軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

薪ストーブ

2019-03-29 00:00:00 | 軽井沢
 冬の軽井沢での暮らしの重要アイテムの一つは薪ストーブだろう。定住者はもちろん、別荘も以前と違って夏季だけではなく通年利用が増えていることもあり、薪ストーブを備えているところは多くなっているようである。


雲場池近くにあるストーブ専門店(2019.2.19 撮影)

 我が家の場合、冬季の暖房は床暖房を基本としていて、補助的に薪ストーブを利用している。薪ストーブを採用した理由は二つあるが、一つは冬季の暮らしを演出するためであり、めんどうではあるが、薪に火をつけて燃やし、炎を眺め、燃えた残った灰を処分するといった一連の作業を楽しむという点にある。もう一つは、妻の希望であるが、薪ストーブの上に鍋を乗せてシチューなどのスローフード料理をつくることであった。

 炎を眺めたり、料理をすることのできる暖房装置という点でみると、暖炉と薪ストーブが比較されることになるが、私たちの場合、迷わず薪ストーブを選んだ。

 以前軽井沢で住んでいたマンションには暖炉がついていた。立派なもので、室内装飾という面では申し分なかったが、暖房装置としては熱効率の点で問題があったし、空気の流れを考えても、不用意に台所で換気扇を使うと煙突から逆流した煙が室内に充満して、大騒ぎになるといったこともあった。


マンションの暖炉

 こうした経験もあったので、熱効率がよく、燃焼用の空気の調節弁がついていて安全性の高い薪ストーブを選択することは自然であった。

 現在の薪ストーブの原型は、1742年にアメリカで発明されたフランクリンストーブ(ペンシルバニア暖炉)とされている。以下、ウィキペディア(『薪ストーブ』2018年11月17日)から引用すると、「鉄の暖炉自体は14世紀末からフランスで使用されていたが、それらの暖炉にはバッフル板がなく暖房効率は暖炉と変わりがなかった。フランクリンストーブは前面以外の5面を鉄で囲ってバッフル板とそれによる逆サイフォン燃焼機構を装着したため放熱面積が多く、通常の暖炉よりは暖房効率が高かった。改良型のフランクリンストーブは扉がついており、扉を閉じて使用するとさらに高い暖房効率を発揮した。発明者のベンジャミン・フランクリンは『発明品やその恩恵は全ての人々が自由に分かち合うべき。』との考えから特許を取得しなかった。このため安価な模倣品が大量に流通した結果、一般家庭にも暖炉が普及した。改良型フランクリンストーブは暖炉であると同時に、薪ストーブの最初の製品にも位置づけられる。」とある。

 雷が電気であることを、凧を用いた実験で証明したベンジャミン・フランクリンが薪ストーブの原型を発明したというのは意外であった。

 アメリカではその後、一旦は石炭・石油の発達により、薪ストーブの人気は下降したが、石油危機をきっかけに復活、その後環境に関する法制定により、二重燃焼システムや触媒など燃焼効率を高めた機種が開発されたとされる。

 薪ストーブの仕組みだが、ウィキペディアから更に引用すると、「扉の付いた鉄の箱に煙突が取り付けられた構造が薪ストーブの基本的な形態である。暖炉や焚火との違いは、前者が空気の出入りが開放的であるのに比し、薪ストーブは密閉的であることである。暖炉や焚火が燃焼に必要な空気の数十倍の量の空気を吸い込み排気するのに対し、薪ストーブは小さな空気の入り口を調整し燃焼に必要な空気を取り入れ、煙突からの排出も調整される。そのため取り入れられる空気は燃焼に必要な量の2〜3倍に制限される。前者がほぼ火そのものの輻射熱しか感じさせないのに対し、薪ストーブでは本体内の燃焼によって生じる熱を本体表面からの輻射熱や、本体周囲を対流する暖かい空気によっても部屋を暖めることができる。薪ストーブには燃焼調整のために空気弁、煙突ダンパーといった機能が付与され、近年では燃焼効率や趣味性を上げたり、燃焼ガスの環境規制を通過するために、ガラス扉、二次燃焼、触媒、バッフル板などの機能が付与されるようになった。」

 まだ鎌倉にいたころからこうした薪ストーブのあれこれを調べ始めた。その頃読んだ本「暖炉・薪ストーブのある家」(2009年 ニューハウス出版発行)や、「薪ストーブ BEST30」(2012年 八重洲出版発行)には、多くの薪ストーブが紹介されていたが、すべて欧米製のものであった。

 最終的に選択の決め手になったのは、鎌倉由比ガ浜通りにある専門店「ノーザンライトストーブ」にでかけて相談した時のことで、天板上で調理ができること、前面ガラス窓が大きく、美しい炎が見えるいという点から、ベルギー、ネスタ―マーティン社の薪ストーブS43 B-TOPを勧められたからであった。この機種、「薪ストーブ BEST30」の見出しには、「クッキングトップを備えた完全無欠のベストセラー」と紹介されているものであった。


薪ストーブ選定の参考にした本:「暖炉・薪ストーブのある家」


薪ストーブ選定の参考にした本:「薪ストーブ BEST30」

 この本に紹介されている薪ストーブの設置例を見ると、意外にも寒冷地だけではなく、関東各地に散らばっていることがわかった。茨城県、東京都、神奈川県、愛知県、栃木県、埼玉県といった具合で、長野県は2例にとどまっていた。

 イギリスの一戸建て住宅の場合、40%に暖炉・薪ストーブが付いているというが、日本では1%をはるかに下回るという。日本では、私たちもそうであったが、薪ストーブ設置の目的も欧米とは異なっているのであろうと思う。

