軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

日本一のシラカバ林

2019-07-26 00:00:00 | 信州
 八千穂高原には素晴らしいシラカバの自然林があり、現地に行くと、「日本一のシラカバ群生地」という看板も見られ、まことにその通りと思える規模と美しさで、シラカバ林が広がっている。関西方面からの来客があると、よくここに案内している。

 すぐ近くには、八千穂レイクという人工湖もありここは管理釣り場になっていて、レインボートラウトやイワナ釣りができるので、違う楽しみもある。

 地元佐久穂町観光協会公式HPには次のような記載があり、「日本一美しい」とこの白樺群生地を謳っている。

 「八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。ヤマツツジ、ミツバツツジ、レンゲツツジ、ドウダンツツジの群生地としても有名で白樺とのコントラストが美しい。
 クリンソウやベニバナイチヤクソウなどの山野草が高原のあらゆる所に咲く頃、白樺やミズナラ、カラマツが一斉に緑濃くなる。八千穂高原の頂上には、2,100m以上の湖としては日本一広い白駒の池があり、苔と原生林が神秘的である。そこは、清らかに流れる大石川の源流でもある。白樺林の中の遊歩道、白樺林に囲まれたキャンプ場、白樺群生地に隣接する八千穂レイクを散策すれば、自然と森林浴も楽しめる。
 紅葉の訪れは、高原一面が白樺とカラマツにより黄金色へと変わる時。その美しさに、多くの写真家が魅了される。雪化粧した高原は、澄み切った白銀の世界。深い青空が雪化粧をした高原をより輝かせ、満天の星空は手を伸ばせば届くかのような光を放つ。このように四季折々の光を心に残す八千穂高原。そこには、いつも白樺の白い森がある」


八千穂高原の案内図(佐久穂町観光協会公式HPより)

 軽井沢からは、佐久平経由で国道141号線を南下し、途中清水町の信号を西に入り、メルヘン街道(国道299号)を登ることになるが、行程50km、1時間と少しで到着する。比較的便利なこともあり、季節ごとに訪れている。

 春の芽吹きの頃、秋の紅葉の頃とそれぞれに、次のような美しい景色を楽しむことができる。


春のシラカバ林1/5(2017.5.22 撮影)


春のシラカバ林2/5(2017.5.22 撮影)


春のシラカバ林3/5(2017.5.22 撮影)


春のシラカバ林4/5(2017.5.22 撮影)


春のシラカバ林5/5(2017.5.22 撮影)


秋のシラカバ林1/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林2/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林3/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林周辺4/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林周辺5/6(2018.10.17 撮影)


秋のシラカバ林周辺6/6(2018.10.17 撮影)

 周辺の草地では、蝶の姿も見られるので、私にとっては尚一層の楽しみがある。最初にこの八千穂高原を訪れた時に、初めてクジャクチョウの飛ぶ姿を見ることができた思い出がある。

 スジボソヤマキチョウやヒョウモンチョウなどの姿もあった。


スジボソヤマキチョウ(2015.9.13 撮影)


ミドリヒョウモン♂(2015.9.13 撮影)


ウラギンヒョウモン♀(2015.9.13 撮影)

 この八千穂高原のシラカバ林のことは、軽井沢に住むようになる以前から知っていたので、現地で言われているとおり、ここが「日本一のシラカバ林」であると思っていた。

 ところが、2015年に東北地方を旅行し、久慈で琥珀採集を楽しんだ後、駅近くに戻って来た際に、地元の観光案内板に、「日本一の白樺林」という文字を見つけて、オヤと思った。


岩手県久慈市の観光案内板(2015.11.11 撮影)


「日本一の白樺林」の文字が見られる、上記写真の部分(2015.11.11 撮影)

 その時は、旅行中で詳しく調べなかったが、帰宅後調べてみると、そのシラカバ林は久慈市の平庭高原のものであることが判った。

 岩手県久慈市の公式HPを見ると、平庭高原を紹介するページには、次のような記述が見られる。

 「日本一の白樺林『平庭高原』です。四季を通じて自然の息づかいを満喫させてくれます。久慈平庭県立自然公園には、スキー場、パークゴルフ、闘牛場、平庭高原ビール工場、ワイン工場、ロッジ、レストラン、キャンプ場、春夏秋冬通じて楽しませてくれる観光地帯です」。

 日本一が二箇所あってはいけないが、どのような経緯でそうなったのか、興味がわいてきたので調べてみることにした。そして、私たちが東北を旅行したのと同じ年、2015年の1月31日付けの産経ニュースに次のような記事が出ているのを見つけて納得した。

 「NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』の舞台で知られる岩手県久慈市が1月19日、市内の平庭高原(旧山形村)の白樺林を『日本一』と宣言した。初の本格的調査で、生育本数31万846本▽群落面積369ヘクタール▽国道281号沿いの群落距離4・5キロ-がいずれも『日本一』と分かったためで、市は『あまちゃん』と並ぶ観光の二本柱に育てようと意気込んでいる。・・・
 日本一を宣言したこの日に合わせて制作した国道281号沿いの白樺林をバックに『白樺美林』310000本を超える日本一の白樺ロードへ-の文字が躍るポスターを持つS社長と遠藤市長に満面の笑顔が広がった。・・・
 しかし、(この『日本一』という表現は、それまでも使われていたのであるが)具体的に生育本数や群落面積を調べたことはなく、自称にすぎなかった。・・・長野県佐久穂町が八千穂高原の白樺林を約200ヘクタールの敷地に50万本の『日本一美しい白樺群生地』と宣伝していたからだ。これが正確ならば生育本数は平庭高原の1・6倍以上。強力なライバルの存在にトーンダウンせざるを得なかった。」

