軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

パール浅間とダイヤモンド浅間

2024-01-12 00:00:00 | 浅間山
 お正月恒例の特別番組を見ていると、今年も早朝、ヘリコプターから日の出を追う企画が放送されていて、太陽が地平線に現れると、スタジオでも歓声が上がり、大型スクリーンに映し出される初日の出の様子を、出演者も手持ちのスマホで撮影する様子がTV画面上で見られた。
 
 続いてヘリは場所を移動させて、富士山の山頂に太陽がかかる瞬間、すなわちダイヤモンド富士の様子を捉えていた。

 毎日のように繰り返される日の出であるが、やはり元旦の日の出となると特別な感慨がある。

 こうした光景を地上から眺めることのできる地域もあるはずであるが、当地からは富士山は望めないので、代りに浅間山に託すことになる。しかし、私自身は元旦のこうした光景には特別な関心があるわけではないので、これまで元旦のダイヤモンド浅間を見ようとしたことがなかったし、撮影することもなかった。

 ところが、偶然ダイヤモンド浅間を見る機会が訪れた。2019年2月9日のことになるが、浅間山の東側、六里ヶ原付近の道路を車で通り抜けようとしたときに、偶然太陽が浅間山の山頂付近に沈んでいくところに出会った。

 かねてダイヤモンド富士やパール富士という言葉は聞いていたので、車を道路わきのスペースに移動させ、持っていたカメラで太陽がちょうど浅間山の山頂にかかる瞬間を撮影した。次のようである。


ダイヤモンド浅間(2019.2.9, 15:25 撮影)

 いつも連絡を取り合っている友人にはこの時の写真をメールに添付して紹介したが、その後はそれ以上、次は日の出時刻のダイヤモンド浅間を追うといったこともなく、忘れてしまっていた。

 一昨年になるが、皆既月食と天王星食が同時に起きる極めて珍しい現象が見られるとの報道に刺激され、11月8日の夕方急に思い立って撮影準備を始めた。その時のことは、当ブログ(2022年11月11日公開)で紹介したが、常用のカメラと超望遠レンズで、月をそこそこに撮影できることを確認した。


皆既月食と天王星(2022.11.8 撮影)

  これに味をしめて、この年の年末に2022年最後の満月を撮影した。この段階では、まだパール浅間を意識しておらず、自宅近くの浅間山を望める場所に行って撮影をしたが、満月は浅間山の左手、西側山麓に沈んでいった。

 ちょうどこの頃、サッカーワールドカップの三苫の1mmという話題で持ちきりであったことから、満月をサッカーボールに、稜線をゴールラインに見立てて、とっさに撮影したのが次の写真であった(2022.12.23 公開当ブログ)。


浅間山麓に沈む2022年最後の満月(2022.12.9, 6:57 撮影)

 この写真を眺めていて、次はぜひ浅間山山頂に満月が沈む、パール浅間を撮影してみたいと思うようになった。しかし、自宅付近で浅間山をきれいに望める場所は意外になくて、満月が浅間山頂上付近に沈んでいく場所となると、条件がさらに限られてくるので、月の入りに関する暦と、自宅周辺の地図とを見比べて撮影ポイントを探すことになった。

 ネット上に撮影ポイントの情報がないか検索してみると、ダイヤモンド浅間とパール浅間の観察会の情報が見つかった。いずれもすでに終了していたが、次のようであった。


小諸市・安藤百福センター主催のダイヤモンド浅間観察会のちらし


小諸市・安藤百福センター主催のパール浅間観察会のちらし

 ダイヤモンド浅間の方は、2121年11月13日開催で、観察場所はまさに私がダイヤモンド浅間に出会った六里ヶ原周辺であった。

 一方、パール浅間の方は、2022年10月10日開催で、観察場所は黒斑山周辺であった。

ダイヤモンド浅間観察場所、パール浅間観察場所と軽井沢の撮影場所

 ダイヤモンド浅間は太陽が浅間山山頂に沈んでいく様子の観察、パール浅間の方は浅間山の山頂付近から満月が昇ってくる様子の観察であった。一方、私が探しているのは、浅間山山頂付近に満月が沈んでいく様子を観察・撮影できるポイントなので、残念ながらこの観察会情報は参考にはならず、やはり自分で探し当てる他ないことが分かった。

 ただ、こうした観察に興味、関心を持つ人がいることに勇気づけられた。

 日の出・日の入り、月の出・月の入りに関する情報は、国立天文台から公開されている。長野県の暦から、上記観察会や、私が満月を撮影した日、今後撮影の可能性のある日に関連したものを抜粋すると、次のようである。


ダイヤモンド浅間とパール浅間に関連した長野県の暦(国立天文台の資料から抜粋)

 2022年12月9日に私が軽井沢町内で月の入りを撮影した時の方位角は、上の表に見られるように、304.0度である。地図から読みとると、同じ撮影場所から、浅間山山頂に沈むところを撮影するには、方位角が310度くらいでなければならないが、年間を通じてそうした状態になることはなく、撮影場所を別途探さなければならないことが分かる(実際には、撮影場所と浅間山の山頂の高度を考慮して、上表の方位角からの補正をしなければならない。)。

 満月時の方位角が最も大きくなる12月を選び、その撮影ポイントを求めると、次の地図の青のラインが得られるので、このライン上で浅間山が最もよく見渡せる場所を探したところ、運よくこれらの条件を満たす場所があった。


パール浅間撮影ポイントを地図上で探す

 撮影予定日は2023年12月27日(月齢14.1)と28日(同15.1)である。月の入りの方位角は26日と28日は全く同じになるので、予定前日の26日に月の入りの場所が期待通り浅間山山頂に来るかどうか確認ができる。

 12月26日早朝に撮影したパール浅間の写真は次のようであった。日の出時刻は6:58なので、まだ真っ暗な浅間山に月齢13.1の月が沈んでいくところを確認したが、ほぼ予定通りの場所であった。

満月前日のパール浅間(2023.12.26, 5:37 撮影)

 翌27日は一番期待していた日であったが、生憎の天候で、浅間山は霧の中。何も見えない状態であったので、翌日に期待するほかなかった。

 
霧が出て浅間山の姿は見えない(2023.12.27, 6:34 撮影)

 翌12月28日も自宅周辺は霧に包まれていて、期待薄であったが、撮影ポイントに行ってみると、自宅周辺よりも高度が高く、霧の上に出ることができたので、僅かに浅間山の山頂付近が望めた。

 
撮影ポイントからは満月と浅間山が見える(2023.12.28, 6:45 撮影)

 ビデオカメラをタイムラプスにして撮影を開始し、傍ら、常用のカメラ2台で写真撮影をおこなった。このタイムラプス映像の方は、先に公開(2024.1.1 本ブログ)しているので、撮影時の様子をご覧いただけるが、霧は濃くなったり山頂付近が見えたりを繰り返した。

 朝焼けが強くなる時や、満月が山頂に接してパール浅間状態になるところでは、幸いにも山頂部の霧が晴れて何とか撮影することができ、次のようであった。

朝焼けの浅間山と上空の満月(2023.12.28, 7:02 撮影)


浅間山山頂付近に沈む満月、パール浅間(2023.12.28, 7:18 撮影)

 できれば、冠雪の浅間山が朝焼けに染まり、その山頂に満月の沈むところを撮影したいものと思っているのであるが。何しろ様々な条件に恵まれなければならず、果たして今後そうしたチャンスが巡ってくるだろうか。



 
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「八ッ場ダム」と「やんば天明泥流ミュージアム」

2023-01-13 00:00:00 | 浅間山
 八ッ場ダムが完成して2年半ほど経つが、ようやく機会を得て見学に出かけてきた。この八ッ場ダムの周辺には「やんば天明泥流ミュージアム」ができていると聞いていたので、むしろこちらに関心があったが、両者を見てみようと思い出かけることとなった。

 八ッ場ダムについては、軽井沢から北軽井沢方面に出かけるときに通過する峰の茶屋近くの交差点に案内が出ていることに気が付いていた。この案内を見るたびに「ああ、八ッ場ダムが完成したのだ」との思いがして、近いうちに見学に行ってみたいものと思っていた。


