軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

庭にきた鳥(2)ヤマガラ

2019-05-31 00:00:00 | 野鳥

 今回はヤマガラ。リビングの窓際に設置した餌台にはこれまでに25種ほどの野鳥がやってきているが、数では圧倒的にスズメが多く、次いでシジュウカラがよくやってくる。種類ではシジュウカラに代表されるカラの仲間が多く、今回紹介するヤマガラのほか、ヒガラ、コガラなどもよく姿をみせる。ゴジュウカラというカラの仲間もいるようだが、こちらは山地では見かけるものの、我が家の庭にはまだきたことが無い。

 ヤマガラの生態について、「原色日本鳥類図鑑」(小林桂助著 1973年保育者発行)で見ると、次のようである。
 「亜高山体(1700m~2500m)の下部から低山帯(1000m前後)に繁殖し、冬期は人里近くにも漂行する。ツツピー、ツツピーと繰り返してなく。人に馴れ易い鳥である。」
 
 軽井沢は1000m地帯、低山帯に属しているから、ヤマガラの生息域として適しているのであろう、冬から春にかけて特によく見かける。

 また、「野鳥観察図鑑」(杉坂 学監修 2005年成美堂出版発行)には、「繁殖期には樹木の上層を移動しながら、昆虫の成虫や幼虫を捕食する。秋には樹木の種子を好んで食べ、冬に備えて木の幹などに差し込んで蓄える。」といった生態も紹介されている。

 我が家の餌台には、他の多くの鳥用の餌の他に、特別にこのヤマガラ用に、「麻(お)の実」だけを入れる餌入れを用意している。ビデオを撮りながら観察していると、ヤマガラはシジュウカラとは異なり、餌台に長時間とどまることは少なく、麻の実を見つけると、それを咥えて近くの木の枝に飛んで行って、そこで足の間に実を挟み、くちばしで突(つつ)き割って中身を食べるとまた餌台に戻るという動作を繰り返している。

 最近ビデオ撮影をした時にもやはりスズメ、シジュウカラに混じって餌を食べに来ていた。その様子は次のようであった。この時やってきたのは、スズメ、シジュウカラ、ヤマガラそしてホオジロであったが、スズメ、シジュウカラ、ホオジロは一緒に餌台で餌をついばむことがあるが、ヤマガラはどうも他の鳥と一緒に食べることは無いようで、他の鳥のいないタイミングを見計らってやってくる単独の映像ばかりが残されていた。


餌台にきたヤマガラ(2019.1.12 30倍タイムラプス撮影ビデオからのキャプチャー画像)


餌台でヒマワリの実を咥えるヤマガラ(2019.1.12 30倍タイムラプス撮影ビデオからのキャプチャー画像)


餌台で実を足の間にはさみ、突くヤマガラ(2019.1.12 30倍タイムラプス撮影ビデオからのキャプチャー画像)


餌台で餌を覗き込むヤマガラ(2019.1.12 30倍タイムラプス撮影ビデオからのキャプチャー画像)


餌台にきたヤマガラ(2019.1.12 30倍タイムラプス撮影ビデオからのキャプチャー画像)


餌台にきたヤマガラ(2019.1.12 30倍タイムラプス 撮影ビデオからのキャプチャー画像)


餌台で仲良く餌を食べるシジュウカラ、スズメ、ホオジロ(2019.1.12 30倍タイムラプス撮影ビデオからのキャプチャー画像)

 私は小学生の頃、手乗り文鳥を飼っていたことがある。まだ羽の生えていない雛を買ってきて育てたのだが、大きくなってもよく慣れていて、雛の頃に餌を与えるために父が作ってくれた竹製のスプーンで、やはり雛の頃に餌を入れていた陶器製の容器の縁をコンコンとたたくと、どこにいても飛んでくるのであった。家の外に出しても同じで、屋根の上まで飛んでいっても、コンコンという音を聞くとすぐに飛んで帰ってきた。

 あるとき、同じように家の外に連れ出して遊んでいたところ、スズメの一群が近くを通り、文鳥は何を思ったか、その一群に加わり飛び去って、それきり帰ってこなかった。

 我が家の文鳥はこうしてどこかに行ってしまったが、反対に何故かその頃何種類かの小鳥を家の周辺で捕まえたことがあった。セキセイインコ、カナリヤ、そしてヤマガラである。

 このヤマガラが野生のものであったのか、どこかで飼われていたものが逃げ出したものか判らなかったが、比較的よく人に慣れているようであったから、おそらくどこかで飼われていたのであろう、父に教えられて麻の実を与えるとよく食べた。このヤマガラがどのくらいの期間我が家にいたのか今はもう記憶が無い。

 これがヤマガラとの最初の出会いで、ヤマガラが人によく慣れて、おみくじを引く芸をするということを知ったのもこの頃であった。

 軽井沢でもヤマガラを餌付している人がいるようで、知人のIさんはヤマガラを手の上に乗せて写真を撮ったりしているのだが、我が家にやってくるヤマガラは、今のところ近づいていくと逃げ去ってしまう。間近に見ることができるのは、リビングの窓を通してだけである。

 このヤマガラが人によく馴れて芸をするという話は、まだ多くの人の記憶に残っているようであるが、今はもうそうした芸を見ることができないのは残念な気もする。そんなことを話していたら、妻が面白い本を見つけてくれた。「ヤマガラの芸」(小山幸子著 2006年法政大学出版局発行)である。

 
書籍「ヤマガラの芸」の表紙

 この本のカバーの裏面には次のように書かれていて、本文を読んでみると、ヤマガラが行う数種類の芸は、ヤマガラが持っている習性を巧みに利用しているという。

 「<おみくじ引き>をはじめ、今は失われたなつかしいヤマガラの芸をたずねて歴史を渉猟するとともに、芸のしくみと調教の方法を動物行動学の視点から明らかにする。著者の関心は鳥の飼育全般、動物芸一般、さらに発展して日本人の動物観や見せ物芸の本質、笑いの構造に及び、動物と人間との深くゆたかな関わりの世界を描く。」

 この本から、ヤマガラと人との関わりについて見ていくと次のようである。

 先ず、ヤマガラはいつごろから人に飼われていたかをみると、鎌倉時代に遡ることができるという。すでにこのころからヤマガラは芸を仕込まれていたらしいとされ、次のような歌が紹介されている。

      山陵鳥(ヤマガラ)   光俊朝臣
    山がらの廻すくるみのとにかくに
      もてあつかふは心なりけり    『夫木和歌抄』(1310年頃) 巻第二十七

 この時代にヤマガラを飼っていた人は、貴族階級とされているが、江戸時代(十七世紀後半)に入り、小鳥飼育が大衆化する頃になると、見世物芸としてのヤマガラ芸が登場する。このころの芸としては「つるべ上げ」や「かるたとり」があったという。

 「つるべ上げ」は糸の両端につるべとクルミがぶら下げられていて、木の実の好きなヤマガラがクルミを得るために糸をたぐるのだが、それが井戸でつるべを引き上げて水を汲んでいる動作に見えるというもので、これはヤマガラが木の枝をたぐり寄せて虫を食べる動作そのもので、殆んど芸を仕込むというほどのものではないようだ。

 もう一つの「かるたとり」は、百人一首の上の句を読むと、読まれた上の句に対応する下の句をヤマガラが取ってくるという非常に高度な芸であり、こちらは江戸時代にはもっとも流行った芸とされる。

 明治時代に行われていたヤマガラ芸については、外国人の記録が紹介されている。

 「明治時代前半の記録で詳細を極めているのは、アメリカ人の科学者で大森貝塚の発見者として有名なエドワード・S・モースによるものだ。・・・ヤマガラの芸は、日本人でも記録に残すほどに芸の高度さが驚かされたものだったが、モースの記録ではいくつもの芸がそれぞれ詳細でしかもそれぞれ絵入りになっているため非常にわかりやすい。・・・
 芸は全部で十種類も記録されている。芸の種類としては、「水汲み(つるべ上げ)」、「鐘つき」などのように江戸時代の芸の記録にも見られた芸があるほか、新しい芸の種類として、「馬引きと馬乗り」、「楽器演奏」、「那須与一」、「鈴鳴らしと賽銭入れ」、「掛け軸かけ」、「銭投げ」、「傘をさしての綱渡り」、「箱の蓋閉め」などが記録されている。」

 ここにはまだ「おみくじ引き」の芸は登場していない。しかし、明治時代にモースが見たと記録している「鈴鳴らしと賽銭入れ」の芸には昭和にはいってようやく登場する「おみくじ引き」の芸の原型があるとされる。

 昭和七年(1932年)頃の記録によれば、浅草・花屋敷での興行では、約二十五羽のヤマガラが飼われ、平均して一羽につき四、五種類の芸が教えられていた。この頃調教されていた十種類ほどの芸の中に、「宮参り」というものがあり、「おみくじ引き」芸の要素のほとんどが含まれているのだが、おみくじをくわえる部分だけがまだこの段階では含まれていなかった。

 「宮参り」芸は、かごから出たヤマガラが鳥居をくぐり賽銭を入れ、鈴を鳴らして飛んで帰るという動作をする。これにおみくじを引いてこさせる部分がさらに加わって、「おみくじ引き」の芸として完成するのは、最後のヤマガラ使いといわれた故丸山重造氏によれば、昭和20年代だという。おみくじを引き、それを手の上にまで持ってきて乗せるところまで工夫したのは自分だという。

 この高度なヤマガラ芸「おみくじ引き」は一時非常に流行ったが、昭和四十年代にはいって急速に廃れてしまったのだと言う。なぜそれほどに「おみくじ引き」の芸は流行ったのか。そして、なぜ急速にすたれてしまったのか。著者は次のように分析する。

 「昭和にはいってから登場する『おみくじ引き』の芸が流行った理由としては、ひとつには芸が非常に高度に完成されたものだったことがあるだろう。細かい一連の動作をつなぎ合わせて一つの芸とした点では、完成度が高いだけでなく、他の芸に比べてストーリー性も生じている。そのうえ、鳥に人、つまり観衆の中から希望した人の運勢を占わせるようにしたことで、芸と観衆との間にかかわりが生じたことも、観衆の好奇心をそそるのに大きな役割を果たしたのではないだろうか。・・・」