 そこで、本格調査を行うことになったが、

 「調査は白樺林に20×20メートル以上の広さの標準的なサンプルを任意に11カ所設定。昨年8~9月の現地調査で生育する白樺の密度が1ヘクタール当たり平均643本であることが分かり、衛星画像で解析した群落の面積369ヘクタールにかけて31万846本の生育本数を割り出した。
 (八千穂高原の場合)白樺が約200ヘクタールに50万本が生育するには間隔が平均2メートルしかなく、客観的にあり得ないとした。これで生育本数と群落面積、さらには国道281号沿いにつづく白樺林の距離約4・5キロを名実ともに『日本一』と宣言した。
 ところで、佐久穂町観光協会が日本一と称する約200ヘクタールに50万本について問い合わせたところ、これも自称だった。『広葉樹の標準植生本数、1ヘクタール当たり3000本から推計したといわれています』という答えで、いつから日本一を称しているかは分からないということだった。・・・
 『日本一の白樺林』宣言を受けて、先月26日から3日間、東京・銀座にある岩手県のアンテナショップのいわて銀河プラザで樹液でつくった清涼飲料水『森の恵み・白樺の一滴』の試飲会が開かれ、反応も上々だったという。第二の『あまちゃん』に地元の期待は大きく膨らんでいる。」

 やや一方的な「日本一」宣言のようにも見えるが、客観的な判断基準も示されているので、佐久穂町のほうでも特に異議を唱える様子もなく、お互いに「日本一美しいシラカバ林」という表現を使ったりしているようである。

 私も、久慈の平庭高原のシラカバ林をまだ見ていないので、美しさについては何とも判定のしようがない。


平庭高原の日本一の白樺林を謳うポスター

 私にはシラカバについて、もう一つ別の子供の頃の思い出がある。当時住んでいた大阪市内にはシラカバの木はなく、珍しさも手伝ってのことであったが、父がまだ若く、戦地に赴いた時のアルバムに、シラカバの樹皮が多数貼られていたのをよく眺めていた。このシラカバの樹皮を見て、若い頃の父の様子や、遠い大陸・満州に出かけていた時の様子などを思い浮かべていたのであった。


父のアルバムの表紙


シラカバの樹皮が貼られているアルバムのページ

 軽井沢の家の庭にはまだシラカバは植えていないが、我が家とほぼ同時期に建てられた隣家の庭に植えられたものは数年たち大きく美しく成長してきている。いずれ、我が家でも植えてみたいものと思っている。

 ところで、シラカバ林のある八千穂高原へのアクセスが昨年から幾分便利になった。中部横断自動車道の建設が進んだからである。現在、上信越自動車道の佐久小諸ジャンクションから中央自動車道の長坂JCTと双葉JCTを経て新東名高速道路の新清水ジャンクションを結ぶ高速道路建設が進められているが、この内、佐久小諸JCTと佐久南ICの間は少し前に完成し、一部利用が始まっていた。

 これに加えて、佐久南ICから八千穂高原ICの間約15kmが昨年秋に完成し、すでに完成していた部分も含めて、佐久北ICから八千穂高原ICの間約23kmが無料で解放され利用できるようになったのであった。このことを報じる地元紙を読んで、我々も早速出かけてみることにした。佐久北ICと八千穂高原IC間の高速道路の利用で、軽井沢からだと10分ほど八千穂高原が近くなる。


佐久北ICから佐久穂IC間の開通を伝える地元新聞軽井沢ニュース

 この中部横断自動車道が全線開通するようになれば、首都圏や中部・関西から八千穂高原までのアクセスが更によくなって、「日本一便利に行けるシラカバ林」と言えるのではないかと、肩を持っている。

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軽井沢文学散歩(7)北原白秋

2019-07-19 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢というとすぐに思い浮かぶものの一つに、カラマツがある。町内全域にカラマツは多く植えられているが、特に三笠通りにあるカラマツ並木は美しく、人気の場所になっていて、観光案内のパンフレットにも記されている。


観光地図・軽井沢エリアガイドに紹介されている三笠通りのからまつ並木


三笠通りのカラマツ並木(2019.7.10 撮影)

 先日、福岡から訪ねてきた友人の奥様が、「カラマツの林の下で『落葉松』の歌を歌いたい!」と言われたので、この三笠通りに案内したことがあった。彼女の所属している合唱団の発表会が近く開かれ、そこでこの『落葉松』を歌うということであった。

 駐車場の関係で、旧三笠ホテルの近くに案内し、ここで思う存分歌っていただいたが、「念願が叶い、とても気持ちよく歌えました」と言っていただいた。


三笠通りの並木の中で『落葉松』を歌うN夫人(2019.5.12 撮影)


旧三笠ホテル(2019.5.12 撮影)

 軽井沢には、母を何度か連れてくることがあった。すると、いつも決まったように「シラカバの林を過ぎて・・・」と詩の一節を口ずさむのであるが、そのつど妻に、「お母さん、それは『カラマツの林を過ぎてですよ・・・』」と正されていた。どうも、どこかでシラカバとカラマツとを取り違えて覚えてしまっていたようである。

 この「カラマツの林を過ぎて・・・」はもちろん、北原白秋の詩である。母が、どこまで覚えていたのか知らないが、全文は次のとおりで思いのほか長い。

北原白秋「落葉松」全文


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。


からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。


からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。


からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。


からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。


からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。


からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。


世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

 北原白秋がこの詩を作ったのは、1921年(大正10年)のことで、軽井沢滞在中、朝夕菊子夫人と落葉松林を散策し想を得て、同年11月の「明星」にこの『落葉松』の詩を「誌二十五章」の題で発表したとされる(「軽井沢文学散歩」⦅1995年 軽井沢町編・発行⦆に一部筆者追記)。

 また、年譜(白秋全集別巻 1988年 岩波書店発行)にはこの時のことは次のように記されている。
 「8月2日から軽井沢星野温泉で開かれていた『自由教育夏季講習会』に三日目から出講、児童自由詩について講話。他の講師に、山本鼎、山崎省三、鈴木三重吉、巖谷小波、島崎藤村、沖野岩三郎、弘田竜太郎らがおり、内村鑑三も飛び入りで講話。全国から百名以上の参加者があった。山本鼎の別荘に宿泊。」とある。

