軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

三波石(1/4)

2021-04-30 00:00:00 | 岩石
 昨年秋、大阪の実家を取り壊すことになり、家に残されている両親の遺品などを処分しなければならなくなった。妹たちと相談の上、一部を引き取ることになったため、車で出かけたが、帰り際に庭の片隅に緑色の石があるのに気がついて、それほど大きいものでもないので、トランクの隅に積んで持ち帰ってきた。

 自宅に戻ってからこの石を取り出して、以前からあった同じように緑色をしている石と見比べてみたが、とてもよく似ていた。


三波石(左2個)と大阪から持ち帰った石(2021.3.22 撮影)

 以前から自宅にあったこの2個の石は三波石というもので、秩父方面に出かけた時に土産に買ってきたものである。

 2017年の2月に秩父の山中にあるセツブンソウの群落を見に出かけたことがあった。この時は上信越自動車道の吉井ICで下りて南下し、小鹿野町の自生地に向かった(当時撮影したセツブンソウについては、2017年3月3日公開の当ブログで紹介している)。その帰路、群馬県境の神流湖に立ち寄ったが、ここにある下久保ダムから下流域は渓谷美で知られる三波石峡である。

 この三波石峡を形作っている岩石が三波石と呼ばれる石で、美しい青緑色から緑色、黄緑色をとる岩石(緑色片岩)に白色の石英の細脈が走っていて、これが峡谷の強い水流によって磨かれて岩肌に紋様となって現れ、その美しさによって古くから銘石(名石)として知られてきた。


三波石峡の渓谷と三波石(2017.2.28 撮影)

 現地にはいくつかの説明板や石碑が設けられていて次のようである。
  
現地に設置されている説明板(2017.2.28 撮影)

三波石峡の命名されている石の説明板(2017.2.28 撮影)

三波石峡谷の天然記念物指定を解説する石碑(2017.2.28 撮影)

 この石碑には次のように刻まれている。

名勝および天然記念物「三波石峡」
 指定 昭和三十二年七月三日
 この峡谷は約一粁に及び 河床河岸には 主に
三波石と通称される緑色片岩類の転石が横たわり
特異な景観をつくり神流川における代表勝区を
なしている 三波石は神流川の特産で 古くから
庭石として珍重され採石されたため 自然の状態
で現存するのはこの峡谷のみである しかもこの
峡谷のものは豪壮な巨石や奇岩が多く 古来名の
あるもののみで四十八石ある とくに新緑や紅葉
のときの美景はひとしおである
   注意事項
 一 採石植物採取をしてはならない
 二 紙くづ等を散らし 美観を傷付けてはなら
   ない
 昭和四十三年三月三十一日
           文化財保護委員会
           鬼石町教育委員会
           神泉村教育委員会

 このように三波石峡は天然記念物に指定されていて、現地での採石は厳禁であるが、近隣には石材店があり、庭石としての需要があることから三波石が販売されていた。我々も記念にと小さな石を2個買い求めたのであった。


三波石などの庭石を販売する店(2017.2.28 撮影)

 大阪の実家にあった石が三波石とよく似ているということで、改めてこの三波石について調べてみると、どうやら大阪から持ち帰った石も三波石の可能性がでてきた。ただし、産地は関東ではなく和歌山ではないかということになる。

 父の実家は和歌山県・高野山の麓の九度山にあった。この家の前には川が流れていて、私も子供のころ夏休みなどに出かけて川で魚を採ったり、少し大きい岩から飛び込んで泳いだりした覚えがあるが、今振り返ってみると河原の岩石は三波石と同じような色をしていたように思う。この辺りの石を父が拾って持ってきていたのではないかと思えるのである。

 今一度三波石峡にあった説明板を読んでみると、次の文章がある。

「三波石は地質上では三波川結晶片岩と呼ばれ、関東地方から九州地方まで長さ約800kmにわたって帯状に分布する三波川変成岩帯が露呈した岩石です。」

 どこにでもある岩石というわけでもなさそうであるが、帯状に広範囲に分布している岩石でもあることがわかる。更に調べていくと、三波川変成岩帯は中央構造線との関係が深いことが判った。中央構造線は、父の実家にも近い和歌山県の紀ノ川に沿っていることはよく知られている。

 ウィキペディアで「三波川変成帯」を見ると、次のような説明があって、秩父山中と和歌山県と随分離れた場所にもかかわらず、同じような成因の岩石が産出することが判る。

 「三波川変成帯は中央構造線の外帯(筆者注:南側)に接する変成岩帯である。日本最大の広域変成帯とされ、低温高圧型の変成岩が分布する。名称は群馬県藤岡市三波川の利根川流域の御荷鉾山(みかぼやま)の北麓を源流とする三波川産出の結晶片岩を三波川結晶片岩と呼んだことに由来する。三波川帯とも呼ばれる。中央構造線を挟んで北側の領家変成帯と接する。」

 「分布は関東山地から一旦フォッサマグナにより寸断され、長野県諏訪湖南方の上伊那地域で再び現れ、天竜川中流域・小渋川を経て紀伊半島、四国、九州の佐賀関に及び、全長約1000kmに達する。」

 こうしたことから、今我が家にある3個の青緑色の石はすべて三波石とみていいだろうと思う。日本地図上に中央構造線と三波石が見られる地域・三波川変成帯を描くと次のようである。

 
中央構造線と三波川変成(岩)帯の分布地域(1:父の実家、2:三波石峡)