 「では、何がヤマガラ芸をすたれさせてしまったのだろうか。
 この原因の一つは、和鳥類の飼育が禁止されたことではないかと思う。飼育の禁止は、ヤマガラを知っている人を減らすことにつながる。現在、どれだけの人がヤマガラを知っているだろうか。飼うことで、芸を調教する楽しさを知り、それが芸を見ることを楽しむことへもつながる。江戸時代に入って貴族趣味としての小鳥飼育から大衆の楽しみとなることで、ヤマガラの芸が見せ物芸へも発展する基盤ができたのではないかと前の章で論じた。この事の逆の現象が、昭和の後半になって生じてしまったのではないだろうか。・・・」

 「・・・ヤマガラ芸の衰退の原因としてもうひとつ考えられるのは、昭和にはいって『おみくじ引き』の芸だけしかおこなわれなくなってしまったことが、もしかするとあるのではないかということだ。江戸時代には『かるたとり』という代表的な芸があったほか、それ以外にもかなりの芸があった。明治時代にも芸はさらに多様化し、常設小屋もできた。大道でもかなり行われていただろう。そして、昭和にはいり、二十年代頃には逆に『おみくじ引き』の芸に芸は絞られてしまった。非常に長い目で見れば、江戸時代から明治時代にかけてせっかく長い年月流行りつづけながら、昭和になってとくに二十年代以降に芸の多様性をうしなったとも言える。このことが、ヤマガラに『おみくじ引き』をする鳥のイメージを固定化させる一方で、衰退への道をも作ったということにはならないだろうか。・・・」

 この「おみくじ引き」を懐かしむ声があったからだろうか、浅草・花やしきでヤマガラ芸を演じ、大道芸を復活させた丸茂重造さんを紹介した読売新聞の記事(1987年1月8日付け記事)が紹介されている。


浅草・花やしきでの「ヤマガラ(山雀)のおみくじ」が戻ったと報じる読売新聞1987.1.8付け記事

 しかし、そこまでであったようだ。本文の最後の所で、著者は次のように書いている。共感できるところである。

 「この小さな、愛らしい芸の消滅は、古き良き日本の伝統文化の一つの消滅と言っても良いのではないだろうか。愛らしいヤマガラの芸の歴史は、ヤマガラと日本人との深い関係の歴史だったのだと思う。小鳥類の飼育史は、日本人が基本的に鳥の鳴き声を楽しむ民族だったことを示していた。ヤマガラはそのような日本における鳥文化の中で、唯一調教を楽しまれ、独自の位置づけを鳥文化史の中で築き上げてきた。芸が見られなくなり、日本でのヤマガラと人との深いかかわりの歴史を閉じてしまうことは、とても残念だ。このようなことは、ヤマガラにとっては芸をさせられずに済んで、歓迎すべきことなのかもしれない。が、そのようにしてヤマガラと人とのかかわりが薄くなることで、ヤマガラの存在自体が忘れられていくとしたら、果たしてヤマガラにとっても良い事なのかどうか、疑問に思う。野鳥の保護とともに、ヤマガラの芸の保護も何らかの形でおこなわれることで、ヤマガラがいつまでも日本人に愛される存在でいつづけてほしいと願わずには入れれない。」

 さて、最後にヤマガラの愛らしい姿を自宅2階から撮影した写真を紹介させていただく。庭の木にやってきて止まり、餌台に行って「麻の実」を咥えると、再び木の枝に戻って殻を突(つつ)き割って中身を食べるという動作を繰り返していた。また、シジュウカラ用に取り付けた「牛脂」も時には食べていた。
 
 最初の写真は、転居後間もないころ、家の南側のウッドデッキのそばに餌台を設置した時のもので、すぐそばのモミジの枝にやってきたときのもの。餌台の麻の実ではなく、なにやら昆虫の幼虫らしいものを咥えている。


庭の木にやってきたヤマガラ(2015.4.24 撮影)

 この餌台に取り付けた牛脂を狙ってカラスがやってくるようになったので、餌台はその後北東側のリビングの窓のすぐ外に移動した。以後カラスは来なくなった。


餌台の近くの木に止まるヤマガラ(2016.3.11 撮影)


餌台から持ってきた麻のみを両足で挟むヤマガラ(2016.3.11 撮影)


餌台から持ってきた麻の実を両足で挟むヤマガラ(2016.3.11 撮影)


餌台から持ってきた麻の実を割って食べるヤマガラ(2016.3.11 撮影)


餌台から持ってきた麻の実を割って食べるヤマガラ(2016.3.11 撮影)


めずらしく、スズメと一緒にいるヤマガラ3159(2016.3.11 撮影)


餌台の牛脂を食べに来たヤマガラ(2016.3.12 撮影)


餌台の牛脂を食べるヤマガラ(2016.3.12 撮影)
 

雪の日の朝やってきたヤマガラの夫婦(2016.3.14 撮影)


雪の日の朝やってきたヤマガラ(2016.3.14 撮影)


雪の日餌台から持ってきた麻の実を両足で挟んで食べるヤマガラ(2016.3.14 撮影)

(完)




 


 
  
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軽井沢文学散歩(6)有島武郎

2019-05-24 00:00:00 | 軽井沢
 今回は有島武郎。これまで室生犀星(2017.10.13 公開)、堀辰雄(2017.11.10 公開)、立原道造(2018.2.9 公開)、正宗白鳥(2018.6.27 公開)、津村信夫(2019.2.1 公開)と軽井沢ゆかりの作家をとりあげてきた。これらの作家は軽井沢に住み、或いは逗留するなどして、互いに交流している。

 有島武郎については、前出の文士たちとの交流の話は聞かない。軽井沢との縁という点では、1916(大正5)年に父・武の死後譲り受けた軽井沢三笠の別荘に初めて訪れてからは、ほぼ毎年のように避暑に訪れている。代表作の一つとされる『生まれ出る悩み』はこの別荘で執筆された。そのほか軽井沢を舞台にした作品に『小さき影』や『信濃日記』などがある。また軽井沢の夏季大学で2度、講演を行っている。

 しかし、何よりも有島武郎と軽井沢を結び付けているのは、氏が終焉の地に軽井沢を選んだことである。1923(大正12)年6月9日、別荘「浄月庵」で武郎は愛人の波多野秋子と、情死したのであった。現在、三笠の別荘跡には有島武郎終焉地の石碑があり、別荘自体は中軽井沢の軽井沢高原文庫に移築され、その一角は茶房「一房の葡萄」として現在も使用されている。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の有島武郎(赤で示す)と、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥と津村信夫(橙で示す)

 妻と私が軽井沢に移住してくる前に、2年間の期間限定で鎌倉に住んでいたことがあったが、その頃、月に2度くらいのペースで、鎌倉のレストランや居酒屋に出かけていた。

 あるとき、小町通りの少し裏手にある居酒屋風の店に入って飲んでいたところ、若い店主が、自分は有島生馬の孫ですと話してくれた。店の壁には、確かに有島生馬ゆかりの書などが飾られていた。

 有島生馬といえば、有島武郎の弟で、画家であるが、有島武郎が軽井沢にゆかりのある人とは、当時はまだ知らなかった。軽井沢に移住してからは、様々な機会に三笠別荘地に有島武郎の終焉の地があると見聞きすることが多くなっていたが、今回初めて現地を訪れた。

 石碑の場所は:旧軽井沢のロータリーを三笠通りに進み、カラマツ並木を過ぎて、旧三笠ホテルの少し手前の道を右に入るが、この入り口の角に小さな案内板がある。別荘地の中を左にカーブする道路を進むとそれ以上は車では進めなくなり、最後の別荘の前を徒歩で進むと、50mほどで、2番目の案内板が右側に目に入る。ここを右に折れて、50mほどゆるい坂道を登ったところに訪ねる石碑がある。


三笠通りからの分岐点にある案内(2019.5.21 撮影)


同拡大(2019.5.21 撮影)


2番目の案内板(2019.5.21 撮影)


緩やかな登り道を進む(2019.5.21 撮影)


登り切った平坦地に2基の石碑がある(2019.5.21 撮影)


有島武郎終焉地碑(2019.5.21 撮影)


同拡大(2019.5.21 撮影)


説明パネル(2019.5.21 撮影)

 中央部に設置されている説明パネルには次のように書かれていて、石碑にはこの詩文が刻まれているとあるが、これは石碑の右側面(向かって左側)に刻まれているもので、とても分かりにくく見過ごしてしまいそうである。この詩は吹田順助著「葦の曲」の中の「混沌の沸乱」からの一節という。

 『昭和28年、有島終焉の地”浄月庵”跡にこの碑が建てられました。この浄月庵とは、旧三笠ホテル近く有島武郎の別荘があったところで、大正12年6月9日、この別荘で愛人波多野秋子と共に自ら生命を絶ったのでした。
 有島生馬の筆により次の詩文が刻まれています。
  大いなる可能性 エラン・ヴィタル 社会の心臓(*エラン・ヴィタルとは生命の飛躍の意。)
  さういふ君は 死んじゃった!運命の奴め 凄い事を しやあがったな!」
  この碑の他に、「チルダへの友情の碑」が英文で同地にあります。』


石碑の右側面に刻まれている詩文(2019.5.21 撮影)


同拡大(2019.5.21 撮影)

 また、石碑の裏面には長方形のくぼみがあって、ここには有島生馬による次の文章が刻まれているというが、こちらも今はほとんど読み取ることができない。

 大正十二年六月九日早暁 浄月庵に滅す
 武郎行年四十六才 波多野秋子三十才
 昭和二十六年夏 有島生馬書
 

石碑の裏面(2019.5.21 撮影)

 ここにあるもう一つの石碑「チルダへの友情の碑」は、有島武郎がスイスのシャフハウゼンの、ホテル・シュヴァネンの娘チルダ・ヘック嬢に宛てた手紙の内容の一部を英文で刻んだもので、次の英文が刻まれている。

