軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

山野で見た蝶(3)ヒメシジミ、ミヤマシジミ、アサマシジミ

2019-06-28 00:00:00 | 
 今回は表題にある3種の蝶を一緒に紹介させていただく。その理由は、この3種は近縁で外観がとてもよく似ていて、初心者にはなかなか区別がつきにくく、以前出かけた草原で見かけて、写真撮影をしたものの、長い間、種を確定できずにいたからである。ようやく、何とか同定できそうになったので、紹介させていただこうと思う。

 いつもの「原色日本蝶類図鑑」(1964年 保育社発行)の表現を見ると次のようである。

 先ず「ヒメシジミ」の項から。私は知らなかったのであるが、この本の出版当時、ヒメシジミは「シジミチョウ」と命名されていた。シジミチョウの代表としての名をつけられていたということになる。

 「草原地帯の花上に群がって吸蜜している姿は、美しく可憐である。・・・無風好天の日には無数に叢に見かける。・・・近縁3種のうちでは本種が最も普遍的な分布を示し、発生する個体数も多い。北海道から本州東半に多く、関東・中部の山地には普通で、近畿にはまれながら六甲山に、中国では伯耆大山に饒産し、周辺の山々にも見られる。
 『ミヤマシジミ』との区別は次の相異によって明らかにされる。① 雄の翅表は青藍色、『ミヤマシジミ』のように紫色を帯びない。②  裏面中央の紋列第2室の黒点は丸い。
 幼虫はキク科のヤマボグチなどを食べ、発生は年1回、6月なかばから7月の終わりまで多い。」

 次に、「ミヤマシジミ」の項から。
 「本種は従来、『シジミチョウ』と多く混同されてきたもので、独立種と認められたのは最近のことで分類上の大きな業績といわなくてはならない。本種の分布は狭く、本州においても中部・関東以外は不連続的に棲息し、北海道・九州には発見されていない。東北でも産地は南にかたより、山形・福島に知られ、中部には前種と混棲してやや多産するが、関東以北の山地には前種のみ多く本種はきわめて少ない。
 前種との相違点は、① 雄の翅表は紫色を帯びて明るく、② 外縁の黒縁はきわめて細く、③ 後翅外縁の黒紋列はあざやかに特徴を示す。
 本種は他の近縁のものとは異例の多化性の蝶で、5月から11月に至る長期にわたって、暖地や低地では年4~5回、寒冷地や高地では3回の発生をみる。」

 最後に「アサマシジミ」の項から。
 「本種も前2種と類似の蝶で、種の判別はやや困難であるが、次の諸点において区別される。① 前2種にくらべ形は最も大きく、② 雄の翅色は暗青色でやや紫がかっている。③ 前翅第2室裏面の黒紋は『ミヤマシジミ』と同様に横長く(『シジミチョウ』では円形)、④ 後翅裏面外縁の色紋は、『ミヤマシジミ』は朱色、本種は『シジミチョウ』と同じく略黄色である。⑤ 全翅裏面の黒紋は一般に他種より大きくあざやかである。本種の分布はきわめて狭く、関東の低山地にまれに産し、中部山地帯のみ多産地として、浅間・蓼科・八ヶ岳などは特に饒産することによって著名である。北海道・四国・九州には全く産せず、中部にても西部にはまれとなり近畿・中国にても未知の種に属する。発生は年1回、6月末から7月に多く幼虫はマメ科の植物を食す。」

 また、もうひとついつも参考にしている「フィールドガイド日本のチョウ」(2013年 誠文堂新光社発行)では、三種の違いを次のように示している。生息地や発生時期なども含めて表に纏めた。


3種の識別法と生息地、発生時期の違い

 この資料を見ると、軽井沢を含む本州の中部地方一帯は、これら3種のチョウが全て生息している場所であることがわかる。 

 数年前に、軽井沢の北にある草原に出かけた時に、足元をチラチラと飛ぶ小型のシジミチョウを撮影したことがあった。アサマシジミが含まれているといいなと思いながらも、他の2種との区別がうまくできなくて、長くそのままになっていた。今回その写真を整理していて、これら3種が含まれているのではないかと気付いた。撮影時期は2年にまたがるが、ほぼ同じ場所で撮影したものである。

 ヒメシジミとミヤマシジミは前記識別法を手がかりに区別できたのではないかと思っているが、アサマシジミは実際のところ未だによく判らないでいる。撮影した写真は次のようである。3番目の蝶はアサマシジミかもしれないと思ったのであるが、翅はぼろぼろに痛んでいて、判りにくいこともあり、本当にアサマシジミかどうか、次の機会にまた現地に出かけ、撮影し確認してみたいと思っている。

 先ずはヒメシジミの写真から。裏・前翅の黒点(図示)が円形に近いことから判断した。


北軽井沢の草原で見たヒメシジミ(2016.8.1 撮影)


北軽井沢の草原で見たヒメシジミ(2016.8.1 撮影)

 次はミヤマシジミ。裏・前翅の黒点は隠れていて見えず、判定の助けにはならないが、裏・後翅亜外縁の黒斑列内に青色の鱗が3箇所見られることから判断した。


北軽井沢の草原で見たミヤマシジミ(2015.7.15 撮影)


北軽井沢の草原で見たミヤマシジミ♀(2015.7.15 撮影)

 最後はアサマシジミかもしれない個体。裏・前翅の黒点(図示)が長楕円形に近いことと翅表のブルーから判断した。


北軽井沢の草原で見たアサマシジミ?(2016.8.1 撮影)


北軽井沢の草原で見たアサマシジミ?(2016.8.1 撮影)


北軽井沢の草原で見たアサマシジミ?(2016.8.1 撮影)

 自宅の庭には、軽井沢への移住当時アサマシジミのことを意識して妻が植えたナンテンハギがあるが、4年目の今年になって見ると、大きく成長していて、今は花も咲き始めている。いつかアサマシジミが「庭にきたチョウ」の仲間入りをしてくれることを願っているのであるが。


庭で大きな株に成長しているナンテンハギ(2019.6.26 撮影)

 故鳩山邦夫氏の「チョウを飼う日々」(1996年 講談社発行)の中の、『追憶の軽井沢』の章を読んでいると、アサマシジミが登場するところが2箇所あって、次のように書かれている。かつては町内や周辺地域に、アサマシジミは普通に見られたようである。しかし、それも過去のこととなり、現在の旧軽井沢でそれを求めるのは無理な話なのだろうと思う。

