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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

トランヴェールとこけし

2018-12-28 00:00:00 | こけし
 新幹線で移動するときの楽しみのひとつは、車内誌「トランヴェール」を読むことである。上越市に赴任していた1998年ころからの話であるが、出張で東京方面に出るときには、長野経由と、越後湯沢経由の2ルートがあった。どちらも経由駅で新幹線に乗り換えるのだが、その「あさま」や「とき」、「たにがわ」の車内には「トランヴェール」が備えられていた。

 多い時には、ひと月に何度も東京に出る機会があったが、月初めに出張のあった時には、真新しい「トランヴェール」をお土産に頂いてくるのが習慣になっていた(「ご自由にお持ち帰りください」と書かれている)。

 会社を定年で辞めて、軽井沢に住むようになってから少しの間ブランクがあったのだが、まもなく、今度は毎月のように大阪の実家に出かけるようになった。一人暮らしをしている母と10日程度一緒に過ごしてくるためであった。軽井沢から大阪に行くには、東京経由と金沢経由とがあり、新幹線を2本乗り継ぐ東京経由の方が、所要時間は多少短くなるが、私は両方のルートを適宜利用した。そして、このときも新幹線に乗ると「トランヴェール」があった。

 今年夏に母が亡くなり、定期的に大阪に行く機会はなくなったが、ここしばらくはまだ東京に出る機会もあり、今も私の「トランベール」愛読は続いている。

 トランヴェールには「巻頭エッセイ」や「特集記事」があり、私はのこ両方を読むのを楽しみにしている。エッセイの作者には嵐山光三郎、高橋克彦、藤原正彦、内田康夫、浅田次郎、泉麻人、村松友視、伊集院静、角田光代、荻原浩、山田五郎さん等が続き、ここ2年半ほどは沢木耕太郎さんが担当している。

 私と同年代ということもあるが、沢木さんのエッセイは共感するところが多く、いつも「トランヴェール」を手にすると、真っ先に読んでいる。

 私が読み始めたころの、ずいぶん古い「トランヴェール」が残っていたので、関西在住の私の友人各位にはなじみが薄いことと思うので、最近のものと合わせてその表紙をご紹介する。 


JR東日本車内誌「トランヴェール」2001年-11月号の表紙


JR東日本車内誌「トランヴェール」2018年-12月号の表紙

 さて、最近また東京に出かける機会があり、車内でいつものように「トランヴェール」を手にしたところ、今回の特集記事は「こけし」についてであった。早速、読んでみると、ちょっと意外なことに、今、『「コケ女」なる言葉が生まれるほど、女性を中心に「こけし」が人気』なのだそうである。

 TVや新聞で採りあげられていた記憶がないので、静かなブームということなのだろうか。そういえば知り合いの女性が、我が家にある義父のコレクションの「こけし」が見たいといって、これまでに2度来訪している。実は、我が家にはいわゆる「伝統こけし」が数百本あって、専用の棚を設けて飾っているのである。

 この義父の「こけし」コレクションは1952年頃から集め始めたものらしいが、いずれも東北地方の温泉場に出かけて買い求めて来たものという。中には直接こけしの工人を訪ねて、買ったものもあるらしい。若いころ、妻も同行して買ってきたり、時には義父から頼まれて、旅行途中に温泉場に行って買ってきたものもあるという。

 この多数のこけしは、数年前に軽井沢に移住する際に、妻の実家からこちらに引っ越しをしてきたものである。我が家を訪ねてきた家族や友人は、このこけしを見て、その数の多さに一様に驚くのであるが、母はその中から2本を選んで、欲しいといって大阪に持ち帰っていた。

 ところで、このこけしについては、気になることが一つあった。今回「トランヴェール」の特集で、その点がどのように扱われているのかという関心もあり、読み進めた。

 この「特集」は次のような構成である。

 ■ 冬は東北 こけしをめぐる旅に出る
 ■ 福島・宮城・青森 こけしを知る旅
 ■ どうしてこけしが好きなんですか?
 ■ 秋田・岩手・山形 こけしに惹かれて湯けむり紀行
 ■ フシギでかわいい創作こけしたち

 我々にも身近なこのこけしは、いつどこで、なんのために生まれたのか、という疑問に対する答を求めて、記者はまずこけしの「いろは」を知るために、福島県の土湯温泉にあり、伝統こけしの蒐集と研究に尽くした西田峯吉氏のコレクションを展示する「原郷のこけし群 西田記念館」に向かう。

 ここで、学芸員から「こけしは元々おもちゃとして作られました。胴が細いのは、子どもが持ちやすいように作った名残です」という説明を受ける。「現在11系統に分けられているこけしのうち土湯系や、宮城県の弥治郎系、遠刈田系、鳴子系、作並系のこけしは江戸後期から作られたと伝えられているが、残された品も記録も少なく、はっきりした発祥地や時期は分かっていない」という。生産地が東北地方だけに限られていたのは、「東北では昭和初期まで陶磁器ではなく、日常的に木の器が使われていたことに関連しているのではないか」とのことである。