 現在、中軽井沢の、星野温泉入口の右側、ハルニレテラスにつながる遊歩道の脇に北原白秋の文学碑がある。これは、軽井沢町が北原白秋の詩業をたたえ、これを永遠に伝えるべく白秋ゆかりのこの地に詩碑を建設したもので、1969年(昭和44年)6月、カラマツの新緑の美しい頃のことである。


星野温泉の入り口、遊歩道脇にある北原白秋文学碑(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑に刻まれている「落葉松」の詩全文(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑に刻まれている「落葉松」の第八節(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑背面に刻まれている設立趣意文(2019.7.10 撮影)


北原白秋文学碑脇に設けられている解説パネル(2019.7.10 撮影)


 自然石でできているこの碑には、落葉松の詩の全文が活字体で、また詩の最後の第八節が白秋の自筆で銅板に刻され、はめこまれている。

 こうしたことを見ると北原白秋と軽井沢とは随分関係が深いように思えるが、実際には北原白秋と軽井沢とのつながりは、それほどではないようで、この詩作のほかに白秋全集の年譜を探しても、関連した出来事は僅かで、唯一1923年(大正12年)に次の記述があるのみであった。
 「4月14日、妻子を連れ信州へ出発。翌5日、信州大屋の農民美術研究所の開所式に出席、その晩から小杉未醒、平福百穂、倉田白羊らと別所温泉柏屋別荘に二泊。(軽井沢の)追分油屋に五泊後、22日から沓掛の星野温泉に滞在。熊の平から坂本まで碓氷峠の旧道を一人で徒歩で下り、妻子と合流。帰途前橋の萩原朔太郎を訪問、一泊する。萩原家では、日の丸を掲げて歓迎。」とある。

 ウィキペディアの年譜(ウィキペディア 2019年5月6日)を見ると、これより前、白秋が28歳の時に、「1913年(大正2年)、長野県佐久のホテルに逗留し、執筆活動を行った。」と記されている。このホテルとは「佐久ホテル」のことで、信州でも最古の温泉宿で、創業1428年、開湯600年に迫る歴史の湯とされている温泉「旭湯」で知られているところである。

 このことは、佐久商工会議所発行記念誌の「暖簾~時を繋いで佐久に生きる~」欄・「佐久ホテル」の項に記されていて、次のようである。

 「・・・佐久ホテルの年表には蒼々たる武将、文化人、皇室関係、政治化などの名前が連なる。古くは武田信玄の名があり、『信玄直筆自画図』が保管されている。文化人では、小林一茶、葛飾北斎、老南堂、島崎藤村、柳田国男、北原白秋、若山牧水、萩原井泉水、種田山頭火、佐藤春夫などが宿泊。皇室は高円宮妃殿下などが来館されている。また昭和60年に解体されたが明治天皇の専用室もあった。・・・」

 軽井沢とはすぐ近くの佐久であるが、この頃はまだ軽井沢に多くの文士が集まるという状況ではなかったようである。

 室生犀星が軽井沢に別荘を建てたのが1931年、堀辰雄が初の住まいを得たのが1938年、正宗白鳥が別荘を建設したのが1940年である。室生犀星の別荘には、志賀直哉、川端康成、津村信夫、立原道造などが出入りしていたとの記録はあるが、北原白秋の名前を見つけることはできない。

 いつもの明治・大正期の文士の表中での北原白秋の位置を見ておくと次のようである。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の北原白秋(赤で示す)と、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥、津村信夫と有島武郎(黄で示す)

 軽井沢との関係を探っていくと、専ら室生犀星との個人的なつながりが見えてくる。

 室生犀星は、著書「我が愛する詩人の傳記」(1958年 中央公論社発行)で第一番に北原白秋を紹介している。書き出しは次のように始まっている。

 「明治42年3月、北原白秋の処女詩集『邪宗門』が自費出版された。早速私は注文したが、金沢市では一冊きりしかこの『邪宗門』は、本屋の飾り棚に届いていなかった。当時、北原白秋は25歳であり私は21歳であった。金沢から二里離れた金岩町の裁判所出張所に私は勤め、月給八円を貰っていた。月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて購読するのに、少しも高価だと思わないばかりか、毎日曜日ごとに金沢の本屋に行っては、発行はまだかと言うふうに急がし、それが刊行されるといばってまちじゅうを抱えて歩いたものである。誰一人としてそんな詩集なぞに目もくれる人はいない、彼奴は菓子折りを抱えて何の気で町をうろついているのだろうと、思われたくらいである。
 処女詩集『邪宗門』を開いて読んでも、ちんぷんかんぷん何を表象しているのか解らなかった。・・・泥臭い田舎の青書生の学問では解るはずがなく、私は菓子折りのような石井柏亭装丁の美しい詩集をなでさすって、解らないまま解る顔をして読んでいた。
 それから47年もたった今日、『邪宗門』をふたたび精読してみて、邪宗門秘曲一連の詩はやはり昔とおなじで、解らないものがあった。・・・」

 室生犀星は続いて、北原白秋への思いを次のように記している。

 「明治44年の6月に第二詩集『思ひ出』が、自費出版ではなく美しい装丁本となって、その時代の華やかな詩歌集出版元である東雲堂という書店から出版された。『思ひ出』一巻にあふれた抒情詩はすべて女の子に、呼吸をひそめて物言うような世にもあえかな詩情からなり立っていて、島崎藤村、薄田泣菫、横瀬夜雨、伊良子清白、河井酔茗、与謝野晶子らの詩境から、ずっと抜け出した秀才の詩集であった。・・・」

 「・・・明治44年頃の私の毎日の日課は一日に一度ずつの、本屋訪問が抜き差しならぬ文学展望の形になっていた。私はそこで四六判の横を長くしたような東雲堂発行の『朱欒』(ザムボア*)という、白秋編輯の詩の雑誌を見つけた。そして私は白秋宛に書きためてあった詩の中から、小景異情という短章からなる詩の原稿を送った。例の《ふるさとは遠きにありてうたふもの》という詩も、その原稿の中の一章であった。もちろん、返事はないが翌月の『朱欒』に一章の削減もなく全稿が掲載され、私はめまいと躍動を感じて白秋に感謝の手紙を送った。・・・」(*筆者注:ザムボアとは柑橘類のザボンのこと)

