軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

山体崩壊

2017-04-28 00:00:01 | 浅間山
山体崩壊。この何とも恐ろしい響きのある言葉の実態を知ったのは、浅間石のことを調べているときであった。本ブログの浅間石(3)で紹介したように、今から2.4万年(2.8万年との説もあるようだが)ほど前に(旧)浅間山の大規模な崩壊が起きている。

 浅間山は三重式火山で、現在の狭義の浅間山は前掛山であるが、その西側にある黒斑(くろふ)山は第一外輪山で、今は東に開いた馬蹄形カルデラを形成している。この馬蹄形カルデラは大規模な崩壊すなわち「山体崩壊」によって形成されたと見られている。

 このとき山体崩壊した体積は4立方キロメートルと推定されており、カルデラ形成以前は現在の湯の平付近に火道を持つおよそ2,800mの富士山型の成層火山であったと考えられているという。

 発生した泥流の痕跡は浅間山周辺の「流れ山」と共に群馬県の前橋市にまで及んでいて厚さ10mに及ぶ前橋台地を形成しているとされる。

 浅間山の大規模噴火としては平安時代の1108年、と江戸時代の1783年の噴火が知られていて、災害の規模も記録に残されている。この時は火山噴火に伴う噴出物とこれらが山壁に降り積もっていたものが、爆発と噴火の震動に耐え切れずに崩壊したためにおきた火砕流や土石流であり、火山の大半が失われる「山体崩壊」ではなかった。

 この時の火山灰や溶岩の噴出量はそれぞれ、およそ10億立方メートルと4.5億立方メートルと推定されている。一方黒斑山時代の山体崩壊で流下した土石流の体積は上記の4立方キロメートルすなわち、40億立方メートルであるから、その規模の巨大さが想像できる。この山体崩壊により黒斑山は2,800mから2,404mまで低くなっている。

浅間山2,568mの西に連なる現在の黒斑山2,404m(2013.4.28 撮影)と山体崩壊前の旧浅間山2,800mの予想図(作成筆者)

 本ブログ「浅間石(3)」で紹介した火山学者早川由紀夫群馬大学教授の2003年の言葉の一部を再度引用すると、
「・・・いまから2万4,000年前、浅間山がまるごと崩れました。崩壊した大量の土砂は北に向かって流れて吾妻川に入り、渋川で利根川に合流し、関東平野に出て、そこに厚さ10メートルの堆積層をつくりました。・・・つまり前橋市と高崎市は、浅間山の崩壊土砂がつくった台地の上に形成された都市なのです。

 浅間山のような大円錐火山が崩壊することはめずらしいことではありません。むしろ大円錐火山にとって、崩壊することは避けられない宿命のようなものです。ゆっくりと隆起してできる普通の山とちがって、火山は突貫工事で急速に高くなりますから、とても不安定です。大きな地震に揺すられたり、あるいは地下から上昇してきたマグマに押されたりして、一気に崩れます。

 2万4000年前の浅間山崩壊で発生した土砂の流れは、北側の群馬県だけでなく、南側の長野県にも向かいました。・・・浅間山の崩壊土砂がつくった土地の上にはいま、群馬県で50万人、長野県で10万人が住んでいます。私たちはこのことをどう考えればよいのでしょうか。答えは、簡単にはみつかりそうもありません。いろいろな角度から研究を進める必要がありそうです。(早川由紀夫)上毛新聞に2003年9月4日に掲載された郡大だより65教育学部を、わずかに書き換えた」
とある。

 なお、南軽井沢ではこの泥流に湯川が堰き止められ、大きな湖が形成された(南軽井沢湖成層)。現在の軽井沢はこの湖に降り積もった離山火山が噴出した軽石の上にあるとされていて、軽石沢が軽井沢の語源とされている。

