軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ガラスの話(1)天然のガラス

2017-11-24 00:00:00 | ガラス
 今回は、ガラスの話。これから時々ガラスに関する話題を取り上げて行こうと思っている。軽井沢から話がそれるように見えるかもしれないが、実は「軽井沢」という地名の由来を見ると次のように言われている。

 「・・・諸説によれば、“凍り冷わ(こおりさわ)”から転じたというものや、“軽石沢”から来たというもの、また水が枯れた“かれ沢”から来たというものもある。

 ・・・「軽井沢」という地名は、軽石や火山灰土など火山堆積物に由来する地形につけられた地名だといわれている。長野県内でも上田市に入軽井沢、また長野市更信地区に軽井沢という集落がある。

 また、山形県や、熱海や横浜にも軽井沢という地名があるが、いずれも火山堆積物の侵食地形に付けられた地名という点で共通している。」(軽井沢観光案内から引用)

 実際、我が家の庭を掘ってみると1~2センチほどの、白っぽい軽石がたくさん出てくるのが見られる。この軽石はガラスでできていることをご存知だろうか。


軽石の写真(ウィキペディア「軽石」2016年3月16日より)

 ちょっと無理な関連付けになったが、そういうわけでガラスの話。

 今回は、その最初の話題としてこの軽石など地球上に存在する天然のガラスから。

 ガラスは構造的には非晶質固体、地球上に存在する多くの岩石や鉱物、宝石などは特有の結晶構造を持っているが、ガラスはこのような結晶形態を持たない物質として分類される。

 この非晶質構造は液体から固体に移行する過程で生じた準安定状態といわれる状態であって、最終的にはより安定な結晶状態になるべきものとされているが、その生成過程で何らかの理由により、ほとんどは急冷されることにより、この状態にとどまっている。

 自然に存在しているガラスは、そのほとんどが火山活動に関係している。

 溶岩が噴火によって空中に吹き上げられ、急速に冷却されて生じるものがそのひとつで、火山灰や軽石として身近な存在である。火山灰と軽石は同じ物質であって、サイズが2mm以下のものが火山灰とされている。

 軽石の内部には結晶質のものが含まれることもあるが、それらは噴出する溶岩中にすでに結晶として存在していたものと考えられている。

 火山灰で有名なものには、南九州地方に見られるシラス(白砂、白洲)がある。これは火山灰が堆積してできたもので、外観が白色のさらさらした状態である。

 その組成は:
二酸化ケイ素・・・・・65~73%
酸化アルミニウム・・・12~18%
酸化ナトリウム・・・・約4%
酸化カリウム・・・・・約4%
酸化鉄・・・・・・・・約1.5%
酸化カルシウム・・・・約1%
などを含んでいる。

 そのほか、火山活動で噴出した溶岩が海中など特殊な環境下で急速に冷却されて形成されるガラスに黒曜石がある。


三内丸山遺跡の「縄文時遊館」で展示されていた北海道白滝産の黒曜石塊(2015.11.9 撮影)

 黒曜石の組成は:
二酸化ケイ素・・・・・70~80%
酸化アルミニウム・・・10%強
酸化カリウム・・・・・約5%
酸化ナトリウム・・・・約4%
酸化鉄・・・・・・・・約2%
酸化カルシウム・・・・約0.6%
などを含む。

 シラス(白砂)と黒曜石の組成を比較するとほとんど同じ成分比率であることがわかるが、その外観は白と黒、名前どおりであって、色では両極に位置していることは興味深い。

 ちなみに、黒曜石には噴出時に脱出できなかった水分が1~2%取り残されていて、1000度C近くに加熱するとこの水分が発泡して、黒曜石は白色のパーライトに変化するとされている。

 この黒曜石は石器として用いられ、古代の人々にとりとても貴重なもので、産地からはるか遠方にまで運ばれた事が発掘調査で判っている。

 以前、このブログで黒曜石を取り上げたときにも触れたが、黒曜石を求めて、人類が初めて日本の本州と神津島との間を往復航海したということが明らかにされた。

 ところで、火山活動以外に地球上でガラスが生成するメカニズムはほかにどのようなものがあるだろうか。

 チェコ共和国からドイツにまたがるボヘミア地方で見つかる不思議な石は、その地方を流れる川、モルダヴ川にちなんでモルダヴァイトと呼ばれているが、この石はガラス質である。

