軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

山野で見た蝶(8)メスグロヒョウモン

2019-10-25 00:00:00 | 
 今回はメスグロヒョウモン。前翅長30~40mm。北海道、本州、四国、九州(壱岐、対馬を含む)に分布し、長野県では、1970年代ごろ、比較的少ない種であったが、近年はかなり多くなっているという。個体数を増やしているのは、本種の産卵する環境が森林であり、各地の里山環境が森林化しているためであるとされる。
 幼虫の食草はタチツボスミレなどの各種スミレ類で、年1回発生し、成虫は7月中旬頃から出現し、卵または、孵化間もない1齢幼虫で越冬する。

 さらりと書いたが、卵から孵化したばかりの1齢幼虫というのは数ミリ程度の大きさしかなく、この幼虫が零下20度付近にまで下がる信州の冬を越すというのはなかなか想像しがたいものがある。蝶の越冬態は種によって異なり、成虫越冬するものから、蛹、幼虫、卵とさまざまであるが、成虫や蛹、卵の場合に比べると、孵化して間もない小さな幼虫が厳冬の期間を過ごしている姿には痛々しさと共に、生命のたくましさを感じる。

 さて、このメスグロヒョウモンであるが、日本に15種ほどいるヒョウモン類の中でも一風変わった姿をしている。名前の通り、♀の翅の色が黒いのである。♂の外観は他のヒョウモン類と同じようであるが、♀の姿はなぜか別種と思えるような色、暗褐色で青藍色の光沢をおびた色になっている。

 このように、メスグロヒョウモンの♀の色彩と斑紋は全く独特でありほかに類似のものもなく、同定は問題なく行える。♂は翅表・裏ともミドリヒョウモン、ウラギンスジヒョウモン、オオウラギンスジヒョウモンに似ているが、翅表の性標の本数、表・前翅中室内の斑紋、表・後翅中央の黒斑列、裏・後翅の基部~中央部の白条、裏・後翅の色調などの比較で、同定は比較的容易に行える(次表参照)。


メスグロヒョウモン、ミドリヒョウモン、ウラギンスジヒョウモン、オオウラギンスジヒョウモンの♂の識別方法(前翅中室内の斑紋:写真、1/9-3/9で丸印を付けた)

 ところで、メスグロヒョウモンの♀の翅色であるが、以前紹介した(2017.9.22 公開の本ブログ)ことのあるツマグロヒョウモンもまた♀の外観が、他のヒョウモン類とはだいぶ異なっている。しかし、こちらは前翅の先端部分だけが黒くなっているのに比して、メスグロヒョウモンの場合はこれが全体に及んでいて、野外で飛翔中の姿を見ると、一見イチモンジチョウのように見える。何故こうしたことが起きるのか、ほかにも雌雄で色や紋様の異なる種は多くいるとは言うものの、不思議というほかない。

 次の写真は、メスグロヒョウモン(♀)とイチモンジチョウ(♀)の翅表を比べたものだが、斑紋の現れ方などはとてもよく似ている。


イチモンジチョウの♀(左)とメスグロヒョウモンの♀(右)

 いつもの「原色日本蝶類図鑑」(横山光夫著、1964年 保育社発行)には上記のことが次のように記されていてさすがの名文である。

 「あざやかな橙色の雄が真黒く見える雌に交わったまま緑の梢をヒラヒラと飛ぶのを見ると、種を異にした蝶の不思議な雑交かと驚かされる。
 古くはこの雌雄が別の種とさえ誤認されていた。この雌雄の極端な異体は興味あるものである。白い傘形科(?)や栗の花上に、入り乱れて飛来するのは美しい。・・・10月にはいると樹下の地上食草外の種々なものに産卵し、約10日前後で孵化した幼虫は食餌に就くことなく、落葉の下などでそのまま越冬する。・・・」

 このメスグロヒョウモンの♂に出会ったのは、もうずいぶん前のことであった。車で、安曇野方面から峠越えで長野市街地に帰る途中、渓流沿いの花にヒョウモン類の姿を認め、車を停めて撮影した。帰宅後、翅表の斑紋を見て、メスグロヒョウモンの♂であると確認した。この時の写真は次のようである。少し離れた場所に咲いている、ヤブカラシの花で吸蜜しているところを105mmのマクロレンズで撮影した。トリミングをしてずいぶん拡大しているので、解像度がいまひとつよくないが、種の同定の決め手になった前翅中室内の斑紋(〇をつけている)と性標は確認できた。


メスグロヒョウモン♂1/9(2015.9.2 撮影)


メスグロヒョウモン♂2/9(2015.9.2 撮影)


メスグロヒョウモン♂3/9(2015.9.2 撮影)


メスグロヒョウモン♂4/9(2015.9.2 撮影)


メスグロヒョウモン♂5/9(2015.9.2 撮影)


メスグロヒョウモン♂6/9(2015.9.2 撮影)


メスグロヒョウモン♂7/9(2015.9.2 撮影)


メスグロヒョウモン♂8/9(2015.9.2 撮影)


メスグロヒョウモン♂9/9(2015.9.2 撮影)

 その後、長く軽井沢周辺でメスグロヒョウモンに出会うことはなかった。今年、夏のあいだはショップを休みなしで開いていたので、9月に入りその反動もあって、どこかにチョウを見に行こうということになった。妻はメスグロヒョウモンの♀を見たいという。日本産のチョウをかなり網羅している義父のコレクションにも、メスグロヒョウモンは♂・♀共に含まれていない。

 特に当てもなく佐久平から上田方面に車を走らせ、途中で「信州昆虫資料館」に久しぶりに行ってみようということになり、着いて見ると生憎の休館日であった。玄関には「開催中・故名誉館長 小川原辰雄先生展」との掲示があり、この信州昆虫資料館の創設者である、小川原辰雄さんが亡くなっておられたことを知った。


「開催中・故名誉館長 小川原辰雄先生展」の掲示がある信州昆虫資料館玄関(2019.9.3 撮影)

