軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ウスタビガ(2)2~4齢幼虫の脱皮

2018-11-30 00:00:00 | 
 前回に続き、ウスタビガの幼虫の脱皮の様子を紹介させていただく。2016年に、ウスタビガの幼虫の飼育を始めた時は、これが初めての経験であり、餌の葉に何を選ぶかという問題があった。以前、庭の桜の木でウスタビガが自然に育っているのを目撃していたので、食樹にはサクラの木がいいと判断し、孵化直後には別荘地に生えているサクラの葉を採り与えたが、約20個ほどの卵から次々と幼虫が孵化してくるので、鉢植えのサクラを探すことになった。

 小諸方面に出かけた折に、園芸店を覗いて見ると、花が終わった「ヨシノザクラ」というラベルがついた鉢植えが2鉢売られていたので、これを買い求めた。高さは鉢底から1mたらずの物であったが、若葉がたくさんついているもので、当面の幼虫の飼育には十分な量であった。

 山で採ったサクラの葉にはやや関心が低いように見えた幼虫だが、この鉢植えのヨシノザクラの葉はよく食べて、20匹ほどが順調に育っていった。

 前回、紹介したように孵化直後の幼虫の色は上から見るとまっ黒で、横から見ると、腹の方には黄色い筋の走っているのが見える。約1週間ほどすると、脱皮して2齢になるものが出始めたのだが、2齢幼虫は背中に黄緑色の筋があり、脱皮前後では明確な差があるので、脱皮したかどうかが判りやすい。ただ、1齢幼虫が脱皮するタイミングがうまくつかめないので、その瞬間を撮影することは意外に難しい作業であった。

 この少し後には、別途紹介したようにヤママユの飼育が始まった。こちらは200匹ほどが2回に分かれて孵化していったので、早いものが脱皮を始めるのを見て、撮影の準備をすれば、そのうちどれかが脱皮を始めてくれるので、タイミングも予測しやすく、撮影もできるようになっていったが、ウスタビガの場合はまだ経験もなく、じっと観察することから始まった。

 幼虫は脱皮の時期になると、餌の葉を食べるのをやめて、葉の上で動かなくなる「眠(ミン)」の状態に入るとされる。そしてやがて脱皮が始まるという具合である。しかし、この「眠」状態に入ったかどうかを見極めるのは思ったよりむつかしく、動かなくなった幼虫を見つけて、撮影を始めるのだが、しばらくすると、実はまだ「眠」状態ではなかったようで、移動してどこかに行ってしまうこともたびたびであった。

 次の静止写真は約6時間にわたり、葉上でじっとしているように見える2匹の2齢幼虫を、30倍のタイムラプス撮影したものからのキャプチャー画像である。どちらも静止し、「眠」状態に入ったように見える2匹の2齢幼虫だったが、よく見ると、左側の幼虫は大きな動きはないが、時々葉を食べている。一方、右側の幼虫の方は餌を採ることなく、葉上でじっとしていて、本当の眠状態であることがわかる。
 

葉上で静止する2齢幼虫 1/4(2016.5.13 05:35 撮影動画からのキャプチャー画像)


葉上で静止する2齢幼虫 2/4(2016.5.13 07:35 撮影動画からのキャプチャー画像)


葉上で静止する2齢幼虫 3/4(2016.5.13 09:35 撮影動画からのキャプチャー画像)


葉上で静止する2齢幼虫 4/4(2016.5.13 11:35 撮影動画からのキャプチャー画像)

 実際、左の2齢幼虫はその後移動していったが、右の2齢幼虫はこの場所で脱皮を始めた。その様子は次のようである。


葉上でじっとしているウスタビガの2齢幼虫(2016.5.13 10:40~11:20 30倍タイムラプス撮影)


脱皮する2齢幼虫(2016.5.13 12:18~13:33 30倍タイムラプス撮影)

 3齢幼虫になると、2齢幼虫で見られた美しいツートンカラーは消えてなくなり、全体に黄緑色になった。1齢から2齢、3齢と脱皮を繰り返し、成長するにしたがって、次第に身体の黒い部分が減っていって、3齢では、僅かに尾脚の両脇に黒い斑点が見えるだけになっていった。この尾脚の両脇に見られる黒い斑点は、脱皮直後には薄い色でほとんどわからないが、次第に黒くなり、1~2時間後にははっきりとしたものになっていく。

 3齢に脱皮した幼虫は、脱皮後しばらくすると、抜け殻を食べてしまった。2齢幼虫ではどうであったか、撮影した映像を探してみたが抜け殻を食べるシーンは残っていなかった。これは、次の機会に確認してみようと思う。


脱皮後抜け殻を食べるウスタビガの3齢幼虫(2016.5.13 14:19~14:49 30倍タイムラプス撮影)

 3齢になると、大きくなるスピードも増していく。3齢になってから2週間前後で4齢へと脱皮するが、この4齢になると体は黄緑色一色になり、3齢では僅かに尾脚に残っていた黒い斑点は消えてしまう。ポツポツと生えている毛も薄くなっていくようである。この4齢幼虫も脱皮後、抜け殻を食べた。


