軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

旧古河庭園のバラ(2/2)

2024-06-21 00:00:00 | 日記
 旧古河庭園のバラ園の後半部分を紹介する。

 バラ園は3カ所あり、階段を下りた斜面下が一番広く、ここに多くの種が植えられている。


洋館南側の階段を降りたところにあるバラ園(2024.5.8 撮影、以下同じ)




C01 「バニラ・パフューム」 1999 アメリカ




C02 「フロージン'82」 1982 ドイツ


C03 「カリフォルニア・ドリーミング」 2009 フランス



C04 「ラ・フランス」 1867 フランス 



C05 「ローラ」 1981 フランス



C06 「桃香」 2003 日本




C07 「インカ」 1992 ドイツ



C08 「プリンセス・ミチコ」 1966 イギリス



C09 「マダム・サチ」 1984 フランス




C10 「プリンセス・オブ・ウェールズ」 1997 イギリス


E01 「メリナ」 1973 ドイツ


E03 「熱情」 1993 日本



E04 「春芳」 1987 日本


E05 「ラブ」 1980 アメリカ



E06 「サマー・ドリーム」 1988 アメリカ



E07 「ヨハネ・パウロ二世」 2008 アメリカ



E08 「ハーモニイー」 1981 ドイツ

E09 「イングリッド・バーグマン」 1984 デンマーク



E14 「ダブル・デイライト」 1977 アメリカ



E16 「丹頂」 1986 日本



E17 「ブルー・ライト」 1995 日本


E18 「マリア・カラス」 1965 フランス


E19 「ソニア」 1972 フランス



E22 「ドフトゴールド」 1981 ドイツ



F01 「ゴールデン・メダイヨン」 1984 ドイツ


F02 「アロマテラピー」 2005 アメリカ


F03 「恋心」 1992 日本



F04 「ホワイトクリスマス」 1953 アメリカ


F05 「きらり」 2003 日本


F06 「白鳥」 1989 日本




F14 「初恋」 1994 日本






F17 「リオ・サンバ」 1993 アメリカ



F22 「クリスチャン・ディオール」 1958 フランス


F23 「ピンク・ピース」 1959 フランス


F24 「クイーン・エリザベス」 1954 アメリカ



H03 「フラウ・カール・ドルシュキ」 1901 ドイツ

 2回にわたり58種と随分多くの品種を紹介してきたが、咲き具合もあって、撮影しなかった種がまだ多くある。

 前述の軽井沢レークニュータウンのバラ園の場合、ほとんどイギリスとフランスで産出された品種であった。一方、この旧古河庭園の場合は、イギリスで産出された品種は少なく、フランス、アメリカ、ドイツ、日本で産出された品種がまんべんなく植えられていた。

 撮影したものに限るが、産出国で分類すると次のようである。



 香水の原料となるなど、香りのよさがバラの魅力の一つであるが、意外にも昆虫には人気がないようで、見学中にチョウが吸蜜にくることはなかった。

 もっとも、これまで撮影対象にしてきたバラの花の構造を見ていると、仮に蜜があったとしてもチョウには吸えそうにないものがほとんどである。

 飛来してきた一頭のアオスジアゲハは、バラの花には目もくれず、バラ園の脇に咲くニラだろうか、その小さな花の蜜を吸っていた。


ニラの花で吸蜜するアオスジアゲハ(2024.5.8 撮影)

 我が家では、3年前にN夫人の別荘から分けていただいて、庭先に植えているバラ「プロスペリティー」の花芽がたくさん出てきて、この記事を書いているうちに咲き始めた。軽井沢に数カ所あるバラ園も見ごろを迎えたので、どんな新たな品種に出会えるか楽しみである。


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旧古河庭園のバラ(1/2)

2024-06-07 00:00:00 | 日記
 夕方からの所用で東京に出る機会があったので、少し早めに家を出て、旧古河庭園と、フジフィルム スクエアに立ち寄った。

 フジフィルム スクエアでは、富士フィルムグループ創立90周年記念コレクション展として『フジフィルム・フォトコレクションⅡ』世界の20世紀写真「人を撮る」が4月26日から5月16日まで開催されていることを知っていたからであった。

 その展示作品の中には、私も知っているW.ユージン・スミスの「楽園への歩み、1946年」が含まれていて、先日私のショップを訪ねてくださったプロ写真家の、J.E.アトウッドさんが、第1回ユージン・スミス賞を受賞しているということも関係していて、この機会にぜひ見に行ってみたいと思っていたのであった。

 
『フジフィルム・フォトコレクションⅡ』世界の20世紀写真「人を撮る」のパンフレット

 このコレクション展のパンフレットには次のように記されていて、写真の原点が人物の撮影にあることを思い出させる。

 「・・・本コレクションのテーマは『人を撮る』。
 人物写真は、写真術誕生における最大の動機であり、写真の原点であったとされています。新たな技法がいくつも生まれたその歴史の中で、人物写真は常に人々の関心の中心であり続け、それは今日においても変わりません。『人を撮る』ことは、写真の歴史の中で最も身近で、最も特別なものであり、写真の普遍的なテーマであるといえます。・・・」

