軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

サクラソウ

2018-05-25 00:00:00 | 山野草
 軽井沢に移住し、新たに家を建てることを決めた時、庭には小さくてもいいので、ロックガーデンを作り、好きなスミレなどの山野草を育てようと決めていた。このミニロックガーデンを作るにあたり、「ロックガーデン」(1976年 誠文堂新光社発行)と「続々野草のたのしみ」(八代田貫一郎著、1976年 朝日新聞社発行)とを参考にしたが、石は軽井沢ではおなじみの浅間石を使うことにした。

 浅間石を専門に扱う店に出かけて15cmから50cmくらいの種々の大きさのものを取り混ぜて100個ほど購入し、暇をみてはこれらを組み上げていき、一番高い部分にはアズマシャクナゲを植え、周辺に小さな草花を植えるためのスポットをたくさん作っていった。


庭に浅間石を組んで作ったミニ・ロックガーデン(2016.4.24 撮影)

 このスポットに順次、山野草を植え始めていたのだが、これを見ていたご近所のKさんが自宅の庭で育てている山野草を次々と持ち込んできてくれた。増えすぎて困るから、貰って欲しいということであった。実際Kさん宅の庭に行ってみると、実に多くの種類の草花を地植えや鉢植えで上手に育てていた。

 Kさんから頂いた草花は、フウチソウ、ギボウシ、日本スズラン、ゲンジスミレ、レンゲショウマ、ツリガネニンジン、マツモトセンノウ、フシグロセンノウ、日本ハッカ、カッコソウ、イチリンソウ、ヤマオダマキ・・・など実に多くの種であったが、その中にサクラソウが含まれていた。


Kさんから頂いた鉢植えのサクラソウ(2016.5.20 撮影)

 このサクラソウは軽井沢のシンボル的なもので、1993年(平成5年)8月1日に、町制施行70周年記念として「町の木」のコブシと共に軽井沢町の「町の花」に選定されている。


軽井沢町観光経済課で発行している軽井沢案内(2018年版)に記載されている「町の花」と「町の木」

 野生のサクラソウは、北海道から九州まで、やや湿った火山灰土壌の落葉樹林や草原に見られ、軽井沢周辺では、ミズナラなどの落葉樹林の中の渓流沿いや湿地の周囲などに生息するとされる。軽井沢はこうした条件に恵まれていた。

 実際、古い資料には、1955年頃のこととして「沓掛駅(現在の中軽井沢駅)の南にある塩沢湖では、5月下旬から6月上旬にかけて、付近一帯がサクラソウの花で埋まっていた。」と書かれている。 軽井沢にこの見事なサクラソウの自生地があることは、当時の雑誌「遺伝」にも紹介されていたというが、その後、2000年頃にはすでに「塩沢湖の周辺は開発が進み、昔の面影は残っていなかった」という状態になっている。

 また、1956年5月20日付け毎日新聞夕刊には次のような記事があり、現在では想像できないような光景があったようだ。


サクラソウ群落を報じる1956年5月20日付け毎日新聞(夕刊)の記事

 ここには次のように記されている。

 「〇-高原の町、軽井沢はいまかれんなさくら草の話でもちきりである。というのは同町南軽井沢のゴルフリンク内にみだれ咲くさくら草の群落はすばらしく大きなもので、町の教育委員会では、“日本の国花が桜なら、軽井沢の花はさくら草だ“とこの群落を天然記念物に推選しようという運動を起こしている。
  〇-この群落の大きさは約三千坪。見渡すとピンク色のじゅうたんを敷きつめたようでみごとだ。草花研究家たちの間でも、“全国でもめずらしいもの”とされているが、根こそぎ持ち去られて、最近では次第に減り始め地もとであわてだした次第。
  〇-ゴルフリンクを訪れると、花は七分咲き、ピンク色の花弁が風にゆれ、リュックを背負った親子づれやアベックたちも思わずニッコリ。随分ひろいなアー。花々でいっぱい。夢のようだわ“と女の子が叫べば、男の子はごろんと花のふとんにねころんで満足そう。これからだんだん多くなるハイカーたちを存分楽しませることだろう。」

 上記2情報は、2000年2月に設立された軽井沢町内の住民団体「軽井沢サクラソウ会議」が運営しているウェブサイトからの引用であるが、この軽井沢サクラソウ会議では町花であるサクラソウの保全活動を行っており、定期的にサクラソウ調査を行っている。

