軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

5周年

2021-07-30 00:00:00 | 日記
 小学生のころから写真が趣味であったことと、後年、仕事で3D関連の製品開発に携わったことから、3D写真を交えながら、遠隔地の友人・知人そして日頃疎遠になりがちな親類の皆さんに当地での生活を伝える目的で2016年に始めたこのブログであるが、今週7月27日で丸5年目を迎えた。

 ブログを始めるきっかけになったのは、大学時代の同窓生のFさんが送ってきた「軽井沢での日々を皆に伝えてはどうか」というメールの一文であった。

 同窓生は約50人いるが、大きく分けて関西に半数、関東に半数という感じで、軽井沢に住んでいる人はいないからだが、それでは、ということで、ちょうど軽井沢町主催のパソコン入門講座があったので、それを聴講してブログの書き方を学んだ。

 始めるにあたり、お手本としたのは高校・大学と一緒に過ごした I さんのデジカメ写真館(http://inada.la.coocan.jp/ 「inada's 趣味のデジカメ写真館」)と、職場の同期入社、といっても博士課程終了後の入社という方なので、3歳ほど年上のMさんのブログ(https://ameblo.jp/0731skmm/ 「松尾文化研究所」)であった。

 I さんの「写真館」は1998年5月に始まり、月2回、1日と15日に写真とコラムを掲載していたが、今年5月からはスタイルを一新、毎日「今日の一枚」として写真を載せるようになっている。毎回素晴らしい腕前の写真を見ることができる。

 Mさんのブログは2006年7月に始まり、週に2-3回のペースで、文化(=文学と化学)をテーマに高尚な記事を書いておられたが、最近はそこに写真が加わっている。

 私の掲載ペースはその中間をとって、毎週1回掲載することにし、内容は写真と動画を多用しつつ、文章も加えるようにして現在まで続けてきた。IさんもMさんも、特に自身の名前を伏せることなく書いておられるので、私もそれに倣っていて、匿名ゆえの放言にならないようにしてきた。

 さらに、お手本というにはいささか僭越であるが、とても励まされているのは、偶然その存在を知ることになったブログ「Electronic Journal」で、日刊のメールマガジンを基本としつつ、同じ内容のブログも公開されているもので、平野 浩さんという方が「さまざまな情報を四百字詰原稿用紙約7枚にまとめて配信」されているものである。Iさんと同じ頃からだが、1998年10月15日以来、営業日には毎日素晴らしい内容の記事が掲載されている。

 そんなわけで、軽井沢への移住と共に突然始めたこのブログだが、自分でも驚くことに5年が過ぎ、6年目に入った。いつも別メールで感想を送っていただいている大学時代の同窓生と職場のOB仲間の皆さんや、時には「いいね」をぽちっと押してくださる軽井沢町のブログ教室の同窓生などの励ましのお蔭と、この場を借りてお礼申し上げます。また、原稿に目を通して文章の間違いを指摘してくれている妻の励ましも大きな支えである。

 これまでの内容を振り返ると、特にテーマを意識せず、その時々の思いのままに内容を選んできたが、随分偏りがあることがわかる。特に昨年降って湧いたように世界中を巻き込んでの騒動になっている「新型コロナウイルス」に関する話題は避けて通るわけにいかず、勉強もし、情報を収集してきたこともあり、回数が多くなった。
 
 カテゴリー別に採りあげた回数を調べて見ると、日記(65)、新型コロナウイルス(57)、蝶(53)、軽井沢(35)、野鳥(27)、ガラス(25)の順である。

 当初の目的であった、軽井沢での暮らしを伝えるということからすれば、軽井沢関連情報が少ないようであるが、ここでの暮らしの中で何が起きているのかはある程度伝わっているのではないかと思う。

 当地に来てから起きたこととしては、一番大きく暮らしを変えることになったのは、アンティーク・ガラスショップを始めたことである。まったくの青天の霹靂、商売の経験もなく、長年、ガラス会社に勤務していたとはいうものの工芸ガラスの世界とは無縁であった。

 工芸ガラスについて勉強するとともに、商品の品ぞろえ、値段の付け方、店舗を借りての商品の展示、売り上げ金管理、商品の棚卸し、帳簿付けと毎年末の税務申告などなど、これまでに経験したことのない事項のオンパレードである。

 このショップ経営を通じて、新たに知ったことなども随時織り込んで話題にしてきた。

 また、2年前に、地元自治会の役員を仰せつかることになり、その役目を果たす中で、地域独自の伝統行事への参加があったり、関係者とのお付き合いの機会も増えた。
 まだ、よく判らないことも多いので、ブログで取り上げるまでには至っていないが、今後はこうしたことを通じて得た地域情報も盛り込んでいければと思っている。

 このように日々の暮らしの中からのブログの発信、なかなか忙しくもあるが充実した毎日になった。

 原稿を書いている7月26日時点でみると、開設以来の経過日数は1833日で、累計閲覧者数は290,007人になり、平均して1日に158人の方に訪問していただいていることになる。日数がちょうど5年分でないのは、ブログ教室で登録した日と、最初の記事をアップした日の差である。

 ブログの機能に、アクセス解析というものがあり、日々の閲覧者数と共にどの記事へのアクセスがあったかを教えてくれる。時々見ているが、ずいぶん前の古い記事へのアクセスも結構見られる。

 記事のアップは毎週金曜日ということにしているが、訪問者数がその金曜日に集中するわけでもなく、曜日に関係しないで、ほぼ毎日平均して訪問していただいているようである。

 今年前半の半年間のアクセス数を、月別・曜日別に整理したものを見ると次のようである。1月から6月まで、毎日約210名の訪問数になっていて、ほぼ一定であることがわかる。
 


月別の1日当たりの平均訪問者数(2021.1 月- 6月)

 曜日別にみても、前記のとおり、ブログを新規にアップする金曜日に集中しているわけではなく、一週間を通じてほぼ一定で、毎日約210回のアクセス数になっていることがわかる。
 

曜日別の1日当たりの平均問者数(2021.1 月- 6月)

 主な訪問者は友人やかつての同僚、それに親類の方々だと考えているが、皆さんリタイア組なので、特に曜日を気にすることもないのだろうと思う。そのほかにも、テーマごとに興味を持っていただいて、何かのきっかけで見ていただいている人も、もちろんいくらかはいるのではと思っているのであるが。

 このブログにはコメント欄が設定されているが、そこへの書き込みはほとんどないのが現状である。これは、訪問者のほとんどが旧知の方だからだろうと推察している。

 私が参考にし、目標にしてきた先輩方は今も継続しておられるので、私としても、これからもできるかぎり今のペースを守って、続けていくつもりですので、今後とも宜しくお願い致します。



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雲場池のトンボ

2021-07-23 00:00:00 | 軽井沢
 雲場池の散歩をしていて感じるのは、意外に昆虫の姿が少ないことである。チョウも少なく、数年前に偶然通りすがりに、ミヤマカラスアゲハを見ていたし、雲場池は奥の方では鳩山家の別荘地に接していて、故・鳩山邦夫さんの著書を読んでいると、別荘の庭で多くのチョウを目撃したり採集したりする話が含まれているので、散歩中に出会えるのではと期待していたのであるが。

 ここ1年半ほどの早朝の散歩を通じて見かけたのは、僅かにスジグロシロチョウ、イチモンジチョウ、コミスジ、セセリチョウの仲間程度であった。

 雲場池の入り口に設置されている案内板にある生態系には、当然かもしれないが、幼虫が水生であるトンボは紹介されているものの、チョウのことは書かれていない。


雲場池入り口に設置されている案内板(2018.6.9 撮影)


案内板の右下部に記されている雲場池の生態系を示す写真(2018.6.9 撮影)