 ところで、過去に日本と世界で起きた「山体崩壊」について調べて見ると、次のようなものが見つかる。

2900年前・・・・富士山東斜面(静岡県/山梨県、現在の標高 3,776m)
紀元前466年 ・・鳥海山(山形県/秋田県、2,236m)
887年・・・・・八ヶ岳(天狗岳: 長野県、2,646m)
1586年・・・・・帰雲山(岐阜県、1,622m)
1640年・・・・・北海道駒ケ岳(北海道、1,131m)
1707年・・・・・大谷崩れ(静岡県、2,000m)および五剣山(香川県、375m)
1741年・・・・・渡島大島(江良岳: 北海道、737m)
1751年・・・・・名立崩れ(新潟県、100m)
1792年・・・・・眉山(長崎県、708m)
1815年・・・・・タンボラ山(インドネシア、2,851m)
1847年・・・・・岩倉山(虚空蔵山: 長野県、764m)
1858年・・・・・鳶山(富山県/岐阜県、2,616m)
1883年・・・・・クラカタウ(インドネシア、400m)
1888年・・・・・磐梯山(福島県、1,816m)
1911年・・・・・稗田山(長野県、1,428m)
1961年・・・・・大西山(長野県、1,741m)
1980年・・・・・セント・ヘレンズ山(アメリカ、2,550m)
1984年・・・・・御嶽山(長野県、3,067m)
2008年・・・・・栗駒山(宮城県/岩手県、1,626m)

 このうち、1980年5月18日に起きたアメリカ、ワシントン州のセント・ヘレンズ山の噴火とこれに伴う山体崩壊は記憶に新しいところである。富士山に似た2,950mの秀麗な山の姿が一変し2,550mになった。

セントへレンズ山の山体崩壊による変化(作成筆者)

 この時の火山噴出物量は10億立方メートル(ウィキペディア *1)と推定されていて、約40平方キロメートルの範囲に平均25mの厚さで堆積したとされている(*2)。黒斑山の山体崩壊(40億立方メートル)がどれほど大規模なものであったかが理解される。

*1:ウィキペディア フリー百科事典 2017年2月15日UTC
*2:高橋 保、新砂防,118, 昭56.2, PP24-34

 さて、セント・ヘレンズが似ていた本家・富士山に関しては、小山真人(こやま まさと)静岡大学防災総合センター教授(富士山火山防災対策協議会委員、火山噴火予知連絡会伊豆部会委員)が2012年に次のような発表をしている。

 「富士山の噴火と言えば、300年ほど前の江戸時代に起きた「宝永噴火」をイメージする人が多いだろう。宝永噴火は開始から終了までの16日間に、マグマ量に換算して7億立方メートルもの火山灰を風下に降らせた大規模で爆発的な噴火だった。同種の噴火が将来起きた場合の首都圏への影響については、10月9日の藤井氏執筆の本欄を参照してほしい。

 しかしながら、富士山が過去に起こした噴火は多種多様であり、必ずしも次の噴火が宝永噴火に類似するとは限らない。ここでは富士山が起こしうる別種の大規模災害として、「山体崩壊」を指摘しておきたい。

 山体崩壊は、文字通り山体の一部が麓に向かって一気に崩れる現象であり、その結果生じる大量の土砂の流れを「岩屑(がんせつ)なだれ」と呼ぶ。富士山では、不確かなものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたことが知られており、最新のものは2900年前に東側の御殿場を襲った「御殿場岩屑なだれ」である。その際に崩れた土砂量は、宝永噴火を上回る約18億立方メートルである。

 岩屑なだれの速度は時速200キロメートルを越えた例が海外の火山で観測されており、発生してからの避難は困難である。首都圏にもっとも大きな影響が出るのは、北東側に崩壊した場合であろう。大量の土砂が富士吉田市、都留市、大月市の市街地を一気に埋めた後、若干速度を落としながら下流の桂川および相模川沿いの低い土地も飲み込んでいき、最終的には相模川河口の平塚・茅ヶ崎付近に達する。このケースの被災人口を見積もったところ約40万人となった。事前避難ができなかった場合、この数がそのまま犠牲者となる。

 同様なケースが実際に約1万5000年前に生じた。この時に相模川ぞいを流れ下った大量の土砂は「富士相模川泥流」と呼ばれ、相模原市内の遺跡などで今もその痕跡を見ることができる。

 このように山体崩壊は広域的かつ深刻な現象であるが、現行の富士山のハザードマップでは想定されていないため、それに対する避難計画も存在しない。「想定外」となった主な理由は、約5,000年に1回という発生頻度の小ささである。

