軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

オオムラサキの蛹化・羽化と「昆虫日記」再読

2018-07-27 00:00:00 | 
 マンガ家の小山内龍さんの「昆虫日記」(1963年(昭和38年)2月22日 株式会社オリオン社発行)を高校生のころに読んで、オオムラサキの幼虫を育てるくだりに感心した覚えがある。


1963年(昭和38年)2月22日、株式会社オリオン社発行の「昆虫日記」のカバー表紙


同、表紙

 この本では、著者は様々な昆虫のことを書いているのであるが、その中にオオムラサキの幼虫を最終的には40匹ばかり採集して、四苦八苦しながら羽化させるまでの出来事を書き留めている。本文には詳しい年代は書かれていなかったと思うが、内容から推察するに、1940年(昭和15年)ころの話ではないかと思える。
 
 一昨年、2016年11月に軽井沢高原文庫で「昆虫がキーワードの本」というテーマ展示が行われたことは、このブログでも紹介したが(2016.11.18 公開)、その展示の中に、この小山内龍さんの著書で「昆虫放談」という次の本が紹介されていたので、小山内龍さんが、別な本も書かれていたのだと思っていた。


軽井沢高原文庫での「昆虫放談」に関する展示の様子(2016.11.13 撮影)

 後日、断捨離をくぐり抜けてまだ手元に残っていた「昆虫日記」を読み直していて、「あとがき」に同じ漫画家仲間の近藤日出造さんが次のように書いているのを読んでオヤとおもった。

 「・・・彼が生前に歩んだ道は、戦争という過酷な中で、死ぬまで明るさを失わず、食うためには何でもやった。それは荷車引きだったり土方だったり・・・・そして戦争中に死んでしまった。この昆虫記は、彼が生前、昆虫と共に生活し、持ち前の明るさと純な愛情をもって、毎日昆虫と暮した記録である。そして、彼が残した文筆はこれがあとにも先にもたったひとつのものであった。・・・」

 この「昆虫日記」が、小山内龍さんの残した唯一の著作だとすると、軽井沢高原文庫で見た「昆虫放談」は一体何だったのだろうか・・・。

 著書「昆虫放談」を図書館で借りて調べてみて、その謎はすぐに解けた。「昆虫放談」というタイトルの本は初版本と新装版の2冊が見つかったが、そのうち初版本からちょうど50年目の、1991年7月に新装版として築地書館から出版された「昆虫放談」の「あとがき」に、ご子息の次のような文章が書かれていたのである(1978年1月に同じく築地書館から旧版が出版されていることが、後に判明)。

 「昆虫放談はこれまで3回単行本として上梓されている。昭和16年(1941年)6月25日発行の大和書房版、昭和23年12月15日発行の組合書店版、「昆虫日記」と改題された昭和38年2月28日発行(原文のまま)のオリオン社版である。」

 「昆虫放談」と「昆虫日記」は同じものであった。改題されていたのだ。しかし、このあとがきを更に読み進めると、「昆虫日記」については、次のような文章があった。

 「・・・次がオリオン版である。この版は新仮名、句読点つきで、全体を27に分けて、組合版とは違う小題がついている。大きな変更は、「昆虫日記」と改題されたことだ。この版は発刊後になって、知人の報せで知ったような事情で、この間のことを私どもは一切承知していない。」

 私が手にして読んだ「昆虫日記」は「昆虫放談」と基本的には同じ内容のものであるが、一部が削除されていたり、小題が異なっていたりするようである。また、ご遺族の承諾なしに出版されたということも推察される。

 1991年に発行された新装版の表紙は、上に示したデザインであったが、1941年(昭和16年)に大和書房から発行された最初の「昆虫放談」の表紙は、私が購入した「昆虫日記」のカバーのデザインと同じものであった。

 さて、オオムラサキについてである。3年ほど前になるが、2015年3月ごろに、山梨県北杜市のオオムラサキセンターを訪問し、館長のA氏とお会いした。このセンターに設置されている「びばりうむ」内で飼育されているオオムラサキの生態を、3Dビデオ撮影させていただけることになっていたので、その交渉役を務めたTさん、そして妻、妻の姪のMさんの4人で、撮影の下見のために訪問したのであった。


北杜市にあるオオムラサキセンター(ウェブサイト《 http://oomurasaki.net/ 》 から)

 センター長のAさんの案内で広大なびばりうむ内に入り、ここで飼育されているオオムラサキの幼虫を見せていただいた。この時期、オオムラサキの幼虫は食樹であるエノキの樹下の落ち葉に隠れるように貼りついているという。Aさんがエノキの樹の下の落ち葉の中から探し出して、見せてくださった幼虫の色は褐色で4齢とのことであった。

 我々が考えている、オオムラサキの一生を3Dビデオ撮影したいという計画をAセンター長に説明し、今後びばりうむ内で行う予定である撮影を許可していただいた。

 当初、われわれがこのオオムラサキセンターに通い、びばりうむ内で生態を撮影する予定であったが、2度目に訪問したときに、毎回軽井沢から通ってきて撮影するのでは大変だろうからと、A館長からの提案で、オオムラサキの幼虫をエノキの鉢植えごと貸し出していただいて、自宅で撮影できることになった。そしてこの日、高さ1mほどのエノキの鉢植えに、オオムラサキの終齢幼虫を1匹ずつとまらせたものを、2鉢借り受けて軽井沢の自宅に持ち帰った。


オオムラサキの終齢幼虫(2015.7.10 8:32~8:56 撮影、15倍のタイムラプスで再生)

 初めてのことで、これらの終齢幼虫がいつ蛹になるのか見当がつかず、今か今かとビデオをまわしながら待ち続ける日々であったが、ある時気が付くと、幼虫はエノキの枝から頭を下にぶら下がっていた。前蛹になっていたのである。これに気が付いてからもずいぶん時間がかかったが、二匹のうち一匹については、その後前蛹が脱皮し、蛹になるまでを何とか3D撮影することができた。30倍のタイムラプスで撮影した様子を次にご覧いただく。


オオムラサキの蛹化(2015.7.12 8:13~9:56 撮影)

 蛹化した直後は翡翠のようにみずみずしく美しい緑色をしていた蛹は、次第に白っぽくなり、やがて中で羽化の準備ができてくると、腹部の色や、翅の色が透けて見えるようになってくる。この時も羽化のタイミングが判らずカメラを回し続けていたが、蛹から羽化して来る様子も撮影することができた。こちらは、リアルタイムで撮影したものを、YouTubeの機能を利用して、4倍のタイムラプスに変換したものを見ていただく。


オオムラサキの羽化(2015.7.18 14:40~14:47 撮影)

 こうして撮影した3D映像は、T氏が編集し、現在オオムラサキセンターの展示館に設置されている3DTVで視聴することができる。

 ところで、小山内龍さんの「昆虫日記」では、オオムラサキの飼育と観察の様子はどのように書かれていたか?