 Takeo to Tilda
 Tokyo March 15th 1919

 How is our friendship
 pure+noble+deep.
 Is there annother such
 friendship on earth?
 Tilda, let us keep it dear.
 Let us carry it dear
 to our tomb.
  Tilda 1953


「チルダへの友情の碑」(2019.5.21 撮影)


2基の石碑を見る(2019.5.21 撮影)
 
 この軽井沢・三笠の地は武郎の妹・愛の嫁ぎ先である山本家が三笠ホテルの経営者であったという縁もあって、武郎の父・武が選んだものであったようだ。

 この有島武郎の心中に関して、代表作である「カインの末裔」、「惜しみなく愛は奪う」、「生れ出ずる悩み」、「一房のぶどう」などを知る身としてはとても違和感を覚えるのであるが、当時の受け止め方はどうであったか、「有島武郎集・現代日本文学大系35」(1970年 筑摩書房発行)に掲載されている、作家・広津和郎氏の「有島武郎の心中」から少し引用してみると次のようである。

 「有島武郎氏の例の心中問題については、もう世間の所謂(いわゆる)論者達の議論は、大体出切ってしまったことと思う。私は一々読んでみなかったからどういう名批評があったかは知らないが、併(しか)し大体に於いては、頗(すこぶ)る評判が好かったようだった。・・・相当の知識のある連中でも、『死ぬという事はよくよくの事だ。その死を敢(あえ)て決行したのだから、生きている連中の考えるようなものではない。もっと尊敬すべきものだ』といったようなところに、結局落ちていったようだった。・・・無論その通りだ。よくよく考えたものに違いない。苦悩したに違いない。煩悶したに違いない。それは有島武郎でなくとも、新宿や吉原で心中したものでも、隅田川に飛び込んだものでも、浅間山に飛び込んだものでも、みんな『よくよく考えたものに違いない』。
 けれども・・・よくよく考えて死ぬ人間もいれば、よくよく考えて生きている人間もいれば、又よくよく考えずに死ぬ人間もいれば、よくよく考えずに生きている人間もいる。
 それだからこの『よくよく』などは双方から差引いてしまわないと、物事がこんがらかってくる。こんがらかって来るから、はっきりした事が解らなくなって来る。・・・
 『心中』を道徳的に、又論理的に否定する連中までが、やはりその言葉の端で、有島氏の『死』が『よくよく考えた末の思い詰めたもの』であることに、変な敬意を払っている、そいつが、どうも読んでいて擽(くすぐ)ったい。・・・
 僕には『心中した有島氏』が特に厳粛とも思われないし、平生生きていた時分の有島氏とそう変わったものに思われない。表面の事実は異常であっても、内面の心的意味は特に異常と思われない。・・・
 やっぱり武郎は死んだって不思議はなかったのだし、武郎氏としてはその他に生きる道がなかったのだろう、と云って差支えないように思う。そういう意味は、氏の『心中』を是認したという意味ではない。僕自身の主観的な気持からいえば、僕は氏の『心中』に少しも賛成しない。・・・
 恋人の良人から金をよこせと言われた時、氏は『自分は自分の恋人を金に換えることはできない』ときっぱりと言い放ったそうだ。そして『寧(むし)ろ警視庁に行って、姦通の罪を着よう』と云ったそうだ。ここに、氏の面目躍如たるものがある。氏はこんな風に真実だった。そして実にこの程度のそして段階のみの『真実』しか持合わせていなかった。それだから、結局死んだって無理はないと云うのである。・・・
 平然として相手の男に金を払う。・・・そこまで氏には到底達する事が出来なかった。それは氏の生きていた間に書いたものを読めばよく解る。達することが出来なかったと云って、別に非難するわけには行かない。と同時に、賛美する気にも尊敬する気にも別段なれない。・・・
 愛妻に死に別れた時、再婚を勧めた男に向って、氏は「非凡人」という嘲笑の言葉を以て突撃している。これが、氏の好んだところの「真実」だったのだ。・・・この小さな、狭い「真実」の盲信者が、「最後まで『真実』を追うために死の方へ」行ったということは、決して考えられない事ではない。・・・
 僕は武郎氏の「心中」そのものからは別段何の感動も受けなかった。併(しか)し氏のような性格の人が、生きていた間絶えず感じたに違いない内心の苦しい葛藤については、同情を禁じ得ない。」(大正12年11月)

とあり、その行動の是非はともかくとして、現代では考えにくい事であるが、有島武郎の思想や文学からの必然的な帰結であるとしている。

 有島武郎の思想背景については、やはり年譜を見ておくべきだろう。同じ「有島武郎集・現代日本文学大系35」からの抜粋であるが、概略を次に示す。

 その前に、軽井沢高原文庫に移築された「浄月庵」にも出かけて来たので写真をご覧いただこう。現在、2階部分は有島武郎記念室として公開されていて、1階部分はライブラリーカフェ「一房の葡萄」として利用されている。ただ、この日「一房の葡萄」は閉じられていた。


「浄月庵」は軽井沢高原文庫に移築された(2019.5.21 撮影)


軽井沢高原文庫案内板の拡大(2019.5.21 撮影)


現地に設置されている説明パネル(2019.5.21 撮影)

 「浄月庵」の1階部分はライブラリーカフェ「一房の葡萄」として使用されていて、2階は有島武郎記念室として資料が展示されている。


移築された「浄月庵」(2019.5.21 撮影)


有島武郎の情死を伝える当時の新聞各紙(2019.5.21 撮影)


有島武郎の情死を伝える東京日日新聞の記事の一部(2019.5.21 撮影)


有島武郎の辞世の歌の一つを収めた扁額(2019.5.21 撮影)

 先日訃報が伝えられた京マチ子さんが主演を務めた映画「或る女」のポスターが貼られていた。有島武郎の長男・俳優の森雅之の名前も見える。


映画化された「或る女」のポスター(2019.5.21 撮影)


道を隔てた軽井沢高原文庫からみた「浄月庵」(2019.5.21 撮影)