峰の茶屋付近の交差点に設置された「八ッ場ダム」の案内板

 この八ッ場ダムは、昭和27(1952)年に利根川改定改修計画の一環として調査着手以来、幾多の変遷を経て令和元(2019)年6月に八ッ場ダム本体コンクリート打設完了、令和元年10月に試験湛水を開始し、令和2(2020)年3月に完成した。

 この間には民主党政権時に前原前国土交通大臣による建設中止発表(2009年)もあり、大きな社会問題となった。

 私が、この場所を最初に訪れたのは建設再開(2011年)が決まってからのことで、2013年4月下旬ころであった。現地近くにカタクリ群落があると知り、ここを訪れたが、その際すでに出来上がっていた「道の駅」に立ち寄ったのであった。

 その八ッ場ダム周辺に「やんば天明泥流ミュージアム」ができていることを知ったのはやや遅れてからであった。1783年に起きた浅間山の天明大噴火で、吾妻川流域が泥流に襲われ、大きな被害を受けたことは知っていたが、その詳細についてはまだよく知らなかった。

 この天明の大噴火の被災地としては「鎌原観音堂」のある嬬恋村鎌原地区が日本のポンペイとしてよく知られており、現地にはこの時に起きた大規模な土石なだれによって埋没した鎌原村の資料や絵図、発掘した民家の出土品などを中心とした展示を行っている「嬬恋郷土資料館」もある。また、最近になって更に発掘調査を進めているとの報道もある。

 これに比べると、吾妻川流域の長野原町で起きた泥流被害についてはまだよく知られていないのではと思う。そうしたこともあり、今回八ッ場ダムの完成とともに、周辺にこうした災害の記録を展示する施設ができたことを知り、かねて出かけてみたいと思っていたのであった。

 当日は、まず以前にも行ったことのある道の駅・八ッ場ふるさと館を訪問した。場所は、次図のようにダム湖のほぼ中央にかかる「不動大橋」のたもとにあり、地元の特産品や野菜などの農産物を販売する市場のほか、食事処・コンビニもあり、土曜日ということもあって多くの人で賑わっていた。

八ッ場ダム周辺地図(道の駅・八ッ場ダムふるさと館のパンフレットから)

 建物の中央付近には八ッ場ダムに関する展示と情報提供を行う「情報コーナー」があり、観光情報を入手することができた。また事務員のいる窓口では、八ッ場ダムを撮影し、その写真を持参して提示すると、記念のダムカードがもらえると書かれていた。

 昼食後、最初の目的地である「やんば天明泥流ミュージアム」に向かった。道の駅に来る途中、車から案内が出ているのを見ていたので、場所は分かっていたが、道の駅で入手した上記の地図には出ていない。このミュージアムは令和3(2021)年に開館ということで、新しくできた施設だからだろうか。

 次の地図は、ミュージアムで入手したパンフレットからのものである。


やんば天明泥流ミュージアムを示す地図(ミュージアムのパンフレットから)

 道の駅の賑わいからはやや離れており、我々のほかには来訪者がいなかったが、駐車場に車を停めてミュージアムの建物に向かった。


駐車場から見た「やんば天明泥流ミュージアム」(2022.12.10 撮影) 

 入館料を払って館内に入ると、先ず「天明泥流体感シアター」に案内された。ここでは、江戸時代後期の日常生活の様子と、その生活が浅間山の大噴火により起きた天明泥流に襲われるまでのストーリーを発掘調査の成果をもとに再現し、大画面で上映して見せてくれる。

 別室の展示室では、災害当時の八ッ場を被害の痕跡が残る出土品や古記録で解説しているが、見学の途中から説明員の年配の男性に付き添っていただき、詳しく聞くことができた。

 
「やんば天明泥流ミュージアム」の室内(パンフレットから)

 ここで、1783(天明3)年8月に起きた天明泥流についてミュージアムの展示内容を、図録を参考にしながらみておこうと思う。浅間山の噴火自体は5月に始まっていた。

【噴火の経過と天明泥流】
*8月4日昼過ぎ
 ●浅間山の東から東南東方向で大雨のような激しい降灰
 ●降灰の下では昼でも行灯が必要なほど暗くなる
*8月4日夕方から5日朝
 ●北麓で大規模な火砕流・溶岩流発生
 ●東にたなびく噴煙が夜空を染める
 ●朝、東南東にたなびく噴煙のため南麓では西の空から夜が明ける
*8月5日午前7時30分ごろ
 ●噴火・鳴動がおさまる
*同 午前9時30分ごろ
 ●鬼押出しにあった柳井沼付近で何らかの爆発と崩壊発生 
 ●これが鎌原土石なだれと天明泥流となる
*同 午前9時35分ごろ
 ●鎌原(浅間山山頂から約12㎞)に土石なだれ到達
*同 午前9時45分ごろ
 ●長野原(同 約23㎞)に泥流到達
*同 午前9時50分ごろ
 ●川原畑(同 約30㎞)に泥流到達
*同 午前10時20分ごろ
 ●原町(同 45㎞)に泥流到達

 と、このように浅間山の北麓で起きた大爆発により発生した土石流は、その後吾妻川に流れ込んで泥流と化し、約15分後には浅間山山頂から23㎞離れた吾妻川流域の村を襲っている。

 この泥流は吾妻川を流れ下り、利根川に合流後現在の群馬県・埼玉県・千葉県を経て翌日8月6日の18時ごろには浅間山山頂から約285㎞も離れた銚子にまで到達している。

 鎌原土石なだれと天明泥流による死者数と被害家屋数はそれぞれ、1,523人と2,065戸に及んだとされる。このうち、最大の死者が出たのは鎌原地区をはじめとする嬬恋村で786名、次いで今回訪れた長野原町一帯で440名、そしてはるか下流域と思える川島地区を含む現在の渋川市で221名もの死者を数える。

 この川島地区には吾妻川を流れ下った巨大な溶岩・浅間石が畑の中に今も残されていて、金島の浅間石と呼ばれている(2016.11.4 公開当ブログ「浅間石(2)」参照)。


浅間山からの泥流が襲った吾妻川流域地図(ミュージアム図録より)
 
 天明泥流の総量については詳しい数値は示されていなかったが、八ッ場地域の村落は吾妻川との高低差が30~60mとされていて、ここにさらに3mの厚さで堆積していることが発掘調査で明らかにされている。

 展示館にはこの堆積地層を樹脂で固めて剥ぎ取ったものが展示されている。

「天明泥流」堆積地層の剥ぎ取り作業(ミュージアム展示より)

 
樹脂で固め、剥ぎ取られた高さ3m余の地層(ミュージアムの展示より) 
   
 吾妻川から溢れだして、流域の八ッ場地区の村落を襲った天明泥流の範囲は次のようであったとされる。八ッ場ダムの建設・完成により、こうした範囲の約半分が水没していることが分かる。
 
 
八ッ場における天明泥流の到達範囲(茶色の部分、ミュージアム図録より)

 天明噴火時の鎌原火砕流と、吾妻川で泥流と化した土砂移動に関する論文(井上ら、応用地質35巻1号、1994、pp12-30)によると天明泥流の総量は、水分を含めて1.4億立方メートルとの推定がなされている。

 ミュージアムには浅間山の活動の歴史が、年表形式で展示されているが、それによるとこれまでに3回にわたり、山麓に大きななだれ現象をもたらしている。

 1回目は、今から約2.5万年前頃に起きた大規模山体崩壊により発生した岩屑なだれで、吾妻川流域からさらに利根川流域の前橋に流れ下った泥流が、この地方に厚さ10mの台地を形成した。崩壊岩屑の総量は40億立方メートルとされる。 

 2回目は1108年に起きた天仁噴火の時のもので、浅間山の南北に総量10億立方メートルの噴出物が流れ出した。この時の堆積物は吾妻川流域には達していない。

 3回目が1783年の天明噴火で、噴出物の総量は4.5億立方メートルとされ、その一部が天明泥流となっていることになる。

 八ッ場ダムはこうした環境のもとに建設された。ミュージアムを見学した後、その八ッ場ダムサイトに移動した。最寄りの駐車場に車を停めて、少し歩くと「なるほど!やんば資料館」のある建物に着く。

