軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ギフチョウ探訪歴

2017-03-31 00:00:05 | 
 大阪と奈良の境に万葉集でも歌われている二上山(にじょうざん、万葉集ではふたかみやま)がある。中学生の頃、この山麓にギフチョウがいるという情報を得て、捕虫網を持って一人で出かけたことがあった。半世紀以上前、ずいぶん昔の話である。

 現地に着いたものの、どこにいけばいいものかわからず周辺を歩きまわっていると、私と同じ目的でやってきたらしい様子の年長の男性が斜面の上の方から下りてきて、「君もギフチョウの採集に来たのか、食草まで持っていく者がいてけしからん」というようなことをつぶやいていたのを覚えている。この日は確かギフチョウを1頭採集できて持ち帰ったと思う。

 当時の私はといえば、昆虫採集をしてはいたが、まだ特に蝶だけを追っていたわけではなく、ましてや幼虫を飼い育てるなどということは考えもしなかった頃なので、なにやら不当な見当違いなことを言われたような気がして妙に記憶に残っている。

 このギフチョウに再び出会ったのはずっと後になってからで、新潟県上越市に赴任した頃、日本のスキー発祥の地として知られる金谷山の尾根筋を歩いているときで、ひらひらと舞い降りてきて私の少し先のほうの道端にとまったのであった。

 このとき撮影した写真のプリントには1999年4月とのメモ書きはあるが、日にちまでは判らなかった。その点、最近のデジタルカメラは有難い。後でほとんどの撮影データが確認できる。


上越市・金谷山で見かけたギフチョウ(1999年4月 撮影)

 高校生の頃に蝶の採集をやめようと決心して以来、たまたま蝶の写真を撮ることはあったとしても、蝶への関心はすでに薄れてしまっていたのだが、この久々のギフチョウとの出会いをきっかけになにやら再びむずむずとし始めたように思う。

 その後、2010年に定年になり上越での仕事を辞してからは、時間的・精神的な余裕もできて蝶との接点を積極的に求めて動くようになった。

 そのきっかけになったのは青森県弘前市でのアカシジミの大量発生についてのNHKのTVニュースであった。このニュースを見て2年後の2013年7月、まだこの大発生が継続していることを知り、思い切って妻と、仕事で知り合ったTさんを誘い3人で現地に行くことにした。現地では3Dビデオでの撮影に初めて挑戦し、これがその後3Dで蝶や蛾の生態撮影を始めるきっかけになった。

 この時の異様な体験についてはまた別に改めて紹介しようとに思う。

 その後、かつての職場のOBの集まりで蝶についての講演を聴く機会があり、この時講演をしていただいたMさんと久しぶりに会って蝶の話で盛り上がった。

 このMさんと春になったらギフチョウを見に行きましょうということになり、2014年4月、Mさんの案内で神奈川県津久井方面にギフチョウを見に出かけた。元の職場の同僚のSさんも加わり、妻との4人であった。この津久井湖周辺では、期待通り数頭のギフチョウを見ることができた。


津久井湖方面のギフチョウ(2014.4.5 撮影)

 ただ、やや物足りないとの思いもあって、この年は、このあとすぐに確実にギフチョウを見ることができるという、新潟県長岡市ににある国営越後丘陵公園に同じメンバーで再度出かけた。

 ここでは、園内のカタクリの花が満開で、この花に吸蜜のため次々と飛んでくるギフチョウをたくさん見ることができた。また、公園周辺の丘陵地帯のポイントにもMさんに案内していただき、ここでは桜の花に吸蜜に訪れたギフチョウを見ることができた。山道脇では、まだ羽化したばかりと思われる♀も見つかった。


園内で満開のカタクリ(2014.4.12 撮影)




国営越後丘陵公園のギフチョウ(2014.4.12 撮影)


長岡市郊外の丘陵地の羽化直後のギフチョウ♀(2014.4.12 撮影)

 この時の経験が忘れられず、翌年2015年4月にもまた越後丘陵公園のギフチョウ観察会を実施した。この時は参加者が増えて関東からは前年同様のMさんSさんのほかNさん、Iさんの2名を加え計4名、現地長岡からは友人Oさんも加わり、私どもと合わせて総勢7名になった。

 この時も、はじめは越後丘陵公園に向かったが、現地についてみるとまだ発生には少し早いようだとの判断で、現地参加のOさんの友人が園長を務める雪国植物園に観察場所を移した。

 この判断がよく、雪国植物園では園長直々の案内の下、満開のカタクリに集まる多数のギフチョウを見ることができた。


雪国植物園のギフチョウ(2015.4.12 撮影)