 では、年譜を見ていこう(年齢は当時の数え方による)。

有島武郎、
・1878年(明治11年)1歳 
 3月4日、東京市小石川区に、父・武(37歳)、母・幸(25歳)の長男として生まれた。
・1880年(明治13年)3歳
 1月2日、妹・愛(長女)出生。
・1881年(明治14年)4歳
 神田区表神保町(現・千代田区)に居住。東京女子師範学校付属幼稚園に通った。
・1882年(明治15年)5歳
 一家は横浜市月岡町(現・中区老松町)の官舎に移る。11月26日、弟・壬生馬(二男・後に生馬と改称)出生。 
・1883年(明治16年)6歳
 三月から妹・愛とともに横浜山手居留地のアメリカ人の家庭で英会話を学ぶ。
・1884年(明治17年)7歳
 2月27日、妹・シマ(二女)出生。八月から愛とともに山手居留地の横浜英和学校(現・成美学園)に入学。
・1885年(明治18年)8歳
 7月15日、弟・隆三(三男)出生(父方の祖母の実家・佐藤家の養子となる)。
・1887年(明治20年)10歳
 横浜英和学校を退き、自牧学舎に入り、学習院入学に備えた。9月、神田錦町の学習院予備科第三年級に編入学。寄宿舎に入り、毎土日曜日に横浜に帰った。
・1888年(明治21年)11歳
 皇太子明宮嘉仁の学友に選ばれ、毎土曜日に吹上御殿に参上した。7月14日、弟英夫(四男、後の里見弴、山内家の養子となる)出生。
・1890年(明治23年)13歳
 9月、学習院中等科に進む。
・1892年(明治25年)15歳
 横浜の旧友を訪ねた時、中年寡婦の誘惑を受けて逃れたが、このことは非常な悪影響を残した。
・1893年(明治26年)16歳
 父・武が大蔵大臣・渡辺国武と政案意見対立し、国債局長を辞職、鎌倉材木座に隠棲した。武郎は愛とともに麴町の家で母方の祖母・山内静の世話を受け、克己一心のきびしいしつけを受けた。
・1896年(明治29年)19歳
 学習院中等科卒業。9月、札幌農学校予科5年に編入学。同校教授・新渡戸稲造の官舎に寄留。毎朝稲造の行っていたバイブル・クラスに加わる。
・1897年(明治30年)20歳
 5月初旬から隔日に曹洞宗中央寺にて参禅。7月予科五年終了、本科に進む。夏季休暇に帰京、増田英一とともに内村鑑三を訪問。父・武が武郎の将来に備えて狩太の農場を入手。12月6日、妹・愛が山本直良と結婚。
・1899年(明治32年)22歳
 森本厚吉と定山渓に行き、死を覚悟したが思いとどまる。これを機縁にキリスト教入信を決意、家人の反対を受ける。
・1901年(明治34年)24歳
 1月、帰京して内村鑑三を訪問、3月24日、独立教会に入会。12月1日、一年志願兵として第一師団歩兵第三聯隊に入営。
・1902年(明治35年)25歳
 11月30日、除隊、予備見習士官となる。
・1903年(明治36年)26歳
 1月、新渡戸稲造から皇太子明宮嘉仁の輔育者に推挙の内談があったが断わる。5月21日、妹・シマが高木喜寛と結婚。7月、稲造から児玉内相の秘書官に勧められたが、これも断る。このころ稲造の姉・河野象子の娘・信子を知る。8月15日、森本厚吉とともに米国留学の途につく。9月、ペンシルヴァニア州ハ―ヴァフォド大学の大学院に入学。経済・歴史を専攻し、日本文明をテーマとする。11月、アーサー・クローウェルの家をアポンデールに訪ね、その妹・フランセスを知る。
・1904年(明治37年)27歳
 2月、日露開戦、深く憂慮しキリスト教信仰を懐疑しはじめる。6月「日本文明の発展-神話時代から将軍家の滅亡まで」を提出し、M・Aの学位を得る。9月29日、ハーバード大学選科入学、歴史・経済を専攻。社会主義者金子喜一を知り、カウツキー、エンゲルスの著作を読む。
・1906年(明治39年)29歳
 4月、阿部三四の恋愛事件に関わり、短銃で脅かされ極度の神経衰弱に陥る。9月1日、ニューヨーク港を発ち、13日、ナポリで壬生馬と落ち合い、二人でヨーロッパを歴訪。11月17日、スイスのシャフハウゼンに到着、ホテル・シュヴァネンの娘チルダ・ヘックを知る。
・1907年(明治40年)30歳
 ひとりロンドンに行き、図書館に通う。2月、ロンドン郊外にクロポトキンを訪問、幸徳秋水への手紙を託される。8月、北海道に赴く。9月1日、予備見習士官として歩兵第三聯隊に入隊、三カ月間勤務。その間、壬生馬の友人・志賀直哉の恋愛事件の調停にあたる。自身も河野信子との結婚を父に反対され、心に痛手を受けた。10月東北帝国大学農科大学(9月昇格の札幌農学校の改称)の英語講師となる。
・1908年(明治41年)31歳
 1月、学長付主事。社会主義研究会を続ける。狩太(かりぶと)の農場が武郎名義となる。4月、大学予科教授。6月、陸軍歩兵少尉(予備役)となる。8月、帰京し、9月、陸軍少尉・神尾光臣次女・安子と婚約。
・1909年(明治42年)32歳
 3月、東京にて神尾安子と結婚。妹・愛の長男・山本直正の病気見舞いに自筆絵入り翻案童話「燕と王子」を書き送る。
・1910年(明治43年)33歳
 4月、『白樺』創刊、弟の壬生馬、里見弴とともに同人参加。札幌独立教会を退会。
・1911年(明治44年)34歳
 1月13日、長男・行光(森雅之)出生。8月20日、皇太子来道の際、北海道庁から危険人物として大学に警告あり、拝謁を拒絶された。
・1912年(明治45年/大正元年)35歳
 7月17日、次男・敏行出生。
・1913年(大正2年)36歳
 8月、新居に移転。12月23日、三男・行三出生。
・1914年(大正3年)37歳
 4月、狩太の94町歩の土地(第二農場と呼称)を買収、農場総面積は439町歩となる。9月下旬、妻・安子肺結核発病。11月下旬、一家帰京し、安子を鎌倉に転地させた。
・1915年(大正4年)38歳
 2月、安子を平塚の杏雲堂病院に入院させた。3月下旬、札幌に行き、農科大学に辞表提出。休職扱い、となる。
・1916年(大正5年)39歳
 8月、妻・安子死去(享年28歳)。12月4日、父・武が胃癌のため死去(享年)75歳。父と妻の死が転機となり、本格的に文学の道に打ちこむようになる。与謝野晶子を知る。
・1917年(大正6年)40歳
 6月、「惜しみなく愛は奪う」、7月、「カインの末裔」、などを次々に発表し、文名にわかに挙がる。8月、「クララの出家」などを続いて発表。4月、有島武郎著作集第一輯『死』を新潮社から出版。12月、著作集第二輯『宣言』を新潮社から出版。同月23日、遺産の一部を弟妹に分配。このころ、神近市子と交際あり。父の遺志として、鹿児島平佐村の田地八反余、畑地五反を平佐村に贈った。
・1918年(大正7年)41歳
 1月、「小さき者へ」を発表。2月、著作集第三輯『カインの末裔』を新潮社から出版。3月、「生まれ出づる悩み」を『大阪毎日新聞』に連載したが病気のため中絶。4月、著作集第四輯『反逆者』を、6月、著作集第五輯『迷路』を新潮社から出版。著作集第六輯『生まれ出づる悩み』を叢文閣から出版。10月、三日から五日間、牛込横寺町の芸術倶楽部にて芸術座研究劇として島村抱月・松井須磨子により「死と其の前後」上演。著作集第七輯『小さき者へ』を叢文閣から刊行。
・1919年(大正8年)42歳
 2月、「松井須磨子の死」を発表。3月、著作集第八輯『或る女』前編を叢文閣から出版。5月、朝日新聞社入社を断る。6月、著作集第九輯『或る女』後編を叢文閣から出版。8月7日、軽井沢の夏季大学課外講演でホイットマンを講じた。12月、著作集第十輯『三部曲』を叢文閣から出版。
・1920年(大正9年)43歳
 6月、著作集第十一輯『惜しみなく愛は奪ふ』を叢文閣から出版。このころ河上肇、倉田百三を知る。同月「信濃日記」を、八月「一房の葡萄」を発表。11月、著作集第十二輯『旅する心』を叢文閣から出版。12月、「運命の訴へ」を書いたが未完、創作力衰える。
・1921年(大正10年)44歳
 4月、著作集第十三輯『小さな灯』を叢文閣から出版。年末、秋田雨雀・藤森成吉・宮島資夫とともに大阪での露国飢饉救済募金講演会に加わったが、官憲の妨害にあって帰京。この時のことを書いた「旅」を『中央公論』に送ったが掲載されなかった。
・1922年(大正11年)45歳
 4月、このころ牛込区原町(現・新宿区)の借家に移り、生活革命の実行に踏み切る。5月、著作集第十四輯『星座』を叢文閣から出版。6月、童話集「一房の葡萄」を叢文閣から出版。7月中旬、北海道に赴き、狩太の有島農場の解放を宣言する(同地の有島農場解放記念碑建立は大正13年9月12日、「有限責任狩太共生農団」の発足は13年7月15日)。このころから『婦人公論』記者・波多野秋子と親しくなる。著作集第十五輯『芸術と生活』を叢文閣から出版。12月12日、所蔵する書籍・書画を公売に付した。
・1923年(大正12年)46歳
 新聞に麴町下六番町の千二百坪の邸宅の売却広告を出す。3月、四谷南寺町の借家に移る。6月7日、波多野秋子との関係を足助素一に告白、9日早暁、軽井沢三笠山の別荘浄月庵にて秋子と心中。7月7日、遺体発見。9日、麹町の本邸で告別式、青山墓地に埋葬(後に多摩墓地に改葬)された。11月、著作集第十六輯『ドモ又の死』が叢文閣から出版された。」(山田昭夫編より抜粋)

 年譜を見ていると、有島武郎と北海道とのつながりの深さがわかる。北海道のニセコ町(1964年に狩太から町名変更)には、現在有島記念館が建てられているが、そのHPの概要の項を見ると、記念館建設の経緯が次のように記されている。

 「武郎は自身の思想から農場所有に疑問を抱いており、父の没後の1922年(大正11年)、農場を小作人全員の共有として無償解放することを宣言した。それは、武郎の没する前年であった。・・・しかし、1949年(昭和24年)、占領軍による農地改革の対象となり、農団は解散し、農地はそれぞれの持ち分に従って私有地となった。後に、旧場主の恩に報いるために『有島謝恩会』が設立され、旧農場事務所に武郎や旧農場の資料を保存・展示した。しかし昭和32年(1957年)5月失火による火災により旧農場事務所とともにこの記念館は焼失。幸いなことに収蔵品の殆どは無事搬出され、昭和38年(1963年)7月、有島謝恩会が中心となり、再建運動がおこり、募金により、1階がレンガ造、2階が木造の2階建ての有島記念館が再建された。やがて、管理上の問題や会館の老朽化に伴い、有島武郎生誕百年を記念して町による新しい記念館が建設されることになり、有島謝恩会が保存していた農場の資料の収蔵品が町建設の新記念館に寄託され、昭和53年(1978年)4月、その資料を継承し、設立されたのが有島記念館である。」

 有島記念館とその周辺の写真を見ると、軽井沢とは異なり、背後に羊蹄山が見える明るく開けた立地である。地元の人たちが有島武郎に寄せる思いもまた軽井沢のそれとは随分違っているだろうと思う。

 しかし、この農地を小作人に開放するといった自らの思想を実践する姿勢や潔さには、軽井沢での心中とつながるものを感じる。

 武郎の文学忌は作品「星座」にちなんで星座忌と名づけられていて、6月9日の武郎の命日には、今年も有島記念館で星座忌コンサートが企画されている。


2019.6.9 星座忌コンサートの案内(有島記念館HPより)




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ガラスの話(15)町田市立博物館の淡島雅吉展

2019-05-17 00:00:00 | ガラス
 ガラス工芸研究会からメールでの案内があり、東京の町田市立博物館で、2019.2.9~4.7の期間「近代ガラスデザインの先駆者・淡島雅吉」展が行われていると知り、東京に出る予定に合わせて一泊し、3月31日午前中に出かけてきた。

 町田市立博物館は小田急線町田駅からバスで約15分程度の「市立博物館前」バス停で下りて、住宅地の中を7分ほど歩いた場所にあった。


町田市立博物館(2019.3.31 撮影)

 実は、この淡島雅吉という人物については、今回案内を受け取るまで全く知らなかった。当日博物館で配布していたパンフレットには淡島雅吉について次のように書かれていた。

 「淡島雅吉(1913.3.17-1979.5.28)は、昭和の日本を代表するガラス作家の一人で、ガラスデザイナ-の草分け的な存在です。日本美術学校を卒業後、カガミクリスタル製作所に入社し、デザイナーとして勤務した後、保谷クリスタルガラス製造所に入社、その後1950年に独立し自身の会社を設立します。
 淡島雅吉の代表作は『しづくガラス』と名づけられた、ガラス表面に緩やかな凹凸が見られる作品群です。本展覧会では、『しづくガラス』の技法で作られた大小さまざまな形状のうつわや、1950~1960年代にデザインされたとは思えないほどモダンなデザインの吹きガラスの作品等約140点を展示し、淡島雅吉のガラス制作の全体像にせまります。(生没月日は筆者が追記)」


町田市立博物館の淡島雅吉展パンフレット

 この展覧会と同時に、講演会「娘から見た淡島雅吉」、体験講座「ガラスに彫ってみよう!」、担当学芸員によるギャラリートークなどいくつかの企画が行われていたが、妻と私が出掛けた3月31日はちょうどそのギャラリートークのある日で、スタートの午後2時まで待って参加した。冒頭、学芸員さんから「この中で淡島雅吉を知っているという人はどれくらいいますか?」との質問があり、約10名ほどの参加者の中から1名が手を挙げた。学芸員さんは「そうなんですね、淡島雅吉を知っている人は本当に少ないと思います。今日は淡島雅吉のことをしっかりと知って帰ってください。」と話して、展示作品の案内を始めた。