 しかし、たとえ発生頻度が小さくても、起きた時の被害が甚大である現象に対して全く無防備だとどうなるかを、昨年私たちは嫌と言うほど見せつけられた。東日本大震災と福島原発災害である。しかも、最近の研究によって、宝永噴火の際にも地下のマグマの「突き上げ」による宝永山の隆起が起き、山体崩壊の一歩手前まで行ったことが明らかになった。

 幸いにして、こうした明瞭な前兆をともなう山体崩壊は、山の変形を監視することによる予知が可能である。しかし、山体崩壊を想定したハザードマップと避難計画がない現状では、40万人もの人間をすみやかに遠方に避難させることは困難である。山体崩壊による甚大な被害が予想される静岡・山梨・神奈川の3県は、それを考慮した避難対策を早急に作成すべきである(東京新聞2012年10月31日コラム「談論誘発」)から引用)」。

 ここに示されているように、富士山の直近の山体崩壊である2,900年前の「御殿場岩屑なだれ」の規模は 18億立方メートルと推定され、冒頭紹介した黒斑山崩壊時の40億立方メートルの約1/2の規模である。

 小山教授は、富士山で山体崩壊が起きた場合のおおよその被災範囲(厚い土砂で埋められる範囲)を、過去に発生例がある北東側・東側・南西側の方向別にそれぞれ描いている。

小山真人教授による富士山山体崩壊時の土石流の流下予想図
(http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/tokyoshinbun121031.htmlから許可を得て引用)

 黒斑山の山体崩壊が発生した2.4万年前の時代は日本では石器時代の終わりごろにあたる、縄文時代は1.6万年前から始まるとされているから、その少し前の出来事になる。

 弥生時代は今から3,000年前に始まるとされているので、富士山の山体崩壊は弥生時代のできごとであったことになる。当時の人々にどのような打撃を与えたのであろうか。

 仮に現在の社会でこうした山体崩壊が起きるとどういうことになるか。上記のとおり、小山真人教授は、富士山が北東側に崩壊した場合には40万人が被害を受けると推定している。また、浅間山の崩壊土砂がつくった土地の上にはいま、群馬県で50万人、長野県で10万人が住んでいるということである。

 その想定被害は驚くべきものである。巨大地震や津波の被害を受けたばかりの我々には、その記憶がまだ生々しいが、場合によってはこれをはるかに上回る被害が予測されているということになる。

 先日NHKのTV番組ヒストリアで、群馬県榛名山の噴火で8kmほど離れた麓の渋川村が火砕流に飲み込まれた様子が発掘により明らかになったことを放送していた。

 村人の多くが済々と避難した後、火山の噴火を鎮めようと祈りを捧げていたとも考えられているが、何らかの目的で後に残った村の長(王)が逃げる間もなく家族と共に火砕流に飲み込まれていった。

 現在南海トラフ沿いで、マグニチュード8~9級の巨大地震の発生が懸念されている。最悪の場合には、東日本大震災を大幅に上回る被害が出る恐れがあるとされているのであるが、地震だけではなく、火山噴火やこれに伴う山体崩壊にも目を向ける必要があるとの指摘に、改めて関心を払うべきなのかもしれない。


 












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八田別荘とコクサギ

2017-04-21 00:00:01 | 軽井沢
 今回は蝶の幼虫の写真がたくさん出てきますので、嫌いな方はご注意またはご遠慮ください。

 旧軽井沢銀座通りの一筋南東側の通りには有名な軽井沢会テニスコートや軽井沢ユニオンチャーチがある。この通りを南西の方角に散歩していて、珍しく「コクサギ」の生垣をめぐらしている古い別荘風の建物に出会った。門柱脇の別荘表示板には「八田」と書かれていた。2015年の夏のことである。

 後に知ったのだが、この八田邸は軽井沢に建てられた日本人初の別荘であった。この八田邸がなぜコクサギの樹を生垣に選んだのか不思議であった。

 コクサギといっても、多くの人には何のことか判らないと思う。もちろん植物に詳しい人は知っているのだろうが、コクサギという名を知っているのは、一部の蝶に関心を持っている人くらいではないだろうかと思う。