 6月になると、この案内板に示されているとおり、トンボの姿を多く見かけるようになった。ほとんどは池の上を飛び回っているので、それとわかるものの、詳しく姿を確認することができず、種名を同定するまでにはいかなかった。

 しかし、しばらくして、遊歩道脇のフェンスや下草に止まっているところを見るようになり、ようやく写真撮影も可能になった。

 私自身はトンボの種類についてはほとんど知識がなく、現場では確認できず、撮影後の写真をネット情報と比較しなければならなかった。図鑑なども、チョウのものは持っていても、トンボに関するものは何もないのである。

 まずは写真から先に見ていただくと、次のようである。シオカラトンボによく似たトンボの雌雄と、これとは異なる黄色と黒の縞文様の種がいた。

雲場池で見たトンボ 1/13(2021.5.30 撮影)

雲場池で見たトンボ 2/13(2021.6.21 撮影)

雲場池で見たトンボ 3/13(2021.6.21 撮影)

雲場池で見たトンボ 4/13(2021.5.28 撮影)

雲場池で見たトンボ 5/13(2021.5.30 撮影)

雲場池で見たトンボ 6/13(2021.6.10 撮影)

雲場池で見たトンボ 7/13(2021.6.10 撮影)

雲場池で見たトンボ 8/13(2021.6.21 撮影)

雲場池で見たトンボ 9/13(2021.6.10 撮影)

雲場池で見たトンボ 10/13(2021.6.10 撮影)


雲場池で見たトンボ 11/13(2021.6.10 撮影)

雲場池で見たトンボ 12/13(2021.6.21 撮影)


雲場池で見たトンボ 13/13(2021.6.21 撮影)

 さて、これらのトンボの種の同定である。先ずシオカラトンボではないかと思っていたトンボは、近縁のシオヤトンボということが判った。尾の先が黒くないことと、羽の付け根部が褐色になっている点でシオカラトンボとは異なっている。
 
 残る名前のわからないトンボについてのヒントは、前掲した雲場池の案内板右下にある写真にあった。この写真は数年前に撮影してあったもので、カイツブリを紹介(2021年6月18日 公開)する時にも用いたことがある。その案内板で確認すると、雲場池の生態系として紹介されているトンボの写真の下には「モイワサナ」という聞きなれない名前が見られる。これを参考に調べたところ、どうもこれは「モイワサナエ(トンボ)」のことだと判ってきた。

 先日、改めて現地でこの案内板を確認したが、生態系の部分の表記は今も数年前のものと変わっていない。この点については差し出がましいようであるが、軽井沢町の担当課に連絡しておいたので、いずれ修正していただけるものと思う。

案内板の右下部に記されている雲場池の生態系を示す写真(2021.7.5 撮影)

 さて、この案内板の写真だけでは詳しく紋様などを確認することができないので、ネット情報で調べていくと、モイワサナエと酷似した種にはほかに「クロサナエ」と「ダビドサナエ」という種がいて、その違いは胸部分の黄色と黒の紋の現れ方にあって、種の識別に使えることもわかった。

 撮影した手元の写真を確認した結果、雲場池で撮影した黄色と黒の紋のあるトンボは、モイワサナエとダビドサナエの2種が混じっていることが確認できた。

 先ず、案内板にあったモイワサナエ。胸側の2本の黒条のうち前方のものが胸側上縁に達せず,途中で切れている。このことが識別の決め手になるとされるので、次の写真のトンボはモイワサナエと判定した。

 ちなみに、この和名の中の「モイワ」というのは、北海道の藻岩山からとったもので、最初にこの藻岩山周辺で発見されたからであるという。


モイワサナエ(2021.6.10 撮影)

 次に、胸側の2本の黒条が完全に上縁に達するのは、ダビドサナエとクロサナエでえあり、このうち、頭部後方に黄色い小斑点の現れるものがダビドサナエで、クロサナエにはこの小斑点がないとされている。

 こうしたことから今回撮影した次の写真のトンボは、ダビドサナエであると判定した。この種は春にあらわれるサナエトンボの中では、比較的普通に見られるとされていて、和名にある「ダビド」はフランス人の生物学者の名前に由来するものである。


ダビドサナエ(2021.6.10 撮影)
 
 それにしても、これまでチョウにばかり関心が向いていて、トンボのことはほとんど何も知らなかったことを少し反省している。子供のころ住んでいた大阪にも、アカトンボやシオカラトンボは普通にみられたし、少し珍しかったがギンヤンマもいた。また、山地に出かけるとオニヤンマ、ハグロトンボ、チョウトンボなどもいたのだが、それ以外となるとまるで分らない。

 調べてみると、日本には約200種のトンボが生息しているという。せめて、軽井沢で出会える種については、見れば判るくらいになっておきたいものと思うようになった。

 雲場池でシオヤトンボを最初に撮影した同じ日、自宅庭でもそれまで見たことがないトンボがいることに気が付き、撮影してあった。これは、後日雲場池で撮影することになるダビドサナエであったが、初めはこれをムカシトンボだと誤判定していた。

自宅庭で見たダビドサナエ (2021.5.28 撮影)

 軽井沢のトンボについて知るために、手元にある「軽井沢のホントの自然」(石塚 徹著、2012年 ほおずき書籍発行)を見ると、アキアカネ、ハラビロトンボ、ミヤマアカネ、マイコアカネ、オオルリボシヤンマ、オニヤンマ、ダビドサナエ、クロイトトンボ、ハグロトンボ、アオハダトンボ、ミヤマカワトンボ、モートンイトトンボが紹介されている。このうち、絶滅の恐れのある種として、アオハダトンボ、ミヤマカワトンボ、モートンイトトンボの名前が挙げられている。

 いずれ出会うかもしれないこうした種についても、見ればわかるようになっておきたいものと思っている。

(2021.8.7 追記)
 雲場池の案内板が次のように「モイワサナエ」と修正されていることに今朝気がついた。軽井沢町の担当課・関係者にはお礼申し上げます。



 

 

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立花隆さんと免疫の話

2021-07-16 00:00:00 | 日記
 6月23日、立花隆さんの訃報を最初ネットのニュースで知った。その後、テレビのニュースや翌日の新聞でも大きく報じられることとなった。

 少し前からぼうこう癌を患っているとの情報を聞いていたが、今回の報道によると立花さんは長年、痛風、糖尿病、高血圧や心臓病などもがんと一緒に抱え、入退院を繰り返していた。

 1年前に大学病院に再度入院したが、検査や治療、リハビリなどを拒否したため、旧知の病院に転院し、この病院で立花さんは「病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも全身症状を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という院長の考えのもとで入院を続けていたが、4月30日の午後11時38分、急性冠症候群のため亡くなったという。80歳であった。

 急性冠症候群(きゅうせいかんしょうこうぐん)というのは、ウィキペディアによると、「不安定狭心症〜急性心筋梗塞に至る疾患概念」で、「急激な冠動脈狭窄によって生じる三つの病態を包括した名称」であり、「不安定狭心症、急性心筋梗塞から虚血性心臓性突然死虚血心筋または壊死心筋により電気的機能不全を起こすと、致死性不整脈に至り、突然死となることがある」とされる。 

 ジャーナリストとしての立花さんの仕事は1974年に文芸春秋に掲載された「田中角栄研究-その金脈と人脈」が余りにも有名であるが、私には「宇宙からの帰還」(1983年)、「脳死」(1986年)、「サイエンス・ナウ」(1991年)、「臨死体験」(1994年)、「サイエンス・ミレニアム」(1999年)など、政治分野よりも科学分野の方が身近であり、熱心に読んだ記憶がある。