ダムサイトに設けられている「なるほど!やんば資料館」(2022.12.10 撮影)

 ここでは、八ッ場ダム建設の歴史が映像と年表で示されていて、ダム周辺のジオラマも見ることができる。


「なるほど!やんば資料館」の展示室(2022.12.10 撮影)

 ここから、ダム堤の上を歩いていくと、ダムの下に降りるエレベータがあり、一般の見学者が利用できる。これを使ってダム下の放水流路にかかる真っ赤な橋からダム全体を見上げることができる。


ダム上部、左奥にエレベータ乗り場が見える(2022.12.10 撮影)

エレベータで降りることができるダムの下部(2022.12.10 撮影)


ダムの下部とダム堤をつなぐエレベータの通路(2022.12.10 撮影)

 ダム下でスマホ撮影した写真を、帰路道の駅にあった「情報コーナー」で提示すると、次のようなカードを受け取ることができた。ダム全体が写っていることが条件であったので、それもあって、ここまで来て撮影したのであった。

道の駅八ッ場ふるさと館の情報コーナーでいただいた記念カード(表)

道の駅八ッ場ふるさと館の情報コーナーでいただいた記念カード(裏)

 壮大なダムに感激しながら帰路に就いたが、このダムと八ッ場地区そして浅間山について思いを巡らすことになった小旅行であった。

 八ッ場ダムは2019年10月に湛水を開始したが、その直後日本を襲った台風19号がもたらした豪雨の際にその力を発揮し、首都圏を救ったと報じれらていた。

 一方、これまで浅間山の活動が周辺地域に与えた影響の大きさを考えると、天明泥流時のような噴火や、それを10倍も上回る山体崩壊のような事態が発生したときに、いったいどのようなことになるのだろうかと考えてしまう。

 「やんば天明泥流ミュージアム常設展示図録」の冒頭の「ごあいさつ」に書かれている次の文章がとても印象に残る。

 「長野原やんば天明泥流ミュージアムは『八ッ場ダム』建設にともなって行われた、26年間、約100万mにおよぶ発掘調査の成果に基づき、天明3(1783)年の浅間山大爆発で発生した天明泥流によって埋没した村落、および縄文時代からの八ッ場の歩みを展示する博物館です。
 本館の展示資料は、天明泥流とダム建設という、二度にわたる八ッ場地域の人たちの苦難の歴史を経て、目にすることができるようになったものです。・・・」



 

 

 



 

 

 
 

 
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浅間山とヴェスヴィオ山(2/2)

2019-08-09 00:00:00 | 浅間山
 ヴェスヴィオ山、浅間山がよく似た山容をもつと共に、時代は異なるものの、過去によく似た規模の噴火・山体崩壊を起こしていたことを、前回紹介した。そして、今後予想されるヴェスヴィオ山の噴火については、イタリアでは国をあげての防災対策が作られていることを見た。

 今回は浅間山と桜島という、日本の2大火山の噴火の歴史と、2地域における現代の防災対策について見ておこうと思う。桜島を加えたのは、前回紹介したように、鹿児島市とナポリ市が姉妹都市提携をしていることによる。

 ヴェスヴィオ山、浅間山、桜島の3火山を中心に、過去の火山噴火規模を、前回紹介したVEI基準で分類すると次のようである。尚、発生頻度と過去1万年間の発生回数は、全地球規模の数字で、この3火山についてのものではない。


VEIで分類したヴェスヴィオ山、浅間山、桜島などの噴火の歴史

 小山教授も前記著書の中でヴェスヴィオ山と浅間山の類似性を指摘しているが、79年のヴェスヴィオ山と2.4万年前の浅間山の噴火はほぼ同規模と考えられている。1108年の浅間山の天仁の噴火は、2.4万年前と同じVEI区分「5」にあるが、噴火の規模はその約1/3である。また1783年の天明噴火は、さらにその1/2で、79年のヴェスヴィオや2.4万年前の浅間の噴火規模と比べると約1/6ということになる。

 ヴェスヴィオについては前回、小山教授の著書から、詳細を引用したが、今回は浅間山について、村井 勇著「浅間山」(2013年 浅間火山博物館発行)を参考に、過去の噴火と、それによる災害の発生状況を見ておこうと思う。

 浅間山は、周知の通り日本で最も活発な活火山の1つであり、世界でも代表的な活火山で、標高2,568m、東西約15km、南北約35km、面積約50km^2(平方キロメートル)、体積約56km^3(立方キロメートル)の成層火山である。

 浅間山は新旧の3つの火山体によって作り上げられており、その最も古い火山体は黒斑火山である。この黒斑火山は、標高2800mほどのほぼ完全な円錐形の火山であったが、約2.4万年前の噴火の際に火山錐の東半分が崩れ、その後さらに山体の東部が陥没し、そのあとに仏岩火山が形成された。さらにその上に一番新しい前掛山が成長した。以前、当ブログ「山体崩壊」(2017.4.28 公開)で紹介したが、改めて今回掲載の写真で書き直したものと、ヴェスヴィオ山とを比較してみると次のようである。


2.4万年前の噴火前の旧浅間山(黒斑火山)の姿の想像図


79年の噴火前のヴェスヴィオ山の姿の想像図

 前掛火山の頂上部には、天仁の噴火(1108年)の際に陥没してできた大きなくぼみがあり、その中に成長した中央火口丘の釜山の頂上に現在の噴火口がある。

 黒斑火山の活動の末期(2.4万年前)に起きた大規模な噴火は山体の崩壊を伴い、南は現在の佐久市、軽井沢町、北は長野原町に岩塊や土砂が流れ、小丘状の流れ山を作っている。南軽井沢では岩屑なだれの堆積物により湯川がせき止められ、湖沼ができた。

 岩屑なだれは北の吾妻川に流れ込み、さらに泥流となって下流を襲い、中之条盆地では30m~40mも河床が上昇し、利根川合流点付近でも40mの河床上昇があった。前橋付近まで流れて土砂を15mも堆積させた。現在の前橋市街はこの体積土砂の上にある。

 南麓では岩屑なだれが佐久平で千曲川に入って泥流が発生し、上田盆地にまで達して厚い堆積層を残した。

 これに次いで起きた、有史以来の記録に残る最初の噴火は、嘉承三年/天仁元年(1108年9月)の、現在の火山体である前掛火山の噴火であった。噴火は8月下旬から10月にかけて発生し、最初はブルカノ式爆発的噴火で始まった。初めは主に火山灰を降らせたが、やがて噴火の勢いが激しくなり、軽石を噴きだし、続いて莫大な量のスコリア(暗色の多孔質塊)、軽石、火山灰が噴出した。現在でも中腹の峰の茶屋付近では2mのスコリア、火山灰の層が見られるという。

 8月30日頃に莫大な量のスコリア質の岩塊と火山灰が一度に火口から噴き出され、一団となって火砕流を形成し、山腹を流れ下って、南側と北側の山麓に広がった。火砕流は南麓の御代田町東半分から軽井沢町追分付近の湯川までに達し、北麓でも山麓一帯に広がり、大笹付近で吾妻川に達した。その面積は80平方km、体積0.6立方km、平均の厚さ8mほどになった。この火砕流は追分火砕流・嬬恋火砕流と呼ばれ、キャベツのような形の火山弾状の本質火山岩片(浅間石)を含むことが特徴である。

 南麓では御代田町から軽井沢町にかけての広い地域が火砕流堆積物により完全に埋没してしまった。軽井沢付近から碓氷峠を通る東山道はこのために路線変更をしたと思われるという。

 この噴火の総噴出量は1.0立方kmを超えると計算されている。

 これに続く天明三年(1783年8月)の噴火は日本の災害史上最も重要な噴火で、噴出物の総量は0.5立方kmに達し、天仁噴火の半分ほど、1991年の雲仙普賢岳噴火の1.5倍ほどであった。この時の噴火による被害は主に群馬県側に集中した。特に鎌原火砕流・岩屑なだれの発生と、それに伴って起こった吾妻川と利根川の泥流による被害がほとんどすべてであった。一方長野県側では軽井沢宿が噴石の降下で家屋が潰れ、火災を起こし、噴石に当たった1~2名が死亡した。沓掛(中軽井沢)では泥流が発生したのみで、大きな被害はなかった。特に著しい被害をこうむったのは北側の鎌原集落で、100軒ほどの家があったが、全村が岩屑なだれの下に埋まってしまい、住民560~570人のうち477名が死亡し、93名が助かった。この岩屑なだれは、熱いガス雲を伴っていなかったため観音堂に駆け上った人は無事であったという。

