつある。そのような中、世界中の若者たちが迅速かつ協調的な気候行動に向けて立ち上がっている。アントニオ・グテーレス国連事務総長が気候変動対策の『頂点を目指す競争』である気候行動サミット(ニューヨーク)に各国首脳を招請する直前の9月20日、若者たちによるグローバル気候マーチが行われる。彼らの求める持続可能性に向けた社会の転換がすぐにでも実現しなければ、地球上の生命の安定を脅かす地球システムにおける複数のティッピング・ポイントを超えてしまうおそれがある。

 人間の活動の圧力により地球システムの構成要素が危機的なティッピング・ポイントに一層近づいていることが次第に明らかになっている。その結果、地球の気候状態を激変させる非線形プロセスが次々と引き起こされる可能性がある。熱帯のサンゴ礁システムや北極海の夏季の海氷は、1.5°Cの温暖化ですでにリスクにさらされる。また、グリーンランドの氷床は、2°Cの上昇が不安定化のティッピング・ポイントであると考えられている。西南極氷床崩壊のティッピング・ポイントをすでにある程度超えている可能性も排除できず、その場合、地球全体で長期にわたる3メートルの海面上昇が不可逆的に起こると予測される。北極圏では温暖化のペースが最も速いため、北半球でジェット気流が減速し、大きな蛇行パターンを描く傾向にある。その結果、高・低気圧が停滞して大雨や熱波が続くと、それがさらに洪水や干ばつを引き起こし、人々の生活や食料システム、健康、安全が脅かされる。一般的に、気候変動による異常気象の頻度・程度が高まると人々の対応能力が低下するが、これは特に貧しい国・地域に住む人々の脅威となる。正確なティッピング・ポイントはまだ分かっていないが、温暖化が1.5°Cを超えると、レッドライン(超えてはならない一線)に危険なまでに近づくか、それを超えると考えられている。温暖化を2°Cではなく1.5°Cに抑えれば、数億人をさまざまな気候関連リスクから守ることが可能であろう。一方、温室効果ガスの排出量が減少しなければ、『ホットハウス・アース(温室化した地球)』への経路をたどることになり、もはや人類による制御不能となって、ティッピング・ポイントを次々と超えて壊滅的な4~5°Cの気温上昇がもたらされるおそれがある。人類は、過去1万年にわたり享受してきた穏やかな気候を当たり前のことと思っているが、現在の地球の平均気温は、最後の氷河期以降、すでに最も高くなっている。

 これまで明らかになった科学的根拠に基づき、様々な国・自治体及び世界中の数千もの大学が気候非常事態を宣言している。私たち科学者はこの問題の当事者として、これらの宣言を『危機を煽っている』と言うのは完全に見当違いであることを強調したい。それどころか、専門家の評価は通常控えめであるため、こうした評価により意思決定者が気候影響のリスクを(過大評価ではなく)過小評価してきたという見解が広まっている。実際、予想よりも早く深刻な気候影響が起きていることは明らかである。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、2001年以降の報告書で毎回、いわゆる『懸念材料(RFC)』の評価を上方修正し、懸念レベルを引き上げている。例えば2001年の報告書では、固有かつ絶滅のおそれがあるシステム(サンゴ礁や先住民コミュニティ等)のリスクは3°C以上の温暖化で『高く』なるとされていたが、現在では、2°C以下の温暖化でも不可逆的崩壊のリスクが『非常に高く』なるとされている。科学の進歩に伴って、グリーンランドの氷床が完全に融解し海面が7メートル上昇するといったいわゆる『大規模不連続事象』(破壊的シフト等)が起こる可能性も、2001年の低リスク(温暖化が4°Cを上回った場合のみリスクが発生)から、2019年には中程度~高リスク(2~3°Cの温暖化でリスクが発生)に引き上げられている。その間も地球の平均気温は上昇し続け、温室効果ガス排出量は2018年に過去最大となった。現状では、控えめに評価しても、今世紀末には温暖化が3°C以上進む(明らかに不可逆的なティッピング・ポイント)と予測されている。地球がこれほどの温暖化を経験するのは400万~500万年ぶりのことなのである。

 世界中の若者たちは、9月20日のグローバル気候マーチへの参加を大人にも広く呼びかけている。私たち科学者も、『ひとつの世代の問題ではない』という彼らの主張に賛同する。地球の運命を握っているのは人類である。子どもたちの世代に気候リスクだらけの不安定な未来を残さないよう政治やビジネスを動かすには皆が力を合わせなければならず、またそれが地球システムの危険なティッピング・エレメント(地球環境の激変をもたらす事象)への最大の抵抗となる。2019年を持続可能な世界へと完全に舵を切る年にすべく、皆さんの賛同によってこの機運がさらに高まることを期待する。