 昨年2016年4月は前年参加者の多くの都合がつかず、私ども夫婦とSさんの3人になったが、またまた長岡行きを決行した。私たちは前年同様長岡駅前に前泊し、翌朝新幹線でやってきたSさんを改札口で出迎え、私の車で現地に出かけた。

 この時はSさんの判断で、先ず越後丘陵公園に向かった。2年前にカタクリの花が多数咲き誇っていた場所はこの年はツキノワグマの目撃情報があるとのことで立ち入りが規制されていて、やむなく駐車場から離れた奥のほうのエリアにポイントを移した。幸い、この場所はカタクリの開花状況もちょうどよく、たくさんのギフチョウを見、撮影することができた。






国営越後丘陵公園のギフチョウ(2016.4.12 撮影)

 こうして、幸いにもこの3年間は毎年のように観察会を実施し、ギフチョウを見ることができた。

 ギフチョウが「リュードルフィア・ライン(またはルードルフィア・ライン;ギフチョウ線)」と呼ばれるフォッサマグナから新潟、山形に伸びるラインを境としてヒメギフチョウとほぼ棲み分けていることはよく知られている。

 岐阜市にあるギフチョウのメッカとも言うべき名和昆虫博物館を訪問したときにその説明があったので下の写真で紹介する。

 やや見づらいが、赤く示されているのがギフチョウの生息域で、四国・九州を除く西日本に広がる。一方、ヒメギフチョウは緑で示されているところが生息域で東・北日本に点在している。

 尚、ギフチョウは日本の特産種であるが、ヒメギフチョウの生息域はユーラシアにも広がっている。


名和昆虫博物館のルードルフィアラインの説明展示、赤:ギフチョウ、緑:ヒメギフチョウの生息域を示す
(2015.9.23 撮影)

 当地、軽井沢はどうかというと、地域的にはリュードルフィア・ラインの東に位置し、ヒメギフチョウが見られる地域ということになるのだが、残念なことに目撃例は皆無という状態である。

 愛読の写真集「軽井沢の蝶」(栗岩竜雄著、2015年 ほおずき書籍発行)にもヒメギフチョウの名前は見当たらない。

 「信州 浅間山麓と東信の蝶」(鳩山邦夫・小河原辰雄著 2014年 信州昆虫資料館発行)でも、エリアを隣接地区の佐久市、小諸市、上田市に拡大すると、多数の目撃情報が記載されているのであるが、やはり軽井沢での記録はない。

 軽井沢町内の別荘地には、ヒメギフチョウの食草であるウスバサイシンの自生が見られることから、過去には幼虫を放し定着を試みた報告もあるが不成功に終わっているようである。軽井沢の寒さが蛹の越冬を阻んでいるのであろうか、それとも東北地方や北海道で棲息していることを考えると何か他に原因があるのだろうか。

 2014年春、越後丘陵公園に出かけた後、上田市青木村にある「信州昆虫資料館」に行ってみたのだが、あいにく閉館であった。しかし、帰り道に植えられていた芝桜にふと目をやると、2頭のヒメギフチョウの姿があった。

 外気温が16度と低く、自由に飛び回ることができないようで、芝桜の上や、風で折れ落下したと思われる桜の枝の上を長い間この2頭は這いまわっていた。おかげで、間近でじっくりと写真撮影をすることができた。








信州昆虫資料館周辺のヒメギフチョウ(2014.4.28 撮影)

 さて、今年もいよいよギフチョウの季節になったのだが、残念なことに今年はこの時期に別な予定が重なり、いつもの観察会のメンバーにはお断りの連絡をとり大阪に出かけることになった。

 二上山のギフチョウはもう絶滅してしまっているのではと思うが、隣の葛城山にはカタクリの群生地があり、ギフチョウの姿も多く見ることができるとの情報がある。

 もともとギフチョウの多産地は近畿地方ということもあるが、関係者の努力で産地が保たれているのかと思う。

 今回は昔懐かしい場所、二上山の近くで見ることができるかもしれない。













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ガラス工房とレースガラス

2017-03-24 00:00:00 | ガラス
 かつての仕事仲間であり、大学研究室の後輩でもあるKさんの紹介で、富山市にある3つのガラス工芸関連施設を訪問する機会を得た。その3か所は、富山市ガラス美術館、富山ガラス造形研究所と富山ガラス工房である。

 10年位前この富山市に旅行したことがあり、市がガラス工芸に力を入れていることを感じていた。富山駅周辺の地下道のショウ・ウインドウなどには美しいガラス工芸作品がたくさん展示されていて、力の入れ方が伝わってくるものであったからだ。