3齢幼虫の脱皮(2016.5.25 10:14~11:38 30倍タイムラプス撮影)

 4齢幼虫はさらに大きくたくましくなり、2週間ほど経過すると、終齢の5齢への脱皮が始まる。


4齢幼虫の脱皮(2016.6.4 9:14~9:52 30倍タイムラプスと実時間撮影とを編集)

 終齢幼虫も、脱皮後抜け殻を食べてしまう。

 脱皮後の、5齢幼虫の顔を見ると、口の両脇のキバが大きくなっていて、恐ろしげである。4齢と5齢とは全体にはよく似ていて、背部と腹部の色も同じようであるが、このキバの大きさや、体毛の有無の点で異なっているようである。5齢幼虫になると、ほとんど毛が見られなくなる。

 次の静止画で比べると、脱皮前後のキバの大きさの違いや、体毛の違いを見ることができる。


脱皮前の4齢幼虫(2016.6.6 撮影動画からのキャプチャー画像)


脱皮直後の終齢幼虫(2016.6.6 撮影動画からのキャプチャー画像)


脱皮した抜け殻を食べる終齢幼虫(2016.6.6 撮影動画からのキャプチャー画像)


完食(2016.6.6 撮影動画からのキャプチャー画像)

 脱皮時に落下した、頭部の抜け殻を見ると、これからも4齢のキバの小さいことがわかる。

 
落下した4齢幼虫の頭部の抜け殻(2016.6.4 撮影)


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ウスタビガ(1)孵化~1齢幼虫の脱皮

2018-11-23 00:00:00 | 
 今回紹介するのはウスタビガ。漢字では、「薄手火蛾」あるいは「薄足袋蛾」と書くとされる。チョウ目ヤママユガ科に分類されるガの仲間で、これらの中ではやや小型である。

 ヤママユガ科の蛾の仲間は日本に9種類(*)生息していて、いずれも繭を作りその中で蛹になる。そのうち、以前紹介したように、ヤママユは天蚕として飼育され、繭からは美しく高級な糸が採られて利用されている。ウスタビガの繭もヤママユと類似の色と形状をしているが、糸として利用されたという話は聞かない。

 また、繭の形状は、ヤママユや蚕のように繭全体を閉じてしまうのではなく、以前のこのブログの「ヤマカマス(2016.10.21 公開)」で紹介した通り、羽化後の成虫の出口をあらかじめ持つユニークな構造になっている。

 このウスタビガの成長過程を追い、孵化、幼虫の脱皮、繭作り、そして羽化までの様子を撮影したので、これらを数回に分けて紹介させていただく。(*:ヨナグニサン、シンジュサン、オオミズアオ、オナガミズアオ、ヤママユ、ヒメヤママユ、クスサン、ウスタビガ、エゾヨツメの9種)。


ウスタビガの繭と羽化直後の成虫♀(2016.10.4 撮影)

 ウスタビガに最初に出会ったのは、まだ鎌倉在住の2014年のことで、春にギフチョウの観察に津久井湖方面に出かけた時、林の中で「ヤマカマス」すなわちウスタビガの繭を見つけたことに始まる。

 この繭は、その前年の秋に成虫が羽化していった、もぬけの殻であるが、その表面には数個の卵が産みつけられていた。ウスタビガの♀が羽化すると、まもなくこの♀の出すフェロモンに誘われて♂が飛んできて、繭にぶら下がったまま交尾する。その後♀は、繭の表面に数個の卵を産んで、さらに周辺の木の枝などにも産卵するのであろう、そして初めのうちは卵のいっぱい詰まったおなかが重く、自由に飛べないようであるが、産卵して少し軽くなってからは、繭のある場所から飛び立っていき、別な場所にも産卵するようである。

 これは、今年経験したことであるが、10月下旬に南軽井沢の山荘で誘蛾灯を点けて、蛾を集めたことがあった。目的は、ヒメヤママユを採集することであったが、その時ヒメヤママユに混じって、ウスタビガの♀が数頭集まってきた。この♀のウスタビガを捕えて、網かごに入れておいたところ、網目に30-40個ほどの卵を産みつけていた。1頭のウスタビガがどれくらいの数の卵を産むのか、詳しくは知らないが、上記のように繭の表面に数個の卵を産んでからも、あちらこちらに移動しながら産卵していることがうかがえた。

 さて、津久井湖畔で採集したウスタビガの繭である。持ち帰り、庭の桜の木にぶら下げたまま、すっかり忘れてしまっていたが、夏のある日、桜の枝に見慣れない緑色の大型幼虫がいることに気がついた。

 これがあのヤマカマスの表面についていた卵から孵化、成長したものであることが判るまでに少し時間がかかったが、まちがいなくウスタビガの終齢に近い幼虫であった。この幼虫は、残念なことに繭を作ることなく、途中で枝から落下して、サクラの木の根元で死んでいるのをしばらくして見つけた。他の昆虫に襲われたのか、あるいは病気になったのかもしれなかった。