 当館は展示品の撮影は自由であり、配布パンフレットにもその旨記載されているので、撮影した写真を以下にご紹介するが、その前に、もう少し淡島雅吉の経歴を見ておいた方が、展示品を理解しやすいように思う。

 会場の展示パネルにも同じ文があったが、当日購入した図録から一部引用すると、

 「淡島雅吉は日本美術学校の在学中から人形制作を始め、のちにイラストレーターとしても知られる中原淳一や人形作家となる五味文郎らと「PK人形クラブ」というグループで活動していました。・・・就職にあたっては、本人は大倉陶園で働きたいという希望があったようですが、知人の紹介で大倉陶園と関わりの深い、創業したばかりの各務(かがみ)クリスタル製作所に昭和11年に入社します。各務クリスタルではデザイナーとして勤務し、同期に佐藤潤四郎、先輩には降旗正男らがいました。雅吉は昭和18年にガラス工芸の分野における芸術保存資格者に指定されますが、昭和19年には各務クリスタルを退社し、翌年召集され出征します。
 戦後、雅吉は各務クリスタルには戻らず、保谷クリスタル硝子製造所に入社し、再びデザイナーとして活躍します、瓶や食器などのデザインを手がけ、社内では工芸部長にまでなりますが、会社の経営悪化もあってか昭和25年に退社し、自身のデザイン会社を創設しました。」とある。

 今回の展示品は、雅吉がデザインした実用品としてのガラス器と、やはり雅吉がデザインし別の職人たちが実際の作業を手掛けて製作したアートワークに別れているが、先ず実用品の方から見ていく。

 1936(昭和11)年から1944(昭和19)年まで在籍した各務クリスタル製作所での製品展示は今回はなく、同時代のものとしてはアートワークが2点(後述)あるのみであった。

 1946(昭和21)年から1950(昭和25)年の保谷クリスタル硝子時代のものは以下の7点が展示されていた。

 1947(昭和22)年にプレス技法で作られた、高さ3.5cm、径26.8cmのこの大皿は、当時のヒット商品であったという。


プレス技法で作られた大皿(2019.3.31 撮影)

 1949(昭和24)年ころに作られた次の6点の製品は、輸出競争力を意識して、ステム(脚)に工夫が施されており、5と7は泡入りステム、6と8はドーナツ形ステム、9と10は「白鳥の湖」を踊るバレエダンサーの脚から発想されたバレエステムとなっている。各製品の寸法は次の通りである。5:高7.1cm 口径5.2cm/ 6:高9.2cm 口径5.1cm/ 7:高9.4cm 口径7.0cm/ 8:高10.6cm 口径7.3cm/ 9:高12.4cm 口径6.0cm/ 10:高14.5cm 口径10.0cm。


淡島雅吉がデザインしたステム部に工夫を凝らしたグラス・5~8(2019.3.31 撮影)


バレエステム・ゴブレット・9,10(2019.3.31 撮影)

 このバレエステムを紹介した当時の広告も展示されていた。


バレエステム・ゴブレットの広告(2019.3.31 撮影)

 このあと、淡島雅吉は保谷クリスタルを退職し、独立して自身の会社「淡島ガラスデザイン研究所」を設立する。ここで、彼は日本料理にあうガラス器を作りたいとの思いから、代表作とされる、「しづくガラス」を考案し、生涯に150種以上の作品を世に送り出した。

 この「しづくガラス」は耐火粘土や石膏で作った型(のちには金型も使われた)にガラスを吹き込んで作るもので、この製法で作られた器に水を入れると、雫がしたたるように表面が美しく輝くことからこの名前がつけられたという。

 淡島ガラス株式会社発行のパンフレットの中で、淡島雅吉は次のように「しづくガラス」のことを紹介している。

 「陶器に手造りの日本的な陶器と洋風の磁器があるように、このしづくガラスはガラスの陶器と云えます。ガラスの美しさはトロンとした円みにありますがその味がなかなか出せず手の切れそうな感じになりがちなのです。私はそのやわらかな味を出して日本料理に使えるガラス器を作ってみたいと思いました。
 しづくガラスは手造りの特殊な型の内側にガラスを吹き込んだものでこの肌の味は吹き込みでないと得られません。この梨地の肌が水を入れると乱反射によって美しくそれぞれ異なった輝きをみせてくれます。それが「しづく」のように美しいのでこの名をつけました。」

 雅吉は1956(昭和31)年に、「硝子器成形方法」という名称でこの「しづくガラス」の製法に関する特許を取得している(特許出願公告:昭31-2985、出願:昭和29年5月20日、公告:昭和31年4月20日)。

 今回展示されていた作品の中から、以下にいくつかの「しづくガラス」を紹介する。



しづくガラスシャンパングラス・1955年、左:高6.6cm 口径7.5m/中:高7.5cm 口径7.9cm/
右:高8.9cm 口径8.9cm(2019.3.31 撮影)


各種のしづくガラススゴブレット・1955~1965年、高7.4cm~17.3cm 口径4.6cm~11.3cm
(2019.3.31 撮影)


しづくガラスぐい吞み/徳利・1967年、ぐい吞み:高5.1cm 口径5.2cm/徳利:高13.2cm 胴径7.9cm
(2019.3.31 撮影)
 

しづくガラス三角小鉢(左の2個)・1955年頃、高5.0cm 最大径17.6cm
鉢(中央)・1965年頃、高4.5cm 口径12.7cm
浅鉢(右から2番目)・1965年頃、高3.4cm 口径16.7cm
角型鉢(右)・1965年頃、高6.6cm 口径10.0x11.0cm
(2019.3.31 撮影)

 国内では、この「しづくガラス」シリーズは大変な人気で、ホテルやレストランなどでまとまって購入されることが多く、プリンスホテルでも採用されたという。また、海外にも早い時期から紹介され、各国で高い評価を受けた。1959(昭和34)年にアメリカのコーニングガラス美術館で開催された「Glass 1959展」では「しづくガラス」のタンブラーとシャンパングラスが入賞し、その後同館に収蔵された。海外では、コーニングガラス美術館のほか、アメリカのフィラデルフィア美術館やイギリスのヴィクトリア&アルバート(V&A)美術館などにも作品が収蔵されているという(図録より)。

 入り口に近い小展示会場にはここまで紹介した実用的なガラス器を中心に展示されていたが、続く大展示会場には雅吉のアートワークの数々が展示されていた。


しづくガラスなどが展示されていた小展示会場(2019.3.31 撮影)


アートワークが展示されていた大展示会場(2019.3.31 撮影)


大展示会場風景(2019.3.31 撮影)

 淡島雅吉は、学生時代から創作人形を手掛けていたことからも判るように、美術作品への思いが強かったようである。各務クリスタル勤務時代(1936~1944年)では、次に示す2作品が残されており、文部省美術展覧会(文展)や日本美術展覧会(日展)などの展覧会にも積極的に作品を出品している。 


各務クリスタル勤務時代・1939年の作品「花器」(2019.3.31 撮影)


各務クリスタル勤務時代・1943年の作品「亀」(2019.3.31 撮影)

 保谷ガラス時代(1946~1950年)にも同じように日展に、当時としては目新しい、希土類のネオジムを含むピンク色のガラスを用いた作品(ネオジューム硝子花瓶)などを発表して入選しているが、日展への入選は1951年が最後で、その後は個展にシフトしていく(図録より)。

 これらの展覧会への出品作品は、今回の展示では見ることができず、紹介することはできないが、雅吉の代表的なアートワークを以下にいくつか紹介する。


プレーン花器・1955(昭和30)年 高31.4cm 底径10.5cm/高35.5cm 最大径10.5cm(2019.3.31 撮影)


「プレーン」の作品を手に取る淡島雅吉・1955年代初頭の撮影(2019.3.31 撮影)


プレーン花器・1957(昭和32)年 高7.9cm 最大径13.8x22.8cm(2019.3.31 撮影)


ボトル・1958(昭和33)年 右:総高24.6cm 胴径13.7cm、左:総高18.0cm 胴径14.8cmx16.1cm(2019.3.31 撮影)


置物・1964(昭和39)年頃 さかな(右):総高9.7cm 3.4x18.0cm/とり(左):総高10.0cm 1.7x18.5cm(2019.3.31 撮影)


香水瓶・1966(昭和41)年以前 右:高7.9cm 径4.6cm、左:高10.4cm 径5.6cm(2019.3.31 撮影)


ブロット花器・1966(昭和41)年 右:高38.9cm 最大径11.3cm、左:高46.6cm 最大径11.3cm((2019.3.31 撮影)


ビトモール花器・1966(昭和41)年 高35.9cm 口径12.5x19.7cm(2019.3.31 撮影)


ビトレーナ人物部分・1966(昭和41)年 高33.3~35.0cm(2019.3.31 撮影)


しづくガラス花器・左:1969(昭和44)年 高20.5cm 径11.7x24.6cm、右:同年 高21.3cm 径11.9x25.7cm
(2019.3.31 撮影)


しづくガラス茶碗(左)・1975(昭和50)年 高7.4cm 口径13.3cm
茶入れ(上3点と下/左)4点・製作年代不明 総高8.4~9.8cm 径3.7~5.2cm
香合(下/右)・製作年代不明 総高4.7cm 胴径6.4cm
(2019.3.31 撮影)

 ここまでデザイナー、アート作家としての活動を見たが、淡島雅吉の経歴を見ていると、1972(昭和47)年、59歳の時に、「日本ガラス工芸協会(JGAA)設立、副会長となる」という記載があり、別な面が覗える。

 今回の町田市立博物館での淡島雅吉展の案内は、私が所属している日本ガラス工芸学会からのもので、日本ガラス工芸協会のことは存在も知らなかったのであるが、HPを見ると、

