軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ケリ

2018-04-27 00:00:00 | 野鳥
 夜の闇を切り裂いて、というとやや大げさではあるが、そんな風に感じるくらい鋭い何かの鳴き声のようなものが毎夜のように聞こえていた。去年、大阪の実家でのことである。

 数日後の昼間にも同じ声が聞こえてきたので2階の窓から外を見ると、50mほど先、休耕田の中に鳥の姿が見えた。ハトよりもやや大きめ、やや細めの鳥であった。

 すぐに、タゲリという名前が浮かんだが、ここには鳥類図鑑もなく確かめることができないので、軽井沢にいる妻にその鳥の特徴を伝えて調べてもらうことにした。

 しばらくして、その鳥は「ケリ」ではないかとの返事が返ってきた。YouTubeでは、鳴き声が聞けるのだという。私もその姿と鳴き声を確認したが、間違いない。あの、けたたましい鳴き声の主は「ケリ」という名の鳥であった。

 普段使いにしているコンデジを超望遠にして撮影すると、親子だろうか、3羽のケリの姿が確認できた。


休耕田に姿を見せる「ケリ」(2017.2.17 撮影)

 このケリだが、写真で確認すると、気は強そうなもののなかなか美しい鳥である。それに、この写真からは見えないが、飛び立つときには、羽裏の黒と白のコントラストがとてもよく目立つ。

 実家周辺はちょうど住宅地が田畑に切り替わる境界にあたる場所であり、近くには水田も見られるが、すぐ前の土地は2年前ほど前から休耕地となり、雑草が生えている。ケリはここで餌を捜しているようであった。

 鳥類図鑑でケリについて調べてみると、次のような記述がある。

 「留鳥として本州各地にすむが、繁殖地は局地的。東海~近畿地方に比較的多く、積雪地のものは冬は暖地に移動する。水田や川原、畑や草原などの開けた場所に小群で生息。冬や渡り期には湖沼や干潟にも現れる。採食、営巣とも地上で行い、昆虫や両生類などを食べる。警戒心が強く、人やイヌ、猛禽類などの侵入者に対しては、上空を旋回して急降下の集団攻撃をしかける。鳴き声が和名の由来」

 そして、鳴き声の欄には「ケッ、キリッ、キリリリ(警戒時)」とある。

 まさに、この図鑑の示すとおりの状況である。住宅地の近くにこうした鳥が生息していたことは、意外ではあったが、同時に嬉しくもあった。

 それからもしばらくは、このケリの鳴き声が聞こえていたように思うが、次第に聞かれなくなり忘れてしまっていた。ただ、この鳥のことは少し気になっていた。

 そして、今年3月に実家に来たときに、また、夜になるとあのけたたましい声が聞こえてきた。毎年決まってこのあたりにやってきているようであった。

 翌日の昼間、昨年見かけたあたりを捜してみると、今度は2羽のケリの姿が見えた。いくつかある田や畑地の間を行き来しているようであった。

 ケリが飛び立つときの、コントラストの美しい羽の写真が取りたくて、今年はしばらくの間、2階の窓から撮影を試みた。

 近くを人が通っても特に警戒する様子もなく、畑地で餌を捜している様子であったが、そのケリが激しく鳴いたのは、カラスが近づいてきたときであった。

 夜に鳴く理由はまだわからないが、猫が近くに来たときかもしれない。野良犬はこの辺りにはまったく見られない。


休耕田に来たケリ・1/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・2/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・3/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・4/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・5/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・6/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・7/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・8/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・9/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・10/11(2018.3.22 撮影)


休耕田に来たケリ・11/11(2018.3.22 撮影)

 しばらく撮影していると、次第に次の動作が読めるようになる。ようやく羽ばたいている姿を捉えることができた。


飛び立つケリ・1/2(2018.3.22 撮影)



飛び立つケリ・2/2(2018.3.22 撮影)

 ケリはいろんなしぐさも見せてくれた。


餌を咥えるケリ(2018.3.22 撮影)


左羽の手入れをするケリ(2018.3.23 撮影)


右羽の手入れをするケリ(2018.3.22 撮影)


胸の手入れの時にはツルのように首が長く見える(2018.3.22 撮影)


右羽を半開きにするけり(2018.3.22 撮影)