 最近行われた調査では、「町内265地点でサクラソウの生育が確認された。1ヶ所に300ヶ以上花が咲いていた優良生育地は、40ヶ所以上、10ヶ以下の場所が70ヶ所。生育地は、町南部の草原・湿地だった場所に多く分布していた。また、1970年代ごろまでに分譲された古い別荘地でも、多数が確認された。」と報告している。

 実際、散歩していると町内の民家の庭先にも、Kさん宅同様ちらほらとサクラソウの姿を見ることができる。我が家のロックガーデンに分散して植えたサクラソウも3年目を迎えるが、何とか定着してきたようである。


ロックガーデンで咲くサクラソウ 1/2(2018.5.21 撮影)


ロックガーデンで咲くサクラソウ 2/2(2018.5.21 撮影)


サクラソウと同時期に咲く日本スズラン(2018.5.22 撮影)


カツラの木の根元で咲くサクラソウ(2018.5.21 撮影)


アズマシャクナゲの陰で咲くサクラソウ(2018.5.21 撮影)

 このサクラソウ、「山草辞典」(1980年 月刊さつき研究社発行)によると、次のようである。

 【特徴】茎は15~40cmになり、葉に毛が多く、チリメン状のしわが多い。花は5弁の紅紫色で、茎頂に5~10花輪生状につける。美しいので庭に栽培され、多くの園芸品種があり、性質は強く育てやすい。
 【分布】北海道、本州、九州に分布し、山野の河原の湿地や、原野に生える。陽光を好むが、夏は草むらとなって、他の植物の陰に隠れて生育することが多い。

 増殖は、地下茎と種子の両方で行われるという。まだ種子を採取したことはないが自然に周囲に落ちた種子から小さな芽が出ているところも見られる。

 軽井沢に自生していたサクラソウは開発の影響で激減し、絶滅危惧種に指定されているが、元来丈夫な種のようで、条件さえ合えば元気に生育するように見える。我が家のロックガーデンのサクラソウもいろんな場所に定着して、今年も元気に花を咲かせている。 

 サクラソウと同じ仲間のカッコソウ。この種も絶滅危惧種に指定されているが、我が家のロックガーデンでは元気に花を咲かせ、増えている。


昨年開花時のカッコソウ(2017.5.6 撮影)


今年のカッコソウ(2018.5.5 撮影)



  


 
 
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Emile Galle

2018-05-18 00:00:00 | 日記
 ガレ調の照明器具は私もだいぶ前から持っているし、骨董市などでもガレ作と称するガラス器を目にすることはあるが、本物となるとなかなか見る機会がなかった。 その本物のガレの作品と最初に出会ったのは上越市に赴任していた時で、市の総合博物館で開催された、有澤忠一「エミール・ガレ」コレクションを見に行ったときであった。2003年ころの真冬のことで、博物館のある高田公園あたり一面に雪が降り積もっている時であった事を思い出す。

 この展示は、私も一時期勤務していたことのある地元企業、有沢製作所の2代目社長であった故有澤忠一氏から1988年に市に寄贈された24点のガレのガラス工芸作品を、氏の希望により毎年1回、一定期間行われているものである。

 花瓶、香水瓶などが展示されていたのだが、そのころはガラス工芸に関する知識もなく、ただ貴重な珍しいものを眺めるといったことに終始した。

 それから、長いブランクがあったが、今年軽井沢でアンティークガラスショップを開くことになり、その店の名前を「軽井沢ヌーヴォー」としたことから、フランスのアール・ヌーヴォー運動をナンシー派の総帥として推進したとされるエミール・ガレの仕事に再び関心を持つようになった。

 長野の諏訪湖畔には、ガレの作品の収集で有名な北澤美術館があり、かねて訪ねてみたいと思っていたが、先日その機会が訪れた。

 ちょうど今の時期、北澤美術館の開館35周年を記念した特別展「花のジャポニスム・ガレ、ドーム、ラリックに咲く日本の花」がスタートしたばかりであった(会期:2018.4.4~2019.3.31)。

北沢美術館「花のジャポニスム-ガレ、ドーム、ラリックに咲く日本の花-」のパンフレット

北澤美術館の入り口に掲げられた「花のジャポニズム」の看板(2018.5.8 撮影)