 この後、室生犀星は『朱欒』への詩の投稿を通じ、萩原朔太郎を知ることとなる。そして、友情は朔太郎が犀星よりも先に死去するまで続く。北原白秋とこの二人の関係については、後年の次のような犀星と娘とのやり取りを紹介している。

 「この間家の娘がいったいお父チャンには、小説を書くのに先生がいたのかどうかと、これだけは聞いて置かなければならないというシンケンな顔付で訊ねた。私曰く、お父チャンは小説の原稿をえらい小説の大家に見て貰ったことは一度もない、お父チャンは小説というものは何時も一人で考えて書いたのだと私は説明した。では詩の先生はいやはりますかと言ったから、詩はやはり北原白秋が先生みたいなものだ。白秋が生きている時分は大きな声でいうと、白秋におべんちゃらを言うているようであかんと思うたが、今になると萩原朔太郎と私とはなんといっても白秋の弟子だ、原稿の字は一字もなおして貰わなかったが、白秋のたくさんの詩のちすじがからだに入って、それが萩原と私にあとをひいている、これほど明確な師弟関係はない、白秋も生前にはこの二人を弟子なんぞと言うには、息子が大きくなりすぎているのであれはあれの好き勝手にさせておけばいいんだよと、弟子とはよんでくれなかった。しかし、おれのほねを拾うやつはこの二人の男だ、あれらはちすじをひくことでは間違いのない人だと、白秋は夫人にもそれは言わないで頭に持ったままで、死んでしまわれた。そして一人の兄弟萩原朔太郎も残念にも私より先きに死んで行った。私はこの伝記だかなんだかわからないものを書くために、白秋アルバムと白秋全集を併読しながら写真にある白秋の顔を毎日眺めていた。気難しくやさしく、小僧、大きくなって宜かったよかった、今度はがらになく伝記と来たね、丹念にうまく書けよと、開く頁の先々で顔を見せられた。・・・」

 このように、北原白秋は室生犀星にとり、師であり兄貴であったようだ。しかし、軽井沢という地での交流となると何も見えてこない。

 この「我が愛する詩人の傳記」の中で、犀星は白秋の日常を様々に紹介しているが、それらは白秋の次の略年譜に譲ることとして、本稿を終わろうと思う。

 尚、冒頭で紹介したN夫人の歌った「落葉松」は、作詩:野上彰、作曲:小林秀雄によるもので、北原白秋の詩ではもちろんなく、次のようなものである。

落葉松の秋の雨に
わたしの手が濡れる

落葉松の夜の雨に
わたしの心が濡れる

落葉松の陽のある雨に
わたしの思い出が濡れる

落葉松の小鳥の雨に
わたしの乾いた眼がぬれる

では、年譜(年齢は当時の数え方による)。

・1885年(明治18年)1歳 
  1月25日(戸籍上は2月25日)、福岡県山門郡沖端村(現、柳川市沖端町)に、父・長太郎(当時29歳)、母・しけ(通称しげ、当時25歳)の長男(戸籍上は次男)として生まれた。本名隆吉。
  実際には母の実家で生まれ、1か月後に母と柳川に帰り、出生を届け出。長太郎・しけの最初の子である隆吉は、戸籍上は次男だが、先妻の子豊太郎が夭折したため、事実上は長男として育てられた。
  母しけは、長太郎の三度目の妻に当たる。
・1887年(明治20年)2歳
  夏、チフスに感染、一命はとりとめたが、乳母シカがチフスに感染して死去。二人目の乳母が来る。
  9月5日、弟・鉄雄誕生。
・1890年(明治23年)5歳
  7月20日、妹ちか誕生。
・1891年(明治24年)6歳
  4月、矢留尋常小学校に入学。
  この年から、異母姉かよと、南町の青木フヂの私塾に通い、習字を習い始める。
・1893年(明治26年)8歳
  5月17日、妹いゑ誕生。
・1895年(明治28年)10歳
  3月、矢留尋常小学校を卒業。
  4月、柳河高等小学校(当時四年制)に入学。
・1896年(明治29年)11歳
  1月31日、弟義雄誕生。
・1897年(明治30年)12歳
  柳河高等小学校二年修了で中学校の試験に合格、県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)に入学。
・1899年(明治32年)14歳
  3月、三年進級に際し、二番の成績にもかかわらず、数学一科目が及第点に満たず落第。この頃より詩歌に熱中し、雑誌『文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派に傾倒したとされている。
・1901年(明治34年)16歳
  沖端の大火の際に、川向うからの飛火によって北原家の酒蔵が全焼し、以降家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年、友人たちと「白」の下に一字を置く雅号を定め、籤で「秋」の字を引き当てて「白秋」の号を用い始める。
・1904年(明治37年)19歳
  親友の中島鎮夫が「露探」(筆者注:ロシアの軍事スパイ)の嫌疑を受け、白秋宛ての遺書を残して自刃。衝撃を受けた白秋は長編詩『林下の黙想』の執筆に打ち込む。この詩が河井醉茗の称揚するところとなり、『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好みによって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。
・1907年(明治40年)22歳
  鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚める。また森鴎外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。
・1909年(明治42年)24歳
  3月15日、処女詩集『邪宗門』を易風社より刊行。装幀石井柏亭。12月下旬、生家破産のため急遽帰郷。
・1910年(明治43年)25歳
  2月20日付の、『屋上庭園』第二号に発表した白秋の詩『おかる勘平』が風俗壊乱にあたるとされ、発禁処分を受け、同誌は二冊で年内に廃刊となった。またこの年、松下俊子(名張市の医師の娘、後述)の隣家に転居。(東京原宿)。
・1911年(明治44年)26歳
  第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家に捧げられた懐旧の情が高く評価され、一躍文名は高くなる。また文芸誌『朱欒』(ザムボア)を創行。
・1912年(明治45年 / 大正元年)27歳
  母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。
  白秋は隣家にいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。2週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられたが、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。
・1913年(大正2年)28歳
  初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。春、俊子と結婚。三崎に転居するも、父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。『朱欒』廃刊。発行期間は短かったが、萩原朔太郎や室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなった。その年、長野県佐久のホテルに逗留。
・1914年(大正3年)29歳
  肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するも、ほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、ついに離婚に至る。『真珠抄』『白金之独楽』刊行。また『地上巡礼』創刊。
・1915年(大正4年)30歳
  前橋に萩原朔太郎を訪う。弟・鉄雄と阿蘭陀書房を創立し、雑誌『ARS』を創刊。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』刊行。
・1916年(大正5年)31歳
  詩人の江口章子と結婚し、東京・小岩町の紫烟草舎に転居。『白秋小品』を刊行する。
・1917年(大正6年)32歳
  阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。
・1920年(大正9年)35歳
  『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。白秋が妻の不貞を疑い章子と離婚。
・1921年(大正10年)36歳
  佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)と結婚。軽井沢滞在中想を得て、『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。
・1922年(大正11年)37歳
  長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。歌謡集『日本の笛』などを刊行。
・1923年(大正12年)38歳
  三崎、信州、千葉、塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊する。
・1925年(大正14年)40歳
  長女・篁子(ドイツ語学者・岩崎英二郎夫人)誕生。樺太、北海道に遊ぶ。童謡集『子供の村』など刊行。
・1930年(昭和5年)45歳
  南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途奈良に立寄り、しきりに家族旅行に出かける。
・1933年(昭和8年)48歳
  皇太子明仁親王誕生の際に、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せる。
・1934年(昭和9年)49歳
  『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督府の招聘により台湾に遊ぶ。
・1935年(昭和10年)50歳
  新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。大阪毎日新聞の委託により朝鮮旅行。
・1937年(昭和12年)52歳
  糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引き起こし、入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。
・1938年(昭和13年)53歳
  ヒトラーユーゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。
・1941年(昭和16年)56歳
  春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父のお墓参りをし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。
・1942年(昭和17年)57歳
  小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日、糖尿病と腎臓病のため阿佐ヶ谷の自宅で逝去。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。