 アゲハチョウの仲間の幼虫の多くはウンシュウミカン、カラタチなどのミカン科の植物の葉を食べて大きくなるのだが、中には同じミカン科でも栽培種は好まず山野のコクサギ、カラスザンショウ、キハダなどを好んで食べる種類もいる。

 オナガアゲハ、カラスアゲハなどがそれで、特にこの2種の幼虫はコクサギの葉を好んで食べるといわれている。昨年の夏、軽井沢で撮影したこの2種の蝶を次にご紹介する。


「クサギ」の花で吸蜜するオナガアゲハ(2016.8.8 撮影)


「クサギ」の花で吸蜜するカラスアゲハ(2016.8.8 撮影)

 名前が似ていて紛らわしいが、2種の蝶が吸蜜しているのは「クサギ」の花であり、ミカン科の「コクサギ」とは別種、シソ科の植物である。

 コクサギの方は枝から出る葉が左右に2枚づつになるという特徴があるので、判ってみると見分けやすい。


コクサギの葉のつき方(イメージ図)

 まだ鎌倉に住んでいたころ、逗子の公園を散歩していて、妻がコクサギの樹が有るといって近づいていった。そしてすぐに10mmほどの小さな褐色の幼虫が一匹、葉の上にいるのを見つけた。この時はオナガアゲハかカラスアゲハの幼虫ではないかと話し合っていたが、まだ確証はなかった。


コクサギの葉でみつけた幼虫(2014.9.15 撮影)

 この幼虫を連れて帰り育てたのだが、最初は現地から持ち帰ったコクサギの葉を与え、これがなくなってからは、オナガアゲハとカラスアゲハの両方の餌になると思われるイヌザンショウの苗木をネットで見つけて購入し、この鉢植えに幼虫を移して保護用の網で覆って庭で育てた。コクサギの苗木は手に入らなかったためであった。

 逗子から持ち帰った幼虫はその後、体の文様と臭角の色を見てオナガアゲハの幼虫であると確認したのだが、この時期もう一つ思いがけないことが起きていた。

 通販で埼玉県川口市から購入したイヌザンショウには別の幼虫がついて送られてきていたのである。最初は気が付かなかったが、しばらくして幼虫が少し大きくなってからそのことに気がついた。妻とは刺客付きの苗木が来たねと言って笑ってしまった。

 せっかく購入したこのイヌザンショウを食べてしまうこの刺客幼虫はしかし、ミヤマカラスアゲハの幼虫であった。最終的にこの2匹の幼虫は庭で蛹になるところまでを見届けたのだが、残念ながら翌年春の羽化は見られなかった。3月には蛹たちを残し、これらを家族に託して我々は軽井沢に転居してきたからであった。


終齢に成長したオナガアゲハの幼虫(2014.10.2 撮影)


終齢に成長したミヤマカラスアゲハの幼虫(2014.10.2 撮影)

 このころは、庭にユズやサンショウの木を植えていて、これら2匹とは別にナミアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ、ナガサキアゲハなども一緒に大きなネットの中で飼育していた。育てることばかりに熱心で、成長の過程をほとんど撮影していなかったので、今探してみてもほとんど写真が残っていない。見つかった写真をご紹介する。


ナミアゲハの終齢幼虫(2014.10.13 撮影)


クロアゲハの終齢幼虫(2014.9.6 撮影)


カラスアゲハの終齢幼虫(2014.10.11 撮影)


ナガサキアゲハの終齢幼虫(2014.10.2 撮影)



カラスアゲハの前蛹(2014.10.13 ビデオ撮影からのキャプチャー画像)

 このカラスアゲハは前蛹になっているのに気が付き、室内に持ち込んでビデオ撮影を試みたが、照明を嫌ってか陰に回りこむようなしぐさを見せたので長時間にわたる撮影は中止した。2日後には無事蛹になっていた。


カラスアゲハの蛹(2014.10.15 撮影)

 さて、軽井沢に来てからは周辺の林の縁にコクサギがあることに気が付いてはいたが、別荘の生垣に植えられるようなものとは思わなかった。それで、一体八田さんとはどのような方であろうか、蝶に興味があり庭にオナガアゲハやカラスアゲハを呼ぶためにわざわざ生垣にコクサギを植えたのだろうかと妻と話し合っていた。