 展示会場の入り口には、高さが83cmの大きな作品「ひとよたけ」が展示されていた。写真撮影が許可されていたのは、この「ひとよたけ」だけであったので、ここでその他の展示品を紹介することはできないが、パンフレットによると展示品は全部で103点、その内エミール・ガレ(ガレ作とした1点を含む)の作品は39点、ドーム兄弟の作品は28点、ラリックの作品が27点とその他の関連資料であった。

展示会場入り口に展示されているガレの「ひとよたけ」、後方にガレの写真が見える(2018.5.8 撮影)

 この「ひとよたけ」はガレの最晩年、1904年頃の最高傑作とされ、1900年ころから急速に進んだ一般家庭への電気の普及に合わせて生まれた当時最新の電気照明器具でもある。

 笠はピンクがかった肌色不透明地に、透明、濃茶のクリスタル被せガラスを宙吹きした後、形を整え、手彫り仕上げがなされたものという。軸はグレーがかった透明ガラスにガラス粉を封入し、縦の溝をつけ、ねじりを加えながら伸ばし、金属の導芯を通して錬鉄製の台に固定されている。キノコのつば(襟)とツボ(袴)は銅製とされる。

 間近に見るこの「ひとよたけ」とこれに続く作品群は、いずれもみずみずしく、100年を経た今も色鮮やかでとても美しい。モチーフに採りあげられた、菊、睡蓮、ハナショウブ、藤、紫陽花、朝顔、スミレ、ユリ、柳、松、笹、柿など、われわれにも馴染みの花や植物を多く見ることができる。

 有澤忠一氏、北澤利男氏の二人の実業家が、いち早くガレの作品を見出し、コレクションとしたことで、われわれはこうして間近に多くの作品に接することができるが、両氏がガレの作品を選んだ理由の一つは、今回のテーマにあるように日本人になじみの深い植物などのモチーフが多く取り入れられているからであろう。

 北澤コレクションの核をなすのは初期から晩年までのエミール・ガレのガラス作品であるが、ガレは学業を終え1867年に父シャルル・ガレの会社に入り、すでに18世紀からの大手クリスタルガラスメーカーであるサン・ルイやバカラが君臨する中で、製品のモデルを考案する「産業芸術家」としてキャリアをスタートさせている。

 以後、正式に経営を任された1877年から1904年に亡くなるまで、27年間ガレ社の製品は、エミール・ガレひとりがほぼ唯一の発案者であり決定者であったとされる。私には意外であったが、ガレは、当然ながら深いガラス工芸の知識はあったものの、彼自身がガラスを吹いたり削ったりする職人的な製造作業に携わっていたわけではなかったとのことである。

 今回の展示でも同様の作品「菊にカマキリ文月光色鉢」が展示されていたが、ガレは1878年のパリ万国博覧会ではこの微量の酸化コバルトを添加して得られる、薄青色の「月光色ガラス」を、初めて自身の名前で発表しており、この時ガラス部門では銅賞を受賞している。その後も独創的なデザイン、豪華な絵付け、丁寧な仕事ぶりが評価されて、中央の美術関係者や知識人の間で名前が知られるようになった。

 続く、1889年の第4回パリ万国博覧会では、ガラス部門でグランプリに輝き、国際的な名声を獲得し、更に1900年の第5回パリ万博でも再びガラス部門のグランプリを受賞し、その名声を不動のものにした。

 しかし、この1900年のパリ万博では、1889年のガレの活躍に刺激され、兄弟二人三脚で後を追った同郷のドーム兄弟もまた、同時にガラス部門でグランプリを獲得した。

 ドーム兄弟の短期間での成功の秘訣は、兄と弟で経営と美術面での仕事を分けたことにあるとされる。すべてを一人でこなし、カリスマ的な個性を発揮した、エミール・ガレとは対照的なものであったという。

 エミール・ガレは、1904年白血病のために58歳で没するが、ガレ工房は妻アンリエットが経営を引き継ぎ、1914年にそのアンリエットもまた急逝すると、次女の夫ポール・ペルトリゼにより経営が続いた。しかし、その7年後の1931年、ガレ社は世界大恐慌のあおりを受けて、37年間燃え続けたガラス窯の火を落とし会社は閉じられた。そして、1936年にすべての資産は競売にかけられ売却された。