 「私の軽井沢に対する愛着の念は格別で、第二のふる里と呼びたく思うほどだ。そして佐久市野沢の長岡勝さんとチョウ友関係を取り結んでからは、“私の軽井沢”は北佐久全域に広がりを見せた。・・・佐久市のヒメギフ、スギタニルリ、アサマシジミとゼフィルス各種、・・・それらすべてが軽井沢の別荘から小一時間で行けるものだから、東京に住んでいると全部”軽井沢のチョウ”の感がある。」

 「軽井沢から汽車に乗り、うらぶれた信濃追分で下車。線路脇にはすでにヒメシロチョウやアサマシジミが可憐な姿を見せており、・・・でもその広大な追分ヶ原を、追憶をたよりに探してみても、別荘地と畑と樹林が目立つばかりで、どこにも見当たらないのである。・・・」

 ここで紹介されているのは、1990年代の話だから、当時すでにアサマシジミは軽井沢周辺では稀少な存在になっていたということである。
 
 ここで、義父のコレクションにもこれら3種は含まれているので、標本の写真を紹介させていただく。この標本をみると、アサマシジミは必ずしも他の2種よりも大きいとはいえないようである。前記識別法にも「一般的な大きさ比較」として紹介されていて、注記としては、「北海道や本州高地のアサマシジミは他種とほぼ同じ」とあるので、軽井沢とその周辺の高地産は、大きさの点ではヒメシジミ、ミヤマシジミと変わらないのかもしれない。

 一方、もう一つの私の愛読書、写真集「軽井沢の蝶」(栗岩竜雄著 2015年発行)では、軽井沢産のアサマシジミは、ヒメシジミに比べ、明らかに大型として紹介されているので、判らなくなる。


上から、ヒメシジミ、ミヤマシジミ、アサマシジミ(2019.6.24 撮影、年号は昭和)

 (追記:2019.6.30 アサマシジミの標本の♂について、ヒメシジミの誤同定とのコメントをいただきましたので、同標本の裏面の写真を追加して掲載します。)


アサマシジミ♂の裏面(2019.6.30 撮影)

 こらら三種は共に絶滅の危険性のある種に指定されている。
 ヒメシジミは北海道、本州、九州に棲息しているが、本州と九州で準絶滅危惧種に指定されている。他の2種と比較すると、まだ各地で見られるが、環境の悪化により個体数が減少傾向にあるとされる。

 ミヤマシジミは本州のごく限られた地域にのみ棲息し、絶滅危惧種Ⅱ類に指定されている。減少傾向が著しく、農地周辺ではほぼ消滅したとされる。

 アサマシジミは本州と北海道に離散的に生息域が見られ、絶滅危惧種Ⅱ類に指定されている。各地で激減していて、北海道では特に危機的な状況になっているほか、本州でも草原環境の悪化によって、生息地が非常に限られる状況にある。また、軽井沢の隣の御代田町では天然記念物に指定され、保護されている。

 小さく、足元を飛んでいても、一般には特に注目されることの無いこれら3種の蝶であるが、いずれも稀少で、減少傾向にあるとされる。上記の写真を撮影できたのは、手入れの行き届いた場所でもあり、これからもこれらの蝶の生育場所として保たれていくことを願いたい。

 追記:この原稿を一応書き終わった後で、現地の状況が気になったこともあり、3度目の撮影に現地に出かけてみた。前2回よりも時期的には早かったこともあり、個体数は少なかったが、ヒメシジミが見られた。今回も、撮影後の写真を見てミヤマシジミ、アサマシジミを探してみた。それらしい写真が含まれているものの、やはり確証は得られなかった。

 この日は、そのほか、ツバメシジミ、ベニシジミのシジミチョウ2種と、ウスバアゲハ、キアゲハ、オナガアゲハ、クロアゲハ、モンキチョウ、スジグロシロチョウ、アカタテハ、クモガタヒョウモン、ウラギンヒョウモン、フタスジチョウ、コミスジ、ヒメウラナミジャノメ、ギンイチモンジセセリの姿が見られた。

 撮影できた種の姿を以下に紹介させていただいて、本稿を終る。


ヒメシジミ1/6(2019.6.25 撮影)


ヒメシジミ2/6(2019.6.25 撮影)


ヒメシジミ3/6(2019.6.25 撮影)


ヒメシジミ4/6(2019.6.25 撮影)


ヒメシジミ5/6(2019.6.25 撮影)


ヒメシジミ6/6(2019.6.25 撮影)


ツバメシジミ(2019.6.25 撮影)


ベニシジミ(2019.6.25 撮影)


ウスバアゲハ(2019.6.25 撮影)


モンキチョウ(2019.6.25 撮影)


スジグロシロチョウ(2019.6.25 撮影)


クモガタヒョウモン(2019.6.25 撮影)


ウラギンヒョウモン(2019.6.25 撮影)


フタスジチョウ(2019.6.25 撮影)


コミスジ(2019.6.25 撮影)


ヒメウラナミジャノメ(2019.6.25 撮影)


ギンイチモンジセセリ(2019.6.25 撮影)





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ガラスの話(16)シルバーオーバーレイ

2019-06-21 00:00:00 | ガラス
 今週、このブログの開始以来の累積閲覧数が、10万を超えたと判った。開始してからの日数も1000日を超えたばかりなので、平均、日に100件の閲覧をしていただいたことになり、思いがけない数字を大変ありがたく思っている。

 関西在住の友人から、「軽井沢での日々を綴り、皆に送ってはどうか」、と勧められて始めたこのブログだが、何とか3年間続けることができた。子供の頃から日記は三日坊主であったし、学校での作文の時間も、とても苦手だったので、自分でもこうして書き続けていることには、意外な気がしている。しかし、こうして多くの閲覧数を見るとそれが励みになり、今では生活の一部になっていて、重要な位置を占めるようになってしまった。

 今日の読売新聞の「編集手帳」に先日亡くなった作家の田辺聖子さんのことが、私の場合とは比べるべくも無いが、次のように出ていた。

 「<もろもろの/恩かがふりし/ひとよかな>◆かがふるは受けるの古語で、人の世からたくさんの恩を受けたとの意味だが、この感慨にいたるには晩年までかかった。書きたいから受けた仕事なのに、結果的にはふりかかる火の粉を払わねばならぬという心に余裕のない毎日だったと、多忙な時代を振り返っている◆」

 さて、今日はガラスの話。成形し完成したガラス器の表面に種々の加工を施す技術の一つにシルバーオーバーレイというものがある。文字通り、ガラス表面に銀を貼り合わせる技法である。

 私共のガラスショップにも少しではあるが、このシルバーオーバーレイ技法を用いた製品がある。すでに販売してしまったものもあるが、これらの一部を紹介すると、次の写真ようなものがある。