 モルダヴァイトはドイツ語であり、チェコ語ではヴルタヴィーン(ヴルタヴァ石)と呼ばれている。

 この石のことを、チェコ・プラハ生まれの女性ジャーナリストで、東京在住経験を持つ、ヴラスタ・チハーコヴァー女史は次のように述べていて、チェコ人がこの石のことをとても愛し、誇りに思っている様子が感じられる。

 「・・・そして何よりもボヘミアには、ボヘミアの山と激しい川の流れが生んだ、ボヘミアでしかとれないという天然石に近いクリスタルがある。このクリスタルの構造は今でも謎であり、いまだに宇宙から飛んできた隕石の破片だと思いこんでいる人もいる。一般にヴルタヴァ石と呼ばれているこの自然ガラスは、現在でも採取されている。この独特のクリスタルは、自然のたわむれが生みだしたと考える以外にないだろう。

 ともあれ、このみず色や緑色のガラス石は、ボヘミアの初期のガラス製造にガラスの見本として大きな力をもたらした。主に窓のステンド・グラスに使われた緑色のガラスは、”森のガラス”と呼ばれていた。・・・」(「プラハ幻景」1999年 新宿書房刊より)

 このモルダヴァイト、現在ではその生成メカニズムが調べられていて、1500万年ほど前にヨーロッパのこの地方に落下した隕石の衝撃で蒸発した地球表面の岩石が空中で凝集固化して落下したものと考えられるようになっている。その隕石孔はリース・クレータとして知られている。

 モルダヴァイトの組成は:
二酸化ケイ素・・・・・75~81%
酸化アルミニウム・・・約10%
酸化鉄・・・・・・・・約2.5%
酸化ナトリウム・・・・約2.4%
酸化カルシウム・・・・約2%
酸化マグネシウム・・・約1%
などを含むとされていて、軽石、黒曜石に比べると二酸化珪素と酸化鉄がやや多い傾向にある。


鉱物標本として売られていたモルダヴァイト(2017.11.20 撮影)


モルダヴァイトの産地(黄)と隕石の落下地点(赤)との関係(出典URL:www.s-renaissance.com) 

 約3万年前の女神ヴィーナスの彫刻とともに、モルダヴァイトで出来た壺の破片がオーストリアのウィレンドルフとクレムス近郊の旧石器時代の発掘調査でで発見・証明され、チェコの鉱物学者ヴラディミール・ボウシカ氏は「旧石器時代のクロマニョン人はすでに石器や護符としてこの石を使っていた」と推測している。

 伝統的にガラス工業が発達していたボヘミア地域の宝石細工職人たちは、モルダヴァイトを使って指輪、イアリング、ペンダントといった工芸品を作った。

 今では世界的にも有名になったボヘミアのガラス製品の製作技術は、ヴラスタ・チハーコヴァー女史が書いているように、モルダヴァイト=ヴルタヴィーンと共にこの地で発展してきたのではないだろうか。


ボヘミアガラスの代表的な製品であるカットガラス器

 このモルダヴァイトと同様のメカニズムで生成したと思われる別のガラスがアフリカのリビアでも見つかっていて、リビアングラスと呼ばれている。隕石孔はサハラ砂漠のケビラ・クレーターとの説があるが、隕石の空中爆発説も提出されているなど、その成因はいまだ不明確である。 

 リビアングラスの組成は、二酸化珪素成分がこれまで紹介したガラスに比べると際立って多く、98%程度という報告がある。


リビアングラス(ウィキペディア「リビアングラス」2017年9月21日より)

 リビアングラスは宝石として、スカラベの形に加工されて、ツタンカーメンのミイラを飾った。


ツタンカーメンの胸飾りに取り付けられたリビアングラス製のスカラベ(ウィキペディア「リビアングラス」2017年9月21日より)