 この地図に3個の三波石の採集地を加えると、「1」と「2」であり、当然中央構造線上にくる。更に現在の我が家の位置「3」と妻の実家の場所「4」を加えると、何とすべてが中央構造線沿いにあるということになった。

 長野県下を走る中央構造線は実際には一部がフォッサマグナの下にもぐっていることから、軽井沢周辺の状況ははっきりとはしていないようであるが、近隣の下仁田には断層の露頭があるとされている。また、県下の大鹿村の県道152号線沿いの北川露頭では中央構造線を見ることのできる場所があるとされるので、両地の三波石の見学も合わせてぜひ出かけてみたいと思っている。

 ところで、岩石というのは単結晶に比べると捉えどころがなく何とも分かりにくい対象という気がする。この三波石も同様で、元素組成はどうなっているのか、どのような鉱物組成になっているか、緑色発生の理由は何かといったことが気になる。

 原色岩石図鑑(益富壽之助著 1964年保育社発行)の索引で調べると、三波石に関連する岩石として、緑色片岩、緑泥片岩などが見つかる。この内、緑泥片岩の項を引用すると次のようである。

 「緑泥石を主成分とする濃緑板状の岩石を緑泥片岩と呼び、これに類する輝岩、角閃片岩とを総括して緑色片岩 green schist ということがある。三波川層に普通のもので俗に青石といい庭石に用いる。輝緑凝灰岩など塩基性岩の変質によるという。三波川変成帯の銅鉱床(別子のような)の母岩として重要である。・・・」

 別の資料によると、三波石すなわち緑色片岩は構成元素から見た成分には特徴はなく、SiO2が約50%(玄武岩の性質)であるという。主な鉱物は、緑色成分である緑泥石、緑閃石、緑簾石、蛇紋石などであり、これに白色の石英などが混じっているとされる。

 中央構造線など、せん断応力の作用する地下で玄武岩質の岩石が、200℃から450℃の温度と、2キロバールから10キロバールの圧力の下で再結晶化を起こした結果、板状構造が出来上がったものだという。

 上記緑色主成分とされる結晶の組成を見ておくと次の様であり、複雑な組成を持っているが、いずれもFe成分を含んでいて、この鉄イオンが緑色を呈する要因と考えられる。

・緑泥石(chlorite)       (Mg,Fe,Al,Mn,Ni)12 (Si,Al)8 O20 (OH)4                                  
・緑閃石(actinolite)    Ca2 (Mg,Fe)5 Si8O22 (OH)2     
・緑簾石(epidote)      Ca2 (Al,Fe)3 Si3O12 (OH)        
・蛇紋石(serpentine) (Mg,Fe)3 Si2O5 (OH)4




 





 
 
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雲場池の水鳥(7)ダイサギ

2021-04-23 00:00:00 | 野鳥
 今回はダイサギ。シラサギと総称される3種のうち最大のもので、よく似た種にチュウサギ、コサギがいる。

 雲場池でこの1年ほどの間に見かけたのは、このうちのダイサギだけである。チュウサギととてもよく似ていて、同定の特徴とされる嘴の色、足の色、眼先の色なども季節により変化するので判りづらい。写真から、口角が眼の後方まで伸びていると思えるので、ここではダイサギと判定した。

 このダイサギには2種の亜種がいるとされるが、ダイサギ(オオダイサギ)とチュウダイサギの2種を紹介している図鑑「日本の鳥550・水辺の鳥」(2000年 文一総合出版発行)もあれば、ダイサギだけの紹介で、チュウダイサギにはまったく触れていない図鑑「野鳥観察図鑑」(2005年 成美堂出版発行)もある。

 いつも参考にしているやや古い「原色日本鳥類図鑑」(小林桂助著 1973年保育者発行)ではチュウダイサギの方を主に取り上げ、ダイサギを亜種として分類しているので、ますます混乱するのである。

 「原色日本鳥類図鑑」のチュウダイサギの項を紹介すると、次のようである。
 「【形態】我国の白サギ中最大。嘴峰100~117mm.翼長337~394mm.尾長127~163mm.跗蹠136~165mm。
【生態】夏鳥として我国に渡来し近畿地方の御陵の森にはチュウサギ、コサギ、ゴイサギ、アマサギ、アオサギなどに混じって集団営巣するものが多い。営巣地から4km以上もはなれた海岸の干潟や広い田などにてえさをとる。飛行の翼動は緩慢である。本種は広く中国南部・馬来諸島・印度支那半島・印度・濠州などに分布し我国で繁殖した大部分のものは冬季これらの地方に渡去する。
【分布】本州・九州で繁殖し北海道・伊豆七島・四国・奄美大島などにも渡来する。
【亜種】ダイサギは一層大形(嘴峰109~138mm.翼長400~465mm.尾長140~185mm.跗蹠148~1215mm.)であり、我国には冬鳥として少数渡来するにすぎない。」

 一方、「日本の鳥550・水辺の鳥」のダイサギの項を見ると次の解説がある。
「日本では2亜種の記録があり、亜種ダイサギ(オオダイサギ)は西南シベリア以西のユーラシア大陸で繁殖し、日本には冬鳥として飛来。亜種チュウダイサギは夏鳥として本州・四国・九州で繁殖し、一部は越冬する。」