シルバーオーバーレイを施した緑色ガラス香水瓶(高さ75mm、径53mm)

 この最初の写真は、緑色ガラス製の香水瓶に厚く銀が盛られているもので、描かれている紋様も太く単純な形状をしている。

 もう一つは、比較的多く見られるもので、透明ガラスでできたグラスのボウル部分と、フット部分が銀で葉の紋様に装飾されているが、それほど微細なものではない。


シルバーオーバーレイで葉紋を施した透明ガラス製クープ

 また、次の写真は、赤と黒の強いコントラストのグラスで、透明ガラスでできたボウルの内側に赤いガラスを被せ、透明ボウル部分の外側に銀で微細な花と葉の装飾が加えられている。ステムとフット部は黒色ガラスでできていて、フット部の周縁にも銀が施されている。とても印象的な製品に仕上がっている。


透明ガラスボウルの内側に赤色ガラスを被せ、外側にシルバーオーバーレイを施したカクテルグラス(高さ130mm、径80mm)

 このシルバーオーバーレイの技法について詳細を知りたくて、国内のガラス工芸の本やガラス工芸学会誌の報告例を当たってみたが、この技術に直接言及したものは見つけることはできなかった。ガラスの加飾法は各種のものが紹介されているのだが、ガラス表面に金属加工を施すものとしては、鏡に関するものがほとんどであり、シルバーオーバーレイに関しては、ウィキペディアの英語版に若干の情報がみられるという状況であった。

 今回は、このウィキペディアとそこで参考文献として挙げられている情報を引用し、シルバーオーバーレイという技術をみてみようと思う。

 シルバーオーバーレイの技術は、基本的に電気メッキ技術である。ガラスや磁器製品に銀メッキをするためには、先ずこれらの表面に導電性の被膜を形成しなければならないが、そうした基本的な技術に関する特許が1870年頃から連続して出願されている。出願年と発明者とを順に並べると次の様である。
 
 ●1879年・・・Frederick Shirley(USA)
 ●1889年・・・Erard and Round(England)
 ●1893年・・・John Sharling(USA)
 ●1895年・・・Friedrich Deusch(Germany)

 ただ、これらの特許は発明者らが製品を作るために(形式的に?)出願したという傾向が強いようで、銀メッキ技術そのものは、特許出願以前から知られていたとされているが、実際の発明者は判らないという。

 この導電性被膜は、銀とテレピン油を含むフラックスで、シルバーオーバーレイを施す磁器やガラス器の表面に塗布した後、それら全体を比較的低温に加熱して焼き付ける。これを冷却し、洗浄してから、銀メッキ処理をすることで、器体にしっかりと銀膜を形成することができる。

 銀の厚さは、通電時間で制御されるが、当時は30時間ほどをかけていたようである。具体的な厚さの情報はないが、指で触ると厚みを感じることができるとある。

 手元にある前出の写真の赤/黒のカクテルグラスで測定したところでは、0.2㎜ほどの厚さがあり、香水瓶ではもっと厚く、0.4㎜ほどになっている。

 この技術の重要なところは、形成された銀膜のガラスへの密着性にあるが、ドイツ人のFriedrich Deuschの発明のポイントもここにあるとされる。花瓶などのシルバーオーバーレイの対象物を、先ず機械彫りまたはフッ酸処理により、表面を粗面化した後にフラックスを塗布する。その際、描かれる紋様に応じて、非常に精度よくシルバーオーバーレイをかけたくない部分をマスキングする必要がある。こうした準備工程の後、銀メッキが施される。

 また、ドイツのシルバーオーバーレイの技術のもう一つの特徴として、銀の純度の高さが指摘されている。通常スターリングシルバー(STERLING SILVER)と呼ばれる92.5%またはそれ以上の純度で作られ、この証として、製品の底や側面部分には、純銀相当ということで1000と刻印されるが、銀膜の一部に直接描きこまれることもあったという。

 Friedrich Deuschはシルバーオーバーレイ製品を、1907年にフランス・ボルドーで開催された博覧会に出品し、1912年にはドイツに Deusch & Co.を設立している。また、これに続いてドイツでは、シルバーオーバーレイを専門とする会社、Friedrich Wilhelm Spahr社やAlfred and Manfred Vehyl社などが創設されている。

 これらの会社では、素材となる磁器製品はRosenthal, Hutschenreuther, Thomas Bavaria, Krautheim & Adelbergなどのよく知られた会社から購入しているが、シルバーオーバーレイを施した製品には自らの名前を付けて販売した。ガラス製品の場合にも近隣のWMFなどから購入し、同様に自社ブランドで販売していたとされる。

 ところで、花瓶などの場合は、銀メッキを施したガラス面を裏側から見ることはないが、グラスや皿、鉢へのシルバーオーバーレイではガラスを透して見える色が問題になった。1889年のErardの技術は銀の表面は美しいものであったが、ガラス側からは変色して黒く見えるという欠点があった。

 これを解決したのが、1893年のJohn Sharlingの特許技術であった。Erardの技術より複雑な工程になったようだが、ガラス側から見た外観は、雪のように白く、永久に変化しないものであった。Sharlingの技術も、Erard同様銀メッキ技術を用いている点には変わりがない。

 彼はこの新技術を、アメリカ国内とヨーロッパに公開したので、1895年までに、アメリカでの大量生産と共に、チェコ、イタリア、フランス、イギリス、オーストリアでもシルバーオーバーレイ製品の生産が行われていた。これは1920年頃まで続き、その後大恐慌により、多くのガラスメーカーは撤退、もしくはより安価な製品へと転換していくことになる。

 ウィキペディアの記述は、ドイツのDeusch社のことに偏重している感があり、アメリカの企業のことにはほとんど触れていない。そこで、前出の3種のシルバーオーバーレイ製品について少し詳しく調べてみた。

 この三番目の写真の赤・黒のカクテルグラスの底面にはメーカーのマークがあり、「Rockwell」と読める。最初の香水瓶と、2番目のグラスにはこうしたサインは見られない。購入先からの情報では、2番目のグラスは、アメリカのレノックス社製と伝えられているが。


ボウルが赤のグラスの黒色フット部分底面に記されたマーク


同、拡大
 
 「Rockwell」マークを手がかりに、このメーカーのことを調べてみると、米国コネチカット州メリデン市に1907年に設立された会社、Rockwell Silver Company のものであることが判った。場所はニューヨークから北東に120kmほどである。