 この薪ストーブを、熱の有効利用を考えて、建物の中央部に設置し、煙突は2階の寝室を通過するように建築設計事務所のMさんにお願いした。
 また、薪ストーブの足元と壁面には化石入りのライムストーンを、Mさんに無理を言って取り寄せていただいた。この化石入りの石は、鎌倉と軽井沢を行き来している時に、上信越自動車道路の甘楽SAで見つけたもので、多くの巻貝などの入っているものであった。


上信越自動車道路・甘楽SAの柱に使用されている化石入りの石(2017.2.14 撮影)


化石入りの石の拡大写真(2017.2.14 撮影)

 Mさんにも甘楽SAでこの化石入りの石を確認していただいたところ、まったく同じものは難しいと思うが、取り寄せてみましょうと言っていただいた。元々、石の中に入っている化石を目的として使用しているものではないので、どの程度化石を含んでいるかは、取り寄せてみないと判らなかった。結果的には、甘楽SAのものには及ばないものの、或る程度化石の存在の判るものを貼ることができた。


我が家のライムストーンに見られる貝化石


化石入りのライムストーンを床と壁面に貼り薪ストーブを設置した

 さて、この薪ストーブを使い始めてすでに4回の冬を過ごしてきたが、使い心地という点ではとても満足している。初めのうちは着火に苦労したりもしたが、今では要領がわかり、着火用の紙・焚きつけ用の細い枯れ枝や細めの薪・燃料の薪を用意して簡単に着火できるようになり、目的のスローフードを楽しみ、炎に癒やされている。


薪ストーブ本体


燃焼室下部のすのこ


天板上部のクッキングトップと温度計


クッキングトップを利用した調理

 薪は近隣の専門業者で販売しているものを主に使用している。軽井沢では、専門の業者のほかホームセンター、スーパーでも販売しているので入手は容易である。薪材は広葉樹のナラ、クヌギ、ブナが多く流通しているようであるが、小諸方面に行くとニセアカシアを売っていることがある。

 このほか、軽井沢町には町が管理している貯木場があり、指定の日には誰でも伐採した木を持ち込んだり、必要な木材などを持ち帰ることができるようになっている。薪ストーブに適したナラ材などは人気で、すぐになくなってしまうが、不適とされるモミ、カラマツなどは入手しやすくなっている。

 私も、住みはじめた最初の冬にはご近所のペンションのご主人からこの貯木場のことを教わり、使用を考えたが、チェーンソーを持ち込んで適当な長さの丸太を切り出し、これを割って薪にするという手間に怖気づいて未だに手を付けられないでいる。

 ただ、我が家のネスターマーティン社製の薪ストーブは、一般には不適とされている針葉樹も問題なく燃やすことができるという特徴がある。ナラなどの落葉広葉樹は油分が少なく、樹木の組織が密で堅く燃焼温度が800℃程度にしかならず、ゆっくりとした燃焼が可能なため、ストーブ本体を傷めることがないので、薪ストーブに適している。

 一方針葉樹は生息する環境上母体を凍結から守るため樹木組織内に大量の油分を含んでいることと、落葉広葉樹のように毎年樹木体から水分を抜き落葉する必要がなく、葉をつけたまま冬を越す。そのため樹木自体の組織も軟らかく、大変燃えやすく燃焼温度も1000℃を超えることがあるという。この温度で燃焼させるとストーブ内部が熱酸化を起こし、ボロボロと内部が錆びて落ちることにつながる。こうした理由で基本的には、針葉樹は薪ストーブの燃料には適さないとされている。

 しかし、ネスタ―マーティン製など最近の薪ストーブは改良されていて、給気された酸素をあらかじめ高熱化して使用するなどして、空気量を絞り、高温になることを抑えながら、低温でも燻ぶることなく未燃ガスを確実に燃焼させることができるので、針葉樹もまた燃料として立派に使用することができると取扱説明書にある。


ネスタ―マーティンの多次燃焼方式構造(同社取扱説明書から)

 軽井沢に多く生育している針葉樹は、当然貯木場にも多く持ち込まれる。薪ストーブ用としては不適とされているこうした木材は引き取られる割合が少ないので、我が家には打ってつけである。今後、自分でまき割をして、安価な燃料確保を目指さなければと思っているのであるが。

 今年の厳しい冬もそろそろ終わりを迎え、薪ストーブが活躍するのもあとひと月くらいになってきた。オーロラのように美しい(?)とされる炎を撮影したので、しばしご覧いただこう。


薪ストーブの炎(2019.3.1 撮影) 




 

 


 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堀文子さん

2019-03-22 00:00:00 | 日記
 このところ、米沢富美子さん(1月17日、80歳)、堀文子さん(2月5日、100歳)、堺屋太一さん(2月8日、83歳)と、大阪、軽井沢に関係している方々の訃報が相次いだ。

 米沢富美子さんと、堺屋太一さんは大阪生まれ。堀文子さんは軽井沢にアトリエを持ち、創作活動を行っていた。
 
 米沢富美子さんの名前は、同じ物性物理学を学んだ関係で早くから知っていたし、堺屋太一さんについては言わずもがなであるが、堀文子さんのことを知ったのは、このお二人に比べるとずっと後になってからのことであった。

 「サライ」というちょっとおしゃれな雑誌が、上越市に赴任していたころ、治療のためにしばらく通っていた医院の待合室に置かれていた。その中に堀文子さんが連載していた「命といふもの」という書きおろしの画と文のページがあった。

 この連載がとても好きになり、私もこの雑誌を購読するようになった。その後の引っ越しの繰り返しの中で、大量にあった書籍を処分しなければならなくなり、今捜してみると、手元に残っている「サライ」は2冊だけになっていた。「鎌倉」をとりあげた新緑特大号と、「軽井沢」をとりあげた号である。