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庭にきた鳥(3)シジュウカラ

2019-07-12 00:00:00 | 野鳥
 今回はシジュウカラ。リビングの窓のすぐ外側に、野鳥用の餌台を置いていて、普段はレースのカーテン越しに眺めるようにしているので、野鳥からは室内の様子が見えず、安心して餌を食べている。

 レースのカーテンを閉めなくても、室内外の明るさの差により、外からは室内がほとんど見えないので、窓から少し離れていると、鳥たちは安心するのか、室内にカメラやビデオカメラを置いて撮影しても気にしていないようである。
 
 牛脂を撒き餌と共に置いたこともあって、この餌台に真っ先にやってきたのは、シジュウカラであった。数ではスズメに及ばないが、この地方でもっとも普通に見られる種でもある。窓の外、すぐそばまでやってくるが、やはり人の気配を感じると、飛び去ってしまう。なかなか、手から餌を摂るという風にはいかないようである。

 餌台に来たときの様子は次のようである。シジュウカラのほかにもやや小型のヒガラ、コガラも警戒しながら、牛脂を突つきにやってきていた。


餌台に集まるシジュウカラたち(2016.2.28 10:08~11:34 に撮影したものを編集)

 シジュウカラ、ヒガラ、コガラの違いは次の写真で確認していただければよく判るが、シジュウカラは胸にネクタイのような黒帯が縦に通っているが、ヒガラにはこれがない。コガラは頭以外の背や腹が白から灰色で、くちばしの下の黒い範囲がごく狭い。


雪の日の朝、餌台の傍の木に止まるシジュウカラ1/2(2016.3.10 撮影)


雪の日の朝、餌台の傍の木に止まるシジュウカラ2/2(2016.3.10 撮影)


雪の日の朝、餌台の傍の木に止まるヒガラ1/2(2016.3.10 撮影)


雪の日の朝、餌台の傍の木に止まるヒガラ2/2(2016.3.10 撮影)


雪の日の朝、餌台の傍の木に止まるコガラ1/2(2016.3.10 撮影)


雪の日の朝、餌台の傍の木に止まるコガラ2/2(2016.3.10 撮影)

 餌台を設けるよりも前から、庭の大きなモミジの木に、シジュウカラ用に巣箱を取り付けていた。家を建築する時に、足場が組まれていたので、まだ工事中のある日、2階部分の足場に登らせてもらって、手を伸ばせば届くモミジの太目の枝にこの巣箱を取り付けたのであった。

 しかし、実際に我々が家に住むようになり、後になってよく考えてみると、巣箱は毎年中を手入れをしてやる必要があるのだが、工事用の足場がなくなってみると、もう簡単には手が届かないところになってしまった。

 2シーズンが過ぎた冬に、この巣箱を取り下ろしてみると、私たちは気がつかなかったが、中には子育てをした痕跡が残っていた。

 今度は、餌台のすぐ前のモミジの木の幹にこの巣箱を移して取り付け、観察しやすいようにした。ここは、居間からも見ることができ、撮影も可能な場所であった。

 しかし、3年目のこの年はどうも警戒されたようで、シジュウカラは中には入ってくれなかったので、枝などの関係が気に入らないのかと思い、4年目は場所を少しだけ移動してみた。

 巣箱へのシジュウカラの出入りは、一瞬の隙を突いているようで、なかなか目撃できないのと、この年からガラスショップの仕事を始め、自宅でゆっくり観察する時間もとれなくなったので、留守中はビデオ撮影をすることにし、カメラをセットして出かけた。

 帰宅後、ビデオを再生してみると、シジュウカラが巣箱に出入りしている様子が映っていた。その様子は次のようであった。ここでは出入りの部分だけをつなぎ合わせている。


シジュウカラの子育て2018(2018.5.27 9:48~10:52 撮影ビデオを編集)