 まずは、オオムラサキの幼虫のエサとなるエノキの確保の話。私たちの場合、オオムラサキセンターからエノキの鉢植えごと貸し出していただいたことと、この鉢植えの木1本に1匹の幼虫という虫口密度であったので、エサの葉が足りなくなるということはなかった。しかし、私も別な幼虫の飼育で経験があるが、数十匹から百匹以上の幼虫を飼うとなると話は全く違ってくる。幼虫が孵化したばかりから3齢位まではエサの量もそれほどではなく、時々近くの山林に出かけて、食樹の枝先を切ってくると事足りる。それが4齢になり5(終)齢になると幼虫が食べる葉の量は飛躍的に増え、新鮮な葉の確保に追われることになる。

 小山内さんはオオムラサキの幼虫を最終的に40匹ほども飼育したことと、エノキは特に水揚げが悪く、山で枝先を切ってきてもすぐに萎れてしまうので、エサの確保にはとても苦労をした様子が描かれている。

 最初の2匹の幼虫を山で見つけた時の様子は次のように記されている。

 「・・・僕はこの小さい幼虫を箱に、大事に入れた。食葉もなるべく、新芽のホヤホヤを選んでカバンにつめた。僕は二匹の、オオムラサキの幼虫を遂に発見した。・・・僕の飼育箱は家庭で夏期に食物を入れるハイチョウを、そのまま使っている。この箱は上部と底部が板で、四側面はカナアミであるから、通風が非常によく、持はこびも軽くて便利だ。・・・二匹のオオムラサキは、ビンにさしたエノキの小枝にとまって、ハイチョウの中に入った。しばらく、静止していたが、そのうちに、首を左右にふりふり葉や枝へ、糸をかけながら散歩を始めた。エノキの新葉は、しおれてぐったりしている。これは、早く水あげをよくしてやらないと、枯れてしまいそうだ。三匹分ぐらい残っている小枝のクキを一本一本、たたいてくだいた。この方法は、昨年オオミズアオの食葉のハンノキを、水あげよくした経験に従ったものだ。・・・」

 「・・・翌朝、飼育箱をみたら、枝も葉もしだれ柳のように、ビンの下へ、ぶら下がっていた。幼虫は二匹とも、天井のすみに、寂しさうに、しがみついていた。これはどうもならん。食葉の水あげは、ハンノキと同様では、とうてい成功しない。今度はクキを火で焼いてみた。それを午後からビンにさして、幼虫をとまらせた。幼虫はプンとふくれたように、夕方になっても、食事をしていなかった。日が暮れてから、心配なのでもう一度眺めたら、一匹の方は、盛んに喰べていた。僕はほっと、胸をなぜた、湯殿にある予備の食葉は、しなびてカラカラになってしまった。明朝は早く起きて食葉とりにいってこないと、大変なことになる。・・・」

 「・・・僕は毎日、オオムラサキの食葉で心痛した。この木は、焼いてもたたいても、塩でもんでも、テンプラにあげても、それはじょうだんだが、あらゆる努力をしてみたが、水あげは思わしくなかった。・・・」

 「・・・まったく、オオムラサキの、食葉エノキには、ほとほと手を焼いてしまった。朝とってきた枝は、午後になると、七十婆さんの、顔のように、くちゃくちゃに、しなびてしまった。幼虫たちはこんなしなびた葉は、見向きもしない。そして、新鮮な葉を探し求めて、箱の中を彷徨している、僕はこの光景をみるたびに、胸が痛たみ、たおれそうになるとは、おおげさではあるが、ためいきがでてくる。夜、床の中で食葉について考え考え、遂に、エノキを根ごと引き抜いてくることにした。」

 そこで、著者はエノキの木を堀りに出かけ、鉢植えにしたエノキで幼虫を育て始める。

 これに自信を得たのか、著者は二匹では満足しないで更に幼虫の採集に出かけている。それは、この二匹が、寄生されていたとしたら、また無事に羽化したとしても、二匹共雄であったり、雌であったりしたんでは面白くいないとおもったからだという。

 雑木林で更に十一匹の幼虫を採集して、次のように書いている。

 「・・・僕は遂に、日本特産であり、タテハ蝶科の最大型であり、最美麗種であるオオムラサキの幼虫を、十三匹飼育することになった。それだけにまったく気苦労は、筆舌しがたいものがあった。・・・」
 
 ところが、この鉢植えのエノキも結局はうまく根付かず、またエノキの枝を探し求めることとなった。そして、最終的にはご近所のSさんの庭にあるエノキの木の一枝を借りて、そこに幼虫を移し、その上から捕虫網を被せることになる。一枝の葉を食べつくしたら、順次別の枝に移していった。

 食葉の確保に意を強くした著者は、更に幼虫採集に出かけ、十五匹の幼虫を発見し、別の日にさらに十数匹を加えた結果、四十匹近くを飼育することになった。この間に、一部の幼虫は蛹になっていった。著者がこうして苦労をしながらオオムラサキの幼虫を飼育し、成長の様子を観察し次のように書き記している。

 「・・・この幼虫の葉上のお話は、これまで飼育した幼虫になかった規律のようなものがある。それはこの幼虫が葉上生活をする時、一定の間だけ住む一枝の葉を選定する。その選定した葉上に、相当メンミツに、口から糸を出しかけて足場をつくるのだ。幼虫はその葉上に、一定の間--すなわち、二、三日ないしは四、五日ぐらい生活している。面白いことに、食事の時は、その選定葉上から去って、小枝をのぼったりくだったり、気に入った食葉を探し求めて、相当歩きまわって、やがて食事が終わるとおどろくほどの正確さで、元の選定葉上にかえってくる。・・・」 