 こうした記述と、前記のような口角付近の特徴から、私が撮影したのは冬鳥のダイサギであろうと判断したのであった。

 ところで、シラサギというと姫路城の別名白鷺城をすぐに思い浮かべるが、私はそのほかに2つの出来事のことを懐かしく思いだす。

 ひとつは、小学生の頃の話であるが、当時住んでいた地域には白鷺公園と呼ばれている公園があった。夏によく「とりもち」を塗った竹竿を持ってセミ取りに出かけた場所で、シラサギが住みついていたという記憶はないが、体育の授業で時々この公園までマラソンをしていた。
 今、改めて地図を見ると小学校からの距離は600mほどで、記憶とはだいぶ違っている。当時は結構長い距離に感じたものであった。

 この小学校の同級生にA君がいた。家が一番近い友達であったので、よく一緒に野球をしたりして遊んだ。運動神経のとても優れた人で、野球もうまかったが、クラスでも一番足が速く、運動会では花形であった。
 
 恐らく5年生か6年生の頃のことと記憶しているが、そのA君は授業中に担任のY先生に注意されると、プイと教室を飛び出して、一目散に白鷺公園の方に向かって走り出すのであった。

 先生に言われて、数名の同級生と共に私も後を追いかけて同じように白鷺公園に向かって走り出す。A君を説得し、連れ帰るためである。ただA君は足が速いのでなかなか追いつかないのであった。こうしたことが何度か繰り返されていたので、今でも同窓会での語り草になっている。

 そのA君は中学校に進学してすぐに転校していったので、その後の消息は詳しくは知らないが、彼と親しかった同級生から聞いたところでは20歳を過ぎて間もなく病没したという。私の手元には法被・鉢巻き姿で地元の夏祭りの神輿を一緒に担いだ時の写真が残されているので、いつまでもそのままの姿で記憶に残っている。

 もう一つのシラサギ談はずっと後年になってからの1995年頃のもので、広島県三次市に単身赴任していた時のものである。

 三次市内の市街地から少し離れたところの道路沿いに、宗祐(むねすけ)池というため池があり、大きさは500mx200mほどの細長いものであった。この池の道路の対岸の林地に多くのシラサギなどが営巣していた。

 そのシラサギ(多分コサギ)の写真を撮りたくて、日曜日の早朝、池に接する道路脇でしばらく撮影をしていたところ、私同様単身赴任で三次に来ていた職場の同僚3人(F氏、T氏、O氏)が車で通りかかり、声をかけられた。彼らはどこかにドライブに出かけるところであったらしい。

 その時撮影した写真は、朝方で光量が十分でない時間帯だったこともあり、スローシャッターと手振れにより、まともなものではないが数百羽のシラサギが何かの拍子に一斉に飛び立つ様子が写っていて懐かしく、当時が思い出される。


広島県三次市にある宗祐池のシラサギの群れ(1995年頃撮影)

 その翌日だったか、職場でO氏と話をしていて、前日のことになったときに彼から、「朝早くからあんなところで池をじっと見つめていたので、自殺でもしようとしているのかと思ったよ!」と言われて、そんなふうに見えていたのかと、こちらが驚いてしまった。このO氏は私と同年であったが、すでに10年ほど前に亡くなっている。

 さて、シラサギにまつわるほろ苦い話題になったが、雲場池のシラサギは至って健康そのもの、元気である。

 昨年3月に2度、雲場池の脇を流れる精進場川に単独でいるところを見かけた。そして昨年秋から直近まで、冬鳥として渡ってきたのであろう、何度も雲場池で見かけるようになった。今年は8羽ほどの群れで来ることもあり、撮影のチャンスも数回あったので、飛翔している姿など、たくさんの写真を撮ることができた。これらを以下に紹介する。


雲場池脇の精進場川のダイサギ(2020.3.14 撮影)


雲場池のダイサギ(2020.11.9 撮影)

雲場池脇の精進場川のダイサギ(2020.12.14 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.1 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.6 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.6 撮影)


雲場池のダイサギ(2021.1.6 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.6 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.10 撮影)


雲場池のダイサギ(2021.1.10 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.10 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.10 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.10 撮影)


雲場池のダイサギ(2021.2.11 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.1.6 撮影)


雲場池のダイサギ(2021.1.6 撮影)

雲場池のダイサギ(2021.2.11 撮影)
 
雲場池のダイサギ(2021.2.11 撮影)



 

 
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山野で見た蝶(11) テングチョウ

2021-04-16 00:00:00 | 
 今回はテングチョウ。3月下旬になり、しばらく休んでいたショップ再開の準備もあり旧軽井沢銀座に出かけたところ、お向かいのショップのTさんと顔を合わせ少し話しこんだ。Tさんはチョウ好きであり、時々チョウの話題で盛り上がるのだが、今回は銀座通りの路上に止まっているテングチョウを見つけて保護したのだという。

 手でつまみ上げて、ショップ脇の花壇に止まらせておいたのが前日のことだったというので、その場所に行ってみるとまだ同じ場所でじっとしていた。時々翅を開閉しているが、飛び立っていかない。今は昼間でも外気温は13℃ほどで、まだチョウにとっては低すぎて飛び廻ることはできないようである。

 その時持っていたスマホで撮影したのが次の写真である。この冬を成虫で過ごした越冬チョウ(♀)のはずだが紋の朱色が鮮やかであり、翅の傷みなどほとんどなくきれいな状態である。軽井沢周辺では今年初めて出会ったチョウということになった。


旧軽井沢銀座通りでTさんに保護されたテングチョウ♀(2021.3.25 撮影)