サライの表紙・2005年5月発行の鎌倉特集号


サライの表紙・2010年8月発行の軽井沢特集号

 読み返してみると、2005年5月19日号の第19回の「命といふもの」は「花菖蒲」という題で書かれていて、自宅の庭にも植えていたという多種の花菖蒲が、自らの転居癖(筆者注:大磯の自宅はずっと残されていた)のために世話を怠り、今は見る影もなくやせ細っていることを、自身の老いと重ね合わせ嘆いてみせている。

 2010年8月10日号は、第127回であるが、「多田富雄先生に捧げる」という題で、2010年4月21日ということなので、この本の発行の数か月前に亡くなった同氏との思い出が記されている。

 多田富雄氏のことを「免疫学者として偉大な業績を残しながら文学者としても沢山の名著を残し、更に驚く事に能作者でもあった。現代の問題や悲劇をテーマに、『一石仙人』『原爆忌』等、沢山の能を書き続けた。科学と哲学と芸術。神と人。生と死。この根源の問題を問い続け、細分化を追い元の幹を忘れた現代を憂え、能率主義、経済優先に目の色を変え、かつての美しさ、つつしみを忘れた今の日本の行方を案じられた。」とし、「・・・科学者にはシェークスピアを、文学者には相対性理論を読めと忠告され、専門化の進む現代の危機を死の間際まで訴え続けた。先生の思想を受けつぐ者として私も死の日まで志をまげず、日本の美を守り続けて行きたいと思う。」と結んでいる。

 次の堀文子さんとの出会いは、東京に住んでいた時のことで、2010年10月に平塚市美術館で開催された「堀文子展」であった。「サライ」で毎号の画は見ていたが、1941年の初期の作品から2009年の近作までを見ることができるということで、これらを見てみたくて早速出かけてきた。


堀文子展会場の平塚市美術館(2010.10.10 撮影)


堀文子展案内掲示(2010.10.10 撮影)

 この時の図録によると、館長・草薙奈津子さんの「ごあいさつ」には「絵を描いて75年、日本画壇を代表する画家・堀文子の展覧会を開催します。関東では6年ぶり、公立美術館では初の展覧会となります。」とあって、初期から現在(当時)にいたる新発見作品もまじえた代表作を中心とする約80点の作品が展示された。約80点とあるのは、77点の作品と、絵本の表紙と挿絵78-1~8、79-1~10、80-表紙・1~15が展示されていたからである。

 作品は国内25ヶ所以上の美術館・関係機関と個人収集品から集められていて、その中には軽井沢の「星野リゾート」の名前も見られた。

 堀文子さんは軽井沢にアトリエを持ち、作品を生み出していたが、展示作品の中では、44番目の「初秋」(1981年)から54番目の「流れ行く山の季節」(1990年)がその頃のものと思われ、浅間山、離山や周辺の景色と生き物の姿が描かれている。軽井沢以前の作品の中にもよく鳥や昆虫が描かれているが、上記11作品の中の5作品に、ヒョウモンチョウ、ミヤマカラスアゲハ、ホトトギス、キツネ、キジ、アカゲラ、シジュウカラ、アカタテハ、ミスジチョウの姿が見える。
  