 今回訪問時にも、夜、街に出てみると街角のあちらこちらに次のような展示を見かけることができた。


夜間照明で美しくライトアップされた街角のガラス工芸作品(2016.12.20 撮影)


展示作品の下部にはガラスの街富山をアピールする表示がある(2016.12.20 撮影)

 10年ほど前のこの印象はしばらくは封印されていたのだが、3年前に軽井沢に移住を考え、住まいを新しく建てようということになった時、妻と相談をしてそのテーマに、ガラス、蝶、スミレ、野鳥を選び、これらに沿って家の中のあれこれを選ぶ作業を始めた。

 情報収集の一環として、横浜山手、神戸北野地区、弘前、函館などに残されている明治から昭和初期に建てられた洋館を見て回るうちに、ステンドグラスや、照明器具に使用されているガラスシェードの持つ時代を感じさせる美しさに関心を持つようになった。

 また、ガラス食器の専門店やアンティークショップで繊細なカットやエッチングが施されたワイングラス、先に訪れた洋館で見た実用的なガラスシェードに比べるとより装飾的な要素が取り入れられたガラスシェードなどを見て、こうしたガラス工芸技術にも関心が湧いてきていた。

 今回富山市近くに所用ができたこともあり、富山市がガラス工芸に力を入れていることを思い出して関連施設への訪問となった。

 富山市には一泊の予定で出かけたが、初日に美術館を訪ねた。この美術館は富山駅から徒歩20分くらいの場所にあるが、我々は市内電車環状線を利用して、美術館近くにとった宿にまずチェックインしてから現地に向かった。美術館は「TOYAMAキラリ」という富山市立図書館などが入居する複合施設内にあり、2015年(平成27年)8月に開館したばかりである。

 建物は世界的な建築家、隈研吾氏の設計によるもので、御影石、ガラス、アルミの異なる素材を組み合わせたユニークな外観と、富山県産の羽板を多用した開放的な内部空間を持つものであった。


富山市ガラス美術館がある「TOYAMAキラリ」の内部(2016.12.20 撮影)

 3階の作品展示室からスタートし、ここには中学生の団体が見学に訪れていたのだが、これら多くの学生に混じって、様々な技法を駆使して作られた作品、ガラスにおける光の透過・屈折・反射などの性質や色を巧みに利用して見せる作品などを見学した。

 また、ここには翌日訪問予定の「富山ガラス造形研究所」の学生さんたちの個性あふれる卒業制作作品も展示されていた。

 見学後、2階のミュージアムショップでは不思議なレース文様を内部に閉じ込めた「レース・ガラス」の技法を用いて作られた箸置きを見つけてお土産に購入した。


不思議なレース文様が内部にある「レース・ガラス」でできた箸置き

 翌日は午後に所用があるため、午前中の時間帯を利用して、富山市の中心部から少し離れた場所に互いに隣接して位置する「富山ガラス造形研究所」と「富山ガラス工房」を訪問した。


富山ガラス造形研究所の玄関(2016.12.21 撮影)


富山ガラス造形研究所の建物(2016.12.21 撮影)


富山ガラス工房・第2工房(2016.12.21 撮影)

 すでに冬休み期間に入っているのではと危惧していたが、富山ガラス造形研究所の作業所では電気炉が稼動していて、指導教官や学生さん達が吹きガラスの作業や研磨、カットなどの作業をしているところを見学した。海外からきている指導教官の姿も見られ、海外との交流も盛んに行われていることが感じられた。

 第2工房は広く一般に開放されていて、吹きガラス、ペーパーウエイト、サンドブラスト、ミルフィオリなどを体験できる。当日は近隣の小学生がひとクラスほど実習に来ていて、指導員の指示に従って一生懸命吹きガラスなどの作業をしたり、電気炉を使って熱心にペーパーウエイトの加工に挑戦している姿が見られほほえましかった。

 その後、ガラス工房の本館に案内していただいたが、ここには作業場を窓ガラス越しに見学できるコーナーがあり、この窓の上部に昨日おみやげに買った「レース・ガラス」の制作工程が図示されていた。

 あの不思議な構造をした工芸ガラスの内部構造を作りだす過程が、この説明でようやく理解できた。

 帰宅後いくつかの本にあたり、「レース・ガラス」の歴史を読んでみたが、この技法は16世紀後半にヴェネツィアのムラーノ島の工房で発明されたもので、ヴェネツィアのガラス職人の秘法中の秘法であったらしい。