 ネット検索で得られたRockwell社の情報は次のようであり、設立当初は従業員6名でスタートしていたことが判る。

 「The Rockwell Silver Company had its inception in 1907, when it was organized by Lucien Rockwell and E. F. Skinner, who became president... In 1913 the business was reorganized... while the original employes numbered six and the floor space of the plant was 1500 sq. ft., today the business has grown until there are now 24 employees and the plant has been increased to include 11,250 sq. ft. of floor space.」(1918年の記事から)

 話は少しそれるが、先日、プジョー(Peugeot)ブランドのワイングラスを手に入れて、まさかと思ったが調べてみると、自動車メーカーのプジョー社のものであることを確認し、意外に思ったことがあった。だが、今回のロックウェル(Rockwell)社は、航空産業のロックウェル・インターナショナルとはまったく無縁であった。

 調べていくと、Rockwell社では、当時特許出願もしていた。ただ、これはシルバーオーバーレイ関連の応用技術で、カラー化に関するものであり、シルバーオーバーレイそのものの技術に関するものではなかった。

 Rockwell製の赤・黒のカクテルグラスは写真では5個あるが、もう1個、銀が部分的に剥離しているものがあった。剥離部のガラス面の状態を見ると、銀が形成されていたガラス部分がすりガラス状になっていて、ガラスが薄く削り取られていると思われた。また剥離した銀の裏面、すなわちガラスに接していた部分には白色のコーティング層は認められなかった。

 こうした点から見ると、Rockwellが用いている技法は、ドイツのDeusch社の特許にあるフッ酸エッチングなどによる下地処理または類似の方法を用いている可能性があり、アメリカのSharling特許技術に見られる、”雪のような”ガラス界面とは異なるように思えるものであった。

 ここで、Deusch社の特許工程を図示しておくと、次の図のようになると思われる。Rockwellの赤・黒のカクテルグラスのシルバーオーバーレイは、このような方法で作られた可能性が高いようなのである。


Deusch社の特許技法による、ガラス器にシルバーオーバーレイを施す工程図(筆者の推測を含む)

 このグラスに関しては、これ以上詳しいことはわからないが、ネット上にはRockwellが製作した各種のシルバーオーバー製品の情報があり、どのような製品を作っていたかを知ることができる。 

 コーニングガラス博物館などに収蔵されている同社製品の情報は次のようである。一部は写真も見ることができるので、確認した結果の一部を次にまとめるが、創業当時から1970年代までの製品を見ることができる。尚、このRockwell Silver社は、1978年にSilver City Company に吸収され名前が変わっている。

 ●1900s   Pair of ruby glass decanters.
        Maker:Rockwell Silver Company. (after 1907).
        From:The Phillips Museum of Art, Franklin & Marshall College

 ●1910s   Loving cup.
        Maker:Rockwell Silver Company.
        From:Mobile Museum of Art, Alabama.

 ●1920s   1920
        Holmes-designed coffee service.
        Maker:Frank Graham Holmes for Rockwell Silver Company
           Lenox China.
        From:Newark Museum, NJ.

        c.1922-37
        Cologne bottle with silver overlay.
        Maker:Tiffin Glass Company and Rockwell Silver Company.
        From:Museum of American Glass in West Virginia, Weston.

        c.1925-30
        Six cocktail glasses.
        Maker:Rockwell Silver Company.
        From:New Orleans Museum of Art.

        c.1925-35
        Vase with flowers.
        Maker:Pairpoint Manufacturing Co.,
           Rockwell Silver Company.
        From:Corning Museum of Glass, Corning, NY.

        c.1925-35
        Plate.
        Maker:Pairpoint Manufacturing Co.,
            Rockwell Silver Company.
        From:Dallas Museum of Art.
 
        c.1925-35
        Plate.
        Maker:Tiffin Glass Company,
            Rockwell Silver Company.
        From:Museum of American Glass in West Virginia, Weston.

 ●1930s    c.1930
        Cup and saucer.
        Maker:Lenox China,
            Rockwell Silver Company.
        From:Dallas Museum of Art.

        c.1935-50
        Candlestick holder.
        Maker:Indiana Glass Company,
            Rockwell Silver Company.
        From:Museum of American Glass in West Virginia, Weston.

 ●1960s    c.1960
        Tray with silver overlay.
        Maker:Rockwell Silver Company.
        From:Museum of American Glass in West Virginia, Weston.

 ●1970s    c.1970
        Candy dish.
        Maker:Rockwell Silver Company.
        From:Museum of American Glass in West Virginia, Weston.

 これら博物館・美術館の収蔵品を見ると、1900年代に始まり、1920年代に作られたものの点数が最も多い。そして次第に点数が減るが、1970年代に製造されたものも見られる。そして、Rockwell社もまた、多くの会社から磁器製品やガラス製品を購入し、シルバーオーバーレイ加工の後、自社の製品として、(マークを付して)販売していたことが判る。

 こうしたことは、それぞれの所蔵博物館・美術館の調査の結果明らかになったものとおもわれ、マークのない場合には、製品を見ただけでは、一般にはとても判りにくい状況にある。

 また、シルバーオーバーレイ製品は1880年ごろからせいぜい30ないし50年間生産されたとする情報もあるが、Rockwell社だけをとりあげても、1970年頃までは製造されていることになる。技術内容も含め、詳しい情報が求められる。

 さて、最後に私どものショップにあるその他のシルバーオーバーレイ製品を紹介しておこうと思う。シルバーオーバーレイの精細な紋様や、ガラスとの界面の色などを確認していただくことで、技術内容を推察していただければと思う。赤色ガラスを用いているものは、ガラス界面の色を確認しづらいのでよく判らないが、それ以外は、ガラス界面側の色はすべて白色である。すなわち、Sharlingの技術を用いている。また、銀の紋様の中に、「STERLING」という文字が刻み込まれているものも多く見られるので、それらは拡大して示しておいた。


コンポート(シルバーオーバーレイは内側)


片手皿(シルバーオーバーレイは内側)


両耳皿(シルバーオーバーレイは内側)


足つき皿(シルバーオーバーレイは内側)


足つき皿に見られる「STERLING」マーク


クリーマーとシュガーポット(シルバーオーバーレイは外側)


シュガーポットに見られる「STERLING」マーク


蝶花紋リキュールグラス(シルバーオーバーレイは外側)


蝶花紋リキュールグラスに見られる「STERLING」マーク


蝶花紋ピッチャーとタンブラー(シルバーオーバーレイは共に外側)


蝶花紋タンブラーに見られる「STERLING」マーク


草花/幾何紋様皿(シルバーオーバーレイは内側)


赤色ガラス皿(シルバーオーバーレイは内側)


赤色ガラス皿に見られる「STERING」?マーク


赤ガラス蓋付容器(シルバーオーバーレイは外側)