堀文子展図録表紙

 この図録から堀文子さんの略歴をたどってみると次のようである。

1918(大正 7)年     7月2日、父竹雄、母きよの6人兄姉の4番目の子として東京都麴町区平河町(現・千代田区平河町)二丁目十三番地に生まれる。父は大阪出身でロシア史を専攻する歴史学者、母は信州・松代藩の士族の出で、日本画家・荒木十畝に習ったことがあるという。
1923(大正12)年 5歳  自宅で関東大震災を体験。
1931(昭和 6)年 13歳  東京府立第五高等女学校に入学。3年次、画家を志す。
1936(昭和11)年 18歳   自宅近辺で起こった2.26事件を間近に経験する。東京府立第五高等女学校を卒業、女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部に入学。
1939(昭和14)年 21歳  第二回新美術人協会展に《原始祭》が初入選。
1940(昭和15)年 22歳  11歳年上の日本画家、柴田安子を訪ね、傾倒する。長野・大門峠の柴田の山荘に過ごす。女子美術専門学校師範科日本画部を卒業。知人の昆虫学者の依頼で幼虫の記録画を描く。
1941(昭和16)年 23歳  東京帝国大学(現・東京大学)農学部作物学教室で、農作物記録係を務める。これを機に、神楽坂の近く、江戸川橋近くの石切橋に住む。
1942(昭和17)年 24歳  新美術協会員となる。
1944(昭和19)年 26歳  恵泉女学園教師を務める。
1945(昭和20)年 27歳  兄と弟戦死。戦火で自宅消失。
1946(昭和21)年 28歳  外交官・箕輪三郎と結婚。逗子に住む。
1949(昭和24)年 31歳  女流画家協会会員となる。土門拳、岡田謙三と八丈島を旅行する。
1950(昭和25)年 32歳  父親を失う。創造美術会員となる。
1952(昭和27)年 34歳  前年度の作品《山と池》で第二回上村松園賞を受賞。
1955(昭和30)年 37歳  小川未明著・堀文子絵『未明童話選集』がサンケイ児童出版文化賞を受賞。宮沢俊義・国分一太郎・堀文子『わたくしたちの憲法』が毎日出版文化賞を受賞。
1956(昭和31)年 38歳  『こどものとも』創刊号(福音館書店)に「ピップとちょうちょう」(作・与田準一、画・堀文子)が掲載される。
1960(昭和35)年 42歳  夫箕輪三郎を失う。
1961(昭和36)年 43歳  初の海外旅行。西洋の歴史が始まったところから順序立てて見るためにエジプト、ヨーロッパ、アメリカ、メキシコへ出発。
1964(昭和39)年 46歳  四月に帰国。
1965(昭和40)年 47歳  初の個展、堀文子作品展(日本橋・高島屋)開催。
1967(昭和42)年 49歳  神奈川県大磯、高麗山の麓に転居。
1972(昭和47)年 54歳  イタリア・ボローニャの第9回国際絵本原画展で絵本『くるみ割り人形』(学習研究社)がグラフィック賞受賞。
1973(昭和48)年 55歳  外房・大原の椿の里を訪ねる。
1974(昭和49)年 56歳  多摩美術大学教授となる(のち客員教授)。
1975(昭和50)年 57歳  『山川草木譜』(山本健吉・文、堀文子・画、TBS出版事務局)刊行。トルコ、イランへ旅行。
1978(昭和53)年 60歳  NHKの「今日の料理」のテキスト表紙絵を担当(~1982年3月まで)。
1979(昭和54)年 61歳  長野県北佐久郡中軽井沢にアトリエをもち、大磯と往き来する生活を始める。
1980(昭和55)年 62歳  母親を失う。
1987(昭和62)年 69歳  イタリア・トスカーナの郊外にアトリエをもつ。
1990(平成 2)年 72歳  国際花と緑の博覧会の花と緑・日本画美術館(大阪・鶴見緑地)に「流れ行く山の季節」(161.5x129.7)を出品。
1992(平成 4)年 74歳  イタリアのアレッツォ市で、堀文子日本画展開催。イタリアの住居を引き払う。
1995(平成 7)年 77歳   植物学者・宮脇昭博士と共に、アマゾン、メキシコ、ユカタン半島のマヤ遺跡を取材旅行。
1997(平成 9)年 79歳  『婦人画報』に各界著名人との対談「堀文子の人生時計は”今”が愉し」の連載を始める。
1998(平成10)年 80歳  ヒマラヤを旅行。ペルーにインカ文明を取材。
1999(平成11)年 81歳  幻の高山植物ブルーポピーを求めヒマラヤ山麓を取材旅行。多摩美術大学客員教授を辞す。
2000(平成12)年 82歳  ネパールに旅行、ブルーポピーをスケッチする。 
2001(平成13)年 83歳  解離性動脈瘤で倒れるが、自然治癒。病後、顕微鏡で微生物の世界を覗き見ることを始める。 
2004(平成16)年 86歳  雑誌「サライ」に「命といふもの」連載開始。現代史訳・般若心経絵本『生きて死ぬ知恵』柳沢桂子/堀文子刊行。
2006(平成18)年 88歳  大磯自宅アトリエに離れを新築、住居を移す。 
2010(平成22)年 92歳  特別展堀文子〈いつくしむ命〉(神戸・香雪美術館)開催。

 2015年、著者が97歳の時に刊行された「私流に現在(いま)を生きる」(中央公論新社)には、堀文子さんのこの略歴が肉付けされ、その時々の思いがさらに詳しく語られている。


堀文子著「私流に現在(いま)を生きる」(中央公論新社)の表紙

 この本の「はじめに」は次のように始まり、続いて出生の時からのことが語られる。

 「最近、わたくしは、死の夢ばかり見ます。先日は死んでいる自分に向かって、『死んだのね、わたくしは』と声をかけましたら、『死んだんだよ、お前は』と死んだわたくしが返事をいたします・・・」、
 「・・・わたくしは、1918(大正七)年7月2日に現在の東京都千代田区平河町に生まれました。・・・絵を描いて生きていきたいと、両親の大反対を押し切って女子美術学校に入学しました。1936年のことです。ほんとうならば自然の不思議を解明する科学者になりたかったのですが、女は大学に進学できない時代でしたから、あきらめざるを得ませんでした。・・・」

 第二次大戦後の1946年、28歳の時に箕輪三郎と結婚するが、その時の様子は次のようである。

 「・・・新しい時代になったというのに、母や姉は何か新しいことをしたり、働いたり、といったことは考えていないようでした。わたくしは、恵泉女学園の仕事は辞めてしまいましたが、絵本の仕事や、挿絵の仕事の注文が増え、その仕事で一家を養うくらいになっておりました。
 そんなある日、『ある外交官がベトナムのことを書いた原稿があるのですが、それに挿絵を描いてくれませんか』と、出版社から依頼がありました。・・・わたくしが描いた挿絵を、その外交官が、たいそう気に入ったのでお礼がしたいということで、編集者から引き合わされたのが、箕輪三郎との出会いでした。
 初めて会ったときから話は弾みました。
 箕輪は尊敬できる人でした。なにごとにも偏見がなく、理想主義のロマンティストです。外交官というより学者といった方がふさわしいようなひとでしたが、わたくしの父が学者でしたので、そうした雰囲気を持つ箕輪と話が合ったのかもしれません。それをきっかけに、箕輪とはたびたび会うようになり、プロポーズされました。もともと、わたくしは結婚などするつもりはありませんでした。一生絵を描いていくつもりでしたし、自由に、自分の思うままに生きていきたいという希望を持っていたわたくしには、結婚は向いていないと思っておりました。・・・元来、夫は体が大変弱い人で、結核を患っておりました。わたくしは夫の療養のために逗子に住み、看病に明け暮れました。夫はわたくしに、『絵を描くことは、ほかの誰にもできないことだから、続けなさい』と、言ってくれましたので、仕事の時だけ青山のアトリエに通うようにしておりました。・・・今、振り返ってみますと、看護婦のような生活でしたが、・・・精神的にはほんとうに充実した結婚生活でした。」