 また、追悼番組として再放送された、NHKスペシャル「立花隆のシベリア鎮魂歌〜抑留画家・香月泰男〜」では、自ら極寒のシベリアに渡った立花さんが、戦争と抑留という時代に翻弄された画家の足跡を追う姿が描かれていた。
 この中で、画家・香月泰男の著書『私のシベリア』(1970年発行)のゴーストライターであったと紹介されているが、若き日の立花氏の違った一面が伺われた。

 最近では、新型コロナの流行の影響もあって、以前買い求めてあった「精神と物質」(1990年7月 文芸春秋発行)を再び読み返していたところであった。

立花隆、利根川進 著「精神と物質」(1990年7月 文芸春秋発行)カバー表紙

 この本は1987年度ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川 進博士との共著で対談形式であり、文芸春秋の1988年8月号から1990年1月号まで断続的に連載されたものを1冊にまとめたものである。

 この本では、利根川博士が「抗体の多様性生成の遺伝学的原理の解明」によってノーベル賞を受賞するに至った経緯が、京都大学の学生時代にさかのぼって語られており、最後の部分では題名にある「精神と物質」について、精神現象を含む生命現象がすべて物質レベルで説明が付けられるかという点についての対談がおこなわれ、今後につながる話題が記されている。

 八章からなる本の第一章で、立花氏はこの本について次のように述べている。

 「1987年度ノーベル生理学・医学賞は、日本の利根川進博士に授与された。・・・同賞の選考にあたったスウェーデンのカロリンスカ研究所は、『利根川氏は、一連の卓越した実験により、幼弱な細胞が抗体を生産するBリンパ球に成熟する過程で、バラバラに存在している抗体の遺伝子がどのように再構成されるかの発見に成功した。この発見に次ぐ二年間、世界におけるこの分野の研究を完全にリードした』と記者団に授賞理由を敷衍した。
 しかし、こう説明されても、よほどの専門家でないとその意味はわかるまい。記者たちもよくわからなかったのだろう。すぐに、
『トネガワの研究はどれほどすごいのか』
 という単刀直入な質問が飛んだ。それに対して、選考委員の一人が、
『医学界の大きな課題を見事に解き明かした。百年に一度の大研究だ』
 と答えて、記者たちははじめてホホーッと感心したという。・・・

 利根川受賞を伝える日本の新聞にしても、各紙三面も四面もつぶしながら、その大半は、喜びの表情とか、人となりの紹介、家族や友人の喜びの声といったものが大部分で、そもそも利根川博士の研究がどういうもので、そのどこがどうノーベル賞に値したのかは、さっぱりわからなかった。
 もちろん、各紙とも、多少の解説は付け加えた。しかし、それがまた読んでもさっぱりわからないのである。

 たとえば朝日新聞はこう書いた。
 『高等生物の体には、病原菌やウイルスなど外界からの【侵入者】(抗原)があると、これをやっつけるタン白質(抗体)をつくる免疫反応という防御システムが備わっている。
 利根川博士は、複雑で解明しにくかった免疫反応をになうリンパ球の性質を、1970年代になって急速に進歩した遺伝子工学の技術を駆使して研究した先駆者だ。
 まず、リンパ球の一種、B細胞の抗体を作る遺伝子はいくつかの部分に分かれていて、それが成熟するにつれて、つなぎ合わされることを証明。どんな病原体が侵入してきても、これを迎え撃つ抗体を作ることができるのは、このような遺伝子のダイナミックな性質によるものであることを証明して、【遺伝子は動かない】と信じてきた生物学会に大きな衝撃を与えた』

 これを読んでその意味が分かる人は、専門家以外はほとんどいないだろう。大部分の人にとってはチンプンカンプンのはずである。

 私の場合は、医学や科学関係の取材をすることがかなりあるので、・・・ある程度の予備知識はある。・・・しかし、細かなところになるとやはりさっぱりである。

 しかし私はかねがねこの方面のことに少なからぬ興味を持っていた。
 ・・・いずれは生命現象のすべてが、人間の精神現象すら含めて、物質レベルで説明がつくことになるだろうという予測すらある。・・・
 やがて、すべての生命現象が物質現象に還元され、人間存在には特別の意味は何もないのだということが証明されてしまうのかもしれない。・・・
   
 私はかねて生命科学に対してこういう関心を持っていたので、分子生物学の概説的なものは読んでいたが、機会があれば、もう少し専門領域に踏み込んで、いま分子生物学の最前線がどの辺のところまできているのかを知りたいと思っていた。
 だから、アメリカに行って、利根川さんに会ってこないかという誘いを『文芸春秋』編集部から受けたとき、すぐさま二つ返事で話に乗ったのだった。
 それから分子生物学や免疫学の参考書を山ほど買い込んで、予備知識をたくわえた上で、ボストンに利根川さんをたずね、延べ二十時間にわたるインタビューをして戻ってきたところである。
 そしていま、私はいちおう利根川さんの研究について語り得る立場にいる。専門的に深くとはいかないが、少なくとも一般の方には、利根川さんが何をどう研究し、その研究のどこがノーベル賞に値する評価を受けたのかを語れるところまでは話をうかがってきたつもりである。・・・

 利根川さんとしては、やはり多くの日本人に、もっと本質的なレベルで自分の研究を理解してもらいたいという気持ちがある一方、もうこれ以上ジャーナリストのつまらぬ質問に時間をとられたくないという気持ちがあり、その両方を満足させるために、一度だけ素人代表のジャーナリストからの徹底的な質問に応じる長時間インタビューをして、あとはこの手のインタビューは願い下げにして、研究生活に戻りたいということで、このインタビューは実現したものである。だから、これは二度とはないインタビューである。・・・」

 このように、立花氏と利根川氏という特別な二人でなければ実現できなかった内容がここで語られることになる。

 本書の内容が、どのレベルの読者を対象にしているかについて、立花氏は次のように記している。

 「・・・一応ここでは、高等学校『生物』の入門コース程度の予備知識があればわかる程度に書いていくことにする。高等学校『生物』といっても、昔の高校のではない。現代の高校のである。昔の高校『生物』では、分子生物関係など何も教えなかったが、いまは、相当のことを教えている。・・・
 といっても、あまり恐れる必要はない。分子生物学の知識がゼロの人にもなんとかわかっていただけるように、インタビューの途中で随時、必要な説明は付け加えてあるし、また『註』も豊富に入れてある。それで、だいたいのところはわかってもらえるはずである。・・・」

 こうした書き出しに励まされて、何度か私も挑戦してきたが、この本もまた、他の何冊もの本と同じ運命で、本棚の隅に眠っていた。それを、今回の新型コロナ騒動で、免疫について改めて知りたいと思い、読み直していたのであった。

 ここで述べられていることの大半は、利根川博士のノーベル賞受賞の対象となった研究についてであり、分子生物学的手法を駆使して、長年の課題であった「抗体産生の多様性」の問題を遺伝子レベルで解明していく過程が詳述されている。

 本ブログではそうした研究手法についての記述はすべて割愛し、新型コロナが蔓延し、世界的な問題となっている現状に大きくかかわる、免疫機構に関して語られているところについて引用しておきたい。以下()内は筆者の補足である。

 「1971年1月、利根川さんは、(アメリカのソーク研究所から)スイスのバーゼルにあるバーゼル免疫学研究所に移った。日本を出てから8年目、31歳のときである。
 利根川さんは、結局、この研究所に10年間いて、ここで後にノーベル賞の対象となる免疫抗体の多様性発現機構の解明を行うことになる。」

スイス・バーゼルの中心部を流れるライン川(2010.6.12 筆者撮影)

バーゼル駅(2008.6.11 筆者撮影)