 これは、エノキの鉢植えを使っていた時の記述である。

 幼虫の蛹化の様子については、次のように記している。

 「・・・Sさんの庭へ行って、十一匹の幼虫の網をのぞいたら、二匹の幼虫は前蛹体になっていた。・・・尾端を付着するところは、特に綿密に糸をかけて、幼虫は頭部を下に、尾端を上に静止していた。・・・」(筆者注:注意深く読んでこられた方は、幼虫が二匹減っていることに、気づかれると思うが、これは捕虫網から二匹の幼虫が脱走したからである。)

 この前蛹を枝から切り離し、自宅に持ち帰って飼育箱に入れて詳しく観察し、次のように書いている。

 「・・・一匹のオオムラサキの前蛹は、午後になって、全身を徐々に波うたせてきた。鮮緑色で水々しかった。四対の突起は、いつのまにか小さくしなびて、黄色になっていた。尾端は細くなって、頭部やや後方が肥大している。幼虫は頭部を、最前あしにくっつくほど、ちじめて、時々微動をした。頭部の角状突起は、前蛹以前の色彩も、消滅して角状内部が、空洞になっているさまが、はっきり見える。全体を波うたせながら、徐々に外皮は、白色のコジワがより、この蛹化運動を開始して、四時間半で、頭部の外皮が、二ツに分裂して、光沢のある鮮緑色の、蛹化外皮が現れてきた。それからみるみるうちに、幼虫体の外皮は、尾部を激しく左右に振って、少しこの運動をつづけると、完全に幼虫外皮は脱落してしまった。この間五分くらいであった。その後もこの運動を、蛹は繰返していたが、間もなくいったん静止して、今度は蛹体を、下部へ何度もうごかした。この運動を十数回ほど繰返したら、ゴマダラの蛹とよくにた型の蛹になった。大きさはゴマダラよりもはるかに大きい。・・・」

 そして、次に羽化の様子である。

 「・・・飼育箱をのぞいたら、最初に蛹化したオオムラサキの蛹が、黒ずんできて、翅の形が見えている。・・・六月十一日午後三時二十七分弱、この時間に遂に待望のオオムラサキの雄は、世紀の騎士のような、ケンランたる姿を現した。蝶は抜け出た蛹体に、しっかりと、中脚と後脚とでぶらさがっている。徐々にのびた四枚の翅は、その裏面がやや黄緑色だ。前翅上方は、表翅の紫部が、裏へにじみ出たように黒くなって、その中に黄緑色の斑点が見える。後翅の裏面は内側に一点紅色の斑点が、表からとおったように出ていた。」

 実に詳しい記述で、手に取るようにわかるが、私の撮影した映像と合わせ見ていただければと思う。

 著者はこうした昆虫の飼育を始めた理由を、この「昆虫日記」冒頭に次のように書いている。

 「ある製菓会社が、少年少女へ自然科学普及のために、キャラメルの内箱へ昆虫マンガを入れることになった。岡本一平氏や石井悌博士が指導者になって、十数名の若いマンガ家が動員された。僕もそのうちの一人に参加したのだった。
 参加しても、本来昆虫が好きでなければ、その仕事だけを参考書によってやっていたであろうが、それだけでは物足りなさを感じた。生きている昆虫をみなければ心がおさまらなかった。そうした理由から野山へ採集にゆくようになった。」

 著者はファーブル昆虫記のことは、知ってはいたが読んだことがないと本の中で書いている。一方、この「昆虫放談」は手塚治虫や北杜夫にも影響を与えたようである。  

 1978年発行の「昆虫放談」の帯には北杜夫が寄せた次のような文章がある。

 「もし文学に『懐しのメロディ』といったものがあったら、『昆虫放談』は私にとってまさしくそういう本である。小学校六年から中学にかけて繰返し読んだ。いっぱしの昆虫マニアであった私は、その当時、まだギフチョウもオオムラサキも採集していなかったので、羨ましくてたまらなかった。
 この本はけっして虫好きのためのものばかりでなく、その語り口がなんとも愉しい。しかもオオムラサキを幼虫から飼育するくだりが、下手な小説やエッセイよりよほどおもしろい。子供から大人まで、本書を読んで思わず笑わぬ人はおらぬはずだし、しかも何物かを与えてくれる本といえる。」

 最後に、著者のことについては、冒頭に紹介した近藤日出造氏の文には若干の勘違いがあるようなので、ここで訂正しておくと、著者小山内龍(本名澤田鉄三郎)氏が亡くなったのは、戦争中ではなく、戦後の昭和21年11月1日、42歳であった。また、小山内氏はエッセイの「昆虫放談」のほかに小説「黒い貨物船」を執筆しているし、著名な絵本に「山カラキタクマサン」「一茶絵本」などがある。


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「和紙の里」と「ともしび博物館」

2018-07-20 00:00:00 | 日記
 今年始めた店で使用する商品包装用の紙に、近隣で作られている和紙を使おうとの妻の発案で、上田市の郊外で和紙を製造・販売している「信州立岩和紙の里」に出かけた。今回で、2回目である。
 
 ここでは、次の説明板にも書かれているとおり、和紙製造技術の保存・伝承を行うとともに、今はこうした施設も少なくなったこともあって、関東方面からの体験学習の学生・生徒も多く受け入れている。


信州立岩和紙の里の説明パネル(2018.6.5 撮影)

 この日も実習室には多くの生徒の姿が見られたし、施設の外にはずらりと、この日の前に体験学習に来た生徒たちが作っていった「うちわ」が天日干されていた。
 

施設の前庭には実習に訪れた生徒たちが作った「うちわ」が干されていた(2018.6.5 撮影)

 和紙の元となる材料は、よく知られているとおり「コウゾ」「ミツマタ」である。そのコウゾが施設の庭やその周辺に植えられていたが、名前は聞き知っていたものの、実際に見るのは初めてのことであった。


和紙の原料の一つ「コウゾ」(2018.6.5 撮影)
 
 目的の和紙を買ってさて帰ろうとしていたところ、話好きのここの施設長さんと思しき方が、和紙とこの施設の現状についていろいろと話を聞かせてくださり、最後に、近くに「ともしび博物館」という素晴らしい施設もあるのでぜひ見て帰ってくださいと言われたので、それではと立ち寄ることにした。