 テングチョウは前翅長19~29mmの中型のチョウ。「テング」の名前は、上の写真ではよくわからないが、頭端が長く突出して「天狗の鼻」のように見えるためとされる。年2回発生することもあるとする図鑑もあるが、6月ごろ羽化した個体は間もなく休眠し、秋から翌春にかけて暖かい天気の日には盛んに活動するからそのように見えているとも言われている。越冬した母蝶は4月の中、下旬、榎の発芽を待ち受けて産卵を始め、芽腋に2~3個ずつ一芽に20個近く産み付ける。

 独特の色彩と翅形状から他種との識別は容易であり、地表に止まっている時などでも、すぐにそれと知れる。

 いつもの「原色日本蝶類図鑑」(横山光夫著 1964年 保育社発行)での記述を見ると次のようである。
 「南欧からヒマラヤ・支那・台湾・沖縄・日本全土に産する本種も、東北から北海道の寒冷地には少ない。『落葉』にも似たこの小さな蝶も、系統的には古く、アメリカの第三紀層中から化石として発見されている『生ける化石』でもある。大阪府下箕面はかつて本種の『天下の名所』であったといえる。この蝶の食樹である各所の榎の大樹は幼虫のため裸となり、幾千とも知れぬ『てんぐちょう』は蠅を追うようで、日だまり・湿地・路上に群がり、歩めば風に吹き散る落ち葉のようであったが、1946年ごろから天敵の迫害によるものか、ほとんど絶滅に近くその姿を見掛けなくなった。・・・」

 中学生のころ、当時はまだこの「原色日本蝶類図鑑」を持っておらず、学校の図書館でテングチョウの項を読み、もしかしたらまだ見ることができるのではないかとの期待をもって、箕面の滝から勝尾寺方面まで採集に出かけたことがあった。そこまでは記憶にあるが、果たして実際に捕らえることができたかどうか今はもう定かではない。当時集めていた標本などはその後転居を繰り返すうちに散逸してしまった。

 前述の機会以外には、軽井沢ではまだ出会ったことはないが、周辺地域でこれまでに撮影したテングチョウは次のようである。この写真を見ると、「テング」の名前の由来がよく理解できる。こうした長い鼻(下唇ひげ⦅パルピ⦆)を持つ種は他にはいないと思う。


オオイヌノフグリで吸蜜するテングチョウ♂(2020.3.19 撮影、吉井町)

オオイヌノフグリで吸蜜するテングチョウ♂(2020.3.19 撮影、吉井町)

オオイヌノフグリで吸蜜するテングチョウ♂(2020.3.19 撮影、吉井町)

オオイヌノフグリで吸蜜するテングチョウ♂(2020.3.19 撮影、吉井町)

テングチョウ♂(2019.10.1 撮影、吉井町)

テングチョウ♂(2019.10.1 撮影、吉井町)

テングチョウ♂(2019.10.1 撮影、吉井町)


フキノトウで吸蜜するテングチョウ♂(2020.3.19 撮影、吉井町)

フキノトウで吸蜜するテングチョウ♂(2020.3.19 撮影、吉井町)

フキノトウで吸蜜するテングチョウ♂(2020.3.19 撮影、吉井町)


フキノトウで吸蜜するテングチョウ♂(2020.3.19 撮影、吉井町)

テングチョウ♂(2019.10.1 撮影、吉井町)

テングチョウ♂(2019.10.1 撮影、吉井町)

テングチョウ♂(2019.10.1 撮影、吉井町)

 次の写真は佐久市で撮影したものだが、駐車場の細かい砂利の上を飛び廻っては止まるという動作を繰り返していた。翅の文様がこまかい砂利に紛れてしまい、見分けにくい。

テングチョウ♂(2020.6.24 撮影、佐久市)

 このテングチョウに関する話題を2つ。ひとつは、分類上のもので、現在テングチョウはタテハチョウ科に属するとされている(「フィールドガイド日本のチョウ」(2013年誠文堂新光社発行)、「日本産蝶類標準図鑑 」(2011年学研発行など))。しかし、私がチョウの採集に熱中していた頃の前出の図鑑「原色日本蝶類図鑑」(1964年発行)にはテングチョウ科として独立しており、日本では1種1科のちょっと風変わりなチョウとして分類されていた。1991年発行の「検索入門 チョウ②」(渡辺康之著 保育社発行)でもテングチョウは独立した科として分類されている。

 いつ頃からタテハチョウ科に編入されたのかは定かではないが、その理由について前出の日本産蝶類標準図鑑には次のように記されていて、最新の分子系統解析の成果であるとされている。

 「従来日本では、タテハチョウ科の範囲は、ジャノメチョウ類、マダラチョウ類、テングチョウ類をそれぞれ科として独立させた、いわゆる狭義のタテハチョウ科であった。しかし、欧米をはじめとする近年の高次分類では、これらをふくんだ広義のタテハチョウ科としてあつかうのが主流である。また遺伝子を用いた分子系統解析でも、この考え方を支持する結果が次々に得られている。そこで、本書でも高次分類体系は世界的な基準に合わせて、上記の各3グループをそれぞれタテハチョウ科の1亜科と見なす広義のタテハチョウ科を用いた。・・・」(矢後勝也)

 二つ目の話題は、原色日本蝶類図鑑に書かれていた、「大阪府下箕面はかつて本種の『天下の名所』であったといえる。この蝶の食樹である各所の榎の大樹は幼虫のため裸となり、幾千とも知れぬ『てんぐちょう』は蠅を追うようで・・・」という記述についてである。