 全体での死者の数はいろいろな数字があげられているが、当時の幕府が派遣した根岸九郎左衛門の覚書によると、おそらく1,500名を少し超えるほどと考えられるとされる。

 岩屑なだれに埋没した鎌原集落の発掘調査は1979年に浅間山麓埋没村総合調査会が組織され、本格的に進められた。これにより、3軒の潰れた家と多くのガラス製の鏡などの生活用品が発見され、30~40歳の女性の遺体も見つかっている。また、観音堂の前の石段が掘り下げられ、50段の石段が現れ、5.9mの最下部から2名の女性の遺体が発見されている。テスト・ピット調査の結果によると、鎌原地区での岩屑なだれ堆積物は厚いところで9m、薄いところで2~3mに達していた。

 こうしたことから、鎌原村は日本のポンペイと呼ばれることがある。観音堂近くに建てられた「嬬恋郷土資料館」では天明の大噴火に関する資料の数々を見ることができ、また火山災害という共通の歴史を持つ事が縁でポンペイの噴火犠牲者の人型レプリカも展示されている。

 多くの被災者を出した浅間山の天明の大噴火であるが、この噴火の影響は直接的なものだけに留まらなかった。この時代は世界的に火山活動が盛んであり、1766年フィリピンのマヨン、1772年ジャワのパパンダヤン、1775年グアテマラのパカヤが噴火し、大量の火山灰が上空高く吹き上げられた。浅間山の噴火と同じ年1783年6~8月にはアイスランドのラガキガル(アイスランド語、英名はラキ)でも有史以来世界最大級の噴火があった。吹き上げられた火山ガスと火山灰は成層圏に停滞して日照を妨げ、気象に大きな影響を及ぼす。中でも浅間山とラガキガルの噴火は特に規模が大きく、両者とも気候に対して同程度の影響があったとされる。この影響は全世界、特に北半球に及んで、気温低下が起こった。

 ヨーロッパでは1783年から1784年の冬は平年より5℃も低下した。日本でも1783年から1787年にかけて冷夏が続いた。吾妻川や利根川沿いの村々では田畑に泥が入って使えなくなり、関東地方一帯の降灰が厚く覆った地域も耕作に大被害を受け、秋頃から飢饉が起こった。吾妻川の谷合の村々では多くの餓死者が出た。

 降灰の被害を受けた群馬県だけではなく、東日本、特に奥羽地方一帯が凶作となり、破壊的な飢饉となった。東北地方だけで数十万人の餓死者が出、疫病の流行もあって、天明の飢饉による餓死者・病死者の総計は全国で100万人近いという途方もない結果を招いた。

 次に桜島について見ておく。今年3月に九州旅行をした時に立ち寄った鹿児島市の仙厳園では、折から噴煙を上げる次の写真のような桜島を見ることができた。


仙厳園から見た噴煙を上げる桜島(2019.3.15 撮影)

 桜島(さくらじま)は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77平方キロメートルの火山。かつては島であったが、1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなった。

 明治以前は2万以上であった島内の人口は、大正大噴火の影響によって9,000人以下に激減。その後も減少が続き、1985年(昭和60年)には約8,500人、2000年(平成12年)には約6,300人、2010年(平成22年)には約5,600人となっている。
 
 約1.3万年前に発生した噴火によって噴出したテフラ(火山灰)で、火砕物の総体積は11立方kmに及び、2.6万年前〜現在までにおける桜島火山最大の活動であったとされている。VEIは6。他の桜島火山起源のテフラで火砕物噴出量が2立方kmを越えるイベントはないので、桜島-薩摩テフラは他のテフラとくらべ桁違いに大きい。この噴火によって、桜島の周囲10km以内ではベースサージが到達したほか、現在の鹿児島市付近で2m以上の火山灰が堆積しており、薩摩硫黄島などでも火山灰が確認されている。
 
 有史以降の噴火としては、30回以上の噴火が記録に残されており、特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火であった。

 1471年(文明3年)9月12日に大噴火(VEI5)が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録がある。

 1779年(安永8年)11月7日の夕方から地震が頻発し、翌11月8日の朝から、井戸水が沸き立ったり海面が紫に変色したりするなどの異変が観察された。正午頃には南岳山頂付近で白煙が目撃されている。昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、その直後に桜島北東部からも噴火が始まった。夕方には南側火口付近から火砕流が流れ下った。夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸や長崎でも降灰があった。

 11月9日には北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、翌11月10日には海岸に達した(安永溶岩)。翌年1780年(安永9年)8月6日には桜島北東海上で海底噴火が発生、続いて1781年(安永10年)4月11日にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。一連の海底火山活動によって桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。島々のうちいくつかは間もなく水没したり、隣接する島と結合したりして、『薩藩名勝志』には八番島までが記されているという。死者は150人を超えたが、最も大きい燃島(現・新島)には1800年(寛政12年)から人が住むようになった。

 噴火後に鹿児島湾北部沿岸の海水面が1.5–1.8 m上昇したという記録があり、噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられている。一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方km、軽石が約0.4立方kmにのぼった。VEIは4。薩摩藩の報告によると死者153名、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上になった。

 1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5立方km、溶岩に覆われた面積は約9.2平方km、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。この時の噴火はプリニー式噴火であり、火山爆発指数4、被害は死者58、傷者112、焼失家屋2,268であった。

 桜島の黒神集落にあった鳥居は、1914年噴火で上部をわずかに残し約2mの噴石や火山灰に埋もれてしまい、埋没鳥居として残されている。

 ここで、ヴェスヴィオ山、浅間山、桜島とその周辺の都市の位置関係を見ておくと次のようである。


ヴェスヴィオ山と周辺の都市


浅間山と周辺の都市


桜島と周辺の都市

 さて、ヴェスヴィオ山では、地質学者協会会長のフランセスコ・ルッソ氏による『今後100年間に大噴火が起きる可能性は27%』との予測に基づいて各種防災対策がとられていることを前回紹介したが、日本ではどうか。

 日本には、北方領土を含めると111の活火山があり、その内50の火山では24時間体制で監視が行われている(常時観測火山、気象庁資料による)。そのうち13の火山がAランク(気象庁ではこの分類は用いていない)に位置付けられているが、その中に浅間山と桜島が含まれている。

 浅間山では、以前から防災マップが作られていた。ここには最近100年間に発生した小~中規模噴火の場合と、天明噴火(1783年)の場合を想定した「火山ハザードマップ」が記されている。この場合、噴火により火口から噴出した高温の岩塊や火山灰、軽石などが高温のガスと混合し、それらが一体となり地表を流下する「火砕流」だけではなく、これに加えて、冬期間、山頂付近で雪が積もっている時期に中規模の噴火をし、火砕流が発生した場合、この火砕流により雪が解け、土砂や火山灰と一緒になり、斜面を高速で流れ下る「融雪型火山泥流」のシミュレーション結果が公表されていた。

 これに加え、過去に発生した大規模噴火と同等の噴火に備え、避難計画等の策定を進めるため、大規模噴火を想定したハザードマップが検討された。浅間山火山防災協議会に県、市町村、関係庁など19機関により構成された専門部会が設置され、平成28年10月18日~平成30年3月31日の期間をかけて、ハザードマップを新たに作成するとともに、平成15年に作成した小~中規模ハザードマップをわかりやすくするため、一部改訂が行われた。

 この結果は、関連する県、市町村からホームページなどを通じて発表されることとなったが、軽井沢町では2018年6月1日に公表されている。また、2019年7月初旬にはこの新たな内容を盛り込んだ浅間山火山防災マップが各家庭に配布された。