同、蓋を外したところ

 シルバーオーバーレイとエングレーヴィングの両方の加飾のあるものも見られる。


ピンクマヨネーズボウル/皿(ボウル:シルバーオーバーレイは内側、皿:シルバーオーバーレイは内側)


ピンクマヨネーズボウルに見られる「STERLING」マーク

 
 



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庭にきた蝶(27)ムラサキシジミ

2019-06-14 00:00:00 | 
 今回はムラサキシジミ。前翅長14~22mmの小型のシジミ蝶で、翅表が文字通り青紫色に輝く美しい構造色を持つ。いつもの「原色日本蝶類図鑑」(1964年 保育社発行)では次のようにこの蝶のことを表現している。

 「近畿では低山地帯常緑闊葉樹林の周辺にきわめて普通で、低いカシノキの葉上に思い出した様に飛来する。中部から関東へと次第にまれとなり、東北では青森にも見られず北海道には全く生息しない。暖地の四国・九州では多産しやや高地にも見られる。越冬した母蝶は3~4月頃冬眠からさめ、食樹の休眠芽に1個ずつ産卵する。幼虫はカシの枝先の若葉を内側に裏巻きにして中に棲む。食樹はコナラ・アラカシ・クヌギなどが知られる。」

 よく似た種にムラサキツバメ、ルーミスシジミがいるが、ムラサキツバメには尾状突起があること、ルーミスシジミはやや小型で、翅裏の色は灰白色(ムラサキシジミは褐色)、翅表の構造色もずっと明るい藍青色であり、区別できる。

 この蝶の成虫を、我が家の庭で見たのはこれまでに一度だけで、その時も庭先をさっと横切って行き、花でゆっくりと吸蜜していった訳ではない。飛んでいった先を目で追うと、庭の隅のヒイラギの枝先に止まった。急いでカメラを持ちだし、撮影しようとしたが、まともな写真を撮ることはできなかった。ただしかし、翅表の青紫色は何とか確認でき、翅裏の文様が写っていたので、ムラサキシジミと判定することはできた。

 小学生の頃、まだ捕虫網をもって出歩いていた夏休みに、高野山の麓の父の実家に、友人U君を誘って泊まりに行ったことがあった。彼は絵がとても上手で、素敵な絵入りの旅程表を作ってくれた。

 高野山まで歩いていこうということで、蝶の採集をしながら、二人で山道を歩いていると、薄暗い林の中でよくこのムラサキシジミに出会った。木陰の中でもキラリと輝いて見える構造色の青紫色が鮮明に見えたことを思い出す。

 関西では普通に見られるこのチョウであるが、軽井沢ではとなると結構希少種の部類に入るようで、優れた写真集「軽井沢の蝶」(栗岩竜雄著 2015年 ほおずき書籍発行)の中の著者の文章を引用すると、次のようである。

 「暖地性の蝶で、まさか標高1,000mを超える樹林帯で見られるとは思いもしませんでした。初めて町内で確認した時は大興奮したものです。・・・目撃箇所のほとんどが1,000m以上の標高域。暖地イコール低地という概念は持たない方がいいみたい・・・。コナラの幼木を好み、産卵シーンを含む観察や撮影もしやすく、蝶を探して歩き回っていればどこかで行き会う種のようです。・・・」。

 成虫越冬をするこのムラサキシジミ。冬はマイナス20度近くまで下がることのあるこの軽井沢で、どのようにして越冬しているのであろうかと思う。

 このムラサキシジミは思いがけず、別なかたちで軽井沢の我が家にやってきている。成虫ではなく幼虫でやってきたのであった。

 2016年以来、自宅で毎年のようにヤママユやウスタビガを飼育してその成長過程をビデオ撮影している。そのため両種の幼虫の共通の餌として山地でコナラの葉を採集して与えていたところ、そのコナラの葉になにやら10mmほどの長さの幼虫が付いてきているのに気がついた。よく見るとどうもシジミチョウの仲間ではないかと思えたので、この幼虫だけは別の飼育ケースに移し様子を見ることにした。

コナラの枝についてやってきた体長10mmほどのシジミチョウらしい幼虫(2017.7.21 撮影)

 この幼虫はしばらくはコナラの葉を食べていたが、やがてそれ以上餌の葉を食べる様子がなく、飼育ケースの隅でじっとしている。死んでしまったのかと思っていたら、次第に外観が変化しているようであった。

 気がつくと、プラスチックケース内の底近くの側面に、糸をかけて蛹になっていたので、そのまま放置していたが、8月に入り色が濃く変化していることに気がつき、ある日思い切ってビデオ撮影を始めることにした。いつ羽化するかタイミングつかめず、30倍のタイムラプスに設定して撮影を開始した。

 撮影はプラスチックの飼育ケースを横倒しにして口のほうから行った。撮影開始後数時間で羽化したが、あっという間のできごとで、気がついたらすでに羽化し、翅が伸びきった成虫がケースの側面に止まっていた。翅の青紫色は、後でビデオを見て確認できた。ムラサキシジミであった。

ムラサキシジミの羽化(2017.8.12 14:12, 30倍のタイムラプスとリアルタイム撮影とを編集)

 上の動画から得たキャプチャー画像で見る羽化の瞬間と、翅表の様子は次の様である。

ムラサキシジミの羽化1/2(2017.8.12 撮影動画からのキャプチャー画像)

ムラサキシジミの羽化2/2(2017.8.12 撮影動画からのキャプチャー画像)

羽化後ケース側面に止まるムラサキシジミ(2017.8.12 撮影動画からのキャプチャー画像)

 ケースの中ではずっと翅を閉じたままであった。このムラサキシジミの成虫は、その後放してやると、隣地の草むらに飛んでいった。しばらく翅を開くのを待っていたが、遂に翅表の美しい青紫色を撮影することができず、飛び去ってしまった。

羽化後、隣地の草に止まるムラサキシジミ(2017.8.12 撮影)

 この少し前に、妻の従姉妹3人が遊びに来ていて、軽井沢をあちらこちら案内して回ったことがあった。浅間山荘事件の顕彰碑に行ったとき、女性陣が4人で顕彰碑の周りを見て歩いていると、道の反対側でチラチラと動く蝶の影を認めたので、近くに寄って見ると、ムラサキシジミであった。この時もなかなか翅を開いてくれなかったが、ようやく撮影できたのが次の1枚である。なんだかおかっぱの女の子をイメージさせる姿をしている。 

木陰で開翅したムラサキシジミ♀(2017.7.21 撮影)