 ここではその後「1946年ごろから天敵の迫害によるものか、ほとんど絶滅に近くその姿を見掛けなくなった。・・・」とされていたが、近年ふたたびテングチョウは大発生を繰り返しているようである。

 ネット検索をしてみると多くのYouTube映像を見ることができ、2013年頃から昨年まで、宮崎県、岡山県、奈良県、和歌山県など、西日本を中心として、場所を変えながらの大量発生が報じられている。また、山梨県でも同様の報告が見られる。

 次は「AGARA紀伊民報」が伝える和歌山県での大量発生の様子である。

 「てんぐの鼻のような突起物が特徴のテングチョウが、昨年に続き和歌山県の紀南地方で大発生している。昨年よりは少ないとみられているが、幼虫が好んで食べるエノキの中には、葉がほとんどなくなった木もある。
 テングチョウはタテハチョウの仲間で羽を広げると5センチ前後になる。羽は裏面が枯れ葉のような保護色になっている。速く羽ばたき、敏感に動き回る。雑木林の周辺に生息し、道路脇の水たまりでは吸水するため、他のチョウと一緒に多く集まる。成虫で越冬する。
 多くの葉が食べられたエノキの周囲では、ススキなどの雑草にもサナギがぶら下がり、次々と羽化する姿が見られる。
 県立自然博物館によると、昨年は県内全域で大発生が見られた。暖冬の影響で多くの成虫が生き残り、子孫を増やしている可能性があるという。」(2020年5月27日AGARA紀伊民報より)

 蝶好きには嬉しいニュースかと思うが、暖冬の影響の可能性を指摘していることもあり、いったい何が起きているのだろうか。そして、今年もまた大量発生のニュースがどこかで報じられるのだろうか。

 義父のコレクションには昭和46年8月(♀)と昭和52年5月(♂)に採集した2頭のテングチョウが含まれているが、昭和52年採集の1頭は鱗粉が落ち翅も傷みが大きい。他の種では多くの標本が残されているものもあるので、その当時はテングチョウの個体数が少ない時期で、採集が難しかったのではと想像している。





  


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あんずの里と森将軍塚

2021-04-09 00:00:00 | 日記
 今は市町村合併で名前が千曲市になっているが、それ以前の旧・更埴市の「あんずの里」はとても有名で、もうずいぶん前からその名前を聞き知っていた。その後、高速道路ですぐそばをしばしば通過していたものの、下りて訪れてみる機会はなかなか来なかった。

 数年前に、何かの折に思い立って更埴ICで下りて現地に行ったことがあったが、この時は開花情報をきちんと調べて行かなかったので、花はもう終わっていた。

 今回、妻がSNSであんずの里の開花情報を得て、見ごろを迎えていることを知り、それではと急遽出かけてきた。

 軽井沢から長野方面に出る場合は、浅間サンラインを利用して東部湯の丸ICから高速に乗るようにしているが、いつもの通り途中「道の駅・雷電くるみの里」に立ち寄った。ここには「第66回あんずまつり」のパンフレットが置いてあった。期間は3/27~4/11とある。また、脇には開花情報の掲示があり、「5分咲き」となっていた。


あんずまつりのパンフレット

 このパンフレットの地図を参考に、更埴IC経由で現地に向かった。地図には絶景ポイントとして上平展望台(花さか村)という場所が書かれていて、北アルプス、戸隠連峰、善光寺平一望とあり、さらにすぐそばには樹齢300年の在来種も見られるとのことで、先ずここを目指して車を走らせた。

 現地附近に到着して、道路わきにあんずの木が見えるようになってくると、道幅も狭くなって、周辺には駐車禁止の立て札が見えるようになり、目的地の展望台脇の私設駐車場に車を停めた。周辺にはいくつもの駐車場が用意されているが、公営駐車場も含めすべて有料で1日500円である。

 この展望台周辺にもあんずの木が多く植えられているが、見るともう満開であった。土産物売り場の建物に併設されている展望台に上ると、眼下にはあんず園が広がっていて、あんずの里の全体が見通せる。この日は黄砂が激しくて空はどんよりと黄ばんだ色になり、パンフレットに書かれていた北アルプスは残念なことに望むべくもなかった。


展望台からのあんずの里(2021.3.30 撮影)

展望台周辺のあんずの木(2021.3.30 撮影)

 ここを離れて道路の反対側の緩い坂道を上るとすぐ右側に大きな木が1本あるが、これが樹齢300年という在来種であった。この木も満開状態で、花の色は白く、周りに植えられているものとは随分違ってみえる。

在来種、樹齢300年というあんずの巨木(2021.3.30 撮影)


あんずの巨木の花(2021.3.30 撮影)


巨木近くの栽培用の木に咲くあんずの花(2021.3.30 撮影)

 当地のあんず栽培の歴史は、元禄時代、伊予宇和島藩主伊達宗利の娘・豊姫が第三代松代藩主真田幸道に嫁いだ際、故郷を偲ぶ品としてあんずの種子を持参したのが始まりとする説がある。

 元禄時代というと、今から約300年前の1688年から1704年頃であるから、このあんずの大木は、当時植えられたものが今日まで生き残っていていたことになる。.