 2回目の出会いは、その翌年のこと。2015年春に軽井沢に移住したが、その夏、散歩中にウスタビガの終齢幼虫を偶然妻が見つけ、これを持ち帰ったところ、すぐに繭を作り、秋には無事成虫(♀)になり、20個ほどの卵を得ることができた。この時のことは、前記のとおり本ブログの「ヤマカマス」で紹介したとおりである。

 今回紹介するのは、2016年春に、この20個ほどの卵から孵(かえ)った幼虫を育てた時の記録である。羽化の様子は、一部「ヤマカマス」で写真を用いて紹介しているが、今回はその時撮影した動画を中心に見ていただく。

 ウスタビガの卵は、成虫と共にネットに入れてあった小枝の葉に産みつけられていた。冬の間、自然状態に近い方がいいと思い、ネットに入れたまま庭先にぶら下げてあった。翌年の春、そろそろ孵化が始まる頃と思い、時々覗いていたが、5月1日の朝、孵化が始まっていた。急ぎ室内に取り込んで撮影したが、準備不足でこのときはまともな撮影ができなかった。


木の葉に産み付けられていたウスタビガの卵塊(2016.5.1 撮影)
 

卵の殻を齧って穴を明けて顔をのぞかせるウスタビガの幼虫2016.5.1 撮影)


卵の殻を齧って明けた穴から出てくるウスタビガの幼虫2016.5.1 撮影)

 卵の大きさは、長径で2mm程度。幼虫は中から卵の殻を齧って穴を明け、そこから這い出して来るが、枯葉上を移動するようになると幼虫の大きさは3-4mmほどの長さになっていて、よくこれが卵に入っていたものと思わせる大きさである。孵化直後には、体に薄黄色の斑点が見られたが、時間と共に消えていき、移動し始めるころになると、体全体が黒く見えるようになっていた。

 卵殻が枯葉から剥がれてしまうと、幼虫はしばらくは殻を後ろにぶら下げたままのユーモラスな姿での散歩になる。これもやがて抜け落ちてしまうが。


孵化直後、枯葉の上を移動するウスタビガの1齢幼虫(2016.5.1 撮影)

 孵化した1齢幼虫は、用意した鉢植えのヨシノザクラに移した。これは、運よく1m程度の高さの、花の終わった鉢植えを2鉢入手できたことと、以前鎌倉で庭の枝垂れ桜でこのウスタビガが育っていた経験によった。幼虫はサクラの葉を元気に食べ始めた。上から見ているとまっ黒に見える1齢幼虫だが、横から見ると体の脚側は黄色い色をしているのがわかる。

 このヨシノザクラという種の桜は、佐久方面の園芸店で買い求めたものだが、聞いてみるとソメイヨシノと同じだとの説明であった。この時点では、桜の種類については、深く考えていなかったが、後日痛い目に合うことになるとはまだ予想もできなかった。


食樹の桜の葉上を移動するウスタビガの1齢幼虫(2016.5.4 撮影)


サクラの葉を食べる1齢幼虫(2016.5.7 撮影)

 ヨシノザクラの葉を食べて幼虫はどんどん大きくなっていった。そして体長が10㎜ほどになった、5月9日には最初の1匹が脱皮して2齢になった。


2齢への脱皮 1/2・タイムラプス(2016.5.9 11:59~12:59、30倍タイムラプスで撮影)

 次に、実時間撮影の様子をご覧いただく。脱皮に要する時間は約10分である。タイムラプス撮影では脱皮に先立ち波うつようなリズミカルな胴体の動きが見られるのだが、実時間で見ているとこれは感じられない。
 脱皮開始から完了までの約10分間を、編集して3分ほどになるよう、部分的にカットした。


2齢への脱皮 2/2・リアルタイム(2016.5.11 11:40~11:50、 撮影後編集)

 1齢幼虫は上から見るとまっ黒であったが、2齢幼虫はツートンカラーになり、脱皮前後の違いは明瞭である。また、脱皮直後には淡い黄緑色をしている頭部や体の一部は、時間と共にまっ黒に変化し、よりコントラストの高いツートンカラーになっていく。2齢幼虫の姿は、一見、イラガの幼虫に似ていて恐ろし気で、毒針を持っているのではないかと思えるのだが、実際は無毒で、手で触れてもまったく問題はない。


脱皮直後のウスタビガ2齢幼虫(2016.5.9 12:20 撮影動画からのキャプチャー画像)


脱皮約10時間後のウスタビガ2齢幼虫(2016.5.9 22:45 撮影動画からのキャプチャー画像)

 次の写真は、孵化した時期がやや異なる1齢と2齢幼虫である。1齢は10㎜ほど、2齢は20㎜ほどに成長している。
 

ウスタビガの1齢幼虫【右】と2齢幼虫【左】(2016.5.11 撮影動画からのキャプチャー画像)

(追記:2019.5.24)
 2齢幼虫が、脱皮後抜け殻を食べるかどうかわからないと書いていた(2018.11.30公開の記事)が、2019年にまた幼虫を育てる機会ができ、観察撮影をしていたところ次のように、抜け殻を食べる様子が撮影できたので、その映像を追加しておく。詳細は後日改めてまとめて書こうと思っている。