 当時のヨーロッパ上流階級で大人気になり、なんとかこの技法を入手したいとの各地の人たちの思惑もあり、工房の職人の引き抜きや、技術を盗み取ろうとするスパイの動きもあったようだ。

 先端技術分野では今も昔も変わらぬことが行われていたようである。

 尚、レース・ガラスはその文様の違いに応じて、平行細線文様(ア・フィーリ)、平行細線をネット状に組み込んだ網目文様(ア・レティチェロ)、種々に捩れた細線の束を組み込んだ捩れ文様(ア・レトルトーリ)の3種類に分けられ、一括して「フィリグラーナ」あるいは「ラッティチーニオ」と呼ばれるとのこと。

 その「ア・レトルトーリ」の技法を用いたムラーノ工房製のレース文様皿を妻がネット・オークションで見つけて、手に入れてくれた。直径20cmくらいの皿である。さすがに制作年代は16世紀とはゆかず、1900年中頃のものである。


ムラーノ島製のヴィンテージ・レース・ガラス皿(2017.2.22 撮影)


3種類のレース文様が組み合わされていることがわかる(2017.2.22 撮影)


レース・ガラス皿の中心部分(2017.2.22 撮影)

 今回工房を訪問して理解したところによると、「レース・ガラス」の制作は大きく次の3工程に分かれる。

1.着色ガラス(上掲の皿では乳白色)を芯にし、そのまわりに透明ガラスを被せ、これを延伸したロッド(棒状)の素材を作る工程。

2.このロッドを別の透明ガラス棒の周りに複数配置してなじませた後、これをねじりながら延伸してレース文様の素になるレース棒を作る工程。

3.複数種のレース文様のレース棒を組み合わせて(上掲の皿では3種)板状に並べ、互いに融合してから吹きガラス棒に取り付けて、皿、グラス、コンポートなどの形状に成型する工程。

である。

 説明を読むとなるほどとなるが、制作された作品の外観からこれを推察するのは容易ではなく、16-17世紀のガラス加工職人がこの技法をめぐり繰り広げた騒動が想像されてなかなか楽しい。

 写真のレース・ガラス皿に用いられている3種類のレース文様を上記工程に当てはめると、およそ次図のように作られていることになる。厳密なものではもちろん無いのだが、基本的な設計概念である。


レース・ガラス棒製作の基本概念図


レース・ガラス皿に用いられているパターン1のレース・ガラス棒制作の概念図


レース・ガラス皿に用いられているパターン2のレース・ガラス棒制作の概念図


レース・ガラス皿に用いられているパターン3のレース・ガラス棒制作の概念図

 今回の富山のガラス工芸作品と制作技術、制作工程を巡る旅でガラス工芸の世界を垣間見ることができたが、帰宅後調べるにつれこの世界がとても古い歴史を持ち、幅広く、ガラスならではの素晴らしい工芸の世界を持っていることが判り大いに勉強するきっかけになった。








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庭にきた蝶(6) カラスシジミ

2017-03-17 00:00:00 | 
 今回紹介するのはカラスシジミ。前翅長は17mmほどの小型の蝶である。昨年の夏、夕方少し暗くなりかけた頃、庭のブッドレアに吸蜜に訪れているのに気がついた。

 終始、翅を閉じて花に止まっていたこともあり、見る角度の関係で最初はセセリチョウの仲間が来ているのかと思ったが、よく見るとどうも翅裏の紋様がゼフィルスのようでもある。しばらく撮影を続けたが、翅表を見せてくれず、種類がわからないので、捕獲することにして網を取りに一旦家に戻ることにした。

 戻ってきてもまだそのままの状態で蜜を吸い続けていたので、簡単に捕えることができた。小さなプラスチック容器にブッドレアの切り花と共に入れて、明日になったら詳しく見ようと思いそのままにしておいたのだが、これがまずかったようで翌朝見ると死んでしまっていた。

 何ともかわいそうな事をしてしまったのだが仕方がなく、妻に頼んで展翅をしてもらい、翅表を確認した結果カラスシジミであると判明した。私には初めて見る蝶であったし、義父のコレクションにも無かったので、標本箱に新たな仲間が加わることになった。

 このカラスシジミについては、故鳩山邦夫さんが次のように書き残されているので、この辺りではそれほど珍しくない種なのかと思う。

 「・・・このほか別荘地内に住んでいたと思われるやや骨っぽいチョウは、ウラキンシジミ、ダイセンシジミ、カラスシジミ、それにミスジチョウで、すべて少年時代、ときたま庭で採集できた。・・・」(「チョウを飼う日々」 鳩山邦夫著 1996年4月15日 講談社発行)