「日本ガラス工芸協会とは:
 1972年(昭和47年)、ガラスを共通の素材として創作活動をしている作家・クラフトマン・デザイナー達が呼びかけに応じ、「ガラス」と言う共通する一点で集まったユニークな団体です。
 ガラスによる創作活動を通して、ガラスと人との結びつきを深め生活環境の向上と文化の発展に寄与することを目的としています。
 1978年、第1回「日本のガラス展」を機に3年毎の協会展、毎年の企画展等を軸に会報の発行や会内外への広報活動を行い、2019年1月現在 会員総数95名で構成されています。また 賛助会員としてガラス関連の企業や個人の賛同と協力を得ています。 」

「日本ガラス工芸協会のあゆみ:
 1972年
● 創立発起人会発足(7月)、名称「日本ガラス工芸協会」を決定、会則など諸事案の整備(~12月)
● 設立準備委員会(1月)、役員決定(3月)
● 日本ガラス工芸協会発足(4月)
● 会長:岩田久利 副会長:淡島雅吉 各務満 各委員会委員長:青野武市 小林貢 竹内傳治 船越三郎 益田芳徳 山本曠 監事:伊藤幸雄 藤田喬平 /正会員56名

という記載があり、協会設立当時の様子と、この協会が主にガラス工芸作家の集まりであることが判る。

 一方、「日本ガラス工芸学会」の方はHPを見ると、

「日本ガラス工芸学会は、ガラスの研究者、愛好者、制作者をはじめ、ひろくガラス全般に関わる人々からなる団体です。ガラスに関する歴史的、芸術的、技術的研究と、その研究会、講習会、見学会を開催しています。日本ガラス工芸学会へは、趣旨にご賛同いただける方はどなたでも入会いただけます。」

とあり、 そのあゆみに関しては、1975年発足というから日本ガラス工芸協会設立の3年後のスタートということになる。

「・日本ガラス工芸学会創立趣意書
●趣意: ガラス工芸研究者相互の連繋、同好者間の情報交換、海外関係団体との提携等によってガラス研究の向上、ガラス文化の振興を図る
●目的: 日本、東洋、西洋、古代、近代、現代を問わず広くガラスに関する歴史的、芸術的、技術的研究を行い、研究論文の発表、資料紹介を定期的に本会が発行する会誌に発表、或いは研究会、講習会、見学会の開催等を通じてガラス研究者並びに同好者の交流を促進すると共に、海外関係団体との提携により、ガラス研究の向上、ガラス文化の振興を図ることを目的とする。
●会員: ガラス研究者及びガラス同好者であって、本会の趣旨を理解し、会の目的に賛同する者で構成する。
・沿革
1975/ガラス工芸研究会 発足
1992/日本ガラス工芸学会に改称 」

 とあり、こちらはより広く、ガラス工芸に関係する、あるいは関心を持つ人の集まりという意味合いが強いようである。
 1975年スタート時の名称は「ガラス工芸研究会」であり、設立時のメンバーは、1975年発行の「ガラス工芸研究会誌1」によると、

●委員長 佐藤潤四郎
●委員(五十音順)
  石黒考次郎、岡田 譲、小田幸子、加藤考次、棚橋淳二、深井晋司、前田泰次、三上次男、吉田光邦、山崎一雄、由水常雄、横山 滋

といった名前を見ることができる。

 淡島雅吉氏と各務クリスタルに同期入社した佐藤潤四郎氏が委員長に就任している点に注目したい。

 佐藤潤四郎氏はその著書「ガラスの旅」(1976年 芸艸堂発行)のあとがきで次のように述べている。

 「・・・日本には、フランスのナンシー地方とか、イギリスのストウブリッジの様な場所もないし、第一ガラス工芸に関しての(歴史部門を含む)学界もない。
 漸く昭和五十年九月に、ガラス工芸研究会というガラスの技術史、文化史、科学的な内容にわたる任意の研究団体が生まれたばかりで、これが現状である。・・・」

 ガラス工芸協会やガラス工芸研究会の設立経緯と設立趣意書などを見ていると、1970年代の日本のガラス工芸の世界を垣間見ることができるように思える。

 さて、最後に私の手元にあるグラスをご紹介して本稿を終りたいと思う。このガラス器は淡島雅吉が保谷クリスタル時代に手掛けたものに少し似ている気がするが如何だろうか。


自宅にあるボールステムグラス
 


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庭にきた蝶(26)ルリシジミ

2019-05-10 00:00:00 | 
 長かった史上初の10連休も終わり、軽井沢もこの間多くの観光客で賑わったが、今は落ち着きを取り戻している。

 湘南に住む元の職場の先輩Sさんからは、すでに3月頃から蝶の目撃情報やメールに添付されて写真が送られてきていて、最近その種類や数が増えてきている。一方、軽井沢の我が家の周辺では4月中旬に隣地にきたモンキチョウを見ただけで、その後は全く蝶の姿を見かけることがない。

 尤も、我々夫婦は10連休中はずっとショップに出ており、庭のキャットミントはようやく今週になって咲き始めたところであるし、ブッドレアの花が咲くのはまだずいぶん先のことなので、庭に蝶が来るわけもなく、どこかに出かけていかなければ、蝶には出会えない理屈である。

 同じ「チョウ」でも野鳥の方は、餌台を設置しているので、毎日のように相手のほうからやってくる。庭の木に取り付けた2個の巣箱のうちの、入り口の穴の小さい方(径3cm)ではシジュウカラが中に入って居心地を点検したりしており、入り口の穴の少し大きめのほう(径4cm)には、初めてコムクドリの夫婦がやってきて、やはり穴の中を覗き込んだりするようになっているのだが、蝶が庭に集まるようになるにはもう少し時間がかかりそうである。

 今回は、しばらく蝶の話題から遠ざかっていたので、これまでに庭に来た蝶の中からまだ取り上げていなかった種を選んで紹介させていただく。紹介漏れの理由は、庭で撮影できたまともな写真がなかったからである。近隣の場所で撮影した写真があるので、今回はこれを利用しての紹介になる。

 ということで、今回はルリシジミ。前翅長12~19mmの小型の蝶で、翅の裏面は灰白色の中に小黒点が散布する。翅表は♂では明るい青紫色で、♀では外縁が幅広く黒褐色になる。

 いつもの原色日本蝶類図鑑(横山光夫著 1964年保育社発行)には次のように紹介されている。

「わが国に産する『しじみちょう』科のものとしては最も普通な小型の蝶で、野にも山にも町の中にも飛翔し、日本全土に産する親しい蝶の一種である。欧・亜両大陸の全域に広く分布し、草原の雑草の花、春には桜にも飛来する。飛翔は活発で時にはゼフィルスのごとく梢上高く飛び去るのを見かける。・・・平地や暖地では3~4月から多数現われ、秋の終わりまで連続して4~5回の発生を繰返し、高地や寒冷の北地では2回の発生と思われる。
 幼虫は、クズ・ハギ・フジ・ニセアカシア・リンゴ・コマツナギ・ヤマゴボウ・クララなどの花、蕾などを食べる。・・・」

 よく似た種にスギタニルリシジミ、ヤクシマルリシジミ、サツマシジミがいる。

 スギタニルリシジミは発生が、年1回であることや、幼虫の食樹がトチノキ、ミズキなどである点で異なっている。
 同定はスギタニルリシジミは、ルリシジミに比べて
 ① 翅表は暗青紫色で外縁は細く黒色、
 ② ♀は♂より青色を帯び、外縁は巾広く黒色、
 ③ ♀の翅表は暗色、
 ④ 縁毛は本種では黒褐色、
 ⑤ 裏面の点紋はより大きく本種では灰褐色
の点で異なるとされる(原色日本蝶類図鑑)。

 ヤクシマルリシジミとサツマシジミは生息域が九州、四国、中国地方南西部、南紀、東海地方南部とされていて、近年の温暖化で北上する蝶のひとつに数えられているものの、信州には生息していないので混同することはない。

 このルリシジミ、我が家の庭にも時々来ていて、ヤマトシジミより一回り大きい事や、翅裏がより白いことと斑紋の違いで容易に見分けがつくが、前述のとおりまともな写真を撮ることができなかったので、南軽井沢のレークニュータウンの庭園などで撮影してあったものを以下に紹介させていただく。 


オレガノの花で吸蜜するルリシジミ(2016.7.24 撮影)


路上で吸水するルリシジミ(2017.6.21 撮影)


オレガノの花で吸蜜するルリシジミ(2016.7.24 撮影)


オレガノの花で吸蜜するルリシジミ(2016.7.24 撮影)


路上で吸水するルリシジミ(2017.6.21 撮影)


オレガノの花で吸蜜するルリシジミ(2016.7.24 撮影)


オレガノの花で吸蜜するルリシジミ(2016.7.24 撮影)


オレガノの花で吸蜜するルリシジミ(2016.7.24 撮影)

 撮影できたものの、ほとんどが翅を閉じたものになってしまい、翅表の見えるものは次の2枚のみである。♂、♀それぞれ1枚ずつしか撮影できなかった。


葉上で休息するルリシジミ♂(2017.6.21 撮影)


葉上で休息するルリシジミ♀(2017.6.21 撮影)

 前述のように、このルリシジミの幼虫はマメ科、ミズキ科、タデ科、バラ科、シソ科など多くの種類の植物を食草にしており、これが全国各地で繁殖できている一つの要因であろう。食草にはマメ科のクララの名を見ることができるが、このクララだけを食草とするシジミチョウの仲間が軽井沢の近くに生息している。オオルリシジミである。名前の通り前翅長16~21mmとルリシジミよりかなり大きい種である。

 このオオルリシジミの幼虫は、クララの蕾と花のみを食べるとされ、この偏食ぶりが原因となるためか、生息域は非常に限定されていて、生息場所においても、その数は激減している。環境省レッドデータブックで絶滅危惧種に指定され、全国でも九州阿蘇山のほかは、県内の国営アルプスあづみの公園と東御市北御牧地区でしか見ることができない極めて珍しいチョウで、軽井沢の西方に位置する東御市では2005年(平成17年)12月1日に天然記念物に指定されている。東御市では、「北御牧のオオルリシジミを守る会」が保護・増殖活動に取り組み、6月ごろにため池や水田地帯で舞う姿を見ることができるとされている(東御市HPより)。