 もともとは中国の山東省、河北省などが原産地とされる「あんず」であるが、国内における歴史は古く弥生時代以降の遺跡からも出土しているという。古い産地は愛媛県、広島県などの瀬戸内地方と、青森県津軽地方とされるから、この古木も前記のように愛媛県からもたらされた種子から成長したものということになるのだろう。

 当地は日本一のあんず生産地で、長野県果樹試験場ではいくつもの品種改良品を産出しているようであり、この古木を過ぎてさらに緩い坂道を登っていくと試験畑があって、ここにはこれまでの果樹園とは一風変わった景色が見られる。次のようである。


試験場に植えられたあんずの木(2021.3.30 撮影)

 よく見ると隣り合った木の枝は曲げられて互いに融合している。これがラインダンスのように見えるのは私だけだろうか。

 しばらく周辺を散策しながらあんずの花を楽しんだ後、昼食の時間になったのでこの場所を離れ、午後にはこれも以前から一度訪ねてみたいと思っていた「森将軍塚古墳」に向かった。

 実は、今回来るまではこの森将軍塚古墳がどういったものか、予備知識はなかった。名前の響きから森氏という名の将軍に関係するものかと思っていたが、考えてみれば森というのはこの地域の名前であった。


更埴ICから「あんずの里」、「森将軍塚古墳」への地図(あんずまつりパンフレットから)

 場所は更埴ICからあんずの里に向かう途中にあり、道路案内板はすでに午前中に見ていたので、昼食後まっすぐその場所に向かった。森将軍塚古墳は小高い丘陵地の上にあるが、その麓には「千曲市森将軍塚古墳館」という施設があり、ここの駐車場に車を止めた。隣接地には別に「長野県立歴史館」というより立派な施設があるが、今回はこちらは割愛することにして、古墳館の方に向かった。

 古墳館の駐車場からさらに上の方にある古墳のある場所まで、徒歩ルートはもちろんあるが、マイカーで上って行くことができるかどうかが気になっていた。古墳館の受付で聞いてみると送迎バスはあるが、マイカーで行くことはできないという。

 古墳館の入場券とセットになっている送迎バス利用券を購入して、バス乗り場に向かった。この日は我々のほかにもう一組の同年輩の夫婦連れだけで、上の方から降りてきたバスは我々4人を乗せてすぐに発車した。2-3分で到着した丘陵の上のバス停は古墳のある場所よりはやや高い所にあり、見学時間は30分程度あれば大丈夫との運転手の言葉に、帰りのバスの発車時刻を決めて予約し、歩き出した。


森将軍塚古墳館周辺地図(同館のパンフレットから)

 目の前の「森将軍塚古墳」は、古墳館でもらったパンフレットによると、前方後円墳であり、4世紀後半、今からおよそ1650年ほど前に作られたもので全長は約100mある。尾根の形に合わせて、前方部と後円部とはやや角度を持って接しており、後円部の形状も円ではなく楕円形になっている。現在の姿は、当時と同じ材料や工法で、築造時の姿に正確に復元整備されているとのことで、古墳の形や大きさ、石の積み方なども当時と同じであるという。


森将軍塚古墳の石碑(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の前方部とその上に置かれている埴輪(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の前方部の上から後円部を見る(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の後円部の上から見た市街(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳の後円部から前方部を振り返る(2021.3.30 撮影)

 30分足らずで古墳の見学を終え、迎えに来てくれたマイクロバスで再び古墳館に戻った。

 古墳館には古墳についての解説パネル、古墳模型、ビデオ上映、古墳から発掘された三角縁神獣鏡やヒスイの勾玉・管玉、剣・刀・矢じり・鎌、土器、ガラス小玉などの副葬品や多くの埴輪などの品々の展示と共に、2階の展示室中央には古墳後円部の竪穴式石室が実物大の精密模型で再現されている。大きさは長さ7.6 m、幅2 m、高さ2.3 mと日本最大級であるという。展示室の石室は発掘調査の時に型取りして作られたもので、大半がプラスチックで製作されているというが、とてもよくできていて、石の色や質感は実物と間違えてしまう。


竪穴式石室の実物大精密模型(2021.3.30 撮影)

 館員から、「2階の見学を終えたら、ぜひ1階の展示室もみてください。」と念を押されていたので、その通りにしたが、1階の展示室では思いがけない展示が見られた。ネタバレになるといけないので、これについてはここまでにしておく。

古墳館に展示されている森将軍塚古墳の築造模型(2021.3.30 撮影)

森将軍塚古墳発掘品のガラス小玉をつないだ装飾品(2021.3.30 撮影)

 古墳館の裏側に広がる高台には「科野の里歴史公園」があり、周辺で発掘された古墳時代中期の竪穴式住居、物置小屋、高床倉庫などが復原されていて、見学できる。

森将軍塚古墳館背後の復元された竪穴式住居など(2021.3.30 撮影)


千曲市森将軍塚古墳館と入り口付近にある石碑(2021.3.30 撮影)

 古墳館を出て振り返ると尾根の上の古墳が見える。

 ところで、この「森将軍塚古墳」の名前の「将軍」の由来が気になっていた。私自身はうかつにも「森将軍」という人物がいたと誤解していたのであったが、古墳館のパンフレットによると、地元では「森地籍」にある「偉い人のお墓」という意味で、古くから「森将軍塚」という名称を与えていたそうである。

 前出の地図に示されていたが、この森将軍塚古墳のすぐ南(300mほど)には「有明山将軍塚古墳」がある。また東方と北東方向に少し離れて、「倉科将軍塚古墳」、「土口将軍塚古墳」があってすべてに「将軍塚」の名称が使われている。これら4基の古墳は一括して埴科(はにしな)古墳群として国の史跡に指定されている。