 この個体は、上の写真を撮影する少し前に、木の枝先で産卵するようなしぐさをしていた。翅表の青紫の様子からも、この個体は♀と判定できる。

枝先で産卵行動のようなしぐさのムラサキシジミ♀(2017.7.21 撮影)

 ところで、ムラサキシジミとよく似た種にルーミスシジミがいると上で書いたが、この種は天然記念物に指定されていて、「原色日本蝶類図鑑」(1964年発行)には次のように紹介されている。

 「日本に産する蝶類中天然記念物に指定される5種の内の1種で、ルーミスの名は千葉県鹿野山で初めて本種を発見したアメリカ人牧師の姓に因む。昭和7年以来天然記念物指定地となった奈良奥山は名実共に饒産し一枝を揺れば一斉に10数頭飛び出すことも珍しくない。・・・『ムラサキシジミ』と混棲し習性もきわめて類似し、卵は越冬した雌により4月の末から食樹の鱗包内に1個づつ産卵、約40日にて羽化、年発生は5・7・9月のおよそ3回と思われ、9月のものが最も多く渓流沿いの常緑樹の葉上に多く飛来する。」

 ちなみに、この5種類の天然記念物に指定されている蝶であるが、この図鑑では、ルーミスシジミのほかに、ウスバキチョウ、ミカドアゲハ、キマダラルリツバメの名前を見ることができるが、残る1種が見当たらない。ヒメギフチョウ、クモマツマキチョウの名前があるものの、これらを加えると数が合わなくなるし、両種とも県の仮指定となっているので、恐らく別であろう。

 最近のデータでは国指定の特別天然記念物としての蝶は上記のほか、アサヒヒョウモン、ダイセツタカネヒカゲ(1965.5.12 指定)カラフトルリシジミ(1967.5.2 指定)、オガサワラシジミ(1969.4.12 指定)、ヒメチャマダラセセリ、ゴイシツバメシジミ(1975.2.13 指定)がある。
 
 大阪に住んでいた高校生時代に、このルーミスシジミのことを「原色日本蝶類図鑑」で知って、見に行ってみようと思い立ち、奈良の春日山に出かけたことがあったが、空振りに終わった。1964年頃だったと思う。

 しかし、後になって知ったことであるが、春日山のルーミスシジミは、当時すでに、ほとんど姿を消していたそうである。それは、ちょうど今から60年前の、1959年に日本を襲った伊勢湾台風により、食樹のイチイガシがたくさん倒れたことと、その後の薬剤散布もあって、この地では絶滅していたのであった。しかし、私が頼りとした「原色日本蝶類図鑑」ではまだ訂正されていなかった。

 春日山のルーミスシジミに関してはその後、「ルーミスシジミ再発見」というニュースが新聞紙上に掲載されたことがあったが、後日、間違いとして訂正されている。今回紹介した、よく似たムラサキシジミと誤認されたものであった。

 今日に至るまで、春日山原始林というと、国の天然記念物ルーミスシジミの棲息地として紹介されることもあるようだが、さすがに最近の著書「フィールドガイド・日本のチョウ」(日本チョウ類保全協会編 2013年誠文堂新光社発行)では、ルーミスシジミに関して次の記載があり、その他の書籍でも、絶滅を伝えている。

 「主に照葉樹林の伐採及び植林によって、生息環境が失われ、全国的に減少している。奈良県の春日山ではすでに絶滅したと思われるが、これは農薬散布が原因とされている。」

 伊勢湾台風以来すでに60年が経過した。春日山のイチイガシも復活しているであろうし、天然記念物への認識も変化していると期待できるので、ムラサキシジミと共にルーミスシジミがまた「一枝を揺れば一斉に10数頭飛び出すことも珍しくない・・」といった状態に戻って欲しいと願わずにはいられない。
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引っ越しと転校

2019-06-07 00:00:00 | 日記
 引っ越しはさまざまな都合で已むを得ず行うことが多いと思うのだが、時にはその引っ越しが学生の場合には転校を伴うことになり、そのため近所にいた友達や、一緒に幼稚園(保育園)や学校で過ごした友と離ればなれになり、その後2度と会うことがないということが起きる。そうした中で、自分でも少し不思議に思う経験をしてきているので紹介させていただく。引っ越しといっても、私が子供のころ経験したのは、狭い範囲の中でのことなので、とくに驚くような事ではないのかもしれないが、どうだろうか。

 画狂老人と自ら名乗る江戸時代の天才浮世絵師・葛飾北斎は、生涯で93回もの転居・引っ越しをしたと言われる。また、一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたというから、90歳で亡くなるまでの15年間にはさらに37回の引っ越しをしたことになり、なかなかの数字である。
 北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからとされる。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もあるそうだ。

 北斎とは比べるべくもないが、私もこれまでに30回近くの引越しを経験している。多いほうだと思う。ただその割には、嬉しくない転校は1回だけで済んだ。子供の間は当然両親の事情によったが、就職してからはもっぱら会社都合の転勤や転属によるものであった。そして、自身の転勤に際しては、多くは単身で赴任をした。

 幼い頃の記憶の始まりは3歳ころだが、その時に住んでいた家は大阪市内の南方にあり、2階建ての長屋であった。すでにここに来るまでに、私は3回の引越しをしていたと後で両親から聞かされた。

 この時の記憶をたどると、大阪はジェーン台風の襲来を受けた時で、2階の部屋の土壁が崩れ落ちて、外が見えていたことを覚えている。

 このジェーン台風のことを調べてみると、「昭和25年(1950年)9月3日~4日 大阪湾で顕著な高潮、大阪兵庫、和歌山などで大きな被害。」とある。昨年2018年の台風21号では、関西国際空港が高潮で滑走路や旅客ターミナル1階が数十センチ冠水するという被害が出たが、過去にも類似の被害が出ていたようである。

 さて、ここを出て次に移った住まいは天王寺駅の近くで、この時「望之門(のぞみのもん)保育園」というキリスト教系の保育園に入園している。

 保育園時代の記憶はあまり多くはないが、担任の先生のお名前は覚えていて、「ゆうむら先生」といった。後年小学校に通うようになってから、自宅を訪ねてくださったことがあり、お会いしているが、その後結婚されて東京に住むようになったと母から聞かされている。

 保育園時代に、もう一度引越しをした。引越し先は園からかなり離れていたので、通園バスなどない時代のこと、5歳児が通うには遠いと考えたのであろう、両親から近くの別の保育園に移るかと聞かれたが、友達と別れるのがいやで、このまま同じ保育園に通いたいと答えている。

 自宅で仕事をしていた父はよく自転車の後ろに私を乗せて、坂の下まで送ってくれた。私はその後階段を登り、園まで歩いていったが、途中いつもNY君の家に立ち寄り、一緒に登園していた。