気がゆるんだのか、だらりと羽を下げているケリ(2018.3.22 撮影)

 一羽のケリをカメラで追いながら、しばらく撮影していると、もう1羽のケリの方に近づいていったが、そのケリは抱卵のためか、すぐそばの畑地にうずくまった。どうもこの場所で営巣しているらしいことがわかった。


ケリが歩いていった先にはもう一羽が(2018.3.22 撮影)


一羽が畑地にうずくまった(2018.3.22 撮影)


畑地でじっとうずくまるケリ(2018.3.22 撮影)

 翌日、同じ場所を見ると、やはり1羽のケリがうずくまっており、もう1羽は少し離れたところで見張りをしているように見えた。


畑地でうずくまるケリ(2018.3.23 撮影)


営巣場所の近くで見張りをするケリ(2018.3.23 撮影)


ムクドリのことは全く警戒していない(2018.3.23 撮影)

 その次の日は、軽井沢に帰る予定日であったので、その後の様子を見届けることができないまま、次回来るときには雛が孵っているのだろうかなどと期待しながら帰宅した。

 そして、今回半月ぶりに実家にやってきて、ケリが営巣していた場所を見て驚いた。考えてみれば当然のことだが、ケリが営巣していた場所は今年も稲作の準備のためにすべて掘り返されていた。ケリの姿はどこにも見られず、すでに巣立ちが終わったのかどうかも判らない。


水田準備のために掘り返された田(2018.4.15 撮影)

 ウィキペディアの「ケリ」の項を見ると、この営巣に関して次のように書かれている。

 「巣は水田内や畦などの地面に藁を敷き作る。よって農作業による影響が著しく大きい。繁殖期中は時にテリトリーを変えるなどして最大3回営巣を試みる。」

 ケリにとって、営巣場所が農作業の影響を受けることは、折り込み済みのことのようである。たくましく、別の場所で引き続いて繁殖活動をしているのかもしれない。

 数日後の夜、またあのけたたましい、「ケッ、キリッ、キリリリ」という鳴き声がどこからか聞こえてきて、私もほっと胸をなでおろしたのであった。

 



 
 
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造幣局の通り抜け

2018-04-20 00:00:00 | 日記
 軽井沢の春はコブシの花で始まる。それもあってか、軽井沢町の「町の木」にはこのコブシが選ばれている。桜の開花はコブシよりも半月ほど後になる。私が、今回大阪に来たのは今月11日だったが、そのときにはまだ桜は咲いていなかった。

 14日になって、妻から庭のオオヤマザクラの花が咲き始めたとの連絡があったが、そうすると私が帰宅する下旬には、もう散ってしまっているかもしれない。今年は満開の桜をじっくりと楽しむ機会を逸したかなと思っていたところ、TVのニュースで大阪造幣局の通り抜けの桜が、ちょうど見ごろを迎えていると知り、早速出かけてきた。

 前回、この通り抜けの桜を見に出かけたのは、まだ大阪に住んでいたころのことだから、もう50年、半世紀近くも前のことになる。夕方、環状線の駅から歩いた記憶があるので、京橋駅か桜ノ宮駅からであったのだと思う。

 今回改めて調べてみると、実家のある堺からだと、地下鉄谷町線の天満橋駅が最寄り駅ということが判った。到着後、駅改札口を出ると、目の前に案内の表示があり、人の流れもその示す方に向かっているので判りやすく、行き先を間違うこともない。


地下鉄谷町線・天満橋駅の改札口を出るとすぐに案内が目に入る(2108.4.16 撮影)

地上出口周辺も、通り抜け関連のおみやげ物を売る店が並んでにぎやかであった。


地上に出るとみやげ物を売る店が並ぶ(2018.4.16 撮影)

 人の流れに乗って歩き、大川にかかる「天満橋」を渡り右折、今度は川沿いの道を進むと、通り抜けの入り口に着く。途中には、食べ物を売るたくさんの屋台が並んでいる。


天満橋上から見る「大川」と両岸のビル(2018.4.16 撮影)


造幣局に向かう道に並ぶ食べ物を売る屋台(2018.4.16 撮影)

 入り口周辺では、「通り抜け」内の案内と共に、主に外国人観光客に向けた各種注意を促すアナウンスが盛んに行われ、多くの掲示もなされている。これは中に入ってからも同じで、延々とこのアナウンスを聞かされることになった。


