軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

浅間山の四季

2016-12-30 00:00:00 | 浅間山
新幹線で軽井沢駅に降り立ち、さて浅間山の雄姿は?と思い北の方を眺めても浅間山は見えない。

改札口を出て北口に向かい浅間山を探しても、北西方向に見えるのは離山(はなれやま 1256m)だけで、浅間山(2568m)はこの離山のうしろにすっぽりと隠れていて、ごく一部が見えるだけである。

浅間山を見るためには、東西南北いずれかの方向に移動しなければならないのである。

浅間山の見えるところに住みたいというのが理由の一つで、当地に移住を決意した妻と私だが、それもあって季節ごとに浅間山の姿を写真に収めてきた。

年末にあたりそれらの写真を一挙公開してみようと思う。

先ずは、その離山の山頂からの浅間山。今年1月に妻と初めて山頂まで登り、そのとき撮影した一枚。途中カモシカが悠然とうずくまっているのに出会ったが、人には慣れているのか、まったく動こうとしなかった。


離山(はなれやま 1256m)の山頂からの浅間山(2016.1.11 撮影)

浅間山が美しく見える場所はどこだろうか?ということで、あれこれ探して見たが、南軽井沢の発地からの姿が裾野まできれいに見えるのでここを定点として撮影することにした。

この定点から撮影した季節ごとの写真は次のようなものである。


定点からの浅間山(2014.3.22 撮影)


定点からの浅間山(2014.4.28 撮影)


定点からの浅間山(2015.6.29 撮影)


定点からの浅間山(2015.7.14 撮影)


定点からの浅間山(2015.9.28 撮影)


定点からの浅間山(2015.10.10 撮影)


定点からの浅間山(2016.10.27 撮影)


定点からの浅間山(2013.11.17 撮影)


定点からの浅間山(2015.12.20 撮影)

発地の定点以外の写真は次のとおり。


馬取地区からの浅間山(2015.1.12 撮影)


馬取地区からの浅間山(2016.2.15 撮影)


信濃追分駅からの浅間山(2014.3.22 撮影)


上田市方面からの浅間山(2015.4.15 撮影)

上田方面からは黒斑山に隠れてしまい、一部しか見えない。


嬬恋にある「しゃくなげ園」からの浅間山(2015.5.27 撮影)

このしゃくなげ園の方向から見ると、浅間山の頂上付近にある山小屋のような形の1000トン岩がよく見える。

この巨大な岩は1950年9月の噴火の際に出現したもので、高さ5m以上あり、重さは3000トンといわれている。

嬬恋方面から見ると浅間山の新しい噴火口がよく見える。


嬬恋方面からの浅間山(2015.12.20 撮影)

東側の浅間牧場方面から見るとまた違った形に見える。


浅間牧場方面から見た浅間山(2015.12.20 撮影)

浅間山の特徴である条線が美しい。

この場所から、カメラ(CASIO EX-100)のアートモードで撮影すると山肌が強調されて、不思議な写真になった。


浅間牧場方面からカメラのアートモードで撮影した浅間山(2016.11.4 撮影)


今年7月に軽井沢町開催のブログ作成講習会に参加したのをきっかけにこのブログを始め約半年続けてきました。これまでご愛読いただき有難うございました。来年も継続していくつもりでいますのでよろしくお願いします。では、皆様よいお年を。


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庭にきた蝶(1) アオバセセリ

2016-12-23 00:00:00 | 
昨年庭にブッドレアを植えたおかげで、今年はたくさんの蝶が吸蜜に訪れた。それらの蝶を順次紹介していこうと思う。

最初はアオバセセリ。

地味な色彩のものが多く胴が太いので、ともすると蛾と間違えてしまいそうなセセリチョウの中にあって、この蝶は色が美しく特異であり、初心者でも間違えることはない。前翅長は23-31mm。

今年このアオバセセリを見たのは、撮影をした9月5日の一回だけであった。

吸蜜中はずっと翅を閉じていたので、翅の表側を撮影することができなかった。種類の同定は容易に行えたのだが、雌雄の判定は「フィールドガイド 日本の蝶(日本チョウ類保全協会編)」によると翅裏からの判別は困難で、後脚の脛節の長い毛束の有無で行うとある。

