軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ワイングラス

2023-08-18 00:00:00 | ガラス
 私どもが開いているアンティークガラスショップの主な商品はというと、やはりワイングラスということになる。普段使いできるアンティークと謳っているが、100年程度以上前に作られた古いものだけではなく、もう少し新しい時代の、いわゆるヴィンテージ品も加えるようにしている。

 扱っているガラス器全体で見ても、ドリンキングアイテムが中心になり、それ以外の商品と言えば、食器ではボウルやディッシュ(皿)、それにコンポート(脚つきの皿)などが少し加わる程度である。ベース(花瓶)、オーナメント(装飾品)も含まれるがやはり数は少なくなる。

 ドリンキングアイテムにも、様々なものがあり、ワイングラスのほかにも、デカンタやピッチャー、アイスバスケットをはじめとして、用途ごとに大きさやデザイン、色の異なるグラス類があって、膨大な種類のものが世界中のメーカーで作られてきているので、ショップで紹介できるのはその中のごくごく一部である。

 手元にあって、ヴィンテージ品の調査時の参考にしている本に「世界のガラス器」(JTBのMOOK リビングアート・シリーズ2、1991年発行)があるが、ここにはドリンキングアイテムコレクションとして、ウォーターフォード クリスタルやバカラに始まり、当時日本で買うことのできた、内外の32社の代表的なグラス類が紹介されている。


「世界のガラス器」(JTBのMOOK リビングアート・シリーズ2、1991年発行)の表紙

 これらドリンキング・グラス類を用途で分けると、ワイングラス、リキュールグラス、シェリーグラス、ゴブレット、シャンパングラス(フルート型、クープ型)、ウィスキーグラス、ブランデーグラス、タンブラーなどがあり、各メーカーから販売されていて、名前が付けられた商品群にも、それぞれこうした用途に応じたものが揃っている。

ウォーターフォード社のドリンキング・アイテム製品紹介例(「世界のガラス器」より)

 こうした名の知られたグラス類は近・現代の物ではあるが、顧客の要望に応えるべく、ある程度は品ぞろえをするように心がけて、集めている。

 国内メーカーであるHOYAクリスタル、カガミクリスタル、佐々木ガラス、カメイガラス製のグラス類もこの本では紹介されていて、こうした商品も気に入ったものがあれば、見つけては入手するようにしている。ただ、4社のうちHOYAクリスタルとカメイガラスは今は存在していない。
 
 「世界のガラス器」で取り上げられているメーカーとその代表的な製品の一部を紹介すると次のようであり、それぞれの名前のついた製品中にワイングラスが含まれる。

・ウォーターフォード クリスタル(Waterford Crystal、アイルランド)
 「アラーナ」、「ムーンコイン」、「リズモア」、「コリーン」
・バカラ(Baccarat、フランス)
 「ダッサス」、「ツアー」、「アルクール」、「マッセナ」、「ローハン」、「コンデ」
 「パーフェクション」、「ネプチューン」、「ナルシス」、「エルベフ」、「ラファイエット」
・サン・ルイ(Saint Louis、フランス)
 「フィルママン」、「トミー」、「クレオ」、「ティッスル」、「バルトルディ」、
 「フロランス」、「ポメロル」
・ラリック(Lalique、フランス)
 「ランジェ」、「トレーヴ」、「トスカ」、「チュイルリー」、「ルクソール」、
 「クロ・ヴジョー」、「フラム」、「ケプリ」、「シメール」
・ドーム(Daum、フランス)
 「ボレロ」、「コレイル」、「イアアーゼ」、「シノン」、「オルセー」、「チャグニー」
・ローゼンタール(Rosenthal、ドイツ)
 「ロマンス・レリーフ」、「ロマンス・ストロー」、「オフェリア」、「アシンメトリア」、
 「キュポラ」、「センチュリー」
・パイル(Peill、ドイツ)
 「マリー・ルイズ」、「ベネチア」、「セシール」、「フェリシィア」、
 「アイシス」、「メシーナ」
・テレジアンタール(Theresienthal、ドイツ)
 「シンフォニー」、「ユーゲントシュティール」、「テレジア」
・ショット・ツヴィーゼル(Schott Zwiesel、ドイツ)
 「ヴォーグ」、「フィネッセ」
・ボヘミアン・ガラス(Bohemian Glass、チェコ)
 「パネルドガラス」、「ケースドガラス」、「500PKシリーズ」、
 「ボヘミアワイングラスシリーズ」、「カリガラスシリーズ」
・モーゼル(Moser、チェコ)
 「パウラ」、「マハラニ」、「スプレンディッド」、「ロイヤル」、「モーツアルト」
・バル・サン・ランベール(Val Saint Lambert、オランダ)
 「ラエケン」、「クラウン」、「シカゴDDF」、「メッテルニヒ」、「パンプル」、
 「ベレット」
・コスタ・ボダ(Kosta Boda、スウェーデン)
 「ピピ」、「シャトー」、「ポエム」、「ライン」
・アトランティス(Atlantis、ポルトガル)
 「ファンタジー」、「サラ」、「オビドス」、「リリック」、「アルカダス」、
 「シャトレー」、「フォリージュ」、「アラベスク」、「バスコダガマ」、
 「サレム」、「ウォルデン」、「ニューヨーク」、「ジェノバ」
・カガミクリスタル(Kagami Crystal、日本)
 「K2高級細脚ライン」、「K7高級細脚ライン」、「K18 高級細脚ライン」、
 「K30  高級細脚ライン」、「K32高級細脚ライン」、「サンクラール」、
 「ロンド」 

 このように、これら膨大な種類のワイングラスが製造されているのであるが、ここで取り上げられている、ほとんどすべてのワイングラスには何らかのガラス工芸面での装飾加工が施されている。

 その加工とは、カット、グラヴィール(エングレーヴィング)、サンドブラスト、エッチング、エナメル絵付け、金彩加工、レース・ガラス、被せガラスなどの技法を用いて行われるものである。またガラス生地自体にも種々の着色がなされている。