「造幣局の通り抜け」の入り口(2108.4.16 撮影)


「通り抜け」内での禁止事項がずらりと並ぶ(2018.4.16 撮影)
 
 今年は、明治150年、すなわち1868年(明治元年)から起算して150年目の年に当たる。政府もこの「明治150年」をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に残すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することが大変重要であるとして、これに関連する施策に取り組んでいるとされるが、この造幣局でも、こうした取り組みのひとつとして、1883年(明治16年)から続く桜の通り抜けを「明治150年記念」として開催し、通路脇にある明治期の施設などの紹介をしていた。


「明治150年」関連施策推進のロゴマーク(パンフレットより)

 この通り抜けは、上記の通り1883年(明治16年)、当時の造幣局長遠藤謹助の発案で、すでに局内に植えられていた桜の花を、大阪市民に開放し、一方通行による花見が始まったとされる。

 桜の通り抜けは、戦時中一時中止されたが、1947年(昭和22年)に再開、1951年(昭和26年)からは夜桜も始まり、以来大阪の年中行事の一つとして定着している。

 現在134種、349本の桜が通り抜けの道の両側に植えられている。普段ソメイヨシノを見慣れる目には、これほど多くの桜の種類があるのかと驚きである。ほとんどが花弁数の多い八重咲き種で、その花弁数の違い、色、花の大きさ、花びらの形、しわの有無、垂れ下がり、密生咲きなど花の状態により分けられる。

 中には八重と一重の混合咲きのものもあるという。また、樹姿の違いも種によっては見られ、楽しみ方も多様である。

 大勢の人の流れの中で、樹種をひとつひとつ確かめる余裕もなかったので、写真だけをランダムに見ていただくことにする。


大阪「造幣局通り抜け」の桜・1/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・2/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・3/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・4/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・5/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・6/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・7/18(2018.4.16 撮影)

 ひとやすみ・・・。


大阪「造幣局通り抜け」の桜・8/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・9/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・10/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・11/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・12/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・13/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・14/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・15/18(2018.4.16 撮影)

もう少し・・・


大阪「造幣局通り抜け」の桜・16/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・17/18(2018.4.16 撮影)


大阪「造幣局通り抜け」の桜・18/18(2018.4.16 撮影)

 最後の写真の後に見える建物は、1871年(明治4年)に造幣局が創業した当時の正門の衛兵の詰所として使われていたもので、八角形をしている。後に紹介する「泉布観」と同様、イギリス(当時;現在はアイルランド)の建築技術者ウォートルスの設計による。

 今年の花というものを毎年定めているとのことで、今回は「大提灯」という種が選ばれていたのだが、その場所に行ってみると、既に花は終わっていて見ることができなかった。パンフレットに写真が出ていたので紹介する。


今年の花「大提灯」の前の立て札(2018.4.16 撮影)


今年の花「大提灯」の説明写真(パンフレットより)

 実家を出るときに、桜の花にくる蝶を見ることができればいいのだが・・・と思っていたが、通り抜けの半ばで実現。小さなナミアゲハの春型が元気に吸蜜に来ていた。


通り抜けの桜の花に吸蜜に訪れたナミアゲハ春型・1/2(2018.4.16 撮影)


通り抜けの桜の花に吸蜜に訪れたナミアゲハ春型・2/2(2018.4.16 撮影)

 以前から、この通り抜けの桜を詠んで短冊をぶら下げることが行われていて、今回もたくさんの短冊が見られた。中には、葛飾北斎にこの桜を描かせたいとの句があったが、確かに北斎の手にかかるとどんな姿になるのだろうか、私も見てみたい気がする。


「通り抜け」を詠んだ句が下がっている(2018.4.16 撮影)


葛飾北斎がここを見て描いたらどんな絵になっただろうか(2018.4.16 撮影)

 私も、一句、「通り抜け 老いも若きも モデルさん」。


あちらこちらで記念撮影をする姿が見られる(2018.4.16 )

 花見のほかに、今回もう一つの目的があった。それは、かつての造幣局の施設の一部であるが、その後桜宮公会堂となっていた建物「旧桜宮公会堂」の内部を見学することである。