Tanya Abrahamse 地球規模生物多様性情報機構(GBIF)/デンマーク
Ottmar Edenhofer ポツダム気候影響研究所(PIK)/ドイツ
Peng Gong 清華大学地球系統科学系/中国
Daniela Jacob Climate Service Center Germany(GERICS)
Tim Lenton エクセター大学グローバルシステム研究所ディレクター/英国
Wolfgang Lucht ポツダム気候影響研究所(PIK)/ドイツ
María Máñez Costa Climate Service Center Germany(GERICS)
Mario J. Molina マリオモリ―ナセンター/メキシコ
Nebojsa Nakicenovic 国際応用システム分析研究所(IIASA)/オーストリア
Carlos Nobre ブラジル国立宇宙研究所(INPE)/ブラジル
Veerabhadran Ramanathan スクリプス海洋研究所/米国
Johan Rockström ポツダム気候影響研究所(PIK)/ドイツ
Hans Joachim Schellnhuber ポツダム気候影響研究所(PIK)/ドイツ
Peter Schlosser アリゾナ州立大学/米国
Youba Sokona The South Center/スイス
Leena Srivastava TERI大学/インド
Lord Nicholas Stern インペリアルカレッジロンドン グランサム気候変動・環境研究所/英国
武内 和彦 公益財団法人 地球環境戦略研究機関(IGES)
Laurence Tubiana 欧州気候基金(ECF)
Carolina Vera 海洋・大気研究センター CIMA-UMI/IFAEC/アルゼンチン」

 これを追うように、2019年11月26日のNHKニュースと翌日の新聞は、国連環境計画(UNEP)が公表した2018年の世界の温室効果ガス排出量が、二酸化炭素換算して過去最大の553億トンに上ったとの報告書内容を報じた。排出量は過去10年、毎年平均1.5%ずつ増え、削減の見通しは立っていないという。


国連環境計画(UNEP)から公表された世界の温室効果ガス排出量を報じる新聞記事(2019.11.27 読売新聞)

 NHKのニュースでは、「人類の危機が加速」という表題を掲げ、これに関連する事象として、北極海の海氷の上の白クマの親子、台風19号による千曲川氾濫、オーストラリアの森林火災、高潮によるヴェネチア市街の浸水、などの映像を交えて、世界が後戻りできない危機的な状況に近づきつつあることを伝えるとともに、同報告書が日本に対しては「石炭火力発電所の建設中止」と「再生可能エネルギー利用」を求めていると次のように報じた。


過去最悪の数字を報じる(2019.11.26 NHK-TVニュースより)

 また、スウェーデンの活動家グレタさんや若者の映像を示し、「飛び恥」という言葉を紹介した。これは温室効果ガスを大量に排出する飛行機を利用することへの抗議で、「飛行機に乗るのは恥ずかしい」と訴えるものである。そして、これに賛同し、積極的に鉄道を利用する若者の姿や、オランダKLM航空が500キロ以下の短距離路線を鉄道などに置き換えることを検討していると伝えた。

 ちなみに、今回発表された温室効果ガス排出量は、二酸化炭素に換算したものであるが、二酸化炭素単独での数字はすでにBPから公表されているものがある。それによると、2018年の世界の排出量は337億トンとされていて、全体の60.9%に相当する。二酸化炭素以外の主な温室効果ガスには、メタン、亜酸化窒素、ハイドロフルオロカーボン、パーフルオロカーボン、六フッ化硫黄などがある。

 BPが発表している世界全体の二酸化炭素排出量の推移とその中の主な排出国の排出量の推移は次のようである。


世界全体の二酸化炭素排出量の推移(資料:GLOBAL NOTE 出典:BP)


主要10カ国の二酸化炭素排出量の推移(BPの公表数値から筆者が作成)

 おりしも、COP25がスペインのマドリードで開催され、日本からは今年新たに環境大臣に就任した小泉進次郎氏が出席しスピーチを行ったと、次のように報じられた。

 「日本の石炭火力政策に対する世界的な批判を認識していると述べる一方、自身の脱化石燃料への考えが政府内で十分に広がっていないことを認めた。その上で小泉氏は、変化に向けて取り組んでいる姿勢を強調。『石炭政策を含め、日本に対する世界的な批判は認識している』と述べた上で、自身もミレニアル世代(*)・父となる身として気候変動に対する世界的な危機感の高まりを共有していると述べた。(*:2000年代に成人・社会人となる世代)」

 また、これを報じる12月12日付の新聞での扱いは、他のビッグニュースの、吉野彰さんのノーベル化学賞受賞式や、アフガニスタンで銃撃されて亡くなった中村哲さんの葬儀に関するニュースの影響を受けたためか、まことに小さなもので、二酸化炭素の最大排出国中国や米国については触れられていなかった。