 人類が最初に手にして利用したガラスは、黒曜石、モルダヴァイト=ヴルタヴィーンそしてリビアンガラスなどの天然のガラスということになる。

 これらを手本として、そして偶然も作用して人類はガラスという人工の新たな材料を手にすることになる。石器や護符、装飾品として使われ始めたこのガラス、その後の展開をみるとこのガラス無しには現代の文明は無かったともいえるのではないか。







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庭にきた蝶(17)ホシミスジ

2017-11-17 00:00:00 | 
 今回はホシミスジ。前翅長23~34mmの中型の蝶。幼虫の食草はシモツケ、イワガサ、ユキヤナギ、コデマリ(バラ科)である。年2~3回、寒冷地では1回発生し、3齢幼虫で越冬する。

 都市近郊の自然の生息地では減少傾向にあるものの、人為的なユキヤナギやコデマリの植栽により、大阪周辺のように都市部の公園や人家付近で増加している地域もあるとされる(フィールドガイド日本のチョウ、2013年発行)。

 この分布に関して、愛用の「原色日本蝶類図鑑」(1964年、保育社刊)には次のような記述があり、上記の最近の発生状況と比べるとここ50年間における変化は興味深い。

 「東亜特産で北海道以外の全土に分布し、発生はきわめて局地的で他の「みすじちょう」と異なり、暖地にも普通であるが多産しない。・・・関東から中部山岳地帯には個体数も多いようだが、大阪付近の各地にはまれな種である。・・・」

 翅表の前・後翅にかけて、3本の白帯を持つ。この白帯が2本のフタスジチョウとは区別が容易であるが、同様の文様を持つものに、コミスジ、ミスジチョウ、オオミスジがいて、飛翔中の姿を見てもなかなか判別がつきにくい種群である。しかし、このホシミスジだけには後翅裏の基部に、名前どおり多数の黒点群があるので、翅を閉じているときには容易に判定できる。

 軽井沢では、4種の類似種の中ではこのホシミスジとコミスジをよく見かける。

 義父のコレクションで翅表の微妙な違いを比較しておく。


上から、フタスジチョウ、コミスジ、ホシミスジ、ミスジチョウ、オオミスジ(2017.10.29 標本撮影)

 我が家の庭のブッドレアにも時々吸蜜にやってくる、なじみの種である。


草むらの葉の上で休息するホシミスジ (2015.7.14 撮影)


幼虫の食草であるシモツケの花で吸蜜するホシミスジ(2015.7.14 撮影)


葉の上で休息するホシミスジ (2015.7.14 撮影)


幼虫の食草であるシモツケの花で吸蜜するホシミスジ(2015.7.14 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するホシミスジ(2016.8.2 撮影)


ブッドレアの葉上でポーズをとるホシミスジ(2016.8.2 撮影)


ブッドレアの葉上で休息するホシミスジ(2016.8.3 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するホシミスジ(2016.8.2 撮影)


シモツケの花の間を飛翔するホシミスジ(2015.7.14 撮影)

 このホシミスジ、南軽井沢にある別荘地内のバラ園に行った時、入り口付近に設けられた噴水の縁にある石造りのアヒルに止まりなかなか飛び立とうとしないところに出会った。

 アヒルの石像に取りつけられた造花に止まって、吸蜜するしぐさを見せたり、石像の頭上に止まってやはり何かを吸うしぐさを見せたりして、周囲を通り過ぎる人を警戒する様子も無い。

 噴水の水が飛び散り、水滴でもついていたのであろうか、飛び立ってはまた舞い戻るという動作を繰り返し、バラ園を訪れる客の目をしばし楽しませてくれた。


石造りのあひるに取り付けた造花で吸蜜するしぐさを見せるホシミスジ(2017.7.3 撮影)


石造りのアヒルの頭上にとまり何かを吸うしぐさをみせるホシミスジ(2017.7.3 撮影)


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軽井沢文学散歩(2)堀辰雄

2017-11-10 00:00:00 | 軽井沢
 今回は堀辰雄。大正末期から戦中にかけて活躍した小説家であり、21歳で書いた「甘栗」が処女作。軽井沢を舞台にした「美しい村」「風立ちぬ」「菜穂子」などの作品で広く知られる。今回は、終の棲家であり、現在は堀辰雄文学記念館となっている信濃追分の旧住居と、ここに至る堀辰雄の軽井沢での住まいについて紹介しようと思う。

 堀辰雄(本名)は1904年(明治37年)12月28日、東京府東京市麹町区(現東京都千代田区)にて出生。実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていた。母・西村志気は、東京の町家の娘。「辰雄」という名前は、辰年生まれにちなんで命名された。

 中学時代、数学が好きで未来の数学者を夢見ていた辰雄を、文学の方へ手引きし、目覚めさせたのが友人の神西清であった。同期には、小林秀雄、深田久弥、笠原健治郎らがいた。

 高校在学中の1923年(大正12年)5月に三中の校長である広瀬雄から室生犀星を紹介され、8月に室生犀星と共に初めて軽井沢に来ている。

 1925年(大正14年)4月に東京帝国大学文学部国文科に入学。室生犀星宅で中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌『山繭』に『甘栗』を発表する。

 この時代に活躍した主な文士の生年と没年を表にすると次のようである。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星と堀辰雄(赤で示す)

 これをみると、室生犀星に誘われ、堀辰雄が初めて軽井沢を訪れた1923年(大正12年)というと、室生犀星が34歳、堀辰雄は18歳であった。この旅が契機となり軽井沢、信濃追分は堀文学における代表作の舞台となるが、室生犀星はこのように多くの詩人、作家の世話をよくしていた、細やかな心配りをする人であったといわれている。

 この後、堀辰雄は軽井沢に長く滞在することになるが、軽井沢での最初の住まいは、1938年(昭和13年)に結婚した多恵との新婚宅であった。結婚後すぐ軽井沢に住むことを決めた堀夫妻は、いったん室生犀星の別荘に住んで物件を探し回り、愛宕山水源地近くの835番(下の地図の「1」)の欧州風の大きな別荘を借りて半年間暮らした。

 その後、鎌倉や東京・杉並と軽井沢を往復しながら、1939年(昭和14年)7~10月に638番別荘(下の地図の「2」)、1940年(昭和15年)7~9月には658番別荘(下の地図の「3」)を借りて滞在した。

 1941年(昭和16年)にはアメリカ人スミス氏がオーナーだった1412番山荘(下の地図の「4」)を手に入れる。以後、1944年(昭和19年)までは夏になるとこの山荘で過ごした。この山荘には堀辰雄の没後に、画家の深沢省三・紅子夫妻が住んでいる。

 これら堀辰雄が住んだ別荘/山荘のうち、現存しているのは1412番山荘のみで、今は軽井沢高原文庫内に移設されている(当ブログ2016.11.18付で一度紹介している)。


堀辰雄が1938年から1944年までを過ごした4つの別荘。835番別荘「1」、638番別荘「2」、658番別荘「3」、と1412番山荘「4」(地図は©2017 Zenrin, ©2017 MICROSOFTより)。


旧軽井沢から移築した堀辰雄が愛した1412番山荘 1/2(2016.11.13 撮影)


旧軽井沢から移築した堀辰雄が愛した1412番山荘 2/2(2016.11.13 撮影)


別荘番号の1412が見える(2016.11.13 撮影)


「堀辰雄1412番山荘」の由来を示す説明板(2016.11.13 撮影)

 この説明板には次のように書かれている。

「堀辰雄の住んだ軽井沢一四一二の山荘

 昭和十六年の春求めたこの山小屋には、四年続けて初夏から秋にかけて過ごした。軽井沢でも古い古い建物のひとつに数えられている。大正七、八年頃、アメリカ人スミスさんの所有となり、戦争で帰国することになって、私たちが譲り受けた。よく燃える暖炉があり、炭で焚く風呂があった。厳しい冬を過ごすために追分に移ってから後、この山小屋には、戦争中も住む家を失ったドイツの婦人が住んでいたこともあった。辰雄の没後、深沢省三・紅子画伯夫婦が大切に住んで下さったので、やっと今日まで持ちこたえて来たが、崩壊寸前で「高原文庫」のかたわらに「堀辰雄の愛した山荘」として移築され、残されることになったのである。-堀多恵子「私たちの家・家」より」

 上記の説明板にも記されているように、4か所の別荘に暮らした後、二人は信濃追分に15坪ほどの小さな住まいを建てている。この住居は1951年(昭和26年)夏に完成、堀夫妻は同年7月1日に入居している。おかねがなかったので最小限の間取りを二人で考えたというこの家には、床の間のある四畳半と、その隣の三畳間が真ん中にある。堀辰雄は晩年、この四畳半の部屋で仕事をし、読書をした。三畳間の方は、婦人が看病につかれて休むための部屋であった。床の間には川端康成が新築祝いに贈った自筆の書が掛けられている。床の間の脇の障子窓を開ければ、寝床からでも雄大な浅間山を一望できた。

 当初は別荘として夏の間だけ過ごす予定であったというが、多くの来客があり、また自身の病状が重くなっていたため、その後6畳の茶の間と台所、風呂場を増築し、井戸も掘り、通年使えるようになった。

 この新居では2年足らずの間過ごすことになるが、執筆活動だけではなく旅行も思うようにできず、数十通の手紙を知人たちとやりとりしたのみであったという。しかし、買い求めた本が次第に増え、前宅に置いたままになっていた書籍もあったため、庭に茶室風の書庫を造った。書棚は5段で書庫の2面を占めている。この書庫がようやく完成したのは堀辰雄が亡くなる10日ほど前のことであった。

 室生犀星は、その著書「我が愛する詩人の伝記」の中で、堀辰雄について次のように書きしるしている。

 「大正十三年八月はじめて信州軽井沢に、私を訪ねて来て鶴屋旅館に滞在(と書かれているが、前年にも一緒に来ていることは、先に書いた)・・・。
 堀は軽井沢の気候とか町の外の道路を愛した。鶴屋主人は堀さんがあんなに偉い人になるとは思わなかったと言い、後にいつのまにか堀センセイと呼ぶようになっていた。
 翌々年かに追分に行き、この町が気に入って死ぬまでこの地に滞在、たえ子夫人を貰い、家を建ててとうとうこの地で亡くなった。これほど追分の村里を愛した人はなかろう。ざっと三十年も軽井沢と追分にいたわけである。
 軽井沢を愛好していた詩人たちに津村信夫、立原道造、野村英夫らがいて、堀の数少ない友達になっている。少し遅れて福永武彦、中村真一郎が彼の家の茶の間に座っていた。中村真一郎はむんずりと黙り込み、福永武彦は早口の大声で話し、堀はにやにやと何時もきげんが好かった。」

 堀辰雄が最後に過ごすことになった追分のこの家は、それまで暮らした軽井沢からは西にやや離れた、信濃追分駅近くの旧中山道から少し入った場所にある。現在は軽井沢町が譲り受け、堀辰雄文学記念館として一般公開している。


堀辰雄文学記念館は、信濃鉄道の信濃追分駅から徒歩30分程度、旧中山道脇にある


堀辰雄文学記念館の入り口(2011.8.14 撮影)


堀辰雄旧宅外観 1/2(2011.8.14 撮影)


堀辰雄旧宅外観 2/2(2011.8.14 撮影)


堀辰雄が暮らした四畳半の居室とその隣の三畳の部屋が見える(2011.8.14 撮影)


川端康成が新築祝いに贈った自筆の書(2011.8.14 撮影)


女優の高峰三枝子が堀に贈った籐椅子と机(2011.8.14 撮影)


書庫内部の書棚(2011.8.14 撮影)


書庫におかれている説明板(2011.8.14 撮影)

 ところで、室生犀星の次に堀辰雄のことをこのブログに書こうと思っていたある日、大阪の古書店に立ち寄った時、偶然「風立ちぬ」の背表紙が目に入った。手に取ってみると昭和13年(1928年)に発行された初版本の復刻版(昭和49年発行)であった。後ろのページには、昭和十三年四月十日発行、定価二圓と書かれている。この復刻版がどこまで原書を忠実に再現しているかは判らないが、本の表紙と、箱の様子は次の写真のようなものである。