 ショップで保有しているものの中からその一例を見ると次のようである。


ウォーターフォード クリスタル製ワイン/シャンパングラス(2023.8.13 撮影)


バカラ製ワイングラス(2023.8.13 撮影)


サンルイ製ワイン/リキュールグラス(2023.8.13 撮影)


ラリック製ワイングラス(2023.8.13 撮影)


ドーム製ワイン/シャンパン/リキュールグラス(2023.8.13 撮影)

モーゼル製ワイン/シャンパン/リキュールグラス(2023.8.13 撮影)

パイル製ワイン/シャンパングラス(2023.8.13 撮影)

ロブマイヤー製ワイングラス/ゴブレット(2023.8.13 撮影)

ボヘミア・ガラス製ワイン/シャンパングラス(2023.8.13 撮影)


ヴェネチア製ワイングラス(2023.8.13 撮影)

当店で多く扱っているその他のヨーロッパ・アメリカ製ワイン/シャンパングラス(2023.8.13 撮影)

カガミクリスタル製ワイングラス(2023.8.13 撮影)


ギヤマンと呼ばれた頃、元治2(1865)年製作のワイングラスペア(2023.8.13 撮影)

博物館にもあるような、18世紀頃に作られたワイングラス(2023.8.13 撮影)

 ワイングラスを扱うときの楽しみは、こうしたガラス工芸の技法に触れることであり、その大胆なカットや、繊細な彫り紋様を見るとき、金彩の美しさや、手描きで描かれた人物像を鑑賞するときである。そう思ってきた。

 ところが、ごく最近、元の職場の上司Aさんが来店され、昔話などをしていたところ、最近ワイングラスを割ってしまったので、替りのワイングラスが欲しいのだとのこと。店にある何種類かのグラスを見ていただいたが、どれもご希望に合わないようで、どのようなものを希望されるのか改めて伺ったところ、シンプルで何も装飾のない普段使いの物がいいとのことである。

 確かに、私のショップのワイングラスには何らかの後加工が施されていて、ご希望に合ったタイプのものは扱っていなかった。

 これは、もともと当ショップの主要コンセプトが、「130年ほど前、避暑地軽井沢の始まった頃、当地に別荘を持っていた外国人が使用したであろうガラス器を集めて、現代の皆さんにご紹介する」ということであり、最近流行しているプレーンな装飾のないグラス類を販売することではなかったので、Aさんが希望されるような商品が見当たらないのは当然のことであった。

 しかし、できればこうしたご要望にも応えたいとの思いがあり、最近話題になっているワイングラスにはどのようなものがあるのか、あらためて調査をはじめた。

 一番よく知られているものはRiedel社のものだと思うが、そのほかにもSchott/Zwiese社からも業務用などプレーンなものが販売されているし、国内品では木村硝子店の扱う製品も話題になることがある。

 先ずはということで、手元にあった本「すぐわかる ガラスの見わけ方」(井上暁子監修、2001年東京美術発行)でRiedel社の項を見ると次のように記されている。ちなみに、この本でも多くのワイングラスが紹介されているが、プレーンで装飾の一切ないグラスとなると、ロブマイヤー製とリーデル製ぐらいなものである。


「すぐわかる ガラスの見わけ方」(井上暁子監修、2001年東京美術発行)の表紙

 「秘密は形と大きさにあり ワインをもっとも美味しくするグラス」という見出しがあり、次の解説文が続く。

 「・・・グラスの大きさや形がワインの味わいを左右する・・・。赤ワイン用のグラスが白ワイン用よりも大ぶりなのは、その豊かな香りをいっそう引き立たせるため。・・・こうした『ワインの個性に合わせたグラス』を世界で初めて誕生させたのが、1756年に創業したリーデル社だ。
 1973年に発表した『ソムリエ』シリーズが単に赤ワイン、白ワインといった区別だけではなく、ワインの作られるブドウの品種に合わせてサイズ、形状の異なる十種類のグラスを揃えた・・・このシリーズは、ワインの持ち味を引き出すよう、大きさや形を微妙に調節した、画期的なグラスとなった・・・」

 続いて、ワインの香りだけではなく、味わいにも配慮したグラスの形状設計がなされているという解説がある。

 「・・・それぞれのグラスが舌の上の味を感じる部分に適切に流れ込むような形にデザインされている。
 たとえば、渋みが強く酸味のひかえめな赤ワインなら、酸味を感じる舌の中央にあたるように縁が広く大ぶりの形に、また、酸味の強いワインは、甘みを感じる舌の先端にあたるように縁をカットして外側にカーブさせ、酸味を自然にやわらげるといったぐあいだ。・・・
 ・・・ワインのもつ美しい色をストレートに楽しむため、装飾はほどこさないのが、リーデル流だ。」

 ここで「世界で初めて」という表現が出ているが、人とワインの付き合いは紀元前3500年に遡るとされる。その歴史の中で、ワインをよりよく楽しむための道具として、ワイングラスの大きさやボウル部の形状に、ではそれまでどの程度関心が払われていたのだろうか。

 海外事情はすぐには判らないが、手元にある書籍「Wine」(桑山為男著、1973年ザ・イースト・パブリケイション発行)を見てみると、400ページに及ぶ大部の本であるが、ワイングラスについての記述はほんの僅かである。

 偶然ではあるが、この本が発行されたのは、リーデル社が「ソムリエ」シリーズを発表したその年である。

「Wine」(桑山為男著、1973年ザ・イースト・パブリケイション発行)の表紙

 次の写真は、オリジナルなワイングラスとして、各種ワインとこれに対応したワイングラスが添えられたものであるが、ワイングラスについてはサイズや容量など、詳しい説明はない。
 
 ワインの種類は写真左からシャンパン、ボルドー赤ワイン、ボルドー白ワイン、ブルゴーニュ赤ワイン、ブルゴーニュ白ワイン(以上写真―1)、続いてモーゼル(又はライン)、アルザス、アンジュ―、ポート、シェリー用(写真ー2)である。


「オリジナルなワイングラス」として掲載されているワインと専用のワイングラスの写真ー1(「Wine」より)


「オリジナルなワイングラス」として掲載されているワインと専用のワイングラスの写真ー2(「Wine」より)
 
 写真で紹介されているワイングラスは、エングレーヴィングの紋様から、カガミクリスタル製と推察できるが、それ以上の詳しい解説はない。「オリジナルなワイングラス」とあるので、桑山氏が働いていたホテルオークラ用の特注品であった可能性が高いと思うが、だとすれば流石の品ぞろえである。これらのグラスが一般にも販売されていたかは定かではない。

 ただ、偶然であるが、写真ー1の「ボルドー赤ワイン」用のグラスと同等の品は、前掲の写真でも紹介しているが、今私の手元にある。


「ボルドー赤ワイン」用のワイングラス(2023.8.13 撮影)

 さて、この写真に続く項「グラスについて」では次のように記されている。

 「ワイングラスは、透明で、チューリップ型が理想的である。チューリップ型は、芳香ブーケを集めるのに最適の形である。グラスの大きさは、赤ワイン用が白ワイン用より少し大きい。大体6オンス~8オンス*である(白ワイングラス4オンス~6オンス)。
 その赤ワイン用は、バーガンディータイプとボルドータイプがあり、前者が大きい。バーガンディーワインを、ブランデーグラスで飲む人もいる。日本のレストランでポートワイングラスやシェリー用の小さなグラスを出すところもあるが、もちろん間違いで、これではワインのおいしさをつかみにくい。
 ついでにシャンパングラスについて触れると、日本ではシャンパンといえば、クープ型を使っているが、クープ型を使う国は、日本とアメリカぐらいのもので、ヨーロッパではフリュート型である。
 いずれにせよワイングラスは、色を見たり、匂いをかぐ関係から、大きい目の方がよいのである。」(* 筆者注:ワインの場合1オンス=30cc とされる)

 著者の桑山為男氏は、出版当時ホテルオークラの酒場課長であるから、第一人者といってよいであろう。著書の「序」でもホテルオークラ取締役会長野田岩次郎氏が「・・・桑山君は、十余年前、まだこの国ではワインが一般の話題にされない頃から、ひそかにワイン研究に乗り出し、ひたすら、その道の奥義を究めようと努力し、ホテル派遣員としてフランスのボルドー、ブルゴーニュ、シャンパン等にて研修を重ねた上、『シュバリエ・デュ・タートヴァン - ワイン騎士団』協会、並びに『シュヴァリエ・ド・コトー・ド・シャンパン - シャンパン騎士団』協会々員に推挙された。我が業界では初のことで、・・・」と賛辞を送っていることからも著者の社会的評価が推察できる。

 ただ、他方で「グラスについて」に添えられている「ボルドー型正式のサイズ」とする図の方は簡単なもので、次のようなものである。 


「ボルドー型正式のサイズ」として掲載されているワイングラスの図(「Wine」より)

 こうしてみてくると、ヨーロッパの影響を受けて、国内でもワイングラスのサイズや形状に対して、ある程度の配慮がされていることが判るが、確かにリーデル社のオーナー氏が指摘するまでは、ワイングラスの大きさやボウル部の形状とワインの味わいについての詳細な検討は、それほどなされていなかったと思われるのである。

 書籍「すぐわかる ガラスの見わけ方」の「コラム」欄には、リーデル社のワイングラス開発のこぼれ話が紹介されていて、次のようである。

 「ワインの味の違いを発見! 偉大な九代目当主、クラウス
 ソムリエシリーズの生みの親は、9代目当主のクラウス・リーデル。・・・お遊び気分で、同じワインをさまざまなグラスで飲んだところ、まったく違った味がしたのにびっくり!
 ワインの専門家の友人でさえ、別のワインを飲んでいると思ったほどの味の違いに、クラウスはグラスの形状がワインの味わいを左右すると気づき、革新的なグラスの開発を始めたのである。

 現在のリーデル社の公式HPを見ると、様々な形状のものが掲載されていて、グラスの高さとボウル部の容量をグラフにすると次のようであり、ワインの品種ごとに最適化されたというグラスの品ぞろえの多さが実感される。そして、これらのほとんどはマシンメイドであると記されている。

 今回この中から赤〇で印をつけたワイングラスを手配してみた。こうした品揃えはリーデル以外の他のメーカーにも見られるので、Aさんにご紹介する予定の数点のワイングラス以外にも、試みに同種のものや、他社の同等品についても合わせて入手してみた。 


リーデル社のワイングラスの品揃え(同社HPの資料から筆者作成)

 今回、こうして入手した装飾のないプレーンな現代のワイングラスについて、Aさんに入荷のご連絡をしたところであるが、果たして気にいって下さるだろうか。

 ショップを開いてから現在まで、ずいぶん多くのワイングラスを扱ってきたがプレーンなものはほとんど扱ってこなかったので、これからは、お馴染みになった顧客の方々にも紹介して、反応を見てみたいと思っている。

 他方で、ワインの味が判らない私としては、クラウス・リーデル氏の考えに盾突くつもりなど毛頭ないが、やはりアンティーク・ワイングラス類に見られる様々なガラス工芸の技法を駆使した、人の手になる工芸製品のよさを味わいながら、日常的にも使っていただきたいと思っているのである。

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金継ぎ教室

2021-11-19 00:00:00 | ガラス
 ショップの顧客Mさんが、軽井沢で金継ぎ教室を開くとの連絡を受け、参加することにした。

 東京在住というMさん夫婦が私のアンティーク・ガラスショップを訪れたのは、4年前に開店して間もなくの頃で、軽井沢に別荘探しのために来ていた際に立ち寄ったとのことであった。

 その後も、来軽の折には時々ショップに立ち寄って買い物もしていただいていて、なにかの話の折にMさんの在京の知人で金継ぎをしている方を紹介していただき、ショップのアンティークガラス品の金継ぎをお願いしたことがあった。