 ここで、利根川博士は、当時研究所の所長をしていたニールス・ヤーネと出会う。次は、利根川さんの発言部分である。

 「彼はデンマークの人でね、純粋の基礎免疫学者です。クローン選択説とか、イディオタイプの原理とか、ネットワーク論とか、免疫学の世界では画期的な理論を次々に作っていった人で、前に名前をあげたバーネットなんかとならび称せられる人なんです。1984年にはノーベル賞も受賞しています。・・・」

 「(利根川博士が取り組むことになった抗体産生の多様性について、ヤーネ博士は)自分で直接研究はしなくても、彼の頭の中に常にあった問題の一つだったとはいえるでしょうね。というか、それは免疫学の中心問題の一つだったから、免疫学者なら誰でも関心を持っていた問題なんですよ。何しろあの問題に関してはほとんど1世紀近くにもわたって論争が続いてきたんです。ただ、ぼくは免疫学とは無縁の人間だったから、そういうことを何も知らなかったわけです。・・・」

 「ソーク研究所でそれまでやっていたSV40の遺伝子発現の研究がまだ終わっていなかったので、ぼくはバーゼルに行っても、その研究をつづけようと思っていたわけです。・・・ヤーネは心がブロードな人で、自分で所員の研究を一人一人掌握して管理していこうなんて考える人でなかったから、(免疫学と関係のない仕事をするという)そういうことが許されたんですね。」

 「(ヤーネの方では利根川さんのやっている分子生物学研究を)まあ、ほとんどわかっていなかったといっていいでしょうね。ヤーネだけじゃなくて、そのころの免疫学者なんてみんなそうでしたよ。・・・まだ免疫学の研究に分子生物学的方法論が持ちこまれていなかった時代なんですから。」

 「・・・せめてここにいる間は、免疫学の勉強をしようと思ったわけ。実はそのころ、バーゼルで二年くらいやったらまたアメリカに帰るつもりだったの。契約も二年間だったからね。だから、二年ぐらいは免疫をやってみるのも面白いだろうと考えたわけ。そこで、まず免疫学のテキストブックを読むところからはじめて、人にいろいろ聞きながら免疫の勉強をはじめたわけ。何か面白い問題はないか。何かぼくにできることはないかと求めていくうちに、抗体の多様性の問題にぶつかったわけです。」

 ここで、立花氏の解説が入る。

 「ここで、免疫と抗体について若干の解説をしておこう。
 免疫というのは、文字通り疫病を免れるということである。・・・一度ハシカにかかった人間は、二度とかからない。かかってもごく軽くすむようになる。これが一般に免疫現象と呼ばれるものである。・・・
 そこで、伝染病にかかる前に、その病菌に弱く感染させておけば、その病気に二度かからなくてすむのではないかと考えられた。こうして生まれたのが予防接種である。・・・
 こうしてまず免疫は、現象として発見され、なぜそうなるのかの原理はよくわからないまま、実用的な臨床医術として利用されてきたわけである。
 免疫の原理の方は、パスツール以後百年以上にわたって探求がつづけられ、その大筋はわかってきたが、まだその全貌はわかっていないというのが現状である。
 ・・・その大筋を略述するだけでも一冊の本になってしまうのでとてもここでは解説しきれない。・・・利根川さんの業績を知るために必要と思われる最小限の基礎知識に限って解説しておく。・・・」

 「・・・体内に異物が入ってきたとき、それがどんな異物であっても、とにかくそれを排除してしまおうと働く機構があって、それが免疫機構と名付けられている。・・・このような免疫反応を誘発する体内侵入異物を一般に『抗原』という。
 異物排除システムにはいろいろ種類があるが、その主役をになっているのが抗原抗体反応である。・・・抗体というのは、免疫グロブリンと呼ばれるタン白質で、次図のようなY字状の構造をしている。
抗体の構造。多様な抗体もすべて長短二本づつの、四本の鎖からできている。短い方をL鎖(ライト・チェーン)、長い方をH鎖(ヘビー・チェーン)という。L鎖は220個のアミノ酸が連結したもので、H鎖は330ないし440のアミノ酸が連結したものである。これがそれぞれ110個のアミノ酸でできたドメインと呼ばれるブロックにわかれている。このドメインのうち先端部分のドメインだけが可変で、残りのドメインは不変である。この可変部分で抗原と結合して抗原抗体反応を起こす。

 このような抗体が血液やリンパ液の中に沢山あって、抗原が侵入してくると、これと結合して離れなくなる。これを抗原抗体反応という。・・・

 ここで注意すべきなのは、抗原と抗体の結びつきが特異的であるということである。つまり、特定の抗原には、特定の抗体しか結びつかない。抗原と抗体は1対1の対応関係にあり、よく鍵と鍵穴の関係にあるといわれる。

 あらゆる異物が抗原になり得るから、抗原の種類はほとんど無数といってよい。それに対する抗体も、同じだけ種類がなければ、それに対応できない。・・・

 さて、ここで問題になるのが、これだけ多くの種類の抗体が産生されるメカニズムはどうなっているのかという問題である。

 抗体はタン白質である。・・・タン白質はアミノ酸を連結して作られる。・・・どういうアミノ酸をどうならべるかは、DNAに遺伝情報として書き込まれているはずである。

 すると、抗体の種類だけ遺伝子があるのだろうか。もしそうなら、抗原の種類だけ抗体の種類もあるのだから、とてつもない数の遺伝子が必要になってくる。それは数百万から数千万というオーダーになる。・・・
 
 それとも、なにか全然別のメカニズムによって、抗体産生の多様性が保証されているのだろうか.
 これが抗体産生多様性の謎といわれる、免疫学上の大問題だったわけである。その謎解きの仮説は・・・大別すると2つにわかれる。

 抗体の種類だけ異なった遺伝子を親から受け継ぐという「生殖細胞系列説」(ジャームライン・セオリー)と、生殖細胞が伝える遺伝情報はシンプルなものだが、そこから体細胞が発生分化していく過程の中で、遺伝情報に変化が起こり多様化すると考える「体細胞変異説」(ソマテック・セオリー)である。」

 「抗体以外の多くのタン白質については、その産生情報を伝える独自の遺伝子をみんな親から受けつぐことがそれまでの研究でわかっていた。つまりジャームライン説は、抗体もタン白質だから、他のタン白質同様、その産生のメカニズムは変わらないと考える。タン白質は何であれ生殖細胞中の遺伝子は一対一で対応しているはずだと考える。」
 
 このようにして、立花さんに導かれるようにして、利根川博士が行い、ノーベル賞受賞の理由となった、抗体の多様性発現のメカニズム解明の道筋が解説されていくのである。

 この本では、どのような分子生物学における分析手段が使われたかが丁寧に解説されていくのであるが、以下でもそれらをすべて割愛して、結論部分についての立花氏の解説と利根川氏との対話を引用すると次のようである。

 「抗体遺伝子の多様性産生についての仮説の一つに、ドライヤー・ベネット仮説があった。それは、抗体遺伝子は、生殖細胞では一つのC領域遺伝子と多数のV領域遺伝子にわかれていて、それが体細胞に分化していく過程で遺伝子の組み換えが起こり、C遺伝子とV遺伝子が一体になって抗体産生を始めるのだという説だった。
 利根川さんは、・・・遺伝子の組み換えなどということが本当に起こるのかどうかを、実験で確かめようとした。・・・
 実験の結果は、・・・遺伝子組み換えの発見に導き、それがノーベル賞への道を開くことになる。」