 軽井沢に構えたアトリエについては、

 「大磯に居を構えてから12年後の1979(昭和54)年のこと、わたくしは人跡未踏の自然を求めて浅間山麓の軽井沢にアトリエを構え、山の生き物と呼吸を共にし生活する山中独居の生活を始めました。60歳の時です。
 この年になっての山暮らしには不安がありました。けれども、一ヶ所に長くとどまっていると、新鮮な感動や驚きといった心の揺れがなくなり、神経がさび付いてしまいます。
 そんなふうにわたくしの根性が鈍るのを、もう一人のわたくしが許さないのです。・・・
 軽井沢に居を移して、高原の生活に夢中になりました。アトリエのまわりの山を歩いては、毎日新しいものを発見しました。遠山が見えたり、雪が降っていたり、落葉松が散っていたりする風景は涙が出るほど美しく、絵を描きたい、という気持ちが自然にわき上がってきます。・・・
 冬の軽井沢の一人暮らしは想像以上に厳しいものでした。気温は零下十数度まで下がります。けれどもわたくしは、本当の自然を、その極限を見たかったのです。
 わたくしと野生の動物以外は誰もいない山の暮らし。そこで見た雪景色はたとえようもない美しいもので、私はため息ばかりついていました。」と記されている。

 その後、イタリアにもアトリエを構え、さらに海外へのスケッチ旅行や取材旅行を繰り返し精力的に創作活動を続けていた堀文子さんであるが、2001年83歳の時に病に倒れる。そして、その回復過程で顕微鏡の世界と出会っている。

 「・・・気がつくと、あの痛みがすっかり消えておりました。担当の医師によると、わたくしは解離性動脈瘤で、死の瀬戸際にいたのだということでした。・・・人間というものは、生と死が力の均衡を保ちながら共存している生き物であり、この二つの力の勝敗は、人の無知や不用意にかかわりなく、神の意志で決められるものなのでしょう。
 わたくしは以来、死というものが怖いと感じることがなくなりました。死は自分自身の中にあるものなのです。
 絶対安静の一ヵ月の入院の間、これから残りの命をどう生きるか、という事を考えました。八十を過ぎてからもヒマラヤへ行き、衰えたといっても、健康に気を配り、体力には自信がありましたが、これからは僻地への厳しい旅は一切やめることに決めました。どのようにすれば、自分自身の興味を枯れさせることなく、『逆上』を忘れずに生きていけるか。
 そう考えた時ふと頭に浮かんだのは、微生物のことでした。
 わたくしは子供の頃、子ども向けの科学雑誌に載っていた顕微鏡を買ってもらって水滴をのぞいた時のことを思い出しました。一滴の水の中に泳いでいる微生物。あれが見たい。そう思い始めると、いてもたってもいられず、入院中お世話になった医師に紹介してもらった学者向けの専門店で、分不相応な顕微鏡を買い求めました。・・・スライドガラスの上に垂らした一滴の水の中にうごめく生き物の世界に息をのんだのです。
 ・・・真夜中まで顕微鏡をのぞく日が続き、サックス奏者で、ミジンコの研究家である、坂田明先生のご指導も仰ぐようになりました。・・・」

 堀文子さんと、もうすでに亡くなった私の両親とはほぼ同じ生まれ年であり、同じ時代を生きてきている。そうした思いが私を堀文子さんの文と画に向かわせたのではないかと感じることがある。この著書の最後には「平和について」と「私の生涯」という章があり次のように書かれている。

 「平和について:  
 最近の日本は、贅沢と飽食に慣れて、目先の楽しみを追い求め過ぎているように思います。こうしたときに、政府は戦争を知らない人たちにもっともらしい理由をつけて、戦争を正当化しようといたします。
 ・・・わたくしは、何百万もの兵士と国民の命を奪い、国土と歴史的文化遺産を灰燼に帰した第二次世界大戦を経験いたしました。開戦当時は、アメリカと戦争をすれば、日本がどうなるか、ということについて危惧していた人たちが少なからずいたにもかかわらず、本当のことを言うことはできなかったと思います。・・・オリンピックに際し、国民が心をひとつにしようとしている隙に、重要な法案が次々と議会を通過していく今の日本の動きは、第二次世界大戦勃発前の状況とあまりにも似通っているように思え、わたくしは戦慄を覚えます。・・・一致団結して政府の暴走を止めるのは、今を生きる国民の務めであり、責任だとわたくしは考えております。一人一人が国の暴走を許さぬ賢い日本人になることが、今ほど求められている時はないのではないかとわたくしは思うのです」となかなか手厳しい。

 「私の生涯:
 私(わたくし)はその日その日の現在(いま)に熱中し
 無慾脱俗を忘れず
 何物にも執着せず
 私流の生き方を求めて歩き続けてまいりました。
 これが私の生きた道です。」

 妻に聞いてみると、やはり堀文子さんの画が好きであったという。それもあって、若いころに買い求めたのだという記念切手のシートが「お気に入り」と名付けられたストックブックに入っているのを見せてくれた。

 1980年発行の日本の歌シリーズ・第5集、「おぼろ月夜」の記念切手で、堀文子さんの、菜の花と月を描いた画と、曲の譜面の一部が記されているものである。


堀文子さんの画が使われている記念切手(1980年発行) 

 80歳から90歳にかけての堀文子さんを、10年間にわたり撮り続けた飯島幸永さんの写真集、「堀文子 美の旅人」(2010年 実業之日本社発行)を紹介させていただく。ここには浅間山麓での姿もたくさん収められている。


堀文子写真集表紙

 堀文子さんのご冥福をお祈りします。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野三碑

2019-03-15 00:00:00 | 日記
 時々出かけて、季節の野菜や果物を収穫させていただいている妻の友人の畑は、群馬県の高崎市郊外にある。上信越自動車道で行くと、吉井ICで下りることになるが、この吉井インターを出たところに「多胡碑」という案内があって、一度ここを訪れてみたいと思っていた。