 造幣局の通り抜け出口を出て、国道1号線の向かい側、桜宮公園の入り口付近に2つの古い建物がある。一つは、「泉布観(せんぷかん)」で、明治時代に建てられたいわば造幣局の迎賓館である。大阪府に現存する最古の洋風建築であり、国の重要文化財に指定されている。3月下旬から4月上旬にかけて、この建物の前の桜もこの周辺の「桜めぐり」の一つとされていて、美しい姿を見せているはずであった。


「泉布観」脇に立てられている説明板(2018.4.16 撮影)


「泉布観」(2018.4.16 撮影)

 目指していたのはもう一つの建物で、この後方にある。「旧明治天皇記念館」として建てられ、その後「桜宮公会堂」としても使用され、現在はレストラン旧桜宮公会堂として使用されているものである。この正面玄関部分は、かつて造幣局の鋳造場玄関として使用されていたものを、現在の場所に移して利用したとされる。

 
「旧明治天皇記念館(旧桜宮公会堂)」脇に立てられている説明板(2018.4.16 撮影)


「旧明治天皇記念館(旧桜宮公会堂)」正面玄関(2018.4.16 撮影)

 この旧桜宮公会堂・正面玄関の前では、結婚式の前撮りだろうか、幸せそうなカップルの写真撮影に余念がなかった。


「旧桜宮公会堂」の案内板(2018.4.16 撮影)

 内部を見学したく、ここでランチを食べようと思い係員に聞くと、メニューは5000円のフルコースだけという。断念せざるを得なかった。


レストラン「旧桜宮公会堂」の入り口(2018.4.16 撮影)

 帰りには、来たときとは別の、一段低い川沿いの道を戻って行くと、橋のたもとに天満橋の古い写真と、その当時使用されていた橋名飾板が展示されていた。


古い天満橋の様子を示す写真と説明が記された石碑(2018.4.16 撮影)


かつての天満橋に使用されていた橋名飾板(2018.4.16 撮影) 

美しい桜花と人並みを十分に堪能して、再びこの天満橋を渡り帰路についた。

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内田康夫さん

2018-04-13 00:00:00 | 軽井沢
 作家の内田康夫さんの訃報を新聞で知ったのは、大阪滞在中の先月19日のことであり、その日の新聞によると、内田さんは3月13日、敗血症のため83歳で東京都内で亡くなったとのことであった。

 内田さんといえば、我々軽井沢在住のものにとっては、TVドラマの「信濃のコロンボ」や、軽井沢を舞台とするいくつかの小説でもなじみ深い。また、1983年(昭和58年)からは軽井沢在住中でもあり、戦時中には長野市の戸隠に疎開するなど長野県にゆかりがあるといわれる。

 内田さんの小説に関して言えば、私自身はそれほど熱心な読者ではなかった。しかし、広島県の三次に単身赴任していたころ、同僚のTさんが寮で内田さんの作品ばかりを熱心に読んでいて、私もその中から何冊か借りて読んだことがあったし、当時はまだたまにしか会うことがなかった母も図書館で内田さんの作品を借りてきていたので、私も自然にいくつかの作品は読んでいる。それに、私の2人目の孫娘の名前はサクラコ(桜子)だが、同じ呼び名の女性”サクラコ(桜香)”を題材にした小説「風のなかの桜香」をその頃、偶然読んだということもあり、共感を覚えたことがあった。

 内田さんは、1934年(昭和9年)、東京生まれ、コピーライターやCM制作会社の経営を経て、1980年(昭和55年)に「死者の木霊」を自費出版してデビューしている。この小説は、TVドラマ化されている「信濃のコロンボ」シリーズ第一作である。

 また、主人公が旅先で事件に挑むベストセラーの「浅見光彦」シリーズの第一作は1982年(昭和57年)刊行の「後鳥羽伝説殺人事件」であるが、この作品の中では、私が赴任していた三次市のJR三次駅の跨線橋が出てくるという設定であった。

 多作でも有名で、同時にいくつもの作品を新聞や週刊誌に連載していたことがあって、書き始めるときにはまだストーリーの全体像が決まっていないのだが、書き進むうちに次第にはっきりとしてきて、最後はうまくまとめ上げることができるのだと、何かに書かれていたことを思い出す。