 「利根川さんが考えた実験の基本原理は簡単にいうと次のようになる。
 (生殖細胞から受け継いだ遺伝情報がそのままあるので、C遺伝子とV遺伝子とがバラバラに離れているはずのマウスの)胎児からとったDNAと、(抗体を作り出しており、C遺伝子とV遺伝子が一体になっているはずのマウスの)ミエローマ(骨髄腫)からとったDNAを、それぞれ別々に、ある制限酵素で切断し、バラバラの断片にして電気泳動にかけてやる。・・・
 もしドライヤー・ベネット仮説が正しいなら、胎児のDNAでは、C遺伝子とV遺伝子は別々にあらわれ、ミエローマのDNAでは、C遺伝子とV遺伝子が連結しているはずだから、それは同じ位置にあらわれるはずである。」
・・・

【立花】・・・結果はどうだったんですか。
【利根川】一口で言うと、胎児のDNAとミエローマのDNAとでは、明らかに・・・違いが見られました。・・・ドライヤー・ベネットがいっているように、V遺伝子とC遺伝子は、胎児では離れていて、リンパ球の分化とともにこの二つの遺伝子に再構成が起こり一つに融合すると解釈しました。
・・・

【立花】そうなると、いよいよ、ドライヤー・ベネット仮説が正しいということになってきたわけですか。
【利根川】うん、そこが問題なんだね。・・・(上記実験と追試も含めて)この実験で、確かに胎児マウスのC遺伝子は一つだけどV遺伝子は複数あるということはわかった。・・・だけど、そこから直ちに、ドライヤー・ベネット仮説みたいに、V遺伝子の数は抗体の数だけあるという結論を導けるかといったら、そうはならないわけです。・・・V遺伝子はいくつあるんだ、抗体の多様性はどうして出てくるんだという疑問がまだ依然として解けずに残っている。・・・
 結局、この発見をしたおかげで、新しい疑問が次々に湧いてくることになった。つまりこの発見は一つの研究の到達点であると同時に、新しい研究の出発点になったわけです。
【立花】結局、この発見がノーベル賞の対象になったわけですが、・・・ノーベル賞級の発見なんだという意識はありましたか。
【利根川】いやあ、それはなかったですね。・・・
【立花】この実験結果はいつ発表したんですか。
【利根川】1976年の夏に、コールド・スプリング・ハーバー研究所で、シンポジウムがあったんです。・・・招かれて、最後の演者として発表することになった。
・・・
【立花】反響はどうだったんですか。
【利根川】いや、自分でいうのはおこがましいけれど、正直いって大きかったですね。・・・

 「利根川さんの発見は、生殖細胞(受精卵)から体細胞(個体)にいたる過程で、遺伝子の組み換えが起きているにちがいないことを意味していた。
 この発見は、それまで分子生物学の常識であった、ワン・ジーン、ワン・ポリペプチドという考えをくつがえすと同時に、生殖細胞が体細胞になる発生分化過程で遺伝情報は変化しないという原則をもくつがえすものであったから、分子生物学会にセンセーションを巻き起こしたのである。」
・・・

【立花】(遺伝子の再構成は)抗体遺伝子にしか起こらないんですか。
【利根川】いや、それだけということはないんです。・・・(利根川さんの発見後)一年もたたないうちに、高等生物ではないけれど、・・・幾つか見つかっています。一つは、プロトゾーアという単細胞の微生物なんです。
・・・
【立花】高等動物では、免疫系以外では見つかっていないんですか。
【利根川】今のところは見つかっていません。
・・・
【立花】・・・突然変異とか遺伝子組み換えといった遺伝子のダイナミックな変化能力こそ進化を起こす要因なんだと述べておられますね。・・・
【利根川】それはもう明らかにそうですね。・・・自然界では、生物の世代が進み子孫が新しく作られるたびに、突然変異も遺伝子組み換えもじゃんじゃん起きている。・・・そういうふうに、遺伝子組み換えというのは、系統発生の流れの中では日常的に起きていることだったんですが、それが、免疫系では、個体発生の中でも起きているということがわかった。そこに、この発見の意義がある訳です。
【立花】・・・個体の中に進化と同じシステムがあって、それで免疫抗体の多様性が生み出されているのだということになりますか。
【利根川】簡単にいえば、そういうことですね。・・・まさに、自然淘汰、適者生存のダーウィン的進化論の世界そのものなんです。だから免疫のことを、ダーウィニアン・マイクロコスモスと呼ぶこともある。
・・・