ブッドレアの花で吸蜜するカラスシジミ1/8(2016.7.17 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するカラスシジミ2/8(2016.7.17 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するカラスシジミ3/8(2016.7.17 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するカラスシジミ4/8(2016.7.17 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するカラスシジミ5/8(2016.7.17 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するカラスシジミ6/8(2016.7.17 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するカラスシジミ7/8(2016.7.17 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するカラスシジミ8/8(2016.7.17 撮影)

 展翅して標本箱に収まったカラスシジミの写真は次のとおりで、よく似た種にミヤマカラスシジミ、ベニモンカラスシジミ、リンゴシジミがいるが、翅表の色彩が黒褐色、翅裏の色彩が茶褐色であること、後翅・裏の白線の色と位置、形状がM字状であること、亜外縁の黒点列が弦月形をしていることなどから種の同定は容易にできた。また、雌雄の判別については、尾状突起がとても短いという特徴から♂と判定した。♂には前翅・表の中室端に灰色の性標があるとされているが、今回の個体は傷みがあることもあって、確認できなかった。


展翅したカラスシジミ♂(翅表;2017.2.22 撮影)


展翅したカラスシジミ♂(翅裏;2017.2.22 撮影)

 軽井沢周辺でのカラスシジミの目撃情報は「信州 浅間山麓と東信の蝶」(鳩山邦夫・小川原辰雄 著 2014年4月30日 信州昆虫資料館 初版第一刷発行)によると6月26日から8月16日月となっている。また、写真集「軽井沢の蝶」( 栗岩竜雄著 2015年8月8日 ほおずき書籍 第1刷発行)では初見 7月4日、終見 8月15日とある。我が家のブッドレアに訪れた7月17日はその最盛期ということになろうか。展翅したカラスシジミの翅の様子から見ると、発生後かなりの時間が経っているようで、傷み方もずいぶん激しい。

 カラスシジミの幼虫の食樹はハルニレ、コブニレなどのニレ科の樹で年1回の発生、卵で越冬するとされている。ハルニレはこの辺りには比較的多く、中軽井沢にできた「ハルニレテラス」と名付けられているレストラン街・ショッピング街にはいつも多くの観光客が集まる。

 ただ、そのハルニレテラス近くには「野鳥の森」というバードウォッチングで有名な場所があり、ムササビを見ることもできる。この周辺は野鳥の多いことでも有名な場所であることを考えると、蝶の幼虫にとってはとても危険で生き延びるのが難しい環境ということにもなる。

 さて、今回このカラスシジミ、ブッドレアで吸蜜中はずっと翅をとじており、翅裏の様子からゼフィルスの仲間かとも思ったのであったが、実は日本に25種いるとされている、ゼフィルスの仲間には入っていない。

 翅裏の比較のためにゼフィルスの代表格であるミドリシジミの標本を、我が家にある義父のコレクションから選び撮影した。


ミドリシジミ(左:♂1973.7.29 田沢湖産、右:♀1975.8.24 赤城産 2017.2.22 撮影)


カラスシジミ(上)とミドリシジミ(下:♀1975.8.22 赤城産)の翅裏の比較(2017.2.22 撮影)

 カラスシジミの翅裏の紋様などはやはりミドリシジミに似ている。ゼフィルスの仲間の多くは「・・・ミドリシジミ」と命名されていて、♂の翅表は緑から青に輝く構造色(2017.2.3 付当ブログ参照)が美しいという特徴があるのだが、中には名前に「ミドリ」の入らない種も多くいるし、♂の翅表の色も構造色がなく、「アカシジミ」のように色が橙色のものから「クロミドリシジミ」のように黒褐色のものまでいる。

 では、ゼフィルスの特徴は何だろうかと思い調べて見ると、樹上性であり枝先などで縄張りを張る性質があって、同種のチョウの♂が進入してくると追いかけて縄張りから排除する習性を持っていること、食樹がブナ科であり、卵越冬し年1回発生することなどが挙げられているが、例外もありこれだけでは定義されない。

 もともとゼフィルスという名は分類がまだ現在のようにきちんと行われていない時代につけられたものと言われていて、あいまいな部分もあるようだ。最近の厳密な定義となると、翅脈の状態から行われているとのことだが、余りに専門的になるようなのでここでは割愛する。いずれにしても、よく似てはいるものの厳密な分類でカラスシジミはゼフィルスには入らないということである。