 その内田さんをしのぶ献花台が3月23日から4月23日まで、軽井沢町の「浅見光彦記念館」内の内田さんの書斎を再現した展示場に設けられ、ファンが別れを惜しんでいる。私も妻と今月開店したばかりの店の定休日を利用して、10日に献花に出かけたが、浅見光彦記念館も生憎の休館日(火曜・水曜日が休館日)であった。


軽井沢町塩沢地区にある浅見光彦記念館(2018.4.10 撮影)

 この浅見光彦記念館は、内田さんのファンクラブのクラブハウスとして、1994年(平成6年)に建てられ、2016年(平成28年)からは記念館として直筆の原稿やテレビドラマで使われた衣装などの展示を始めている。

 ここには、以前まだ新潟県の上越で仕事をしていた頃にも、母と妹2人と共に来たことがある。そのときも建物の前の駐車場には、浅見光彦の愛車「ソアラ」が展示され、運転席には内田さんの写真が置かれていたのであったが、今回行ってみると、そのときと同じ状態でソアラが展示されており、運転席からこちらを見つめる内田さんの写真姿にハッとさせられた。


展示車、初代ソアラに乗る内田さん?(2018.4.10 撮影)

今回は、さらにもう一台の2代目ソアラが玄関前に展示されていた。


玄関前に展示されている2代目ソアラ(2018.4.10 撮影)

 この2台のソアラの内部、助手席には次のような説明文が置かれている。

 浅見光彦が乗る初代ソアラ。ソアラの初登場は『「首の女」殺人事件』。それから多くの事件で旅をしてきた愛車だったが、「熊野古道殺人事件」において軽井沢のセンセに大破させられてしまい廃車となった。尚、事件後、ニューソアラを入手したため、愛車は変わらずソアラである。尚、展示のこの車は、内田康夫が実際に使用していたもの。(初代ソアラ)

 浅見光彦が乗る二代目のソアラ。初代ソアラは軽井沢のセンセに大破させられてしまったが、そのお詫びとして、ニューソアラがプレゼントされた(ただし頭金の一部を払ってくれただけだった)。新しいソアラは女性のように映るらしく、浅見は「愛しいソアラ嬢」と形容している。尚、展示のこの車は、内田康夫が実際に使用していたブルーイッシュシルバーメタリックの車体を白く塗装したもの。(ニューソアラ)


新旧2台のソアラ(2018.4.10 撮影)

 前回2009年に、ここを訪れたときには、ちょうど特別企画展「後鳥羽伝説殺人事件」展の最終日であった。案内板に書かれているのだが、その時は内田さんの自筆原稿も展示されていた。


特別企画展「後鳥羽伝説殺人事件」展の案内板(2009年6月29日 撮影)

 展示室にはその他にも常設の展示品があり、浅見光彦の乳歯が、母親の雪江夫人から特別に借りたという説明文付きで展示されており、笑いを誘っていた。


浅見光彦の乳歯展示(2009年6月29日 撮影)

 1階の売店では、内田さんのサイン入りの著書などの販売もされていて、母は何か一冊記念に買い求めていた。


1階の売店ではサイン入りの書籍が販売されている(2009年6月29日 撮影)

 今回、献花に訪れたときには内部に入ることができなかったが、玄関脇には2月1日から6月25日まで開催中の特別企画展「内田康夫夫妻と愛犬キャリー」の案内ポスターがあり、妻で作家の早坂真紀(本名・内田由美)さんと一緒の内田さんの生前の姿が愛犬の姿と共に掲示されていた。


企画展「内田康夫夫妻と愛犬キャリー」の案内ポスター(2018.4.10 撮影)

 この浅見光彦記念館から少し離れたゴルフ場の近くの道路沿いには、内田由美夫人が開いている林の中のティー・サロン「軽井沢の芽衣」がある。

 私も2009年に母と妹達と訪れて以来、その後も何回か利用させていただいたが、緑の美しい季節にはとても気持ちよく過ごせる場所にある。


緑に囲まれたテラス席でお茶を楽しめる「軽井沢の芽衣」(2009年6月29日 撮影)

 今回訪ねてみると、お店はオープンしていたが、まだ周りの緑がほとんどなく心なしか寂しい雰囲気であった。


ゴルフ場の間を通り抜ける道路沿いにある「軽井沢の芽衣」の看板(2018.4.10 撮影)