 一方、ドーム兄弟の会社は1900年以降黄金期をむかえ、1902年グラスゴー、1904年セントルイス、1905年リエージュ、1906年ミラノと、いくつもの万国博覧会での受賞を続けた。第一次世界大戦が明けた1920年代には社会の価値観が一変し、アール・ヌーヴォーから装飾性を抑えたアール・デコへと流行が変化していくが、ドーム社は指導部が世代交代を繰り返し、ガラス界のリーダーであり続け、1980年代の初頭までまで家族経営を維持し、ドーム家が経営を離れた今もナンシーで操業が続けられている。

 今回の北澤美術館の展示のもう一人の主役はルネ・ラリックである。エミール・ガレ、オーギュスト/アントナン・ドーム兄弟そしてルネ・ラリックの生誕年を、同時代の芸術家と共に並べてみると見ると次のようである。
  
エミール・ガレと同時代を生きたガラス工芸作家・芸術家の生誕年/没年

 ガレとドーム兄との年の差は7歳、ドーム兄とラリックの年の差もまた7歳である。ガレとドーム兄弟がガラス部門でグランプリを受賞した1900年のパリ万博で、ラリックは宝飾部門で同じくグランプリを獲得している。その後のラリックはジュエリーからガラス作家へと変身を遂げていた。

 ラリックは1900年の受賞以降、実業家としての周到な準備をしてガラス工芸への転進を図っている。そして、当時生まれたばかりの産業であった香水に目をつけ、薬瓶のようであった容器を、花や女性像をあしらった魅力的なものに替えることに成功している。ジュエリーで手がけたアール・ヌーヴォー様式を離れ、アール・デコのガラス工芸を誕生させるなどの活躍をし、1926年にルネ・ラリック社を設立している。

 ガレやドーム兄弟とは異なり、ラリックのガラス工芸は透明の美学を追求したとされる。また、豪華列車の内装、自動車のカーマスコット、日本の朝香宮邸の正面玄関ガラス・レリーフ扉やシャンデリを手がけるなど活躍の範囲は多岐にわたっている。

 1945年、ルネ・ラリックの没後は長男マルク(1900-1977)が、その没後は孫娘のマリー・クロウドが経営を引き継ぎ、ラリック家が経営から退いた現在も会社は存続し続けている。

 こうしてみてくると、ガレの芸術と事業は一時的なもののように映るが、もちろんガレの人気はドーム兄弟やラリックに勝るとも劣らない。特に日本での人気は高く、日本で最初の本格的なエミール・ガレ展は、1980年にガラス84点、陶器10点、家具6点を集めて、東京(1月29日-2月11日)・名古屋(2月15日-2月27日)・大阪(3月4日-3月16日)で、日本経済新聞社主催で行われたが、当時の図録によると、この展示は世界で初めてのものであるとされている。

1980年開催のエミール・ガレ展(日本経済新聞社主催)の図録表紙

 ガレ社は消えていったが、エミール・ガレの下で経験を積み、当時のガレ工房を中心に担っていた、イタリア人ガラス工芸作家モンテッシーがルーマニア人の女性と結婚した後、ルーマニアに移住、ガレの技術と作風を生かした工房を開き、それを忠実に継承するガラス工芸作家達を育てあげたとされている。

 今でもルーマニアで、エミール・ガレの技術が息づいており、今現在一番忠実に再現されたエミール・ガレの作品は、ルーマニアで作られていると評価されているというから、私が冒頭示したガレ風という作品にもこうしたものが含まれているであろうことを考えると、ガレ社は姿を変えて生き続けているともいえる。

北澤美術館脇に建立されている北澤利男氏の胸像【圓鍔勝三作】(2018.5.8 撮影)

 今年は、今回訪問した北澤美術館のほかに、箱根仙石原のポーラ美術館では「エミール・ガレ・自然の蒐集」と題して、130点のコレクション展示が3月17日から7月16日まで、名古屋の大一美術館では「~ドーム兄弟~ガラスの世界展」が3月9日から11月11日まで、掛川市の資生堂アートハウスでは「ヴィンテージ香水瓶と現代のタピスリー・ラリックとバカラを中心に-」として、100点の展示が4月10日から6月24日まで開催されているなど人気の高さが伺われる。

 改めて、先見の明を持った優れた事業家両氏に敬意を表したいと思う(エミール・ガレ、ドーム兄弟、ルネ・ラリックに関する記述の多くは、公益財団法人北澤美術館 2017年発行の「北澤美術館コレクション選集 アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス芸術・エミール・ガレ、ドーム兄弟、ルネ・ラリック、パート・ド・ヴェール」を参考にさせていただいた。お礼を申し上げる。)。
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ふじ(藤)