 この子どものおもちゃとしてのこけしは大正時代後期から衰退に向かうが、代わってインテリ層を中心にこけしに美を見いだす人々が現れ、昭和初期には、観賞品として人気を博す。さらに昭和30~40年代の高度成長期には大ブームが起き、中高年男性を中心に蒐集熱が高まり、即売会やコンクールが行われて産地は活況を呈したようである。義父がこけし蒐集を始めたのは、ちょうどこの第二次のブームの時期に一致している。

 現在は、これらに次ぐ第三次ブームとされる。推進役は若い女性に替わった。

 こけし製作はろくろで行われる。どこも製法の大枠は同じというが、胴と頭のつなぎ方は異なり、3パターンある。頭と胴もつなげて一本の木材から彫るのが津軽系や木地山系。別々に作って頭を胴にはめ込むのが鳴子系と土湯系、南部系。それ以外は別々に作った首と胴を動かないように固定してつなぐ。

こけしの頭と胴のつなぎ方(左から一本式、首回り式、キナキナ式、)

こけしの頭と胴のつなぎ方(差し込み式の3方式)

 鳴子系など、頭を胴にはめ込む方法はなかなか高度な技術が必要で、完全に経験と勘の世界とされている。

 この最大の産地でもある鳴子では、昭和15年に開かれた会合で、それまで「でく」や「きぼこ」などさまざまであった呼称を、現在の「こけし」に統一したという。「木(こ)」とこけし以前にあった玩具「芥子(けし)人形」が合わさって「こけし」になったなど語源は諸説あるが、鳴子や遠刈田での呼び名だそうである。

 伝統こけしの産地の11系統とは、北から1.津軽系、2.南部系、3.木地山系、4.鳴子系、5.作並系、6.遠刈田系、7.弥治郎系、8.肘折系、9.山形系、10.蔵王系、11.土湯系である。

 少し前の本や、伝統こけしの工人リストなど、10系統に分類されている場合もある。トランヴェールの特集記事に示されている11系統と、手元にある少し古いカラーブックス「こけし」(山中 登著、1969年 保育社発行)で紹介されている10系統、ネットで検索した系統・工人一覧表(2015年の検索)の10分類を比較すると、次のようである。


山中 登著「こけし」の表紙


こけし産地と系統

 現在山形系として、独立しているものは、以前は作並系と同一に扱われていたことがわかる。また、以前は土湯系に含まれていた中ノ沢温泉産と、蔵王高湯系に含まれていた温海温泉産は11系統から切り離して、独立系として扱うようになっていることもわかる。

 ところで、私が気になっていたことであるが、それは「こけし」という呼び名の由来である。我が家のこけしを見た人から、その名の由来として「こけし」=「子消し」ということを聞いたからであった。それも前後して二人の口からこれを聞いた。

 「子消し」とは、過去に東北地方が飢饉に見舞われたときに、我が子の命を奪わざるを得なかったできごとに由来している。これは本当だろうか。

 今回、トランヴェールの記事では、「こけし」という呼称が、昭和15年に決められたと、その由来が紹介されているが、それ以外の説については触れていなかった。

 1969年発行のカラーブックス「こけし」でも同様で、”「こけし」ということば”として、次のように書かれている。

 「『こけし』という名は、最近になってできた新造語で、とくに固定した意味を持っていない。いうなれば、上物や駄菓子などいろいろなお菓子をひっくるめてわれわれが『菓子』と呼んでいるのと同じように解釈すればよいと思う。
 しかし、『こけし』ということばには、親しさと愛憐のこまかい心情をあらわすひびきがこもっていることは確かで、たとえ形や大きさがいろいろと異なっても、このことは『こけし』全般に通じることである。・・・
 しかし、これだけの説明ではこころのおさまらない人がいるかもしれない。それは昔あったコゲスを多少なりとも知っているか、こうしたロクロの挽き物人形に興味を持っているか、趣味にしている人たちかである。・・・
 こけしの母体はコゲス(木削子)か はやい話が、『コゲスとコケシ』で、『スシとスス』(東北弁)みたいなものである。そこで、コゲスをこころの中に浮かべて、大衆が作り上げた語だろうと考えたいところだが、事実はそうでもない。『こけし』ということばの語呂が清くてかわいい感じだから、つい呼んでみたというのが真実らしい。
 コゲスとはコゲスオボコの略語で、そもそもが東北地方に昔からあった、木製のロクロで挽いて作った、こどもの玩具なのである。木を削って作ったので木削子(こげし)からコゲスになり、・・・そのコゲスについてはいろいろな話がある。・・・姿態がケシボウズに似ているから、『こけし』の名が起こったとか・・・。
 要するに、一般にいう『こけし』という名には、れっきとした骨組みはないが、ここに書いたような、いやそれ以上の昔のゆめが含まれていると思うのである。」