「軽井沢の芽衣」の現在の様子(2018.4.10 撮影)

 内田さんは、2015年(平成27年)7月に脳梗塞で倒れ、リハビリに励んだが2017年3月、小説の休筆を宣言し、浅見シリーズ114作目の「孤道」を未完のまま出版、同作の完結編を公募し、4月末に締め切りが迫っている。

 この完結編が誰の手によって書かれ、どのような内容になるか、興味深い。

 謹んで内田さんのご冥福をお祈りする。



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庭にきた蝶(22)モンシロチョウ

2018-04-06 00:00:00 | 
 今回は”庭にきた蝶”の最終回で「モンシロチョウ」。前回の「ヤマトシジミ」とは順序が前後するが、それは撮影できた写真が1枚だけという状況であったので、採りあげるべきかどうか迷ったからであった。

 さて、このモンシロチョウ、前翅長20~30mmの中型の蝶で、いつもの「原色日本蝶類図鑑」(保育社発行)の表現を借りると、「最も親しい蝶として、わが国のあらゆる平野山野に棲息し、広くはアジア・ヨーロッパ・北アメリカの三大陸にも分布し、早春から初冬まで庭の一隅にも訪れる。・・・北方系の蝶であり、沖縄に採集された珍しい記録もあるが、台湾には棲息しない。」とある。しかし、最近の「フィールドガイド・日本のチョウ」(誠文堂新光社発行)の分布図を見ると、沖縄本島からさらに八重山諸島にも棲息域が広がっている。この点については、「日本産蝶類標準図鑑」(白水 隆著 2011年 学研発行)によると、沖縄県には1958年頃、沖縄南部の宮古島・石垣島・西表島・与那国島には1966年ごろになり侵入、定着したとされる。

 成虫の発生は寒冷地では年2~3回、暖地では7~8回に及ぶ。発生経過は、卵3日、幼虫期12日、蛹期6日の計21日の短期発生であり、通常蛹で越冬するが、暖地では幼虫で越冬することもあるとされる。

 我が家の庭にも来ることはあるのだが、ごく稀で、たいていはスジグロシロチョウを見間違えたものであった。そんな訳で、自宅庭で撮影できたのは前記の通り1枚だけであった。


庭の花に止まるモンシロチョウ(2015.9.2 撮影)

 義父の標本の中には、沖縄の名護で採集したモンシロチョウの標本が含まれていた。先の説明からすると当時としては珍しいものだろうか。スジグロ(シロ)チョウの標本と並べてみる。


左上:スジグロ(シロ)チョウ♀、左下:同♂、右上:モンシロチョウ♀。右下:同♂

 群馬にある妻の友人Mさんの畑には、何種類かのアブラナ科の植物が植えられていて、無農薬栽培をしているので、モンシロチョウがよくやって来て産卵している。少し探せば、青虫も簡単に見つかる。

 このモンシロチョウの幼虫を持ち帰り、育てたことがあった。飼育ケースに入れていたので、プラスチックの壁面で蛹化した。蛹の周辺にはかなりの範囲に細い糸が吐かれていて、きらきらと光って見える。このモンシロチョウは翌年まだ寒い2月に羽化してしまったが、翅が完全に開かなかった。


羽化後、鉢植えの花に止まらせたモンシロチョウ♀ 1/2(2017.2.1 撮影)


羽化後、鉢植えの花に止まらせたモンシロチョウ♀ 2/2(2017.2.1 撮影)

 ところで、このモンシロチョウについては、ファーブル昆虫記に記述がある。不思議に思われるかもしれないが、ファーブル昆虫記に本格的に登場する蝶というと、このモンシロチョウ1種だけである。

 全10巻の「ファーブル昆虫記」(山田吉彦、林 達夫訳、1990年 岩波書店発行)の総目次を見ると、鱗翅目・蝶類の箇所にはアカタテハ、欧州ヒオドシ、キアゲハ、コヒョウモンモドキ、そしてモンシロチョウの名前を見ることができる。(筆者注:この翻訳書では、オオモンシロチョウをモンシロチョウとして訳し、紹介しているので、以下ここではモンシロチョウとして扱う)

 しかし、本文を読んでみるとモンシロチョウ以外の種については、蝶自体の記述ではなく、アカタテハとキアゲハについては、ラングドックさそりの毒性の実験のために刺されて死んでしまうという内容である。