 カラスシジミの翅色は黒褐色であるが、同じ「カラス」が名前についた「カラスアゲハ」や「ミヤマカラスアゲハ」がとても美しい構造色を持っていることからすれば、カラスという名の由来は「カラスの濡れ羽色ではなく、黒い色からの連想」ということになるようだ。

 今後は見間違えることも無いだろうから、ゆっくりと心ゆくまでブッドレアで吸蜜してもらいたいと思っている。今年も元気な姿を見せてもらいたいものである。



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ラスコー展

2017-03-10 00:00:00 | 日記
 東京上野の国立科学博物館で2016年11月1日から2017年2月19日まで世界遺産ラスコー展が行われていた。この展示は、ラスコー洞窟に描かれた、芸術の始まりとされる壁画を紹介するものであるが、会期の終了が迫ってきた2月10日に上京の機会があり、妻と見学に出かけた。

 展示は東京展の終了後も、宮城展が東北歴史博物館(3-5月)で、福岡展が九州国立博物館(7-9月)で引き続き開催される予定となっているという。

 このラスコー展で感心したことは極めて精巧かつ忠実に現地の様子を再現していることである。全長200mで、3つの細長く複雑に入り組んだ洞窟を1/10スケールで再現したものや、洞窟壁画の一部を実物大、1mm以下の精度で再現したものなど、臨場感あふれる展示内容であった。

 また、壁画を描くのに用いられた赤、黄、茶色の顔料や岩肌に線刻するための石器、真っ暗な洞窟内で作業をするための石製ランプなどの遺物や、現地で撮影された数多くの写真などのさまざまな展示品も、実際の洞窟をより身近に感じさせてくれるものであった。

 ラスコー洞窟壁画は、フランス南西部、大西洋に向かって流れるドルドーニュ川の支流ヴェーゼル川の左岸にあるモンティニャックという村の南に位置する石灰岩の洞窟の中で、1940年9月8日に地元の少年により偶然に発見された。

 この石灰岩洞窟そのものは1000万年前に形成されたが、その後はその上に泥炭層が形成されたおかげで雨水が浸透しにくくなり、鍾乳石や石筍が発達せず安定したものとなった。

 さらに、内部には方解石の白い壁があったために、絵を描くのに理想的な空間であったとされている。

 このラスコー洞窟に残されている600から850頭と数えられているウマ、シカ、バイソン、ネコ科動物など種々の動物の壁画を描いたのは、4万8000年ほど前からこの地方に棲んでいたクロマニョン人であり、これらの壁画が描かれたのは2万年ほど前とされている。

 壁画発見後、多くの見物人がこの素晴らしい壁画を見ようと押しかけたため、緑、白、黒などのシミが発生し、壁画が破壊される危険が迫ったことから、1963年4月17日以降洞窟は閉鎖され、現在まで一般には非公開になっている。

 壁画を見たいという見学者の希望に応えて、1983年にラスコー洞窟のそばに最初の再現壁画が作られ、さらにその後今回の展示品である2番目の再現壁画が、何人ものアーティストの参加と3次元レーザースキャンなどの先端技術の駆使によって製作された。


ラスコー洞窟壁画展の実物大の再現壁画1/4(2017.2.10 撮影)


ラスコー洞窟壁画展の実物大の再現壁画2/4(2017.2.10 撮影)


ラスコー洞窟壁画展の実物大の再現壁画3/4(2017.2.10 撮影)


ラスコー洞窟壁画展の実物大の再現壁画4/4(2017.2.10 撮影)

 スペイン北部からフランス南西部および南部にかけてのヨーロッパのこの地方では、ラスコー洞窟のほかにもこれまでに1879年にスペイン北部のアルタミラ洞窟、1994年12月18日にフランス南部のショーヴェ洞窟で壁画が発見されているが、いずれも現在は非公開になっているとされる。また、これら有名な洞窟のほか周辺の300ほどもある多くの洞窟壁画が世界遺産登録されている。

 今回の国立科学博物館での壁画展示には、私たちが訪れた日が平日であったにもかかわらず多くの見学者がつめかけていて、熱心に見入っていたのだが、我々がこうした先人の残した壁画にこれほどの興味を持つのは何故だろうか。

 壁画は、描き手が真っ暗な洞窟の奥深くにまでわざわざ入り込んで、特別に用意した照明具を用いて描かれていることが判っている。クロマニョン人が何故、どのような目的でそこまでして壁画を描いたのか、描かなければならなかったのか、今回の展示ではその回答案を複数示している。