 しばらくして、新聞に軽井沢町が「八田別荘」を買い取ったというニュースが流れた。この時初めてこの八田別荘が軽井沢で日本人初の別荘であることを知った。

 八田別荘が建てられたのは、1893年(明治26年)であり、「100年以上経った今でも建築当時の姿で保存されており、『別荘地 軽井沢』を語る上で、とても重要な歴史的建築物である」とされている(軽井沢町公式ホームページから引用)。


現在の八田別荘の様子(2017.3.16 撮影)


別荘の門柱脇に現在も置かれている「八田」と書かれた別荘表示板(2017.3.16 撮影)

 別荘を建てた八田氏とは、旧陸軍大佐の八田裕二郎氏である。当時の軽井沢には宣教師など外国人が別荘を建てていたのだが、まだ日本人は別荘を建てることがなかった。

 八田氏は、すぐ近くにある群馬県の霧積(きりずみ)温泉に療養に来た際に、峠を越えた軽井沢を訪れ、高原の気候を楽しんだ。そして、海外生活が長く語学が堪能であったため、英国人たちと話が出来る軽井沢を気に入り、土地を購入したという。

 ちなみに、この霧積温泉は1977年に製作された角川映画「人間の証明」で「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね」というセリフで有名なところである。今年4月2日にTVでリメイク作品が放送されている。

 その後、1893年(明治26年)にはこの八田別荘を建てている。最初に購入した土地は現在よりも広く、西側に広がっていて、軽井沢本通りに面していた。

 創建時には電気、水道は引かれておらず、水は敷地内に井戸を掘って、明かりはランプを使い、夜出かけるときには提灯を下げて灯りとしていたとのこと。このランプによる明かりは1914年(大正3年)に配電が開始されるまで続いた。

 八田別荘はこのあと、3代にわたり120年以上受け継がれてきたが、2014年(平成26年)度に保存のため、軽井沢町が建物の寄贈を受け、用地を買い上げて、現在は町が保管している。

 軽井沢町の公式ホームページにある八田別荘の説明には、上記のほか庭の植栽についても記載があって、モミ、カラマツ、カエデ、モミジには言及しているものの、コクサギの生垣については触れられていない。

 軽井沢のこの周辺では、オナガアゲハやカラスアゲハも見かけることがあるので、この八田別荘のコクサギの葉にも産卵に来ているのではと思うのだが、これまでのところまだ産卵しているところを目撃できていないし、葉に食痕は見られず卵を見つけることも出来ていない。


生垣のコクサギの実(2017.3.26 撮影)


八田別荘の「コクサギ」の生垣、新しい葉はまだ見られない(2017.3.16 撮影)

 八田氏がコクサギを生垣に採用した理由についてもまだ判らないのだが、オナガアゲハやカラスアゲハが実際産卵に来るものかどうか。もう少し様子を見守っていきたいと思っている。



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信州サーモン

2017-04-14 00:00:01 | 信州
 信州サーモンをご存知だろうか。海のない県、長野県とサーモン/鮭とはオヤと思う組み合わせであるが、これは長野県水産試験場が独自開発した自慢の養殖魚の名前である。


信州サーモンのPRポスター(長野県公式ホームページから引用)

 この信州サーモンとは、ニジマスとブラウントラウトの交配種だが単なるかけあわせではない。おいしさを追求するとこうなるのかという例のようだが、バイオテクノロジーを駆使して出来たものということで、他県からもいくつかの類似のブランド・トラウトが開発され販売されているが、私にはこの信州サーモンが一歩抜きんでているように思えるのは贔屓目だろうか。

 7年ほど前、まだ新潟県上越市に住んでいたころ、軽井沢のリゾートホテルに母と妹二人とを招き宿泊したことがある。そのときの夕食に出されたものがこの信州サーモンのムニエルだと説明を受けた。

 普通であれば、こうした宿泊先での夕食のメニューのことは忘れてしまいそうなものだが、やはり何か心に残るものがあったようで、今でもよく覚えている。残念ながら、記憶にあるのは名前の方で、肝心の味は美味しかったというだけで、詳細は覚えていないのだが。