 もうひとつ、ウィキペディアの「こけし」の項の「名称」欄の記述を見ておこう。

 「こけしの名称は元来、産地によって異なっていた。木で作った人形からきた木偶(でく)系の「きでこ」「でころこ」「でくのぼう」、這い這い人形(母子人形説もある)からきた這子(ほうこ)系の「きぼこ」「きぼっこ」「こげほうこ」、芥子人形からきた芥子(けし)系の「こげす」「けしにんぎょう」等があった。また一般に人形という呼び名も広く行われた。他に「こげすんぼこ」「おでこさま」「きなきなずんぞこ」と呼ばれることもあったもあった。
 「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子、木形子、木芥子、木削子など)があったが、1940年(昭和15年)7月27日に東京こけし会(戦前の会)が開いた「第1回現地の集り・鳴子大会」で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられる。
 幕末期の記録「高橋長蔵文書」(1862年)によると「木地人形こふけし(こうけし)」と記されており、江戸末期から「こけし」に相当する呼称があったことがわかる。こけしの語源としては諸説あるが、木で作った芥子人形というのが有力で、特に仙台堤土人形の「赤けし」を木製にしたものという意といわれる。「赤けし」同様、子貰い、子授けの縁起物として「こけし」が扱われた地方もある。またこけしの頭に描かれている模様「水引手」は京都の「御所人形」において、特にお祝い人形の為に創案された描彩様式であり、土人形「赤けし」にもこの水引手は描かれた。こけしは子供の健康な成長を願うお祝い人形でもあった。
 一方、近年ではこけしの語源を「子消し」や「子化身」などの語呂合わせであるとし、貧困家庭が口減らし(堕胎)した子を慰霊するための品物とみる説も存在する。これは1960年代に詩人・松永伍一が創作童話の作中で初めて唱えたとされる。しかし、松永以前の文献にはこの説を裏付けるような記述が見られず、松永自身も説得力ある説明はしていないとされ疑問が持たれている。明確な出典が存在しないため民俗学的には根拠のない俗説であり、都市伝説と同様、信憑性の無い与太話の類とされる。」(ウィキペディア 最終更新 2018年12月1日 (土) 11:22 )

 ウィキペディアで初めて私の疑問に対する答えが得られたが、ここで示されている詩人・松永伍一の創作童話とは何か、どのように書かれているのかを確認しておく必要があるだろう。詳しく調べていくと、創作童話に該当するものかどうかは定かではないが、松永伍一全集(全六巻、法政大学出版局、1972年~1975年発行)の第2巻と第3巻の目次の中に次の2つの項目が見つかった。

 ■ 子消し曼荼羅(第2巻、1973年発行)
 ■ こけし幻想行(第3巻、1972年発行)

 このうち、第3巻の「こけし幻想行」は、1971年に「時代」(昭和46年8月号)に発表され、その後単行本として出版された「原初の闇へ」(昭和46年11月 春秋社発行)にも掲載されている。この書籍「原初の闇へ」を入手することができたので、その記述を見ておこう。


松永伍一著「原初の闇へ」の箱の表

 単行本に掲載されていた「こけし幻想行」は12ページの比較的短い内容であるが、ごく一部を引用すると次のようである。

 「こけしの前に座ると、私の心が複雑に歪み、重い息づかいになっていく。・・・九州に生まれて、こけしで遊んだ経験がないからだ、と言ってすませるだろうか。そうではないらしい。熱狂的な愛好者もいるかわりにたとえ東北に生まれた人でも、あれに一種の生理的反発を感ずることだってあるだろうと思う。・・・
 こんど、弥治郎や遠刈田を歩きながら、その内なる問いに答えることができた。結論を言おう。『いま流布しているこけしはすべて偽物である』。・・・こけしに関しては『昔はよかった』に嘘はない。・・・私は弥治郎へ足を運んだ。のどかな山村という感じであった。『三界万霊塔』とか『馬頭観世音』とか『子安観世音』とかが、曲がりくねった道路のわきに立っている。二百五十年ほど前のものである。・・・木地師たちの村にさりげなく建てられているものを見てすぎると、特別の意味がそこに感じられてくるのである。特別のといっても、どのように特別なのか、それは自分でもわからないが、何となく・・・・・・・である。・・・
 今弥治郎には五軒しかこけしを作る家はないが、・・・機械音のウーンウーンという唸りとともに、つぎつぎとこけしが出産するのである。・・・民芸品とは本来『手づくり』なのである。・・・(機械でつくったものは)もう民芸品ではなく、ただの商品である。・・・私たちは日暮れの弥治郎を去った。ため息ばかりついていた。・・・
 子安観世音の石塔が、小高い丘の根もとに立っていて、そこだけがまだ、私の気持ちのなかで暮れ残っていたのである。こけしとは『子消し』のことか。私は、ひらめくものの命ずるままにアッと声を上げ、憂鬱とも悲しみとも、あるいはひたひたとくる救いともつかぬ心象の雫を胸に受け止めて、坂をくだった。・・・
 この旅は、地獄から極楽への巡礼であった。人の鑑賞眼に疑念をはさみながら、本源的なものを探しつつ歩く意地悪な幻想行であった。そして、こけしをむかしから好まなかったことを、いまあらためて幸せと感じている。・・・」

 こうしてみてくると、「子消し」を「こけし」の語源とするには、詩人・作家のあまりにも個人的なひらめきから生まれた解釈であることがわかる。カラーブックス「こけし」に関しては、その発行が1969年であり、「こけし幻想行」の発表が1971年であることを考えると、そこに「こけし」の語源として「子消し」が紹介されていないのは当然であった。