2018-05-11 00:00:00 | 日記
 軽井沢ではコブシの花に続いて咲いていた桜もほぼおわり、つつじの美しい季節を迎えている。また、住宅と別荘の庭や周辺の山地では藤の花が咲き始めたが、場所によってはまだ蕾の状態で垂れ下がっていて、満開になるにはもう少しというところである。


南軽井沢の民家の庭に咲くツツジ(2018.5.10 撮影)


南軽井沢の民家の庭先で咲き始める藤(2018.5.10 撮影)

 ドライブ中に山間地などで樹木に絡みついて咲く藤の花は、自然の中で美しい風景をつくり出していて嬉しいものだが、藤はやはり手入れをされた藤棚で見るのが美しいと思う。

 昨年4月29日、親類の結婚式が宇都宮で行われることがわかり、これに出席するのを機に有名な「足利の藤」を見に行こうということになった。前日車で出発し、軽井沢からは上信越自動車道・関越自動車道・北関東自動車道を経て太田桐生ICで高速道路を下りて一般道をしばらく走ると目指す「足利フラワーパーク」に着く。その少し手前のいくつもの畑地はこの時期、臨時駐車場と化していて、ここに車を停めて7分程度歩くことになる。

 私たちは、目的の藤の花の一番美しい時を選ぶことができなかったので、目指す「大藤」の満開の時期にはやや早かったが、それでも三分咲き程度の花を楽しむことができ、園内にたくさん植えられている藤の中にはちょうど満開の時期を迎えているものもあったので、美しい藤の花を満喫することができた。これまでにもTVニュースなどでその見事さは見聞きしていたが、実際に出かけてみると事前の予想を上回る素晴らしさであった。

 現在、この足利フラワーパークには「大藤」と呼ばれる藤は4本あり、内3本は日本を代表する原種・野田(九尺)藤で、もう1本は八重咲きの八重(黒龍)藤である。いずれも1000mほどの大藤棚に仕立てられている。その他にも白花と黄花の藤の花のトンネルや、スクリーン仕立てのもの、庭木仕立てのものがあり、公園内のあちらこちらに植えられている藤は350本以上とされている。

 
園内案内図(足利フラワーパークの公式HPより引用)

 駐車場から来ると西ゲートから園内に入ることになり、最初に出会う「大藤棚」は大長藤である。この藤は他の3本の大藤と共に、栃木県天然記念物・第85号に指定されているもので、樹齢150年、花房は1.8mに及ぶと案内板に説明されている。名称は足利のフジ・ノダナガフジNo.3とある。今回花は咲き始めているものの、花房の長さはまだ50cm程度というところであった。


ノダナガフジ No.3・1/4(2017.4.28 撮影)


ノダナガフジ No.3・2/4(2017.4.28 撮影)


ノダナガフジ No.3・3/4(2017.4.28 撮影)


ノダナガフジ No.3・4/4(2017.4.28 撮影)

 2番目の大藤棚は「八重藤」で、この花は近くで見るとなかなか美しく、ぶどうの房のようにも見える。この藤の名称は、足利のフジ・八重黒龍藤で、樹齢150年、花房は他の3本に較べるととても短く30cmである。


八重藤棚・1/4(2017.4.28 撮影)


八重藤棚・2/4(2017.4.28 撮影)


八重藤棚・3/4(2017.4.28 撮影)


八重藤棚・4/4(2017.4.28 撮影)

 この八重藤のすぐ近くに、池に架けられた「うす紅橋」があり、この橋の上にはアーチ状の藤棚があって、文字通り薄紅色の藤が満開に近い状態で咲いていて、多くの観光客の目を楽しませていた。


うす紅橋の上に架けられている藤棚(2017.4.28 撮影)


うす紅橋の上のアーチ状の藤棚に咲く薄紅色の藤・1/2(2017.4.28 撮影)


うす紅橋の上のアーチ状の藤棚に咲く薄紅色の藤・2/2(2017.4.28 撮影)

 同じ薄紅藤は、観光客が休憩するための場所にある「うす紅の棚」でも見ることができるが、満開のこの花は見事である。


「うす紅の棚」の下で休憩する観光客(2017.4.28 撮影)


美しい薄紅藤の花(2017.4.28 撮影)