 長野県のホームページ(http://www.pref.nagano.lg.jp/suisan/jisseki/salmon/salmon.html)にはこの信州サーモンのことが次のように紹介されている。

 「長野県の養殖魚の主流であるニジマスは、育てやすく肉質もよい反面、IHN(伝染性造血器壊死症)などウイルス性の病気に弱いという欠点があります。そこでこうした病気に強いブラウントラウト(ヨーロッパ原産の鱒)と交配させることで、両方の長所を持った魚を開発しました。

 普通、ニジマスとブラウントラウトを交配させても、その子どもはほとんど死んでしまいます。そこで、

(1) 普通のニジマスの受精卵(2n=二倍体)に高い水圧をかけて染色体を2倍(4n)に増やします。
(2) 成長した四倍体(4n)の雌から採った卵子にブラウントラウトの精子を受精させ、三倍体を作ります。

 三倍体は、雄も雌も子どもを生むことはありませんが、雌は卵をもたないため、その栄養が成長にまわり通常よりも大きくなり肉質もよくなります。

 そこで、

(3) ブラウントラウトの雌を雄性ホルモンで性転換させ、将来雌になるX精子しか作らないようにして四倍体ニジマスの卵子と受精させます。

 こうして、すべて雌の三倍体(信州サーモン)が生まれます。長野県水産試験場が開発したこの技術(四倍体を使ってすべて雌の雑種三倍体を作り出す)は、全国初の手法です。」


ニジマスとブラウントラウトの交配により信州サーモンを得る説明図(長野県公式ホームページより引用)

 さっと書いてあるので、判りにくいかもしれないが、ポイントは三倍体の雌だけのハイブリッドを効率よく作り出すところにあるようだ。こうして、病気に強く育てやすい、しかも成長の早い種が得られている。また、繁殖能力が無いので逃げ出したとしても一代限りとなり、自然界への影響が抑えられるということも考慮されているようである。

 この三倍体とは普通には馴染みの無い言葉であるが、学生時代に学んだとおり、通常、生物の体は二倍体、すなわち両親から1本づつ受け継いだ染色体が2本のペアになっていて、これが生物の種に応じた数だけ備わっている。

 上記の説明のとおり、信州サーモンの場合には母からは2倍の2本づつの染色体を、父からは通常通り1本づつの染色体を受け継ぎ、結果3本づつの染色体のセットを持つようになっていて、三倍体ということになる。

 こうした世界のことをほとんど知らない私には、受精卵に高圧をかけると染色体数が2倍になるということや、雌を性ホルモンで雄に性転換させるというのも驚きだが、三倍体や四倍体といった染色体数を持つ信州サーモンや、ニジマスの個体が(生殖能力や体の大きさは別にして)種としての正常な発達をするということがとても不思議に思える。

 しかし、自然界にはこうした二倍体以外の倍数体の染色体数を持つ生物も種々存在しているようであり、植物には特に多く見られるという。

 人為的なものでは、種無しスイカは三倍体、栽培種のジャガイモは四倍体ということである。

 さて、この信州サーモンは、冒頭に書いたとおり、長野県水産試験場が約10年かけて開発し、種苗生産や養殖を行うために水産庁に申請したマス類の新しい養殖品種で、2004年(平成16年)4月26日付けで承認されて、稚魚の出荷が始まっている。初年度の出荷数量は10万尾強、4年後の2008年(平成20年)には30万尾に達している。

 この頃の水産試験場の方針は大量に売りさばく量販店対象ではなく、料理店や宿泊施設であったという。私たちが、ホテルで提供を受けたのが2009年頃のことなので、まさにこうした手探りで販売状況の様子を見ている時期であったということになる。

 その後の稚魚の出荷数量は2016年度で36万尾というから20%程度増加したものの、この頃の状況はその後もさほど大きくは変化していないということになる。

 最近は、ようやく軽井沢のスーパーの魚売り場にサクの状態や、刺身としてスライスされたものが普通に並ぶようになっているが、私たちが移住してきた2015年にはまだいつでもスーパーに並んでいるという状態ではなく、2軒しかないスーパーをあちらになければこちらと探さなければならなかった。