 その「ともしび博物館」は「和紙の里」から車で5分程度のところにあったが、平日でもあり我々のほかに見学者もなく静まり返っていた。


ともしび博物館の入り口(2018.6.5 撮影)

 場所は上田市武石(たけし)にあるが、旧武石村の村制施行百周年を記念して、平成元年11月3日に開館したもので、展示品の灯火器具や、関連する版画・図書などは千数百点に及ぶ。これらは地元の医師安藤守正氏の蒐集品であったものが、武石市に寄贈されたものとされる。


展示品を寄贈した安藤守正氏の顕彰碑(2018.6.5 撮影)

 博物館は、体験館、伝承館、展示館からなり、広い敷地内に次のようにゆったりと配置され、これらが、中央部にあり樹木や池を配した高低のある美しい日本庭園の周りに配置されているので、各建物内の展示品を庭の景色も楽しみながらゆっくりと見学することができた。


ともしび博物館の全体図(同館のパンフレットから)


施設の前庭に設けられていた古いガス灯(2018.6.5 撮影)

 当日は他に見学者もいなかったこともあって、順路最初の体験館では女性館員から勧められ、ともしびの原点でもある「火」を「火きり式」と「火打式」で熾(おこ)す体験を妻と二人でさせていただいた。

 「火きり」とは写真のような木製の「舞いぎり」を用いるもので、弾みをつけながらハンドル部を上下させてこれと糸で結ばれているコマを回転させ、先端部のキリの摩擦熱で窪みにたまる木クズに種火をつけ、これを燃えやすい「付木(つけぎ;マツやヒノキを薄く削ったもので、先端に硫黄が塗られている)」に移しとる方法である。3分ほど「舞いぎり」を回転させていると、加熱された窪みから煙が立ち始め、やがて火がついた木くずが、はね飛び始める。息を吹きかけて火種を大きくして、付木を近づけると勢いよく燃え上がる。ちょっと骨の折れる作業であった。


台の上の木に設けられた窪みにキリの先端を合わせ、ハンドルを上下させてキリを回転させる(2018.6.5 撮影)


2-3分で窪み部が加熱され、着火した木屑が飛び始める(2018.6.5 撮影)


息を吹きかけて種火を大きくし、その火を燃えやすい付木に移しとる(2018.6.5 撮影)


付木が勢いよく燃え始める(2018.6.5 撮影)

 一方、もうひとつの「火打式」は鉄片を埋め込んだ木を片手に持ち、この鉄片めがけて火打石を打ち付けると、衝撃で熱せられ、剥がれた鉄の破片が下で受けている炭化した綿(火口:ほぐち)に落ちてこれに火がつくというものである。2、3度火打石を鉄片に打ち付けるとすぐに炭化綿に火がついた。こちらは意外なほど簡単なものであった。


木に埋め込んだ鉄片に火打石を打ちつける(2018.6.5 撮影)


加熱された鉄片が飛んで炭化綿(ほぐち)に燃え移る(2018.6.5 撮影)


火がついた炭化綿の種火を付木に移す(2018.6.5 撮影)
 
 小学生に戻った気分で火熾しを体験してから、この体験館に展示されている日本の古いともしびの器具を、館員から説明を受けながら見学した。室内の照明を消してこれら古い時代のともしびを点けて、その明るさの程度を実感したが、ほんとうに暗い。


灯台〔とうだい〕 動植物の灯油を入れた火皿をのせて火をともした。平安時代以降。(2018.6.5 撮影)

 ”とうだいもと暗し”という言葉があるが、それはこの灯台の基部を指しているとのこと。船を誘導するため海岸にあるあの灯台ではなかった。


行灯〔あんどん〕 火が風で消えないよう、火皿を木と紙で作った火袋(ひぶくろ)で覆った。室町時代以降。 (2018.6.5 撮影)


燭台〔しょくだい〕 和ろうそくをさして火をともした。室町時代以降。(2018.6.5 撮影)


ランプ 石油を燃料に使い、ガラス製の火袋が使われ始めた。江戸時代後期から。(2018.6.5 撮影)

 この後は体験館をいったん出て、別棟の展示館に移動し、過去から現代に至るともしびの歴史を示す展示品を2人で自由に見て廻った。


施設中央部の樹木や池を配した高低のある美しい日本庭園(2018.6.5 撮影)

 ともしびといえば、ラスコー展(2017.3.10 公開の本ブログ)で見た石のランプを思い出す。それは石を削って窪みをつけたところに油を入れ、そこに乾いたコケをよって作られたといわれている灯心を入れたものであった。北京原人も焚き火をしていたとされているが、歴史に登場する最初のランプはクロマニヨン人がフランスの洞窟で石灰岩の天井に、野牛などの絵を描くのに用いたこの石のランプであるとされる。

 それ以来2万数千年にわたり、人類がともしびとして用いたものは、かがり火やたいまつとして用いた木材、ランプとして用いた獣脂や植物から得た油、そしてろうそくに用いた油脂・蝋などであって、現在我々がふんだんに使用できる電気による照明が発明されたのは1870年代、今から僅か150年程度前ということになるが、そのともしびの歴史をたどることの出来る多くの品々が、その時々の様子を示す版画と共に展示されていた。


行灯に火をともす明治時代の女性を描いた版画(2018.6.5 撮影)


ランプの明かりで生活する明治時代の様子を描いた版画(2018.6.5 撮影)

 灯台によく似たものに、短檠(たんけい)という竿と台座部が角型の灯火器があるが、その一つに、考案者や時代は不詳であるが、古来から大和長谷寺の寺宝とされている「ねずみ短檠」というものがある。

 これは、竿の上部にねずみをかたどった油容器が設けられたもので、この容器に入る空気圧の作用でねずみの口から油がしたたり、火皿に油が供給され、一定のあかりを長時間持続させることができるもので、これが江戸時代に趣味人の興味をひいて模造品が作られた。


ねずみ短檠(たんけい)の実物と、その原理を示すガラス模型(2018.6.5 撮影)

 これがヒントになったのか、江戸末期には「無尽灯」が奥村菅次、田中重久、大隅源助、大野弁吉などにより考案された。これは、当時の種油は石油に比べて粘度が高く、芯を伝わって油が上昇しなかったため工夫されたもので、それぞれ機構は異なるが、いずれもできるだけ安定した光が得られるよう工夫を凝らしたものであった。