 会場に展示されている21作家・全53点の写真は、すべてオリジナルプリントであるとされ、大半が、ゼラチン・シルバー・プリントによるモノクロ作品であった。

 ここでは、多くの無名の人々の写真と共に、我々がよく知っている、ウインストン・チャーチル、ジョージ・バーナード・ショー、アルベルト・アインシュタイン、ヘレン・ケラー、ジャン・シベリウス、アルベルト・シュヴァイツァー、パブロ・ピカソ、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョアン・ミロ、マルク・シャガール、モハメド・アリ、ジャック・クストー、マリリン・モンロー、ジョン・F・ケネディーなどの生前の姿を見ることができた。

 さて、この写真展で、写真の原点は人物の撮影であるとの表現に出会ったのであるが、この日私がまず写真を撮りに出かけたのは、旧古河庭園のバラ園であった。上京前日の新聞で、この庭園のバラが見ごろを迎えているとの記事に目がとまったからであった。


旧古河庭園「春のバラフェスティバル」のパンフレット

 以前、軽井沢にあるレークニュータウンのバラ園に咲く多くのバラの中から、50種ほどを紹介したことがあった(2018.6.29 公開当ブログ)。ここも含めて、軽井沢ではまだバラの季節はもう少し先になるので、一足先にバラを見、写真を撮りたいと思って出かけたのであった。私の被写体は、人物ではなく、もっぱら自然の動植物や昆虫である。

 関東には随分長く住んでいたのに、この旧古河庭園に来るのは初めてである。この旧古河庭園のある北区西ヶ原という場所は、妻が生まれた場所であると聞いているし、東京で働いている娘が最近まで住んでいた場所にも近いのであるが。

 その旧古河庭園のバラ園、ここには約100種200株のバラが植えられているとされる。

 正門から入り、サービスセンターで入園料を支払う。65歳以上の個人入園料は70円と随分安く設定されている。それもあってか、平日のこの日の入園者には高齢者がとても多いようであった。


旧古河庭園の案内パンフレットから

 順路に従って園内に入ると正面に立派な2階建ての洋館が見える。ここは、もと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅であって、宗光の次男が古河家の養子になった時、古河家の所有になったとされる。

 この洋館と洋風庭園の設計者は英国人建築家のジョサイア・コンドル、日本庭園の方の作庭者は小川治兵衛であり、現在は国の名勝に指定されている。

 建物はレンガ作りと思え、外壁は真鶴産の赤みを帯びた安山岩で仕上げられている。延べ414坪、地上2階・地下1階の落ち着いたたたずまいである。

 大正6年(1917年)5月竣工ということなので、関東大震災(1923年)をくぐりぬけていることになる。

 洋館等の建物は、長い間放置された状態で荒廃が進んでいたが、昭和57年(1982年)に東京都名勝の指定を受けると、それから平成元年(1989年)まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元されたとされる。

芝生側から見た洋館の東面とバラ園(2024.5.8 撮影)

 バラ園は、洋館東側に少しあって、大半は南側とこれに続く斜面下側に配置されている。それぞれのバラにはA01から順に番号が付けられた樹名ラベルが添えられ、品種名、作出年、作出国名、作出者、香りなどの特徴が記されている。


洋館南面のバラ園(2024.5.8 撮影)


バラに添えられている樹名ラベル(2024.5.8 撮影)

 一通り見て回りながら、写真撮影をした。以前軽井沢のレークニュータウンで見知っていた品種名には出合わなかったように思えた。3~4万種あるとされるバラなので、当然かもしれない。

 当日、春バラの人気投票も行われていた。ちなみに昨年一位になったのはB22 「ブルー・ムーン」で、次の写真の種であった。



昨年人気投票1位の「ブルー・ムーン」

 以下に私が撮影したものを紹介するが、多くなるので、2回に分けてご紹介する。私は今回見た中では、次のA03「プリンセス・ドゥ・モナコ」が一番気に入ったのであるが、皆さんは如何だろうか。


 
A01 「青の軌跡」 2008 日本(樹番号、品種名、作出年、作出国名を示す、以下同)



A02 「イヴ・ピアッチェ」 1984 フランス


A03 「プリンセス・ドゥ・モナコ」 1981 フランス


A04 「わたらせ」 1977 日本


B03 「ディスタント・ドラムス」 1985 アメリカ




B05 「ビック・ドリーム」 1984 アメリカ



B06 「コンフィダンス」 1951 フランス



B12 「朱王」 1982 日本



B13 「ニュー・アベマリア」 1983 ドイツ



B14 「乾杯」 1984 日本



B15 「ブラック・ゴールド」 2008 フランス



B16 「紫雲」 1984 日本






B17 「デザート・ピース」 1994 フランス



B19 「パパ・メイアン」 1963 フランス


B20 「ガーデン・パーティー」 1959 アメリカ


B21 「フレンチレース」  1982 アメリカ



B22 「ブルー・ムーン」 1964 ドイツ


B23 「シャルル・ド・ゴール」 1974 フランス

B24 「エレガント・レディー」 1988 アメリカ




B25 「エグランタイン(マサコ)」 1994 イギリス




B26 「ロイヤル・プリンセス」 2002 フランス

 今回、バラ園内の数か所に、[旧古河バラコレ]という案内板があり、QRコードでスマホアプリがダウンロードできるようになっていた。これは千葉工業大学が開発したアプリということで、自身が撮影したバラの写真をこのアプリの中の所定の位置に貼り付けることで「バラ図鑑」ができるという面白い試みである。私も撮影したバラの写真の整理に使い始めた。