 この時は、出入りの様子を撮影しただけに終わり、詳しい観察は行わなかった。その後も1週間ほど撮影を続けたが、しばらくして急に親鳥の姿が見えなくなったので、途中で営巣を放棄したのかもしれないと思っていた。

 この巣箱は今年になって中を清掃し、再び同じ場所に取り付けておいた。

 そして、今年の春、庭の別の場所にある、もう一本のモミジの木にも別の巣箱を取り付けた。こちらは、近くのホームセンターで購入した、セキセイインコ用の巣箱である。入り口の穴の大きさが、シジュウカラにはやや大きいのでどうかと思ってはいたが、シジュウカラは早速この巣箱の下見に来ているようであった。

 ある日、この新しい巣箱の周りにコムクドリの夫婦がやってきて、しきりに中を覗き込んでいるのが見られた。「軽井沢本当の自然」(石橋 徹著 2012年ほおずき書籍発行)にはこのコムクドリのことが書かれていて、「ご近所のコムクドリを庭に招こう」と呼びかけている。それによると、コムクドリ用の巣箱の出入り口の穴の大きさは、シジュウカラ用よりもやや大きめの4cm径程度が適当で、市販のセキセイインコ用の巣箱でも、中がやや狭いが入ると書かれていた。今回は撮影できなかったが、以前、南軽井沢で見かけたコムクドリを紹介する。


南軽井沢で見かけたコムクドリ(2013.4.28 撮影)

 そんなこともあり、この新しい巣箱には、思いがけずコムクドリが入るのではと、期待が膨らんだ。コムクドリ夫婦はその後も何度か下見を繰り返してようであったが、結果はシジュウカラの勝ちに終わったようであった。

 しばらくして、シジュウカラがこの新しい巣箱の周囲に頻繁にやってくるようになった。この巣を取り付けたモミジの木は、ウッドデッキのすぐそばに生えているが、ウッドデッキは私の作業場でもある。今年もまたここでウスタビガの飼育をしていて、幼虫の食葉のコナラの葉を取り替えたり、糞の掃除をしたりしていると、頭上で「ヂ・ヂ・ヂ・ヂ」というシジュウカラの鳴き声が聞こえる。ウスタビガの幼虫は、ちょうど食べごろ(?)の大きさに成長しているので、シジュウカラがそれを欲しがって鳴いているのかも知れないと妻と話し合った。

 シジュウカラの鳴き声に関しては、2年ほど前に研究の結果が新聞でも報じられていたことを思い出した。

 調べ直してみると、それは2016年5月10日付けのもので、次のようなものである。

 「総合研究大学院大学の鈴木研究員は、市街地で見かける身近な小鳥であるシジュウカラが、複数の『単語』を組み合わせた『文』を作り、情報を伝達する能力を持っていることを発見した。このような能力は、知能が高いとされているチンパンジーなどでも確認されておらず、ヒト以外の動物で確認されたのは初めて。 鈴木氏は『人間の言語能力獲得のプロセスを解明する手掛かりになるかもしれない』と話している。論文は3月9日付の英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズに掲載された。」

 シジュウカラの鳴き声を聞いていると、「ピーツピー」という鳴き声と「ヂヂヂヂ」という異なる鳴き声がある。この「ピーツピ」の方は警戒する声で、「ヂヂヂヂ」の方は集合を呼びかけるのだという。「ピーツピ」という警戒する声の後に「ヂヂヂヂ」という集合を呼びかける声を続けると、周囲を警戒しながら集まるが、それが逆だとそのような行動はとらないため、独自の文法があるというのが分かっているという。

 「ヂヂヂヂ」が集まれという合図だとすると、今回、私がウッドデッキでウスタビガの幼虫の世話をしている時に聞こえてきた「ヂヂヂヂ」は、仲間に餌があるから集まるように連絡していたのだろうか。。。

 その後、ウドデッキで作業をしていると、巣箱の中から雛の鳴き声が聞こえるようになったので、ショップに出かける前に、ビデオカメラをセットし、撮影をすることにした。帰宅後見てみると、シジュウカラの親は頻繁に巣箱から出入りし、餌の青虫を運びこんでいる様子や、巣箱の中から雛のものと思われる糞を咥えて飛び去る様子が捉えられていた。

 撮影した映像を編集し、出入りの部分だけをつなぎ合わせたものは次の様である。


シジュウカラの子育て2019(2019.6.4 10:49~11:43 撮影ビデオを編集)

 ビデオを見ていても、出入りするときの動作は素早く親鳥のどちらなのかの判別もつかないことが多い。そこで、出入りの瞬間の画像を動画から切り出して確認することにした。16回の出入りがあったが、巣箱から出て来る時の画像は次のようである。これを見ると、雌雄の判別と口に何かを咥えている様子も確認できる。胸の黒い帯(ネクタイ)の太い方、写真では、1,2,4,5,6,7,9,11,12,14番目が雄である。


巣箱から出るシジュウカラ(2019.6.4 撮影ビデオからのキャプチャー画像) 

 初めのうちは、巣箱の中には親鳥のどちらかが常に残り、一羽だけが餌を探しに出かけていると思っていたので、出ていくところだけを確認していたが、出入りの時間間隔を知りたくなったので、時刻を確認し、さらに戻ってくるシジュウカラの雌雄の別を確認をしたところ、意外なことに気がついた。

 それを、まとめたのが次の表である。これを見ると、親鳥は巣箱に戻っても、すぐに外に出ていくことがわかる。平均的な巣箱での滞在時間は、雄の場合17秒と、とても短いことがわかる。雌の場合は1分28秒であった。

 しかも、予想に反して、親鳥のどちらかが餌を求めて外にいる間、他方が巣箱に留まるのではなく、常に両方の親鳥は巣に雛を残し、餌を探しに出かけていることがわかった。
 
 雄の平均的な餌探しの時間は8分4秒、雌の場合は10分25秒であった。自宅周辺は緑が多く、餌となる青虫なども沢山いるのではないかと思っていたが、意外にも餌探しに苦労しているシジュウカラの姿が浮かんできた。


シジュウカラの巣箱からの出入りの様子(2019.6.4 撮影ビデオをまとめた。出入りの時間は分:秒を示す)