 また、トランヴェールがこうした説を採りあげなかったことも、その影響の大きさを考えると明察であったと思う。

 東北地方だけではなく、日本が飢饉により直面せざるをえなかった悲しい過去が存在していることは、事実であり、人々がこけしに寄せる思いの中にそうしたものが含まれていたということは、あるいはあったのかもしれない。しかし、それはこけしの名前の語源とはべつなものであったろう。

 トランヴェールにも、多くのこけしの姿が紹介されていたが、よく似たものが我が家にもあった。いずれ、我が家のこけしたちの可愛い姿も、ここで紹介させていただこうと思う。


トランヴェールの表紙のこけしに似た我が家のこけし3体(2018.12.26 撮影)

 追記:松永伍一全集の第2巻(1973年発行)に収められている、「子消し曼荼羅」は1972年三月号『潮』に発表されたものであるが、ここには「こけし」に言及した内容は含まれていない(2018.12.30)


 



 

 
 
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ウスタビガ(4)羽化

2018-12-21 00:00:00 | 
 ウスタビガの孵化に始まり繭作りまでの成長の過程を映像で追ってきたが、最後に羽化して繭から出てくるところを見ていただく。やはり羽化の瞬間はどの昆虫でも同じで一番ドラマチックなものと言えるだろう。卵から孵化して、決して美しいとはいえない毛虫になり、次にはミイラのような形をした蛹になり、そしてそこから抜け出して蝶や蛾に変身して出てくるときには、見違えるような姿になっている。

 次の動画はウスタビガの♀が繭から這い出て、翅を伸ばすまでの羽化の様子を追ったものであるが、撮影のための照明を嫌ってか、繭から出てくるとすぐに繭の後ろ側に回り込もうとする。仕方がないので、繭を180度回して、正面から撮影を続けようとしたが、また嫌われてしまった。この傾向は後ほど見ていただく、♂の場合も同様であった。

 普通は、羽化直後の無防備な状態に、天敵に襲われるのを避けるために、羽化は夜のうちに完了するようになっているのであろう。そのため、人工的な照明を避けるような行動をとるものと思える。こうした習性は昆虫の体内時計によって支配されていることが判っていて、自然界では「アメリカシロヒトリ」の羽化などは夏の夕方に次のように一斉に起きることが知られている。

 「・・・夕方四時前には、一匹の羽化も見られない。四時から、ごくポツポツと羽化してくるガが見られる。この状態が六時ごろまでつづく。六時半、日が沈む。とたんに羽化する個体数は二十分あたり三倍、四倍とふえていって、日没後一時間たった七時半にはピークに達する。あるデータによれば、四時から六時までの二時間に羽化したガは三十匹であったが、六時から八時の二時間では、百二十匹に達した。そして、八時半から九時をすぎると、羽化はピタリととまり、翌日の夕方まで、羽化してくる個体は一匹もない。・・・」(日高敏隆著 「昆虫という世界」1979年発行 朝日選書)

 では、今回は夜22時頃に始まった、ウスタビガの羽化をみていただこう。
  

ウスタビガ♀の羽化(2016.10.8 22:26~22:49 撮影動画を編集 )

 ♀のお腹は大きく、後述するように、繭の出口は酵素で軟らかくなっているのであるが、それでも出口から出てくるのは一苦労のようである。

 繭から出てきたときにはまだ翅は縮んだままで、伸びていない。繭につかまり、空間を確保してから、しずかに翅を伸ばし始める。これは、口から空気をのみこんで腸をふくらまし、その圧力で体の中の血液を翅脈の中へ送り込んで、翅を押し伸ばしていくとされている(前出「昆虫という世界」)。その様子を30倍のタイムラプスで撮影した動画は次のようである。


ウスタビガ♀の羽化後の翅の伸長(2016.10.8 22:50~10.9 00:10 30倍タイムラプス撮影動画を編集)

 ウスタビガの繭には、前回のこのブログで紹介した通り、出口があらかじめ作られていて、羽化するときにはここから這い出してくるようになっている。ヤママユの繭の場合には、繭は完全に閉じられていて、羽化時の出口はない。そのため、ヤママユは口から酵素液を吐き出して、繭の上部を溶かし、出口を作ってそこから這い出してくる。

 ウスタビガの場合は、あらかじめ繭には出口が用意されているので、繭を溶かす必要はないと思っていた。しかし、作成後3か月近く経過した繭壁は硬くなっていて、出口は容易には開かない。やはり、酵素液の助けを借り、繭糸を溶かさないまでも、出口周辺を軟らかくして、這い出しやすくする必要があったようだ。

 続いてウスタビガの♂が羽化してくる様子を見ていただく。以前このブログで、3D動画撮影と並行して撮影した写真を紹介したことがあるが(2016.10.21 公開)、それはその頃はまだ動画の編集がうまくできなかったからであった。今回、繭から出てくるところは通常撮影したものを、繭から出て翅を伸ばすところは30倍のタイムラプス撮影したものを用いて編集した。
 