撮影した写真を見たのだが、雌雄の比較が出来ない中、なれない目にはなかなか難しい。多分♀なのだろうと判断した。

幼虫の食草はアワブキ科、年2回発生し、蛹で越冬する。第2化成虫は7月中旬から8月中下旬に発生するということなので、今回撮影した時期は発生の終わりごろということになる。

写真で、翅が傷んでいるのはそのせいなのだろうと思う。


ブッドレアで吸蜜中のアオバセセリ1/6(2016.9.5 撮影)


ブッドレアで吸蜜中のアオバセセリ2/6(2016.9.5 撮影)


ブッドレアで吸蜜中のアオバセセリ3/6(2016.9.5 撮影)


ブッドレアで吸蜜中のアオバセセリ4/6(2016.9.5 撮影)


ブッドレアで吸蜜中のアオバセセリ5/6(2016.9.5 撮影)


ブッドレアで吸蜜中のアオバセセリ6/6(2016.9.5 撮影)


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軽井沢飛行場

2016-12-16 00:00:00 | 軽井沢
 北陸新幹線が東京-長野間で開業し、軽井沢に新幹線が乗り入れたのが1997年10月、そして北陸新幹線が金沢まで延伸され、金沢と軽井沢が繋がったのが昨年2015年3月である。

 関西方面からは東京経由と金沢経由の2つのルートに新幹線が利用できるようになり、とても便利になった。私は大阪に出かけるときには主に金沢ルートを選択している。

 新幹線により最短で東京-軽井沢間が1時間3分、金沢-軽井沢間が1時間41分で結ばれることになった。

 このように東京へのアクセスが便利になっている現在、東京-軽井沢間を飛行機で移動しようと考えることはまず無いと思うのだが、大正から昭和初期には実際に軽井沢に飛行場があり、東京との間に定期便が就航していたということを知る人は少ない。

 その昔、碓氷トンネルが開通しアプト式軌道を新型機関車で登れるようになった明治26年(1893年)に、横川-軽井沢間だけでも1時間15分かかったといわれている。

 東京-軽井沢間となると、朝東京を出て、軽井沢には夕方到着するという状況であった(「軽井沢物語」宮原安春著、1994年7月15日 講談社発行)。

 そうした状況を考えると、東京-軽井沢間を飛行機で結ぼうとの考えが出るのももっともなことと思える。

 飛行場建設よりも少し前、大正4年(1917年)8月には陸軍飛行機が東長倉小学校庭に初着陸したという記録があり(http://karuizawa-kankokyokai.jp/knowledge/265/)、大正6年(1919年)8月29日には徳川大尉のプロペラ機がはじめて軽井沢の離山上空を飛行したという記録が残っているので、飛行場建設の機運は高まっていたのかもしれない(「思い出のアルバム軽井沢」)。

 「避暑地軽井沢」(小林収 著、1999年 株式会社櫟 発行)には、軽井沢飛行場のことが次のように記されている。

 「堤(康次郎)は千ヶ滝の別荘開発が一段落すると、南軽井沢の開発に着手した。彼は大正13年(1924年)に新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅20間(約36m)長さ20町(約2180m)の道路建設に取りかかった。この道路は南の押立山の麓まで、翌14年(1925年)夏にはほぼ完成し、道路の両側には別荘を建設して売り出した。

 道路の西側には飛行機が発着できる滑走路をつくり、昭和2年(1927年)8月16日から東京-軽井沢間の定期連絡飛行の認可を逓信省からうけた。

 飛行機は十年式偵察機を使って、一日おきに東京-南軽井沢間を往復する計画であった。
午前9時に国立飛行場を出発し、50分で馬越飛行場に着陸し、午後4時に帰航する時刻表で、運賃は一人片道10円、荷物は1キロ60銭となっていた。

 また昭和3年(1928年)8月には浅間遊覧飛行を行った。9月1日より25日まで、毎日午前10時より午後3時まで鈴木一等飛行士が操縦することになった。

 600mの上空から浅間山や日本アルプスの山々を鳥瞰して一回一人10円であった。(中信毎日 昭三・八・三○)