ウスタビガ1齢幼虫→2齢への脱皮と2齢幼虫が抜け殻を食べる様子(2019.5.10 30倍タイムラプスで撮影)



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マリー・アントワネットと浅間山

2018-11-16 00:00:00 | 浅間山
 以前、道の駅「雷電くるみの里」の記事を書いた際に、名横綱・雷電為衛門は、浅間山の1783年(天明3年)の噴火がなかったならば、誕生しなかったかもしれないという話を紹介した(2018.3.9 公開の当ブログ)。

 浅間山の噴火については、もう一つの歴史的な「たら・れば」の話がある。それはマリー・アントワネットにまつわる話で、浅間山の噴火が、フランス革命の遠因になったのではないかという話である。そして、マリー・アントワネットの運命にも。

 今年に入ってからも、さまざまな自然災害に見舞われた日本と世界。

 ハワイでは、5月3日にもともと火山活動が活発で、観光地でもあったキラウエア火山だが、いままで噴火活動が見られていなかった場所に、突然亀裂が生じ、そこから溶岩が噴出するという事態に現地は騒然としている。

 付近の住人1万人に対して避難勧告がなされており、一部観光スポットも閉鎖されたという。溶岩流は住宅街にまで達し、その後しばらく小康状態が続いていたが、現地時間17日午前4時過ぎ(日本時間17日午後11時過ぎ)に大規模な爆発的噴火が観測された。

 この噴火に伴い、噴煙が3万フィート(9km)もの高さまで噴出したとされる。現在はようやく落ち着きを取り戻したようだ。

 アメリカ、カリフォルニア州ではもう年中行事のごとく森林火災が発生し、多くの高級別荘が消失している。また、水の都ベネチアでは、高潮により町全体が水没して、折から開催されていたマラソンでは、選手が水に浸かった町なかを走るという、前代未聞の事態も起きている。

 純粋な自然災害と、その背後には人為的なものが含まれている災害との両方があるとはいうものの、こうした非常事態というべき状況に対し、我々はもう慣れっこになったのか、諦めたのか、その一つの原因とされている地球温暖化問題への関心は、いまひとつ盛り上がりを感じないのは私だけだろうか。

 さて、軽井沢のシンボルでもある日本の代表的火山浅間山、気象庁は、平成30年8月30日、11時00分、噴火警戒レベルを「2」から「1」に引き下げた。ただし、噴火警戒レベルが「1(活火山であることに留意)」及び「2(火口周辺規制)」のとき、軽井沢町側では、小浅間山と石尊山への登山道のみ立ち入りを認めていて、それ以外の部分については、立入禁止にすることになっているので、今回立ち入り区域に関する変更はない。

 この浅間山の大規模噴火の噴火間隔は700 - 800年と考えられている。大きな噴火としては4世紀、1108年、1783年のものが知られ、いずれも溶岩流、火砕流の噴出を伴っている。1108年の噴火は1783年の噴火の2倍程度の規模で山頂に小規模なカルデラ状地形を形成した。現在は比較的平穏な活動をしているが、活動が衰えてきたという兆候は認められず、監視活動は続けられている。


最近の浅間山(2018.10.30 撮影)

 この浅間山の1108年と1783年の2回の噴火による災害について、さらに詳しく見ると、1783年の被害は極めて大きいものであった。1108年の被害は「上州で田畑被害大」と書かれ、人的被害については特に記されていないのに対し、1783年の被害は「死者約1,500、餓死者10万」とあり、火山活動に伴う直接被害の大きさはもちろんだが、間接的な被害の大きさに驚く(「浅間山」《村井勇執筆、浅間火山博物館発行》)。

 この大量の餓死者というのは、火山の爆発によって噴出した火山灰や、火山性ガスが上空に漂い、太陽からの日射エネルギーを弱めたため、地上の気温を下げたことが原因となる凶作によるものと考えられている。この凶作による飢饉は、天明の飢饉として知られるもので、これは必ずしも浅間山の噴火によって始まったものではないが、浅間山の大噴火の影響により、飢饉が長期化かつ深刻化したものとされている。

 こうしたことを調べていて、興味深い本に出合った。

 上前淳一郎氏の「複合大噴火」(1989年 文藝春秋発行)という本である。この本で著者は、同時期に噴火した日本の浅間山とアイスランドのラキ火山の複合噴火が、日本の飢饉だけではなく、ヨーロッパの飢饉にも影響をおよぼし、結果として日本の政変やフランス革命にまで影響を及ぼしたのではないかという考えを提示している。

 著者の上前淳一郎氏については、ずいぶん前に週刊誌の「読むクスリ」というコラムを読んで知っていたが、本格的な著作を読むのは初めてである。この「複合噴火」から、浅間山との関係について記述されている部分を中心に紹介させていただこうと思う。

 次の表は1783年の浅間山の噴火前後の、日本とフランスの政治状況をごく簡単に記したものであるが、両火山噴火と前後して、日本とヨーロッパでは平均気温の低下があり、凶作に見舞われている。そして日本では米不足、フランスでは小麦不足に伴うパン価格の高騰が起き、民衆の不満が高まっていた。

 そして、その結果、江戸時代の日本では田沼意次から松平定信への政権交代を呼んだとされる。一方、フランスでは定信が老中に就任した翌年の1788年4月、フランス全土は猛烈な旱魃に襲われた上に、7月には大規模なひょう害が追い打ちをかけて、小麦は著しく減収し、主食のパン価格は異常に高騰した。翌1789年にかけての冬は猛烈な寒さとなり、パリのセーヌ川も凍りついた。人々はパリに流れ、いたるところで暴動が発生し、ついに7月14日のバスチーユ襲撃という結末を迎えることになる。


ラキ火山、浅間山の噴火とその前後の日本とフランスの政治状況

 浅間山の噴火とフランス革命との間に関連があるとは、話が飛躍しすぎているように感じるが、この辺りについて著者の上前淳一郎氏は、この「複合大噴火」のあとがきで次のように記している。

 「われながら風変わりな本を書いた。これは歴史ではないし、まして気候学でもない。ノンフィクションというには異端にすぎる。エッセイだと思ってもらうのが著者には一番ありがたい。・・・青森県八戸にある対泉院というお寺で、天明飢饉で餓死した人びとの供養碑を見たのは、ちょうど三十年前になる。
 ・・・子供だった太平洋戦争中に飢えは経験しているが、そうでもなければ凶作とは無縁な暖かい中部日本に育った私は、未知の世界に触れた気がした。そして、・・・天明期の飢饉のことを書いてみたい、と思うようになっていった。
 ・・・ちょうどアメリカでセントヘレンズ山が噴火した翌年、その噴煙による冷夏が騒がれているときだったが、ある大学教授が『浅間山天明大噴火とフランス革命との関係』という論文を発表したのである。・・・天明の飢饉の結果もたらされた社会不安が、田沼意次から松平定信への政権交代を呼んだといってよい。そこまでは私も理解していた。しかし、フランス革命にまで影響が及んだとは、考えてみたこともなかった。・・・
 私はすぐその論文を取り寄せ、むさぼるように読んだ。浅間山の噴煙がヨーロッパまでおおって冷夏をもたらし、そのために小麦が不作になってパンが値上がりしたのがフランス革命の原因だ、と書かれている。日本で米の凶作から政権交代が起きたのと同じように、フランスでは小麦の不作が政体の変革を招いたというのだ。・・・」

 しかし、この論文には浅間の噴煙とフランスの不作との因果関係が十分書かれていないと感じた上前氏は自ら調査を行った。そして、天明の浅間噴火が地球規模でどの程度の影響をもたらしたかを知るために、イギリスのH.H.ラム教授がまとめた噴煙指数(ダスト・ベール・インデックス=DVI)を調べた。

 このDVI指数とは、噴火による煙や灰、塵がどのくらい地球の大気に影響を与えたかを推測して、指数で示したもので、1883年のクラカトア火山(インドネシア)の噴火の噴煙指数を1,000として基準としている。過去最大の指数を示しているのは、1815年のタンボラ火山(インドネシア)の3,000である。


DVI指数による世界の主な噴火の大きさ(上前氏の図から主なものだけを採りあげた)

 ここで、浅間山とぼぼ同時期に噴火したラキ火山のことを知った上前氏は、日本の天明飢饉を長期化させ、深刻化させたのは、浅間よりむしろラキ噴火だったのではないかと気付く。さらに、浅間のDVI指数は600と小さいとはいえ、浅間とラキのDVI指数2300とを合わせると2900になり、1815年に噴火し、1816年にヨーロッパ、アメリカに極端な冷夏をもたらした、タンボラ火山(インドネシア)のDVI指数3000にほぼ匹敵することから確信を深めていった。

 こうして、先の大学教授の論文で無視されていたラキ噴火を浅間に加えた複合噴火こそが、フランス革命との関係を論じる場合に対象とされなけらばならないと考え、更に調査を行った結果を纏めたものがこの本であった。

 この「複合噴火」(1992年刊行の文春文庫新装版)には帝京大学教授・首都大学東京名誉教授・三上岳彦氏の解説があり、歴史気候学の立場から次のように分かりやすく書かれていてる。

 「飢饉の原因となった異常冷夏については、浅間の噴火によるとする説があるが、噴火が起こったのは八月上旬であり、気温の異常な低下はすでに春頃から始まっていた。著者の上前氏は同じ年にアイスランドで火を噴いたラキ火山との複合噴火が、悲劇をより大きくしたのではないかと推論している。
 ・・・浅間山とラキ火山から噴出した膨大な量の火山灰と火山ガスは、上空を吹く偏西風にのって世界中に広がっていった。厳密にいうと、火山爆発にともなって噴き上げられた大量の亜硫酸ガスが成層圏にまで達したあと、日射(紫外線)の影響によって硫酸の微粒子(エアロゾル)に変化したのである。上空に漂う火山性のエアロゾルは、太陽からやってくる日射のエネルギーを弱め、地上の気温を下げる効果がある。
 この年の6月8日朝、アイスランド南部のラキ火山が火を噴いた。火山噴火による噴出物の量は、百億立方メートルに達したと言われ、これはおなじ年に噴火した浅間山や1982年に噴火したメキシコのエルチチョン火山の噴出量の20倍にも及ぶ膨大なものであった。亜硫酸ガスに富んだ噴煙は、水蒸気とともに高度10キロメートル以上の成層圏にまで達したのち、硫酸のエアロゾル(青い霧)に姿を変えて2年から3年ほど大気中にただよったために、太陽からやってくる日射のエネルギーが減少し、地上の気温を低下させたと推定される。
 火山の大噴火と気候変動との関係は、実は、そう簡単ではない。・・・1783年の場合、浅間、ラキの複合噴火で、日本は異常冷夏をむかえたが、イギリスやフランスなど、ヨーロッパ西部の諸国では暑い夏となった。・・・一般的に、火山大噴火後には、気温低下に明瞭な地域差が生ずることは従来から指摘されている。
 本書では、複合大噴火後のこうした気温変化の地域差についても、科学的に納得のゆく説明が加えられており、単なる歴史的事実の記載に終わっていない点で、説得力がある。」

 一方、本のあとがきでは、上前氏は次のように控えめに書いているのであるが。

 「・・・ただ、かんじんの1783年の複合噴火が89年のフランス革命の原因だったかどうかについての論証が、完璧にできたとは私は思っていない。革命の前年フランスは不作で、その結果起きたパンの値上がりが暴動を呼んだことは確かだが、それが噴火のせいだと断定するだけの根拠を私は握っていない。・・・また、かりにパンの値上がりの遠因が噴火にあったとしても、それだけでフランス革命が起きたと主張するつもりは私にはない。・・・」

 地球の気候変動の問題が、極めて複雑であることは、今日の地球温暖化の議論でも感じることで、上前氏がこのように断定的な表現を避けていることは理解できるところである。

 さて、浅間山の麓で暮らす私は、日々浅間山を眺めながら、大噴火の起きないことを願っているのであるが、一方で浅間とパリとをつなぐこの壮大な物語に、何故かわくわくしたものを感じる。

 今、手元に、マリア・テレジアと名付けられたワイングラスがある。カップ部分がウランガラスでできていて、紫外光下で緑色に光る。あのマリー・アントワネットの母親の名前がついたこのワイングラスを見るたびに、フランスに思いを馳せ、「たら・れば」とついつい考えてしまうのである。


マリア・テレジアの名を冠したワイングラス(左:通常光下、右:紫外光下、)




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紅葉と雲場池

2018-11-09 00:00:00 | 軽井沢
 今年もまた、軽井沢は紅葉の季節を迎えた。碓氷峠、愛宕山、離山、などの周囲の山々はブナやコナラ、ミズナラが黄褐色に変化して美しいグラデーションを見せている。町中にはカエデの木が街路樹として、あるいは別荘の庭木として植えられていて、こちらも美しい景観をつくりだしている。

 そうした中、雲場池の紅葉はTVで紹介されることも多く、たくさんの観光客でにぎわっている。先週末、周辺の道路は大渋滞になった。雲場池には2ヶ所駐車場が用意されている。一つは南方の離山通りに面した場所にあるもので、こちらは雲場池にもより近く、スペースが広く有料である。もう一ヶ所は東方のやはり離山通りに面した場所にあり、こちらは町営の無料駐車場である。(2021年4月1日追記、町営無料駐車場は3月末で閉鎖になりました。)

 この雲場池は、昨年から整備工事が行われ、池周囲をめぐる遊歩道も広くなり、池入口周辺の木も伐採されるなどして観光客が記念写真を撮るスペースなども広くなっている。地元の広報誌「かるいざわ」の表紙と中身にその様子が報じられている。

改修された雲場池の写真を表紙に掲げた、軽井沢町の広報誌「かるいざわ」2018年6月号

雲場池整備工事しゅん工記念式典の様子を伝える広報誌「かるいざわ」2018年6月号

 雲場池入り口に設置されている案内板も新しくなった。この案内板には、かつてこの雲場池に白鳥が飛来していたことから「スワンレイク」という愛称で親しまれたと書かれているが、いつからか白鳥の姿は見られなくなり、今は数羽のマガモが観光客の目を楽しませ、カメラマンの被写体になっている。

リニューアルされた雲場池入り口の案内板(2018.6.9 撮影)

広くなった池入り口付近(2018.6.9 撮影)

同上の場所での最近の撮影(2018.10.30 撮影)
 
 広報が配布された時期、新緑であった雲場池周辺も、10月末になり燃えるような紅葉で彩られた。

雲場池東側の紅葉 1/2(2018.10.30 撮影)

雲場池東側の紅葉 2/2(2018.10.30 撮影)

池で泳ぐマガモ(2018.10.30 撮影)

池の奥にある小島の紅葉(2018.10.30 撮影)

隣接する別荘の擁壁にからむツタも美しく紅葉している(2018.10.30 撮影)

池の最奥部から振り返る(2018.10.30 撮影)

遊歩道に沿って植えられているドウダンツツジ(2018.10.30 撮影)

 途中で折り返すルートもあるが、遊歩道を更に奥に進むと、小さな流れになる。そして、流れは道路の下をくぐり、さらに上流に続くことになるが、ここから先は個人私有地になっていて立ち入ることはできない。この流れの水源は上流の「ホテル鹿島の森」の近くにある「御前水」という湧き水である。

雲場池の遊歩道を最奥部まで進むと、小さな流れに変わる(2018.10.30 撮影)

さらにその奥は私有地になっている(2018.10.30 撮影)

 観光客の中にはこの雲場池だけでは満足せず、周辺の別荘の庭に植えられているカエデ、ドウダンツツジなどの紅葉を求めて散策する人たちも見られる。別荘のたたずまいと、紅(黄)葉の取り合わせもまたとても美しい。別荘地での紅葉狩りを楽しんでいただきながら本ブログを終わらせていただく。


















雲場池周辺の別荘地の紅葉(すべて 2018.10.30 撮影)


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庭にきた蝶(25)ミドリシジミ

2018-11-02 00:00:00 | 
 今回はミドリシジミ。と書き始めたが、実はミドリシジミ類の一種ということで、数種類いるミドリシジミの仲間のいずれであるかは、まだ確信が持てないでいる。

 庭のブッドレアに吸蜜に来ているところを見つけて撮影はしたが、ずっと翅を閉じたままだったので、撮れたのは翅の裏だけであった。ミドリシジミの仲間特有の翅裏の紋様が確認できるものの、よく似た種が多くいて、この翅裏の写真だけでは素人には同定はとても難しい。

 採集すれば、より確実なことがわかったはずと思うのだが、前回のカラスシジミ(2017.3.17 公開の本ブログ)のことが思いだされて、捕虫網を取りに走ることはしなかった。まずは、撮影した写真をご覧いただく。


ブッドレアの花で吸蜜するミドリシジミの一種 1/7(2018.9.19 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するミドリシジミの一種 2/7(2018.9.19 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するミドリシジミの一種 3/7(2018.9.19 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するミドリシジミの一種 4/7(2018.9.19 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するミドリシジミの一種 5/7(2018.9.19 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するミドリシジミの一種 6/7(2018.9.19 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するミドリシジミの一種 7/7(2018.9.19 撮影)

 撮影時には、ミドリシジミの仲間であろうとは思ったものの、その日は9月19日の午前11時頃であり、もうとっくに発生の季節は過ぎていると思っていたので、不思議に思い「フィールドガイド 日本のチョウ」(2013年 誠文堂新光社発行)で調べてみたところ、意外にも多くの種について、9月にまで成虫が見られると書かれていた。

 更に、「長野県産チョウ類動態図鑑」(1999年 文一総合出版発行)の成虫初見日、成虫終見日のデータを見ると、9月以降も生き残る種の数は更に多くなり、ゼフィルスの半数以上が該当していた。

 次の表は、現在日本で見られる25種のミドリシジミの仲間(=ゼフィルス)について、この2冊の本の内容を参考にまとめたものだが、16種類ほどが9月以降にも見られるようである。この中で、ヒサマツミドリシジミは長野県ではみることができそうにないので外すと、15種類が残る。さらに外観から、明らかに今回撮影したものではないと判断できる種を除くと、候補は表に淡緑色をつけた8種類に絞られた。


日本産ゼフィルスの発生時期と長野県での発生有無(「フィールドガイド 日本のチョウ」【赤ライン】、「長野県産チョウ類動態図鑑」【青ライン】より)

 この8種類から、さらに翅裏の色と紋様により、ミドリシジミ、メスアカミドリシジミ、アイノミドリシジミの3種は外し、候補を5種に絞った。あとは、翅裏の微妙な色あいや、紋様の詳細で判断することになるが、個体差などもありうるから、何を決め手とするかがなかなかむつかしくなる。また、関連書によると9月以降まで生き延びるのは♀が多いとされていることから、これも考慮しながらの同定作業になった。

 「フィールドガイド 日本のチョウ」には、オオミドリシジミ、ジョウザンミドリシジミ、エゾミドリシジミとハヤシミドリシジミの4種の♂と♀を比較した写真がある。また、「日本産蝶類標準図鑑」(2011年 学研発行)には、「オオミドリシジミ属6種の♂の見分け方」というページがあり、前記4種にヒロオビミドリシジミとクロミドリシジミを加えた6種類の比較写真と解説を見ることができるが、こちらは♂についてだけの記述で、♀についての情報は得られない。

 上記の2つの情報をまとめると次表のようである。同定の決め手となりそうなものは、後翅の白条と肛角橙色斑で、これらを撮影した写真と見比べてみた。


同定のための比較表


全体の拡大写真(2018.9.19 撮影写真より)


尾部の拡大写真(2018.9.19 撮影写真より)