 ここで名前が出てきた田中重久は「からくり儀右衛門」という名前の方が有名だが、オランダから伝わった空気銃の原理を応用してこの無尽灯の発明に成功した。ポンプの操作によりできた圧搾空気で油を火口に押し上げるしくみになっている。その他多くの発明品の製作を経て、明治初年、現在の東芝の前身である電信機工場を銀座に設けた。


無尽灯(ともしび博物館の絵葉書から)

 このころから、日本の「ともしび」は「あかり」として一気に発展の道を歩むことになり、石油ランプ(1860年渡来)、ガス灯(1872年)、エジソンのカーボン電球(1879年)、銀座にアーク灯点灯(1882年)、白熱電球国産化(1889年)、白熱ガスマントルランプ(1896年)、アセチレンガス灯(1897年)と多くの照明技術が競い合ったが、やがて電灯の時代へと収束していった。

 日本でタングステン電球の生産が始まったのは1909年(明治42年)とされている。その後1935年にはドイツで蛍光灯が発明され、2014年には青色LEDの開発で日本の3人の研究者がノーベル物理学賞を受賞した。現代はあかりが急速にLEDの時代に変わろうとしている。

 以下、展示品の写真をいくつか見ていただく。


展示品の様子(2018.6.5 撮影)


ヒッチコックランプ(2018.6.5 撮影)

 この面白い名前のヒッチコックランプとは、油つぼの下に、「ねじ」と「ぜんまい」と「歯車」を取り付け、これでファンを回し、空気を絶えずバーナーに供給し燃焼を助けるように工夫したもの。


上野・不忍池の周囲に設けられたガス灯を描いた版画(2018.6.5 撮影)


ガラスを用いた6角形吊り灯器(2018.6.5 撮影)


エングレーヴィング(彫刻)が施されたガラス製のホヤ(2018.6.5 撮影)


明治時代のガス灯 石炭ガスが用いられ、主に都市部で普及した。当初は裸であったが、のちにガスマントルが用いられ、光が安定し、明るさも増加した (2018.6.5 撮影)


明治時代の電灯 マツダランプと思われる(2018.6.5 撮影)


近代のマツダ電球の広告など(2018.6.5 撮影)


「マツダ」ランプの広告(ウィキペディア「マツダ」2018.5.6(日)21:26 より)

 「マツダ」は日本の電球の名前かと思っていたが、アメリカの会社の製品名であった。日本ではライセンス生産が行われた。ちなみに、自動車のマツダとは無関係とのこと。


美しいガラスの傘をもつ卓上電灯 台座には陶製日本人形を置く。電球はマツダ電球が使われている。(2018.6.5 撮影)

完。


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山野で見た蝶(2) イチモンジセセリ

2018-07-13 00:00:00 | 
 今回はイチモンジセセリ。前翅長15~21mmの小型の蝶。翅表は茶褐色、裏面は黄褐色で、表裏ともに白い斑点がある。後翅の表・裏にある4つの白斑が、直線上に並ぶのが本種の特徴で、他種との区別はこれにより行える。

 よく似た種には、オオチャバネセセリ、ミヤマチャバネセセリ、チャバネセセリなどがいるが、オオチャバネセセリでは後翅の表・裏の白班は4~5つがジグザグに並ぶことで、ミヤマチャバネセセリでは4つの白斑のほかに、後翅裏中央に大きく明瞭な白斑があるところで、チャバネセセリの場合は4つの白斑は小さく弧状にならぶ特徴があることからそれぞれ区別される。
 
 食草は、イネ、イヌムギ、チガヤ、エノコログサ、メヒシバ、ススキなどの各種のイネ科植物であり、このことからイネの害虫とされるが、一方でいつもの古い図鑑「原色日本蝶類図鑑」(1964年 保育社発行)には次のような記述もあり、興味深い。

 「・・・本州・四国・九州にはきわめて饒産し、俗に『はまきむし』『がじむし』『つとむし』『はまぐりむし』として知られ、稲を害するにもかかわらず、この大発生が豊年と一致する場合が多く『豊年虫』の名もあって、多照高温が本種の発生にも適応する関係と思われる。・・・」 

 軽井沢では前出の4種のなかでイチモンジセセリの数が一番多く、夏の終わりから秋にかけて爆発的に増える。本州の暖地では、5~6月に第一回目が少数羽化、7月に第二回目、8~9月に移動個体を生じる3回目が現れるとされるが、軽井沢で見られる個体は、これら南方からの移動個体やその増殖世代と考えられている。

 越冬は3~4齢の中齢とされるが、長野県での越冬に関する記録は無く、越冬の可能性については疑問視されている。
 
 「庭にきた蝶」のシリーズで紹介すべきであったが、なぜかこのイチモンジセセリのことを書き忘れていた。庭のブッドレアにも吸蜜に来ていたし、軽井沢のあちらこちらで普通に見かける種である。

 このセセリチョウの仲間は何とも地味で、下手をすると蛾に間違えられる種である。肉眼で見ていたのではなかなか判らないが、改めて写真をみると、大きな黒い目と毛むくじゃらの体はぬいぐるみのようで、なかなか愛嬌がある。


庭のブッドレアで吸蜜するイチモンジセセリ (20170818 撮影)


ミソハギで吸蜜するイチモンジセセリ (20150912 撮影)


ニラの花にとまるイチモンジセセリ (20170909 撮影)


庭のブッドレアで吸蜜するイチモンジセセリ (20170818 撮影)


ミソハギの花に吸蜜に訪れたイチモンジセセリ (20150902 撮影)


クジャクソウで吸蜜するイチモンジセセリ (20150902 撮影)


庭のブッドレアで吸蜜するイチモンジセセリ (20170818 撮影)


ミソハギで吸蜜するイチモンジセセリ (20150902 撮影)


マツムシソウで吸蜜するイチモンジセセリ (20150902 撮影)


庭のモミの木の葉上で休憩するイチモンジセセリ (20170930 撮影)


庭のブッドレアで吸蜜するイチモンジセセリ (20170818 撮影)


庭のハナトラノオで吸蜜するイチモンジセセリ (20150902 撮影)