 新たに作成され、ホームページで公開された大規模噴火(噴火警戒レベル4・5相当)のハザードマップは次のようなものであり、少なからず関係地域住民に衝撃を与えたようである。図で、濃い赤の部分は「火砕流」の到達範囲を示し、その周囲の淡い赤の部分は、「火災サージ」(火山ガスを主体とする希薄な流れ)の到達範囲を示している。


浅間山、大規模噴火時のハザードマップ(軽井沢町公式HPより)

 浅間山では、1933年に東京大学地震研究所の浅間火山観測所が開設し、以来観測網を整備しつつ、監視活動を継続しているが、今のところ大噴火につながる兆候は見られておらず、ハザードマップの利用についても、私の住む軽井沢町では個々の家庭に実態を周知し、避難場所情報の提供などが行われているレベルであり、ヴェスヴィオ山のような緊迫した状況にはない。

 一方、桜島には1950年に京都大学の桜島火山観測所が設置され、監視活動を行ってきている。鹿児島市では「一人の死者も出さないために」というスローガンを掲げて、桜島を中心とした避難訓練も、大正大噴火発生日に因んだ毎年1月12日に桜島の噴火を想定して行われている。この訓練には桜島フェリー等の船舶や海上保安庁の巡視船艇による海上脱出訓練等が含まれているという。


桜島のハザードマップ

 ちょうどこの原稿を書いている最中、2019年8月7日の22時10分頃に、軽井沢町の広報放送が流れ、浅間山の噴火を伝えた。同時に、気象庁発表の鬼押出しのカメラ映像がネットを通じて発表されたが、火口からまっすぐに吹き上がる噴煙が映し出されていた。また、これを受けて浅間山の噴火警戒レベルは従来の1から3に引き上げられた。これにより、火口から4km以内への入山は規制されることになる。また、今回の浅間山噴火は従来とは異なり、前兆を捉えることができなかったと気象庁は発表している。


気象庁発表(2019.8.7 22:09:55)の鬼押出しのカメラ映像
 
 一夜明けた今朝の浅間山は元の状態に戻っており、噴煙は見られなかった。


南軽井沢から見た小噴火後の浅間山(2019.8.8 5:46 撮影)

 御嶽山や草津白根山の例を引くまでもなく、いつ起きるか判らない火山噴火であるが、最新の情報を基にした被害想定と対応計画の策定や、常日頃の訓練がやはり重要なのだと改めて感じさせられる。



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浅間山とヴェスヴィオ山(1/2)

2019-08-02 00:00:00 | 浅間山
 先日TVの人気長寿番組「世界ふしぎ発見」で、ポンペイ遺跡のことを扱っていたので、妻と見ていたら、ポンペイの街の背後にヴェスヴィオ山が映し出され、その姿が浅間山にとてもよく似ていることに気が付いた。私はまだイタリアには行ったことがなく、当然ポンペイも同じである。


南軽井沢からの浅間山(2015.7.14 撮影)


ナポリ側からのヴェスヴィオ山(ウィキペディア 「ヴェスヴィオ山」2019年7月17日から引用 )

 ヴェスヴィオの姿は、南東のポンペイ側からと西のナポリ側からでは、左右が反転し、異なって見えるが、ナポリ側からの姿がより軽井沢から見える浅間山に近いので、上の写真ではこちらを紹介した。

 また、この番組の回答者の一人が、映画「テルマエ・ロマエ」の原作者ヤマザキマリさんで、彼女が今「プリニウス」を取り上げ、新たな漫画を描いていることが紹介された。

 プリニウスのことがこの番組で話題になったのは、ポンペイの悲劇を後世に伝えたのが、(大)プリニウスの甥である(小)プリニウスであったということだが、大プリニウスが友人からの手紙でポンペイの町がヴェスヴィオ火山により被災していると知り、自らが司令官であった艦隊を率いてポンペイ救援に赴いている中で命を落としていたこともまた、小プリニウスが残した書簡によって伝えられていたのであった。

 大プリニウスといえば、「博物誌」の著者として、これまでにも度々当ブログでも紹介する機会があったが、ヴェスヴィオ火山噴火時に亡くなっていたことは寡聞にして知らなかった。そんなこともあって、大プリニウスについてもっと知ろうと思い、私としては珍しく、ヤマザキマリさんととり・みきさんの漫画「プリニウス」を買って読み始めたところである。


ヤマザキマリ、とり・みき作の漫画「プリニウス(Ⅰ)」の表紙

 今回の、TV番組「世界ふしぎ発見」の主要テーマは、1748年以来続けられている、ポンペイ遺跡発掘の最新成果の紹介で、ポンペイの街がヴェスヴィオ火山の噴火により壊滅した日が、小プリニウスが書き記したとされる西暦79年8月24日ではなく、同年の10月17日以降である可能性が出ているということであった。

 2018年にポンペイの第五地区という場所の発掘を行った際、家屋の室内の壁に「11月の最初の日からさかのぼって16番目の日」と書いたメモがが発見されたからである。また、この記録以外にも、遺跡からは秋に実る果物が枝に付いたままの状態で発見されていることもあり、季節が夏ではなく、秋であったことの証拠とされ、この新発見を裏付けるものとされている。

 これに伴って、従来、小説や映画の「ポンペイ最後の日」で示されていたような、贅を極めた当時のローマの上流階級が、天罰を受けるようにしてヴェスヴィオの噴火による火砕流にに襲われて亡くなって行ったというイメージが変わることになるという。

 ヴェスヴィオ火山の火砕流がポンペイを埋め尽くした日がこれまで信じられていたように、夏のことであれば、ローマから避暑のために別荘を訪れていた多くの上流階級の人々がいたと想像されるが、季節が秋だとすると、避暑客はすでにローマに戻っていて、ポンペイに居たのは、この地のもともとの住民であり、上流階級の人達を支える立場の人達であったと考えられている。

 その中には奴隷もいたとしていたが、当時のローマの奴隷は、今日われわれが想起するものとは違っていて、努力次第では奴隷の立場からも開放され、財を成すことも可能であったとされていた。

 今回のこの番組を機に、ポンペイを埋め尽くしてしまった火山「ヴェスヴィオ」について調べてみたくなった。そして、ヴェスヴィオと形がよく似ている「浅間山」や、火山と周辺市街地との関係が似通っている「桜島」とを比較してみようと思う。この「桜島」を加えたのは、その麓に位置する鹿児島市が、ナポリと姉妹都市提携をしているということもある。

 さて、番組の紹介はこれくらいにして、まずヴェスヴィオ山について見ていこうと思う。

 手元にある、火山学者の静岡大学・小山真人教授の著書「ヨーロッパ火山紀行」(1997年筑摩書房発行)には、ギリシャ・イタリア・アイスランド・フランス・ドイツにある多くの火山が紹介されているが、その中の一つにヴェスヴィオが取り上げられていて、ヴェスヴィオの噴火の様子とポンペイの町が噴火に伴って放出された軽石や、火砕流により埋もれていく様子が、科学的な立場で、次の様に記されている(噴火の日付けは本の出版当時のままとした)。


小山真人教授著「ヨーロッパ火山紀行」の表紙

 「79年噴火の推移は、山麓に分布する火山灰などの噴火堆積物の地質学的な研究と,噴火を記述した古記録の研究から、かなり明らかになっている。・・・8月24日の昼ごろに最初の水蒸気マグマ噴火が生じた後、午後1時ころに火口から巨大な噴煙が立ちのぼり、高度30km付近の成層圏に達した。この噴煙は北西の風にのって南東方向に広がり、その方角にあったポンペイの町におびただしい白色の軽石を降らせ始めた。
 ・・・町の人々の多くはその場所にとどまったらしい。巨大な噴煙は絶えることなく続き、ヴェスヴィオ火山周辺は日没前から闇に包まれた。・・・ポンペイの町に降りそそぐ軽石は衰えを見せず、徐々にその厚さを増していった。
 翌日8月25日未明、噴火活動に重大な変化が生じた。火口の大きさが拡大したことと、マグマ中のガス成分の減少によって、それまでの安定した噴煙の形が崩れて火砕流が発生し始めたのである。火砕流はおもにヴェスヴィオ火山の西斜面と南斜面を流れ下り、そのうちのひとつがヘルクラネウムの町を全滅させて海岸に達した。
 つづいて8月25日の朝,南斜面をやや規模の大きな火砕流が流れ下り、すでに2m以上の厚さの降下軽石に覆われていたポンペイの町を襲った。ポンペイの町に残っていた2000人(筆者注:3,500人という説もある)はこの時に焼き殺された。死の町となったポンペイとヘルクラネウムの上を、さらに数度の火砕流が通りすぎた。・・・79年噴火全体で噴出したマグマの量は、およそ4立方kmと推定されている。噴火による降灰はイタリア半島だけでなく。北アフリカから中東までの広い範囲におよんだ。」
 
 ここで挙げられているマグマの量の、4立方kmという数字は、後に紹介する浅間山の山体崩壊時のマグマの量および岩屑なだれで流下した土石の量を合わせたものと同じレベルである。
 
 また、この著書には”コラム”としてやや専門的な解説が書かれているが、その一つに次のようなものがあり、大プリニウスとその最期の様子が書かれている。

 「79年8月24日午後1時ころ、小プリニウスはヴェスヴィオ山の方角にたちのぼる異常な形の雲を見た。ミセヌムからヴェスヴィオ山頂までは25kmほど離れており、間にはナポリ湾が横たわっている。
 彼の叔父の大プリニウスも、その時ミセヌムにいた。ローマ帝国海軍提督の任にあった大プリニウスは、『博物誌』の著者として知られる学者でもあった。『博物誌』には当時知られていた活動的火山のリストまでが載せられていたから、大プリニウスが異常な形の雲に興味を示したのは不思議ではなかった。
 ちょうどそこへ、ヴェスヴィオ山麓に住む友人から救助を求める手紙が届いた。大プリニウスは軍船を一隻用意させると、部下とともにみずからそれに乗り込んだ。
 北西の風にのってナポリ湾を横断した大プリニウスとその部下たちは、やがてヴェスヴィオ山麓に展開されるすさまじい噴火の地獄絵を船上から眺めることになる。彼らはポンペイ港への上陸を果たせず、ナポリ湾の南東最奥にあるスタビアエStabiaeの町(ヴェスヴィオ火口から14km)に上陸する。
 北西風は,噴煙を火口の南東に位置するポンペイとスタビアエの方向へなびかせたため、2つの町にはおびただしい量の軽石が降りそそいでいた。強い北西風のために船での脱出ができなくなった大プリニウスたちは、そのままスタビアエにとどまることを余儀なくされた。噴火にともなう地震と降り積もった軽石の重みによって、次々に家屋が倒壊した。火口や噴出物を起源とする有毒ガスも町に充満した。
 そして、ミセヌムを出航した2日後の夕方、疲れ果てた大プリニウスはついに息絶えることになった。死因は有毒ガスとも心臓マヒとも言われている。」

 この手紙を残した小プリニウスにちなんで、噴火の名前が付けられたのであるが、次のように説明されている。

 「一方、地震と降灰はミセヌムにいた小プリニウスをも襲っていた。地震による建物の倒壊をおそれた小プリニウスは、8月25日の朝に彼の母とともに屋外へと避難し、降りそそぐ灰を振り払いつつ郊外の丘から噴火の一部始終を観察することになった。
 ・・・彼の観察記録から、ヴェスヴィオ山体を駆け下って海上をつき進んだ火砕流や、ナポリ湾で生じた津波などの事件を読みとることができる。やがて噴火はピークを越え、ミセヌムに戻った小プリニウスは、生き残って帰還した大プリニウスの部下から叔父の死の知らせを聞いた。
 小プリニウスが書き残した79年噴火は、有史以来現在までの間にヴェスヴィオ火山で起きた最大かつもっとも激しい噴火であったことが地質学的調査によってわかっている。・・・世界で初めてこのような破局的噴火の克明な様相を書き残した小プリニウスの名にちなんだプリニー式噴火(plinian eruption)の名前が、大規模な降下軽石をおこす噴火をあらわす火山学用語として使われている。」

 ここで、プリニー式という用語を含む火山噴火の規模についてみておくと、下の表のようにVEI指数というものが定められていて、ここでVEIとの関係が示されている。VEIは英語名称 Volcanic Explosivity Index の略で、火山爆発指数(かざんばくはつしすう)というものであり、1982年にアメリカ地質調査所のクリス・ニューホールChristopher G. Newhallとハワイ大学マノア校のステフェン・セルフ(Stephen Self)が提案した区分である。火山そのものの大きさではなく、その時々の爆発の大きさを表す指標である。

 区分は、噴出物(テフラ)の量でなされる。0から8に区分され、8が最大規模である。VEI=0はテフラの量が10^4(10,000)立方メートル未満の状況を指す。VEI=8はテフラの量が10^12立方(1,000立方キロ)メートル以上の爆発を指す。それぞれの区分には噴火の状況を示す名称(「小規模」など)が付けられている。
 注意すべきことは、VEIの決定にはテフラの種類は影響しないということである。噴出物には火山灰、火山弾、イグニンブライト(溶結固化した火砕流堆積物)などさまざまなものがあり、同じ量であってもその噴出に必要とするエネルギーは異なる。従って、VEIは噴火のエネルギーの大小は意味しない。また、静かに流れるマグマの量は、どれだけ多くても考慮されない。


VEI指数と噴火の様子(ウィキペディア「VEI」を参考にして作成)

 その後のヴェスヴィオの噴火活動についても小山教授は次のように記している。

 「1631年12月16日の早朝、ヴェスヴィオ火山は突然眠りから覚めて噴火を開始し、降灰・火砕流・泥流などによって広範囲に大きな被害を生じさせた。犠牲者の数3000~6000人と推定される大変な災厄だった。
 この噴火の前数ヶ月間にわたり、群発地震・鳴動・噴気・火映・井戸水の異常などのさまざまな前兆があらわれたことが、多数の史料から知られている。噴火の24時間前から群発地震はいっそう激しさを増したらしい。
 噴火は、79年噴火とよく似た推移をたどった。初期に水蒸気マグマ噴火が起き、20時間ほどプリニー式噴火が続いた後、17日未明から火砕流を発生するようになった。火砕流は西および南斜面を流れ下り、一部は海に達した。ナポリ湾では津波も観測された。17日の夕方に噴火はピークを越え、数日かけて収束していった。
 噴出したマグマの総量は、79年噴火の8分の1にあたる0.5立方kmであった。噴火にともなう山体の崩落によってヴェスヴィオ山頂は標高が450mも低下し、ソンマ山より低くなってしまった。・・・」

 「1631年の噴火以後も300年あまりにわたってヴェスヴィオ火山は頻繁に噴火を繰り返したが、79年噴火や1631年噴火のような大規模な軽石噴火は起こしていない。それらの噴火の多くは溶岩流出で始まり、やや爆発的な噴火をした後、数年休むということを繰り返した。
 そして、ムッソリーニ体制下の1944年の噴火を最後に、ヴェスヴィオ火山はふたたび眠りについてしまった。この休止期がいつまで続くのか、そして眠りの後には79年や1631年噴火のような破局的な噴火を起こすのかという疑問に、火山学者はまだ明確な回答を用意できないでいる。かりに今1631年と似た噴火が起きるとした場合、ヴェスヴィオ火山周辺から60万人もの住民を避難させねばならないという。」

 79年噴火前のヴェスヴィオ山の高さについては、はっきりとした数字は示されていないが、1800m前後であるとして、TV番組で示されていた当時のヴェスヴィオを想像して描かれた画像から推察して、前掲の写真に追記すると、ヴェスヴィオは次のようなものであったと思われる。噴火に伴って、ヴェスヴィオの形は大きく変化している。これは、旧浅間山の2.4万年前の山体崩壊と同様のことが起きていることを思わせる。


79年の噴火前のヴェスヴィオの想像図(追加部筆者)

 小山教授が著書に記しているのはここまでであるが、近年ヴェスヴィオ火山周辺の都市では次のような取り組みが行われているという。

 歴史上最大の火山被害を起こしたヴェスヴィオであるが、この火山の周辺にはその後、都市が発達して現在60万人が生活するようになっている。この事に関して、ロンドン大学危機管理講座(第5回 世界で最も危険な火山 –ヴェスヴィオ火山の噴火対策)の中で、奥はる奈氏は次のようにヴェスヴィオ火山災害への現地政府の対策について紹介している。

 「現在のヴェスヴィオ山の状態について、地質学者協会会長のフランセスコ・ルッソ氏は『今後100年間に大噴火が起きる可能性は27%』とし、危険を呼びかけています。
 そのため、ヴェスヴィオ山は数十個のセンサーで監視され、地震、地熱、山の傾きや膨張、地下水、ガスなどが24時間体制で計測されています。観測データは9km離れたナポリ市内のヴェスヴィオ火山観測所まで送られます。伝達手段は、故障に備え、有線、電話、無線等複数用意されています。 ・・・
 ヴェスヴィオ火山のリスクは、火山のすぐ近くまで市街地が存在していることにあります。国が最も危険であると指定した、“レッドゾーン”内にある18自治体には65万人、さらに火山からほど近いナポリ市には100万人が生活しているのです。 
 大規模な噴火が起きた場合、ヴェスヴィオ火山周辺から65万人もの住民を避難させねばならないということから、避難においても国をあげての対策が取られています。具体的には、イタリア政府は国家計画の下、・・・レッドゾーンにある18の自治体それぞれに、あらかじめ避難先となるイタリア国内の16の州が指定されています。
 
 まず、噴火が予知されてから2週間以内に、バス、車、鉄道、船舶などの輸送機関、軍隊といった、国のリソースを総動員して、強制的に住民を避難させることになっています。さらに、避難先には、仮設住宅や社会活動や学校再開するための準備が整えられています。
 実際の避難では、ヴェスヴィオ山の北側の住民は、ナポリからローマの方に、南側住民は海に避難します。南西側と北西側の住民の“GoldenMile”と呼ばれる避難経路は混雑が想定されるため、その対策も進められています。 
 大規模な住民避難を想定した訓練も実施しています。1999年には5000人を船で避難させる実働訓練“Vesuvio 99”が行われました。 2006年、2007年には“MESIMEX(Major Emergency SIMulation Exercise)”という、スペイン、フランス、ポルトガル等、他のヨーロッパ諸国の救急サービス機関も参加する訓練が実施されています。

 このように、ヴェスヴィオ山の計画では、イタリア全土を巻き込んだ計画が策定されています。壮大な計画にならざるを得ないのは、避難させる人口が多いからです。今後20年間に危険地域内の居住人口を10%以上減少させ、製造業など企業も移転させ、代わりに観光産業の発展を進めるという長期的な計画も並行して進められています。そのひとつに、“Vesuvia Relocation Programme”という住民を移住させる取り組みがなされています。・・・ 
  大規模な噴火が起きた場合、ヴェヴェスヴィオ火山へは、国のリソースを全て集中させるような国をあげての避難計画に加え、移住による避難者の減少や産業政策まで含めた長期的な減災計画を実施していることは注目すべきことです。いつ噴火するかわからない火山ですが、ボンベイを滅亡させた歴史を顧み、ワーストケースシナリオに備えて対策をしているといえます。・・・」

 このように国を挙げての避難対策が進められているイタリアの状況である。日本ではどうかというと、全国の火山について多くのハザードマップが作成されている。浅間山については、活動火山対策特別措置法に基づいて、浅間山周辺市町村や、群馬県、長野県、防災関係機関、火山専門家等で構成された協議会「浅間山火山防災協議会」が設けられ、昨年、2018年3月にハザードマップが作成・改訂された。関係市町ではそれぞれホームページでこれを公表し、周知を図っている。軽井沢町では、この内容の一部を、従来からある、浅間山火山防災マップに記載して、2019年7月に各戸に配布している。

 また、鹿児島市では、一足早く2000年3月にやはりハザードマップを作成し、現在、市の公式ホームページで英語版、韓国語版、簡体字版、繁体字版の各言語での情報を公開するとともに、毎年1月には「1人の犠牲者も出さないために」とのテーマのもと、「桜島火山爆発総合防災訓練」を行っているという。
(以下次回)

 

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マリー・アントワネットと浅間山

2018-11-16 00:00:00 | 浅間山
 以前、道の駅「雷電くるみの里」の記事を書いた際に、名横綱・雷電為衛門は、浅間山の1783年(天明3年)の噴火がなかったならば、誕生しなかったかもしれないという話を紹介した(2018.3.9 公開の当ブログ)。

 浅間山の噴火については、もう一つの歴史的な「たら・れば」の話がある。それはマリー・アントワネットにまつわる話で、浅間山の噴火が、フランス革命の遠因になったのではないかという話である。そして、マリー・アントワネットの運命にも。

 今年に入ってからも、さまざまな自然災害に見舞われた日本と世界。

 ハワイでは、5月3日にもともと火山活動が活発で、観光地でもあったキラウエア火山だが、いままで噴火活動が見られていなかった場所に、突然亀裂が生じ、そこから溶岩が噴出するという事態に現地は騒然としている。

 付近の住人1万人に対して避難勧告がなされており、一部観光スポットも閉鎖されたという。溶岩流は住宅街にまで達し、その後しばらく小康状態が続いていたが、現地時間17日午前4時過ぎ(日本時間17日午後11時過ぎ)に大規模な爆発的噴火が観測された。

 この噴火に伴い、噴煙が3万フィート(9km)もの高さまで噴出したとされる。現在はようやく落ち着きを取り戻したようだ。

 アメリカ、カリフォルニア州ではもう年中行事のごとく森林火災が発生し、多くの高級別荘が消失している。また、水の都ベネチアでは、高潮により町全体が水没して、折から開催されていたマラソンでは、選手が水に浸かった町なかを走るという、前代未聞の事態も起きている。

 純粋な自然災害と、その背後には人為的なものが含まれている災害との両方があるとはいうものの、こうした非常事態というべき状況に対し、我々はもう慣れっこになったのか、諦めたのか、その一つの原因とされている地球温暖化問題への関心は、いまひとつ盛り上がりを感じないのは私だけだろうか。

 さて、軽井沢のシンボルでもある日本の代表的火山浅間山、気象庁は、平成30年8月30日、11時00分、噴火警戒レベルを「2」から「1」に引き下げた。ただし、噴火警戒レベルが「1(活火山であることに留意)」及び「2(火口周辺規制)」のとき、軽井沢町側では、小浅間山と石尊山への登山道のみ立ち入りを認めていて、それ以外の部分については、立入禁止にすることになっているので、今回立ち入り区域に関する変更はない。

 この浅間山の大規模噴火の噴火間隔は700 - 800年と考えられている。大きな噴火としては4世紀、1108年、1783年のものが知られ、いずれも溶岩流、火砕流の噴出を伴っている。1108年の噴火は1783年の噴火の2倍程度の規模で山頂に小規模なカルデラ状地形を形成した。現在は比較的平穏な活動をしているが、活動が衰えてきたという兆候は認められず、監視活動は続けられている。


最近の浅間山(2018.10.30 撮影)

 この浅間山の1108年と1783年の2回の噴火による災害について、さらに詳しく見ると、1783年の被害は極めて大きいものであった。1108年の被害は「上州で田畑被害大」と書かれ、人的被害については特に記されていないのに対し、1783年の被害は「死者約1,500、餓死者10万」とあり、火山活動に伴う直接被害の大きさはもちろんだが、間接的な被害の大きさに驚く(「浅間山」《村井勇執筆、浅間火山博物館発行》)。

 この大量の餓死者というのは、火山の爆発によって噴出した火山灰や、火山性ガスが上空に漂い、太陽からの日射エネルギーを弱めたため、地上の気温を下げたことが原因となる凶作によるものと考えられている。この凶作による飢饉は、天明の飢饉として知られるもので、これは必ずしも浅間山の噴火によって始まったものではないが、浅間山の大噴火の影響により、飢饉が長期化かつ深刻化したものとされている。

 こうしたことを調べていて、興味深い本に出合った。

 上前淳一郎氏の「複合大噴火」(1989年 文藝春秋発行)という本である。この本で著者は、同時期に噴火した日本の浅間山とアイスランドのラキ火山の複合噴火が、日本の飢饉だけではなく、ヨーロッパの飢饉にも影響をおよぼし、結果として日本の政変やフランス革命にまで影響を及ぼしたのではないかという考えを提示している。

 著者の上前淳一郎氏については、ずいぶん前に週刊誌の「読むクスリ」というコラムを読んで知っていたが、本格的な著作を読むのは初めてである。この「複合噴火」から、浅間山との関係について記述されている部分を中心に紹介させていただこうと思う。

 次の表は1783年の浅間山の噴火前後の、日本とフランスの政治状況をごく簡単に記したものであるが、両火山噴火と前後して、日本とヨーロッパでは平均気温の低下があり、凶作に見舞われている。そして日本では米不足、フランスでは小麦不足に伴うパン価格の高騰が起き、民衆の不満が高まっていた。

 そして、その結果、江戸時代の日本では田沼意次から松平定信への政権交代を呼んだとされる。一方、フランスでは定信が老中に就任した翌年の1788年4月、フランス全土は猛烈な旱魃に襲われた上に、7月には大規模なひょう害が追い打ちをかけて、小麦は著しく減収し、主食のパン価格は異常に高騰した。翌1789年にかけての冬は猛烈な寒さとなり、パリのセーヌ川も凍りついた。人々はパリに流れ、いたるところで暴動が発生し、ついに7月14日のバスチーユ襲撃という結末を迎えることになる。


ラキ火山、浅間山の噴火とその前後の日本とフランスの政治状況

 浅間山の噴火とフランス革命との間に関連があるとは、話が飛躍しすぎているように感じるが、この辺りについて著者の上前淳一郎氏は、この「複合大噴火」のあとがきで次のように記している。

 「われながら風変わりな本を書いた。これは歴史ではないし、まして気候学でもない。ノンフィクションというには異端にすぎる。エッセイだと思ってもらうのが著者には一番ありがたい。・・・青森県八戸にある対泉院というお寺で、天明飢饉で餓死した人びとの供養碑を見たのは、ちょうど三十年前になる。
 ・・・子供だった太平洋戦争中に飢えは経験しているが、そうでもなければ凶作とは無縁な暖かい中部日本に育った私は、未知の世界に触れた気がした。そして、・・・天明期の飢饉のことを書いてみたい、と思うようになっていった。
 ・・・ちょうどアメリカでセントヘレンズ山が噴火した翌年、その噴煙による冷夏が騒がれているときだったが、ある大学教授が『浅間山天明大噴火とフランス革命との関係』という論文を発表したのである。・・・天明の飢饉の結果もたらされた社会不安が、田沼意次から松平定信への政権交代を呼んだといってよい。そこまでは私も理解していた。しかし、フランス革命にまで影響が及んだとは、考えてみたこともなかった。・・・
 私はすぐその論文を取り寄せ、むさぼるように読んだ。浅間山の噴煙がヨーロッパまでおおって冷夏をもたらし、そのために小麦が不作になってパンが値上がりしたのがフランス革命の原因だ、と書かれている。日本で米の凶作から政権交代が起きたのと同じように、フランスでは小麦の不作が政体の変革を招いたというのだ。・・・」

 しかし、この論文には浅間の噴煙とフランスの不作との因果関係が十分書かれていないと感じた上前氏は自ら調査を行った。そして、天明の浅間噴火が地球規模でどの程度の影響をもたらしたかを知るために、イギリスのH.H.ラム教授がまとめた噴煙指数(ダスト・ベール・インデックス=DVI)を調べた。

 このDVI指数とは、噴火による煙や灰、塵がどのくらい地球の大気に影響を与えたかを推測して、指数で示したもので、1883年のクラカトア火山(インドネシア)の噴火の噴煙指数を1,000として基準としている。過去最大の指数を示しているのは、1815年のタンボラ火山(インドネシア)の3,000である。


DVI指数による世界の主な噴火の大きさ(上前氏の図から主なものだけを採りあげた)

 ここで、浅間山とぼぼ同時期に噴火したラキ火山のことを知った上前氏は、日本の天明飢饉を長期化させ、深刻化させたのは、浅間よりむしろラキ噴火だったのではないかと気付く。さらに、浅間のDVI指数は600と小さいとはいえ、浅間とラキのDVI指数2300とを合わせると2900になり、1815年に噴火し、1816年にヨーロッパ、アメリカに極端な冷夏をもたらした、タンボラ火山(インドネシア)のDVI指数3000にほぼ匹敵することから確信を深めていった。

 こうして、先の大学教授の論文で無視されていたラキ噴火を浅間に加えた複合噴火こそが、フランス革命との関係を論じる場合に対象とされなけらばならないと考え、更に調査を行った結果を纏めたものがこの本であった。

 この「複合噴火」(1992年刊行の文春文庫新装版)には帝京大学教授・首都大学東京名誉教授・三上岳彦氏の解説があり、歴史気候学の立場から次のように分かりやすく書かれていてる。

 「飢饉の原因となった異常冷夏については、浅間の噴火によるとする説があるが、噴火が起こったのは八月上旬であり、気温の異常な低下はすでに春頃から始まっていた。著者の上前氏は同じ年にアイスランドで火を噴いたラキ火山との複合噴火が、悲劇をより大きくしたのではないかと推論している。
 ・・・浅間山とラキ火山から噴出した膨大な量の火山灰と火山ガスは、上空を吹く偏西風にのって世界中に広がっていった。厳密にいうと、火山爆発にともなって噴き上げられた大量の亜硫酸ガスが成層圏にまで達したあと、日射(紫外線)の影響によって硫酸の微粒子(エアロゾル)に変化したのである。上空に漂う火山性のエアロゾルは、太陽からやってくる日射のエネルギーを弱め、地上の気温を下げる効果がある。
 この年の6月8日朝、アイスランド南部のラキ火山が火を噴いた。火山噴火による噴出物の量は、百億立方メートルに達したと言われ、これはおなじ年に噴火した浅間山や1982年に噴火したメキシコのエルチチョン火山の噴出量の20倍にも及ぶ膨大なものであった。亜硫酸ガスに富んだ噴煙は、水蒸気とともに高度10キロメートル以上の成層圏にまで達したのち、硫酸のエアロゾル(青い霧)に姿を変えて2年から3年ほど大気中にただよったために、太陽からやってくる日射のエネルギーが減少し、地上の気温を低下させたと推定される。
 火山の大噴火と気候変動との関係は、実は、そう簡単ではない。・・・1783年の場合、浅間、ラキの複合噴火で、日本は異常冷夏をむかえたが、イギリスやフランスなど、ヨーロッパ西部の諸国では暑い夏となった。・・・一般的に、火山大噴火後には、気温低下に明瞭な地域差が生ずることは従来から指摘されている。
 本書では、複合大噴火後のこうした気温変化の地域差についても、科学的に納得のゆく説明が加えられており、単なる歴史的事実の記載に終わっていない点で、説得力がある。」

 一方、本のあとがきでは、上前氏は次のように控えめに書いているのであるが。

 「・・・ただ、かんじんの1783年の複合噴火が89年のフランス革命の原因だったかどうかについての論証が、完璧にできたとは私は思っていない。革命の前年フランスは不作で、その結果起きたパンの値上がりが暴動を呼んだことは確かだが、それが噴火のせいだと断定するだけの根拠を私は握っていない。・・・また、かりにパンの値上がりの遠因が噴火にあったとしても、それだけでフランス革命が起きたと主張するつもりは私にはない。・・・」

 地球の気候変動の問題が、極めて複雑であることは、今日の地球温暖化の議論でも感じることで、上前氏がこのように断定的な表現を避けていることは理解できるところである。

 さて、浅間山の麓で暮らす私は、日々浅間山を眺めながら、大噴火の起きないことを願っているのであるが、一方で浅間とパリとをつなぐこの壮大な物語に、何故かわくわくしたものを感じる。

 今、手元に、マリア・テレジアと名付けられたワイングラスがある。カップ部分がウランガラスでできていて、紫外光下で緑色に光る。あのマリー・アントワネットの母親の名前がついたこのワイングラスを見るたびに、フランスに思いを馳せ、「たら・れば」とついつい考えてしまうのである。


マリア・テレジアの名を冠したワイングラス(左:通常光下、右:紫外光下、)




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