 親鳥の巣箱への出入りを図示すると判りやすいかもしれない。次の図のように、親鳥は巣に戻ってもすぐに餌探しに出ていき、両方の親鳥が同時に巣箱にいるということはない。 


シジュウカラの巣箱からの出入り状況(2019.6.4 撮影ビデオから整理した)

 こうした巣箱の中の様子は、内部を撮影できるカメラをセットすればいいのだろうが、まだそこまではいかないでいる。

 さて、この後も撮影を続けたが、生憎の長雨で屋外での撮影ができない日が続いたある日の夕方、ショップから帰ってくると、雛の鳴き声が聞こえなくなっていた。この日は午後から日が差してきていたので、このタイミングで巣立って行ったものらしかった。

 翌朝、近くの林の方から巣立っていった雛のものらしい鳴き声が聞こえてきたが、実際のところは判らない。

 後日、巣箱を清掃するために取り下ろしたが、中には中央部分にややくぼみができた巣が残されていた。


シジュウカラの雛が巣立って行った巣箱の内部(2019.7.10 撮影)

 中に残されていた巣は、コケ類や動物の毛などで作られていた。


シジュウカラの巣(2019.7.10 撮影)

 巣立ちの瞬間を撮影できればと期待していたのであったが、これはまた次回以降に持ち越すことになった。





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芸術な日

2019-07-05 00:00:00 | 日記
 6月23日の日曜日に久しぶりに東京に出かけてきた。

 午前中は、有楽町駅前の東京交通会館の2Fで、この日から29日まで、元の職場のOBによる作品展が行われるので、その展示作業を行うためであった。作品の内容としては、絵画が多いがその他に、写真、書道、陶芸、木彫、ステンドグラスなどが展示される。年1回の開催であり、どれも力作ぞろいである。

 この展覧会は、今年で16回目を数えるもので、今年の出展者数は41名、初回から連続出展の方もいる。写真の部には14名、27作品が集まっていた。私は、2年前に誘われて写真を2点出展したものの、昨年は多忙を理由に不参加になっていた。今年はまた復活して、チョウの写真を2点出展した。

 いずれも、このブログにすでに掲載したものであるが、前回と今回の出展作品は次の4点である。


2017年出展作品「雪の朝」


2017年出展作品「赤い実」


2019年出展作品「クジャクチョウ」


2019年出展作品「クモマツマキチョウ」

 当日、予定の時刻に会場に行くと、すでに大勢の人が集まり、作業が始まっていたが、写真担当の世話役の方々の準備はとてもよく、写真展示用に割り当てられた壁面に合わせた長さの紐が準備されていて、各人が作品を掛ける位置の印があらかじめこの紐に付けられている。また、壁面の各人の展示位置には番号が示されていて、場所が判るようになっている。

 この紐を、所定の高さに張り巡らせてあるので、出展する各人は自分の番号の場所に作品を掛ければいいようになっている。作品は額縁に納められているが、その額縁の上辺の高さは、額縁についている紐または、天井から下げられた金具の位置調整ネジにより、先に張り巡らせた紐と同じ高さに揃うように高さを合わせる。最後に天井からの照明具合を調整し、短時間に整然とした展示を完了することができた。


写真の部の展示コーナー(2019.6.23 撮影)

 また、今回から額縁のガラス板は展示期間中、取り外しておくように世話役から要望があった。反射して見づらくなることを防ぐためであるが、細やかな指示である。最近、美術館などでは絵画などのカバーガラスに反射防止処理をしたガラスを用いることが多くなってきているが、市販の額縁ではまだそこまでは行かない。

 ガラスを取り外すことで、作品が傷ついたり汚れたりするリスクは生じるが、その点は展示会場に詰める当番員が、来客に注意を促すことで回避しようということとなった。

 液晶TVやモニターの最外面は、最近ではほとんどが反射防止処理やノングレア(拡散)処理をするようになっている。この場合、裏面は粘着剤で貼られているために反射防止処理やノングレア処理は片面でよいが、額縁の場合には、ガラスの表裏両面を処理しなければならないので、さらに割高になり、採用の妨げになっているのかと思う。

 展示作業が終わると、参加者全員で昼食兼懇親会を行った。この時、連続16回出展者、今回の初参加者、そしてヌード作品をいつも出品している、絵画部門参加の長老からの挨拶などが行われ、楽しい雰囲気に包まれた。懇親会の後は三々五々解散し、この日の当番の方が残り、午後からの開場に備えた。


懇親会であいさつする今回初参加のOさん(2019.6.23 撮影)

 午後、私は上野公園にある東京文化会館に向かった。この日、この小ホールで開催される「REN・10周年記念・天満敦子・難民自立支援コンサート~望郷~」を聴くためであるが、元の職場の1年先輩に当たるKTさんから紹介されて、チケットを入手していた。KTさんは、このコンサートを主催している「難民自立支援ネットワーク〔REN〕」の理事を務めている。

 東京文化会館に着くと、すでに1階のホールにはコンサートを聴きに来た人の列ができていて、これに並ぶことになった。開場になるとすぐに場内は満員になったが、中にチラホラ、私と同様、KTさんからチケットを入手したと思える元同僚の姿が見えた。

 開演になるとすぐにヴァイオリン奏者の天満敦子(てんま あつこ)さんが現われ、演奏が始まった。前半のプログラムは次のようであり、途中からはピアニストの勝呂真也(すぐろ まや)さんとの共演になった。

 1.アダージョ(J.S.バッハ)
 2.鳥の歌(カタロニア民謡/カザルス編曲)
 3.トロイメライ(R.シューマン)
 4.タイスの瞑想曲(F.マスネ)
 5.祈り(E.ブロッホ)
 6.オンブラマイフ(G.ヘンデル)
 7.白鳥(サン=サーンス)
 8.望郷のバラード(C.ポルムベスク)
 9.ホーム・スイート・ホーム(H.ビショップ/H.ファーマー編曲)
 