 先日、今年もまた、フキノトウが出ているから採りに来ませんか、とのお誘いがあったのを機に、「上野三碑」の一つであるこの「多胡碑」を見に行こうということになった。

 「上野三碑」は「こうずけさんぴ」と読むが、2017年(平成29年)にユネスコ「世界の記憶」に登録されている。訪れることにした「多胡碑(たごひ)」は、今回登録された三基の石碑の一つで、このほかに「山上碑(やまのうえひ)」、「金井沢碑(かないざわひ)」がある。

 この三碑はいずれも高崎市南部に近接して存在していて、そのため「上野三碑」と呼ばれている。高崎市教育委員会発行のパンフレットから引用すると、

 「上野三碑とは、群馬県-古代上野国-高崎市南部地域に所在する、飛鳥・奈良時代に造立された三つの石碑の総称です。日本国内で現存する平安時代以前の古碑はわずかに十八例に過ぎず、高崎市内における三例の集中は、歴史的にきわめて特筆されます。
 それぞれの碑文からは、千三百年前頃の地方行政制度の在り方、古代豪族の婚姻や士族のつながり、仏教思想の広がりなど実に多くのことが明らかになり、古代東国史の重要な史料と評価されています。このような重要性から、三碑はいずれも国の特別史跡に指定されています。・・・」とある。


上野三碑パンフレットの表紙

 この三碑が存在している場所は次の地図に示されているとおりで、半径2km弱の円周上に存在している。

 
上野三碑周辺マップ(高崎市教育委員会 2018年10月26日発行のパンフレットから引用)

 多胡碑は吉井インターから一番近く、また行ってみて判ったことであるが、碑のすぐ近くには、「多胡碑記念館」が建てられていて、ここには残る二基を含めた三石碑のレプリカはじめ、国内の他場所に存在している古い石碑に関する展示も行われていて、効率よく三碑に関する知識を得ることができた。


多胡碑周辺案内図(多胡記念館パンフレットから引用)

 当日は、隣接地の駐車場に車を停めて、「吉井いしぶみの里公園」内にある多胡碑に向かった。多胡碑は、これを風雨から守るための小さなお堂のような建物「覆い屋」の中にあった。ガラス窓越しに見ることになるので、外光の反射で見づらくなるが、これを防ぐためのビュワーが左側に用意されていた。


多胡碑を守る「覆い屋」(2019.2.23 撮影)


多胡碑正面(2019.2.23 撮影)


多胡碑右側面(2019.2.23 撮影)

 碑に刻まれている文字は肉眼でははっきりと読みとることは難しい状況であったが、建物前方脇にある説明板には、拓本を交えて詳しい説明が記されている。


多胡碑の前に設置されている解説板(2019.2.23 撮影)



多胡碑の拓本とその解説(2019.2.23 撮影)

 その隣には、さらに詳しい現代語訳による説明が記されているが、内容は、「朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに群をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四(711)年三月九日甲寅に命令が伝えられた。佐中弁正五位下多治比真人(三宅麻呂)。太政官の二品穂積親王、左大臣正二位石上(麻呂)尊、右大臣正二位藤原(不比等)尊。(パンフレットから引用、次の写真の内容とは若干異なる)」となっている。


多胡碑の現代語訳を記した案内板(2019.2.23 撮影)


三郡から新たに多胡郡を作る様子を示す内容部分の拡大(2019.2.23 撮影)

 多胡碑にはボランティアの説明員の姿が見られ、また上信電鉄の吉井駅を発着し、三碑を巡回する「めぐりバス」も、9:00~14:15まで日に8便運行されていて、力の入れ方が伝わってくるものであった。


吉井駅から発着している三碑巡回の「めぐりバス」

 多胡碑の後方には、2階建ての立派な建物「多胡碑記念館」がある。1階ホールではビデオによる解説を見ることができるほか、石のへやなどがある。2階には上野三碑のレプリカのへや、古碑のへや、拓本のへやなどがあり、じっくりと見学することができる。


多胡碑記念館(2019.2.23 撮影)



多胡碑記念館の入り口に掲げられた「ごあいさつ」(2019.2.23 撮影)


館内での説明ビデオ(2019.2.23 撮影)

 ここでは、上野三碑レプリカの展示とともに、日本の古代石碑の中から、最古の「宇治橋碑」、「那須国造碑」、「仏足石」、「仏足石跡歌碑」、「多賀城碑」などのレプリカ等の展示と、その解説も行われている。

 現存する日本の古代碑とされるものは、全部で18基あるという。造立時期は646年~1064年にわたっている。



日本の古代碑18基の場所、造立時期などを示すパネル(2019.2.23 撮影)

 多胡碑に記された銘文の内容ついては、すでに記したが、他の2基の石碑に刻まれている銘文は次のようなものである。多胡碑が当時の中央政府からの命令を記録したものであるのに対し、山上碑と金井沢碑に刻まれている銘文は、私的なもので、それぞれ、母親を供養するためのものと、一族の繁栄を祈念するものとなっている。



館内の多胡碑のレプリカと解説(2019.2.23 撮影)



館内の山上碑のレプリカと解説(2019.2.23 撮影)



館内の金井沢碑のレプリカと解説(2019.2.23 撮影)

 最後に、三碑について纏めると次のようである。


上野三碑一覧表
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

氷と雪の季節(3)

2019-03-08 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢町では、「Karuizawa Winter Festival 2019」として、2018年11月23日(金)から2019年2月23日(土)の期間、さまざまなイベントが開催された。町の公式ホームページにも下記パンフレットが掲載されていたし、町内も主な場所にも同じ内容の大型ポスターが見られた。