 この段階で、利根川博士は自身の実験結果に不満を持っていたという。次のように述べている。

【利根川】・・・(1976年の実験結果には)論理に推定部分が残る間接的な証明の訳です。・・・遺伝子組み換えが起きたということはわかったが、そのメカニズムがどうなっているかはわからなかった。・・・組み換えと抗体の多様性の関係はどうなっているのだろうという生物学的には一番重要な問題もあった。・・・これは直接、遺伝子を調べるほか方法はない。・・・
・・・
【立花】なるほど、電子顕微鏡でくっついているのかどうか直接見ることができれば文句ないわけですね。・・・そして、これをやってみたら、例の第二の大発見に導かれたわけですね。抗体遺伝子は一体ではなくて、幾つかの部分にわかれていた。遺伝情報をコードしている配列の間に、遺伝暗号をコードしていない塩基配列があるということがわかってくる。・・・いわゆるイントロン(介在配列)とエクソン(遺伝暗号をコードしている配列)の発見ですね。これまたノーベル賞級の発見といえるんじゃないですか。今回の受賞理由には、これも入っているんですか。
【利根川】いや、入っていない。こっちのほうはぼく一人の発見じゃなくて、いろんな研究者の発見の積み重ねがあるので、誰の業績と決めるのは難しいんです。・・・
・・・
【利根川】昔はみんな有意味な遺伝子がズラッとならんでいるのがDNAだと思っていた。・・・それで、遺伝子なんてもうだいたいわかったという気分になっていたところに、次から次へ、思ってもみない発見が相次いで、遺伝子というものを見る見方がガラリと変わってくることになったわけです。
・・・
【立花】・・・最初にイントロンの存在を見つけて報告したのが、1977年の『ミエローマ・マウスの抗体遺伝子L鎖のC領域とV領域の間は、千二百五十塩基対離れている』という論文ですね。あのときは、・・・まだその塩基対を直接解読するということはやってなかったわけですね。
【利根川】あの直後に・・・解読をはじめたんです。
・・・
【立花】・・・(バーゼルからハーバードに出かけて共同研究を行った)ギルバートと連名の論文、『マウス生殖細胞における免疫グロブリンL鎖V領域の塩基配列』(1977年)ですね。・・・
 これでトータル何塩基対くらいですか。
【利根川】・・・イントロンの部分や、V領域のはじめにくっついているリーダーなんか含めて、六百塩基対位ですね。
・・・
【利根川】・・・この後はまたバーゼルに帰り、・・・いろんな遺伝子の解読をどんどん進めていったわけです。・・・ノーベル賞委員会が、トネガワの研究は約二年間にわたって独走を続けたと評価してくれたのは、この間のことをさしているわけです。そして、この間に抗体の多様性の秘密が基本的にとかれてしまうわけです。
【立花】というのは、どういうことですか。
【利根川】生殖細胞V遺伝子の塩基配列を注意深く調べてみると、抗体のV領域のアミノ酸配列から予想される塩基配列に比べて、どうしても、四十塩基対ばかり足りないということがわかった。その四十塩基対はどこに消えたのだろうと思ってずっと調べていくと、なんとV遺伝子から数千塩基対も離れたところに、それだけポツンとあったんですね。ほとんどC遺伝子の近くでした。これをJ遺伝子と名付けました。結局、抗体遺伝子はV、J、Cの三つの遺伝子の組み合わせでできていたわけです。そして、C遺伝子は一つしかないが、V遺伝子とJ遺伝子は複数ある。複数個の遺伝子の組み合わせで多様性が出てくるわけです。この発見で初めて遺伝子組み換えと多様性が結びついたわけです。
【立花】そうか。これまでの研究では、遺伝子組み換えがあるということはわかったけど、それは必ずしも、多様性がどうやって生まれてくるのかということは説明していなかったわけですね。
【利根川】そういうことです。・・・C遺伝子は一つだけど、V遺伝子は多数あるということになっていた。じゃあどれだけV遺伝子があるのかということになると、そこは謎のままだったわけです。・・・あまり多くないV遺伝子からどうやってあんなに大きな多様性が出て来るのかという点については、誰も説明できなかった。・・・それがJ遺伝子が登場してきたことで、組み合わせによって多様性が出るのだということがわかった。
【立花】V遺伝子もJ遺伝子も複数個あるから、両者をかけ合わせた数だけの多様性が出てくるわけですね。
【利根川】そういうことです。その後の研究で、V遺伝子は数百あることが判っている。またJ遺伝子は四つある。それだけで千以上の多様性が出てくる。
【立花】でもそれじゃとても足りないでしょう。抗体の多様性は、数百万どころか数千万、あるいは億のオーダーであるとみなされているわけでしょう。
【利根川】いま述べたのはL鎖のほうで、H鎖がまた似たような構造になっている。そして、こちらにはV遺伝子、J遺伝子の他に、もう一つD遺伝子というものがある。だから、その三つをかけ合わせただけの多様性がある。V遺伝子が数百、J遺伝子が四つ、それにD遺伝子が少なくとも二十以上ある。これを全部かけ合わせると数万になる。そうすると、L鎖とH鎖の組み合わせではどうなるかというと、数千万から億の多様性が出てくることになるわけです。
【立花】・・・これが多様性のメカニズムの基本原理になるわけですね。
【利根川】いや、実は多様性のメカニズムはそれだけじゃないんですね。組み換えによって遺伝子が作られるとき、V・J連結部位のところで、微妙な変化が起きて、多様性をまた広げるんです。・・・
【立花】微妙な変化というのは何ですか。
【利根川】・・・塩基を切る位置がちょっとズレたり、塩基が消失したり、足されたり、といったことが起きるんです。・・・さらに、この再構成されて出来た抗体遺伝子はリンパ球の中で非常に速く突然変異を起こすということもわかってきた。普通の遺伝子の一万倍の速さで突然変異が起きる。細胞分裂ごとに変異が一回起きるくらいの勘定になる。これによっても、さらに多様性が生み出されてくる。それを考えに入れると、多様性は数十億のオーダーになる。・・・
【立花】・・・それだけ多様な抗体遺伝子を誰でもみんな一セット持っているというのは驚きですね。
【利根川】体内に入ってくるありとあらゆるものが抗原になり得るわけですから、それだけの多様性をもってないと対応できないわけですよ。対応できなければ生きていくことができない。
【立花】現代社会においては、人工の化学物質とか、これまで地球上に存在していなかったようなものまで抗原として登場してくるわけですね。そういうものに対しても、ちゃんと抗原(抗体のまちがい)を作って対応することができるのですか。
【利根川】できます。抗体というのは、抗原に合わせて作られるというものではないんですね。とにかくはじめから限りなく多様な産生能力によって多様な抗体が用意されている。それでうまくカギ穴にはまるカギのように対応するものがあればよし、そういうものがなくとも、それに近いものが出ていって対応する。穴にぴったりはまるカギじゃないけど、多少力を入れればこじ開けられるというくらいの対応関係でいいんです。そういうもので対応しながら、今度は、一方で抗体遺伝子が高頻度に突然変異を起こす。その中からもっとカギ穴に合うものが出てきたら、それに増殖しろという命令が下る。そういうメカニズムがあるわけです。・・・
 これをクローン選択説といって、バーゼルの所長だったヤーネが最初に概念を発表し、バーネットが説として完成させた。それまではポーリングのとなえていた誘起説、つまり抗体タン白は、いわば柔らかいもので、抗原を鋳型にして、それに良く形の合う抗体分子が作られるのだという説が有力だったんですが、結局、クローン選択説の方が正しかったわけです。・・・
【立花】抗原の侵入がそれに対応する抗体を作り出すのではなく、すでにある抗体の中からそれに対応するものが選択されるだけということは、要するに、もともとあるものしか出てこないということになるわけで、これはいってみれば、一種の決定論ということになるんですかね。
【利根川】抗体遺伝子の研究からいえることは、遺伝子が生命現象の大枠を決めているが、あるていど偶然性が働く余地を残しており、環境は、この偶然性に基づく多様性の範囲内で選択を行うことができる、ということです。
【立花】遺伝子によって生命現象の大枠が決められているとすると、基本的には、生命の神秘なんてものはないということになりますか。
【利根川】神秘というのは、要するに理解できないということでしょう。生物というのは、もともと地球上にあったものではなくて、無生物からできたものですよね。無生物からできたものであれば、物理学及び化学の方法論で解明できるものである。要するに、生物は非常に複雑な機械にすぎないと思いますね。
【立花】そうすると、人間の精神現象なんかも含めて、生命現象はすべて物質レベルで説明がつけられるということになりますか。
【利根川】そうだと思いますね。もちろんいまはできないけど、いずれできるようになると思いますよ。・・・
・・・

 対談は、こうして後半に入って、抗体産生の多様性の秘密について一気に解き明かされていったのであるが、その話題を終え、次なるテーマであり、この本のタイトルでもある、「精神と物質」に話題が移っていった。

 この本の「序にかえて」で、日本の分子生物学の創始者であり、利根川博士の師でもあった故渡辺 格氏(1916年9月27日 - 2007年3月23日)は次のように述べている。

 「・・・最近、利根川さんは免疫学の領域から脳の研究に移りたいという意向をしばしば述べているが、これは物質→生命→精神(脳)という自然科学の大きな流れに沿ったものであると同時に、新しい免疫学の突破口を開いた利根川さんの先見性と豊富な知識・経験を脳研究に生かせるという意味でも、非常に歓迎されるべきことだと思われる。・・・今私があげたような大きな流れの中にあるということを念頭に置いてこの本を読まれれば、さらに有意義な示唆が得られるのではないかと思う。」

 実際、利根川博士のその後の論文には、
・『利根川進博士が進める新たな脳科学研究』 現代化学 (461), 28-30, 2009-08, NAID 40016655307
があり、著作(共著を含む)には
・『私の脳科学講義』岩波新書 2001年 ISBN 978-4004307556
・『脳の中身が見えてきた』 甘利俊一,伊藤正男共著 岩波書店 2004.9 ISBN 978-4000065993
・『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』 講談社ブルーバックス 2016.11 ISBN 978-4062579940
などがある。
 
 残念なことに、こうした分野の話題について、立花隆氏との新たな対談の機会は失われてしまった。

 謹んで立花隆氏のご冥福をお祈りする。


 


 

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雲場池の水鳥(9)オシドリ

2021-07-09 00:00:00 | 野鳥
 今回はオシドリ。雲場池でオシドリを見ることができるとはまったく予想しておらず、テレビの番組で北海道大学の構内で子育てをするオシドリのことを見た時にも、何か特別な遠い存在であるように感じていた。

 ところが、妻がツイッターの写真を見ていて、そのオシドリが近くの千ヶ滝地区にある池に来ていると教えてくれたのは4月頃であった。

 スマホ画面で見たその写真は素晴らしいもので、これまで私が雲場池で撮影してきた水鳥たちのものとは一線を画する解像度で撮影されていた。やはり、近くに寄ることが難しい鳥類の撮影にはそれなりの機材が必要なのだとこのとき痛感させられたのであった。