 東京や横浜から訪ねてきてくれる友人には、信州産の食材を食べてもらいたいので、定番としてこの信州サーモンを出すようにしている。刺身やムニエルが一般的だが、我が家ではコンフィにしたり昆布〆にしたりしていているので、一味違ったものになっていると思っている。

 このコンフィだが、実はTVの番組から頂戴したものである。オーストラリアのシドニーだったかと思うが、ここでレストランを経営している日本人が作る人気料理がタスマニア・サーモンのコンフィだった。1年以上先まで予約が入っていると放送していたように記憶している。

 70~80gのタスマニア・サーモンの切り身を、ディル、バジル等のスパイスを入れたオリーブオイルに浸して、40℃で8分間加熱した後オイルを落とし2cm程度の厚さに切る。

 これに細かく刻んだ万能ねぎと塩昆布をまぶし、はらこを添えているところが特徴であったが、これを我が家でも真似ている。本場のタスマニア・サーモンのコンフィの味はいつか旅行をして確かめてみたいものと夢見ているが、信州サーモンのコンフィもなかなかのものではないかと思っている。

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伊丹市昆虫館

2017-04-07 00:00:05 | 日記
 友人のSさんのホームページを見ていて、兵庫県にある伊丹市昆虫館で日本チョウ類保全協会の展示会が開催されていると知り、この昆虫館にはチョウ温室があり通年で蝶を見ることができることも判り一層興味が沸いた。

 このところ定期的に大阪に来ているので、こちらでの用の合間をぬい、早速この伊丹市昆虫館に行き上記展示会を見ると共にこの昆虫館の目玉ともいえるチョウ温室にも行ってみることにした。

 伊丹市昆虫館は、JRまたは阪急伊丹駅からバスで10分程度、昆陽池(こやいけ)公園の池のほとりに建てられている。最寄のバス停(松ヶ丘)のすぐ前方に公園の入り口があり、ここから池の対岸にある昆虫館が見通せた。案内板で昆虫館への道順を確認し、早速歩き始めた。


公園案内板、図の下隅に昆虫館がある(2017.2.13 撮影)

 これは後で気がついたことだが、公園の大きい方の池の中央部にはなぜか日本列島の形をした島が造られていた。


公園入り口から池越しに昆虫館が見える(2017.2.13 撮影)

 池の周りを1/3周ほど歩き、昆虫館に向かう。遊歩道の両脇にある木々には名前を記した札が取り付けられていたので、それらを読み、写真を撮りながら歩いたのだが、樹種の多いことにはちょっと驚いた。


池の周囲をめぐる遊歩道(2017.2.13 撮影)

 イスノキ、シンジュ、シラカシ、アオギリ、ケヤキ、センダン、アキニレ、タブノキ、クスノキ、ムクノキ、アベマキ、ウバメガシ、カナメモチ、クヌギ、エノキ、ザクロ、ネズミモチ、カクレミノ、ヒメユズリハ、ウツギ、トウカエデ、ヤマブキと驚くばかりだ。


遊歩道の脇に見かけた面白い名の木「イスノキ」(2017.2.13 撮影)

 この日は野鳥の姿はそれほど多くはなかったが、案内板によると池に来る水鳥も含めると優に20種は越えるようだ。


昆陽池公園周辺に棲息する野鳥の説明板1/2(2017.2.13 撮影)


昆陽池公園周辺に棲息する野鳥の説明板2/2(2017.2.13 撮影)

 伊丹駅から比較的近く、周囲に住宅街の広がる地域としては自然がとてもよく残っているところだと感じる。

 木々をながめながら歩いているとすぐに目指す昆虫館に到着する。建物右側にはチョウ温室らしい透明なドーム状の天井が見える。昆虫館の入り口周辺はバタフライ・ガーデンとされていて、今の季節は休眠状態だったが暖かくなると、花が咲きこの辺りに棲息する蝶が集まってくるよう配慮されているようだ。


伊丹市昆虫館の入り口付近(2017.2.13 撮影)


昆虫館前にあるバタフライ・ガーデンの表示とチョウのモニュメント(2017.2.13 撮影)