ウインターフェスティバルパンフレット

 イベントの内容は次のようなもので、町内の各所にはイルミネーションが点灯され、花火大会が開催されるとともに、期間を通じて各所で花火が打ち上げられた。大賀ホールでは、12月にクリスマスコンサートが、年が明けて2月には2019軽井沢町民音楽祭ダ・カーポコンサートが行われ、新装なった風越公園内の施設では、カーリングの国際選手権大会や、スケート競技大会(小学校の部、中学校の部)が催され、冬季の軽井沢を盛り上げた。

 
軽井沢ウィンターフェスティバルイベント一覧(広報 かるいざわ 2019年1月号から)

 軽井沢は夏の避暑地のイメージが強いが、最近では通年利用型の別荘も増え、冬季の観光客も増えるなどイメージも変わってきている。駅南側のアウトレットモールはその典型で、冬季もずいぶん賑わっている。

 もちろん冬期の気温は、昼間でもマイナスになることがあり、平均気温はマイナス3度程度、最低気温はマイナス8~9度で、夜間はマイナス15度以下になることもあって、とても寒い地域であることには変わりはない。

 この寒さを利用した屋外のスケートリンクもあって、前記の風越公園にある「軽井沢アイスパーク」の屋外アイススケートリンクは2月中旬まで利用されていた。このほか、中軽井沢にある天然氷を一部利用した「ケラ池スケートリンク」は、3月10日までオープンしている。


軽井沢風越公園アイスパークスケートリンク(2019.2.21 撮影)

 軽井沢にはそれほど大きいものではないが、池や湖がいくつかある。これらは、冬季の利用という点では特別なことはなにもしていないが、冬季には全面結氷するところがある。南軽井沢の「八風湖」は全面結氷しているし、中軽井沢の塩沢湖などは一部に氷が張っている。


全面結氷した八風湖(2019.2.8 撮影)


一部氷の張った塩沢湖(2019.2.21 撮影)


レークニュータウンの湖は凍っていなかった(2019.2.23 撮影)

 観光客に人気の雲場池は、水源となる御前水が湧水であり、その水量も多く、この場所にほど近いということもあって、結氷することはないようである。ただ、水の流れがあまりない、小さい方の池には氷が張っていた。

 撮影に出かけたこの日、水面には、秋に見られたマガモの姿が消え、カルガモとキンクロハジロが見られた。


氷が張った雲場池の前の池(2019.2.19 撮影)


凍らない冬の雲場池(2019.2.19 撮影)


雲場池のカルガモ(2019.2.19 撮影)


雲場池のキンクロハジロ(2019.2.19 撮影)


精進場川への流れ(2019.2.19 撮影)

 軽井沢の観光名所のひとつ「白糸の滝」はどうなっているだろうか、冬季に氷柱などは見られるのだろうかと思い出かけてみたが、こちらも雲場池と同様、地下水が直接流れ出して滝になっている関係か、滝下流の流れも含めて、まったく凍る様子が見られなかった。


凍らない冬の白糸の滝(2019.2.5 撮影)


白糸の滝下流の渓流(2019.2.5 撮影)
 
 3月に入り、久々に雪の降った日の朝、雲場池に行ってみたが、小さい方の池も、もう再び凍ることはない様子であり、再びマガモの姿も見られた。


雪の日の朝の雲場池(2019.3.5 撮影)


雪の日の朝の雲場池(2019.3.5 撮影)


この日はマガモの姿が見られた(2019.3.5 撮影)

 この雪もすぐに消えてしまった。矢ケ崎川のように、水量がもともと少ないところでは、川床が凍り付いたままになっていたが、3月も上旬になるとそろそろ待ち望んでいた春の到来を感じることができるようになる。

 我が家の庭に植えた「フクジュソウ」と「スノードロップ」がいち早く咲き始めてそれを知らせてくれている。雪と氷の季節の終わりも近い。


庭で咲き始めた「フクジュソウ」(2019.3.1 撮影)


庭で咲き始めた「スノードロップ」(2019.3.1 撮影)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラウンドアバウト(2)

2019-03-01 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢に町内で2番目のラウンドアバウト「借宿ラウンドアバウト」が新設された。従来からあった「六本辻ラウンドアバウト」に次ぐもので、信濃追分駅から続く町道借宿バイパス線から軽井沢バイパスに合流する手前に位置している。

 同交差点は外形30mで、3本の道路が交わっている(内1本は退出専用)。環状内の通行車両が優先であるのは、ラウンドアバウトには一般的なルールであるが、六本辻と違い、侵入時は「とまれ」ではなく「ゆずれ」の路面表示となっている。


軽井沢町内のラウンドアバウト設置場所(軽井沢町公式HP掲載の地図を一部修正)

 この「借宿ラウンドアバウト」の写真が、町の「広報 かるいざわ」の2019年1月号の表紙に、町道借宿バイパス線が開通したということばと共に紹介されている。


借宿ラウンドアバウトを掲載した地元誌「広報 かるいざわ」(2019年1月号)

 また、昨年のことになるが、このラウンドアバウト(環状交差点)の普及を目的にした「ラウンドアバウトサミット」が、全国16市町からなる普及促進協議会の主催で、10月25,26日軽井沢大賀ホールなどで開かれている。全国の自治体関係者ら約600人が参加したというから、かなりの規模の会議であったことが伺える。

 以前、軽井沢・六本辻にあるこのラウンドアバウトを紹介した時(2016.8.4 公開)には、まだ日本では数えるほどしかないと思い、その珍しさもあって紹介したつもりであったが、今回この記事により、日本各地にもずいぶん多くのラウンドアバウトが設置されていることを知った。