保育園のクラスメートNY君の家の前で(右筆者)

 園での生活でもうひとつ記憶に残っているのは、学芸会で「シンデレラ」の劇をしたことで、私は王子様役をすることになり、シンデレラ役はMMさんであった。この時のことは後々母から何度も聞かされることになったのだが、私が使用したマントは、母が使っていたミシンのカバーを利用したもので、豪華に見え、なかなか好評であったらしい。


保育園の学芸会(橙〇MMさん、青〇筆者)

 こうして、引っ越しをしたにもかかわらず保育園を無事卒園することができた。


保育園を変わることなく無事卒園(青〇筆者)

 保育園を卒園して通うようになったIM小学校は保育園からだいぶ離れていたので、当然、保育園のクラスメートは誰も来ていなかったし、NY君ともその後2度と会うことがなかった。しかも、この小学校に通ったのは1学期だけであった。又引越しをしたのである。従って、このIM小学校のクラスメートのことは何も覚えていない。ただ、担任の先生のお名前「にえかわ先生」だけは記憶にある。大阪城に遠足に行ったことは、写真を見て確認した程度である。


IM小学校入学時の集合写真(青〇筆者)


IM小学校の遠足で大阪城に(青〇筆者)

 次に住んだのは大阪の南東部のまだ周囲には田や畑が広がっている場所で、父が家を新築したのであった。さすがに引越しには懲りていた私は、「もうこれで引越しをすることは無いね」と父に言っている。

 新しい住まいからそれまでのIM小学校には通える距離ではなかったので、前述の通り転校することになった。私が経験した唯一の転校である。1年生の夏休みのことで、母に連れられて、夏休み中の転校先のIG小学校に挨拶に出かけた。担任のM先生が会ってくださり、先生と母が話をしている間に窓の外に見えたアサガオの花の記憶が鮮明である。

 このIG小学校ではそれ以上転校することもなく無事卒業した。1年生から2年生になる時にクラス替えがあっただけで、その後2年生から6年生までクラス替えがなく、5年間同じクラスメートと過ごすことになった。

 おかげで、このメンバーは互いにとても仲良く、還暦を期に再開した同窓会を今も年1回開催している。
 一番遠方に住んでいる私が、現地大阪の男女数名からなる幹事グループに連絡をして、開催日の決定や会場の選定をお願いしてきたのであるが、開催に一番熱心なのは私だと皆から言われている。離れて住んでいるだけに同窓生への思いが特に強いのかもしれない。 

 1年生の時、私とちょうど入れ替わるように転校して出ていったA君がいた。私とはほとんど接点もなく、当時の記憶は全くない。ただ、転校後すぐに仲良くなったAT君からだったと思うが、A君はとても(頭も)よい子だったという風に聞かされていた。もちろん、それに引き換え君はなんとも「やんちゃ」だなという意味が含まれていたのであるが。

 その頃、遠足でどこかのお寺にでかけたようで、集合写真が残っている。A君の姿も写っている。ただ、写真が出来上がって配られたころにはもうA君は転出していてクラスにはいなかったので、A君の手元にはこの写真は、届いていないのではないかと思う。


IG小学校転校後すぐの遠足(橙〇A君、青〇筆者)

 話は少しそれるが、二人いる私の孫娘のことである。数年前のこと、鎌倉に住んでいた娘夫婦が、婿の仕事の都合で2年間の期間限定で札幌に転勤することになり、家族で引っ越しをしていった。そこで、私たち夫婦がそれまで住んでいた東京から鎌倉に引っ越して、留守居役を務めることにした。

 年上の孫娘は当時鎌倉市内の私立小学校に通っていたが、やむなく転校することになり、1年生の夏休みに札幌の公立小学校に移った。私の場合とよく似た時期の転校であり、この符合にはやや不思議を感じさせられた。

 その孫娘は、予定通り2年後、元の鎌倉のS小学校に復学する事ができて、今年無事ここを卒業した。このS小学校は、小・中一貫校であったが、札幌の小学校にいる間に出会ったクラスメートの影響を受けたとのことで、孫娘はその後猛烈に勉強するようになり、受験をして横浜市内にある私立の中学校に合格する事ができ、今はその女子中学校に通っている。

 私たち夫婦は、この間に軽井沢移住を決め、娘たち家族が鎌倉に戻る時に、軽井沢に引っ越ししてきている。

 さて、私の話に戻るが、6年生の時に、クラスメートのOSさんという女子が生徒会長に立候補するという話になり、私が選挙参謀を務めることになった。学校中の各クラスの教室を廻り、選挙応援演説をするのであった。
 OSさんとは母親同士が年も同じで仲良く付き合っていたこともあり、お宅に伺って何度か選挙の相談をした。

 母が90歳になったころ、このOSさんのお母さんに会いたいというので、母を連れて1度は伊丹のお宅に、もう1度は、伊丹駅近くのホテルで食事をご一緒したことがある。OSさんのお母さんは3年ほど前に、私の母も昨年亡くなってしまった。

 次の写真は、卒業アルバムに載っているIG小学校の全景であるが、私の入学当時はまだできて間もない頃で、周りは田んぼや畑であった。


IG小学校全景

 中学校への進学の時、ほとんどのクラスメートは同じN中学校に進んだが、中の数名は私立の中学校に入学した。OSさんも私立の女子中学校に行った。

 中学1年生の年末、父が自宅を手放すことに成り、私の願いも空しくまた引越しをした。今度は最寄の近鉄南大阪線で4駅ほど離れた場所であった。

 そのころ、私は縁あって近くの市場の米屋でアルバイトをしていたが、その最中の引越しということで、私は引越しには立ち会うことができず、その日はアルバイト先のN宅に泊めていただき、翌日大晦日の仕事を終えてから、暗くなった夜道を自転車で引越し先に向かうことになった。
 
 この時は、本来ならば転校しなければならないはずであった。しかし、両親がどのように話をつけたのか、そのままN中学校に通うことができた。私自身ももちろん転校は望まなかったので幸いであった。

 中学校の修学旅行は東京・鎌倉・箱根方面で、専用の貸し切り列車「きぼう号」での往復であったが、帰りの列車で事件が起きた。夜行列車だったと思うが先生方もみな寝ている時に、誰だったか今はもう思い出せないが、担任のS先生が持っていたウィスキーの小瓶をそっと持ってきて口をつけた。もちろん飲むわけではなく、飲む真似をした程度であって、私もその仲間に加わったが、それがS先生に見つかってしまった。