ミソハギで吸蜜するイチモンジセセリ (20150902 撮影)


庭の日本ハッカで吸蜜するイチモンジセセリ (20170818 撮影)

 上で、夏の終わりから秋になると、イチモンジセセリの数が爆発的に増えると書いたが、その様子は次のようなものである。2枚目の写真中には、判りづらいが数えられるものだけで14頭は確認できる(赤丸で囲んでいる)。


ミソハギの花に集まるイチモンジセセリ (20150902 撮影)


クジャクソウに群がるイチモンジセセリ (20150902 撮影)

 イチモンジセセリはアサギマダラと同様、渡りをする蝶としても有名である。いつもの「原色日本蝶類図鑑」(1964年 保育社発行)のイチモンジセセリの項の冒頭は次のように始まる。

 「都市の上空を幾万ともしれず群飛し、ある時は海峡を渡って移動する記録は近年幾度か繰り返され話題をにぎわしている蝶である。」

 そして、「海をわたる蝶」(日浦 勇 著、1973年蒼樹書房発行)には大阪自然史博物館に勤務していた著者が経験した、奈良県御所(ごせ)市にある葛城山でのイチモンジセセリの移動の様子が紹介されている。

 「(1969年8月27日)午前11時頃、高校生の牛島君が、『イチモンジセセリが移動していますよ』という。なるほど、小さな目立たぬ色合いの蝶が、一匹また一匹と麓から飛んできては、葛城山の山頂の方向に飛んでゆく。よし、勘定してみよう・・・
 翌朝8時頃飯を食っていると、また牛島君が飛び込んできた。『先生、イチモンジセセリが、今度はすごい数ですよ』。なるほど昨日とは桁違いの移動である。9時頃にはピークになり、1分間に可視範囲を横切る蝶の数は500匹を優に越えている。どう表現したらいいであろうか、あるものは低く、露にぬれた草すれすれに、あるものは高く3mほどの所を、波打つようにリズミカルに、西へ西へと飛んでゆく。・・・山頂草原一帯がイチモンジセセリの群れでおおわれているのである。・・・いったい、どれだけの蝶が葛城山を越えて奈良側から大阪側へ移動したであろうか。・・・
 第一日目は(計算すると)21,600匹という値になる。第二日は、実に36万匹という莫大な数である。1969年8月27日、28日のことであった。」

 このころはまだ、日本での蝶の渡りの実態調査は行われておらず、目の前を移動してゆく蝶がどこまで飛んでゆくものか分かっていなかったので、この本の中で、著者は「(イチモンジセセリの移動は)中国大陸までわたるのか、それとも黄海の波に呑まれてしまうのか今のところまったく分からない。」としている。

 その後、日浦 勇氏をリーダーとして中筋房夫、石井 実氏らがイチモンジセセリの渡りの研究に本格的に取り組み、その結果をまとめ、「蝶、海へ還る」(中筋房夫、石井 実 共著、1988年 冬樹社発行)として出版した。ここには、それまでのイチモンジセセリの移動に関する目撃情報が次のようにまとめられている。

 「観察記録の第一号は、明治23年(1890年)8月23日に、”昆虫翁”と自称していた日本昆虫学黎明期の学者名和靖が見た岐阜県下での移動報告である。」

 「昭和5年(1930年)8月21日午前11時頃、大阪市の東方より西方に向かって、イチモンジセセリの大群が急に来襲し、大阪府庁を初め付近の官庁会社の窓より室内に侵入して、事務を妨げ、街上には走車行人と衝突して落下したる屍累々たり。一時は大騒ぎであったが、大勢は暫時北西方の空に向けて飛び去った。・・・(中略)・・・又同日午前九時頃、滋賀県石山駅の上空をこの蝶の大群が湖を横切って北より南へ飛ぶのを見たと云う通知があった。どれも同じ日、同じ蝶であったと云う事が、双方連絡しあったものではなかろうかと疑われる。何れにしても、面白い現象だった。因みに同日は曇天にして、時々気温低下して所によっては雷雨もありたる様なり。その後、8月25日にも、大阪府岸和田市地方にても、イチモンジセセリの群集移動ありたる由・・・(戸沢信義により当時の『ゼフィルス』という雑誌に掲載された記述)」

 「1947年。島根大学教授近木英哉は、大阪淀屋橋で遭遇したこの蝶の群を、『顔にぶつかって目も口も開けられないほどであった』と表現している」

 「これまでに観察されたうちで、もっとも大きな群は、1952年9月2日に神奈川県松田上空を通過したものである。群の大きさは長さ12キロメートル、幅5キロメートル、厚さ9.5メートルで、推定約18億匹のイチモンジセセリが南方向へと移動していったとされる。」

 1967年8月24日付け毎日新聞大阪版夕刊記事として、「二十四日朝、小さなチョウ(イチモンジセセリ)の大群が大阪の空を東から西に向けて飛び、人々をびっくりさせた。/同日朝七時頃、大阪の東の空から現れ、地上数メートルから二十メートルほどの高さを時速六十キロメートルぐらいで移動、同九時頃まで飛び続けて大阪湾方面に姿を消した。/通り道に当たった守口市から新淀川下流にかけては迷いチョウがビルの窓から飛び込んだり電車の窓に当たったり時ならぬ虫騒ぎ・・・」

 もっとも古い記録として、『吾妻鏡』の第39に記載の次の文も紹介されている。
 「宝治2年9月小(1248年)7日、辛亥、黄蝶飛行す。由比の浦より鶴岡宮寺ならびに右大将家の法花堂に至るまで群れ亘ると云々・・・19日、発亥、未甲両時の間、黄蝶群れ飛び、三浦三崎の方より名越辺に出で来る。その群集の幅三許段(約300m)と云々・・」

 イチモンジセセリの移動に関しては、随分古くから人々に目撃されていたことがわかる。 さて、イチモンジセセリの渡りの実態調査であるが、移動の実態を正確に把握する一番の方法はマーキングである。後年になって、アサギマダラなどで成功している方法であるが、イチモンジセセリの場合はサイズが小さく、アサギマダラの場合のように詳細な情報を書き込むスペースも無い。また再捕獲の確率を考えると、膨大な数のサンプルが必要になる。