 繭の中で、蛹から出た幼虫は、酵素液の効果で軟らかくなった繭の出口から慎重に外の様子を伺うようにして這い出してくるが、この間約30分かかっている。そして、繭から一気に這い出してからあとは、ゆっくりと約1時間20分ほどをかけて翅を伸ばす。


繭の出口に口から酵素液を吐きだして湿らせる(2016.10.8 18:41 撮影動画からのキャプチャー画像)


ウスタビガ♂の羽化(2016.10.8 18:58~20:51、通常撮影と30倍タイムラプス撮影を編集)

 翅を伸ばす力は血液であると先に紹介したが、この個体は左前翅中央部の翅脈に傷があったためか、そこから血液が漏れ出していた。これが多量になると翅の伸展が妨げられて、完全に伸びきらないという悲劇になることもあるようだが、今回の場合は、幸い傷口が小さかったのか、その漏れた量は少なく、翅は無事伸びていった。

 ♂の触角は、♀に比べると幅が広く大きい。これは、以前ヤママユでも紹介したように、♀が出す誘引物質であるフェロモンを敏感に検出するための装置として有効に働くように進化した構造である。

 腹部は、♀に比べると細く、すっきりとしている。

 次に、同時期に羽化した別の個体の、羽化直後の姿を回転させながら見ていただく。♀の翅の色は薄く黄色みを帯びている。一方♂の翅の色は濃く、その濃さには個体差も見られる。翅形状も♀は前翅先端部が丸みを帯びているが、オスでは尖り、先端部が曲がっている。

 ♀の腹部はご覧の通りふっくらとして大きいが、そのことを反映して、繭の段階でも大きさは♀の方が大きく、羽化前におよその見当がつくぐらいである。羽化直後の♀のお腹には卵がぎっしりと詰まっているのであろう。


羽化直後のウスタビガ♀(2016.10.4 撮影)


羽化直後のウスタビガ♂(2016.10.8 撮影)

 ♀では羽化するとすぐに、肛門付近をしきりに動かすしぐさが見られるが、これはフェロモンを発散し♂を呼び寄せているもののようである。先に羽化していた♂は、遠く離れた場所にいても、このフェロモンを敏感に感じとり、羽化直後の♀が掴まっている繭に飛来し、そこで交尾する。♀は繭表面に数個の卵を産み付け、少し軽くなってから別の場所に飛び立っていき、あちらこちらに産卵するものと思われる。


羽化後、繭にぶら下がったまま交尾するウスタビガ(2016.10.9 10:30 撮影)

 ウスタビガの繭表面には、このようにして卵が産みつけられていることがしばしばみられるのであるが、同じヤママユガ科の他の種ではこうしたことは見られないようである。これは、ウスタビガの繭が、長い柄の先に作られていて、周囲には産卵できるような場所が見当たらないことと関係しているのかもしれない。

 







 


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ウスタビガ(3)繭作り

2018-12-14 00:00:00 | 
 どの種の幼虫を飼育していても同じ様であるが、ウスタビガの場合も終齢幼虫になると、その食欲はすさまじく、おまけに20匹ほどの幼虫を飼っていたので、2鉢あった「ヨシノザクラ」の葉はとっくに食い尽くされ、追加の「ソメイヨシノ」をネットで数鉢購入して幼虫に与えていたがこの葉もそろそろなくなりかけていた。

 そこで、先々のことを考えて、軽井沢の造園業者から樹高3mほどの「オオヤマザクラ」の木を買って庭に植えた。そして、この木に幼虫を数匹移したところ、すぐに葉を食べ始めたが、しばらくして異常が現れた。

 「オオヤマザクラ」を与えた終齢幼虫は、口から褐色の液体を吐き出したのである。その液体は幼虫の緑色の体を汚し、幼虫はそれ以上オオヤマザクラの葉を食べなくなって、弱っていった。同じ桜の仲間だと思って与えた「オオヤマザクラ」の葉であったが、ウスタビガにとっては有害な別ものであったらしい。

 慌てて、関係書を調べなおし、餌の葉をヤママユに与えているコナラに切り替えることにした。ちょうどこの時期、同時に多数のヤママユを育てていたので、こちらは山で採ってきた枝がふんだんに用意できていた。

 弱っていたウスタビガはコナラの葉を食べ始め、再び元気になっていったが、一部は次第に弱り2匹ほどは死んでしまった。

 鉢植えのサクラの葉が少なくなっていたので、その後、半分ほどの幼虫はコナラの葉を与えて育てた。そして、18匹ほどの幼虫が、サクラやコナラの枝先に繭を作り始めた。「オオヤマザクラ」の葉を食べひどい目に遭い、体に褐色のシミをつけていた終齢幼虫もその後元気を取り戻して、無事繭を作った。

 以前書いたこともあるが、ウスタビガの繭にはカイコやヤママユの作る繭とは異なる2つの特徴がある。ひとつは、繭が糸を束ねた細長いひも状の柄の先に作られることである。

 もう一つは、ウスタビガの繭には、羽化した時に脱出するための出口があらかじめ作られていることである。両側から押すと口が開くがま口があるが、ちょうどあのような構造をしているもので、こうした構造を間違いなく作るウスタビガの習性には驚かされる。