偶然古書店に立ち寄り見つけた、「風たちぬ」の初版・復刻本の箱と表紙
 

「風たちぬ、いざ生きめやも」の詩句が書かれているページ

 2013年に宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」で話題となり、多くの観光客がこの堀辰雄文学記念館を訪れた。実在の人物である堀越二郎をモデルに、その半生を完全に創作して描いた作品であるが、堀辰雄の小説『風立ちぬ』からの着想も盛り込まれているとされている。そのため映画のポスターには両名の名を挙げており、2012年に公表された版では「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」、翌年公表された版では「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」と記されている。




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庭にきた蝶(16)ベニシジミ

2017-11-03 00:00:00 | 
 今回はベニシジミ。前翅長13~19mmの小型の蝶。シジミチョウ科、ベニシジミ亜科、ベニシジミ属に属する。都市部から山野まで、いろんな場所でよく目にする蝶で、南西諸島方面を除いて全国に分布する。

 季節型があり、春型は名前どおり前翅表の地色が赤橙色、後翅亜外縁も同色である。夏型は赤橙色部が減り、全体に黒褐色部が広くなる。秋型という分類はなさそうであるが、秋になると再び春型と同様、赤橙色部の面積が広くなったものが夏型に混じるとされる。他に似た種もいないので、同定は容易である。

 食草はスイバ、ギシギシ(タデ科)で、いわば雑草の類である。しかし、これまで幼虫の姿をまだ見かけたことがない。身近な蝶だけに、いずれは探して蛹化や羽化の様子を3D撮影したい種である。

 通常年4~6回、寒冷地では年2~3回の発生であり、幼虫で越冬する。

 義父のコレクションで季節型の変化を見ると次のようである。


ベニシジミの翅表の季節変化(2017.10.29 標本撮影)


ベニシジミの翅裏の季節変化(2017.10.29 標本撮影)

 このベニシジミ、1997年11月28日から2015年9月30日まで販売されていた30円の通常切手のデザインにも採用されており、その点でも馴染み深い蝶といえる。ちなみに、現在30円通常切手はキタキツネにデザインが変更になっている。


30円の通常切手デザインになったベニシジミ

 我が家の庭のシバザクラ、ヒメジョオン、日本ハッカ、ブッドレアなどに吸蜜にしばしば訪れる愛らしい蝶である。撮影時期の順に並べてみた。


シバザクラで吸蜜するベニシジミ(2017.5.22 撮影;f/4,1/1000,CASIO-EX100)


シバザクラで吸蜜するベニシジミ(2017.5.23 撮影;f/4,1/500,CASIO-EX100)


ブッドレアで吸蜜するベニシジミ(2016.7.28 撮影;f/2.8,1/1000,CASIO-EX100)


ブッドレアで吸蜜するベニシジミ(2016.7.28 撮影;f/2.8,1/1000,CASIO-EX100)


ブッドレアで吸蜜するベニシジミ(2016.7.28 撮影;f/2.8,1/1000,CASIO-EX100)


ヒメジョオンで吸蜜するベニシジミ(2015.8.10 撮影;f/5,1/240,Fuji-HS30)


ヒメジョオンで吸蜜するベニシジミ(2015.9.2 撮影;f/6.3,1/400,NIKON-D200,105mmMACRO)


ゲンノショウコで吸蜜するベニシジミ(2015.9.2 撮影;f/7.1,1/500,NIKON-D200,105mmMACRO)


日本ハッカで吸蜜するベニシジミ(2016.9.6 撮影;f/16,1/500,NIKON-D200,105mmMACRO)


葉の上で休息するベニシジミ(2016.9.17 撮影;f/2.8,1/1000,CASIO-EX100)


日本ハッカで吸蜜するベニシジミ((2016.10.2 撮影;f/13,1/400,NIKON-D200,105mmMACRO)


日本ハッカで吸蜜するベニシジミ(2016.10.2 撮影;f/7.1,1/400,NIKON-D200,105mmMACRO)


ブッドレアで吸蜜するベニシジミ(2016.10.10 撮影;f/4,1/1250,CASIO-EX100)



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