 先生にこっぴどく叱られることになったが、その時「君は越境してこの学校に来ている。本来行くべき中学校に行ったらどうか!」と言われてしまった。その場限りの話で、転校には至らなかったが、先生は越境通学のことをご存知だったのだと改めて知ったできごとであった。

 この時の同学年にYT君がいた。彼もまた越境してN中学校に通ってきていた。恐らく、同じ駅で乗り降りするということで親しくなったのだろうと思うが、彼に誘われて乗降駅に近い英語と数学の学習塾に行くようになった。彼はT高校を目指して、越境してN中学校に来ていた。彼の家はお兄さんも二人のお姉さんもみなT高校卒であった。

 クラスは違っていたが、成績のよかったYT君とは、彼の家に行きよく一緒に勉強をした。そして、私もYT君と一緒に無事T高校に入学することができた。

 次の写真も卒業アルバムにあったN中学校の全景である。宅地化が進み、高速道路や地下鉄が近くを通るようになり、今はすっかり周囲の様子などが変わってしまっている。


N中学校全景

 高校に進学するとともに、YT君と一緒に通っていた学習塾で、今度は逆に数学を教えるアルバイトをするようになった。それまでこの学習塾で数学を教えていたやはりT高校の先輩KTさんが遠方のF大学に進んだため数学の先生がいなくなったのである。英語の方は大阪駅で通訳をしていた父親のKHさんが継続して務めていた。この学習塾は主に英語を学ぶところであった。

 高校1年生の頃、仲のよかったIG小学校の同級生と時々同窓会を開いて近郊の山や海に出かけていた。中高一貫の女子高に進学していたOSさんもこの同窓会に参加していて、久しぶりに会った彼女に、保育園時代にMMさんという女子がいて、その子が「シンデレラ」の役をしたことがあるという話をしたところ、そのMMさんなら自分と同じ学校にいる人だろうという返事が返ってきた。

 卒園以来10年もまったく会うこともなかったMMさんのことを、何故この時OSさんに話そうと思ったのか、今となってはその理由はわからないが、ともかくOSさんはMMさんと親しくしているということで、T高校の秋の運動会の応援に、お弁当を作り二人そろって来てくれることになった。

 MMさんはその頃、TVで、化粧品会社がスポンサーになっているインタビュー番組のアシスタントの仕事をしていて、定期的にTV出演をしていると知り、二度ほどTV出演中のMMさんをまぶしく見た覚えがある。何とも不思議な再会であった。

 高校時代にはもう一つ不思議な出来事があった。IG小学校に1年生で私が転入していくとほぼ同時に、転出していったA君がいたことを先に書いた。彼とは何かを話をした記憶はないが、AT君が随分褒めていたので名前だけはしっかりと憶えていた。また、遠足の時の集合写真も手元にあったので、風貌はそれとなく頭に入っていた。

 高校3年になった時のことだったと思う。高校では、毎年クラス替えがあったのだが、YT君とは3年間同じクラスであり相変わらず親しくしていた。そして、やはり同じクラスの仲の良いメンバーにST君がいて、彼とも親しく付き合っていた。その彼に、何を思ったのか、私が小学校時代に、自分と入れ替わるようにして転校して行ったA君という人がいたことを話した。すると、ST君が、それは自分のことだよと言う。今の名前が違っているのは、当時両親が離婚をして、お母さんと共に転居していったからで、旧姓に戻っているのだという。

 何故、STくんにそのような話をしたのか。多分それは、私の記憶に残っていた、あの集合写真に写っていたA君と、目の前のST君が重なって見えたからだと思う。それにしても不思議な出会いという気がしてならない。

 その後、YT君と私はO大学に、秀才の誉れ高いST君はK大学の理学部・物理に進んだ。

 高校時代には、引越ししなかったが、大学に進学した頃にはまた引越しをしている。しかし、もちろんもう転校することはない。ただ、近鉄南大阪線沿線のこの家に住んだのは2年ほどで、更に引越しをして今度は南海高野線の沿線の家に移った。

 大学にはその後ずっとこの家から通っていたが、当時の自身の体調のことなどを考えて、大学院に進むことにして4年生の時に所属していたF研究室にそのまま残った。

 高校1年の時から続けていた、学習塾の数学の講師のアルバイトは大学に進学してしばらくして、塾が閉鎖になったので終わっていたが、その後は家庭教師のアルバイトをしていた。そしてさらに、大学院の2年目になり奨学金がもらえるようになった事と、実験で帰宅時間が遅くなりがちであることを考えて、大学のすぐそばに下宿することにした。これは引越しと言うほどのものではない。

 この年、また偶然が重なった。同じF研究室に、あのK大学にいるはずのST君が入ってきたのであった。聞くと、彼も前年大学院の試験を受けたが、K大の理学部・物理の学生の多くは大学院に進むため、競争が激しく、この年は大学院浪人をしたとのこと。そして、今年は私のいるO大学のF研究室も受け、合格してきたのだという。恐らくその頃彼はこのF研究室に私がいることは知らなかったと思う。

 彼とは1年間共に同じ研究室で過ごす事になり、卒業と共に私は民間企業に就職をして神奈川県に引っ越した。

 その後は賀状だけの付き合いになり、ST君はその後大学院を卒業して、O大学の別の学部の助手になったと知った。少し後のことになるが、私が勤務先の人事部からの依頼で上司と共にST君を大阪に訪ねて、学生の就職の依頼をしに行ったことがあった。久々の再会であった。

 最近の情報では彼はO大学の名誉教授になっているという。YT君は若くしてO大学医学部の助教授になり、現在も大阪の病院長をしていると聞いている。YT君は卒業後一時期札幌の病院勤務をしていたと聞くが、その後は大阪に戻っている。ST君も大阪にとどまり、年賀状の住所から判断する限りほとんど引越しはしていないようである。

 企業に就職してからの私は、社員寮、アパート、社宅を経て自宅を持ったが、その後2回引越しをした。親の子というべきか。その後も、仕事場の関係や転勤と転属もあり、神奈川県から広島県・三次市、新潟県・上越市に単身赴任し、それぞれの場所でも数回の引越しを経験した。

 最近では東京、鎌倉と住まいを移し、ようやく4年前に当地軽井沢に終の棲家とも言うべき家を求めて引っ越してきた。さて、これが本当に最後になるかどうか。

 今回この話を書こうと思って、古い写真を探し出して見ていたら、ここに名前が出てきたAT君、YT君らと高校3年のころキャンプに出掛けた時の写真が見つかった。懐かしさのあまりここに掲載させていただく。


峯山高原キャンプ(左からYT君、NH君、AT君、筆者)








 

 

 

 

 

 

 
 

 

 
  
 

 




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