ラウンドアバウトサミット開催を伝える軽井沢新聞(2018.11月号)

 この記事によると、「ラウンドアバウトは2014年9月の道路交通法改正以降、各地で整備され、(2018年)9月末時点で30都府県78ヶ所で運用されている。」という。また、ラウンドアバウトサミットで、軽井沢町地域整備課の担当者が報告した内容によると、「ラウンドアバウトの正式運用が始まってから現在までは事故はおきていない」とのことである。 

 英国はじめ、ヨーロッパやアメリカでは広く普及しているとされるこのラウンドアバウト、日本での普及状況の実態は、とみてみると次のような状況であった。ここで、宮城県は日本で最もラウンドアバウトが普及している県であるが、その設置年度は資料には示されていなかったので、下表のようになった。また、設置総数も上記最新情報とは若干異なったものとなっている。

 これによると、2014年の道路交通法改正が契機となり、設置は急増しており、その後も徐々に設置数の増加がみられている。


日本のラウンドアバウト設置状況(ウィキペディア「日本のラウンドアバウト⦅2019年1月3日 13:19⦆」のデータによる)

 宮城県で設置が進んでいるのは、東日本大震災の時、停電により交差点での通行が混乱したことへの反省によるとされている。長野県はその宮城県に次いで設置件数の多い県であり、軽井沢町六本辻のものは、2012年11月13日からの運用というから、茨城県の常陸多賀駅前広場の同年6月27日に次いで、全国でも、かなり早い時期の設置ということになるが、どのような背景があったのだろうか。

 常陸多賀駅前広場のラウンドアバウトについては、日立市の当時のHPに、「駅前広場の・・・錯綜する交通の整理など、交通結節点としての課題が山積していましたが、この度、再整備工事が平成24年6月27日に完成しました。・・・ロータリー内の車両の通行が優先となります。徐行や一時停止でロータリー内へ入り、時計回りの一方通行で走行し、目的の方向へ抜ける方式です。信号処理によるストレスが軽減され、災害等で停電になった際にも機能します。」とその目的と運用方法が記されている。

 軽井沢町の公式HPを見ると、ラウンドアバウトの運用方法は出ているが、特に設置理由は見られない。六本の道路が交わっている場所なので、通行車両のスムーズな通行と、安全の確保が主たる目的であることは容易に想像がつくが、それだけであったのだろうか。

 国土交通省が作成した資料「ラウンドアバウトの現状」(http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/roundabout/pdf01/4.pdf)に紹介されている、「軽井沢六本辻ラウンドアバウト社会実験協議会資料」によれば、アンケート調査結果として、交差点の全体的印象や歩行者・自転車の安全性が取り上げられているので、車両どうしの事故発生のほかにこうした問題意識があったことが伺える。

 一方、2014年9月1日の道路交通法の一部改正とはどのようなものか。「環状交差点における車両等の交通方法の特例に関する規定の整備」が盛り込まれたとされているが、今までの交通方法に大きな変化を与えるその要点は次の2点とされる。

①車両等は、環状交差点においては、当該環状交差点内を通行する車両等の進行妨害をしてはいけない。

②車両等は、環状交差点に入ろうとするときは徐行しなければならない。
 
 これは、「ラウンドアバウトの交差点では、交差点内の車両が優先」であることを示している。従来の道交法では、優先道路の標識がある場合や明らかに道幅が異なる場合、一時停止・徐行の道路標識がある場合など交差する道路で優先関係が決まる場合を除いて、車両は「左方優先」、つまり、左方向から進行してくる車両の進行を妨害してはならないと定められている。

 そうすると、ラウンドアバウトにおいても、この「左方優先」の原則が適用され、ラウンドアバウト内を通行する車両ではなく、進入する側の車両が優先となる。これによって、ラウンドアバウト内には、必要以上に通行車両が多く、滞留してしまい、通常の十字交差点に比べ、信号待ちや加減速の時間が抑えられるというメリットが半減してしまうことになる。

 この問題を解消し、ラウンドアバウト本来の特性を生かせるようにするための特例が今回の改正の目的であった。


軽井沢町が配布しているラウンドアバウトの通行方法

 現在、六本辻ラウンドアバウトでは、進入車両を一時停止させているが、今後は借宿ラウンドアバウトのように徐行に変わっていくとの話も聞かれる。ラウンドアバウトでは車だけではなく、自転車や歩行者の通行・横断方法も十字型交差点とは異なる。こうしたことを周知させることも、今後ラウンドアバウトを普及させるうえで重要である。

 海外でのラウンドアバウトの設置状況をみると、ヨーロッパやイギリス連邦、アメリカで普及している。ラウンドアバウト先進国のイギリスでは1960年代から導入のための調査・研究が行われ、1993年にはガイドラインが発行されていることもあり、設置が先行していて、2014年時点で25,000ヶ所の実績がある。ヨーロッパではフランスの設置数が最大で、同じく2014年の資料で30,000ヶ所以上とされる。また、オーストラリアでは、イギリスとほぼ同時期にガイドラインを発行している。
 
 アメリカでは1990年代からメリーランド州、フロリダ州などで設計ガイドラインが発行され、導入が始まった。2010年の統計数字によると、2,000ヶ所以上、2014年には4,000ヶ所に設置されている。このほかドイツでも2000年頃からガイドラインの発行と改訂が行われ、2008年ごろから普及が進んでいる。

 日本ではまだこれらに比べると、設置数はとても少ない現状であるが、今後ラウンドアバウトに関するルールの周知と共に、ラウンドアバウト設置のメリット・デメリットの検討、設置環境による適・不適の検討などが進むにつれて、設置数が増えて行くのではと思われる。




 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする