軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

中国地方のガラスと霧の旅(1/3)

2019-11-29 00:00:00 | 日記
 小学校の同窓会と叔父の米寿のお祝いの会が、10月下旬の23日と27日にそれぞれ関西で予定されていたので、これを機に以前から訪ねてみたいと思っていた人形峠の「妖精の森ガラス美術館」と、かつての勤務地のある三次市を取り入れた旅行ルートを計画した。
 また、妻の希望で2箇所の温泉地と鳥取砂丘も加えることにして、現地での利便を考え、軽井沢から車で出かけることにした。

 今年の3月に九州を旅した時には、迷うことなくレンタカーを利用した。今回はやや微妙な距離であったが、先日軽井沢のショップを訪ねてきてくださった大学時代の同級生のI さんご夫妻が、主に奥様の運転で、神戸から車での旅であったことを思い出して、決心したのであった。

 軽井沢を22日の午前中に出、すぐに高速道路に乗った。目的地までは、途中何度も休憩しながらであったが、最初の休憩地の姨捨SAからは、先日来台風19号の被害で大きな話題になっている千曲川の濁った流れと、そこにかかる低く垂れこめた雲が見えた。右手が上流で上田・佐久方面、左手で大きく曲がり長野市街の方に流れていくが、この更に下流で大規模決壊があった。


姨捨SAから見える千曲川(2019.10.22 撮影)

 この日の目的地は琵琶湖畔の瀬田で、ここで一泊し、翌日12時から予定されている小学校の同窓会にはこの周辺の観光地を見てから出席することにした。

 神奈川県に就職で移動するまでは大阪で過ごしていたのだが、琵琶湖周辺のこの辺りというと小中学校からの遠足で来た程度で、あまり記憶に残っている場所などは無い。 

 瀬田に到着した当日の夕方、ホテルにチェックインする前に、三大橋として知られる「瀬田の唐橋」を見ようと思い、立ち寄った。最寄りのスーパーマーケットの駐車場に車を停め、瀬田川の堤防沿いの公園に行き、ここから「瀬田の唐橋」を眺めた。名前から予想していたものとは異なり、当然と言えば当然だが、立派なコンクリート造りの橋が目の前にあった。堤防下から川に突き出した草地では、子供たちがなにやら水生昆虫を採集しているようであり、暮れはじめた瀬田川にはボートを漕ぐ若者の姿が何組も見られた。


コンクリート製の立派な「瀬田の唐橋」(2019.10.22 撮影)


夕景の中、ボートを漕ぐ若者(2019.10.22 撮影)

 シティーホテルに泊まる時はいつもそうしているのであるが、この日もホテルは素泊まりにして、瀬田では近くの居酒屋に出かけて地酒と郷土料理を楽しんだ。

 翌朝、大阪市内に移動する前に「石山寺」に出かけた。私は学生時代に来たことがありその名前は憶えているし、埼玉県出身の妻も大学時代に来たことがあるという。しかし二人ともそのときの記憶が曖昧なので、もう一度行ってみたいと思ったのであった。
 
 門前の広い駐車場に車を停めて歩き始めたものの、以前来た時の記憶は全くなく、山門をくぐりしばらく参道を歩いていてもそれは同じであった。

 「石山寺」は名前の通り、広い境内の一角に巨大な石の壁がある。この石は硅灰石というもので、「石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触して、その熱作用により変質したもの」と書かれた解説板が傍らに立てられていた。ぐるりと迂回してこの石の壁の上部に立つことができる。


硅灰石の解説板(2019.10.23 撮影)

 この時は3Dカメラを持っていなかったが、視点を左右に移動させて2枚の写真を撮影し、ステレオ画像として見ていただけるようにした。大きい液晶画面でご覧の場合には1枚目の交差法の写真を、小さい画面でご覧の場合には、2枚目の平行法が見やすいのではと思う。

 手前にある大きな岩塊が、実際には3つに分かれたものであることや、石の前後の関係、モミジの木の生え具合など、通常の2D写真では味わうことができない3D写真の楽しさを実感していただけると幸いである。今後も「ときどき3D」画像をご覧いただこうと思っている。


石山寺境内の硅灰石・巨岩壁のステレオ・ペア(交差法、2019.10.23 撮影)


石山寺境内の硅灰石・巨岩壁のステレオ・ペア(平行法、2019.10.23 撮影)

 石山寺を出て、大阪市内で開催された小学校の同窓会に参加し、仲間と別れた後、湯郷温泉に行き、
23日はここで一泊した。温泉地では旅館泊まりということになるので、ここでは旅館の食事である。

 翌朝、ロビー内を見学していて、この宿に1966年(昭和41年)8月6日に当時皇太子であった、現上皇陛下ご夫妻が来ておられたことを知った。当時の写真や使用された食器などが展示されていた。


旅館のロビーに展示されていた上皇陛下ご夫妻の宿泊時の写真と当時使用した什器など(2019.10.24 撮影)


上皇陛下ご夫妻の写真 1/3(2019.10.24 撮影)


上皇陛下ご夫妻の写真 2/3(2019.10.24 撮影)


上皇陛下ご夫妻の写真 3/3(2019.10.24 撮影)

 さて、この日最初に向かったのは、今回のドライブ旅行の重要な目的地の一つの人形峠の「妖精の森ガラス美術館」である。湯郷温泉からは中国自動車道と国道179号線を経由して、約1時間のドライブであった。


「妖精の森ガラス美術館」のパンフレットに記載されている案内地図


「妖精の森ガラス美術館」(2019.10.24 撮影)

 我々世代には人形峠と言えばウラン鉱山である。子供の頃は将来の日本のエネルギー源として原子力発電にはばら色の夢を描いていたが、そうした中、人形峠のウラン鉱発見はその将来に期待を持たせるものであった。大学でも、原子力工学科を専攻して電力会社や原子力発電所建設関連の企業に就職することを望んだ優秀な人を何人も知っている。

 その人形峠のウラン鉱の歴史は次のようである。
 「太平洋戦争後の1954年(昭和29年)になって、天神川本流や三徳川の上流域でウラン鉱が見つかるようになり、本格的な調査の結果、1955年(昭和30年)11月12日に県道倉吉津山線の頂上付近でウラン鉱の露頭が発見された。当時は日本中でウラン鉱の探索が行われており、この鉱山が当初の見立て以上に有望そうであることが伝えられると一躍注目を集めることになった。このときに鉱山は『人形峠ウラン鉱』と命名され、旧来の打札越もこれ以来、『人形峠』と呼ばれるようになった。発見地点には現在『ウラン鉱床露頭発見の地』の碑が設置されている」(ウィキペディアから)。  

 しかし、このウラン鉱石は、実際には実用的な採掘がされないままに鉱山は閉鎖となり、次第に世の中から忘れられていったようである。海外から安価なウラン鉱石が輸入されるようになってきたからであった。今は、当時採掘された残土が、岡山県と鳥取県の両県の負の遺産となっているという現状もあると聞く。

 そうした中で、日本ではもちろん、世界でも唯一とされる、珍しいウランガラスを専門に展示するこの「妖精の森ガラス美術館」が建設された。ホームページ(https://fairywood.jp/)には次の説明が見られる。

 「ごあいさつ:妖精の森ガラス美術館は平成18年(2006年)に鏡野町が建設した世界的にも珍しい『ウランガラス』をテーマにした美術館です。ウランは19世紀から20世紀にかけて、欧米や日本でガラスの着色剤として使われていました。紫外線が当たるとガラスがきれいな緑色の蛍光を放つことから、当館では地元、人形峠のウランを用いたガラスに『妖精の森ガラス』という名前をつけました。小さな美術館ですが、展示室で世界のウランガラスや現代のガラス作品の鑑賞、併設のガラス工房ではガラス体験、アートショップでガラス作品の購入といった、様々な楽しみ方ができます。ガラスの持つ神秘的な輝きをお楽しみください。」

 「設立の経緯:昭和30年(1955年)、鏡野町上齋原地域(旧上齋原村)の人形峠でウラン鉱床の露頭が発見されました。採掘終了後の平成10年、ウランを使ったオンリーワンの地域産品開発の基軸として、人形峠産のウランを着色剤として使用したオリジナルウランガラスの開発計画が立ち上がりました。そこから地場産業の育成と観光開発、地域文化の育成拠点としてガラス工房を併設した美術館の実施設計を作成し、平成18年(2006年)4月に『妖精の森ガラス美術館』がオープンしました。」
 
 希少性の高いこのウランガラスであるが、やはりウランを用いているとなるとその安全性が気になる。その安全性については、同じくホームページで次のように説明されている。

 「ウランガラスの安全性:ウランと聞くと『怖いもの』という印象がありますが、ウランガラスに含まれているウランの量はごく微量なので、放射線の心配はありません。現在、妖精の森ガラス美術館で使用しているウランガラスは、含有率が0.1%(重量比)と大変低いので、ワイングラス1個から出ている放射線の量は、人間の体内でカリウムが出している放射線量にほぼ等しく、日常、飲食に用いても問題ありません。」

 この日は、平日でもあり見学に来ていたのは我々二人だけであった。おかげで館員の方に丁寧な案内をしていただけた。現在、この美術館には年間約1~2万人が訪れているという。