 マーキングによる追跡調査も実施されているが、この研究当時は協力者の数も限られ、十分なサンプルを確保するまでには至らなかったようである。しかし、僅かながら再捕獲もされた。

 その結果、イチモンジセセリの渡りは、成虫になったその日一日だけ2-3時間継続する程度に過ぎないとされ、オオカバマダラやアサギマダラの壮大な渡りとは比べものにならない短い距離で、中途半端な旅とされた。距離にして約100kmぐらいしか飛んでいない。詳細は本に譲るとして、この本の「あとがき」には次のような記述があって、調査がいかに困難であったかを物語っている。

 「・・・独断と偏見をもかえりみず中筋が渡りの謎解きを試みた。いかにも謎が解けたような楽観的な書き方がされているが、それは中筋の一人よがりにすぎず実のところはまだ何も分かっていないのである。・・・」

 この研究チームのリーダー役とされた大阪市立自然史博物館の日浦勇氏は調査開始後間もなく「突然冥土へ旅立った」ことが、この本に記されているが、同博物館ではその後も継続的にイチモンジセセリの渡り研究を継続しているもようで、現在の(2017年7月現在)状況を展示内容からもうかがい知る事が出来る。

 以前、大阪市立自然史博物館の紹介(2017.8.11 公開)で、このイチモンジセセリの移動調査に触れたが、再度その写真を掲載して本稿を終える。


第3展示室のイチモンジセセリなどの渡りの説明展示・「秋に南へ移動する蝶」(2017.7.19 撮影)


第3展示室のイチモンジセセリなどの渡りの説明展示・「伊良湖岬とイチモンジセセリ」(2017.7.19 撮影)


第3展示室のイチモンジセセリなどの渡りの説明展示・「イチモンジセセリの生活」(2017.7.19 撮影)


第3展示室のイチモンジセセリなどの渡りの説明展示・「イチモンジセセリとチャバネセセリの地理的分布」(2017.7.19 撮影)


大和葛城山でのイチモンジセセリの捕獲とマーキングの様子を紹介するビデオ(2017.7.19 撮影)


後翅の白い文様を油性ペンで塗りつぶしてマーキングをしたイチモンジセセリのビデオ(2017.7.19 撮影)




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ガラスの話(7)ちょっと横道に

2018-07-06 00:00:00 | ガラス
 ガラスを構造面で見れば非晶質、原子配列に(長距離)規則性のないランダム配列を持つ物質ということになる。

 物質は、気体、液体、固体に分けることができるが、気体、液体中の原子・分子の配列はランダムであり、規則的な原子配列は固体の特徴である。

 ガラスは固体でありながら、規則的な原子配列を持たず、液体状態の原子配列を保ったまま固体化したものといえ、規則配列を持つ結晶の対極にあるといえる。
 
 さて今回は、ちょっと横道にそれるが、そのガラスと結晶の間に見つかったもう一つの個体、1984年にイスラエルの金属学者ダニエル・シェヒトマン(Daniel Shechtman, 1941.1.24- )によって発見された準結晶についてのお話。

 規則配列は、固体の特徴と書いたが、実際には液体の中にも、固体結晶に匹敵するような高度の規則配列を持つ物質があり、液晶と呼ばれている。 

 液晶には、その規則性の程度に応じて、ネマティック液晶、スメクティック液晶、コレステリック液晶の3種があるが、現在我々の周辺に溢れている液晶ディスプレイ(LCD)はこのうちの、ネマティック液晶が持つ規則的な配列のある性質を利用したものである。

 液晶は、準結晶よりもずいぶん早く、1888年にオーストリアの植物学者フリードリッヒ・ライニッツァ-(Friedrich Reinitzer, 1857.2.25-1927.2.16)によって発見されていたが、実用的な開発が進められたのは第二次大戦後になってからであった。

 そして、この液晶研究関連では、1991年のノーベル物理学賞が、フランスのピエール=ジル・ド・ジェンヌ(Pierre-Gilles de Gennes, 1932.10.24-2007.5.18 )に授与された。

 その理由は「単純な系の秩序現象を研究するために開発された手法が、より複雑な物質、特に液晶や高分子の研究にも一般化され得ることの発見」とされている。

 本題の準結晶に戻るが、先ずペンローズにより見出された「ペンローズタイル」について触れておく必要がある。

 少し前(2018.6.8 公開)に、エッシャーの版画を紹介し、その時に「滝」などの3次元の成立不能図形が、イギリスの数学者、宇宙物理学・理論物理学者ペンローズ(Sir Roger Penrose, 1931.8.8- )が発見した「ペンローズの三角形」をヒントにしたものであったことに触れた。 

 このとき示したエッシャーのもう一つの作品「メタモルフォーゼ」に代表される2次元の不思議なタイリングパターンについては、ペンローズが発見したもう一つの図形「ペンローズタイル」との関係があったとされている。
 
 ペンローズは二次元平面を埋め尽くす5回対称図形を考案したが、それがこの「ペンローズタイル」である。

 1種類の正多角形を用いて平面充填が可能になるのは、正三角形、正四角形(正方形)、正六角形の3種に限られ、正五角形は図のように、平面を埋め尽くすことができない。このことは、古くアルキメデスにより数学的に証明されている。


正多角形による平面充填

 また、正三角形、正方形、正六角形で実現した平面充填パターンは、並進対称性、すなわち充填図形を一定の方向にずらした場合に、元の図形と一致する性質を持つ。


正多角形の充填図形が示す並進対称性

 これらの図形にはもうひとつの対称性、回転対称性があり、正三角形、正方形、正六角形による充填図形には、図形面に垂直な軸の周りに、それぞれ120°、90°、60°回転させた場合に、元の図形と一致する性質をもち、それぞれ3回対称、4回対称、6回対称と呼ばれる。

 ところで、正五角形はどうかというと、平面充填ができず、並進対称性はないが、次図のように配列させた正五角形は、5回対称性を持つことがわかる。


正多角形からなる充填図形が示す回転対称性

 「ペンローズタイル」はこの5回対称性を持ち、平面充填が可能な図形を2種類の菱形を用いて実現したものである。


ペンローズタイルを構成する2種類の菱形

 この鋭角が72°と36°の2種類の菱形からなるペンローズタイルのパーツを、図の矢印の色と方向が一致するように厳密につなぎ合わせるというルールで平面充填させたものがペンローズタイルと呼ばれているパターンである。