 小川原辰雄さんと鳩山邦夫さんの共著になる、「信州 浅間山麓と東信の蝶」は私の愛読書であり、このブログでも時々引用させていただいている。この著書の最後のページには、鳩山邦夫さんと共に、小川原辰雄さんの「著者略歴」が次のように記されている。

小川原辰雄(おがわら たつお)
昭和3(1928)年、長野県坂井村生まれ。横浜医科大学卒。昭和36年以降、長野県青木村に居住。青木村名誉村民。内科医、医学博士。小県郡医師会会長、長野県医師会理事、長野県医師会広報委員長等を歴任。日本医師会最高優功賞、第18回医療功労賞、旭日双光章受賞。日本昆虫協会長野支部顧問。
主な著書は『蜂刺症』『博物誌』『糖尿病管見』(桜華書林)、『身近な危険・ハチ刺し症』(クリエイティブセンター)など。

 ここに、謹んでご冥福をお祈りする。

 さて、仕方なく、資料館の周辺を見回すと、アプローチ道路に面した裏庭や法面にはアザミの花が咲いていて、そこにヒョウモン類の姿が見えた。近くに寄ってみると、ウラギンヒョウモンであった。しばらくこのウラギンヒョウモンの撮影をして、そろそろ帰ろうかと玄関脇に停めてあった車の方に向かって歩き始めた時、妻が何やら蝶の姿を認めた。目の前を通り過ぎて、道路の反対側の高い梢に止まったという。望遠レンズ越しに見ると、ミスジチョウの仲間かタテハチョウの仲間のように見えた。この時はこのチョウが、メスグロヒョウモンの♀であることにはまだ気づかなかった。


ウラギンヒョウモン♀(2019.9.3 撮影)


高い木の先の梢に止まったチョウ(2019.9.3 撮影)

 そして、再び諦めて車の報に歩き始めると、そのチョウが、道路沿いに咲いているアザミの花に止まり吸蜜を始めた。間近に見た蝶は、今日妻が出かける時に見たいと言っていた、メスグロヒョウモンの♀であった。

 このアザミの花で、長い間吸蜜をしてくれたので、たっぷりとこのチョウの撮影ができた。しばらくするともう1頭、メスグロヒョウモンの♀がやってきたので、この日、都合2頭のメスグロヒョウモンに出会うことができた。

 その時撮影した写真は次のようである。何だか、小川原先生がこの機会を作ってくださったように感じ、感謝しつつ「信州昆虫資料館」を後にした。


メスグロヒョウモン♀1/10(2019.9.3 撮影)


メスグロヒョウモン♀2/10(2019.9.3 撮影)


メスグロヒョウモン♀3/10(2019.9.3 撮影)

 
メスグロヒョウモン♀4/10(2019.9.3 撮影)


メスグロヒョウモン♀5/10(2019.9.3 撮影)


メスグロヒョウモン♀6/10(2019.9.3 撮影)


メスグロヒョウモン♀7/10(2019.9.3 撮影)


メスグロヒョウモン♀8/10(2019.9.3 撮影)


メスグロヒョウモン♀9/10(2019.9.3 撮影)


メスグロヒョウモン♀10/10(2019.9.3 撮影)


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ベニテングタケ

2019-10-18 00:00:00 | キノコ
長野県のある地方では、ベニテングタケというキノコを特別な時に食べる風習があると、私たちが軽井沢に転居して間もない頃、妻がご近所の老婦人から聞いて帰ってきた。その特別な時というのはお葬式の後のことで、75歳以上の女性だけが食べることを許されるのだという。

 何とも意味深長な話に、その時はただ驚いたのであったが、後で調べてみると、それまで猛毒のキノコの代表格だと思っていたベニテングタケであるが、意外にも食べられるという話も散見できることが判ってきた。もちろん毒抜きをしてのことではあるが。

 例えば、手元の本「きのこ」(小宮山勝司著 2007年 永岡書店発行)を見てみると、「ベニテングタケ」の項には次のような記述がある。

 「世界中でたった1カ所、このきのこを毒抜きして食用にしているところがあった。長野県の菅平地方だ。今は食用にはしなくなったが、お年寄りに聞くと、あのおいしさは忘れられないという。恐る恐る1mm角ほどをかじってみると、舌にまとわりつくようなうまみがある・・・」。

 ただし、この文章の最後で、著者は「そうはいっても毒きのこ、絶対にまねをすべきではない」とくぎを刺すことを忘れていない。

 いきなり本題に入ってしまったが、この「ベニテングタケ」とはどのようなキノコなのかみておくと、童話などで真っ赤な傘に白い水玉模様(いぼいぼ)が描かれているキノコが登場することがあるが、そのキノコは「ベニテングタケ」を描いたものと考えてよい。この傘にあるいぼいぼは、ツボと呼ばれるものが崩れてできるとされ、強い雨にあたるととれてしまう。

 そして、キノコの毒性を話題にする時に決まって登場するのが、この真っ赤なキノコであった。したがって、我々には真っ赤なキノコは毒キノコというイメージが植えつけられている。
 
 ベニテングタケは日本では主に、夏から秋にかけて、高原の白樺、ダケカンバ、コメツガ、トウヒなどに発生し、針葉樹と広葉樹の双方に外菌根を形成する菌根菌であり、南日本ではほとんど見かけないとされる。

 このベニテングタケが実際に生えているところを見、写真撮影をしたいと思い、軽井沢で自宅周辺を歩いてみたが、よく似たタマゴタケやテングタケは見つかるが、ベニテングタケはなかなか見つからない。そうこうしているうちに日が過ぎていった。

 このベニテングタケは前述の通り、白樺の木と共生関係にあると言われているので、白樺林で有名な八千穂高原に出かけた際にも林の中を歩きながら探したことがあったが、その時は空振りに終わっていた。ここに一軒ある食堂に入り、店のおばさんに「ベニテングタケを見たいのだが・・・」と、話を聞いてみたが、「以前はたくさん生えていたのですが、最近は見かけなくなりましたね・・・」とのことであった。

 ここは白樺で有名なだけに、採集者が来るようになったのだろうかと思い、別な場所を探してみようと考えた。

 そして、今年の春、蓼科方面にドライブに出かけた時に、車の窓から白樺林を見ていたので、時期が来たらここに出かけてみようと計画していた。

 先日その機会が訪れ、妻と出かけ、考え始めて4年目にして首尾よく2株のベニテングタケを見つけて写真に撮ることができた。

 最初、春に目撃していた白樺林が道路から見えるようになった場所で車を停めて、白樺林に入ってみようとしたが、その辺りの林床にはびっしりとクマザサが生い茂っていて、足元が見えない。この調子ではキノコの類は生えていないだろうし、仮に生えていたとしても見つけるのは難しいと感じて、早々にこの場所を諦めて、別の場所に向かった。

道路沿いに広がるシラカバ林(2019.9.25 撮影)

 次に車を停めたのは牧場の駐車場であった。この日は平日であったが、結構観光客の車も停められていて、牧場の柵ごしに、放牧されている牛を眺めている親子連れの姿も見られた。

のんびりと草を食べる牛、後方に浅間山が見える(2019.9.25 撮影)

 売店の人に話を聞くと、周辺にはキノコ類がたくさん生えている場所があるとのことであった。車をその場所に残してしばらく周辺を散策することにした。

 少し歩くと白樺の林が出現する。車はその辺りにまで侵入することができるようで、数台の車が停められていたが、一番奥の方に停めてあった1台に乗ろうとしている中年の女性の手には、レジ袋のようなものがぶら下げられていて、その中に何やらキノコらしきものが入っているのが目に入った。きっとここでキノコ狩りをしてきたのだろうと、期待が膨らんだ。

 その車が立ち去った後、林の中を進むと足元にはたくさんのキノコが生えていた。しかし、目指すベニテングタケは見当たらなかった。林の中を、次々に現われる種々のキノコを撮影しながら、白樺の木が途切れる辺りまで進んでみたが、やはりベニテングタケを見つけることはできなかった。

 あたりがそろそろ暗くなりかけてきたこともあり、元来た方向に戻りながら、それでも諦めきれずにあたりを見回しつつ歩いていると、ツツジの密集している場所があり、その根元近くに赤いキノコを見つけた。小枝を掻き分けて近づくと、これが間違いなくベニテングタケであった。

 カサが開き、横倒しになっている1本と、カサがまだ開いていない1本であった。ベニテングタケといえば、赤いカサの部分に点々と白いツボが見られるところが特徴であるが、ここで見つけたまだカサの開ききっていない1本のツボは大部分、雨のためか剥げ落ちてしまっていた。

 しかし、貴重な2本。横倒しになっている、カサが開き、一部欠け落ちてしまっているベニテングタケも助け起こして撮影した。

傘が開き、一部が欠けているベニテングタケ(2019.9.25 撮影)

傘が開き始めたが、ツボが落ちてしまっているベニテングタケ(2019.9.25 撮影)

ツボが少し残っている側から撮影した同上のベニテングタケ(2019.9.25 撮影)

 八千穂高原といい、蓼科高原といい、ベニテングタケ狩りをする人々がいるのだろうかと思えるほど、見つけることが難しくなっている気がする。

 先に紹介したきのこの本には、菅平地方という地名だけが出ていたが、冒頭記したように、長野県にはほかにもこのベニテングタケを保存し、特別な時にだけ食べるという風習が残っているようである。

 改めて、ウィキペディアで「ベニテングタケ」の項を見てみると、「食用例」という記述があって、次のように、意外にも多くの事例が含まれていた。

 「本種の毒成分であるイボテン酸は、強い旨味成分でもあり、少量摂取では重篤な中毒症状に至らないことから、長野県の一部地域では塩漬けにして摂食されている場合がある。長野・小諸地方では、乾燥して蓄え、煮物やうどんのだしとしても利用した。煮こぼし塩漬けで2、3ヵ月保存すれば毒が緩和されるので食べ物の少ない冬に備えた。傘より柄の方が毒が少なく、よく煮こぼして水に晒して大根おろしを添えれば、味も歯切れもよい。・・・あまり広まらなかったが、早くとも19世紀以降のヨーロッパ地域、特にシベリアに入植したロシア人が何度も茹でて無毒化して食した。・・・19世紀後期の北米ではアフリカ系アメリカ人のキノコ販売者が、湯がいて酢につけてステーキソースとしていた。」

 小諸地方と言えば御代田町をはさんで軽井沢のすぐ近くである。ご近所の老婦人の話していたベニテングタケをお葬式の後に食べる風習がある町とは、小諸地方周辺のことであったのかと気付かされた。
 
 ベニテングタケの持つ毒について更にウィキペディアで見ていくと、毒性はさほど強くなく、主な毒成分はイボテン酸、ムッシモールであり、長い間毒成分と信じられてきたムスカリンは、その含まれる量がごくわずかであるとされる。

 イボテン酸、ムッシモールの毒性はさほど強くないとは言うものの、微量ながらドクツルタケのような猛毒テングタケ類の主な毒成分であるアマトキシン類も含むため、長期間食べ続けると肝臓などが冒されるといわれているし、やはり食べすぎると起きるという腹痛、嘔吐、下痢は気になる。そして、うまみ成分が毒成分と一致しているので、毒抜きをすると、同時にうまみ成分も取り除かれてしまい、せっかくのうまみも台無しと言うことになるようである。

 さて、やはり食用のキノコは専門家が勧めるものだけにすることにして、これまでのベニテングタケ探しの途中で出会った、その他のキノコの写真を一部紹介させていただこうと思う。

 最初は軽井沢で撮影した、食用の代表でもあるタマゴタケ。この種については、すでに本ブログで紹介しているが(2016.9.9 公開)、ベニテングタケのツボが雨などで流されてしまうと、外観はこのタマゴタケと、とてもよく似てくるので、注意が必要である。
 
地面から顔を出したばかりのタマゴタケ(2017.8.28 撮影)

少し成長したタマゴタケ(2017.8.28 撮影)

成長し、傘が開いたたタマゴタケ(2017.8.28 撮影)

 次も、やはり軽井沢で撮影したもので、ツボがあり、形はベニテングタケとそっくりであるが、傘の色が焦げ茶色のテングタケ。軽井沢では普通に見かける種である。

地面から出て来たばかりで、全体がツボに覆われているテングタケ(2017.8.24 撮影)

傘が開く前と後のテングタケが並んでいた。ツボの破片がよく残っている(2017.8.24 撮影)

同上を真上から撮影した(2017.8.24 撮影)

 以下は、今回ベニテングタケの撮影を行った場所の周辺に生えていたキノコの写真である。これらを紹介して本稿を終る。キノコの種類はとても多く、間違った名前を記載してしまうことを恐れるので、ここでは写真の掲載にとどめさせていただく。

遠目にはベニテングタケかと期待した赤い傘のキノコ(2019.9.25 撮影)

上のキノコの傘が開いた状態と思われる(2019.9.25 撮影)

傘の色が赤茶色のキノコ(2019.9.25 撮影)

柄に黒い小さな斑点のあるキノコ(2019.9.25 撮影)

マツタケに少し似ているキノコ(2019.9.25 撮影)

傘に放射状のスジが見えるキノコ(2019.9.25 撮影)

傘が肉厚のキノコ(2019.9.25 撮影)

傘の中央が窪んでラッパ状になるキノコ(2019.9.25 撮影)

シメジのように集合しているキノコ(2019.9.25 撮影)

今回見た中でいちばん背の高いキノコで20cm近い(2019.9.25 撮影)

独特の形状のホウキタケの仲間(2019.9.25 撮影)

 追記:上の文章を書き終えた後、10月9日に再度蓼科にベニテングタケの撮影に出かけてみた。前回と同じ場所に行ってみたところ、たくさん生えていたキノコ類はほとんど姿を消してしまっており、見ることができなかったが、ベニテングタケは3本見つかった。1本は、傘が開いた状態で、一旦採集されたのか破れて打ち捨てられていた。もう1本は、前回同様傘部分のツボは落ちてしまっていた。3本目はツボがしっかり残り、絵に描いたような姿で期待したものであったが、これは横倒しになっていた。この3本目を、すぐそばの柔らかい土の上に立てて撮影した。

ツボが残りベニテングタケらしい姿1/2(2019.10.9 撮影)

ツボが残りベニテングタケらしい姿2/2(2019.10.9 撮影)

 ご近所の人の話では、今年はどこもキノコ類が大不作とのこと。そういえば、7月からこちらいつもとは違った天候が続き、週末にはよく雨が降っていた。10月の3連休も台風19号の襲来で長野県では千曲川の決壊、これによる新幹線車両の水没、また佐久地方では千曲川沿いの住宅が川に流されるなど、予想以上の大災害で混乱した。
 軽井沢でも多くの地域で停電し、今も一部続いているのであるが、ショップのある旧軽井沢銀座地区は停電を免れ幸いであった。



















 
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無電柱化

2019-10-11 00:00:00 | 軽井沢
 市街地を車で走っていて、何か周囲の様子が違っていると感じることがあるが、それは電柱が取り払われて、電線や通信線が地中化されている時が多い。景観に与える電柱・電線の影響は大きいようである。軽井沢の町内でもこの無電柱化が順次進められている。

 現在、無電柱化が完成しているのは、軽井沢駅入口から東雲交差点までの区間と、かつて旅籠が軒を連ねていた旧中山道の追分エリアで、共に2013年度までに工事が行われた。

 軽井沢駅周辺では観光地としての景観向上のため、また、旧追分宿では石畳風の道路にするなど大規模な改良工事を行い、江戸時代の面影を演出するために行われている。

 県佐久建設事務所は、続いて軽井沢本通りの東雲交差点から中部電力軽井沢サービスステーション前まで、580m区間の電線を地中に埋める工事計画を発表している。これによると、工事は2016年(平成28年)度に着手し、2019年(平成31年/令和元年)度の完成を目指している。事業費総額は4億円である。



軽井沢駅前から旧軽井沢銀座方面の無電柱化状況

 2016年11月の住民説明会では、工事は原則、10~4月を中心とした閑散期のみ実施され、5区画にわけ東雲交差点から旧軽井沢方面へ向かって、中部電力サービスステーションまでの区間で実施し、都市下水路移設工事、上下水の移設、電線地中化工事、電柱撤去、舗装工事を行い完了する予定とされた。

 最近、2019年9月にも住民への説明会が行われているが、それによると、今後、雨水を流す都市下水路を歩道から車道の地中に移設したのち、地中に送電線などを埋設する。車道幅を1m狭め、西側の歩道幅を現状の3.5mから4.5mに広げ、両側の歩道に自転車通行帯を設置する計画という。

 さらに、旧軽井沢銀座通りも含め、サービスステーションより北側の無電柱化も、将来の構想に入っている。この工事が完成すれば、軽井沢の入り口である駅前から、旧軽井沢銀座通りまでの無電柱化が完成することになり、町の景観は大きく変化するものと期待される。


既に無電柱化工事が完了した軽井沢駅前から東雲交差点区間(2019.10.8 軽井沢駅側から撮影)


既に無電柱化工事が完了した軽井沢駅前から東雲交差点区間(2019.10.8 東雲交差点側から撮影)


現在無電柱化工事が進められている東雲交差点から中部電力軽井沢サービスステーションまでの区間(2019.10.8 東雲交差点側から撮影)


現在無電柱化工事が進められている東雲交差点から中部電力軽井沢サービスステーションまでの区間(2019.10.8 中部電力軽井沢サービスステーション側から撮影)


将来無電柱化の計画のある中部電力軽井沢サービスステーションから旧軽井沢銀座通り入り口までの区間(2019.10.8 中部電力軽井沢サービスステーション側から撮影)


将来無電柱化の計画のある中部電力軽井沢サービスステーションから旧軽井沢銀座通り入り口までの区間(2019.10.8 旧軽井沢銀座通り入り口側から撮影)


将来無電柱化の計画のある旧軽井沢銀座通り(2019.10.8 旧軽井沢銀座通り入り口側から撮影)


将来無電柱化の計画のある旧軽井沢銀座通り(2019.10.8 二手橋方面のつるや旅館側から撮影)

 参考までに、上の最後の写真で、電柱や電線を写真上で消してみると次の様になる。なかなかすっきりとした景観になる。


前の写真の電柱や電線を写真上で消してみた
 
 日本はかねてから、欧米はおろか、アジアの主要都市と比較しても無電柱化の割合は著しく低いことが指摘されている。こうした事態を打開し、「積極的に政府や民間等との連携・協力を図り、無電柱化のより一層の推進により、安全で快適な魅力のある地域社会と豊かな生活の形成に資することを目的」として、2015年に「無電柱化を推進する市区町村長の会」が設立された。軽井沢町もこれに参加している。

 観光地としては、もっぱら景観の改善が目的となるが、果たして景観改善が地域経済にどの程度の効果をもたらすのか、また無電柱化のそれ以外のメリットにはどのようなものがあるのか見ておきたいと思う。

 これまでに電柱の地中化を行った観光地としては、東京の銀座6丁目付近、 奈良県奈良市の三条通りなどがあり、景観改善と共に通行空間の確保が図られている。また、埼玉県川越市の川越一番街では、電柱・電線によって隠れていた蔵造りの町並がよみがえり、それまで年間150万人であった観光客数が400万人に増加しているという事例や、三重県伊勢市のおはらい町では、電柱・電線によって破壊されていた伊勢の伝統的な木造建築の町並みをよみがえらせた結果、1992年に約35万人まで落ち込んでいた通りの往来者は、1994年に200万人に急増し、2008年には400万人を超えるようになったという具体的な数字も見られる。

 軽井沢駅の南側に広がるアウトレット・モール(プリンス・ショッピング・プラザ)は新しい施設であるが、ここも全域が無電柱化されている。
 また、別荘地としての軽井沢にとっては、別荘地内の景観をよくし、ブランド価値を高めることは重要であり、このために限られたエリア内ではあるが、無電柱化が行われている例もある。同様のことは、全国にも見られ、兵庫県芦屋市の六麓荘町では、開発の当初からガス、水道のみならず電気、電話を地下に埋設するという構想の下に住宅地の造成が進められた結果、芦屋市でも最も高級な住宅地として知られているというし、奈良県奈良市の近鉄あやめ池住宅地では、「あやめ池」の地域価値を向上するために、一部エリアで共同溝を設けて電線等を地下に配置している。


無電柱化されているプリンス・ショッピング・プラザ (2019.10.8 撮影)

 景観改善以外の電柱地下化のメリットとしては、むしろこちらの方が急務ではないかと思える位であるが、台風や地震といった災害時に電柱が倒れたり、垂れ下がった電線類が、消防車などの緊急用車両の通行の邪魔をする危険がなくなり、防災性が向上するという点が挙げられる。

 このことは、今年千葉県を襲った台風15号による直接の被害と、それに伴う大規模な停電、そしてその後の電力供給の回復状況を見れば明らかである。阪神・淡路大震災では震度7の地域で、電柱の停電率は10.3%であったが、地中線は4.7%であり、電柱に対する地中線の被害率は45.6%と低かったと報じられている。

 10月7日の読売新聞には、「電柱大国ニッポン」として日本の電柱数の多さが示されたが、それによると2017年度末の電柱数は3,585万本であり、今も毎年7万本づつ増加を続けているという。この多くの電柱が災害で倒れた数もまた示されているが、次のようである。
・1995年1月、阪神淡路大震災・・・電力 約4500本、通信 約3600本
・2003年9月、沖縄県宮古島市・・・電柱 800本
・2011年3月、東日本大震災・・・・・電力 約2万8000本、通信 約2万8000本
・2013年9月、竜巻・・・・・・・・・・・・・埼玉県越谷市 46本、千葉県野田市 5本
・2018年9月、台風21号・・・・・・・・・電柱 約1700本、停電最大 約260万戸
・2019年9月、台風15号・・・・・・・・・電柱 1000本超、停電最大 約93万4900戸

 被害額の推定は示されていないが、いったいどれくらいになるのであろうか。

 この記事には、日本と世界各都市の無電柱化率も比較して記されているが、それによると、
・ロンドン・・・・・・・・100%
・パリ・・・・・・・・・・・100%
・シンガポール・・・100%
・香港・・・・・・・・・・100%
・ハンブルグ・・・・ 95%
・ニューヨーク・・・ 83%
・ワシントン・・・・・ 65%
・ソウル・・・・・・・・ 49%
・ホーチミン・・・・・ 17%

であり、わが日本の主要都市の無電柱化率は、
・東京23区・・・  7.8%
・大阪市・・・・・  5.6%
・名古屋市・・・  5.0%
・日本全体・・・  1.2%

という数字である。彼我の差は一目瞭然である。次のような図も掲載されていた。


日本の都道府県別無電柱化率(2019.10.7 読売新聞から)

 この図によると、無電柱化率が3%を超えているのは、東京都だけであり、2~3%は神奈川、岐阜、福井、大阪、兵庫の5府県、1~2%が23県、残る18府県では1%未満である。

 このように無電柱化が日本で遅れている要因としては、「故障時の対応に時間がかかる」、「工事中の通行のへの妨げ」、「電線を地下化しても地上部の変圧器の場所は必要」といったことがあげられているが、やはり最大の要因は1kmあたり5.3億円とされるコストの問題であろう。現在、軽井沢で計画されている、前記の580m の区間の総費用は、約4億円とされているから、寒冷地での工事費用は更に割高になっていると思われる。

 これに対しては、電線を埋める深さを浅くして、掘削量を減らしたり、土に代わって発泡スチロールを使って埋め戻し時間を減らすなどにより、工期短縮を図る工夫が取り入れられている。また、従来は通信への影響を避けるために、離れて埋めなければならないとされていた電力と通信のケーブルを同じ側溝状のボックスに埋めるなどのコスト対策も進められているという。

 しかし、高速道路網や新幹線網、リニア鉄道建設などのことを考え合わせると、もう少しバランスのとれた国土のインフラ整備はできないものかと思う。
 
 日本で最初に電線地中化が行われたのは、前出の兵庫県芦屋市に高級住宅街として造成された六麓荘町とされているが、これは90年も前の1928年のことであった。その後、1986年度から1998年度までに、全国で約3,400kmの地中化が達成されているというが、このままのペースでいけば、日本全体の電線地中化が完了するまでに2700年かかるという計算もある。

 東京都知事になった小池百合子氏が発足人となって作られた無電柱化推進議員連盟、無電柱化小委員会により作成された「無電柱化推進法案」が2016年12月9日に無電柱化の推進に関する法律として成立している。また、東京都と大阪府もそれぞれ2018年2月と2018年3月に「(仮称)東京都無電柱化計画」(素案)、「(仮称)大阪府無電柱化推進計画」(素案)を発表している。

 国土交通省は、上記法律を受けてであろうか、災害時に緊急車両が走る幹線道路では、2016年以降電柱を新設することを禁じているし、災害時の輸送で重要となる道路を対象として、電力会社や通信会社に電柱を撤去させる制度を新設すると発表している。

 地球温暖化が進む中、台風15号のあとにはまだまだ大型で強力な台風が日本に押し寄せてくる気配である。千葉県のような住宅被害や大規模停電が、再び起きなければよいがと願わずにはいられない。



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軽井沢の霧の話

2019-10-04 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢は霧の日が多く、「霧の軽井沢」と呼ばれることもあるが、軽井沢町の公式ホームページでは、年間120日も霧の出る日があると紹介している。特に夏の軽井沢は霧のかかる日が多いようである。


朝の霧につつまれた雲場池(2019.6.19 撮影)

 軽井沢で霧が発生する理由は、次のように詳しく説明されている(ウィキペディア)。

 「日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ5 m/sで大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら二つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり(断熱膨張)、飽和した水蒸気が霧となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間130日以上も霧が発生している。」

 標高で見ると、峠の下の横川が387m、碓氷峠が960m、軽井沢が939mという関係である。


霧につつまれた旧軽井沢銀座通り(2019.6.9 撮影)

 観光の中心地である旧軽井沢銀座やアウトレット・モールあたりは、軽井沢でも碓氷峠に近い東側にあるため特によく霧が発生する。西の中軽井沢方面に行くにしたがって徐々に霧は薄くなり、信濃追分あたりまでくるとほとんどなくなってくる。

 軽井沢を出て佐久方面に車で向かい、追分を過ぎて佐久平にくると、それまでの霧が嘘のように晴れて、青空が広がっているというのはよく経験することである。ちなみに、佐久平から小諸・望月周辺は日本でも晴天率がとても高い地域であるとされているから面白い。


霧につつまれた聖パウロ・カトリック教会(2019.6.9 撮影)

 1995年頃に広島県の三次市に赴任していたことがあるが、ここは秋から早春にかけて朝、霧が頻繁に出る場所であった。天気が悪いわけではなく、濃い霧が出て、視界がとても悪い朝でも時間とともに晴れていき、昼前には青空が見えるようになるといった具合である。ちょうどその頃、NHKの大河ドラマで毛利元就が取り上げられたが、番組の冒頭、この霧のシーンが流れていたことを思い出す。

 この霧は軽井沢の霧とは発生メカニズムが異なるようで、川霧とされる。三次盆地では、西城川・馬洗川・神之瀬川の三つの川が流れ、三次市の中心部で合流して江の川となる。これらの川が運んできた冷気によって、こうした川霧が発生するのだという。

 霧は地表50メートルから100メートルの間を液体のように立ちこめ、すべてを覆い隠してしまう。高谷山・比熊山・岩屋寺など、標高100メートルを越える小高い丘に登ると、雲海のように足下で渦巻く霧や、ところどころで丘や小山の頂が小島のように浮かび上がり、幻想的な光景が眺められるというが、残念なことに私はそういう機会を持つことはなかった。

 この霧は、前記の通り水蒸気を含んだ大気の温度が何らかの理由で下がり露点温度に達した際に、含まれていた水蒸気が小さな水粒となって空中に浮かんだ状態をさすとされている。その意味で霧は雲と同じであると考えてよい。雲との一番大きな違いは水滴の大きさなどではなく、両者の定義の違いということになる。すなわち、霧は大気中に浮かんでいて、地面に接しているものと定義され、地面に接していないものは雲と定義している。山に雲がかかっているとき、地上にいる人からはそれは雲だが、実際雲がかかっている部分にいる人からは霧ということである。

 よく天気予報などで霧と靄(もや)の違いを説明しているが、それによると、視程が1km未満のものを霧とし、視程が1km以上10km未満のものを靄と呼んで区別している。

 「霧の都」としてロンドンもまた有名だが、こちらは軽井沢などのロマンチックな霧とは違い、その発生原因は公害であった。産業革命以来続いていた石炭の大量使用により発生した煤煙(スモーク)と霧(フォグ)を合成した言葉であるがスモッグがその原因であることは今では有名である。このスモッグの発生は20世紀に入ると激しくなり、1950年頃には大量の死者を出すほどになり、「大気浄化法」という法律を作り規制しなければならなくなった。最近ではこの大気汚染も収まり霧もまたほとんど発生しなくなっているようである。

 先日、新聞紙上に東京の霧発生日数の推移が紹介されていたが、東京では霧発生日数が減っているとのこと。お天気キャスターの森田正光氏の文章であるが、一部引用すると次のようである。

 「・・・気象庁気象研究所に在籍した藤部文昭さんの論文『都市が降水に及ぼす影響』で、霧日数のデータを1880年頃(明治時代)から示しています。明治時代に、東京の霧日数は年10から5日ほど。大気汚染や都市化の影響が小さかった東京本来の姿なのかもしれません。
 その後、昭和初期には50日前後となり、高度経済成長期にかけてはおおよそ20日以上で推移します。霧粒の芯となる空気の汚れが顕著だったことも関係あるかもしれません。・・・
 最近では、ほとんど霧が観測されていません。本来の東京の姿とはかけ離れています。空気の浄化というよりも、都市化による気温の上昇や地表面の乾燥が占める部分が大きいのでしょう。東京都心から富士山の見える日数は、近年、過去になかったほど増えていますが、霧日数は2012年の秋以来、一日もありません。・・・」(読売新聞 2019.9.8 掲載記事『晴考雨読』から)


霧日数と都心から富士山が見えた日の推移(2019.9.8 読売新聞掲載の記事から引用)
 
 さて、軽井沢とその周辺の霧であるが、多くの文学作品や小説にも採り上げられている。先ずは軽井沢にこの霧をもたらす基になっている碓氷峠の霧から見ていく。

 碓氷峠の北方には霧積温泉がある。今はここには一軒の宿を残すだけになっているが、かつては40軒以上の宿があり、賑わいをみせていたという。温泉の発見は1200年代であるというからその歴史は古い。

 明治時代初期には温泉旅館が季節営業を始め、別荘が建てられるなど、軽井沢よりも一足先に、避暑地として知られるようになった。

 明治天皇をはじめ、伊藤博文、勝海舟、尾崎行雄、岡倉天心、西條八十、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻ら多くの政治家や文化人らもここを訪れている。伊藤博文が明治憲法草案を起草した部屋は2018年現在でも旅館・本館の一部として残されているという。
 
 1888年(明治21年)に軽井沢に初めての別荘を建て、避暑地・軽井沢の父と呼ばれているカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショー(1846年~1902年)も霧積温泉を訪れていて、英文の広告を発行するなどし、外国人にこの地を紹介している。

 また、1893年(明治26年)に日本人として初めて軽井沢に別荘を建てた旧海軍大佐で福井県選出の衆院議員だった八田裕二郎(1849年〜1930年)も、療養を兼ね霧積温泉に来ていて、軽井沢に多くの外国人が別荘を建てていることを知ったのが建設のきっかけであったとされている(2017.4.21公開の当ブログ「八田別荘とコクサギ」参照)。

 しかし、明治も後期になると軽井沢が避暑地として開発され、人気は奪われていった。さらに1910年(明治43年)に山津波(土石流)が発生し、4軒あった温泉旅館、50~60軒あった別荘が流され、温泉街・別荘は壊滅してしまった。現在はその当時被害を免れた金湯館のみが営業を続けている。

 この山宿を守り続ける3代目当主Sさんによれば、「一寸先も見えない深い霧に包まれることがあります」とあり、さすがの霧の濃さである。

 「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうね?」というせりふは、今では森村誠一さん(1933年~)の小説を映画化した「人間の証明」で有名であるが、出所は西条八十(1892年~1970年)の詩である。碓氷峠から霧積に続く深い渓谷でなくした少年の麦わら帽子と、母への思慕が次のように詠われている。

ぼくの帽子

   西条八十  
   
母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあの時、ずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき、向から若い薬売が来ましたつけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたつけね。
けれど、たうとう駄目だった、
なにしろ深い谿で、それに草が
背たけぐらゐ伸びてゐたんですもの。

母さん、ほんとにあの帽子、どうなつたでせう?
あのとき傍に咲いてゐた、車百合の花は
もうとうに、枯れちやつたでせうね。そして
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で、毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

母さん、そして、きつと今頃は、今夜あたりは、
あの谿間に、静かに雪が降りつもつてゐるでせう、
昔、つやつや光つた、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S といふ頭文字を
埋めるやうに、静かに、寂しく。
・・・

 碓氷峠を下って、軽井沢の霧についてみると、次のエッセイは、軽井沢とは縁が深く、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の翻訳、ボーヴォワールの翻訳、そしてパリについての著書で知られる朝吹登水子(1917年~2005年)のもの。彼女が幼少期から過ごした別荘や、夫君と暮らした住まいはともに軽井沢にあったが、別荘・睡鳩荘は今、中軽井沢の塩沢湖畔に移築保存され、見学することもできる。

 ・私の軽井沢物語-霧の中の時を求めて
 朝吹登水子のエッセイ。1985年、文化出版局。


「私の軽井沢物語-霧の中の時を求めて」、文化出版局発行の表紙

 内容は、著者の記憶にある大正末期から戦争を経て、再び平和が戻るまでの軽井沢を、戦火を逃れた、たくさんの古いアルバム写真とエッセイで記している。書き出しは次のように始まる。
 「私の軽井沢の記憶は薄霧の中から始まる。・・・場所は小坂別荘。小坂善太郎氏、徳三郎氏の父上順造氏の別荘である。大正六年(1917)、両親は小坂家の別荘を借りて、はじめて軽井沢で夏を過ごしたのであった。・・・」
 
 またあとがきの中で、次のように軽井沢の霧について触れて、そしてこの著書の題名について解説している。

 「私が這いはいをしながら人生を進み始めたのは、軽井沢の小坂別荘である。父は簡素で良風の軽井沢が大変気に入り、大正九年(1920)に別荘を買ったので、私は子供時代と少女時代を兄たちと毎夏ここで過ごすことになる。・・・
 パリに住んでいた頃、時折、隣接するブーローニュの森に近い私の住居で、ピョロッピョロッピー、と軽井沢と同じ小鳥の鳴き声を聞くことがあった。甘い郷愁に浸ったわけでは決してなかったが、ふいに軽井沢の一陣の白い霧を頬に感じ、父と母と一緒にいた頃の幼い自分や、嵐が来る前の、泡沫の平和の中であそんだ若人たちの姿が浮かんで、私の胸をしめつけた。これらの映像が霧の中に永遠に消えてしまう前に、私は自分が見、聞き、味わった軽井沢を紙上にとどめておきたいと思った。・・・
 『霧の中の時を求めて』という副題は、読者にフランスの名作、プルーストの『失われた時を求めて』をただちに想いおこさせるだろう。たしかに私は、『失われた時を求めて』という美しい題が大好きなのである。・・・」

 次に、軽井沢の霧を扱った小説から代表的なものを紹介する。

・『霧の山荘』
 横溝正史(1902年~1981年)の小説。角川文庫『悪魔の降誕祭』に本の表題の作品、「女怪」と共にこの「霧の山荘」が収録されている。


「悪魔の降誕祭」、角川書店発行の表紙

 あらすじは、K高原のPホテルに滞在していた金田一耕助を訪ねてきた江馬容子という女に、奇妙な依頼をされる。M原にあるという容子の叔母で元映画スターの紅葉照子が待つ別荘地を訪問したところ途中で霧に巻かれて道に迷ってしまう。
 途方に暮れる金田一を迎えに来た、照子の使いの者と名乗る若い男に案内されて別荘に来ると、そこには照子が倒れていた。金田一が別荘の管理人に連絡し、警察にも通報してもらって、戻ってみると若い男とともに照子の死体も消えてしまっていた。ところが翌朝、K署の捜査主任・岡田警部補から、照子の死体が発見されたと連絡が入る。金田一が別荘に急行すると、別荘の裏の潅木林の中に裸にされた照子の死体が横たわっていた。・・・
 
 横溝正史は金田一シリーズを通して舞台となる地名をアルファベットで抽象的にあらわすことが時々見られるという。この作品にでてくる「K高原」や「K署」の「K」は「軽井沢」、「Pホテル」の「P」は「プリンス」、「M原」の「M」は「南」とされているが、この作品が書かれた当時、まだプリンスホテルは今の名前で呼ばれていなかったといわれ、小説の内容とは別の謎との意見もある。

・『日美子の軽井沢幽霊邸の謎』
 斉藤栄の小説。中公文庫。


「日美子の軽井沢幽霊邸の謎」、中央公論社発行の表紙

 斉藤 栄さん(1933年~)は、大変作品数の多い作家だが、その中の占術ミステリーの『タロット日美子』シリーズのひとつ。

 あらすじは、津名村画伯夫人に、矢ケ崎川の近くの小高い丘の上にある別荘へ招かれた日美子と従姉妹の由佳が、親友を誘って軽井沢に出かける。南軽井沢には、津名村画伯の息子・幸一が奇岩城と名づけているまっ黒い恐ろしい形の巨大な岩が、いくつも林立している場所がある。その奇岩城と発地川の間にある、豪邸を舞台に起きる事件に、二階堂日美子のカードリーディングによる謎解きが展開するというもの。この小説では、推理小説としては稀なことであるが、殺人は起きない。
 このほか軽井沢を舞台とする著者の作品には「新幹線軽井沢駅の殺人」「軽井沢愛の推理日記」などがある。

 1983年5月から軽井沢に住み、先ごろ亡くなった内田康夫(1934年~2018年)には次の推理小説がある。

・『軽井沢の霧の中で』
 内田康夫の短編集。中公文庫、角川文庫、など。表題の下に軽井沢を舞台にした「アリスの騎士」、「乗せなかった乗客」、「見知らぬ鍵」、「埋もれ火」の4編が収録されている。いずれも初出誌は1986年の「別冊婦人公論」とされる。
 先に世に出た、中公文庫版の「あとがき」に寄せられた、著者の友人で同じく軽井沢在住の小池真理子さんの次の文章を、角川文庫版の「自作解説」で紹介している。
 「私個人としては『埋もれ火』が強く印象に残った。短編ミステリーの命とも言えるオチが小粋に決まっていることももちろんだが、高原の別荘地で陶芸をしている男、そこに突然、現れた美しい青年、不吉な暗号のように出て来る白い犬・・・等々、サスペンスの典型ともいうべき設定を大胆に利用して、女の怖さを描いているあたり、内田康夫が意図的にこれまで隠し続けてきたのであろう、第二の才能を感じさせる」


「軽井沢の霧の中で」、中央公論社発行の表紙


「軽井沢の霧の中で」、角川書店発行の表紙

 本作品は同氏のベストセラーである浅見光彦シリーズではない。「アリスの騎士」のあらすじは、父親の死をきっかけに、自身が26年前に生まれ、それから毎年夏には必ず訪れたという、幼い日々の思い出の刻まれた軽井沢の別荘を取り壊し、ペンション経営を始めた絵里という主人公のミステリー。
 絵里は東京・日本橋で4代続いた老舗の呉服店を畳み、軽井沢でペンションを始めた。幼い頃からの夢であった「アリスの館」の経営は、父親が強引に結婚させた画家である婿養子の夫・嘉男の力を借りなくても順調に進んでいた。二年後、絵里は頼りない夫に不満を抱き、出入りの経理士と不倫関係になった。ところが、高崎で逢った後の夜、その経理士が殺害され、その日を境に夫の態度が変わっていく...というもの。

 同じく、2004年から軽井沢に在住している作家、唯川恵さん(1955年~)も「軽井沢の霧」を扱った作品を発表している。

・『途方もなく霧は流れる』
 唯川恵の小説。単行本と、表題を『霧町ロマンティカ』と改題した文庫本がある(共に新潮社)。


「途方もなく霧は流れる」、新潮社発行の表紙

「霧町ロマンティカ」、新潮社発行の表紙

 文章は、「峠を越えた辺りから霧が流れ始めた。群馬と長野を結ぶ碓氷峠である。・・・」とはじまる。

 あらすじは、航空会社で数十億の仕事を任されていた主人公・岳夫は、会社の倒産に伴いリストラの憂き目にあう。東京の住まいを引き払い、父親が残してくれた軽井沢のボロ家に引っ越してきて、田舎暮らしを始める。父親は彼が十三才のときに行方不明になっていた。ある日、迷い犬が現れ、飼いだすようになる。新生活を始めた彼の周りには、知的な獣医、小料理屋の優しい女将と19歳のその娘、誘いをかける妖艶な人妻、など次々と女性が現れる。
 
 と、霧の軽井沢を紹介してきたが、霧を見ることのできなくなっている都会の方々は、霧が見たくなったら「軽井沢にいらっしゃい」ということになるのだろう。



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