 この品は、100年以上前につくられた貴重なものだが、別の品を購入した際にヒビ割れがあるからということで、サービス品として一緒に送られてきたものであった。そのまま販売する訳にも行かないので、参考品として飾るだけにしてあったが、きれいに補修していただけたので、今は商品の仲間入りをさせている。

金継ぎ修理をした小型のゴールドサンドイッチグラス(高さ 5.4cm)


真上からみた同上のグラス

 そのMさん自身が金継ぎを習っていたことは知らなかったが、聞くともうずいぶん長い間金継ぎ教室に通い、技術を習得していたのだという。

 そして、軽井沢に新たにできた複合型ワーキングスペースで、教室を開く手筈が整ったとのことである。この複合型ワーキングスペースはコロナ禍の落とし子ともいえるようで、「軽井沢の豊かな自然を背景に、人と人、仕事と暮らし、地域と社会が緩やかに循環する」ことをめざして今年設立されたものだという。

 私のショップにその金継ぎ教室開催案内のパンフレットを置いてもらえないかとの電話連絡があり、後日このワーキングスペースで働く女性がパンフレットを届けにこられたが、その際私も金継ぎ教室への参加を申し込んだ。
金継ぎ教室の行われた複合型ワーキングスペースのパンフレットから


金継教室のパンフレットから

 かねて、私自身も金継ぎには関心があり、いずれはショップで扱っているアンティークガラス類の金継ぎ修理を自分で行いたいものと思っていたからであった。
 
 10月中旬に開催された金継ぎ教室は、午前・午後の2回行われたが、私は午後のクラスに参加した。

 当日の受講生は私を含めて5名で、それぞれ割れたり、欠けたりした器を持参し、これらを指導を受けながら修理し、金継ぎ技術を学んだ。

 教室に持参するものは金継ぎ修理をしたい器だけで、その他の必要な材料類はすべてMさんの方で用意されていた。次のようである。

・新うるし(本透明)
・金粉、小目
・新うるし専用薄め液
・新うるし専用洗い液
・ガラス・陶磁器用高透明度エポキシ系接着剤
・金属用エポキシパテ
・混錬用プラスチックシート
・注射器
・混錬用竹ぐし
・筆3本
・筆置き台
・手袋

 私自身の本来の目的はガラス器の修理であるが、金継ぎといえばやはり陶磁器というイメージがあるので、今回は真っ二つに割れた磁器皿と口縁部が欠け、ひびの入った磁器のカップを持参した。

補修前の二つに割れた皿

 最初の実践はパテの使い方である。芯部分と周辺部分に硬化剤と主剤とが分かれて詰まっている円柱形のもので、必要量を切り出して用いる。保護手袋をして、指で色むらが少なくなるまで練り、器の欠けた部分を補うように埋める。

 私の場合、上掲の皿はこの作業には適さないということで、後に回して、口縁部が一部欠損したカップの補修から始めた。

 しばらくしてパテが固くなると、カッターナイフで余分なところを削り落として形を整える。パテは不透明な灰白色をしていて、元の欠け部分の形状が判らなくなってしまうので、事前に写真を撮っておくと、削りしろを確認するのに都合がよいことも教わった。

 パテが充分に硬化したところで、その上に新うるしに金粉を混ぜたものを塗る。同時にひびの入っている部分にも、ひびに沿って金色うるしを塗る。この金粉は非常に細かいもので、新うるしとよく馴染み混じり合う。
 他の受講生が、この金色うるしを塗る作業をしている間に、私は真っ二つに割れた皿の修理を行った。

 この場合、パテは不要で破断面にエポキシ接着剤を塗布してつなぎ合わせた。2液のエポキシを等量混ぜ合わせ、両断面に塗り、少し硬化が始まった所で貼り合わせて強めに押し付けるようにする。速硬化タイプのエポキシなので数分間押し付けていると接着し、手を離すことができる。

 ここで、先にパテで補修してあったカップと一緒に、金色うるしを筆で塗る作業に入る。塗りやすくするために、注射器で適量の薄め液を垂らして粘度を調整して行う。

 カップの場合はパテの上と、ひびに沿った部分を、皿では接合したラインにそって細く金色うるしを筆で塗っていく。

 最後に新うるしを塗るときに使った筆を、専用洗い液できれいに洗い作業が終わる。

 こうして2時間ほどの講習の後に補修が終わった2点の器は次のようである。

パテと金色うるしで補修したティーカップ


ティーカップの補修部分の全体


エポキシ接着剤と金色うるしで補修した皿(径 15.5cm)

 パテとエポキシ接着剤の接着強度は予想以上に強く、しっかりと接着できているようである。金粉(実際は金色の合金粉)を混ぜた新うるしの色もなかなかきれいで、いい仕上がりに見える。

 こうして、入門編であるが基本の作業を教えていただいたので、帰宅後も連日金継ぎ作業を繰り返している。素材はいくらでも見つかった。

 ガラスの場合も基本的に陶磁器と同じようにすればいいと聞いていたので、部分的にかけたり、大きく割れて2つに分かれているグラスなども試みに修理してみている。

自宅で補修した縁の欠けた小皿(径 12cm)


自宅で補修した縁が欠け、ヒビの入ったた湯呑

自宅で補修した縁の欠けた湯呑 


口縁部に小さな欠けが数か所あるシャンパングラス(高さ13cm)


フット部に欠けがあるシャンパングラス(高さ 13cm)

大きく割れたゴブレットを接合し、口縁部全体にも金色うるしを塗った(高さ 12.5cm)


反対側から見た補修後の上掲ゴブレット

 まだまだ、パテや接着剤の扱い、そして金色うるしの塗布には不慣れで、満足のいく状態ではないが、欠けたり、ヒビが入ったり割れたりした陶磁器とガラス器の金継ぎ補修をどのようにすればいいか、その作業工程をおおよそ確認できた。

 今回補修の対象としたものはすべて食器であり、飲食用である。そのため、使用している材料が食品衛生上安全なものかどうかが問題となる。この点は、厳密な意味ではまだ確認がとれていないが、使用した新うるしの注意書きを読むと、「本品を器類の補修に利用する場合、本品が完全に硬化するまで24時間以上補修品を使用しないでください。」とあるので、安全性は確認はされている材料と思える。