ペンローズタイル

 この図から判るように、ペンローズタイルは5回対称性をもち、中心から外に向かって無限に広がるパターンであり、並進対称(周期)性は持たない。ただし、厳密な並進周期姓はないものの完全なランダム配列でもなく、周期構造に近い構造すなわち「準周期構造」を持っていることが明らかにされている。

 前記の厳密なつなぎ合わせの条件をはずすと、この2種類の菱形を用いて平面充填をさせうる配置の組み合わせは、無限に存在する。たとえば、図中に「a」で示した正10角形は、中心軸の周りに回転させうるが、これにより、異なる配列パターンができる。同様の正10角形は、この図を外に向かって拡大していくと、その図形中に無数に存在していることから前記のことが理解される。

 このペンローズパターンは、当初は単に興味深い平面充填パターンとして関心をもたれていただけであったが、後に発見された準結晶が、このペンローズパターンどおりの原子配置を持つことが判り、にわかに注目されるようになった。

 準結晶は、液体状態から急冷したAlとMnの合金から発見された。初期のこの準結晶は不安定で、加熱するとより安定な結晶相が析出していたが、やがて安定な準結晶が続々と発見されている。

 2011年には、最初にこの準結晶を発見したダニエル・シェヒトマンにノーベル化学賞が授与された。

 ペンローズパターンは2次元の非周期性の平面充填構造であるが、実際の3次元準結晶ではどのような原子配列になっているのか興味あるところである。

 シェヒトマンにより発見された準結晶の電子線回折図形は、結晶の回折図形のような回折スポットの集合であるにも関わらず、2回、3回の回転対称性に加え、結晶には存在しない5回対称性を示し、正20面体の持つ対称性を有していた。

 その後に発見された準結晶Al-Ni-Co系などには、正10角柱と同じ対称性をもつ準結晶相も存在する。この準格子は2次元ペンローズパターンであり、この面が積層した構造をもつとされる。この場合、平面方向には準周期構造、これと垂直な軸方向には周期構造を有している。このほか、8角形相、12角形相の準結晶が見つかっている。

 準結晶に特有の物性といったものはどうだろうか。金属元素から構成されたものとしては異常に高い電気抵抗があげられている。例えば、アルミニウム、銅、鉄は単体ではいずれも良導体であるが、これらからなる準結晶Al-Cu-Feでは電気抵抗が10万倍にも達し、周期構造の欠如が原因と考えられている。また、準結晶は、その非周期性のためへき開を形成し難く、このため比較的硬くて強靭である。それに、テフロン並みに低い表面エネルギーのものが見つかっていて、Al-Fe-Cu準結晶はフライパンのコーティング材として使用されているという。

 これまで得られている準結晶は人工的に作られたものであるが、熱力学的に安定な平衡状態にあるとすれば、自然には存在しないものだろうかという疑問が沸く。

 この点については、2016年に、宇宙からやってきた隕石中から準結晶が見つかったとの報告がされている。イタリア、フローレンス大学の地質学者Luca Bindi博士らのチームが極東ロシアのハトゥイルカ地方に5年前に落ちた隕石の破片の中に、数ミクロンの準結晶構造を見つけている。
 
 この隕石の内部に準結晶構造が見つかったのは3度目のことであった。この準結晶もアルミニウム、銅、鉄の原子から構成されており、5回対称の構造を持っているとされる。

 今年に入って、名古屋大学は2018年1月20日、豊田工業大学、東北大学、豊田理化学研究所との共同研究により、超伝導になる準結晶を世界に先駆けて発見したと発表した。この研究は、磁石や超伝導をもたらす「電子の長距離秩序」が準結晶では本質的に不在なのかを解明することを目的として行われ、Al、Zn、Mg の3元素を組み合わせ、高速急冷法により準結晶を合成し行われたものであった。

 ペンローズは数学者であり、理論・宇宙物理学者でもある。米国の同じ理論・宇宙物理学者のリサ・ランドール(Lisa Randall、1962.6.18- )はペンローズタイプの準結晶の構造をとりあげて、その著書「ワープする宇宙・5次元時空の謎を解く」(原題 Warped Passages, 向山信治監訳 塩原通緒訳、2007年 NHK出版発行)の中で次のように述べている。

 「余剰次元-(筆者注:われわれが存在している三次元空間とは別の次元のこと)-の痕跡が、あなたの台所にも隠れているかもしれない--と言ったら驚くだろうか。それは『準結晶』でコーティングした焦げつかないフライパンである。準結晶というのは不思議な構造で、その根本的な秩序は余剰次元でしか解明されない。ふつうの結晶は、原子や分子がきわめて対称的な格子状になって一定の基本配列で繰り返し並んでいる。三次元で結晶がどんな構造を形成するかはわかっているし、どんな並びがありうるかもわかっている。しかし準結晶における原子と分子の配列は、その並びのいずれとも合致しないのだ。
 準結晶の並びの一例が、図2(筆者注:ペンローズタイルの図が示されている)である。ここには結晶に見られる厳密な規則性が欠けている。普通の結晶ならば、もっと方眼紙のマス目のようなものに見えるはずだ。この奇妙な物質の分子の並びを説明する最もエレガントな方法は、これを高次元の結晶構造の射影-三次元の影のようなもの-と見ることである。つまり、その並びは高次元空間での対称性をうちに秘めているのである。三次元においてはまったく不可解に見えた配列も、高次元世界においては秩序のとれた構造になる。準結晶でコーティングされたフライパンは、そのコーティングのなかの高次元結晶の射影と、もっとありふれた通常の三次元の食材との構造的な違いを利用しているわけだ。原子の配列が違うから、それぞれの原子が互いに結合することがない。これは余剰次元が実際に存在していて、いくつかの観測可能な物理現象を説明できることを強く示唆するものである。」

 にわかに理解しがたい話であるが、どのように考えればいいのだろうか。数学者ペンローズが2次元平面における5回対称性を実現させるために考案したペンローズタイルは、準結晶の発見を通して、5次元空間との関連性を示し、宇宙物理学者ペンローズの元へと戻ってきた。あたかも、エッシャーのメタモルフォーゼの循環を見ている思いがする。



 
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