 このほか、森将軍塚古墳の北西方向には同時代の前方後円墳「川柳(せんりゅう)将軍塚古墳」があってやはり「将軍塚」という名称が与えられているが、県内にあるその他の多くの古墳には「将軍塚」は使われていない。


長野県下の主な前方後円(方)墳(2021.3.30 撮影)

 県外はどうかと調べてみると、栃木県、埼玉県、群馬県、大阪府、和歌山県にも以下のように、「将軍塚」と呼ばれる古墳があることが分かる。

○ 栃木県宇都宮市:将軍塚古墳。直径約30m・高さ約2.4m、2段築成の円墳で周溝を備える。

○ 埼玉県東松山市:野本将軍塚古墳。東松山市内野本地区にある現存長115mを測る前方後円墳である。築造年代は、古墳時代前期の4世紀後半の築造と判明している。別名野本1号墳。

○ 群馬県高崎市:元島名(もとしまな)将軍塚古墳。高崎市元島名町にある前方後方墳。高崎市指定史跡に指定されている(指定名称は「将軍塚古墳」)。

○ 大阪府茨木市:将軍塚。この神社は鎌足古廟、将軍塚、将軍山古墳ともいわれている。神社と付いているが、鳥居と碑はあるものの本殿や社務所、摂社などの建築物はなく、石段を登りきった所に将軍塚と呼ばれる古墳だけがある。祭神は藤原鎌足。

○ 和歌山県和歌山市:将軍塚古墳。和歌山市寺内・岩橋にある古墳。形状は前方後円墳。岩橋千塚古墳群(国の特別史跡、うち前山B地区)を構成する古墳の1つ。

 という具合であり、全国に約16万基あるとされる古墳の中でも、「将軍塚」の名を与えられている古墳は極めて少ない。

 ちなみに、文化庁の資料によると各県の古墳数は次のようである( 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地より)。

 2019年、世界遺産に登録された大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」は「仁徳天皇陵」を擁していてその存在が際立っているが、古墳の数では意外にも兵庫県が18,841基で最大である。

都道府県別の古墳数(上位20位まで、図筆者)

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青天を衝け(2/2)

2021-04-02 00:00:00 | 日記
 佐久市内山地区にある渋沢栄一の詩碑を見学したのち、その足で青木村に向かった。当地には、故小川原辰雄氏が作られ、現在は青木村の管理になっている「信州昆虫資料館」( http://www.vill.aoki.nagano.jp/koncyuu.html )があり、時々でかけて昆虫標本を見たり、関連の資料を閲覧したりしている。

 その行き帰りにはいつも青木村の道の駅にも立ち寄っているが、ここでの情報で五島慶太氏がこの村の出身であることを知っていた。

 先週、新聞の地域面に「青木村で企画展」「渋沢と五島慶太 関係を探る」という見出しの記事を見て、当地に新しく建設された「五島慶太未来創造館」で「『近代日本経済の父』などと呼ばれる渋沢栄一(1840~1931年)と東急グループ創始者、五島慶太(1882~1959年)のつながりを探る企画展『渋沢栄一と五島慶太』が始まった。」ことを知った。

 この企画展では、「70歳を迎えた渋沢が東京の過密問題を解消するために構想した『田園都市構想』に、五島が参加していくプロセスを資料とともに紹介。2人の出会いに阪急電鉄の創始者、小林一三(1873~1957年)が関わっていたことも明らかにされた。渋沢が事業を進め、五島の出身地である青木村に残る米国からの贈り物『青い目の人形シンシア・ウェーン』も展示した。」とされている。

 NHKの大河ドラマ放送開始に合わせて、渋沢の生誕地である埼玉県と深谷市では特別展などが開かれているが、関係する地方でもこうした展示が行われていた。

五島慶太未来創造館で配布されていた埼玉県での特別展のパンフレット

五島慶太未来創造館で配布されていた深谷市の大河ドラマ館のパンフレット

五島慶太未来創造館の特別展のパンフレット

 五島慶太氏本人に関する展示内容については今回は割愛するとして、渋沢と五島の交流について見ていくと、先ず五島の交友の広さが紹介されている。

渋沢栄一をはじめとする人々と五島慶太のつながり(2021.3.10 撮影)

 五島から見ると、渋沢は実業界の大先輩と位置付けられる。実際、ここに挙げられている他の7人の生没年を比較してみても、渋沢との年齢差の大きさが際立っていることが実感できる。上の写真に紹介されている方々の生没年を比較すると次のようである。


五島慶太が出会った渋沢栄一をはじめとした人々とその生没年(筆者作成)

 新聞記事でも紹介されているように、二人の出会いは70歳を迎えた栄一が、東京のまちが抱える問題を解決するための「理想の住宅地」を実現したいと考えたことに始まる。

 明治に入った東京のまちは、近代化とともに人口が集中し、工場や家が密集していった。栄一は、都市部での人口過密状態での生活は、人々の精神や健康、さらには社会に様々な害をもたらすと考え、自然を多く取り入れた住宅地が必要であると考えた。

 この構想のベースにはイギリスのハワード(エべネザー・ハワード;1850.1.29-1928.5.1)が提唱した、職場と住宅が一体となった緑豊かな街を理想とする田園都市論があったとされる。これに対して栄一は、都心から少し離れた郊外に自然豊かで便利な住宅地を作る日本式の田園都市計画を考えた。