COP25に出席した小泉環境大臣のスピーチについて伝える 2019.12.12付けの読売新聞(33面)

 多くの知識人、関連分野の専門家の警告をよそに、増え続ける温室効果ガス。「まだ間に合うはもう遅い」という言葉があるのだが。


 
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中国地方のガラスと霧の旅(2/3)

2019-12-06 00:00:00 | 日記
 人形峠で降っていたこの日の雨はその後も止むことがなく、鳥取砂丘に着いた時も降り続いた。駐車場に車を停め、砂丘センター展望台まで歩いてみたが、雨の中、砂丘を歩く人は少なかった。


砂丘展望台への階段(2019.10.24 撮影)


雨で砂丘を歩く人影もまばら(2019.10.24 撮影)

 我々も仕方なく砂丘見学は断念し、近くの鳥取砂丘ビジターセンターに入った。ここには鳥取砂丘についての説明展示があり、また、砂の表面に現れる風紋など、種々の芸術的ともいえる不思議な形態が現れるメカニズムについての説明がされていた。別室では風洞を使ってこの風紋ができる様子を再現して見せてもらった。


日本の砂丘、日本には意外にも砂丘が多くみられる(2019.10.24 撮影)

 先日、NHKのTV放送「ブラタモリ」でも詳しい説明がされていたが、鳥取砂丘は明治以降周辺の開発・土地利用が進み、その面積は大幅に減少しているという。砂丘に生息していた生物もまた、面積の減少に伴い数と種類が減ってきていると思われるが、それでもここには環境省や鳥取県のレッドリストに記載され絶滅が心配されている植物や動物が数多く生育・生息していると書かれている。チョウの仲間では、環境省が準絶滅危惧種に指定しているキマダラルリツバメの名前が見られた。


明治時代からの砂丘面積の推移(2019.10.24 撮影)


現在の鳥取砂丘の案内図(2019.10.24 撮影)


鳥取砂丘の生物は、面積縮小に伴い減少している(2019.10.24 撮影)


準絶滅危惧種のチョウ、「キマダラルリツバメ」が生息している(2019.10.24 撮影)

 鳥取砂丘ビジターセンターを出て、ここから西へ約90km、この日の宿に選んだ皆生温泉に向かった。立地は美保湾の海岸に面した場所であるが、この皆生温泉周辺は米子駅にも近く、周囲にはビルが立ち並んでいる。ここでの夕食も宿の食事である。

 翌朝、部屋の窓からは刻々とそこにかかる雲の様子が変化する伯耆大山の姿が望めた。標高1709mの大山(弥山、1729mの剣ヶ峰を最高峰とすることもある)は、現在は活火山とはされていないが、過去幾多の噴火を繰り返し、鳥取砂丘にも火山灰を降らせた火山である。皆生温泉は大山の北西方向に位置していて、ここから見る大山の姿は、右半分の西側斜面はなだらかなものとなっているが、左半分の北東側斜面は今も年間7万立方メートルもの岩石の崩落が続いていて、ゴツゴツした荒々しい姿を見せている。

 伯耆富士とも呼ばれる大山の姿は見る方向により変化し、西側からは文字通りの左右対称の美しい姿を見せるが、北東側や南~南西側から見るとその山容は一変し、同じ山の姿とは思えないものとなっている。


皆生温泉側から見た大山(2019.10.25 撮影)


パンフレットに見る大山の南壁の写真

 今回、このさまざまな姿を見せる大山の写真を周囲をひとまわりして撮りたいと思っていたが、生憎の天候でそれは望めないと考え、予定を変更して大山寺に行くことにした。その前に、境港に行ってみようと思い宿を出た。

 境港駅の近くには「ゲゲゲの鬼太郎」でおなじみの「水木しげる記念館」があり近くには「水木しげるロード」もあるが、今回は割愛することにして、漁港に近い「夢みなと公園」の展望ビルに行った。ビルの展望台からは美保湾の向こう側に大山が見えるはずであったが、この時刻にはすでに上部がすっぽりと雲に隠れてしまっていた。


高さ43mの「夢みなとタワー」から見た大山(2019.10.25 撮影)

 境港からまっすぐ大山の中腹にある大山寺に移動した。大山ナショナルパークセンターの駐車場に車を停め、徒歩ですぐ近くにある大山自然歴史館に向かった。ここから今登ってきた道路の方を振り返ると、厚い雲の下に美保湾や皆生温泉、境港が望める一種異様な光景であった。


大山自然歴史館から見える皆生温泉(2019.10.25 撮影)


大山自然歴史館(2019.10.25 撮影)

 大山自然歴史館では、大山についての詳しい展示を見ることができた。それによると、「大山は年齢約100万年、60万年前から40万年前にかけて活動の最盛期を迎え、この時の活動の結果が、現在の船上山などの尾根として残っている」という。また、「最後の火山活動は2万年前で、この時に弥山周辺の三鈷峰や鳥ヶ山ができた。」とされる。

 大山は標高1,729mの山で、山体は東西約35km、南北約30km、総体積約120km3。日本列島におけるデイサイト質火山の中でも最大級の規模である。ちなみに、富士山の総体積は約1400km3である。
 前述のように成層火山であるが、現在活火山としては扱われていない鳥取県および中国地方の最高峰でもある。日本百名山や日本百景にも選定され、鳥取県のシンボルの一つとされている。

 複雑な山容を持ち、見る方角により形が大きく変化する大山であるが、その様子は館内の模型をみるとよくわかる。


館内にある大山の模型(2019.10.25 撮影)


大山の概要説明パネル(2019.10.25 撮影)

 この大山の標高800mから1,300mは西日本最大のブナ林に覆われ、その上部には亜高山針葉樹林帯がなく低木林や草原の高山帯になっていて、動植物の宝庫とされる。そうしたこともあって、ここには日本に生息している25種類のゼフィルス(チョウのミドリシジミの仲間)のうち22種類が生息しているという。


山麓のブナ林には多種のゼフィルスが生息しているという(2019.10.25 撮影)

 この大山自然歴史館にも、現上皇陛下御夫妻訪問時の写真が飾られていた。


現上皇陛下御夫妻訪問時の記録(2019.10.25 撮影)

 この大山自然歴史館の見学の後、今回の旅のもう一つの目的地、広島県の三次市に向かった。三次市内には、かつて勤務した工場があったが、現地に行ってみると、今その場所は更地になっていた。多くの仲間と共に働いた場所のこのような変化には戸惑いもあったが、技術の変化と競争の激しさをかみしめた。

 夕刻には、この工場で一緒に働き、定年後の今は市会議員として活躍をしているS さんと久々の三次の郷土料理を楽しみ、その後、思いがけず「辻村ジュサブロー」氏の人形芝居に案内していただいた。私は知らなかったのであるが、辻村ジュサブロ-氏は三次市とは縁が深い方であった。1933年(昭和8年)満州に生まれ、1945年(昭和20年)、12歳の時に母の故郷である三次市に移動している。氏の人形が一躍脚光を浴びることになったのは、NHK-TVで放送された「新八犬伝」での人形美術を担当した時であった。

 この日の夜、市内の会場で二人のお弟子さんによる人形芝居が上演された。その時使用された2体の人形は、辻村氏の近影と共に、翌日訪れた「辻村寿三郎記念館」で再び見ることができた。辻村氏本人は高齢(83歳)のため、今は施設に入っていると説明があった。尚、氏は2000年に名前を我々にも馴染みの深い「辻村ジュサブロー」から「辻村寿三郎」に変えている。

 歌と芝居が終了して、会場出口に向かった時、そこで辻村氏が制作した小さなウサギの人形が、この日の記念として1体だけ販売されていた。人形好きの妻の希望もあり、運よくこの人形を購入することができ、今回の旅のいいお土産になった。


辻村寿三郎氏作のウサギの人形 1/2(2019.12.4 撮影)


辻村寿三郎氏作のウサギの人形 2/2(2019.12.4 撮影)

 三次では旅行前からぜひ見てみたいと思っていたものがあった。三次の名物でもある川霧である。翌朝、ホテルの窓から外を眺めてみたが、景色には大きな変化がなく、霧が発生している様子は見られなかったので、霧の発生にはまだ時期が早いのかと思い諦めかけていたが、しばらくすると山の上の方にうっすらと雲がかかったようになってきたので、もしかしたらとの思いで、朝食を後回しにして、車で高谷山に向かった。

 高谷山は三次市内では2番目に高い山で、標高約500m、霧の海を見るスポットとして有名である。頂上には展望台があり、付近まで車で行くことができる。私たちが着いた時には展望台には数名の姿が見られ、近くにはテントを張っている家族の姿も見られた。


高谷山山頂の霧の海展望台(2019.10.26 撮影)


展望台からの眺め(2019.10.26 撮影)


高谷山からの霧の海と朝焼け(2019.10.26 撮影)


高谷山からの霧の海 1/2(2019.10.26 撮影)


高谷山からの霧の海 2/2(2019.10.26 撮影)

 展望台に上ってみると、思っていた以上の霧の海が三次盆地に広がっていた。以前、4年間も住んでいたことのある三次であったが、話に聞いていたこの場所に来たことはなく、今回初めて見る景色にしばし見とれた。




















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