  一方、今回使用したパテの方には「食器には使用しないでください。」とあるので、パテ単独での使用には問題があると思われるが、今回のようにその上に新うるしを塗布する場合には大丈夫と思われた。

 2液性のエポキシも同様に考えていて、特に安全性面での注意書きはないが、硬化後に上から新うるしを塗ることで直接表に出ない使用方法になっている。

 ただ、念のために今回補修したものは観賞用としての使用にとどめようと思っている。

 天然うるしは長年飲食用の器に使用されてきているもので、安全性は確認されているが、その代用品である新うるしは釣り具の補修用として開発されたもののようで、食器への利用はその応用としてであり、特に問題はないように思えるが、安全性は今後確認する必要があると考えている。

 そのため、Mさんには次回以降の講習の機会には、本うるしと純金箔や純金粉を使った金継ぎ技法について教えていただこうと思っている。

 ガラスショップで接客をしていると、やはりガラスが割れることに対する心配というか、恐れを抱いている人が多いことに気が付く。

 そのため、高価なガラス器をせっかく購入しても、使用しないでキュリオケースに飾るだけという人も結構いる。

 よほどの高級品は別にして、やはり食器類は使っていただかなければその意味はないと考えているので、お客さんにはぜひ使ってくださいと話すようにしているが、破損のことがネックとなり購入をためらう人がいることも事実である。

 そんな時のために、今回習い始めた金継ぎを役に立てたいと考えている。私のショップで購入していただいたガラス器が、使用時など万一欠けたり、ひびが入ったり、場合によっては割れたりした時には修復しますよと言えるようにしておきたいと考えているのである。


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ガラスの話(22)パート・ド・ヴェール

2020-08-21 00:00:00 | ガラス
 今回はガラス工芸技法のひとつ、パート・ド・ヴェールの話。この技法には不思議な魅力があるのだろうか、その魅力に取りつかれた人は多い。

 これまでにも何度か紹介している由水常雄氏が監修した「世界ガラス3500年史」の中にも「古代中国1世紀『劉勝の耳盃』」として採り上げられている。

 その説明には次のように記されている。

 「古代漢代の名将劉勝の墓から出土した耳杯を復刻。パート・ド・ヴェール技法(ガラスを型の中で熔融して成形した後、型から取り出しだし研磨する技法)は、由水常雄氏が17年前に再発見したもので、杯はその古代技法で作られています。」

由水常雄氏監修による「世界ガラス3500年史・ぐい吞みコレクション」
 

上記コレクションに含まれている、パート・ド・ヴェール技法による「古代中国1世紀『劉勝の耳盃』」 高さ3.0cm 

 NHKの教育テレビで放送された(平成6年8月~10月)、趣味百科のテキスト「ガラス工芸への招待」(講師 由水常雄 1994年 日本放送出版協会発行)には、第9回と第10回の2回にわたる講義内容として、パート・ド・ヴェールが、実際の製作過程の写真や由水氏の作品を交えて詳しく解説されている。解説記事の一部を抜粋すると次のようである。


NHK趣味百科のテキスト「ガラス工芸への招待」(講師 由水常雄 1994年 日本放送出版協会発行)

 「パート・ド・ヴェールとは
 パート・ド・ヴェール(Pate de verre)とは、フランス語でガラスの練り粉、という意味です。・・・フランス以外の国でも、この技法の呼称として、同じパート・ド・ヴェールというフランス語がそのまま使われています。わが国でも、昭和初年に石井柏亭や岡田三郎助がフランスのパート・ド・ヴェール作品を紹介した折に、この言葉をそのまま使いましたので、以来今日に至るまで、この言葉が一般に通用しています。
 この技法は今から三千五百年ほど昔に古代バビロニアで考え出されて、約千五百年間、古代ガラスの技法として使われてきましたが、手間のかかる面倒な技法でしたので、前一世紀後半に、便利な吹きガラス技法が発明されたときに、消失してしまいました。
 その後、十九世紀末に、フランスの陶芸家アンリ・クロ(1840~1907)が、陶芸技法によってガラス作品をつくる技法として考え出したのが、この技法です。この呼称も、そのときに初めて使われるようになったものです。
 フランス語の意味が示しているように、パート・ド・ヴェールはガラスの粉末を糊で練って型に充填して、ゆっくりと温度を上げて、ガラス粉を型の中で熔かして、型どおりのガラス作品を作る技法です。・・・
 この技法は、原理は極めて単純ですが、その応用と展開の可能性は大きく、従来の熔けた熱いガラスを鉄パイプの先端につけて膨らませる吹きガラス技法とは、比べものにならないほど多種多様な表現と、複雑な構成、あるいは人の手で持つことのできないような大型の作品に至るまで、自由自在に作り出すことが出来ます。
 色、形、透明感、色文様、レリーフ、大きさなど、どの分野でも自在にコントロールして創作することができる技法です。・・・
 しかし、・・・パート・ド・ヴェールでは、つくりたいものの原型を作る必要があります。それから耐火粘土や耐火石膏で型取りをしなくてはなりません。・・・この手間のかかる点が、この技法の最大の欠点です。
 ・・・生産性の悪さの故に、二千年前にこの世から消失してしまった技法なのです。しかし、生産性の悪さを除くと、これほど豊かな表現を行うことが出来るガラス技法は他にはありません。
・・・芸術作品の創作にはうってつけの技法なのです。・・・」