 「・・・(ラングドックさそりに刺されると)蝶類ではどんなことになるか。なよなよとしたこんな連中には、あの刺し傷はひどくこたえるに違いない。試験するまでもなく、そう私はきめ込んでいた。しかし観察者の良心から、実験だけは一応やっておこう。キアゲハもアカタテハも針を刺されると即時にたおれる。思ったとおりである。・・・」、と蝶好きには何とも困ったことになっている。

 また、蝶や蛾を飼育していると気がつくのだが、帯蛹のナミアゲハやキアゲハが羽化するときには、蛹の抜け殻の底に液体を排泄していく。また、翅が伸び、乾いていよいよ飛び立とうとするときにも、液体を排泄する。

 ヤママユ蛾の仲間も似たような行動をする。羽化したヤママユやウスタビガを掴もうとすると、突然尻の先から液体を噴出させるので驚くことがある。

 ファーブルはこうした液体や、幼虫時代の糞からの抽出物が、人体にどのような影響を与えるかを調べている。実験は、自身の上腕にこれらの排泄液や糞からの抽出物をガーゼなどに染み込ませたものを貼り付けて行っている。ほとんどの場合、抽出液に触れていた部分は赤く腫れてくるのである。

 欧州ヒオドシ、コヒョウモンモドキ、モンシロチョウについての記述も他の蛾類と共に、その排泄液の人体に及ぼす毒性についての記述であり、次のようである。

 「・・・私は蚕の乾いた糞をエステルで処理した。二、三滴に集約された浸出液は例の方法によって実験された。結果は驚くべきほど明瞭である。腕の疼く膿腫は、そのできかた、作用において、行列虫の排泄物が与えたと同様なものであった。推理の正しかったことが裏書された。・・・」

 「蚕で得た成功はどんな虫についてでも同じ成功を予想させた。事実はこの予想を残りなく確かめた。私はより好みをせず運よく手に入れたいろいろの幼虫、欧州ヒオドシ、コヒョウモンモドキ、モンシロチョウ、・・・・、をとって試験してみた。すべて私の実験は毒力に程度の差こそあれ、ただ一つの例外もなく痒みを起こした。・・・」

 「別の見地から、この問題を検討するときが来た。いつも汚物につきまとっている恐ろしい物質は消化物の残滓か。それはむしろ生体が働いて生む廃物、一般用語からは泌尿作用の産物といわれる廃物ではあるまいか。
 この生成物を遊離して別に採集することは、変態の経過に頼らなければとうてい行いがたい。すべての蝶類は蛹から出てくるとき、おびただしい尿酸の液汁とまだわからないいろいろの液体とを出すものである。これは新しい設計のもとに建て直された家の漆喰くずのようなもので、形を変えた動物体内で行われた根本作用の廃物なのである。それらの廃物は何よりも先ず泌尿作用の産物で、そこには消化された食料は少しも混ざっていない。
 それを手に入れるには、誰に頼んだらよいか。運はいろいろのことをしてくれる。私は庭の古い楡の上から珍しい幼虫を百匹ほど採集した。それは琥珀色のとげとげが七列に並んでいて、四つ五つ分枝を出したトキワサンザシといった具合だ。蛾(原文のまま)になったら、それは欧州ヒオドシに属することがわかるだろう。」

 思うに、ファーブルは蝶の生態についてはあまり関心がなかったようである。ただ、モンシロチョウについてだけは、その昆虫記の中で採りあげている。

 全10巻の最初の部分、序には次のような記述がある。

 「私はとうとうこの『昆虫記』の決定版を出す決心をすることになった。
 老齢に弱り、精力はなくなり、視力はおとろえ、動くこともほとんどできず、私は一切の研究の手段をうばわれてしまったので、たとえ命がのびたとしても、将来本書に何か付け加えられるとは思えない。
 本書の第一巻は1879年に、最後の第十巻は1910年に発行された。最近発表した二つの独立研究「つちぼたる」と「キャベツの青虫」はようやく手をつけかけた第十一巻の最初のいしずえとなるはずのものであった。・・・
 ・・・私の生涯の唯一のなぐさめであったこの研究を止むなく中止しなければならないことは実に残念である。昆虫の世界は実にあらゆる種類の思索の糧に富んでいる。もしも私が生まれかわり、また幾度か長い生涯を再び生き得るものとしても、私はその興味を汲みつくすことはないであろう。
                                                J・H・ファーブル」