細いひも状の柄の先に作られるウスタビガの繭、表面に見えるのは卵(2018.12.6 撮影)


ウスタビガの繭に作られている羽化時の成虫の出口(2018.12.6 撮影)

 また、この出口の隙間は狭く作られているとはいえ、開口部であることには違いなく、雨水が入り込む。そのため、ウスタビガの繭の下部には、水抜きの別な小さな穴も必要になり、これもきちんと作られている。


ウスタビガの繭の底にあけられている水抜きの穴(2018.12.6 撮影)

 この2つの特徴ある構造を、ウスタビガの終齢幼虫がどのようにして作り上げていくのか、とても興味があった。この時は、多くの幼虫を飼育したので、その様子を撮影することができた。

 繭を作る直前になると、ウスタビガの幼虫は気に入った場所を求めて盛んに動き回る。ただ、アゲハチョウの仲間で経験したような、食草から遠く離れる長距離の移動はせずに、餌のサクラやコナラの枝先をあちらこちら這いまわる。

 気に入った場所を見つけたようだなと、こちらが勝手に判断して撮影にかかると、その後移動してビデオカメラの視野から外れて、どこかに行ってしまうこともある。が、しばらくするとまた元の場所に戻るというような行動も見られた。

 繭を作り始める前に、周辺の枝には念入りに糸を吐いて巻き付けていく。これが最終的には、繭の柄の部分になっていくのだが、何のためのこの柄を作るのか。葉が落下しても、枝先からぶら下がっていられるようにするためかもしれないと思えるが、よくわからない。

 最初に、サクラの枝先に繭を作る様子を見ていただく。気がついた時には、すでに繭の形ができ始めていて、柄の部分もしっかりとソメイヨシノの葉から枝につながるように作られていた。

 ソメイヨシノの鉢植えは玄関に置いていた関係で、撮影時の照明が不十分であり、そのため画面は暗く、また玄関を出入りするため明るさが変化してしまった。


ウスタビガの繭作り・サクラ(2016.6.22/08:10~19:40, 通常撮影と30倍のタイムラプス撮影とを編集)

 次に、コナラの葉に繭を作る様子を紹介する。気に入ったコナラの枝先に糸を吐き始め、周囲の枝にも糸を張り巡らせてから繭を作っていった。こちらは、コナラの枝を容器に挿していたので、室内に持ち込んで照明の下で撮影した。撮影は2日と4時間以上に及んだが、ウスタビガはまだこの後も糸を吐き続けた。


ウスタビガの繭作り・コナラ(2016.6.29/02:11~7.1/06:40、30倍タイムラプスで撮影したものを編集)

 このサクラとコナラの枝先に繭を作る動画から、柄の部分を作る様子や、繭の出口そして水抜きを作る様子はうかがえるが、繭上部に作られる出口ができあがる工程をもうすこし詳しく見ておこうと思う。

 繭の上部に出口が作られる様子を約15時間ごとに見ると次のようである。この間、約2日をかけている。


ウスタビガの繭に出口が作られる様子 1/4(2016.7.20 13:00 撮影動画からのキャプチャー画像)


ウスタビガの繭に出口が作られる様子 2/4(2016.7.21 01:00 撮影動画からのキャプチャー画像)


ウスタビガの繭に出口が作られる様子 3/4(2016.7.21 16:00 撮影動画からのキャプチャー画像)


ウスタビガの繭に出口が作られる様子 4/4(2016.7.22 08:00 撮影動画からのキャプチャー画像)

 幼虫は繭全体にまんべんなく糸をかけていくが、出口を形作る作業をしているところだけを選んで編集した動画は次のようである。撮影は30倍のタイムラプスで行い、編集している。中から押す操作を加えながら、はじめは円形であった出口を上手にすぼめて、狭くし最終的にはほとんど閉じられた状態にしている。なかなか見事な仕事をしている。


ウスタビガの繭作り・出口作り(2016.7.20 13:00~7.22 08:00 30倍タイムラプス動画を編集)

 最後に、「オオヤマザクラ」を食べたために、褐色の液体を吐き、体がその色に染まってしまっていた終齢幼虫が無事繭を作り終える様子を見ておこうと思う。


褐色の液体を吐き出したために体が汚れたウスタビガの終齢幼虫 1/2(2016.6.23 撮影動画からのキャプチャー画像)


褐色の液体を吐き出したために体が汚れたウスタビガの終齢幼虫 2/2(2016.6.23 撮影動画からのキャプチャー画像)


ウスタビガの繭作り・体が褐色に汚れた個体(2016.6.24 02:00~6.26 10:00 30倍タイムラプス撮影と通常撮影したものを編集)

 サクラの枝先に繭を作ったもの、コナラの枝先に繭を作ったもの、そして食葉のトラブルに遭ったものなどを見てきたが、いずれも繭作りに際しては、柄や出口、水抜き穴を念入りに、まちがいなく作る様子がうかがえ、感心させられることしきりである。
 



 

 