 そのころ、ブログで写真を紹介している友人のIさんが新たに超望遠レンズ購入し、そのレンズで撮影した写真を紹介し始めており、それらの写真はとてもよく撮れていたし、使い勝手も良いとの感想を書いているのを知り、私も鳥類の撮影用に思い切ってこの同じレンズの購入を決意した。

 昨年あたりまでは、主にチョウや山野草の撮影をしていたので、古いニコンD200とタムロンの望遠ズーム18-270mmでも何とかなっていたが、雲場池に散歩に出かけるようになって、撮影対象に鳥類が加わるようになってからは、特に物足りなさを感じていたのであった。

 今回購入することにした超望遠レンズは、オリンパス製の100-400mmズームレンズで、オリンパスのボディーと12-40mmズームレンズはすでに持っていた。これはアンティーク・ガラスショップの商品撮影用に購入してあったもので、ボディーは深度合成ができる機種オリンパスOM-D/E-M1である。

 Iさんからすでに評価は聞いていたので、カメラショップでの実物確認はスキップしてネットショップで購入することにしたが、調べてみると、1ヶ月以上待たなければならないようであった。しかし、実際に発注してみると数日で商品が届けられた。

 千ヶ滝付近の池にオシドリが来ているとの情報をもとに、現地の様子などを調べ始めていたが、先ずは毎朝の散歩で試し撮りをしてみようと、さっそく散歩のお供にニコンD200に替えてこのオリンパスEM-1を持ち出して雲場池に出かけるようになった。

 そして、数日が経った頃、雲場池の西側の遊歩道を歩いていて、対岸近くにいる水鳥に気がついた。毎日のように見かけているカルガモではなさそうで、望遠レンズ越しに確認すると、一羽の雄のオシドリであった。

対岸に見つけた雲場池のオシドリ1/2(2021.5.25 撮影)

対岸に見つけた雲場池のオシドリ2/2(2021.5.25 撮影)

 早速、撮影を開始したが、オシドリは池の東側にいて、周辺の林の陰になり朝日が差し込まないため暗く、どうしてもシャッター速度が遅くなってしまう。

 しばらくそのまま撮影を続けたが、飛び去らないように見えたので、私が池の東側に移動することにした。

 今度は、私を意識してか、オシドリは池の中心部方向、朝日が直接当たる場所に移動していった。撮影条件も良くなり、それまでより早いシャッタースピードで撮影できるようになった。

 オシドリが雲場池に現われたのは、この日一日だけで、その後の散歩で見かけることはまだない。千ヶ滝方面に撮影に出かけようと思っていた矢先のことで、幸運なできごとであった。 

 さて、思いがけない出会いのことに、ついつい前置きが長くなったが、いつもの「原色日本鳥類図鑑」(小林桂助著 1973年保育者発行)でこのオシドリについての記述を見ると、次のようである。美しい♂の羽色についての記述がやはりかなり長い。

形態 ♂の冬羽はきわめて美麗。三列風切内側の一枚は栗色に大きく拡がりいわゆるいちょう羽となる。嘴峰27~32mm、翼長214~250mm、尾長90~109mm、跗蹠33~40mm。♂は頭上金緑色にて後頭の羽毛は長く延び白色と赤栗色とを混じえている。背は暗かっ色で肩羽には藍黒色と白色とを混じえる。眼先は淡かっ黄色、頸側には栗色の細長い羽毛がある。胸は紫黒色で胸側には2条の白帯がある。腹は白。嘴は暗紅色。♀は上面暗かっ色にて眼の周囲から後頭にかけ白い線が延びている。胸は黒かっ色で白はんがあり、上嘴基部両側と喉と腹とは白色。脇は黒かっ色と黄かっ色とのまだら。♂の夏羽はいちょう羽を欠き全体♀に似る。
生態 シベリア東北部・満州・蒙古・中国・朝鮮・日本などに分布繁殖する。欧州でも天然に繁殖しているものが各所にあるが、これは昔東洋から輸入されたものである。水上生活すると共にしばしば高い樹枝上にも止まる。好んでシイの実を食す。山地の水辺に近い高木の天然樹洞に営巣することが多いが、皇居の外ぼり付近や明治神宮などで繁殖するものもある。冬期は群集して山間部の密林に囲まれた池や谷川に生息するものが多い。
分布 北海道・本州・九州で繁殖し冬期は本州中部以南・八丈島・四国・九州・対馬・種子島・奄美大島などに分布する。」

 では、以下に対岸に移動後に撮影した写真をごらんいただく。池中央部のよく朝日が当たる場所に移動したときのもので、撮影条件は改善している。

雲場池のオシドリ1/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ2/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ3/11(2021.5.25 撮影)
 
雲場池のオシドリ4/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ5/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ6/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ7/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ8/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ9/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ10/11(2021.5.25 撮影)

雲場池のオシドリ11/11(2021.5.25 撮影)

 撮影した写真を見ていると、今回のこのオシドリの♂はまだ若い鳥だろうと思える。図鑑の羽色の説明と見比べてみると、後頭の羽毛が未発達で、「長く延び白色と赤栗色とを混じえている」とは見えない。また、最近の図鑑の写真と比べてみても、眼の周囲から後頭にかけての白い線の延びも短い。さらに、オシドリの特徴であるイチョウ羽もまだ未発達のようである。

 全体の印象も、これまで写真で見ていたものとはやや異なり、頭部が小さいと感じる。これは後頭部へと伸びる羽が未発達のせいだろう。

 静止した時の姿も、頭部を後ろに引き胸を突き出したように見える写真を見ることが多いが、今回池を泳いで首を前に突き出して餌を食べる姿を見ていると、他のカモ類と同じように見えてほほえましい。

 いまのところ、雲場池で姿を目撃できたのは、この1日だけであったが、またいつか出会い、成長した姿を見せてもらいたいものである。オシドリ夫婦という言葉があるが♀を伴った姿もぜひ見せてもらいたい。


 
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山野でみた鳥(8)カケスとスピノーダル分解

2021-07-02 00:00:00 | 野鳥
 今回はカケス。題名にある「スピノーダル分解」とは何のことかと思われるだろうが、これについては羽の色との関係で後段で説明をする。

 軽井沢周辺の林で時おり見かけていたが、雲場池に朝散歩に出かけるようになってからはこのカケスに頻繁に出会うようになった。早朝、まわりが静かな中で、人の気配を感じたためか、大きな鳴き声が響き渡る。そして木々の間を飛びかう姿を見るが、なかなか下の方には降りてこない。

 それでも少しづつ写真撮影はできていたが、散歩を始めて1年ほど経った今年の3月にようやく目の前近くに姿を見せてくれた。雲場池の上方にある別荘の金属フェンスに止まったので、対岸からしばらくの間撮影ができた。