 前掲の案内図からも判るように、このうす紅橋の前方(?)には、ほぼ同じ規模の2つの大藤棚、ノダナガフジ No.2とノダナガフジ No.1が遊歩道を挟んで隣接して設けられている。ちなみに、単純計算をすると4本の大藤のうち最大の、ノダナガフジ No.2の広がりは南北35.8mx東西37.1m、1328m2 に及ぶ。


ノダナガフジ No.2(2017.4.28 撮影)


ノダナガフジ No.1(2017.4.28 撮影)

 これらの大藤棚を含む足利フラワーパークは、米国CNNのトラベルスタッフが選ぶ「2014年夢の旅行先 10か所」に選ばれたと伝える看板が設置されていた。



 これらの大藤は最初からこの場所にあったわけではなく、1968年に開園した「早川農園」にあったものを農園の移設に伴い移植したものという。

 入念な事前の根切りと藤棚の縮小を行うと同時に、新たな移植先の土壌改良を行うことで、1994年1月に他の多くの巨樹、古木と共に移植を成功させ、1997年に「あしかがフラワーパーク」としてオープンしている。

 大藤と共に移植されたという庭木仕立ての藤のいくつかを紹介する。


庭木仕立ての藤・1/6 (2017.4.28 撮影)


庭木仕立ての藤・2/6 (2017.4.28 撮影)


庭木仕立ての藤・3/6 (2017.4.28 撮影)


庭木仕立ての藤・4/6 (2017.4.28 撮影)


庭木仕立ての藤・5/6 (2017.4.28 撮影)


庭木仕立ての藤・6/6 (2017.4.28 撮影)

 この藤の木を餌にしている蝶がいる。コミスジとウラギンシジミであるが、園内ではウラギンシジミの♀が藤の花のつぼみに産卵のためだろうか、止まっているところを見ることができた。ウラギンシジミは年に2回発生するが、春から初夏にかけて発生する第1化の幼虫は、藤類のつぼみ、花、若い種子、若葉などをたべる。夏から秋にかけての第2化では同じマメ科のクズが主要な食草で、つぼみと花を食べる。
 

藤の花芽にとまるウラギンシジミ♀(2017.4.28 撮影)


藤の葉の上で翅を広げるウラギンシジミ♀(2017.4.28 撮影)

 美しい藤の花を見た後、帰り間際にこのウラギンシジミに出会い、より一層気分良く足利フラワーパークを後にすることができた。
 
 




 





















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山野でみた蝶(1) ウスバシロチョウ

2018-05-04 00:00:00 | 
 自宅庭に植えたブッドレアとキャットミントの集蝶力はなかなかのもので、2年間にこれまで紹介してきたように、22種の蝶を自宅に居ながらにして写真撮影することができた。実際には、撮影ができず、紹介できなかった種を含めるともう少し多くなる。

 長野県産の蝶の種類は150種に及ぶが、そのうち129種が軽井沢に棲息しているとされる(「長野県産チョウ類動態図鑑」 田下昌志・西尾規孝・丸山 潔編 1999年 文一出版発行、「軽井沢の蝶」 栗岩竜雄著 2015年 ほおずき書籍発行)。周辺の山野に出かけるとまだまだ多くの蝶を見ることができる。それらを今後、「山野でみた蝶」として紹介していこうと思う。

 初回の今回はウスバシロチョウ。姿とその名前に似ず、シロチョウではなくアゲハチョウの仲間である。われわれはこのウスバシロチョウの名前の方になじみがあるが、最近はシロチョウ科と間違えることを嫌って、ウスバアゲハの名前を用いる本も増えてきている。

 正式にはどうなっているのかと思い「日本産蝶類和名学名便覧」というサイトと、「日本産蝶類標準図鑑」(白水 隆著 2011年 学研発行)で調べてみると次のように記されていた。

 日本産蝶類和名学名便覧:
 アゲハチョウ科-ウスバアゲハ亜科-ウスバアゲハ族-ウスバアゲハ属-(和名)ウスバシロチョウ/(別名)ウスバアゲハ

 日本産蝶類標準図鑑:
 アゲハチョウ科-ウスバアゲハ亜科-ウスバアゲハ族-ウスバアゲハ属-(和名)ウスバアゲハ/(別名)ウスバシロチョウ
 
とある。和名と別名に関しては逆になっている。

 ところで、古い「原色日本蝶類図鑑」(1964年 保育社発行)を見ると、当然「ウスバシロチョウ」の名が用いられているのであるが、その横に「ニッコウシロチョウ」という名前も見ることができ、日光に多産したことがその由来とされる。