 また、義父のコレクションの中には、候補に挙げた種もいくつか含まれていたので、参考にした。




自宅にある義父のコレクションから(2018.10.30 撮影、写真は同一標本の表と裏)

 あれこれ調べた結果、エゾミドリシジミ、ハヤシミドリシジミのいずれかと思われるが、これ以上はなかなか進まないというのが現状である。

 産地を軽井沢に限った、上記2種の情報ということになると、栗岩竜雄氏の「軽井沢の蝶」(2015年 ほおずき書籍発行)が参考になるかもしれない。このすぐれた写真集のハヤシミドリシジミとエゾミドリシジミの項にはそれぞれ次のような記述がある。

 「ハヤシミドリシジミが日本国内で見つかったのは比較的新しく、1951年(昭和26)年のこと。蝶学の権威、白水隆教授によって当時の沓掛(現在の中軽井沢)産をタイプ標本にして命名。つまり軽井沢とは縁のある蝶なのです。・・・ところが・・・今日までの40年、それ相応の心構えで処々方々探ってみるも、一度たりとてかすりません。・・・いったいどうなっているのでしょう。」ということで、軽井沢産のほとんどの種を網羅したこの写真集には、ハヤシミドリシジミの写真は載っていない。

 エゾミドリシジミの項には、「多分そうじゃないかなぁ・・・と思いつつ、決定的な区別点を飲み込めないまま、漫然と判定しては標本箱に収まる Favonius 属の一つ。・・・難なく撮影は済んだのですが、問題は種名の特定でした。・・・」

 種の同定に悩むのは私だけではなかったようである。ハヤシミドリシジミの軽井沢での稀少性を考えると、エゾミドリシジミの可能性が大きいように思えてくる。
 
 さて、迷うのはこれくらいにして、絞り込んだ2種について、ざっと紹介すると、両者とも前翅長は15mm~23mmの小型の蝶で、♂の翅表はハヤシミドリシジミ(以下ハヤシ)では青緑色、エゾミドリシジミ(以下エゾ)では青みを帯びた黄緑色の金属光沢をもつ。♀の翅表はともに黒褐色である。翅裏面はともに灰褐色。裏面後翅中央に見られる白条は両者ともに太いが、ハヤシでより太くなる。

 共に北海道、本州、九州に分布するが、四国にはエゾのみが生息する。幼虫の食樹はハヤシではブナ科のカシワが主であり、エゾではブナ科のコナラ、ミズナラ、カシワである。棲息地は食樹を反映して、ハヤシは火山性草原や山地草原、海岸などに発達するカシワ林、エゾは主にミズナラやコナラの生える山地の落葉広葉樹林である。発生は年1回で前出の表に示した通り共に6月ごろから羽化をはじめる。卵で越冬する。

 ところで、庭に初めてゼフィルスの仲間が訪れたので、このゼフィルス一般についてもう少し書いておこう。

 蝶の採集に興味を持つと、多くの人はゼフィルスの美しく緑色に輝く金属光沢の翅表に惹かれることになるようだが、高校生の私も同様であった。ゼフィルスという名前の由来は、当時読むようになっていた岩波新書の内表紙に描かれている四人の風の神の中の一人で、春と初夏のそよ風を運ぶ「西風の神 Zephyrus」のことだと知ったのもこの頃であった。


岩波新書の内表紙のデザインに見られる四人の風の神、右下に Zephyrus の字が見える

 また、高校の生物部の誰かが書いた、「八ヶ岳のすそ野で長い竹竿のような捕虫網を使ってゼフィルスの採集をした」という記事を読んで、いつかその八ヶ岳に行ってみたいと思っていた。大学に入り、最初の年だったと思うが、夏休みにその計画を立てた。しかし、その頃大学に通う少し長い坂道を歩いていると息苦しさを覚えるようになり、学内の医学部に行き診察を受けたところ、自然気胸と診断され、夏休みは安静にしているように言われてしまった。

 体調の方は自然に回復していったが、この頃を境に蝶からは遠ざかるようになっていき、就職してからは全く蝶には縁のない生活になっていた。

 再びゼフィルスに関心が戻ったのは、アカシジミの大発生のニュースを知って、弘前に出かけた2013年になるから、ずいぶん長いブランクであった(2017.6.30、2017.7.7 公開の本ブログ)。定年を迎え軽井沢に住むようになってからは、蝶をはじめとして、自然への関心が若いころに増して高まり、飼育をして生態を3D撮影したり、野外で写真撮影をするようになったが、同時にゼフィルスへの関心も再び戻ってきていた。

 軽井沢には多くのゼフィルス類が生息している。このことは、鳩山邦夫さんの著書(チョウを飼う日々、講談社発行)や、前記の栗岩竜雄さんの写真集などで分かっていたが、実際の出会いはなかなかやってこなかった。そして、とうとうゼフィルスの方から庭にやってきてくれることになった。

 種名の同定はまだ怪しいところがあるが、これを機に来シーズンには多くのゼフィルスの仲間に出会いたいものと思っている。

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