撮影した写真でバラ図鑑をつくることができるスマホ用アプリの紹介記事

 続く。
 
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Karuizawa Foto Fest 2024(4)フォト考

2024-05-24 00:00:00 | 日記
 今年開催されたKFF 2024の上位入賞作品のひとつに、フジバカマの畑の上を飛翔するアサギマダラの写真が選ばれ、そこには背後の太陽にピッタリ重なって、アサギマダラ特有の半透明な翅を通して光が漏れて美しく輝いている姿がとらえられていた。

 この写真の選評には次のように記されていた。

 「正直最後までこの作品を選ぶべきか迷った。理由は余りに奇跡的な一枚だからだ。・・・(選者は)いかに蝶の撮影が困難か多少わかっている。この作品をもし狙って撮るならば、一体何万回シャッターを切ればよいのか想像がつかない。
 当然、真っ先にフォトショップ等での加工を疑った。いろいろ確認してもらったが、そのような形跡はないらしい。
 次に考えたのは撮影者がどこまで意図して撮ったのかという点だった。・・・最終的にはアーティストの意図や意思の結果である作品を評価したい気持ちがある。
 しかし一方、カメラという機械を用いて産み出される写真作品には、時として偶然性が映り込むし、それが写真というミディアムの魅力の一部でもある。
 色々考えた挙句、目の前の100万分の1の奇跡を、ここは素直に眺めたいと思い選んだ。(柿島 貴志)」

 続いて私の写真について。昨年のKFF 2023の入選作品のひとつに、浅間山の稜線に接するように満月を配した写真がある。

 この作品は入賞していないので、選評はない。ところが、思いがけず著名なプロの写真家氏から今回のアサギマダラの写真の場合と似たような趣旨の質問をいただくことになった。

 先々週の当ブログで紹介したことのある内容なので、詳細は割愛させていただくとして、この作品を写真絵葉書にしたものを、プロの写真家 J.E.A. さんにプレゼントするという機会に恵まれた。その時、この写真を見た彼女から、「これは実写作品ですか?」と尋ねられた。

 時系列的には、私の作品についての質問の方が先で、その後、前述のKFF 2024の入賞作品についての選評を入選作品集で読むことになったが、同じような時期にプロの写真家2氏から、写真作品に対してこうした質問あるいは疑問が提出されたことに、少し考えさせられてしまった。

 一昨年11月にChat GPTが登場して以来、生成AIに関する議論が持ち上がり、今も続いている。生成AIを用いて文章だけではなく、画像や動画も作ることができ、フェイク画像がニュースとして流され大きな社会問題になっているからである。

 私が受けたChat GPTの講習では、「夕焼け、ドラマチック」や「スケートをしている猫」といった言葉を入力して、それに近い画像を即座に作成するところを実演して見せていただいた。

 今回のKFF 2024 の応募要領にも次のように記されていて、現代は生成AIによる作品制作について言及せざるを得ない状況にあり、当然ながらそうした作品の投稿は認められていない。
 
 「軽井沢フォトフェスト2024(KFF2024)応募要領
  ご応募前に必ずご一読ください
 ■応募資格:プロ・アマチュア問わず、国籍も問わずどなたでも応募できます。
 ■撮影期間:2023年1月1日~2024年1月31日
 ■募集期間:2023年11月1日~2024年2月11日
 ■応募料:5枚まで無料 6枚目以降は5枚単位で2500円(6枚から10枚までは、1枚で
  も5枚でも2500円の追加費用が必要です。例:11枚の場合は5000円となります。)
  6枚目以降の応募は、1〜5枚目の応募と同じ様に応募をお願い致します。後日追加応
  募分の請求書を発行させていただき、指定の銀行口座への振込をお願い致します。
 ■応募作品の条件:対象撮影期間中に軽井沢町・御代田町・小諸市・東御市・嬬恋村、
  長野原町・佐久市、安中市のエリアにて撮影された作品であること。
  応募者が撮影し、一切の著作権を有しているオリジナル作品であること。

  生成AIにより作成した写真(全部、一部を含む)は応募できません。
  未発表か否かは問いません。個人のホームページやSNSに投稿された作品、写真展
  などに出品された作品も応募可能です。」

 このように、最近では、生成AIが登場したことで、日々こうした情報・状況に接する機会が多く、また写真画像の加工技術にも精通しているプロ写真家諸氏にとって、作品の制作と評価に際しては、どうしても心理的影響を与えていると思えるのであるが、写真作品が実際に撮影されたものか、あるいは何らかの加工が施されたものではないかという疑念は、必ずしも今になって始まったことではないという例もある。
  
 私の身近な人に関する話題で、もうだいぶ前の2015年のことになるが、Y新聞社の報道カメラマンである彼が撮影した満月(スーパームーン)の写真が新聞に掲載された。その写真は、画面に大きくとらえられた満月の中に、カップルが月を見上げながら、スマートフォンで自分たちを撮影している様子がシルエットになり映り込んでいるものである。

 この写真はネット上にも公開されたようで、数日後の日曜日のTV番組「サンデーモーニング」で話題になった。この時コメンテーターとして出演していたプロ写真家AS氏がこの写真を見て、「ダブリングではないんですか?」と発言した。司会の関口氏は「本物らしいですよ」と答えていたのが印象的で、今も記憶に残っている。

 この写真も、先の「アサギマダラと太陽」と同様、「若いカップルと満月」がピッタリと重なり合うように撮影されていて、こうしたシーンに出会うことは容易ではないことから、先のAS氏の発言が生まれたのであろう。

 もうひとつ、「10万分の1の偶然」という松本清張の長編小説がある。

 『週刊文春』1980年3月20日号 - 1981年2月26日号に連載されたもので、夜間、東名高速道路のカーブで、自動車が次々に大破・炎上する玉突き衝突事故が発生。この大事故を偶然撮影したというカメラマンの写真は、新聞社主催の「ニュース写真年間最高賞」を受賞するという筋書きである。

 受賞式では、この決定的瞬間の場面に撮影者が立ち会っていたことは奇蹟的、10万に1つの偶然と評された。

 しかし、この事故発生原因とその現場にカメラマンが偶然居合わせたということに疑問を持つものが現れる・・・という話である。(2021.3.12 公開当ブログ参照)

 最終的には、この事故は撮影者が引き起こしたものであることが判明するのである。写真そのものは実際に撮影されたものであるが、撮影対象になっている事故が、故意に引き起こされたというものである。

 普通にはありえないような状況を写し出した写真に出会うと、これを見た人には、プロの写真家でなくても、本物なのだろうかという疑問がわく。

 ここには2通りの疑問があって、写真そのものが実写されたものかどうかという疑問と、被写体が実在の物あるいは自然なものかどうかということになる。

 松本清張の小説「10万分の1の偶然」では、これが意図的に引き起こされた事故を撮影したという設定であるが、先に紹介した私のフォトコンテスト応募作品と知人の新聞報道の例は、すべて実写であることは間違いない。その経験から、今年選ばれたアサギマダラの写真も、実際の物を撮影したものに違いないとの確信を私は持っている。

 これは、プロであれアマチュアであれ、人は何のために撮影するかということと関係していると思える。

 松本清張の小説「10万分の1の偶然」の場合、このプロカメラマンには、誰にも撮ることができないような決定的瞬間を撮りたいという職業的動機が設定されているので分かりやすい。

 写真は「発見の芸術」だと、学生時代に写真部の顧問教師から教わったことがあり、それ以来私はそのことを胸に刻んで撮影してきている。自分が撮っている写真が、芸術的と思ったことはないのであるが。

 そうした撮影姿勢からは、合成写真や、生成AIを利用した写真という発想は生まれてこない。

 絵画であれば、どのように構図を決め、どのように構成要素を配置するか、どのように色をつけるかは作者の意のままである。しかし、写真はそうはいかない。望む構図があるとすれば、自らが動くか、じっとそのタイミングを待たなければならない。これが、写真が絵画と違っている点だと考えてきた。

 そういう意味で、松本清張が10万分の1という数値に込めた思いは、こうした極めて稀れな状況というものは、実際には偶然によって得られるものではなく、意図しなければ撮影できないということであろう。

 私は今年もKFF2024に浅間山と満月の写真を投稿し、選んでいただいた。この写真の場合についていえば、浅間山の山頂に満月が接する、いわゆるパール浅間の状態を、軽井沢町内(当初KFFでは撮影地を軽井沢町内に限定していたので)で撮影できるチャンスは年に12回程度の満月の日の前後2日くらいで、月の出または月の入りを狙うことになる。そして、日の出、日の入り、月の出、月の入りの暦と方位角情報を国立天文台が発表しているデータから得て、浅間山の山頂と撮影場所の関係を地図上で確認して撮影に臨むことになる。最後は天候に恵まれなければならない。

 アサギマダラの写真についていえば、アサギマダラの大群がフジバカマに集まってくる場所と日時などについての情報を得、周到に用意したうえで太陽の位置と撮影アングルを選ぶことで、一見、極めて稀にしか起きないようにみえる状況を、確実に捉えるための確率を大きく上げて撮影に臨んだ結果だと、選者も納得されたのであろうし、私にもそうした「決定的瞬間」を捉えた素晴らしい作品だと思える。



 

 

 
 

 

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Karuizawa Foto Fest 2024(3)こぼれ話

2024-05-10 00:00:00 | 日記
 さまざまな点で昨年の第1回KFF 2023からの変更があったKFF 2024であったが、中でも応募の方法と、入選作品の発表方法については戸惑うことがあり、いくつか思いがけない出来事が起きた。

 昨年、作品応募時には、先ず長辺を最大2000画素程度にリサイズした写真データを送り、第1次審査で選ばれた作品については、その後、画素数の大きい生データを送るように要請された。

 これは、審査時の利便性と、野外展示用大版のターポリンへの印刷時にも、画面の粗さが目立たないようにするためのものだと理解していた。

 今回も、はじめに応募する時には同じように、長辺の画素数を2000画素にリサイズしたものを送付していた。

 募集締め切りの後、しばらくして2月になると、私の場合応募点数が規定の無料審査対象枚数の5枚を超えて応募していたので、超過分に対する請求書が届いた。

 その後は開催月の4月が近づいてきても、事務局から生データの送付要請連絡がなく、今年は選に入らなかったのだと理解していた。

 同じころ、私の作品が入選することを楽しみにしてくれていた知人から、問い合わせのメールが届いた。彼によると、「たしか3月のある日、軽井沢フォトコンテストで検索し、ホームページを開いたところ、(入選作品の)画像がずらりと見れました。野外展示はしないとあり、あれ?と思いました。」と書かれていて、今年君はどうだったの・・とのことであった。

 このメールを見て、KFFのホームページをチェックしてみたところ、それらしい記事は見当たらず、知人には、「私のところには連絡がないので、何かの間違いではないか、今年私は入選しなかったようです・・」と伝えた。

 それきり、KFFのことは頭から消えてしまい、ガラスショップのオープンが迫っているので、慌ただしく日々を送るようになった。冬の間は、ガラス器類をショウケースから出して、梱包して箱に詰め、地震対策としていたからであった。

 4月1日には冬籠りから開けて、ショップをオープンした。4月中旬のある日、ショップに3人の外国人女性客が訪れた。中の一人の年配の女性客はガラス器やガラス製のペーパーウエイトを熱心に見ていたので、話しかけるとペーパーウエイトのコレクターだという。残念ながら気にいっていただいたその作品は非売品で、ディスプレイ用として置いてあるものであったので、その旨伝えて、諦めていただいた。

 帰りかけたその外国人客を出口まで見送っていき、傍らにあった写真絵葉書のスタンドを見せて、これは昨年開催されたKFF 2023での、自身の入選作品で作ったもので、希望者にプレゼントしているものだと説明した。

 昨年は、KFF開催を側面から支援しようと思い、あらかじめ入選作品についての連絡があったので、写真絵葉書を作り、KFF 2023の会期中ショップに来ていただいた方々に無料で配布していた。

 その残りがあったので、今年も4月1日からまた店頭に置いて、希望者に差し上げていたのであった。

 外国人客に、お好きなものをどうぞお持ちくださいというと、このときはもう2人になっていたが、スタンドからそれぞれ1点ずつ写真絵葉書を選んでいただけた。

 そして、中の若い方の外国人客が、私たちはそのKFFの関係で軽井沢に来ているのだという。さらに、2人から今選んだ写真絵葉書にサインをしてほしいと頼まれた。これまで、多くの方々にこの写真絵葉書をプレゼントしてきたが、サインをしてほしいと言われたのは今回が初めてのことであった。

 デスクに戻って漢字でサインをしながら、アッと気がついた。年配の女性の顔に見覚えがあったからである。この女性は、昨年のKFF2023で配布されていたパンフレットに写真が載っていた女性プロ写真家その人に間違いないと思えた。

 この時お名前は失念していたが、聞くと間違いないという。そして、若い方の女性客のすすめに従って、その女性写真家氏と私のツーショット写真を、彼女のライカと続いて手元にあった私のスマホで撮影していただいた。

 この2人がショップを立ち去る時に、昨年はこのように複数点が入選したが今年は1枚も採用されなかったので、がっかりしていると話すと、彼女は、諦めないで写真を撮り続けるようにと励ましてくれた。

 2人を見送ってから、年配の女性写真家氏の名前を調べておこうと思い、ショップのパソコンで、当ブログ記事「Karuizawa Foto Fest 2024(1)」(2023.9.22 公開)を探して、この時使用していた2023KFFイベント情報を見つけ、彼女の名前が、ジェーン・エブリン・アトウッドさんであることを確認した。

 昨年、各家庭に配布されたKFF 2023の開催案内で紹介され、私の記憶に残っていたアトウッドさんの写真は次のようであった。


KFF 2023の開催案内に紹介されていたジェーン・エブリン・アトウッドさん

 また、KFFのHPなどで紹介されている彼女のプロフィールは次のようである。

 「プロフィール:写真家 1947年ニューヨーク生まれ。『盲目の子どもたち』というテーマで、1980年に第1回W・ユージン・スミス賞を受賞。以降、ライカ社のオスカー・バルナック賞、アルフレッド・アイゼンスタット賞など権威ある賞を受賞。また報道カメラマンとして、1995年に阪神淡路大震災、2001年アメリカ同時多発テロの取材も行っている。世界各地で展覧会を行い、2022年にはシャネル・ネクサス・ホール(東京・銀座)にて日本初個展となる『Soul』を開催した。1971年からフランスに在住、現在もパリを拠点に、精力的に活動している。」

 私は、プロの写真家さんに、自分の撮影した写真絵葉書にサインをして差し上げたことになる。
 
 さらに、何となく気になって、パソコンメールを開くと、そこにKFF事務局からの次のような連絡が届いていた。


4月15日に届いたKFF事務局からのメール

 ここに記されていた「作家リスト Artist List」を開くと、私の名前もそこに並んでいた。諦めていただけに、驚き喜ぶことになった。ただ、入選作品についての情報はこの時はまだ公開されていなかった。

 さらに、このメールに添付されている昨年のKFF2023のだまし絵風のターポリン写真は、私の「浅間山と満月」の写真が写っているものであった。この写真は、先ほどジェーン・エブリン・アトウッドさんが選んだ写真絵葉書のもので、そこに私がサインしたものであった。

 サインをしてお返しする時、この写真絵葉書を見て、彼女は「実写作品ですか?」と質問をし、私は「もちろん実際に撮影したものです、私の背後からは朝日が昇ってきているところでした」と答えたのであった。

 アトウッドさんともう一人の女性客に選んでいただいた絵はがきは、次のようである。

ジェーン・エブリン・アトウッドさんが選んだ写真絵葉書


同行の若い女性が選んだ写真絵葉書
 
 帰宅後、そのことを妻に話すと、「あなたはその女性写真家さんのサインをもらわなかったの?」と聞かれたが、あの時は全く思いつかず、後になってとても残念なことをしたと、ちょっと悔しい思いがしたのでした。

 そして、4月27日に迎えたKFF 2024の開会式。そこで初めて入選作品が、入選作品集を通じて公表された。私の作品は3点選ばれていて、すべて追分公園に展示されていることがわかった。その内の1枚は、再び浅間山と満月を撮影したものであった。だが、今度は浅間山山頂に満月がくるように配していた。昨年の撮影から約1年、撮影時期と撮影場所とを計算して撮影に臨んだもので、浅間山が冠雪していないのは残念であったが、構図はほぼ予定したものであって、先週の当ブログで掲載させていただいた。

 ところで、私の知人が3月頃に見た入選作品とは何だったのだろうかという疑問はまだ残ったままであった。

 KFF 2024の開会式翌日、各家庭に軽井沢観光協会発行の広報誌「GREEN BREEZE」第55号が届けられ、その表紙には早々と「軽井沢フォトフェスト 2024」グランプリ(日高 慎一郎氏 撮影)が紹介されていた。


軽井沢観光協会の広報誌「GREEN BREEZE」第55号の表紙

 そして、裏表紙を見るとそこには「写真でつながる2023軽井沢フォトコンテスト結果発表!」とした記事が掲載されていた。

 
軽井沢観光協会の広報誌「GREEN BREEZE」第55号の裏表紙

 私は、この軽井沢フォトコンテストのことは知らないでいたのだが、ほとんど同じ時期に軽井沢観光協会では2つの写真コンテストを進めていた。

 そして、記事を見ていくと、グランプリ他5つの賞の受賞作品名が発表されていて、これらの受賞作品はHP、instagram で公開中とある。

 これで、謎が解けた気がした。私の知人が見ていたという軽井沢フォトコンテストの写真はこちらの結果発表であったのだ。
 
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年縞博物館と炭素年代測定

2024-04-26 00:00:00 | 日記
 北陸新幹線が敦賀まで延伸されたのを機会に、この新幹線を利用して福井県三方五湖のひとつ三方湖のほとりに建つ福井県年縞博物館を訪れた。

 関西に住んでいたころ、敦賀は比較的近いところだと思っていたが、関東からは遠い感じがして、三方五湖のひとつ、水月湖から採掘された年縞のことは以前から知っていたが、これまで現地に行く機会はなかった。

 この年縞の実物を展示する博物館は2018年9月に開館していて、今回、2024年3月の北陸新幹線の福井・敦賀延伸を受けて、福井県では年縞博物館を主要な観光地施設のひとつとして売り出そうとしている。

福井県年縞博物館の正面(2024.4.17 撮影)


現代から7万年前までの年縞ステンドグラスのスタート(2024.4.17 撮影)

100本に分割された実物の年縞の展示(2024.4.17 撮影)

年縞(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 1/3(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 2/3(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 3/3(2024.4.17 撮影)

 年縞とは何か、年縞博物館は何を展示しているかについて、一般にはあまり知られていないと思う。この水月湖で発見された年縞がいかに貴重なものであるかについて紹介するためには、先ず「炭素年代測定」について確認しておく必要がある。

 炭素年代測定という語は、遺跡などから発掘された木片など有機物からなる遺物がいつ頃のものであるかを知る方法として、小学校か中学校の頃に学んだ覚えがある。

 この方法は、大気中に存在する炭素には、一定割合(およそ1兆分の1)で、ごくわずかに放射性の炭素(炭素14)が含まれていて、これが生物が生きている時に、通常の炭素(炭素12)と共に、二酸化炭素の形でとりこまれていることを利用する。

 生物が死亡して活動を停止すると、そこで、外界から二酸化炭素を新たにとりこむ働きも停止し、すでに取り込まれていた放射性の炭素14が一定のスピード(半減期5730年)で、自然に崩壊して窒素に変化していくために、放射性炭素の減り具合を測定すると、その生物が死んでからの経過年数が測定できるというものである。

 小中学校の頃は、こうした説明で納得していたが、もう少しして高校や大学で物理を学ぶと、新たな疑問が湧いてくる。

 測定により、遺物中の炭素14と炭素12の比率を求めることができれば、現在の大気中に含まれる二酸化炭素における比率と比較することで、炭素14の減少量を知ることはできる。しかし、生物が死んだ時代に遡って、その時代における炭素14と炭素12の比率を知らなければ、減少量は正確に求めることができないはずである。この、過去の炭素14の割合は現在と同じとしてよいのだろうか、そもそも大気中の炭素14もまた、同じように崩壊して窒素に変化しているはずであるから、一定量に保たれる何らかのメカニズムが保証されなければならないという疑問である。

 この炭素年代測定法は、1947年、シカゴ大学化学教室の教授、ウィラード・リビーによって開発され、1960年にはその功績により、リビー博士はノーベル化学賞を受賞した。

 炭素年代測定法が有効であるためには、現在と過去の炭素12と炭素14の比率を確認しておかなければならない。

 リビー博士とその共同研究者たちは、樹齢約3000年のセコイアや、古文書等で年代が判明しているエジプトの歴史的遺物の炭素14の測定を行い、私たちが使用している暦の年代(「暦年代」)と「放射性炭素年代」の関係を示すグラフを作成し、両者が誤差の範囲内で一致していることを示し、これにより、有効性を証明した。すなわち、過去における大気中の炭素14の割合は、現在のものと測定誤差範囲内で同じと見なしても良いと考えたということになる。