 1階の常設展示室には、製作年代のはっきり分かっているウランガラスとしては世界最古のものである1840年製のミルクピッチャーや、エミール・ガレの花器、テレビ番組(なんでも鑑定団)で紹介され、高値の評価がついたというロシア皇帝のゴブレットなど、19世紀以降の世界のウランガラスが約90点展示されていた。

 これら古いウランガラス製品のほとんどは、この美術館の名誉館長の苫米地 顕(とまべち けん)博士が個人収集されていたものという。また、展示作品の中でも人気の「ロシア皇帝のゴブレット」はウランガラスコレクターの吉岡 律夫(よしおか りつお)氏が所有されていたもので、両氏共に作品を鏡野町に寄贈され、現在の展示が実現している。
 

1階展示室のアンティーク・ウランガラスの数々 1/2(通常照明 2019.10.24 撮影)


1階展示室のアンティーク・ウランガラスの数々 2/2(通常照明 2019.10.24 撮影)


1階展示室に設けられた実際の使用状況を再現した部屋(左:通常照明、右:紫外線照明 2019.10.24 撮影)

 次の作品は世界最古のウランガラスと認められたミルクピッチャーで、次のような解説文が添えられている。


ウランガラス製ミルクピッチャーの解説文(2019.10.24 撮影)


1階展示室の世界最古のウランガラス使用ミルクピッチャー(紫外線照明 2019.10.24 撮影)


1階展示室の「ロシア皇帝のゴブレット」(通常照明 2019.10.24 撮影)

 併設のガラス工房には専任のスタッフもいて、作品は館内の売店で販売されているが、多くのガラス工芸作家もこの工房に来てウランガラスを用いた作品を製作していて、そうした作品は2階の展示室で見ることができた。次のようである。

 
2階展示室の現代の作家によるウランガラスの数々 1/7(紫外線照明 2019.10.24 撮影)


2階展示室の現代の作家によるウランガラスの数々 2/7(紫外線照明 2019.10.24 撮影)


2階展示室の現代の作家(平田 友美氏)によるウランガラス 3/7(上:通常照明、下:紫外線照明 2019.10.24 撮影)


2階展示室の現代の作家(本郷 仁氏)によるウランガラス 4/7(紫外線照明 2019.10.24 撮影)


2階展示室の現代の作家(有永 浩太氏)によるウランガラス 5/7(紫外線照明 2019.10.24 撮影)


2階展示室の現代の作家(三垣 祥太郎氏)によるウランガラス 6/7(紫外線照明 2019.10.24 撮影)


2階展示室の現代の作家(内田 守氏)によるウランガラス 7/7(紫外線照明 2019.10.24 撮影)

 念願の「妖精の森ガラス美術館」に来て、他では見ることができないアンティークと現代の多くのウランガラス作品を目の当たりにし、大いに満足して、次の目的地、鳥取砂丘に向かった。




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軽井沢文学散歩(9)芥川龍之介

2019-11-22 00:00:00 | 軽井沢
 先ごろ文化庁が発表した「国語に関する世論調査」は、本来と違う使い方の広がる言葉をとり上げているが、その一つに<憮然>があった。<憮然>とは「立腹する様子」の意で使いがちだが、正しくは「失望してぼんやりする様子」だという。
 いつごろからこのように本来の意味とは異なって使われるようになったのだろうか。

 読売新聞の「編集手帳」(2019.10.31)がこの<憮然>について、芥川龍之介の小説「戯作三昧」の中の滝沢馬琴の言葉として次の様に紹介している。
 「・・・芥川龍之介は、この「戯作三昧」の中で、来る日も来る日も物語を生み出さねばならない主人公・滝沢馬琴の仕事の苦衷を描いた。老境に入った馬琴が湯屋で体を洗う場面に始まるとされるが、<老人は憮然として、眼を挙げた・・・にぎやかな談笑の声につれて、大勢の裸の人間がめまぐるしく湯気の中に動いている・・・>と書いている。・・・」
 もちろんここでは本来の意味で用いられている。

 さて、今回はこの芥川龍之介である。軽井沢ゆかりの文士ということで、これまで室生犀星に始まり萩原朔太郎まで、軽井沢という場所との関わりを中心に紹介してきたが、芥川龍之介も35歳という短かい生涯の中で、いくつかの足跡を軽井沢に残している。これを見ていこうと思う。


明治大正期に活躍した文士とその中の芥川龍之介(赤で示す、黄はこれまでに紹介した文士)

 芥川龍之介を軽井沢に誘ったのは、先にこの地に来るようになっていた室生犀星であったようである。
 「芥川龍之介全集」(1978年 岩波書店発行)には軽井沢について次の2件の記載が見られる。第七巻の「軽井沢日記」と第八巻の「軽井澤で-『追憶』の代りに」である。
 
軽井澤で
   -「追憶」の代りに-

黒馬に風景が映っていゐる。
         *
朝のパンを石竹の花と一しょに食はう。
         *
この一群の天使たちは蓄音機のレコオドを翼にしてゐる。
         *
町はづれに栗の木が一本。その下にインクがこぼれてゐる。
         *
青い山をひっ掻いて見給へ。石鹸が幾つもころげ出すだらう。
         *
英字新聞には黄瓜(かぼちゃ)を包め。
         *
誰かあのホテルに蜂蜜を塗ってゐる。
         *
M夫人--舌の上に蝶が眠ってゐる。
         *
Fさん--額の毛が乞食をしてゐる。
         *
Oさん--あの口髭は駝鳥の羽根だらう。
         *
詩人S・Mの言葉--芒の穂は毛皮(けがは)だね。
         *
或牧師の顔--臍!
         *
レエスやナプキンの中へずり落ちる道。
         *
碓氷山上の月、--月にもかすかに苔が生えてゐる。
         *
H老婦人の死、--霧は仏蘭西の幽霊に似てゐる
         *
馬蠅は水星にも群って行った。
         *
ハムモツクを額に感じるうるささ。
         *
雷は胡椒よりも辛い。
         *
「巨人の椅子」と云ふ岩のある山、--瞬かない顔が一つ見える。
         *
あの家は桃色の歯齦(はぐき)をしてゐる。
         *
羊の肉には羊歯の葉を添へ給へ。
         *
さやうなら。手風琴の町、さやうなら、僕の抒情詩時代。

                      (大正十四年稿)

 ここで、登場している詩人S・Mとは室生犀星のことであろうか。

 芥川龍之介がはじめて軽井沢に長期滞在したのは1925年(大正十三年)のこととされる。軽井沢に来た龍之介は、「つるや旅館」に滞在した。「軽井沢日記」にはその時のことと思われる記述がみられる。
 室生犀星が軽井沢に別荘を建てたのは、1931年(昭和六年)のことであるから、この頃はまだ犀星も旅館を利用していた。また、萩原朔太郎もこの時期つるや旅館に滞在していたはずであるが、何故かそれには触れていない(2019.9.20 公開の本ブログ参照)。

 「八月三日。晴。室生犀星来る。午前四時軽井沢に着せし由。『汽車の中で眠られなくつてね。麦酒を一本飲んだけれども、やっぱりちょつこしも眠られなくってね。』と言ふ。今日より舊館の階下の部屋を去り、犀星とともに『離れ』に移る。窓前の池に噴水あり。鬼ぜんまい、葱などの簇れる岩に一條の白を吐けるを見る。縁側に巻煙草吸ひ居たる犀星、倏ち歎を發して曰、『噴水と云ふものは小便によく似てゐるものだね。』又曰、『あんなに出續けに出てゐると、腹か何か痛くなりさうだね。』
 犀星と共に晩凉を逐ひ、骨董屋、洋服屋などを覗き歩く。微月天にあり。日曜學校の前に至れば、分別臭き亜米利加人、兩三人日本語の讃美歌を高唱するを見る。

 八月四日。晴。堀辰雄来る。暮に及んで白雨あり。犀星、辰雄と共に軽井沢ホテルに赴き、久しぶりに西洋風の晩餐を喫す。客に独逸人多し。食堂の壁に佛畫兩三幀を挂く。電燈の光暗うして、その何たるかを辨ずる能はず。隣卓に禿頭の独逸人あり。卓上四合入の牛乳一罎を置き、英字新聞に目を曝しつつ、神色自若として牛乳を飲み、五分ならざるに一罎を盡す。食後サロンに閑談すること少時。雨を侵して鶴屋に歸る。
 夜半『僻見』の稿を了す。

 八月五日。陰。村幸主人、土屋秀夫来訪。辰雄、二時の汽車にて東京に歸る。
 薄暮、散歩の途次、犀星と共に萬平ホテルに至り、一杯のレモナアデに渇を癒す。客多くは亜米利加人。露臺に金髪紅衣の美人あり。籐椅子に倚つて郎君と語る。憾らくは郎君の鼻、鷲の嘴に似たることを。ホテルを去ってオウディトリアムの前に至れば音楽会の最中なり。堂前樹下、散策の客少なからず。偶御亭主と腕を組みたる黄面短軀の奥様を見る。月を仰いで嘆じて曰、『蒼白い月だわねぇ。』窮巷に文を賣ること十年、未だ甚だ多幸ならざれども、斯の如き夫人の毒手に入るを免る、亦一幸たるに近かるべし。
 夜、オオニイルの『水平線の彼方』を讀む。淺俗、映畫劇を見るに似たり。