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箱根ガラスの森美術館

2018-12-07 00:00:00 | ガラス
11月30日に、元の職場のOB会が新横浜で予定されていて、ずいぶん前に参加の返事を出してあったが、ガラスショップの今期の仕事が一段落し、久しぶりに鎌倉の娘宅に行って孫にも会いたいなどと思い、その他にもいくつかの目的があったので、車で出かけることにした。

 その他の目的とは、せっかく神奈川に出かけるのなら、ということでかねて行ってみたいと思っていた、「箱根ガラスの森美術館」にも立ち寄る計画を立てたことと、この日の宿に「川奈ホテル」を選んだことである。

 川奈ホテルは、クラシックホテルの会のメンバーで、軽井沢の万平ホテルなどとグループを作り、活動をしているが、これまでにもこのグループのホテルに数か所滞在したことがあり、今回もぜひ泊まってみたいと思っていたので、ここに決めた経緯がある。

 そして、こちらは事前に調べていたわけではないが、この川奈ホテルのすぐ横には「伊豆高原ステンドグラス美術館」があった。
 
 今回はこのうち「箱根ガラスの森美術館」の紹介をさせていただく。「川奈ホテル」と「伊豆高原ステンドグラス美術館」については、また別の機会に改めて紹介させていただこうと思う。

 軽井沢から箱根に行くには、碓井軽井沢ICで高速道路に乗ると、上信越道、関越道、圏央道、小田原厚木道と小田原まで高速道路がつながっていて、とても便利である。小田原から、仙石原にある「箱根ガラスの森美術館」までは東海道(国道1号線)を通り宮ノ下に行き、ここから箱根裏街道(国道138号線)を走ることになる。

 途中、宮の下には、クラシックホテルのひとつ、富士屋ホテルがある。現在は、耐震補強・改修工事中ということで休館中であったが、以前ここに泊まった時には、案内された明治24年建造という本館の部屋のすぐ前が、かつてチャップリンが宿泊した部屋(45号室)であった。クラシックホテルは、建物自体に興味深いところがあるが、こうした歴史的な人物との関連についての楽しみもある。ちなみに、今回泊まった川奈ホテルでは、新婚旅行で訪れた、マリリン・モンローと夫君のジョー・ディマジオの記念写真が飾られていた。

 さて、「箱根ガラスの森美術館」まで紅葉の中を走り、第一駐車場に車を停めて、早速館内に入った。チケット売り場を通り抜けたすぐ前はテラスになっていて、ここからは施設内をほぼ一望にでき、またその背後に僅かに噴煙の見える大涌谷を望むことができた。

「箱根ガラスの森美術館」入口(2018.11.28 撮影)

「箱根ガラスの森美術館」のテラスからの眺望(2018.11.28 撮影)

 この「箱根ガラスの森美術館」はヴェネチアン・グラスで有名だが、さっそくその「ヴェネチアン・グラス美術館」に向かった。この館内では、丁度馬頭琴による演奏が始まろうとしていて、多くの入館者が席についているところであったが、妻と私はこれをスキップして展示品の見学に回った。お陰で、ゆっくりと見学し、写真撮影も許可されていたので、じっくりと撮影することができた。

 ガラス器の生産地といえば、すぐにヴェネチアやボヘミアの名前が浮かぶほど、このヴェネチアは有名であるが、実際そのガラス器生産の歴史は古く、正確なことは諸説があり一定しないようだが、1268年には、ガラス同業組合が結成されていたとされる。

 その後、1300年頃までの初期ヴェネチアン・グラスの時代に、1275年には、木灰、カレット(ガラスの原材料片)、珪石の輸出を禁止し、1291年にはガラス製造業者、工人のすべてをムラノ島に強制移住させる法令、「ムラノ島集中移住令」を発布するなど、ヴェネチア当局はガラス器製造の秘密を守り、その品質を高め、高価な値段で外国に売った。

 実際に、ムラノ島に強制移住させられた工人たちは、非常な恩典を受けた反面、島外不出のおきてを守らなければ、処罰されることになっていた。重罰(島外逃亡)は、もちろん死罪であった。

 このような、極端な保護育成と門外不出の拘束によって、ヴェネチアン・グラスの声価はだんだんと高まり、14世紀末から15世紀にかけて、東方のガラス産地が次々とチムール軍によって壊滅させられていったとき、ガラス器の唯一の供給源がヴェネチアとなり、独占的に欧州市場に出荷されていったという。

 15,16世紀はヴェネチアのガラス工芸の最盛期とされているが、今回この「ヴェネチアン・グラス美術館」には、それに近い16世紀から現代までのガラス作品が展示されていた。

 入館券にも写真が使用されている、1500年頃の作とされる「点彩花文蓋付ゴブレット」は、展示品の中でも最も古いもののひとつであるが、会場に展示されていた多くのガラス製品はこうしたヴェネチアの伝統技術を受けついでいて、他場所で製造されたものとは一線を画しており、一目してヴェネチア産と判るものがいくつも見られた。

「箱根ガラスの森美術館」の入館券に見られる1500年頃の作とされる「点彩花文蓋付ゴブレット」 

 以下、見学した中からいくつか展示作品を紹介する。

1500年頃、人物行列文壺(2018.11.28 撮影)