 (中略)この飛行場は戦争が激しくなると昭和18年(1943年)に整備されて、熊谷飛行学校の飛行訓練場として使われ、19年には、陸軍特別航空隊学徒が使用することになって軍事色をつよめていくことになる。」とその変遷が記されている。

 軽井沢の飛行場の歴史にはもう一つの飛行場が登場する。「軽井沢という聖地」(桐山秀樹、吉村祐美 著、2012年5月1日 NTT出版発行)には次のように紹介されている。

 「軽井沢の「戦後」は、戦勝したアメリカ軍の「保養地」として始まった。(中略)
旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで作られた。

 やがて、この飛行場で、事故が起こったため、軽井沢から南に延びる20間道路(現プリンス通り)の南半分を“臨時飛行場”とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一次遮断して、飛行場の離発着を助けていた。(中略)

 ところが、臨時飛行場のままでは占領軍も不便なため、当時、地蔵ヶ原と呼ばれていた南軽井沢の湿地帯を飛行場用地に選び、所有者の箱根土地株式会社(現国土計画)の社長だった堤康次郎と交渉した。

 そして占領軍の手で地面を掘り下げ排水した後、浅間山の砂利を敷き詰め、現在の72ゴルフコース西コースに「軽井沢飛行場」をオープンさせた。

 この軽井沢飛行場は、昭和27年(1952年)の講和条約締結まで約3年余り、東京-軽井沢間を僅か25分で結ぶ米占領軍の将校専用飛行場として利用されていた。」とある。

 その後、この軽井沢飛行場は遊覧飛行場として使用されたとの記録はあるがやがて消滅し、1971年7月にはその一帯に広大な72ゴルフ場がオープンしている。

 軽井沢ではこのように飛行場建設が何度も試みられてきた。昭和初期に作られた軽井沢飛行場と、戦後米占領軍により作られた飛行場とは共に南軽井沢の20間道路の西側ではあるが、滑走路が同一居場所であったのかどうかは前出の2冊の本の記述からは判らない。


現在の20間道路の南軽井沢交差点付近から軽井沢駅方面を望む(プリンス通り)(2016.12.5 撮影)


現在の20間道路の南軽井沢交差点付近から72ゴルフ場方面を望む(2016.12.10 撮影)

 今その痕跡を探すこともできないようだが、飛行場の跡地である72ゴルフ場はゴルファー憧れの地として多くの客を集めていつも賑わっている。どれだけのゴルファーが、この場所に飛行場があったことを知っているのだろうか。


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ホウジャクのホバリング

2016-12-09 00:00:00 | 
 庭のブッドレアの花にやってくる蝶や蛾などの中でも一風変わっているのがホウジャクであった。

 ホウジャクは「蜂雀」と書き、蜂のように飛ぶ「雀蛾(スズメガ)」の意味。

 その名が示すように、ホウジャクは蜂のようにホバリングをして、花から少し離れたところにとどまり、そこから長い口吻を伸ばして蜜を吸うのだが、その様子はハチドリにも似ている。

 ハチドリといえば、もうずいぶん前のこと国際会議参加のため5月に米国のサン・ノゼに出張した時、滞在したホテルの広い庭の花に次々と吸蜜に来ていたのを見て感動したのを思い出す。日本では見かけることのない光景だ。

 ところで、時々庭にやってくるこのホウジャクのホバリングの様子を写真撮影してみようと思い立ち、ニコンD200と105mmF2.8マクロレンズを持ち出してストロボを使わず、高速シャッターでどの程度撮れるものか挑戦してみた。

1/1000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 1/5(2016.10.9 撮影)

1/1000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 2/5(2016.10.9 撮影)

1/1000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 3/5(2016.10.9 撮影)

1/1000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 4/5(2016.10.9 撮影)

1/1000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 5/5(2016.10.9 撮影)