 着想から8年後の1918(大正7)年、栄一が78歳の時に、賛同した仲間とともに田園都市株式会社を設立、自身は相談役として会社を支援することとなった。

 「農村と都会を折衷したような」理想のまちづくりの舞台として選ばれたのは、多摩川沿いに豊かな自然が残りつつも、東京都心まで1時間以内の距離にある現在の目黒区洗足や大田区田園調布周辺であった。

 この郊外の住宅地には、都心まで行き来できる交通機関が不可欠であることから、1920(大正20)年に、田園都市株式会社の鉄道部門が、大井町・調布村(現田園調布)間の鉄道敷設免許を獲得した。

 しかし、会社に鉄道の専門家がいなかったため、鉄道の工事は思うように進まなかった。困った栄一は、株主であった矢野に相談し、矢野の紹介で関西で住宅地開発と鉄道経営に成功していた小林一三を頼ったところ、小林は「鉄道院にいた五島慶太に任せてみたらどうか」と提案した。

 当時、五島慶太は、38歳で鉄道院の役人を辞め、私鉄の武蔵電気鉄道を経営していたが、資金不足のため線路の建設は進んでいなかった。

 悩んでいた慶太に、小林一三が「君の武蔵電気鉄道は規模も大きく進めるのは大変だ。まずは渋沢さんの鉄道を引き受け、線路を作り、住宅地を作りなさい。そこで得たお金で、武蔵電気鉄道をやればよい。」と助言した。

 この言葉に背中を押され、慶太は田園都市株式会社の鉄道の経営に参加することになった。1922(大正11)年には鉄道部門を分離し、目黒蒲田鉄道を設立し、鉄道会社として独立させ、自身は専務取締役に就任した。この会社が現在の東急株式会社の礎となる。 


渋沢栄一と五島慶太の略年表(展示資料を参考に筆者作成)


東京横浜鉄道開通時の写真(青木村資料から)

 今回の展示では五島慶太との出会いの他、渋沢栄一と上田市、青木村とのつながりについての展示も行われていた。

 その一つは上田市に1877(明治10)年に設立された第十九国立銀行である。栄一は明治政府で国立銀行条例の制定など日本の金融制度の基礎を築いた後、1873(明治6)年に政府を退き、第一国立銀行を開業した。そして、上田市の第十九国立銀行(後に第十九銀行)の設立計画で栄一が指導、援助したとされる。
 
 江戸末期、明治、大正と上田地域は製糸、養蚕が盛んで長野県の経済をけん引するが第十九銀行は製糸業振興に金融として大きな役割を果たした。1931(昭和6)年、第十九銀行は第六十三銀行と合併し(19+63=82)、八十二銀行となる。


上田市に残る1917(大正6)年5月15日撮影、上田市での渋沢翁講演会 記念写真 成沢別邸にて(現笠原康平様宅)。この写真に写る人物の情報を探していると、書かれている。

 この写真の下には次の説明文が記されている。

「青年時代に藍商として上田地区を訪れていた渋沢栄一。若き日の縁もあり、大正6年(1917)には、上田商工会議所が中心となり、上田劇場で『商業道徳』と題した講演会を開催しました。この写真は、講演会を記念して、上田町の成沢邸にて撮影されたものです。今でも上田地域には、渋沢の自筆の書、書簡、写真など、ゆかりの資料が数多く残されています。」

展示品の藍玉(2021.3.10 撮影)

 青木村には渋沢栄一とのつながりを示すもう一つの品があった。新聞にも紹介されていた米国からの贈り物『青い目の人形シンシア・ウェーン』と付属の『パスポート』である。

 日露戦争が終わった明治末期、日本人移民や満州の問題で日本とアメリカの関係は急速に悪化していた。この状況を心配したアメリカ人の宣教師シドニー・ギュ―リックは、両国の友情のしるしとしてアメリカ人の子供たちから日本の子供たちへ人形を贈ることを思い立ち、渋沢栄一に手紙を送った。

 日米の親善と平和を強く願っていた栄一は、ギュ―リックからの手紙に共感し、日本側の代表としてこの事業を進めていった。

 そして1927(昭和2)年3月、アメリカから約12,000体の「友情人形」(フレンドシップ・ドール)が日本に届けられた。この人形は日本各地に贈られたが、その内の1体が青木村の中学校に残されていた。

 1941(昭和16)年の太平洋戦争により日米関係はさらに悪化、友情人形の多くは敵国のものとして処分されてしまい、現在約300体が確認されるのみという。

 近隣では青木村のほか佐久市・泉小学校に1体と小諸市・東小学校に1体の「青い目の人形」が大切に保管されている。また「埼玉県立歴史と民族の博物館」で行われている展示会においても、埼玉県内に残され、小学校等で大切に保管されている12体の青い目の人形が集合、展示されているという。

アメリカから贈られた青い目の人形「シンシア・ウェーン」(2021.3.10 撮影)


青い目の人形「シンシア・ウェーン」付属のパスポート(2021.3.10 撮影)


渋沢栄一と「青い目の人形」・渋沢が願った日米親善と友情人形(2021.3.10 撮影)

 今回の企画展の会場となった「五島慶太未来創造館」は、2018(平成30)年8月14日、慶太の59回忌の命日に落雷により火災が発生し、建物が全焼したその生家のイメージを再現したものという。

 幸いなことに、生家は2014(平成26)年8月、東京都市大学工学部建築学科勝又研究室によって実測・調査・研究が行われていて、慶太が住んでいた当時の推測復元図と50分の1スケールの模型も製作されていた。     (完)

五島慶太未来創造館の外観(2021.3.10  撮影)




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