 一昨日、たまたま北御牧方面に出かける機会があり、千曲ビューラインをドライブしている時に、その活動を伝える看板に出会った。


北御牧地区の道路沿いに設置されている「北御牧のオオルリシジミを守る会」の看板
(2019.5.8 撮影)

 この激減ぶりを、「日本産蝶類標準図鑑」(白水 隆著 2011年学研教育出版発行)の表現で見ると次のようである。
 「日本では本州、九州に分布する。東北地方では青森、岩手県から記録があるが、絶滅した。福島県会津地方にも古い記録がある。関東地方では群馬(神津牧場・北軽井沢)より記録がある。中部地方では長野県の東北部より中部にかけて広く分布し、志賀高原、善光寺平、佐久平、松本平、諏訪、伊那谷北部などが産地として知られていたが、近年各地で激減または絶滅している。・・・九州では阿蘇・九重の山岳地帯の火山性高原に産する。阿蘇は本種の日本における唯一の多産地であるが、野焼きを止めると本種の個体数が著しく減少することが知られている。・・・」

 東御市の企業、シチズンファインデバイス(株)も2003年から「オオルリシジミを守る会」に入会し、敷地内に食草のクララを移植するなど、生息環境を提供している。また、阿蘇の例にもあるように、3月~4月には野焼きをして、オオルリシジミの天敵であるメイガ及びメアカタマゴバチの駆除を行い、合わせて雑草を焼き払うことでクララの育成を助けるなどの活動を行っている。

 このオオルリシジミを累代飼育した記録を、鳩山邦夫氏(1948.9.13~2016.6.21)がその著書「チョウを飼う日々」(1996年 講談社発行)の中に記している。概略は次のようである。

 「1981年、小諸糠地を訪れるも、余りの採集者の多さに圧倒されて退散した。その10日ほど後、軽井沢の別荘で子供たちを遊ばせていながらオオルリへの思い断ちがたく、夕方六時過ぎに糠地まで車を走らせ、薄暗い中でクララの花穂を四~五本切って東京に持ち帰った。コーラのビンに挿しておいてみたところ、花穂は徐々に黒化して、一週間後にはもはやエサとはいえぬシロモノに変質した。そんな中から拾い出した小幼虫をシャーレ内飼育したところ、ルリシジミ二三頭に混じってオオルリが三頭出てきて狂喜した。オオルリとの出会いが卵のステージであったというところに私の相当風変わりな体質が現れている。その年の夏には幼虫採集にも成功しているが、いずれにしても多数のルリシジミ卵の中に隠れていた三卵が私に対する最初の福音であったのだ。・・・
 ただ、ここで最も重要なことは、今のところ代用食の見つかっていない、クララのしかも花食いという飼育上極めて厄介な種であっても、卵からの飼育は不可能ではないという点である。・・・」

 こうして鳩山氏は次に食草クララを自宅庭に植えるとともに、別のクララの鉢植えを佐久市の知人宅に用意したうえで、東京の自宅でオオルリシジミの卵からの飼育に取り組むことを計画する。その様子は次のようである。

 「1991年、長岡さんより連絡があり、数日前に渡辺さんが捕獲した♀をくれるとの朗報。さっそく六月十七日に長岡宅を訪問、そこで渡辺さんから♀をゆずり受け、・・・そろそろ東京へ戻ろうかと迷っていると、うす陽のさす好天になってきたので、小諸の産地をひとめぐりすることにした。クララの花穂に小さな袋を掛けて渡辺♀を放ってみると、目の前で数卵産付けするではないか。・・・袋掛けしたクララの所に戻ってきた午後四時過ぎ、明らかに産卵行動を目的としてフラフラとゆるやかにクララ群落に向かって飛んできたボロの♀をネットイン。・・・」

 この後、鳩山氏は渡辺♀を渡辺さんに返し、自ら採集した♀と渡辺♀が目の前で産んだ15個の卵を、クララの鉢植えと共に東京に持ち帰る。この判断は正解で、持ち帰った卵の方は孵化しなかったが、採集した♀はその後クララに50個ほどを産卵し、これが四日後の6月28日に一斉に孵化した。この幼虫を育てて、最終的に7月15日から7月20日までの間に、48蛹を作ることに成功している。この時の蛹はその後、年内に1♂が羽化、翌春(1992年)に39頭が羽化している。こうして得た成虫であったが、国会議員としての激務の中、累代への挑戦はできず、すべてを標本にしている。

 この後、代議士のチョウ担当秘書として1993年に矢後(矢後勝也、現東京大学総合研究博物館助教)氏を採用し、その矢後氏が採用の条件として鳩山氏から指示された通りに前年に作ってきた信州産のオオルリシジミの蛹30頭を飼育することになる。この蛹は1993年5月8日~11日にかけて羽化、4ペアを得て、クララの花穂へ産卵させることに成功した。こうして、矢後氏とも協力しながら、この4頭の母チョウから合計800個余りの卵を産卵させた。このうち600個余りの卵を回収して、孵化した幼虫を自宅で飼育し、504個の蛹を作っている。

 卵から孵化した大量の幼虫の飼育にはずいぶん苦労することになるが、その要点を鳩山氏は次のように記している。

 「ひとことでいえば共食いとの戦いにつきる。・・・孵化したての一齢幼虫はすぐにはかじり合いをしない。クモマツマキのように幼虫がとなりの卵を食べることもないようだ。・・・一番激しく共食いするのが二齢幼虫であり、一齢幼虫を見つければ食い殺すし、二齢同士だと互いを傷つけ合う形になる。・・・」

 結果、共食いを防ぐために、1シャーレに幼虫を1匹づつ入れて餌のクララの花穂を与えることになるが、鳩山氏の部屋には600個近いシャーレが所狭しと並ぶことになったという。

 自然界ではどうか、オオルリシジミはやはり共食いをするのだろうか。手元のどの図鑑や資料のオオルリシジミの項をみてもそうした記述はない。クララの蕾と花穂しか食べないことで、限られた餌を確保するために、そうした行動を取るようになっていったのだろうか。もしそうだとすれば、オオルリシジミの保護と増殖活動には、鳩山氏が行ったような、共食いを防ぎながらの人工飼育による助けが必要なのではないかと思う。そうすることで、自然界では1%程度しか成虫になることのないものを80%程度に引き上げることができる。

 すでに、現地のチョウ愛好家の間でも人工飼育や累代飼育が行われていると推察できるので、こうして得られた成虫の放蝶も行われているのかもしれない。生活史の関係でルリシジミのようには行くはずもないが、信州の産地での絶滅はなんとしても防ぎたいものである。
 




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ガラスの話(14)九州のガラス記-2/2

2019-05-03 00:00:00 | ガラス
 長崎のカステラの老舗”福砂屋本店”とレストラン”銀嶺” で古いガラス器のコレクションを見、大浦天主堂のステンドグラスを見た後、雲仙に向かった。国宝・世界遺産に指定、登録されている大浦天主堂では、内部の撮影は禁じられていたので、ここに写真を紹介することはできないが、正面の中央大祭壇とその上方、そして左右の上の方の窓には美しいステンドグラスが嵌められていた。午後の光が上方の窓から差し込み薄暗い教会の壁や床を赤、青、緑に照らす様子は荘厳であり美しい。長崎でのガラス鑑賞はここが最後になった。


大浦天主堂の拝観券

 この日の雲仙での宿は雲仙観光ホテルに決めていた。今回の旅の、九州の古いガラス鑑賞以外のもう一つの目的はこの雲仙観光ホテルに泊まることであった。雲仙観光ホテルは1935(昭和10)年に開業しており、その前年、雲仙が瀬戸内海や霧島と共に、日本初の国立公園として指定されたことを受けて、長崎県がさらなる観光振興のために建設したとされており、軽井沢の万平ホテルなど他の8ホテルと共に日本クラシックホテルの会のメンバーとして、国内でも有数の歴史あるホテルに数えらえている。これまでにもたまたまではあるが、箱根の富士屋ホテル、奈良ホテルに宿泊する機会があり、歴史上のできごとの舞台になってきたこれらのクラシックホテルに関心を持つようになっていたのがその理由である。

 先日伊豆に出かける機会があり、その時にも日本クラシックホテルの会のメンバーの川奈ホテルを選んだ。ここでは、宿泊した翌日の午前中に年配の職員による館内のツアーがあり、ホテルの歴史、建物の構造、過去に宿泊した著名人の紹介などがあって楽しいものであった。そうしたこともあって、今回も、九州内での移動ルートを検討する際に、この雲仙観光ホテルでの宿泊を取り入れていた。


雲仙観光ホテルの外観(2019.3.13 撮影)



雲仙観光ホテルの図書室(上)、ビリヤード室(下)(2019.3.13 撮影)


ガラスの花瓶に生けられた花(2019.3.13 撮影)

 この雲仙観光ホテルの建物は、外観・内装共に期待通りの重厚さで、歴史の重みを感じるものであった。さらに、ここでは今回の旅行の本来の目的である古いガラスの鑑賞の関連で思いがけないことがあった。それは、雲仙観光ホテルのすぐ目の前に、ガラスミュージアム「雲仙ビードロ美術館」が建っていたことであった。これは事前には把握できていなかった。


雲仙ビードロ美術館(2019.3.13 撮影)

 この雲仙ビードロ美術館は地元の建設業者社長のコレクションを展示しているもので、展示室は2階にあり、1階部分はガラス製品のショップや体験工房になっていた。

 展示品は18-19世紀にヨーロッパで造られたガラス器が中心で、素晴らしい作品の数々が並べられていたが、撮影が禁じられていたので、ここで写真をご紹介することはできない。同館のパンフレットで雰囲気を感じていただければと思う。


雲仙ビードロ美術館のパンフレット

 この日は、鹿児島までの長距離の移動日であり、時間的余裕があまりなかったこともあって、この美術館での鑑賞は短めに切り上げて、島原に向かった。

 雲仙・島原といえば、どうしてもあの1991年6月3日の普賢岳の火砕流の映像を思い出してしまうが、途中、何度も車窓に見え隠れする普賢岳を見ながらのドライブになった。実は、帰宅後知ったが、今も噴煙を上げている山は平成新山と新たに名前が付けられていて、現在この山が1483mと雲仙岳の最高峰である。旧普賢岳(主峰)1359mは、島原側から見るとこの平成新山の後ろに位置している。