 毎秒70回から90回羽ばたいているという翅の動きが1/1000秒のシャッタースピードで撮ると、翅の位置にもよるが、速度が遅くなる折り返し位置にある時にはある程度止まって写っている。一方スピードの速くなっている途中ではぶれてしまった。羽ばたきの回数からは当然の結果となった。

 更に条件をを変えて、1/2000秒でも撮影してみた。

1/2000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 1/5(2016.10.9 撮影)

1/2000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 2/5(2016.10.9 撮影)

1/2000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 3/5(2016.10.9 撮影)

1/2000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 4/5(2016.10.9 撮影)

1/2000秒、F3で撮影したホウジャクのホバリング 5/5(2016.10.9 撮影)

 今回はISOの最高感度での撮影を試みたのだが、これらの写真を見る限り、ホウジャクのホバリングの翅の動きを完全に止めるためには、1/2000秒よりも更に数倍早いシャッター速度で撮影をする必要があることが判った。

 しかし、我がニコンD200と105mmF2.8マクロレンズではこの辺りが限界のようである。

 友人のSさんは飛翔中の蝶の撮影を行い、すばらしい写真を多数撮影しているのだが、ぴたりと静止した写真を撮るためには1/1000秒以上の早いシャッタースピードが必要だと話していた。

 ホウジャクの場合、蝶とは比較にならないくらいのスピードで翅を動かしているため、この条件では歯が立たなかったようだ。

 ホウジャクの仲間には、ホウジャク、ホシホウジャク、クロホウジャクなどがいて、よく似ている。

 この内、ホシホウジャクとクロホウジャクは体や翅の色がとてもよく似ていて、ホバリングをしているときには素人には肉眼ではとても区別がつかない。

 同定は前翅先端部の紋様と、後翅の黄色の帯の太さで判断できるとの情報を参考にして、前後翅がはっきり写っている写真で判断したのだが、今回庭のブッドレアに来ていたのはホシホウジャクのようである。

 ホウジャクの仲間には翅が透明で、体の色が黄緑色のオオスカシバがいる。小学生のころ、このオオスカシバを見て衝撃を受けた記憶がある。

 オオスカシバの翅も、羽化直後には鱗粉で覆われていて不透明だという。羽化して羽ばたくことでこの鱗粉は容易に取れてしまい、我々が見る透明な状態になるのだそうだ。

 オオスカシバの幼虫はクチナシの葉を食べる。我が家の庭にクチナシを植えているのは、このオオスカシバを呼ぶためだ。
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フェアリーリング

2016-12-02 00:00:00 | 日記
先日、妻の知人のお誘いで小諸の、ある施設を訪問したが、ここで珍しいものを見ることができた。

この知人が、近くのグラウンドにフェアリーリングができているからぜひ見てくるといいと教えてくれたのだ。

そのグラウンドに行ってみると、中央から外れたところに点々とキノコが出ていて、このキノコが直径8mほどの円周上にならんでいるのが見えた。

また、キノコが生えている円周部分の芝生も周りに比べるとやや濃い緑色になっているように思えた。


グラウンドの芝生の中に現れたフェアリーリング(2016.10.15 撮影)

これが、フェアリーリングであった。

ちょうど、ここに研修に来ていた県内の大学生たちもぞろぞろと集まってきて、しばらくこの珍しい現象を眺めていた。

学生たちと比べるとこのフェアリーリングの大きさを実感していただけると思う。


研修に来ていた大学生が集まってきた(2016.10.15 撮影)

円周上のキノコはカサの大きさが10cmはある大きなもので、すでに枯れ始めていたのだが、元気なときに見ることができればもっと見事な眺めであったろうと、やや残念な気がした。


フェアリーリングを構成しているキノコは枯れはじめていた(2016.10.15撮影)


フェアリーリングを構成しているキノコは10cmくらいの大きさがある(2016.10.15 撮影)

リングの中心部分に行ってみると、ここには大きなキノコはなくて、カサの大きさが1cm程度のずっと小さいキノコが生えていた。


リングの中心部に生えていた小さいキノコ(2016.10.15 撮影)

マツタケなども、1本見つけると円形に生えているので、周囲をよく見るとさらに見つけることができると言われていたように記憶しているが、これは多くのキノコの性質なのだろうかと思って、少し調べてみた。