 前記、「劉勝の耳盃」の解説にもあったように、二千年前にいったんは消失してしまったといわれるこのパート・ド・ヴェールの技法を、由水氏は再発見したという。

 そのいきさつについて、同じく「ガラス工芸への招待」の中で由水氏は次のように述べている。

 「・・・正倉院に伝わるガラス器の源流を追跡してゆくうちに、いろいろな謎や疑問点が浮かび上がってきました。そこで、各作品の厳正なコピーをつくる実験考古学を始めました。 ・・・ところが古代メソポタミアでつくられていたガラス器類は、従来のガラス知識では、とても考えられないような、不思議なガラス器類でした。
 ・・・実験の成果をまとめてみると、古代メソポタミアのガラス技法が、極めて高度な科学知識や物理学知識を持っていたことが分かってきました。それにもまして、ガラスの粉末を熔かしてつくる技法が、実に便利で、簡単な原理によっている技法であることが分かってきました。・・・
 パート・ド・ヴェールの技法には、十九世紀末から二十世紀初めにかけて、フランスのガラス作家たちが、独自に開発した秘伝的な技法もありました。それらの秘法は誰にも公開されないまま、作家の死とともに、消失してゆきました。数人のパート・ド・ヴェールの作家たちが、それぞれ異なった技法を考え出していましたから、私は彼らの作品を分析して、その技法を解明してゆきました。・・・
 最終的に行きついたのは、医療用の下剤糊や先端産業で使う耐火石膏、あるいは耐熱石膏という特殊な石膏が、最も合理的で、使いよいということでした。値段も安価で、誰でも自由に手に入れることができる材料です。
 この技法を公開して、1977年に、初めて教え始めたのでした。」

 パート・ド・ヴェール技法に寄せる由水氏の情熱はなかなかのもので、実際この「ガラス工芸への招待」の中でも多くのぺージを割いていることからも伺うことができる。

 二千年間忘れ去られていたパート・ド・ヴェール技法を現代に蘇らせるきっかけを作ったのは、フランスのアール・ヌ―ヴォー時代のガラス作家であるとされているが、その点について由水氏はさらに詳しく述べている。

 「十九世紀末から二十世紀初めにかけて、フランスを中心に、全ヨーロッパに広がっていったアール・ヌーヴォー運動の中心的な牽引役を果たしたのが、こうしたガラス作家たちだったのです。
 ガラスは魅力的な素材でしたが、高温を使わないで、何か別の方法でガラス作品をつくることはできないだろうか、と考えた人たちもいました。その中に、彫刻家のアンリ・クロ(1840-1907)がいました。クロは、エジプトやローマ時代のガラス彫刻に触発されて、ガラス彫刻をつくる実験を始めました。型づくりは、彫刻の型取りに慣れていましたから、すぐに解決しましたが、ガラスとの格闘は、失敗と試行錯誤の連続でした。従妹の肖像レリーフを、やっとのことでガラスでつくり上げることに成功したのが、実験を始めてから数年後の1884年頃でした。1885年のサロン展に作品『凍れる春と太陽』を出品しました。この作品は現在、パリのオルセー美術館に展示されています。
 このクロの試みに、刺激された多くの工芸家たちが、独自にパート・ド・ヴェールへの挑戦を試みました。そして、アルベール・ダムーズ(1848-1926)、ジョルジュ・デプレ(1853-1952)などが登場して、作品を発表していきました。彼らの技法もまた、クロとは異なった独自のパート・ド・ヴェール技法でした。そして、彼らの後を追って、フランソワ・デコルシュモン(1880ー1971)、アルマリック・ワルター(1870-1932)、アージー・ルソー(1885-1953)などの巨匠が出現し、フランスのパート・ド・ヴェールの黄金時代を現出しました。
 しかし、どの作家も、自らの技法を公開せず、息子にも教えず、弟子たちも取らないという徹底ぶりでしたから、それらの技法も、今日では亡失してしまいました。」

 ようやく二千年ぶりに復活したパート・ド・ヴェールはこうして再び埋もれていったようである。

 これを再発見したのが由水常雄氏ということになるが、これに先立って、日本では戦前の昭和十二年(1937年)にパート・ド・ヴェール技法開発の動きがあったことが知られている。
 
 これについては、「ガラスの旅」(佐藤潤四郎著 1976年 芸艸堂発行)の1節に「パート・ド・ヴェール」の項が設けられていて、そこにはこの技術に取り組んだ岩城硝子のことが、次のように紹介されている。


「ガラスの旅」(佐藤潤四郎著 1976年 芸艸堂発行)

 「・・・岩城硝子の歴史は古い・・・その年(1938年)にパート・ド・ヴェールの発表会があった。この技法については私は全く知らないので、その時のリーフレットを全文引用して、多くの方々に資料としていただきたい。

 『パート・ド・ヴェール推薦の言葉                 沼田一雅
 邦語ではパート・ド・ヴェールにぴったり、当て嵌る言葉は一寸見当らない。従来斯の種の作品は、仏蘭西の特技であって、同国ではパート・ド・ヴェールは恰し宝玉の加工品の如く尊重せられて居る様である。
 是れは勿論其の光沢、色彩の豊潤と全体の申分なき味ひとにも因るものであるが、同時に製作の点でも、普通の硝子作品とは比較にならぬ困難さが存することにも因るのである。
 我が国では岩城硝子の工芸部で、数年来此のパート・ド・ヴェールを苦心研究中であったが、遂に独自の技法を以て其の製作に成功し得た事は、我工芸界に一生面を拓いたものと謂えやう。其の作品を見るに相当見るべきもの多く、殊に立体のもの、製作は、仏蘭西よりも一歩先んじて居る点もある。
 同部では尚更に研究に精進して居るが、斯様な結構な研究には汎く一般の理解と後援が必要で、私も江湖の声援によって、其の研究の成果が益々多彩ならん事を切望する次第である。』