 この蝶の「和名」にはいろいろあるなと思っていたら、「学名」も本により違っていた。

 上記「日本産蝶類和名学名便覧」にはウスバシロチョウの学名は「Parnassius citrinarius」とされているが、「原色日本蝶類図鑑」では「Parnassius glacialis」となっていて、ウィキペディアでも学名は「Parnassius glacialis」である。

 この点については、「日本産蝶類標準図鑑」に説明があり、次のように記されていて明快である。

 「本種の種小名はglacialis Butler, 1866が長い間用いられてきたが、Motschulskyによって記載された
citrinarius が先行することが最近判明し、本書でもこの説に従った 」。

 さて、このウスバシロチョウ、中華人民共和国東部、朝鮮半島、日本に分布、日本国内では北海道から本州、四国にかけて分布する。北方系のチョウなので、西南日本では分布が限られる。

 前翅長は25-35mm。翅は半透明で白く、黒い斑紋がある。体毛は黄色く細かい。年1回、5-6月頃(寒冷地では7-8月頃)に発生する。卵は幼虫の食草ムラサキケマンには産卵せず、付近雑木の下枝等に2~3個、或いは5~6個ずつ産み付けられ、そのまま卵の中で幼虫となって越冬し翌春2~3月頃食草の発芽するのを待って孵化する。

 日本の日本海側の多雪地帯では個体は黒く、太平洋側の低山地では白い個体が多い傾向があるとされる。

 幼虫の食草はムラサキケマンのほか、同じケマンソウ科のエゾエンゴサク、ヤマエンゴサクなど。蛹時にマユを作るという数少ないチョウ。

 軽井沢の遅い春に見られる蝶である。ふわりふわりと滑空し、我が家の周辺にも現れるが、庭にはこの蝶の好む花が咲いていなかったので、庭にきた蝶の仲間には入れなかった。

 我が家の隣地はまだ空き地になっていて、ここには春になると、タンポポやヒメジョオン、ハルジオンが咲いているので、この花に吸蜜に訪れることが多い。

 南軽井沢の八風湖の周辺に出かけると、よくこの蝶に出会うので撮影はもっぱらここで行っている。以前、1000m林道の脇でも偶然この蝶がたくさん飛び交っているのに出会ったので、翌年も楽しみにしていたが、同じ場所に出かけても、その後出会うことはなかった。

 私たちの目には、特に風景が変わったようには見えないのだが、この蝶にとっては何か大きな変化が起きていたのかもしれない。

 近縁種には、日本では北海道にのみ産するヒメウスバシロチョウとウスバキチョウがいる。ヒメウスバシロチョウはウスバシロチョウに酷似しており、北海道のほぼ全域に棲息していて、ハイブリッドもいるとされているが、ウスバキチョウは大雪山系の標高1,700m以上の山頂部などにのみ棲息するとされる。

 では、以下に軽井沢で撮影したウスバシロチョウをご紹介する。


タンポポで吸蜜するウスバシロチョウ(2013.5.26 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2014.6.14 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.5.22 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.5.22 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.5.22 撮影)


タンポポで吸蜜するウスバシロチョウ♀(2017.5.20 撮影)


タンポポで吸蜜するウスバシロチョウ♀(2017.5.20 撮影)


タンポポで吸蜜するウスバシロチョウ♀(2017.5.20 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.5.22 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.6.17 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ♀(2017.6.17 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ♀(2014.6.14 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.6.17 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.6.17 撮影)


シロツメクサの葉の上で休息するウスバシロチョウ(2017.5.22 撮影)


タンポポで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.5.20 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.6.17 撮影)


ハルジオンで吸蜜するウスバシロチョウ(2017.5.20 撮影)

 ウスバシロチョウは雌雄の差が少なく見分けにくいが、交尾後の♀は受胎嚢をつけるので判別は容易となる。前出の写真でも、この受胎嚢を確認できるものだけは♀としておいた。


受胎嚢をつけているウスバシロチョウの♀・1/3(2017.6.17 撮影)


受胎嚢をつけているウスバシロチョウの♀・2/3(2017.6.17 撮影)


受胎嚢をつけているウスバシロチョウの♀・3/3(2014.6.14 撮影)

 前記の通り、このウスバシロチョウの生活史は、卵の中で幼虫のまま越冬したり、繭をつくりその中で蛹になるなど興味深いものがある。なんとかその様子を3D撮影できないものかと思っている。

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