J.-H. Fable (1823-1915、Wikipediaから引用)

 第十巻の最終24章「キャベツの青虫」ではこのモンシロチョウを採りあげている。(筆者注:昆虫記第十一巻は実際には発行されていない)

 モンシロチョウの食草であるキャベツについての記述と、モンシロチョウに寄生する「蚊」・ミクロガステルについての記述が長いが、モンシロチョウの幼虫・青虫が卵から孵化するときや、終齢の青虫が蛹化するときの記述は、次の通りさすがに詳細である。

 「卵は、植物の種子が中身が熟すと皮を破って割れるようにして壊れるのではない。生まれたての虫は、自分でその仕切りの一点を噛み破って、戸口をこしらえる。こうして円錐体の頂上に近く周りのきちんとした天窓ができる。それは裂け目も、破れれ目もない。これは壁のこの部分を齧って呑み込んでしまった証拠だ。・・・
 ・・・二時間ばかりのうちに全体の孵化は終わって、子虫は群がり合いながら、その場に残した産衣の上にいる。食物になる葉の上に降りてくる前に、長い間このテラスみたいなところに止まっている。。そこでたいへん忙しそうにさえしている。だが何のために? 珍しい芝生、そこにおったったなりのきれいな三角帽子を食べているのだ。ゆっくりと順序よく、赤ん坊たちは、上のほうから根元へ、今しがた出てきたばかりの袋を齧るのだ。一晩たつと、丸い点、なくなった袋の底のモザイクしか残っていない。
 最初の食料として、キャベツの青虫はその卵の包みの膜を食べるのだ。これが定まった食事だ。薄膜の袋のご馳走を食べる儀式的食事を済まさないで、近くの青葉に誘われる子虫を一匹だって見たことはない。幼虫が自分の生まれ出た袋を食べるなんて、これが初めてだ。この珍しいお菓子は、生まれたての青虫にとって一体何の役に立つのか? ・・・」

 キャベツの葉を旺盛な食欲で食べる青虫の姿を描写した後で、いよいよ蛹になるところについては、次のように描写している。

 「・・・一ヶ月ばかり食いつづけた後、飼籠の中の私の虫たちの、あのがつがつ食いは静まってきた。青虫は四方八方網目によじ登り、前身を持ちあげて目の前を探りながら、当てもなく歩き廻る。頭を振り振りそこここに、途々一本の糸を吐き出す。彼らは不安げにさまよい歩く。どうやら遠くに行ってしまいたい様子だ。・・・」
 「・・・どこか遠くに(蛹になるための)壁を捜しに行きたがって、幾日か網目の上で騒いでいた。壁は見つからないし、それに事はますます切迫してくるので、彼女等はあきらめて来る。めいめい自分の周りに、網目をたよりにして、薄い白絹の敷物を織る。これが蛹化の苦しい微妙な仕事の時の釣り床下敷きだ。この土台の上に、絹の座蒲団を使って、体の一番後の端を固定させるのだ。前身を釣り革を使ってそこに固定させる。肩の下を通って左右から敷物に結びつくようになっている釣り革である。このように三つの足場にぶら下がって、彼女は空中で幼虫の古衣を脱ぎすてて、蛹になるのだ。保護するものは壁だけで、私が手出しをしなかったら、きっとその壁を、どこかで見つけるに違いない。・・・」

 ファーブルが採りあげている「モンシロチョウ」は正確には「オオモンシロチョウ」で、日本で見られるモンシロチョウとは別種であり、ヨーロッパではアブラナ科作物の大害虫として知られている。

 このオオモンシロチョウの日本への進入が警戒されていたが、1995年に北海道で最初の発見があった。現在では、北海道のほぼ全域、青森県、岩手県北部に分布しているとされる。幼虫が高湿度に極端に弱く、また農薬に対する抵抗力が弱いことから日本では大害虫になる心配はほとんどないとされている。

 北軽井沢の嬬恋地区はキャベツの一大産地であるが、むろんこうした青虫による被害はない。われわれは安心して虫のいないキャベツを食べることができている。


 

 




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