 受付で入館料を払い、先ずはチョウ温室に向かった。この温室には、別室で飼育された沖縄地方産と地元伊丹市に棲息する蝶が1年中放されていて、この日も900頭ほどの蝶が真冬にもかかわらず温室内で乱舞していた。


チョウ温室に放されている種類と数を示す掲示(2017.2.13 撮影)

 オオゴマダラ、リュウキュウアサギマダラ、ツマベニチョウなど沖縄地方の種類が中心であったが、これに混じってナミアゲハ、ジャコウアゲハも目の前を通り過ぎていく。

 野外での蝶の撮影では、まず蝶をみつけることから始まるのだが、ここでは目の前にいくらでも蝶が舞っていて撮影は容易である。ただ、はじめのうちは外で冷え切っていたカメラのレンズが曇ってしまい、室内の温度に馴染むまで目の前の蝶を眺めるだけになってしまった。


チョウ温室内の様子(2107.2.13 撮影)

 普段見ることのない、私には珍しい沖縄地方の蝶の撮影をしばし楽しんだ。自然の中で苦労をして蝶を見つけて撮影するという醍醐味はないが、これはこれで楽しいものである。以下に撮影した蝶をご紹介する。


オオゴマダラ、日本の最大級の蝶で翅の幅は13cm位。昆虫館での幼虫の食草は「ホウライカガミ」
(2017.2.13 撮影)

 このオオゴマダラは温室内に一番多くいた種類であり、食草の「ホウライカガミ」という、つる性植物の鉢植えも通路脇に置かれていて、産卵の様子を見ることができた。丸い蜜台にたくさんの蝶が集合している様子はなんとなく笑えてしまう。また、別室にはこのオオゴマダラの金色の構造色に輝く蛹の展示も行われていた。


食草の「ホウライカガミ」の葉裏に産卵するオオゴマダラの♀(2017.2.13 撮影)


蜜台に群がるオオゴマダラとリュウキュウアサギマダラ(2017.2.13 撮影)


リュウキュウアサギマダラ、昆虫館での幼虫の食草は「ツルモウリンカ」(2017.2.13 撮影)


ツマムラサキマダラ、幼虫の食草はクワ科の「ガジュマル」、キョウチクトウ科の「ホウライカガミ」など
(2017.2.13 撮影)


スジグロカバマダラ、昆虫館での幼虫の食草は「リュウキュウガシワ」、「ガガイモ」(2017.2.13 撮影)


カバタテハ、幼虫の食草はトウダイグサ科の「トウゴマ」など(2017.2.13 撮影)


ツマベニチョウ、日本のシロチョウ中最大でハイビスカスを好む。幼虫の食草はフウチョウソウ科の
「ギョボク」(2017.2.13 撮影)


コノハチョウ、幼虫の食草はキツネノマゴ科植物の「オキナワスズムシソウ」など(2017.2.13 撮影)

 コノハチョウは名前通り、翅裏がコノハのような地味な色合いだが、翅表はとても美しい蝶であり、開翅を待ったが、ついに翅表は見せてくれなかった。このコノハチョウは沖縄県では天然記念物に指定されているが、ここで飼育されているのは鹿児島県産とされる。翅裏に識別番号が記されているが、これは伊丹市昆虫館で長年にわたり累代飼育を続けているうちに、個体数が減少してきたため追跡調査用に採られている措置という。

 温室で十分撮影を楽しんだ後、もう一つの目的の、伊丹市昆虫館と日本チョウ類保全協会の共催によるプチ展示が行われている2階展示室に向かった。


伊丹市昆虫館と日本チョウ類保全協会共催のプチ展示会場入り口(2017.2.13 撮影)

 ここには会員の方々が撮影した貴重な写真の数々と標本類、それにチョウの保全を呼びかける教育的な内容の展示が行われていた。友人のSさんが撮影した「カラフトタカネキマダラセセリ」の素晴らしい写真も見せていただいた。


伊丹市昆虫館と日本チョウ類保全協会共催のプチ展(2017.2.13 撮影)


Sさん撮影の「カラフトタカネキマダラセセリ」も展示されていた(2017.2.13 撮影)

 軽井沢ではこの時期は蝶撮影の休眠期であり、今回のチョウ温室訪問は愛用のカメラともども久しぶりの活動の場になった。











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