 八月六日。晴。感興頓に盡き、終日文を艸する能わず。或は書を讀み、或は庭を歩し、犀星の憫笑する所となる。この庭に植ゑたる草木花卉、大體下に掲ぐるが如し。松、落葉松、五葉松、榧、檜葉、枝垂れ檜葉、白槇、楓、梅、矢竹、小てまり、山吹、萩、躑躅、霧島躑躅、菖蒲、だりあ、凌霄はれん、紅輪草、山百合、姫向日葵、小町草、花魁草、葱、針金草、鬼ぜんまい、雪の下、秋田蕗、山蔦、五葉、--五葉の紋章めきたるは愛すべし。
 午頃、田中純来る。運動服を調へ、チルデン愛用ラケットを買ひ、毎日テニスしつつありと言ふ。」 

 旧仮名遣いや、旧漢字で読みづらいが、室生犀星、堀辰雄と親しく交流していた様子が見られる。また、意外なことに植物の種類についての知識が深い。

 多くの文士が宿泊したことで知られる「つるや旅館」には龍之介の写真が、他の文士などの写真と共に今も展示されている。宿泊の際に撮影させていただいたものを紹介すると次のようである。


つるや旅館に展示されている文士などの写真の数々


つるや旅館に展示されている芥川龍之介の写真 1/4

 この写真の下には、次のような説明が記されている。

 「・・・大正13年、14年の夏につるやの藤『ふじ』の部屋に滞在。『軽井沢日記』『書簡集』につるやを舞台とした記述がある。
 当時、神経症を患っていたが、つるやでは木登りをしたり、『つるや』の看板の文字に『゛』をつけて『づるや』と落書きをして遊び、驚くほど陽気になったという。室生犀星とともに、『つるや七不思議』の作者。・・・」


つるや旅館に展示されている芥川龍之介の写真 2/4 (左2人目から、二代目市川左団次、龍之介、菊池寛)


つるや旅館に展示されている芥川龍之介の写真 3/4 (左から、龍之介、菊池寛)

 この写真の下には、「芥川龍之介『書簡』より」として、次の文が紹介されている。

 「大正十三年七月二十三日
    軽井澤から 室生犀星宛
 鶴屋にゐます 君も来ればよいと思ってゐます 来月十日迄いて、少し仕事をするつもり 小畠君や何かによろしく、堀君ももう行ってゐるでせう 俳句などを弄すると、小説を作る気がなくなる故、我慢して何も作らずにゐます 頓首
    軽井澤 芥川龍之介

  大正十三年八月十九日
    軽井澤から 室生犀星宛
  御手紙拝見
    つくばひの藻もふるさとの暑さかな
 朝子嬢前へ這うようになったよし、もう少しすると、這ひながら、首を左右へふるようになる さうすると一層可愛い
 雉子車は玩具ずきの岡本綺堂老へ送ることにした。けふ片山さんと『つるや』主人と追分へ行った 非常に落ち着いた村だった 北國街道と東山道との分れる處へ来たら美しい虹が出た
廿日か廿一日頃かへるつもり
    十九日 龍之介」


つるや旅館に展示されている芥川龍之介の写真 4/4 (左から 室生犀星、龍之介)

 上の写真(1/4)の解説文に記されているように、このころ龍之介は神経症を患っていたが、2年後の1927年(昭和2年)に服毒自殺している。斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んだとも、主治医だった下島勲の日記などから青酸カリ服毒とも言われている。

 この訃報に接した萩原朔太郎は次の文を残している(萩原朔太郎全集 第九巻 『芥川龍之介の死』、1976年筑摩書房発行)。長文であるが、ここでは室生犀星と萩原朔太郎自身に関する記述のある所だけを引用する。

 「七月二十五日、自分は湯ヶ島温泉の落合樓に滯在してゐた。朝飯の膳に向かつた時、女中がさりげない風でたづねた。
『小説家の芥川といふ人を知つてゐますか?』
『うん、知つてる。それがどうした?』
『自殺しました。』
『なに?』
 自分は吃驚して問ひかへした。自殺? 芥川龍之介が? あり得べからざることだ。だが不思議に、どこかこの報傳の根柢には、否定し得ない確實性があるやうに思はれた。自分はさらに女中に命じて、念のために新聞を取り寄せさせた。けれども新聞を見る迄もなく、ある本能の異常な直覺が、變事の疑ひ得ないことを斷定させた。・・・」

 「何故に芥川龍之介は自殺したか? 自殺の心原因は何であつたか? 思ふにそこには、いろいろな複雜した事情がある。・・・自分について言へば、自分は彼の多數の友人――實に彼は多數の友人と交はつてゐた――の一人であり、しかも交情日尚淺く、相知ることも最もすくない仲であつた。しかもただ、自分が彼について語り得る唯一の權利は、あらゆる他のだれよりも、すべての彼の友人中で、自分が最も新しい、最近の友であつたといふことである。
 この『最近の友』といふことに、自分は特に深い意味をもつて言ふのである。何となれば彼の最近の作風には、一の著るしい變化と跳躍とが見られるから。そしてこの心的傾向は、しばしば私と共鳴同感するものを暗示するから。何故に彼が、あの文壇の大家芥川龍之介君が、私如き非才無名の一詩人に對して、格別の意と友情とを――時としては過分の敬意さへも――寄せられたかといふことに、今にして始めて了解出來たのである。・・・」

 「室生犀星君は、最近における故人の最も親しい友であつた。室生君と芥川君の友情は、實に孔子の所謂『君子の交り』に類するもので、互に對手の人格を崇敬し、恭謙と儀禮と、徳の賞讚とを以て結びついてた。けだし室生君の目からみれば、禮節身にそなはり、教養と學識に富む文明紳士の芥川君は、正に人徳の至上觀念を現はす英雄であつたらうし、逆に芥川君から見れば、本性粗野にして禮にならはず、直情直行の自然見たる室生君が、驚嘆すべき英雄として映つたのである。即ちこの二人の友情は、所謂『反性格』によつて結ばれた代表的の例である。
 自分と芥川君との交誼は、室生君よりも尚新しく、漸くこの三年以來のことに屬する。自分は芥川君の死因について書く前、この短かい年月の間における、我々の思ひ出深い交情を追想して見たいと思ふ。・・・」 

 「私が田端に住んでる時、或る日突然、長髮痩軀の人が訪ねて來た。『僕が芥川です。始めまして。』さういつて丁寧にお辭儀をされた。自分は前から、室生君と共に氏を訪ねる約束になつてゐたので、この突然の訪問に對し、いささか恐縮して丁寧に禮を返した。しかし一層恐縮したことには、自分が顏をあげた時に、尚依然として訪問者の顏が疊についてゐた。自分はあはててお辭儀のツギ足しをした。そして思つた。自分のやうな書生流儀で、どうもこの人と交際ができるかどうか。自分はいささか不安を感じた。・・・」

 「芥川君は、詩に對しても聰明な理解をもつてた。彼は佐藤春夫、室生犀星、北原白秋、千家元麿、高村光太郎、陽夏耿之介、佐藤惣之助等の詩を、たいてい忠實に讀破してゐた。のみならず、堀辰雄、中野重治、萩原恭次郎等、所謂新進詩人の作物にも、一通り廣く目を通してゐた。・・・」

 「・・・芥川君の文學は、そのあまりに文學的であると共に、またあまりに少年的な、少年的であることに於て著るしい。今日の新しき日本詩壇が、芥川君と同趣相通ずるのも、實にただこの一點にある。そして芥川君以外の既成大家等が、我々の新しい詩と交渉をもたないわけも此處にあるのだ。實に芥川君の文學は、少年客氣の文學だつた。丁度、彼のあの容貌がさうである如く、どこかに子供らしい、元氣の好い、何でも新しいものや舶來のものに憧憬をもつ、鮮新無比の感覺がをどつてゐる。・・・」 

 「海に面した鵠沼の東家に、病臥中の芥川君を見舞つたのは、私が鎌倉に居る間のことだつた。ひどい神經衰弱と痔疾のために、骨と皮ばかりになつてる芥川君は、それでも快活に話をした。不思議に私は、その時の話を覺えてゐる。病人は床に起きあがつて、殆んど例外なしに悲慘である所の、多くの天才の末路について物語つた。『もし實に天才であるならば、かれの生涯は必ず悲慘だ。』といふ意味を、悲痛な話材によつて斷定した。それから彼は、一層悲痛な自分自身を打ちあけた。何事も、一切の係累を捨ててしまつて、遠く南米の天地に移住したいと語つた。・・・」

 「その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。『室生君と僕の關係より、萩原君と僕のとの友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。』
 この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向かつて次のやうな皮肉を言つた。『君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。』その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。」

 「・・・何故に芥川は自殺したか? 自分はもはや、これ以上のことを語り得ない。しかしながらただ、一つの明白なる事實を斷定し得る。即ち彼の自殺は、勝利によつての自殺でないといふことである。實に彼は、死によつてその『藝術』を完成し。合せて彼の中の『詩人』を實證した。眞にすべての意味に於て、彼の生涯はストイック――それのみをただニイチェが望んでゐた――であつた。最後の遺書に於てすらも、尚且つ藝術家としての態度を持し、どこにも取り亂した所がなく、安靜なる魂の平和(精神の美學的均齊)を失つてゐない。彼こそは一つの英雄、崇美なる藝術至上主義の英雄である。」

 「・・・そし私が此處まで考へた時、始めてあの鵠沼における悲壯な會話が、言語の隅々まで明らか解つてきた。いかにその時、あらゆる天才の不運について、藝術家の宿命的な孤獨と悲慘について、彼が沈痛な聲で訴へたか。愚かにも自分は、その時の彼の悲哀について、眞の事情を知ることができなかつた。あまつさへ彼が反復した最後の言葉――自殺しない厭世主義者の言ふことなんか、たれが本氣にするものか。――の深い意味さへ、少しも了解することができなかつた。實にその時、既に既に、彼は死を計畫してゐたのである。・・・」

 この鵠沼における悲壮な會話については、龍之介を見舞った時のものかもしれないが、もう一つこれを示す内容が、萩原朔太郎の少し後の文「芥川君との交際について」(萩原朔太郎全集 第九巻)に次のように書かれている。

 「芥川君と僕との交際は、死ぬ前わづか二三年位であったが、質的には可なり深いところまで突っ込んだ交際だった。『君と早く、もっと前から知り合ひになればよかった。』と、芥川君も度々言った。僕の方でも、同じやうな感想を抱いて居たので、突然自殺の報告に接した時は、裏切られたやうな怒と寂しさを感じた。・・・」
 「鎌倉に住んでいた時、或る夜遅くなって芥川君が訪ねて来た。東京から藤澤へ行く途中、自転車で寄り道をしたのださうである。夜の十一時頃であった。寝衣(ねまき)をきて起きた僕と、暗い陰鬱な電気の下で、約一時間ほど話をした。来るといきなり、芥川君は手を開いて僕に見せた。そして『どうだ。指がふるへて居るだらう。神経衰弱の證據だよ。君、やって見給へ。』と言った。それから暫く死後の生活の話をして、非常に厳粛顔をして居たが、急に笑ひ出して言った。『自殺しない厭世論者の言ふことなんか、當になるものか。』そしてあわただしく逃げるように歸つていった。・・・」

 一方、朔太郎について龍之介が書き残した「萩原朔太郎君」という、次の文がある(芥川龍之介全集 第八巻 1978年 岩波書店発行)。 

 「萩原朔太郎君の『純情詩集』のことは『驢馬』の何月號かに中野重治君も論じてゐる。僕はその論文を愉快に讀んだ。すると何週間かたった後、堀辰雄君が話の次手に『萩原さんの詩には何か調べと云ったものがありますね。それも西洋音楽から来た調べと云ったものですが。』と言った。僕はその言葉にも同感した。・・・それらの因縁から萩原君の詩のことを考え出した。」
 「『月に吠える』、『青猫』等の萩原君は病的に鋭い感覚を自由に表現した詩人である。これは誰も認めてゐるであらう。しかしそれ等の作品にも詩人の耳を感ずることは堀君の言葉のとおりである。日本の詩人の多い中にも韻律を説かない詩人はいない。けれども彼等の作品の上に真に韻律を提へた詩人は十指を屈するのに足りないであらう。萩原君はギタアを愛している。が、それ等の作品に『言葉の音楽』のあることは萩原君自身も認めてゐるかどうか、その邊の消息ははつきりしない。・・・」
 「萩原君は詩人たると共にこの情熱を錬金することに熱中せずにはゐられぬ思想家である。萩原君が室生犀星君と最も懸絶してゐる所はこの點にあるといっても好い。室生君は天上の神々の與へた詩人の智慧に安住してゐる。が、宿命は不幸にも萩原くんには理知を與へた。・・・」
 「萩原君は詩人としても、或は又思想家としても、完成するかどうかは疑問である。少くとも『月に吠える』、『青猫』、『純情詩集』等は『完成』の極印を打たれる作品を存外多く含んでゐない。これは萩原君の悲劇であり、同時に又萩原君の栄光である。・・・」
 「僕は『純情詩集』の現れた時、何か批評を草することを萩原君に約束した。が、とうとう今日までその約束を果さなかった。今この文章を草するのは前約に背かない爲である。必しも『近代風景』に原稿を求められた爲ばかりではない。(十五、一一、二七)」
 
 多くの作品で我々にもなじみの深い芥川龍之介。生あるものの死はいつも悲しいが、若すぎる自殺という結末には特別なものがある。


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ナガサキアゲハとトランプ大統領(2/5)

2019-11-15 00:00:00 | 日記
 前回、「ナガサキアゲハとトランプ大統領(1)」(2017.7.14 公開)を書いてからすでに2年以上経過したが、この間「ナガサキアゲハとトランプ大統領(2)」を書けないでいた。当時(1)と記した時には、地球温暖化に対するトランプ大統領の姿勢や判断の背景にあると思える「懐疑論」について更に調べてみたいと思い、近いうちに(2)を書きたいと思っていた。

 ところが、この「懐疑論」に関する資料を調べていくうちに、この問題はそう簡単ではないと感じられた。2年前、私は多くの科学者が言うように地球温暖化と、人為的な二酸化炭素などの温暖化ガスの排出との相関関係は明確なものであると受け止めていた。反論はあるにせよ、IPCCの第五次報告書にあるように、「1951年~2010年の間の地球平均温度の上昇のうち、半分以上が温室効果ガスなどの人為的要因によるものである可能性は極めて高い(>95%)。」とのレポートを確かなものと受け止めていた。
 
 ゴア元アメリカ副大統領の「不都合な真実」が発行されたのは、2007年のことである。その当時すでに二酸化炭素主因説に反対する「懐疑論」があり、この本でもそのことを採りあげて、これに反論を試みていて、次のように記している。


アル・ゴア氏(ウィキペディアより)

 「地球は本当に温暖化しているのか、その主因は人間なのか、その結果はただちに行動を取らねばならないほど危険なものか--こうした点に関して、科学者の間に一致した結論は出ていないという誤解がある。実際には、世界の科学会の共通認識を作り上げているこういった中心的な論点のどれをとっても、まじめに取り合うべき議論の不一致は1つも残っていないのである。」

 そして、温暖化に対する情報攪乱運動のあることを指摘し、「学術論文には温暖化に対する共通認識と違う見解のものは0%であるのに対し、米国で最も影響力のあると考える4大新聞に掲載されている記事では、半分以上の記事が、科学会の共通認識となっている考え方と人間は温暖化には関係していないという科学的には信憑性のない考え方の両方を、同等に主張していたのである。」、「人間が温暖化に影響を与えているかいないかをめぐって、科学会は大紛糾しているという印象を与えている」とし、これでは「人々が混乱しているのもむりはない。」と、記している。ただ、この本の性格上、反論には科学的な内容は含まれていない。

 この本では、さらにこうした温暖化に関する主要な情報かく乱源の1つは、ブッシュ-チェイニー政権であるとしている。その背後には、規模は比較的小さいがこのうえなく潤沢な資金を持った特別利益団体の中核メンバーがいるという。

 こうした情報かく乱や「懐疑論」を乗り越えて、ゴア氏とIPCCは2007年のノーベル平和賞を受賞する。その後2013年から2014年にかけてIPCCから前記の第五次評価報告書が提出された。日本では2015年に環境省から日本語版が公開されている。

 8年間のブッシュ政権のあと誕生したオバマ政権時代には、1997年に採択された京都議定書以来18年ぶりとなる気候変動に関する国際的枠組みであり、気候変動枠組条約に加盟する全196カ国全てが参加する枠組みとしては史上初のパリ協定が採択された。2016年9月3日に温室効果ガス二大排出国である中国とアメリカ合衆国がこれを同時批准し、発効した。日本は、パリ協定の批准が間に合わず、11月7日にモロッコで始まることになっていたCOP22の、パリ協定締約国の第一回目の会議に、正式メンバーとして参加できなかった。

 ところが2016年の大統領選挙に勝利して、オバマ政権に代わって誕生したトランプ政権は、このパリ協定からの離脱を表明し、今日に至っているという経緯である。

 そうこうしているうちに、先日大きな話題となる出来事があった。スウェーデン人の環境保護活動家のグレタ・トゥーンベリさん(16歳)が2019年9月23日、米ニューヨークで開かれた国連気候行動サミットで演説し、気候変動問題について行動を起こしていないとして、各国首脳を非難したのであった。トゥーンベリさんは、約60カ国の首脳や閣僚を前に、「あなた方は、私の夢や私の子供時代を、空っぽな言葉で奪った」と激しい口調で語った、と報道されている。グレタさんの発言の全文は次の通りである(NHK政治マガジンより)。

 「私が伝えたいことは、私たちはあなた方を見ているということです。そもそも、すべてが間違っているのです。私はここにいるべきではありません。私は海の反対側で、学校に通っているべきなのです。
 あなた方は、私たち若者に希望を見いだそうと集まっています。よく、そんなことが言えますね。あなた方は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました。
 それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。
 なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。
 30年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした。なのに、あなた方は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいないのに、この場所に来て『十分にやってきた』と言えるのでしょうか。
 あなた方は、私たちの声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。しかし、どんなに悲しく、怒りを感じるとしても、私はそれを信じたくありません。もし、この状況を本当に理解しているのに、行動を起こしていないのならば、あなた方は邪悪そのものです。

 だから私は、信じることを拒むのです。今後10年間で(温室効果ガスの)排出量を半分にしようという、一般的な考え方があります。しかし、それによって世界の気温上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は50%しかありません。
 人間のコントロールを超えた、決して後戻りのできない連鎖反応が始まるリスクがあります。50%という数字は、あなた方にとっては受け入れられるものなのかもしれません。
 しかし、この数字は、(気候変動が急激に進む転換点を意味する)『ティッピング・ポイント』や、変化が変化を呼ぶ相乗効果、有毒な大気汚染に隠されたさらなる温暖化、そして公平性や『気候正義』という側面が含まれていません。この数字は、私たちの世代が、何千億トンもの二酸化炭素を今は存在すらしない技術で吸収することをあてにしているのです。
 私たちにとって、50%のリスクというのは決して受け入れられません。その結果と生きていかなくてはいけないのは私たちなのです。
 IPCCが出した最もよい試算では、気温の上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は67%とされています。
 しかし、それを実現しようとした場合、2018年の1月1日にさかのぼって数えて、あと420ギガトンの二酸化炭素しか放出できないという計算になります。
 今日、この数字は、すでにあと350ギガトン未満となっています。これまでと同じように取り組んでいれば問題は解決できるとか、何らかの技術が解決してくれるとか、よくそんなふりをすることができますね。今の放出のレベルのままでは、あと8年半たたないうちに許容できる二酸化炭素の放出量を超えてしまいます。
 今日、これらの数値に沿った解決策や計画は全くありません。なぜなら、これらの数値はあなたたちにとってあまりにも受け入れがたく、そのことをありのままに伝えられるほど大人になっていないのです。

 あなた方は私たちを裏切っています。しかし、若者たちはあなた方の裏切りに気付き始めています。未来の世代の目は、あなた方に向けられています。
 もしあなた方が私たちを裏切ることを選ぶなら、私は言います。『あなたたちを絶対に許さない』と。
 私たちは、この場で、この瞬間から、線を引きます。ここから逃れることは許しません。世界は目を覚ましており、変化はやってきています。あなた方が好むと好まざるとにかかわらず。ありがとうございました。」

 ちなみに、グレタ・トゥーンベリさんがこうした場で意見を述べたのは、今回が初めてではない。昨年2018年にポーランドのカトヴィツェで開かれたCOP24の会場に現れ、スピーチを行っている(YouTube/https://youtu.be/VFkQSGyeCWgでご覧いただける)。また、こうした場で少女が意見を述べたのも、グレタさんが初めてではない。1992年のリオデジャネイロで開催された地球サミットでカナダ人少女、セヴァン・スズキさん(12歳)が行ったスピーチは、「伝説のスピーチ」とされている(YouTube/https://youtu.be/N0GsScywvx0でご覧いただける)。

 この気候行動サミットは、国連のアントニオ・グテーレス事務総長の呼びかけで、言葉ではなく行動について議論するために開かれたもの。開催に先立ち、グテーレス事務総長は、温室効果ガスを削減するための具体的な対応策を持ってきた国の代表者のみに演説を許可するとしていた。

 温室効果ガスによる気候変動に懐疑的な立場のアメリカのドナルド・トランプ大統領は、登壇の機会が設けられていなかったためサミットに出席しないとみられていたが、議場に一時姿を見せた。また、日本の安倍晋三首相とオーストラリアのスコット・モリソン首相は、参加が認められなかったが、それは石炭火力発電をめぐるもので、グテーレス事務総長は2050年までに二酸化炭素排出量を正味ゼロにすることを目指すことに加え、各国に化石燃料への補助金を削減し、新規の石炭火力発電所の建設中止を求めているという事情によった。ブラジル、サウジアラビアもサミットに出席しなかった。

 一方、積極的に対策を採っている国々からの演説があり、ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、地球温暖化に対処するための財政支援額について、現行の2倍の40億ユーロ(約4700億円)に設定する方針だと述べた。フランスのエマニュエル・マクロン大統領は、世界銀行や米州開発銀行(IDB)、米環境NGOのコンサベーション・インターナショナルが、熱帯林保護のための追加援助として5億ドル(約540億円)を投じると明かした。ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相は、「我が国の温室効果ガスの総排出量のピークは2006年だった。すでに電力の8割以上は、再生可能な水力と風力発電でまかなわれている。我々は、野心的な計画をすでに開始した」と述べ、同国の対策は「方向転換を始めている」と強調し、「我々は、近隣の太平洋諸国に壊滅的な気象が発生しないよう、平均気温上昇を1.5度未満に留めることを目的とした気候変動対応修正法(ゼロ・カーボン法)を議会に提出済みだ」とした。

 各国の足並みの乱れは、トゥーンベリさんの指摘を待つまでもなく明らかであり、トランプ大統領はあらゆる方法で化石燃料の使用を推奨している。そして中国は、新規の石炭火力発電所の建設を進めている。気候政策決定における世界的リーダーであるイギリスでさえ、温室効果ガス削減を目指す自国の中期目標から逸脱し始めている。英政府は、いまもヒースロー国際空港の拡張や道路網の拡大を目指している。そうなれば、温室効果ガスの排出量は増加することとなる。

 そしてついに、2019年11月4日、アメリカのトランプ大統領は、地球温暖化対策の国際的枠組みである「パリ協定」からの離脱を国連に正式に通告したとメディアは一斉に伝えた。2017年6月に脱退の方針を表明してから約2年半経過している。パリ協定の規定では、離脱の通告ができるのは協定が発効した2016年11月4日から3年後となっており、その初日に通告に踏み切ったことになる。

 この決定について、日本の各メディアはトランプ大統領の選挙対策の一環であるとしている。大統領選は2020年11月3日であり、離脱はその翌日となる。アメリカの野党・民主党は批判を強めているとされ、温暖化対策が来年の大統領選の大きな争点になるのではとの見方も出ている。


2019.11.6付け読売新聞記事

 上の新聞紙面にも見られるように、現在アメリカは中国に次いで世界で第二位の二酸化炭素排出国である。アメリカの離脱が他国の温暖化対策への取り組みに影響を与えるのではとの懸念も出ている。思い返してみると、ゴア氏の本が出版された2007年当時、この二酸化炭素排出量の最大であった国はアメリカで世界全体の30.3%であった。続いてヨーロッパ全体で27.7%、ロシア13.7%、東南アジア/インド/中国を合わせて12.2%、日本は3.7%であった。

 この20年間で状況は大きく変化し、今日では中国が最大の二酸化炭素排出国になっている。この間の米国と中国の二酸化炭素排出量の推移は次のようである。
 トランプ大統領の発言ばかりが注目されているが、懸念された離脱などの動きは無いものの、これを見ると中国の今後の動向が注目される。
 米国においてはトランプ大統領によるパリ協定離脱表明で削減目標が破棄されるものの、後に結成した米国気候同盟によって、州政府レベルの削減目標として引き継がれたとされる。


1980年から2018年までの米国と中国の二酸化炭素排出量の推移(出典:BP)
 
 他方、足並みの乱れは政治の世界だけではない。一旦反対論を克服し、コンセンサスが得られているように見えた科学の世界でも、20年以上前から続く「懐疑論」があり、地球温暖化に関する見解の相違はまだ見られるのである。アメリカでは現在20%ほどの科学者が二酸化炭素主因説に反対の立場をとっているとされる。科学の世界の見解の相違が、政治・経済面での混乱の原因と言えるのかもしれない。2017年6月に、トランプ大統領が、「二酸化炭素による地球温暖化議論はデッチアゲだ」と述べたことは、よく知られているが、その発言の背景にはこうした「懐疑論」に立つ科学者の見解が見え隠れするのである。

 「懐疑論」の中には「地球はもう温暖化していない」という主張もある。また、温暖化していることは認めるが、「現在進行中の温暖化の大部分(約6分の5)は地球の自然変動であり、人類活動により放出された炭酸ガスの温室効果によるのはわずか約6分の1程度である可能性が高い」とする見解もある。

 こうした意見はIPCCの報告書に真っ向から異論を唱えるものである。その根拠となるところを正しく理解することは、我々素人にはそうた易いことではない。本来純粋に科学的な議論であるはずの、地球温暖化論がこのように分裂しているのは何故か。

 現在得られる最新の地球温暖化に関するデータは気象庁から公開されている。また、各国の二酸化炭素排出量もBPから報告されている。地球温暖化論議の原点になるこうした資料の一部を見ておくと、次のようである。

 日本の気象庁発表の「世界の年平均気温」の項では次のような解説とともにグラフが示されている。

 「2018年の世界の平均気温(陸域における地表付近の気温と海面水温の平均)の基準値(1981〜2010年の30年平均値)からの偏差は+0.31℃で、1891年の統計開始以降、4番目に高い値となりました。世界の年平均気温は、様々な変動を繰り返しながら上昇しており、長期的には100年あたり0.73℃の割合で上昇しています。特に1990年代半ば以降、高温となる年が多くなっています。」


1891年から2018年までの世界の年平均気温偏差(気象庁ホームページより)

 過去130年間ほどの推移を見ると、世界の平均気温は100年あたり0.73℃の割合で上昇を続けており、最近4-50年間の変化はさらに大きくなっていて、100年あたり1.5℃の割合になっていることがわかる。ここでは割愛するが、北半球・南半球別のデータも示されていて、これを見ると北半球における平均気温の上昇は過去130年では0.79℃、最近4-50年間の変化では2℃と地球全体の変化よりもさらに大きくなっている。

 同様に、「世界の年降水量偏差の経年変化」の項の解説とグラフは次のようである。

 「2018年の世界の陸域の降水量の基準値(1981〜2010年の30年平均値)からの偏差は+39mmでした。半球別に見ると、北半球は+55mm、南半球は-5mmでした。世界の陸域の年降水量は1901年の統計開始以降、周期的な変動を繰り返しています。北半球では、1930年頃、1950年代、2000年代半ば以降に降水量の多い時期が現れています。」


世界の年降水量偏差の経年変化(気象庁ホームページより)

 最近頻発するようになっている豪雨による被害と符合するようなデータである。一方、ことし首都圏に大きな被害をもたらした台風15号、19号、21号などの、この豪雨をもたらしている主な要因である台風の発生状況についての解説は次のようである。
 
 「台風の将来予測:北大西洋では熱帯海域の海水温の上昇にともなって、1970年ごろから強い熱帯低気圧(ハリケーン)の活動が増えています。一方、台風(最大風速が秒速17.2メートル以上の北西太平洋の熱帯低気圧を台風と呼びます)の発生個数、日本への接近数、上陸数には、長期的な増加や減少の傾向は見られません。
 地球温暖化にともなう台風やハリケーンといった熱帯低気圧の活動の予測研究によると、非常に強い熱帯低気圧の数は増えると予測されています。また、熱帯低気圧にともなう雨は強くなる傾向があると予測されています。」

 図解したデータは示されていないが、意外なことに太平洋地域での台風の発生個数には目立った変化はないとのことである。

 総合して、日本の気候の将来予測については次のように記されている。

 「日本の気候変化の予測:日本の周辺で起きる気候変化を細かく予測する研究も行われています。今後も二酸化炭素などの温室効果ガスを多く排出(エネルギーのバランスと経済発展を重視しグローバル化が進展する社会を想定)する場合、100年後の日本の気候は次のように予測されています。(地球温暖化予測情報 第8巻より)
 気温は現在よりも3℃程度高くなる。予測される気温の上昇は高緯度ほど大きい。
 全国平均の年降水量(雨または雪の量)は増加する。これは、地球温暖化によって、大気に含まれる水蒸気量が増えることなどによると考えられる。
 日本のほとんどの地域で積雪の量が減る。これは、気温の上昇によって雪ではなく雨が降る場合が増えるためと考えられる。
 北海道の内陸部などでは雪の量は現在と同程度か増える。これは、温暖化が進んでも依然として気温が低いためと考えられる。」

 日本の温暖化に関しては、先にグラフで見た地球全体および北半球の最近の平均気温上昇、100年あたり1.5℃、2℃よりもさらに大きい数値がここで示されている。

 ところで、こうした気候変動の半分以上の要因とされる二酸化炭素濃度の1984年以降の推移データも示されていて、次のようである。


地球全体の二酸化炭素の経年変化(気象庁ホームページより)

 これによると、二酸化炭素は若干の変動はあるものの、確実に上昇を続けており、IPCCが設立された1988年以降も、各国の排出量削減の努力にもかかわらず、総量での上昇が抑えられる気配はない。

 世界気象機関(WMO)は10月22日、温室効果ガスの影響で、世界の平均気温が過去5年間で観測史上最も暑くなるなど、地球温暖化の兆候やその影響が加速していると発表。2015年から2019年までの間に大気中に排出された二酸化炭素は、2015年までの5年間と比べ、2割上昇しているとしている。

 こうした現状について、危機感を持つ若い人々が声を上げ、行動に移すようになっているのであるが、グテーレス国連事務総長もまた、世界は「気候変動の深みに」はまっているとして、緊急の対策が必要だと述べている。「時間がなくなりつつある。しかし、まだ手遅れではない」とも述べたとされる。

 「インペリアル・コレッジ・ロンドン(ICL)グランサム研究所の所長で、レディング大学気象学部の教授、ブライアン・ホスキンス氏は、『我々は、子供たちからの大きな求めに耳を傾けるべきだ。これは緊急事態だ。温室効果ガス排出量をゼロにすることを目指して急速に削減しつつ、不可避な気候の変化に適応するため、取り組まなければ』と述べた。」と報道されている。

 多くの科学者が、このようにデータを示しながら、「我々人類は、前例のない対応を必要とする未曾有の脅威に直面している」と訴えているのであるが、「政治家は、経済ビジネスはいつもどおりという姿勢のままで、気候変動に対処できると考えているようだ。」とBBC環境アナリストのロジャー・ハラビン氏が報じている。

 温暖化防止に関して、科学の世界での混乱ぶりはどうしたことだろうか。一部の政治家がその政策決定の根拠としていると思われる地球温暖化「懐疑論」は、今も一般市民の中にも影を落としているように感じる。大人が、子どもたちに地球の置かれている現状と、将来への取り組みについて、一致して正しい情報を提供できなければならないと思う。



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ガラスの話(18)ウランガラス

2019-11-08 00:00:00 | ガラス
これまでにも作品は何回か紹介する機会があったが、今回はウランガラスの話。ウランガラスは0.1~1%程度の微量のウランを黄色~緑色の着色剤として含むもので、紫外線照射により緑色の蛍光(波長530nm)を発するユニークなもの。1830年代にボヘミアで発見され、その後ヨーロッパからアメリカ、明治期の日本にも伝わり、多くの製品が作られた。そして、20世紀半ばにウランが核兵器に利用されるようになるまで生産が続き、その後はウランが戦略物資となるに伴い、生産の状況は各国ごとに異なるが、大幅に縮小された。

 現在は、ウランに替わる別の着色材料が開発され、ウランへの依存は減少しているが、チェコではウランガラスの製造が国の独自の成果であるとの考えから、戦後も、生産は減少したものの一貫して製造を継続している。プラハのガラスショップなどでも新しい製品の数々を見ることができる。

 もう一つの主要生産地であったアメリカでは、1943年にアメリカ政府がウランとその化合物を戦略的物質と位置づけ、ガラス工場を含む民間人の使用を厳しく制限していたが、1958年に制限が解除されウランガラスの製造が再開されている。

 戦後の日本ではこうした国々とはやや異なる展開が見られる。日本のウラン鉱石の産地として岡山県の人形峠の鉱山は有名であるが、地元の上斎原村(現在の鏡野町)が(独)日本原子力研究開発機構人形峠環境技術センターの技術協力のもと、ウランガラスの開発可能性の調査を開始し、ウランガラスの安全性を確認したうえで、地場産業としてウランガラス製品を作ることを決めた。

 現地には「妖精の森ガラス美術館」が2006年に建設され、ガラス器生産の工房を持ち、専任スタッフを配置して製造を行っている。美術館には「ウランガラス」(1995年 岩波ブックセンター発行)の著者であり、また国際原子力機関(IAEA)本部に勤務された経験を持つ、苫米地 顕氏(同館の名誉館長)のウランガラスのコレクションの数々が展示されている。

 実は、1830年にボヘミアでウランをガラスの着色剤として利用するようになるはるか以前に、酸化ウランの利用が行われていたことが判っていて、その始まりは紀元後79年のローマ時代にさかのぼるという。
 イタリアのナポリ付近のポジリッポで製造されていたガラスには1%程度の酸化ウランが着色剤として混合されており、黄色~緑色の美しい色彩を有していた。19世紀にこのガラス製品が再発見された時点ではウラン源としてはボヘミアのハプスブルク家直轄のヨアヒムスタールの銀鉱山に産するピッチブレンドのみが知られており、ローマ時代のガラス職人がどこからウラン鉱石を調達したのかは今もなお謎とされている。

 ウラン化合物の原子価は+2価から+6価をとり得る。このうち、一般に+6価が最も安定である。これに対し、+2価と+5価は特に不安定であり、特殊な条件でないと存在できない。+4価は硝酸水溶液および酸化物等では安定な価数であり、水溶液にしたときには緑色になる。+3価の水溶液は赤紫色となるが安定せずに、水を還元して水素を発生させながら+4価に変化するため、色も緑色に変化する。+6価は水溶液中でも安定であり、ウラニルイオン (UO 2 2+) となって、水溶液は黄色を呈する。水溶液に限らず、+6価のウランは一般に黄色を呈するため、イエローケーキと呼ばれる。

 このウランを含む水溶液の色から類推できるように、ウランガラスは黄色~緑色に着色する。私はこの事から、ウランガラスの色はウランの価数により決まり、4価で緑色、6価で黄色に着色するものと考えていたが、先日(2019.10.24)訪問した上記の「妖精の森ガラス美術館」で聞いた説明では、純粋なウランを着色剤に用いたものは黄色に着色し、更に別の金属イオンを添加することで緑色やその他の色を得ているということであった。

 ウランガラスの色に関しての論文はあまり多くなくて、私もまだ先の本「ウランガラス」を見たことはないが、手元の日本ガラス工芸学会誌、「GLASS」56号(2012年発行)に掲載された「世界のウランガラス 欧米と日本」(畠山耕造)には、次のような記載があり、ウランガラスの色には更にいくつもの種類が含まれているようである。

 「19世紀から20世紀にかけて多くのウランガラスを製造したリーデル社の色見本を見ると、黄緑から次第に濃い緑へ、そして最後に海のような深い紺碧に至る『アンナグリュン:Annnagrun』(アンナの緑)が4色と、明暗2種の黄色『アンナゲルプ:Annagelb』(アンナの黄)が載っている。・・・また19世紀後半にアメリカで開発され、イギリスでも盛んに製造された夕日のような茜色やピンク色の『バーミーズガラス:Burmese glass』では、ウランとともに金が用いられた。」

 現在、私のショップにあるウランガラスの色は、これほど多様なものはなく、大きく黄色と緑色に分けることができる。

 先ず、黄色の作品からご紹介する。写真には、通常の照明下の本来の色のものと、紫外線(ブラックライト)照射により緑色に発光する様子とを合わせて示している。

 最初の作品は大きな皿または花器と思われるもの。ウラン発光としては、ごく弱いようである。

黄色発色のウランガラス製花器(高さ:8.2cm/直径:31cm、上:通常光/下:紫外光)

 次はウランガラス製のカップに非ウランガラス製のステムとフットを組み合わせたアイスクリームカップ。

黄色発色のウランガラス製アイスクリームカップ(高さ:8.8cm/直径:9.8cm、上:通常光/下:紫外光)

 次はウランガラスに乳白色ガラスを組み合わせたオイル/ヴィネガー用のポット。ストッパーは非ウランガラス製。

黄色発色のウランガラス製ポット(ストッパーを含む高さ:14.4cm/直径:7cm、左:通常光/右:紫外光)

 次はウランガラス製のボウルとステムに、非ウランガラス製の褐色のフットを付けたアザミの花の形を模したワイングラス。

黄色発色のウランガラス製ボウル/ステムとオレンジ発色の非ウランのフットが組み合わされているワイングラス(高さ:12.6cm/直径:6cm、上:通常光/下:紫外光)

 次はウランガラスに金彩を施した豪華なデキャンタとグラスのセット。1900年初頭に作られたオールドバカラと見られる。デキャンタのハンドル部とストッパー、およびグラスのステムとフット部は非ウランガラスでできている。

黄色発色のウランガラス製デキャンタとグラスに金彩を施したもの(ストッパーを含むデキャンタ 高さ:20.2cm/直径:8cm、グラス 高さ:7.3cm/直径:4.2cm、上:通常光/下:紫外光)

 次の2種は、共にウランガラスを用いたジャムディッシュ。最初の作品はウランガラスを含む乳白色のオパールセントガラス製。2番目のジャムディッシュはクランベリーガラス(2019. 9.27公開の本ブログ参照)にグラデーションを持たせた本体に、ウランガラスの縁取りを加えたもの。

黄色発色のウランガラス製ジャムディッシュ(高さ:6.4cm/直径:13.9cm、左:通常光/右:紫外光)

黄色発色のウランガラスによる縁取りを施したジャムディッシュ(高さ:8.5cm/直径:14.1cm、左:通常光/右:紫外光)

 続いて緑色に着色させたウランガラスを使用した各種のガラス器を紹介する。紫外線(ブラックライト)照射による発光色は黄色に着色させたものと同じ緑色である。

 最初は小型のマヨネーズカップと呼ばれるもので、プレス成型による。

緑発色のウランガラス製マヨネーズカップ(高さ:4.9cm/直径:7.2cm、左:通常光/右:紫外光)

 次はウランガラス製カップに非ウランガラス製のステムとフットを持つ小さめのワイン/リキュールグラス2種。カップにはエッチングによる紋様が施されている。

緑発色のウランガラス製リキュール/ワイングラス(高さ:12.1cm/直径:6cm、左:通常光/右:紫外光)

緑発色のウランガラス製ワイングラス(高さ:12.1cm/直径:6cm、左:通常光/右:紫外光)

 次は配色からウォーターメロンと呼ばれているもので、カップとステム部は赤いクランベリーガラスでできていて、フット部に緑色のウランガラスが用いられている。2種ご紹介する。

ウォーターメロングラス 1/2(高さ:10.5cm/直径:9.2cm、上:通常光/下:紫外光)

ウォーターメロングラス 2/2(高さ:10.7cm/直径:8.7cm、上:通常光/下:紫外光)

 次は、ウランガラス製プレスガラス皿。アメリカで大量生産されたものと思われる。

緑発色のウランガラス製皿(厚さ:1.8cm/直径:21.4cm、左:通常光/右:紫外光)

 次は、ロブマイヤー製のワイングラス。ウランガラス製の楕円形カップと非ウランガラス製のステムとフットからなる。ウランガラスのカップには細密なエングレーヴィング紋様が施されている。マリアテレジアグラスの愛称を持つ。

緑発色のウランガラス製マリアテレジア・ワイングラス(高さ:13.2cm/直径:6.6cm、左:通常光/右:紫外光)

 次は、ウランガラスの外側にクランベリーガラスを被せカメオ彫りと金彩が施されたもの。ウランガラスの表面にはエグランチェと呼ばれる微細なエッチング紋様が刻まれている。

ウランガラスにクランベリーガラスを被せ彫刻を施した小物入れ(高さ:5.8cm/直径:12.8cm、上:通常光、下:紫外光)

同上の作品の部分

 最後に紹介するのは、先日「妖精の森ガラス美術館」を訪ねた時にお土産に購入した、ウランガラスとレースガラスとを組み合わせたぐい吞み。日本人作家らしい繊細な仕上がりになっている。

「妖精の森ガラス美術館」のショップで購入したウランガラスとレースガラスとを組み合わせたぐい吞み(高さ:4.8-5.1cm/直径:6.9-7.1cm、上:通常光、下:紫外光)

同上の作品の部分

 1830年にウランガラスが(再)発見された当時、紫外線ランプはなく人々はウランガラスの示す発光現象を充分認識していなかったようであるが、太陽光に含まれる紫外線にも反応することから、その独特の美しさを感じていたであろうと考えられている。

 また、少し前までは紫外線により発光するガラスとして知られるものはウランガラスだけであったが、発光現象だけを見ると他にも種々あるのではと思う。

 例えば、窓ガラスとして一般に用いられるようになっているフロートガラスは溶融スズの上に溶けたソーダライムガラスを流して作られるが、その時微量のスズがガラス表面に溶け込む。このスズイオンは紫外線により赤く発光することを若い頃職場の先輩から教わった。この方法で、フロートガラスのスズに接していた面と、反対側の自由表面とを区別するのに用いるのであった。

 最近の例としては、希土類金属イオンを用い赤、青、緑の発光を示す蛍光ガラスが、住田光学ガラスから発表されている。その内容は次のようである(Materials Integration Vol.17, No.3, 2004)。

赤、緑、青の蛍光ガラス(住田光学の発表論文から筆者作成)

 さて、ウランガラスというと、そこに含まれるウランが持つ放射能のことが当然問題になる。上記の新しい蛍光ガラスには希土類金属が使われていることから判るように、紫外線による発光現象と放射能とは全く別の現象である。そこで、ウランの持つ放射能について簡単に見ておこうと思う。

 我々日本人は、広島・長崎での被爆体験、そして東日本大震災時の福島原子力発電所の事故など放射能の危険にさらされた経験があり、どうしても放射能には敏感である。人形峠の「妖精の森ガラス美術館」でもこうした点に配慮し、ウランガラスに含まれているウラン量を0.1%に設定している事、そしてこの量のウランが持つ放射能のレベルが、人体に通常含まれているカリウムの総量が持つ放射能のレベルと同等であり、安全面では問題のないことを説明していた。

 そのウラン、人形峠などの鉱山から得られる天然ウラン鉱物には、通常3種類のウランが含まれている。ウラン238、ウラン235、ウラン234という同位体である。同位体というのは、化学的な性質が同一であるが、質量のやや異なる元素のことさすが、これらすべてのウランからは放射線が出ていて、その強度は異なっている。

 通常、この放射能強度は半減期で示されることが多いが、ウラン238では約45億年、ウラン235は約7億年、ウラン234は約246年である。半減期が長いほど放射能は弱い。単純計算で、ウラン235はウラン238の約6倍の強さとなる。

 一方、天然に産出されるウラン鉱物中のこれら同位体の構成比率は、ウラン238が99.274%、ウラン235が0.7204%、ウラン234は0.0054%である。

 天然ウランの放射能を考える場合、やや面倒な計算になるが、まず天然ウランがウラン238とウラン235だけから成っていると仮定すると、ウラン235はその放射能のうち約4.8%を占めることになる。しかしながら、天然ウランにはさらにウラン234が含まれていることを考慮する必要がある。ウラン234はウラン238の崩壊によりできるひ孫核種であり、ウラン238とウラン234は放射平衡を形成している。このため天然ウラン中に存在するウラン234はウラン238と同じだけの放射能をもっている。これらより、天然ウラン中でのウラン235に由来する放射能は、約2.4%と算出できる。そして天然ウランの放射能比はウラン238とウラン234由来のものがそれぞれ48.8%となる(ウィキペディアの「ウラン」から)。

 この放射能強度は0.1%の天然ウランを含む1グラムのウランガラスに換算すると、約25Bqという強度になり、この数値は1グラムのカリウムの放射能強度31Bqに比べると同等以下ということになる(天然に存在するカリウムの同位体の一部に放射能を持つものが含まれているため)。この値をどう見るかは、それぞれ個人差があるところと思われるが、こうした計算結果を参考にして、製品としてのウランガラスの安全性を判断すればいいと思う。

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軽井沢のスミレ(1)エイザンスミレ

2019-11-01 00:00:00 | スミレ
 義父がチョウとスミレが好きで、蒐集したチョウの標本は今も妻が受け継いで保管しており、本ブログでも時々利用しているのであるが、スミレは関連の書籍が残るだけで、実物はもう何も残っていない。

 そのスミレに関する蔵書の一つに、「原色日本のスミレ」(浜 栄助著、1975年 誠文堂新光社発行)という立派な本がある。この本は、長野県生まれで、長野県で高等学校の教員を務めた著者が、およそ20年の歳月をかけて採集し、生品から原色図を描写したものを採録したものである。

 この本の巻頭に、著者は「日本の中でも、諏訪は、また信州は、個体数においても種数においても、最もスミレに恵まれた土地である・・・」と記している。

 諏訪地方には及ばないと思うが、春、軽井沢の山地やその周辺の別荘地を歩いていると、スミレの姿を見かける。そうしたスミレを紹介していこうと思う。

 最初は、私の最も好きなエイザンスミレ。葉の形が一般的なスミレとは大きく異なり、深い切れ込みがある種で、花の色はピンクで大型の花弁が美しい。

 10年ほど前、東京に住んでいた頃、近くの画廊で買い求めた数種の山野草の版画の中にこの「エイザンスミレ」が含まれていた。次の様であり、花や葉の特徴がよくあらわされている。

エイザンスミレを描いた版画(10cm x 14.7cm)

 上記の「原色日本のスミレ」のエイザンスミレの項を見ると、その花期や分布については次のように記されている。

 「花期:3月中旬~4月下旬、分布:青森県相馬村が北限として知られているが、北陸までの日本海側は非常に少ない。岩手県北部の太平洋側から、関東の北中部、中部の中央部から南部、近畿、中国、四国から九州の霧島山まで分布する日本特産のスミレである。・・・中部では標高300~2,400mにかけて、山地の小川沿いや、路傍の傾斜地、石垣、樹陰の腐植土の所などに生え、崩れる土砂が、地上に伸び上がった地下茎を自然に埋めるような所に特に多い。・・・」

 日本産スミレ属の分布に関しては、この本の中で12の分布系列に分けていて、今後順次このブログでも紹介していこうと思うが、その中のひとつに「エイザンスミレ型」があり、日本海側に少ない種がこれにあたる。この仲間にはマルバスミレ、フモトスミレ、ヒゴスミレなどがある。

 また、花の色はこれまで見た経験からピンク色と上で書いたが、この本によると「淡紅紫色のものが多いが、紅色に近いものや白色に近いものまで変異があり、芳香を持つものもある。」として、純白のものは「シロバナエゾスミレ」の名前がつけられている。私も花色の白っぽいものを見たことはあるが、まだこの純白種は見たことがない。

 若い頃は関西に住んでいたこともあり、このエイザンスミレを山野で見た記憶はない。もっとも、その頃はまだスミレにそれほど関心があったわけではないので、見過ごしていたのかもしれない。初めてこのエイザンスミレを見たのは、就職して神奈川県に住むようになってからで、高尾山の山道を登っている時、左側の崖地に花をつけた株を発見し、とても嬉しかったことを覚えている。この時写真を撮影したように思うが、捜してみても見つからない。その少し後になるが、西沢渓谷に出かけた時のプリント写真の中に、エイザンスミレを写したものが見つかった。しかし、この時のことはあまり覚えていない。

西沢渓谷で見かけたエイザンスミレ(1990年頃撮影)

 軽井沢に来てから、別荘地内を散歩していると、時々渓流沿いの場所にこのエイザンスミレを見かけることがあった。また、旧中山道を歩いてみようと思い、碓氷峠から坂本宿に下ったことがあったが、その途中の道の脇にもこのエイザンスミレの大きな株があり、たくさんの花が咲いていた。

 南軽井沢に義父の建てた山荘がある。義父がここに通っていた頃には、この山荘の周辺にはエイザンスミレは咲いておらず、やはりこの種が好きであった義父が残念がっていたと妻はいうが、この山荘から少し離れた、まだ建物の建っていない区画の道路沿いに、2015年頃エイザンスミレが咲いているのを見つけた。数えてみると10株ほどが生えていた。

 翌年の春、山荘のアプローチから建物の周辺にエイザンスミレが何株も小さな芽を出しているのが見つかった。種を持ち帰り播いたわけでもなく、突然の出現に妻は驚いていたが、近くに生育しているエイザンスミレを花期が終わってからも何度となく見に行っていたので、靴底に種子が付いてきたものかもしれないと話し合った。
 
 勝手にこうして生えてくるエイザンスミレではあるが、種子を持ち帰り、自宅のロックガーデンに直接播いてみても、一向に発芽する気配が無い。スミレ全般に見られることであるが、気難しさを感じるのである。また、前年生えていた場所に行ってみると、見つからなかったり、株数が減っていたりすることもしばしばである。こちらは、堀り採られているからかもしれない。

 さて、これまでに撮影したエイザンスミレの写真は以下のようである。 

 最初は南軽井沢の別荘地内で見かけたもの。

南軽井沢の別荘地内のエイザンスミレ 1/3(2017.5.4 撮影)

南軽井沢の別荘地内のエイザンスミレ 2/3(2017.5.4 撮影)

南軽井沢の別荘地内のエイザンスミレ 3/3(2017.5.4 撮影)
 
 次は碓氷峠から坂本宿に下る旧中山道の道沿いで見かけたもの。

旧中山道のエイザンスミレ 1/3(2016.5.3 撮影)

旧中山道のエイザンスミレ 2/3(2016.5.3 撮影)

旧中山道のエイザンスミレ 3/3(2016.5.3 撮影)

 写真で分かるように、エイザンスミレの葉は、通常スミレの葉として思い浮かべるハート形や、鉾形のものとはまるで違っていて、とてもスミレの葉のように見えない。特に春に花が咲くころには、細かく分裂している。そして、その後に出てくる葉は、幅が広くなり分裂の仕方も弱くなってくる。夏に出る葉には、分裂がなくなり、他のスミレのような長いハート形になることもあって驚かされる。

 こうした特徴(複葉性という)を持つスミレには、ほかにヒゴスミレとナンザンスミレという種がある。「日本のスミレ」(山渓ハンディ図鑑 1996年 山と渓谷社発行)にはこの「複葉性スミレの見分け方」として次のように示されている。ヒゴスミレを育てたことがあるが、確かに葉の切れ込みの程度はエイザンスミレよりも細かいので、一見して区別がつく。

複葉性スミレの見分け方(「日本のスミレ」の表に一部追記) 

 手元にある田中澄江さんの「花の百名山」(1980年 文藝春秋発行)を見てみると、エイザンスミレが5つの山で紹介されている。筆頭はスミレで有名な「高尾山」(東京都)の項で採りあげられているが、続いて「大岳山」(東京都)、「高水山」(東京都)、「武州御嶽」(東京都)、「藤原岳」(三重県)の項で紹介されている。やはり東の方に多いようである。

 義父は一時期多くのスミレを鉢植えにして栽培していたという。私も30代に一時期試みたことがあるが、なかなかうまく育てられず、途中でやめてしまった。その頃読んだ本に、「日本のスミレ」(橋本 保著 1967年誠文堂新光社発行)や、「原色すみれ」(鈴木 進著 1980年家の光協会発行)があり、ここにスミレ類の栽培方法が示されていたのだが・・。

 スミレは花の後にできる種子のほかに、花期が終わってからも次々と閉鎖花という種子を作る特徴がある。野外でこの閉鎖花から種子を採取するタイミング、種をまく床に用いる用土、鉢の種類などをこれらの本から学んだのであったが、うまく育てて花を咲かせることはなかなか難しかった。

 軽井沢ではもっぱら庭の一角に作ったミニロックガーデンで山野草を育てていて、その中に店で買い求めた数種のスミレ類も混じりこませているが、エイザンスミレは種を直播きしても、なかなかうまく育ってくれない。今後ももう少し続けて何とか花を咲かせてみたいものと思っている。

【追記】 2020.4.29
 コロナ騒動で外出も思うようにできないということで、久しぶりに南軽井沢にスミレを見に出かけた。

 上記写真を撮影した場所に行ってみると、今年も数株のエイザンスミレが健在で以下のような大型で美しい花を咲かせていた。

南軽井沢の別荘地内のエイザンスミレ 1/4(2020.4.29 撮影)

南軽井沢の別荘地内のエイザンスミレ 2/4(2020.4.29 撮影)

南軽井沢の別荘地内のエイザンスミレ 3/4(2020.4.29 撮影)

南軽井沢の別荘地内のエイザンスミレ 4/4(2020.4.29 撮影)

 また、別な場所ではエイザンスミレの白花が咲いていた。初めて見るもので、近くにマルバスミレの白い花が咲いているので見間違いではないかと思ったが、出始めた葉の様子からやはりエイザンスミレであると思える。エイザンスミレの白花にはシロバナエゾスミレという名が付けられている。

南軽井沢で見た白花エイザンスミレ 1/3(2020.4.29 撮影)

南軽井沢で見た白花エイザンスミレ 2/3(2020.4.29 撮影)

南軽井沢で見た白花エイザンスミレ 3/3(2020.4.29 撮影)

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