 そして次に何を思ったのか流れを越えてこちら側に飛んできて、近くの樹の枝に止まった。ここでも、しばらく止まっていたので木陰ではあったが撮影をすることができた。

 その後は、遊歩道の樹上にいて下を通る私の気配にも飛び去ることが少なくなり、時々撮影ができるようになっている。

 いつもの原色日本鳥類図鑑(小林桂助著、1973年保育社発行)には、カケスは次のように記されている。
 「形態 ハトよりやや小形の美しい鳥である。嘴峰28~31mm、翼長159~180mm、尾長136~159mm、跗蹠35~39mm。頭上白色にて黒色の縦はんがある。背と下面とはぶどう色、腰と喉とは白く、尾は黒色である。翼は白と黒のまだらにて翼の基部は美しい藍色と黒のまだらとなっている。飛行時には黒い尾と白い腰、白と黒とのまだらの翼は顕著である。
  生態 低山帯の森林中で繁殖するが、亜高山帯の下部に及ぶものもある。冬期は小群をなして山すそに漂行する。ジェーイッ、ジェーイッとなき、飛行は緩慢である。野外において他の鳥の声を巧みに真似することもあるが、飼い馴らした鳥は口笛其他をよく真似する。雑食性の鳥で秋期にはナラやカシの実を食し、こん虫類、両生類、くも類などをも食す。繁殖期に他の小鳥類の巣を漁りその卵やひななどを奪取して食することがまれでない。
  分布 留鳥として本州・四国および九州北部に分布繁殖する。
  亜種 北海道に生息する亜種は ミヤマカケスである。頭上は赤栗色で黒色の縦はんがある。また、佐渡産のものはサドカケス、九州南部および伊豆下田付近のものはヒュウガカケス、対馬産のものはツシマカケス、屋久島産のものはヤクシマカケスとそれぞれ亜種を異にする。」

 カラスの仲間ということで、上の文にあるように他の小鳥類の巣を襲うところなど習性も似ているようである。声も、美しい姿に似合わずだみ声で、同じカラス科のオナガに通じるものがある。眼光鋭く、頭上の黒色縦はんはプロレスラーの額の傷を思い出させるものがある。


雲場池のカケス(2020.4.9 撮影)


雲場池のカケス(2020.3.11 撮影)


雲場池のカケス(2020.4.9 撮影)

雲場池のカケス(2021.3.10 撮影)


雲場池のカケス(2021.3.10 撮影)


雲場池のカケス(2021.3.10 撮影)


雲場池のカケス(2021.3.10 撮影)


雲場池のカケス(2020.3.11 撮影)


雲場池のカケス(2021.3.21 撮影)


雲場池のカケス(2021.3.21 撮影)

雲場池のカケス(2021.3.21 撮影)

 このカケスは普通切手の意匠にも採用されていたことがある(1998.2.23~2014.3.31)。統一デザインでスタートした新シリーズの一つに加えられ、160円切手として発行された。他の同じシリーズの鳥切手にはメジロ(50円)、キジバト(62円)、シジュウカラ(70円)、ヤマセミ(80円)、コチドリ(110円)、モズ(120円)、ウソ(130円)、イカル(140円)などがある。



 ところでこのカケスの翼は原色日本鳥類図鑑に「翼は白と黒のまだらにて翼の基部は美しい藍色と黒のまだらとなっている。飛行時には黒い尾と白い腰、白と黒とのまだらの翼は顕著である。」と記されていたような特徴がある。

 この飛行時を撮影できたものは次の1枚だけで、鮮明ではないが雰囲気は分かると思う。

雲場池のカケス(2021.3.10 撮影)

 カケスの羽にみられる特徴的なこの水色~藍色と黒のまだら(縞)模様が入る部位を確認すると、次のようであり、小翼羽、初列雨覆、大雨覆の一部、次列風切の一部とみられる。
 

一般的な鳥の羽の名称
カケスの羽に藍色と黒の縞模様が入る部位

 静止状態では、一部が隠れてしまって、正確な部位を確認することが困難であるが、飛翔時の羽を確認するとおおむねこのようになっているものと思われる。

 さて、翼基部に見られる藍色部はオオルリの青に通じるものがあり、構造色であることが知られている。カケスの羽に見られる白や、水色~藍色と黒のまだら部分については、興味深い研究が行われているので、紹介しておきたい(Spatially modulated structural colour in bird feathers, Scientific Reports, Andrew J. Parnellら、21.December 2015)。

 このレポートは30種ほどいるとされるカケスの亜種のうち、ヨーロッパに生息する亜種についてのものであるが、形態は日本産とほとんど同じであり、ここでの議論は日本の亜種についても共通のものと考えられる。概要には次のように記されている。

 「ユーラシア・ジェイ(ガルルス・グランダリウス)の羽は、白から水色、濃い青色、黒などの反射色の周期的な変化を示す。こうした色を決めているのは羽枝(うし;Barb)の対応する部分で、スピノーダル相分離(分解)が起き、その分離相の大きさが連続的に変化していること、および空間分布が制御されていることを見出した。
 青色部の構造は、紫外域から青色域にわたる広い範囲の波長域の反射を示しており、これに対応するナノ構造は、150nm程度の長さを持ち、スピノーダル分解に特徴的な形態を示す。
 白色領域は、より大きい200 nmほどのナノ構造を有していて、粗大化したスピノーダル分解相からなり、広い波長域の白色反射をもたらす。
 我々の分析によると、鳥の羽の1本の羽枝の網目状のナノ構造は連続的に大きさが変化していて、これはケラチンが動いて相分離が起きる時間が制御されていることによっている。・・・」

 ここで登場した、「スピノーダル分解」について簡単に見ておく必要があると思う。元々は物理・化学の世界の用語であり、2種以上の物質の混合物が、高温では均一に混じりあっていても、温度が低下するにつれて2つの層に分離していくことがあるが、その様子を表す用語である。

 こうした相分離現象は、通常は次の図のように、均一に混じりあっているA+Bの状態からAの濃度の高い相やBの濃度の高い相が小さな集合体(核)を形成し、これが消長を繰り返しながら次第に成長するという過程を経て分離が完了する。これは核形成-成長プロセスと呼ばれる。
核形成-成長プロセスによる相分離進行の概念図

 スピノーダル分解は、これに遅れて見出された現象で、核を作ることなく、混合状態からAの濃い領域とBの濃い領域が同時に系全体で生じ、これがさらに進んで、スポンジの網目構造に似た分離相を形成するというものである。

スピノーダルプロセスによる相分離進行の概念図

 こうしたことから、網目状構造がある場合にはその形成過程でスピノーダル分解が起きていたものと判断されているのである。

 金属合金やガラスの混合物でこうした現象が1960年頃に見出されていたが、実は私の大学院時代の修士論文のテーマがこの「スピノーダル分解」で、鉄合金に関するものであった。

 当時、同じ研究室の多くの仲間は製鉄関係の企業に就職したが、私は硼珪酸ガラスでもこのスピノーダル分解が観察されていたことが縁となり、就職先に金属関係の会社ではなく、ガラス会社を選んだという経緯があった。

 それからおよそ50年を経て、ふたたびこうしてカケスの羽の構造の中に、スピノーダル分解の結果としてもたらされた美しいケラチンの網目状の構造色を知るようになるとは、感慨深いものがある。

 カケスの羽に話を戻すと、水色や藍色から黒へと変化するまだら模様が起きているのは、羽枝(Barb)部であるとされている。

 羽枝を一般的な鳥の羽の写真で示すと次のようである。この羽(正羽;Feather)はカケスのものではなく、猛禽類のものと思われるものを、散歩の途中で妻が拾ったものである。



一般的な鳥の羽の構造と名称

 羽枝からさらに両側に細かい突起である小羽枝(Barbules)が出ているが、この小羽枝は羽色には関係せず、左右で形状が異なっていて、一方には鉤(かぎ;Hooklets)があり、他方と交差することでマジックテープのように絡み合って、羽枝をつなぎ合わせている。

 この羽枝の表層部分(厚さ10ミクロン程度)を構成するケラチン/空気層が微細な構造を持ち、カケスの場合にはその大きさにより反射色が白から水色~藍色そして黒まで変化することが前記の研究で明らかにされた。



カケスの翼基部に見られる斑模様が羽枝に現れる様子を示す概念図

 多数のたがいに隣接する羽枝内部の微細構造が、その大きさを互いに連携するように制御し、結果としてカケスの翼基部の美しい縞模様を形成しているのを見ると見事としか言いようがなく、ここにもまた自然の驚異を見た思いがするのである。







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