 『パート・ド・ヴェール            岩城硝子株式会社 工芸部
 パート・ド・ヴェール(Pate de Verre) は英語の Paste of glass 即ち「硝子の練り物」と謂ふ意味でありますが、之れは製品の外観又は製作法から名附けられたものかと思はれます。
 この硝子は普通の硝子の様な原料を熔融して、飴状としたものを、種々の形に吹込んだり、鋳型に流し込んだりして作るものとは、全然異なった方法で作られた硝子でありまして、外側が半透明で、けばけばしくなく、全体に落付いた深味のある、恰も砡の如き感じのするもので、其の特徴とする処は局部的に任意の着色が出来、しかも其の色は内部に浸透して豊潤なる色彩を呈すると云ふ、普通硝子製品に於ては、企て及ばぬ味を持たせることが出来る点であります。・・・
 抑もこのパート・ド・ヴェールは其の起源非常に古く、古い文献に「ミューラン」は「東邦より来る、其の光沢は強からずして、輝かしと謂はんよりは寧ろ艶かなりと云ふ可く、世人は何よりも先づ其の色合変化を特に賞美す」とあります。このミューランは現今のパート・ド・ヴェールだと謂はれて居りますが、羅馬滅亡と同時に其の製法も亦煙滅して全く伝はつて居りません。
 其後十九世紀に及んで、優れた彫刻家であり、画家であった仏蘭西人アンリー・クロー氏がルーブル博物館に現存する古代の作品を見て、其の製法の発見を企て、鉱物学や化学を研究すると共に、幾多の実験を重ねて遂に一八九三年其の完成を見たのが、近世に於けるパート・ド・ヴェールの始めでありまして、現在ルクセンブルグ博物館所蔵の L'Histoire de L'Eau は即ち彼の創始時代の作品であります。爾来彼の流れを汲む諸作家が輩出致しましたが、其の製法は何れも父子相伝的に極秘にされた為、今日これの作家は仏蘭西に於ても僅々数名に過ぎぬ現状で、その製品も少なく、一般に普及されて居らぬ為め、吾国人の中でも之れを識って居る方は甚だ少数であります。
 弊社に於きましては、・・・数年前其の研究に着手致しましたが、何分此のパート・ド・ヴェールによる作品は、製法の研究と工芸的精進の万全を期さなければならぬものでありますのに、其の製法は前述の様に全く判明して居らず、何等の文献なく、口伝も聞き及ばないのでありますから、恰も水天一如の大海で小舟が陸地を探し求める体の、容易ならぬ苦心を致したのであります。終わりに臨みまして、本品の製作に就き多大の御指導と御援助を賜りました岡田三郎助、沼田一雅両先生の御好意に対し深甚なる感謝を表します。』

 パート・ド・ヴェールは、岩城硝子の矢口工場の処分と同時に再び誰もその技術を確かに伝える人は一人もいなくなった。・・・
 推薦文を書かれた沼田一雅は私の恩師で、学生時代には彫刻をそして昭和二十一年(1946年)にはパート・ド・ヴェールの会社を計画した折、ほんとうに短い時間であったが一緒に仕事をしたことがある。・・・それ以後沼田先生とは遂に逢うこともできない運命になってしまった。
 岩城硝子の本来の実態は今はなくなって、全然別のガラス製品を生産する会社となり、今は船橋にアメリカのコーニング社と提携して、パイレックスやテレビのブラウン管を生産している。・・・」

 この当時岩城硝子・工芸部が製作したパート・ド・ヴェール作品の一つが「GLASS」ガラス工芸研究会誌15号(1983年発行)の口絵に紹介されていて、当時の作風を伺い知ることが出来る。
 その解説文は次のようである。先の佐藤氏の文章と重複するところもあるが、そのまま引用させていただく。

 「口絵解説
  鷹 置 物
   岩城硝子工芸部
   昭和十三年以降の戦前作
   高さ 二十二・三cm

  岩城硝子がパート・ド・ヴェール(Pate de Verre)の技法に着目してその研究を始めたのは昭和八年であった。フランスでこの技法を見聞した画家の岡田三郎助や、陶芸家の沼田一雅によって伝えられた知識をもとに試作をはじめたもので、同社でこれにたずさわった清水有三、小柴外一、そして沼田の弟子でもあった小川雄平らが、その制作に成功したのは昭和十三年であったという。
 現在でもお元気な清水氏の話しによれば、戦前、岩城硝子でパート・ド・ヴェールの素材に使われたガラスは、含有率が三十%位の鉛ガラスで型の素材は、石膏にマイカを混ぜたものだったそうである。また、ここに紹介する作品にみられる緑色の呈色剤は、酸化クロームであろうとのことであった。・・・」(樋田豊次郎)

 この時、同じ「GLASS」15号(1983年10月発行)に記事
・パート・ド・ヴェール-技法と鑑賞ー黒崎知彦・三橋寿恵子・友部 直・中村 裕・井上暁子
が掲載されており、その後「GLASS」21号(1986年10月発行)には、
・パート・ド・ヴェール技法の受容-岩城硝子工芸部とフランソワ・デコルシュモンー樋田豊次郎
が掲載されている。

 また、この岩城硝子が研究開発し製作したパート・ド・ヴェールについての詳しい解説記事が2回にわたり日本ガラス工芸学会誌「GLASS」に掲載された。

・旧岩城硝子のパート・ド・ヴェール(一) 山口 勝旦 37号(1995年6月発行)
・旧岩城硝子のパート・ド・ヴェール(二) 山口 勝旦 38号(1995年12月発行)

 このように過去には謎めいた話のあるパート・ド・ヴェール技法であるが、最近のガラスに関する書籍などにはガラスの製法の一つとして多くの本に紹介され、広く知られるようになっている。
 ・ガラス器を楽しむ 岡本文一監修 1993年 講談社発行
 ・カラー版 世界ガラス工芸史 中山公男監修 2000年 美術出版社発行
 ・すぐわかる ガラスの見わけ方 井上暁子監修 2001年 東京美術発行

 こうした現代の日本におけるパート・ド・ヴェールの普及には、由水常雄氏の公開教育が大きく貢献しているのではと思えるが、前出の「ガラス工芸への招待」の記述は次のように続いている。

 「こうしたパート・ド・ヴェールの衰退現象の中で、1975年に再発見した私は、77年から公開教育を始めました。その新しい方式によるパート・ド・ヴェール教育の中から、多くの優秀な作家たちが輩出してきました。そして1986年に、パリで盛大な「日本のパート・ド・ヴェール展」を開催しました。参加者百十名、出品者四十五名という大世帯によるパート・ド・ヴェール展は、世界でも初めての試みで、ヨーロッパ各地から、ガラス作家を始め、教育機関の先生方、陶芸家や彫刻家、画家たちで満員となるという成功を収めました。
 これを契機にして、急速にこの技法に挑戦するガラス作家たちが増えてきました。今日では、わが国では百人余のプロ作家がこのパート・ド・ヴェール技法によって作品を制作しており、千人に余るアマチュア作家も、この技法を楽しんでいます。」