16-17世紀、ドラゴン・ステム・ゴブレット(2018.11.28 撮影)

16-17世紀、レース・グラス・コンポート(2018.11.28 撮影)

17世紀、松笠形ランプ(2018.11.28 撮影)

19世紀、オパールセント・グラス・コンポート(2018.11.28 撮影)

19世紀、羊飼い(2018.11.28 撮影)

19世紀、龍装飾水差(2018.11.28 撮影)

19世紀、龍形脚 キャンドルスタンド(左)、コンポート(右)(2018.11.28 撮影)

19世紀、風にそよぐグラス(2018.11.28 撮影)

19-20世紀、ミルフィオリ・グラス花器(2018.11.28 撮影)

20世紀、女性像(2018.11.28 撮影)

 ここで紹介した作品は観賞用の色彩の強いもので、種々のガラス工芸の技法を見ることができる。

 このほか、最盛期のヴェネチアのムラノ島で造られていたガラス器は、実に多様で、食器はもちろんのこと、錬金術用の化学器具から、ランプ、シャンデリア、窓ガラス、モザイク、鏡、室内装飾など、あらゆるものが作られていたという。

 製造技法を見ると、ヴェネチアン・グラスの内容は、大略次のように分けられるとされる(「ガラスの道」由水常雄著 徳間書店1973年発行から)。

1.素文無色ガラス器
2.エナメル彩ガラス器
3.エナメル点彩ガラス器
4.ダイアモンド・ポイント線彫り装飾ガラス器
5.レース・グラス
6.ミルフィオリ・グラス
7.マーブル・グラス
8.アイス・クラック・グラス
9.動物形象装飾ガラス
10.エナメル彩乳白
11.鏡、シャンデリア
12.ビーズ、置物、その他

 この由水氏の著書は、1973年の発行であるが、その時点での状況を氏は次のように記している。

 「これらのうち、ヨーロッパの他の諸国でも、ヴェネチアのエナメル彩の技法は模倣されるようになっていて、ドイツやボヘミアなどの中部ヨーロッパではエナメル彩のガラス器が、盛んに作られるようになっていた。しかし、レース・グラスやミルフィオリ・グラス、マーブル・グラスは、他の窯場ではその技術がわからないで、ヴェネチアの秘法として、後世まで他の模造を許さなかった。とりわけレース・グラスは、今日でもヴェネチアン・グラスの最大の特徴として世に知られ、ほとんど独占的に作られている華麗な最高級ガラス器とされる。」

 この、秘法中の秘法とされた、レース・グラス技術も今日では日本国内でこの技法を得意とする作家が現れるなど、広く知られるようになり、会場には”~「レース・グラス・コンポート」ができるまで~”とした展示も行われていた。レース・グラスについては、以前富山のガラス工房を紹介した時にもその工程を想像しながら図にしたことがあるが(2017.3.24 公開の本ブログ)、実際に使用された器具や作業工程途中の物を見るのは初めてで、とても興味深く見学した。

レース模様のもとになる乳白色のガラス棒を制作する(2018.11.28 撮影)

乳白色のガラス棒を複数本合わせて並べ、引き伸ばしながらねじっていく(2018.11.28 撮影)

ねじり模様のはいったガラス棒を熔着して巻き取る(2018.11.28 撮影)

器の部分と台の部分に分けて、それぞれに息を吹き入れて膨らます(2018.11.28 撮影)

器と台のパーツを合わせる(2018.11.28 撮影)

吹き竿を外した穴を外側に広げてコンポートが完成する(2018.11.28 撮影)

 展示場につながる通路脇には、このレース・グラス技法による人形が展示されていた。

全体がレース・グラスで作られている人形(2018.11.28 撮影)

 館内にあるミュージアムショップには、展示場で見た種々の技法のガラス器が販売されているが、やはりミルフィオリ・グラスとレース・グラスは目を引く。

 入り口脇のショウウインドウには多くのレース・グラスの商品が飾られていた。

ミュージアム・ショップの入り口に展示されているレース・グラス技法による各種商品(2018.11.28 撮影)

 ヴェネチアン・グラス美術館、ミュージアム・ショップを見たところで、丁度昼時になったので、館内のカフェ・レストラン「ラ・カンツォーネ」でランチにしたが、ここではイタリア人歌手によるカンツォーネの生演奏を聴くことができた。横の妻はうっとりと聴きほれているようすであった。

 この後、少し館内を散策し、伊豆スカイライン経由で川奈方面に向かった。以下、館内の写真をみていただく。

カフェ・レストラン「ラ・カンツウォーネ」(2018.11.28 撮影)

ショップ「アチェロ」(2018.11.28 撮影)

体験工房の入り口の紅葉と照明器具(2018.11.28 撮影)

ミュージアム・ショップ入り口に展示されていた作品「ガラスの水族館」(2018.11.28 撮影)

池に展示されているガラス作品「パラッツォ・ドゥカーレ・シャンデリア」(2018.11.28 撮影)



 








 
 


 
 

 

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