リビー博士の示した「暦年代」(横軸:年)と「放射性炭素含有量」(縦軸: 現生物との比率)を示すグラフ(年縞博物館、解説書より引用)

 しかし、炭素年代測定の話はこれでは終わらない。リビー博士がノーベル賞を受賞した当時から、放射性炭素年代が暦年代と完全には一致しない可能性が論じられていた。放射性炭素年代測定法が正確であるためには、大気中の二酸化炭素に含まれる放射性炭素(炭素14)の濃度が時代によらず一定である必要がある。

 だが、その後、真の年代が明らかな資料の測定・研究が進むと、分析の誤差を考慮してもなお説明しきれない年代不一致が、次々と科学誌で報告されるようになった。すなわち、前提としていた大気中の二酸化炭素に含まれる炭素14の濃度が一定でないことが明らかになってきたのである。

 炭素14の濃度のゆらぎがどれくらいあるのかを調べないと、正確な炭素年代測定値は得られない。そこで、暦年代が明らかな資料の炭素14の残存量を測定し、そこから逆に過去における大気中の炭素14の量を求める必要がでてきた。言い換えれば、炭素年代測定が含む誤差を補正するための較正グラフの作成である。

 これに使われたのが、水月湖の湖底に堆積していた泥の層「年縞」ということになる。では、その年縞とはいったいどういうものか。これが本当に炭素年代測定の較正に使えるものかどうか見ていこうと思う。

 水月湖の湖底は水深34mの深さにある。この湖底から更に45mの深さにまである「泥」の層が年縞と呼ばれるもので、1年ごとの色変化を伴う細かい縞模様を持っている。年縞博物館の解説書には、作家であり年縞博物館の特別館長でもある山根一眞氏による次の図が掲載されていて分かりやすい。


水月湖の断面と年縞のボーリングの様子を示す図(年縞博物館の解説書より引用 作図:山根一眞氏)

 通常、湖の湖底に堆積している泥の層は、そこに棲息している生物によりかき乱されて、この図のような層状構造は持たない。ところが、水月湖の場合いくつかの要素が重なり、世界でも唯一とされる7万年=7万枚以上の連続した層が形成され、保存されていることが判った。

 水月湖にきれいな年縞が形成された第1の理由は、水月湖は隣の三方湖と水路でつながっているだけで直接そそぐ川がないので、湖底がかき乱されず年縞が残る条件になっていたということ。

 次に、水月湖は周囲を山に囲まれていて、風が入りにくく、湖底が深いために、底まで水が混ざらず淀んだ水で硫化水素濃度が高く、酸素が行き渡らないために、魚やゴカイ、貝などが生息していないために底がかき乱されることがなかったということ。

 さらに、水月湖の東には三方断層があり、水月湖のある地盤は年平均で1mm沈んでいるため、湖底に堆積物が年平均で0.7mmたまっていっても、水深が浅くなることがなかったことも挙げられる。

 水月湖の湖底に堆積している泥の層=年縞は、2006年に6週間かけて、ボーリングにより完全な形で掘削された。
  
 こうして、最上層の現在から、1枚1枚数えていくことで、どの層が何年前に形成されたものであるかは、正確に特定できる。あとは、それぞれの層に含まれる落ち葉や花粉の化石から炭素14の残存量比率を正確に測定すればよいことになる。こうした結果は、2012年に国際会議で正式に認められ、他の方法で確認されたものと合わせて、「年代の標準ものさし」である「IntCal13」に反映され、放射性炭素年代測定法が適用できる過去5万年をすべてカバーした。

最終氷期の放射性炭素年代の較正データIntCal13 を紹介するパネル(2024.4.17 撮影)

 現在、炭素年代測定と暦年代とのずれを示す最新の較正曲線は「Intcal20」であり、次のようである。


IntCal20の北半球曲線。2020年時点で最新の標準較正曲線(ウィキペディア2023年11月22日より )

 この較正曲線により、例えば炭素年代測定で3万年前とでた資料については、図の縦軸の30000年から水平線を引き、較正曲線との交点から下に線を引いて、横軸の歴年の数値を読むと、34500年と正しい数値が得られることを意味している。

 以上が、炭素年代測定に対して、水月湖の年縞が果たした役割である。

 ところで、水月湖の湖底から採掘した泥の層「年縞」は、歴史的な遺物の年代確定に利用されるだけでなく、地球で起きた様々な変化の痕跡をその中に秘めていることが明らかにされている。

 その一つは、気候変動で、年縞中に保存されている花粉化石から、水月湖の周辺に生育していた樹種を特定することで、この地方の平均気温を推定できるという。解説書から引用すると、次のようである。

 「・・・例えば最近の1万年ほどの年縞は、現在の水月湖の周辺に見られるような、シイやカシ、スギなどの花粉を含んでいる。いっぽう2万~2万5000年前の年縞からは、今の北海道に生えているような、シラカバやモミなどの花粉が見つかる。これらの植物の現代における分布と、気象観測データを組み合わせると、当時の気温を具体的に推定することもできる。実際に計算をおこなってみると、当時の水月湖の平均気温は現在より10℃以上も低かったことがわかった。」