フェアリーリングは菌輪とか菌環と呼ばれ、こうした状態を形成する菌糸はコムラサキシメジ、シバフタケ、ホコリタケなどの50種類ほどが知られていて、主に春と秋に発生が多くなるという。

Wikipediaによるとフェアリーリング(菌輪)が形成される仕組みについては二つの説があるとされている。

一つは、胞子が芝生などに着生・発芽した地点から菌糸が放射状に伸び、古くなった中心部分から順に死滅していくことで周縁部分が環状に残る、というもの。

そして気温や地温・水分・光などの条件が整うと、地中の菌糸から子実体(キノコ)が形成され、われわれに認識されるようになるという。

二つ目の説は、日本におけるマツタケの生態調査の成果をもとに提唱されたもので、フェアリーリング(菌輪)はキノコの楕円形のコロニーが繋がってできたとするものである。

このコロニーの連なりが弧や円を形成すると、コロニーは同心円状に拡大してゆく(「菌輪」Wikipedia, 2014年6月22日 (日) 08:49 UTC )。

今回、私達が見たものは前者であるようだ。

原点である中心から外へ外へと広がり続けるというのも不思議な気がするが、こうして大きくなったものは今回のように直径10mほどに達するものも珍しいことではなく、中には直径600mというものもあるとされているし、寿命もフランスには700年という記録があるというから驚く。

名前のフェアリー(妖精)の由来はヨーロッパ起源というが、Wikipediaにはさまざまな民話や神話に基づく物語が紹介されていて、これはこれでとても面白いものである(前出)。

現実問題としてはこのフェアリーリングは芝生をリング状に枯らしたり、また逆に芝生をリング状に異常生育させたりするということで、ゴルフ場の敵であるらしい。

フェアリーリング対策用の薬も種々販売されている。

キノコがリング状に発生するということとは別に、こうした芝生を枯らしたり、逆に生育を促進させたりする現象がなぜ起きるのかについては、1675年にフェアリーリングに関する最初の科学的論文が発表され、その論文が1884年のNature誌に紹介されて以来、長い間謎のままだったようだ。

この謎解きに最近日本の研究者が挑戦し、その鍵をにぎる物質を突き止め、発表しているので以下に引用して紹介する(https://www.jsps.go.jp/seika/2015/vol1_010.html 参照)。

従来は、キノコの菌糸が土中のタンパク質を分解し、窒素分を硝酸など植物に吸収されやすい形、すなわち窒素肥料に変えるため、周囲の植物の成長が促されると考えられていた。

しかし2010年、静岡大の河岸洋和 教授らはこの定説をひっくり返す発見をしている。

フェアリーリングを生じるコムラサキシメジという菌を培養して、その培養液から芝の生長を促進する物質「2-アザヒポキサンチン(2-azahypoxanthine、AHX)」を発見し、さらに、芝の生長を抑制する「イミダゾール-4-カルボキシアミド(imidazole-4-carboxyamide、ICA)」も見つけたという。

また、AHXは植物に取り込まれると、2-アザ-8-オキソヒポキサンチン(2-aza8-oxohypoxanthine、AOH)になることが判明し、これら3つの化合物を、Nature(505巻、298頁、2014年)がこの研究を紹介した記事の見出し“fairy chemicals”から「フェアリー化合物」と命名している。

このフェアリー化合物は、あらゆる植物の生長を制御したことから、河岸教授は「植物自身もフェアリー化合物を作っているのではないか?」と考え実験を行い、予想通りの結果を得ている。

例えば、三大穀物である米、小麦、トウモロコシの可食部にもフェアリー化合物が存在していた。つまり、私たちは毎日フェアリー化合物を食べていることになるという。

さらに、フェアリー化合物は、米、小麦などの穀物や野菜類の収量を大幅に増加させることがわかり、しかも、低温、高温、塩、乾燥などの栽培の悪条件下でさらにその効果を発揮することから、フェアリー化合物の実用化に向けた研究を静岡大学の農場で行っているというからなかなか興味深いものである。
















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