 「芸術のための芸術」説、トーテミズム、呪術説、シャーマニズム、そして男女両性神話説などの説がそれであるが、未だ確定したものには至っていないようだ。分かっていることは、ただやみくもに描かれたものではなく、壁画制作には計画的に多くの人が介在し、相当の労力が必要であり、個人的な目的よりも公共の目的のために制作されたものであるとされている。

「芸術のための芸術」活動ができたということは、当時の人は狩猟をしていない時に時間を持て余していたという前提がある。

「トーテミズム」説は人が動植物や自然現象と同一の祖先を持つと信じ崇拝するもので、信仰心による。

「呪術」説は狩猟の成功を願うという説と、動物の増殖を願うという説とがある。

「シャーマニズム」説は動物に扮した人物、すなわちシャーマンが自ら壁画を描いたとする説。

「男女両性神話説」はこれまでの民族史の事例に動機を求めるのではなく、壁画画像すべてを男性と女性という2つの象徴に分け、それらが洞窟の地勢に従って意図的に配置されているという説である。

 20-10万年前にアフリカに誕生した現人類の祖先はその地を離れて、5万年ほど前に急速に世界に拡散した。そのうちトルコ経由で陸路ヨーロッパに渡ったのがクロマニョン人で、その後西アジアから移入した集団との混血により、現在のヨーロッパ人が形成されたと考えられている。

 展示会場にはクロマニョン人の等身大復元像が用意されていて、見学者が一緒に記念撮影をすることができるように配慮されていた。この復元像を見ると身体的な特徴は、現代のヨーロッパ人そのものである。


クロマニョン人の等身大復元像(2017.2.10 撮影)

 一方、アフリカを離れてアジアに渡った祖先は3万8000年ほど前に北、西、南の3方から日本に到達し、その後縄文時代へとつながってきたとされている。

 当時北からは陸続きで日本に到達できたが、西の朝鮮半島と南の南西諸島からのルートは海路であり航海をしなければ日本に到達することはできない。人々は航海技術と共に海をわたる勇気をも持っていたことになる。

 日本などアジアにはヨーロッパに見られるような壁画はまだ見つかっていない。同じルーツを持つ人類としてこの差をどのように説明すればいいのだろうかとの疑問にも今回の展示は応えようとしている。

 そのため、今回のラスコー展では、特別に「クロマニョン人の時代の日本列島」のコーナーを設けて、日本に渡った人類にも創造性があったことを示そうとしている。

 その中には4つの「世界最古(級)」が示されている。1.世界最古級の磨製石器(長野県野尻湖など)、2.世界最古の海上運搬(往復航海、本州から伊豆七島神津島沖の恩馳島)、3.世界最古の釣り針(沖縄島サキタリ洞)、4.世界最古のおとし穴(箱根・愛鷹山、種子島)である。

 また日本列島に渡るために必要とされる難易度の高い航海も挙げられている。


世界最古の往復航海の説明展示(2017.2.10 撮影)


世界最古の釣り針の説明展示(2017.2.10 撮影)

 この中で、世界最古の往復航海とされているのは、本州から神津島に渡り、黒曜石を採集していたことが確認されているというものである。

 本ブログの「黒曜石」(2017.1.13 付)でも触れたが、遺跡から発掘された黒曜石は、現代の機器分析技術によりその産地を特定することができる。

 関東地方から長野県にかけての複数の旧石器時代の遺跡から発見された石器を分析した結果、使用された黒曜石が神津島産であることが確認されていて、当時の旧石器人がわざわざ良好な石材を求めて、神津島に出かけて黒曜石を採取し、本州に持ち帰っていたことが証明されている。

 このように、今回の展示では日本列島に住んでいた先人もまたクロマニョン人に負けず劣らず、創造性豊かな人たちであったことを熱心に示そうとしており、見学した私の微笑を誘うものになっていた。
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セツブンソウ

2017-03-03 00:00:10 | 山野草
 セツブンソウという名前はもっと前から知っていたのかもしれないが、初めてこの花が自生しているところを見たのは広島県三次市に赴任していた20年ほど前のことであった。

 同僚のOさんの実家裏山にこの花の自生地があると聞いて、早春のある日案内していただいたことがあった。Oさんのお父さんが大切に保護されているということで、訪問当日には小さく可憐な花の姿を見ることができ、写真撮影をして帰ったことが思い出される。

 今回、セツブンソウのことを書いてみようと思い、改めてネット検索をして驚いたのは、広島県庄原市の観光情報にあのOさん宅裏庭をはじめとして合計7か所の自生地が紹介されていて、開花情報も出ていたことだ。