 「このような方法をいろいろな時代の堆積物にあてはめると、過去におこった気候変動を連続的に復元することができる。水月湖の堆積物を使って実際に復元をおこなうと、次の図のようになった。・・・」

水月湖の年縞に刻まれた、過去15万年間の気候変動を示す図(解説書から引用)

 我々が気候変化を実感するのは、四季を通じてであるが、これは太陽の周りを地球が公転していて、その公転面に対して地球の自転軸が23.4度傾いているからである。

 一方、もっと長い宇宙スケールで見ると、地球の公転軌道は約10万年の周期で、真円に近い軌道と楕円軌道との間を行き来している。また、自転軸は2万3000年の周期で首振り運動(歳差運動)をしている。

 その結果、地球が太陽に最接近した時に夏を迎える時代がおよそ10万年ごとに訪れることになる。この時代が温暖期であり、現代であるとされる。

 前掲の図には、この10万年周期での大きな変化と、2万3000年周期での小さな変化とがよく示されている。

 こうした宇宙スケールでの気候変動について理論的な考察を行ったのが、南欧セルビアの数学者ミルーティン・ミランコビッチ(1879-1958)だった。彼は1939年に完成した自らの理論を600ページを超える大著として1941年に出版した。

 年縞博物館には世界に8冊しか残されていないとされていたこの著書の9冊目が展示されている。年縞研究と年縞博物館の建設に中心的な役割を果たした中川毅・立命館大学古気候学研究センター・センター長がこの本をベオグラードの古本屋で見つけたものだという。

ミルーティン・ミランコビッチ著の「地表における太陽放射のリズムと氷河期問題への応用(1941年)」の展示(2024.4.17 撮影)


同 解説パネル(2024.4.17 撮影)

 もう一つの年縞からのデータは地磁気に関するものである。地球の北は自転軸の指し示す方向「北極」であるが、磁石の指し示す方向はこの方向とは完全に一致しておらず、「北磁極」と呼ばれる。

 現代はこの両「北」が近い位置にあるが、これが当たり前ということではなくて、過去には「北磁極」が「南極」の方向を向いていたことがあり、これまでに少なくとも11回の地磁気逆転が起きているとされる。

 こうした地磁気の変化は主に火山岩を用いた岩石磁気測定で求められてきた(2020.9.18 公開当ブログ)が、水月湖の年縞に含まれる堆積物の中には磁性を帯びた天然磁石である磁鉄鉱があり、これが過去の地磁気方向に向いたまま固着されているはずだとの考えに基づいて、測定が行われた。

 その結果、これまでも知られていた地磁気の変化(ランシャンエクスカーション)については、より詳細な変化が、またこれとは別の新しい変化(ポストランシャンエクスカーション)が発見されている。

 長時間の見学を終えて、階下に降りてきたところで学芸員がいらしたので、いくつか質問をした後で、「ところでミランコビッチさんの名著はどこにあるのですか」と聞くと、2階の展示室の最後のほうにありますよとのこと。

 迂闊にも見過ごしていたのであった。再び2階に戻り見学の後撮影したのが、先に紹介した写真である。思いのほか大判の本であった。

 1階に下りてくると、妻が、いいお土産があったので買った!と見せてくれたのは年縞模様のネクタイであった。現役のサラリーマン時代の後半は、当時の社長の考えもあり、皆ノーネクタイで過ごした。また、定年後はネクタイをする場面がなく、もうずいぶん長い間ネクタイを買うこともなかったので、少し驚いたが、なかなかいい記念になった。

 妻は、ネクタイを買った後、そのデザインの基になったという5万年前の年縞の模様を写真に撮ったのだと後で見せてくれた。

お土産の年縞ネクタイ

ネクタイのデザインの元になった5万年前の年縞(2024.4.17 妻撮影)

 ところで、まだ書いていない大切なことがある。それは、この年縞博物館の目玉ともいえる実物の「年縞」のことで、博物館が「年縞のステンドグラス」と呼んでいるものである。

 どのようにして、ボーリング採取した泥のサンプルからこうした「美しい」とも思える展示品を作成したのか、来る前から関心を持っていた。

 これについて中川 毅氏は解説書の中で次のように述べている。

 「年縞の博物館を作るからには、年縞を最高の状態で展示したかった。なにしろ、年縞に特化した博物館など世界のどこにも存在しない。・・・
 もし年縞博物館の何かが『そのために足を運ぶ』ほどの魅力を持つとすれば、それは数式でもグラフでも写真でもなく、本物の年縞以外にありえない。・・・」

 スミソニアン博物館も成しえなかった、この本物の年縞を展示可能にしたのは、ドイツのポツダム地球科学研究センターの技術者ミヒャエル・ケーラー氏であったという。

 その詳細をここで書くことは控えたいと思う。ぜひ現地の展示でその内容を確認していただきたいと思うからである。

 「年縞のステンドグラス」はその名の通り、背後からの照明を受けて透過してくる光の縞模様がとても美しい。光が透過するまで年縞は薄く加工され、2枚のガラス板の間にサンドイッチされているからであった。

 中川 毅氏の狙いは的中したようである。博物館の入り口には、次の写真に示すパネルが誇らしげに置かれていた。 

福井県年縞博物館の入り口で見た来館者25万人達成のパネル(2024.4.17 撮影)


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