 約1時間の演奏の後、休憩に入ったが、後半のプログラムが始まる前に、主催者の挨拶があり、続いて、難民のひとりの青年が自己紹介と共に詩の朗読を行った。

 今回のこのコンサートの主催者である「特定非営利活動法人・難民自立支援ネットワーク(通称REN⦅レン⦆)」については、配布されたパンフレットから紹介すると、以下のようである。

 「設立の経緯:ケニア北部のカクマ難民キャンプの難民が書いた詩集『ママ・カクマ』を出版したのを機に、2003年に結成し、2007年まで『カネブ支援グループ』の名称で、カクマの難民が出版する雑誌『KANEBU』の支援をしてきました。その後、支援先を拡大し、アフリカや日本の難民・帰還難民・第三国定住難民・難民認定申請者・庇護希望者・国内避難民とネットワークを作り、2007年5月、名称も『難民自立支援ネットワーク』(Refugee Empowerment Network 通称REN)と改め、新たな活動に入りました。2009年9月には、特定非営利活動法人に認定されました。」

 「活動理念:難民にはそれぞれ顔があり、名前があり、それぞれが意思、感情を持っています。
支援にあたっても、難民自身の意思や意見、感情を尊重するよう留意しています。
衣食住が足りているからといって、それだけでは人間らしい生活とは言えない。
上記の考えのもと、難民の知的活動や情操面の活動を応援しながら、経済的・社会的自立を支援。難民の人間としての尊厳を守ること(エンパワーメント)を目標にしています。
難民と支援者が仲間として支え合いながら難民の自立に向けて活動し、世界平和に貢献します。」

 「主な活動実績:
 ● ビーズ・プロジェクト・・・日本在住の難民と日本支援者が一緒にビーズ・アクセサリーを作って販売しています。
 ● 千代子スカラシップ(奨学金)・・・日本とケニアで、”優秀で学習意欲がありながら経済的理由で上級教育を断念せざるを得ない難民”に奨学金を支給しています。
 ● 難民のための日本語教育・・・日本をより深く知ること、母国のことや自分のことをうまく伝えられること、仕事をする上で必要な日本語を身に付けることを狙いとして、教室を開催しています。
 ● ヨガ教室の開催・・・ボランティアにより毎週実施しています。ストレスの多い難民たちがリラックスできると大好評です。
   ・・・」

 また、登壇した難民の青年は、父親が現政権に反対意見を持っていたため捕えられ、拷問の末に死亡したこと、そして、自身にも身の危険が迫ってきたため、国外に脱出してきたことを語り、次の詩を朗読した。

 「アフリカ、俺のアフリカよ
   俺の先祖の土地、俺の揺りかご、俺が生まれた場所
  愛に満ちあふれ、善につつまれた国

  祖国よ、おまえがいない、俺の体がそう訴えているんだ
   夢も希望も、もうとっくに吹っ飛んでしまった
  いつになったら、もう一度あの土地を踏めるのか
  俺を自由にしてくれ、間違いを正してくれ
  祖国にかえりたい、それだけなんだ

   なぜ戦争をする?
   なぜ争いにノーと言わない?
   なぜ? どうして?

  隣人もナタと短刀を手に
   互いに立ち向かう
    無残にも牧草が赤く染まって
  ああ! 世界には、もっといい場所が
   人間が生きるのにふさわしい場所があるはずだ

   死んだらどうなるんだろう
   死んだら難民じゃなくなるんだよね

  私の空は暗い
   私の空は雲で隠れている
  私の世界は暗い
   私は光を見たことがない
  でも、私は戦い続ける
  光を見つけるまで
  私は光を見る日が必ず来ると信じている(詩集『ママ・カクマ』よりより)」


詩集「ママ・カクマ」

 続いて登壇した天満敦子さんからも、メッセージが述べられた。直接語られた言葉は書き留められなかったが、パンフレットにある同様の趣旨の文を紹介すると、

 「もう20年以上になりますが、ある方に依頼されて始めたのがチャリティー・コンサートでした。海外の恵まれない子供たち、災害や紛争で苦しんだり差別を受けている人々、国内では主に自然災害を中心に、精神的に追いつめられている方々や盲導犬への支援等の活動も微力ながら幅広く続けてまいりました。・・・お話を伺うと、RENの皆様が支援されている難民の人たちは今、切迫し、より深刻な問題に直面しているようです。私のヴァイオリンが少しでもお役に立つのでしたらと願っております。」とある。

 天満敦子さんについては、同じパンフレットに次のプロフィールが紹介されている。

 「東京芸術大学大学院修了。海野義雄、故レオニード・コーガン、故ヘルマン・クレッバースらに師事。在学中に日本音楽コンクール第1位ロン=ティボー国際コンクール特別銀賞等を受賞。以来、国際的に活躍中。1993年にルーマニアの夭折の作曲家ポルムベスクの「望郷のバラード」を日本に紹介。クラシック界では異例の10万枚を超える大ヒットとなり、以後、この作品は天満の代名詞ともいわれるようになった。・・・2016年8月には長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館“無言館”にて録音した『天満敦子in無言館』を発売。現在、東邦音楽大学大学院教授。」 とあり、長野県とも縁のある方であった。


当日のパンフレット

 さて、後半のプログラムは次の通りであった。

 10.アルマンド(J.S.バッハ)
 11.アヴェ・マリア(J.S.バッハ/C.グノー編曲)
 12.アヴェ・マリア(F.シューベルト)
 13.カンタービレ(N.パガニーニ)
 14.五木の子守歌(熊本県民謡)
 15.中国地方の子守歌(岡山県民謡/和田薫編曲)
 16.この道・城ヶ島の雨(山田耕筰/梁田貞・竹内邦光編曲)
 17.落葉松(小林秀雄)
 18.ジュピター(G.ホルスト)

 いつも、ショップでBGMとして流しているおなじみの曲もあり、アンコールで演奏された「なだそうそう」と「チャールダーシュ(モンティ)」も含めて、天満さんの超技巧がいかんなく発揮された、素晴らしいコンサートであった。この日は午前・午後と「芸術な一日」になった。

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