 私がお伺いした当時とは様変わりし、セツブンソウの株数も大幅に増えたようで、すっかり市の観光資源に変わっていた。

 さて、思い出話が少し長くなってしまったが、埼玉県秩父郡小鹿野町にこのセツブンソウの日本有数の自生地、「節分草園」があると知って懐かしくなり妻と出かけてきた。軽井沢からは片道約2時間のドライブである。

 目的地の少し前からのぼり旗が出ていて、迷うことなく現地にたどり着くことができた。園は道路に接した北斜面にあり、道路反対側の駐車場に車を止めて受付に向かった。


駐車場からみた「節分草園」(2017.2.28 撮影)

 駐車場から見ると斜面に白い点々が見えて、セツブンソウだとは判るものの、まだ開花には少し早すぎたのではと軽い後悔の気持ちを持ちつつ入園料を払って園内に入った。


右の小屋が「節分草園」の受付け入り口(2017.2.28 撮影)

 しかし、確かにやや早い感じはあるもののセツブンソウの花はしっかりと咲いていた。花は大きいものでも2cm程度と小ぶりで、遠くからは白い点にしか見えなかったのだ。

 すでに10名程度のカメラマン/ウーマンが来ていて、思い思いに写真撮影を始めていた。大半が私と同年代の方々で、女性の姿も多い。


熱心に撮影をしている人たち(2017.2.28 撮影)

 園の入り口に近いところではたくさんのセツブンソウの花が咲いていた。園はここから斜面の上部と奥の方に広がっていて、広さは5000mとされているが、その辺りではまだ花茎や葉がほとんど立ち上がっておらず、花も見られない。同じ園内でも僅かな温度・日照の差が有るのだろう。


斜面に広がるセツブンソウの群落(2017.2.28 撮影)


砂礫で覆われた地面に群生するセツブンソウ(2017.2.28 撮影)

 セツブンソウの花は小さく、写真撮影をしようとするとどうしても接写することになる。ここは北斜面になっていて、花は南向き太陽の方に向かって咲いているものが大半なので写真撮影をしようとするとローアングルになる。私も地面に膝をついて撮影を続けたが、中には遊歩道に寝転んで撮影する人も見られた。


セツブンソウの花1/5(2017.2.28 撮影)


セツブンソウの花2/5(2017.2.28 撮影)


セツブンソウの花3/5(2017.2.28 撮影)


セツブンソウの花4/5(2017.2.28 撮影)


セツブンソウの花5/5(2017.2.28 撮影)

 セツブンソウはすでに書いた通り和名を「節分草」と書き、代表的な早春植物であるとされる。実際には節分のころは、野外では早すぎるようで、2月の下旬に咲き始める。

 直径が1.5cmほどの球状の塊根を持つ多年草で、キンポウゲ科の植物である。写真で目立つ白い部分はがく片で通常5枚あり、小さくY字状をした黄色い部分が花弁であり、柄の先端部分から蜜を分泌する。その内側にある薄紫の部分は雄しべである。

 このがくは葉が花の位置に移動したとされるもので、蕾を保護しており一般には緑色をしている。しかしキンポウゲ科の仲間では、がくは白、黄、紫などに着色しているものが多いとされる。それもあって、キンポウゲ科の植物には花が美しい種が多いようである。なじみのある所では、同じくこの季節に咲くフクジュソウがある。ほかにも、イチリンソウ、オキナグサ、トリカブト、ヤマオダマキ、ユキワリソウ、リュウキンカなどがそうである。

 撮影をしていると、通常は5弁とされる白いがく片が6枚のものや7枚のものがあることに気が付く。がく片の形状も先が細くなっている標準的なもののほか丸味を持つものも見られる。


標準的な5弁で先が尖がり縦にすじの入ったがく片形状のセツブンソウ(2017.2.28 撮影)


6弁のがく片を持つセツブンソウ(2017.2.28 撮影)


7弁のがく片を持つセツブンソウ(2017.2.28 撮影)

 セツブンソウは本州の関東地方以西に分布する日本の特産種で、石灰岩地域に多く見られるという傾向があるとされている。

 そういえば、今回訪問した埼玉県の秩父地方も広島県の庄原市も石灰岩地帯であり。周辺には鍾乳洞が点在する地域である。

 セツブンソウの自生している場所は斜面になっていて、石灰岩の砂礫が多数みられるという点も両者で共通しているようである。

 節分草園の受付には鉢植えが売られていたので、よほど一鉢買って帰り、自宅の庭に植えてみようかと思ったのだが、火山性の浅間石を主体にした我が家のミニ・ロックガーデンとの地質の違いを考えて思いとどまった。

 会いたくなればまたここに見に来ることにしよう。

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