 海岸線近くまで下りたところには、土石流や火砕流に飲み込まれた当時の家屋をそのまま保存している場所「土石流被災家屋保存公園」があることを妻が事前に調べてくれていたので、その場所に立ち寄った。ここには合計11棟の家屋が遺構として当時のまま保存展示されている。その内3軒の住宅が1階部分が土石に埋もれた姿で、巨大な覆い屋(テント)の中に展示されている。内1棟は他場所からここに移築したという。屋外には8棟が展示されていて土石流災害の恐ろしさを感じさせる。


野外に保存されている被災家屋、後方に巨大なテントが見える(2019.3.14 撮影)


テント内に保存されている被災家屋(2019.3.14 撮影)

 テントの外に出て、この場所から雲仙・平成新山の方を見ると、山頂付近はずいぶん遠くに感じる。直線距離で約11kmというところであるが、当時のこの地域の住民も、まさかここまで火砕流や土石流が到達するなどとは思いもしなかったであろうと思う。 


被災家屋付近から見上げる雲仙・平成新山(2019.314 撮影)

 ここでこうして今も噴煙を出し続けている平成新山を見ていると、どうしても、浅間山のことを思う。軽井沢と浅間山の距離は直線で約6kmといったところである。少し前までは噴火警戒レベルが2になっていた浅間山だが2018年8月にはそれが3年ぶりに1に下げられていて、活動はやや低下していることを示すようだが、何しろ、1783年には史上最悪といわれる人的な被害を出したことのある日本でも有数の火山であり、油断はできない。

 前回の浅間山噴火の際には土石流は北側に流れ、現在の嬬恋地区を飲み込み、溶岩もまた北北東側に流れ出して、今では観光名所になっている鬼押し出しを作ったのであるが、気まぐれな火山が次回はどこに噴火口をつくり、溶岩をどの方向に流すかは断定はできない。浅間山の活動には常に気を配っていかなければと思っている。

 ところで、この島原には、島原天守閣の「キリシタン資料館」に多くのキリシタン資料と共に、古い長崎ビードロや舶載ガラスの数々が展示されていることを事前の調査で把握していたのであったが、時間の都合で割愛せざるを得ず、昼食にこの地方の名物料理「具雑煮」と「かんざらし」を食べただけで、島原外港からフェリーに乗船し対岸の熊本に移動した。

 熊本側に着くと、福岡で一旦下りた九州自動車道に再び戻り、鹿児島を目指した。鹿児島では、市内のシティーホテルに宿泊し、翌15日には今回のガラスの旅の最終で最重要目的である薩摩切子を見るために、尚古集成館に向かった。

 午前中に一度、尚古集成館を目指して出かけたが、すぐ手前の隣接地に磯工芸館があり、ここで現在製造されている薩摩切子が販売されていて、工場見学もできることが判ったので、午前中一杯はここで過ごすことになった。

 ここで、薩摩切子について少し見ておこうと思う。江戸時代は、それまでのトンボ玉ていどしか作っていなかった日本に和製ガラス器が登場した時代である。江戸期に入ってまもなく、長崎で作られたガラスがその始まりとされ、製法はポルトガル伝来とも中国伝来ともいわれる。

 江戸後期には佐賀、薩摩などの諸藩でも盛んにガラス器が作られるようになるが、27代島津藩主斉興が弘化三年(1846年)に、江戸から当時ガラス師として有名であった四本亀次郎を招いて薬瓶を作らせたのに始まるとされている。28代斉彬が藩主になると、集成館が建てられ、洋式の技術を導入した。 斉彬は、特に紅色ガラスに力を入れ、銅を用いた暗赤色(または殷紅色と呼ばれた深い紅色)ガラスの製造に成功。その他、藍、紫、緑などの色ガラスもつくり、これらを透明なガラスに被せて二層にし、これに四本亀次郎の切子技術を応用させて、世に名高い、色被せカットガラス・薩摩切子が完成したとされる。

 1858年の斉彬の急死後、事業は縮小され、1863年の薩英戦争の際に工場が破壊され、消失したこともあり、薩摩切子は徐々に衰退してしまい、1877年頃には幻の切子になっていく。現存する当時製造された薩摩切子は200点程度とされ、とても貴重なものである。現在サントリー美術館には次のような江戸時代の薩摩切子のコレクションが8種14点収蔵されている(サントリー美術館資料「開館20周年記念、サントリー名品100」による)。

・薩摩切子紫色ちろり 一個
・薩摩切子藍色船形鉢 一個
・薩摩切子藍色脚付鉢 一個 
・薩摩切子藍色丸文小鉢 一個
・薩摩切子藍色蓋付壺 一個
・薩摩切子紅色三つ重 一組
・薩摩切子紅色皿 五枚
・薩摩切子紅色皿 三枚

 こうして一度は歴史の中から姿を消していた薩摩切子を再現して復活させたのは、大阪のガラス商社カメイガラスであった。大阪の天満はもともと大阪ガラス発祥の地(2017.9.29 公開本ブログ参照)として知られる地で、周辺には多くのガラス職人がいて、様々なガラス生地を作る技術に精通していた。カメイガラスはこうした大阪の職人たちを集めて、1975年~1980年頃に薩摩切子の復刻に挑戦、商品化に成功した。

 このこともあって、薩摩切子に対する一般の人々の関心も高まってきたが、ガラス工芸の専門家チームの中には別な動きが出ていたようである。この辺りの状況は「薩摩切子の復元のための技術的研究(一)、(二)(ガラス工芸研究会誌 26号,1988.11.30 発行、同 28号,1990.8.10 発行)に見ることができるが、序文の一部を紹介すると次のようである。

 「近年、薩摩切子に対する一般の人々の関心も高まり、複製品も販売されるようになった。これ等は、精緻な製品もあるものの、主に営利を目的としているため、材質など、本来の薩摩切子とは異なるものである。こうしたすそ野の広がりは歓迎するところだが、薩摩切子そのものに解明されていない点が残る今日、誤った概念を多くの人々に与えるという危険性もあろう。(薩摩切子に対して)個々に行われている研究を、総合的見地から検討する機会が必要な時期となっていたが、今回、幸にも遺品の破片を手に入れることができた。そこで、これを機に研究者が集い、今まで行われることのなかった、試料を採取してその正確な分析に基づく、学究的態度での薩摩切子の復元が計画された。・・・この研究は昭和六十二、三年度(1987-8年度)の二年間にわたり、文部省から科学研究助成金を受けることができた。・・・」

 この研究には1985年(昭和60年)4月に鹿児島県と島津家の協力で設立されていた「薩摩ガラス工芸(株)」もガラス融解など一連の作業で協力したとされている。詳しい前後関係は判らないが、こうした研究の一部はすでに先行して薩摩ガラス工芸(株)設立よりも前から進められていたのであろうか、会社設立年の年の1985年8月には同社から薩摩切子復元発表がなされている(株式会社島津興業 薩摩ガラス工芸資料による)。
 
 先行していたカメイガラスはその後1990年中ごろに倒産してしまうのであるが、薩摩ガラス工芸は、1987年にスタートした鹿児島県伝統的工芸品指定事業の指定を、1988年に受け、現在も薩摩切子の製造・販売を続けている。

 この薩摩切子は、昨年のNHKの大河ドラマ「せごどん」の中でも採り上げられ、ある日西郷隆盛と島津斉彬が日のさす縁側で薩摩切子のデキャンタからグラスにワインを注ぎ飲む場面が描かれていた。

 さて、我々が先ず立ち寄った磯工芸館では上記の経緯を経て完成された、薩摩切子のギャラリーショップがあり、サントリー美術館に所蔵されているものと同型の復元品などや、2001年に商品化したという新しい技法を用いた二色被せの新作商品、種々のグラス、アクセサリー類などが展示販売されていた。







たくさんの種類の薩摩切子が並ぶ磯工芸館のギャラリーショップ(2019.3.15 撮影)

 このギャラリーショップの裏側にある工場ではガラスの溶解から「たね巻き」、「色被せ」、「成形」、「徐冷」、「あたり」、「荒ずり」、「石かけ」、「木盤磨き」、「ブラシ磨き」、「バフ磨き」、「検査」というすべての工程を歩きながら見学できる通路が設けられていて、目の前で製造される薩摩切子を見ることができるようになっている。













薩摩切子の製造工程を見学できる工場と通路に置かれている説明用展示作品(2019.3.15 撮影)

 工場見学の後、再びギャラリーショップに戻り、店員に説明を聞きながら商品を見て回ったが、中国からの観光客がずいぶんたくさんの商品を買い求めていた。我々も復元猪口と復元脚付杯をお土産に買おうとしたが、大河ドラマで使われていたワイングラス(復元脚付杯)の方は、来年まで予約が埋まっていて、この日は持ち帰ることができないという状況であった。薩摩切子の人気は、TV放送終了後の今も衰えていないことを実感させられた。

 このあと、一旦市街地に戻り、従弟・従妹の二人とのランチの後、午後は再び尚古集成館に向かった。ここで古い薩摩切子を見学した後、島津家の旧庭園「仙厳園」を散策したが、ここからは高く噴煙を上げる桜島をすぐ前に見ることができた。この日の噴煙はやや少なめに見えたが、実はこの前日には小規模な噴火があったことを昨夜ホテルのTVのニュースで知った。



尚古集成館(2019.3.15 撮影)

 浅間山の麓に住んでいる我々であるが、これほどの噴煙を見ることはまずない。火山活動度の違いを見せつけられた形であった。浅間山が大好きで、軽井沢に住みたいと言って移住を希望した妻であったが、もし浅間山がこんなに噴煙を上げるようになったら、逃げ出したくなる・・というのを聞いて、目の前の噴煙よりもその言葉に私は驚いてしまった。


「仙厳園」からの噴煙を上げる桜島(2019.3.15 撮影)

 今回の九州の旅は、ガラスと共に火山とその活動が人々の生活に及ぼす影響について見る旅でもあった。













  
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