 こうした作家の作ったものだろうか、私の手元には、軽井沢に来て間もない頃に当地で買い求めた2個のパート・ド・ヴェールのぐい吞みがある。独特の温かみのある手触りの物で、冷酒用として愛用している。
 
パート・ド・ヴェールのぐい吞み2個(H69mm,D45mm)

 本家ともいえるフランスではというと、アール・ヌーヴォー期に創業したドーム社では、パート・ド・ヴェール技法をやはり1968年に「再発見」し、現在も製品を作り続けている。ドーム社ではパート・ド・ヴェールという表現は用いずに、パート・ド・クリスタルと呼んでいる。

 このドーム社の技法については、ノエル・ドーム著の”Pate de Verre"(1984年発行)の一部を翻訳した記事が、日本ガラス工芸学会誌「GLASS」に2回にわたり紹介されていて、次のようである。また、3回目は前2回の内容を補完するために、日本で活躍中の黒崎知彦氏、岩崎五郎氏の二人の作家にインタビューした内容の紹介になっている。

・パート・ド・ヴェールの技法(一)ノエル・ドーム著、研究委員会訳、34号(1993年12月発行)
・パート・ド・ヴェールの技法(二)ノエル・ドーム著、研究委員会訳、35号(1994年3月発行)
・パート・ド・ヴェールの技法(三)研究委員会、37号(1995年6月発行)

 ドーム社が作品に添付しているパンフレットには次のように記されている。

 「石膏型にガラスの粒を入れ、焼成するという古代エジプトで用いられていた製作技法を1968年にドームが再発見し、クリスタルで再現。彫刻的な造形が可能であるだけでなく、毎回石膏型を壊して作品を取り出すことから生まれる一品性が特徴」

  
Daum社のパンフレットから

 ドーム社の製品のひとつに次の作品Collection ROSEがある。先日入手したものであるが、高さ約30cm、径約25cmの大作である。

 ガラス特有の透明感があり、バラの花びらや葉の色と形状が美しく再現されていてみごとである。

Daum社のパート・ド・クリスタル製品、Collection ROSE(H30cm,D25cm)

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太田恵子「彩蝶」(2/2)

2020-08-07 00:00:00 | ガラス
 「彩蝶」の作者、太田恵子さんが愛でたガラス作品はどのようなものだろうかと想像を巡らせてみるものの、今となってはとても無理なことだろうと考えていたところ、思いがけずその一部の写真を見る機会が訪れた。

 「彩蝶」と同じ頃に買い求めてあった「火の贈りもの」(由水常雄著 1977年 せりか書房発行)の冒頭、原色口絵の中に、乾隆ガラス、長崎藍色ガラス、薩摩切子、江戸切子、ローマン・グラス、ボヘミア・グラスなどと共に、太田恵子氏所蔵の4点の写真が含まれていることに気付いたのである。写真に添えられた説明には次のように書かれている。
 
 ・① 月光色蜻蛉文花瓶 エミール・ガレ 作 1892年頃 h=56cm 兵庫・太田恵子氏蔵
 ・② 群蝶文花瓶 エミール・ガレ 作 1900年頃 h=38cm 兵庫・太田恵子氏蔵
 ・③ パート・ド・ヴェール カメレオン装飾灰皿 アルメリック・ウォルター作 1900年頃
  兵庫・太田恵子氏蔵
 ・④ 省胎七宝 フェルナン・テスマール作 1900年頃 h=4.5cm 兵庫・太田恵子氏蔵

 ①は、ガレが開発し、命名したとされる微量のコバルトで着色した淡青色の「月光色」ガラ
  スを無色のガラスに薄く被せたように見えるもので、表面には2匹のトンボが描かれて
  いる。
 ②は、底胴部の銅赤ガラスから鶴頸の無色不透明ガラスに変化する花瓶で、胴部には数
  頭の図案化された蝶(蛾)が描かれている。(ヨーロッパでは蝶と蛾とを明確に区分しないよ
  うである)
 ③はボート状に見える灰皿の一方の縁に暗青灰色のリアルなカメレオンが配置されてい
  る。縁側面の内側には葉と実がレリーフされている。
 ④は小さなぐい吞みサイズの小鉢で、省胎すなわち基材となる銅を溶かし去って、表面に
  形成したガラス質と銀線だけを残した七宝である。濃紺の地に青と金彩で彩色されて
  いる。


「火の贈りもの」(由水常雄著 1977年せりか書房発行)

 「彩蝶」の本文にも記されていたが、著者がフランスのガラスを見学する際に、若き日の由水常雄氏が案内役を務めている。また、著者のガラス工芸に関する知識は相当なレベルであることは「彩蝶」の次のような文章からもよくわかるが、その指南役もまた由水常雄氏であったことが知れる。

 以下は、ガレとも縁が深い高島北海の絵の展覧会が、日経新聞主催で開かれた際、太田恵子氏所有のガラスも出展されることになり、芦屋の自宅に関係者が集まった時に、太田さんが話した内容である。

 「----新大陸アメリカの移住民たちが、はじめて作った工場がガラス工場。そこではインディアン向けのビーズが作られ、インディアンたちは千里の道も遠しとせず、自らの財宝をたずさえて、この珍奇なビーズを求めて集まってきたという。
 また、ベネチア商人は、アフリカの原住民にビーズを供給して、引き換えに珍しい毛皮や羽毛や宝石類を手に入れていた。
 わが国でも、松前藩や大阪の商人たちは、蝦夷地に行って、アイヌ人からトンボ玉やガラス玉で北海の産物を購入していた。
 このような文化果てる地に、文明の現実が浸透していったのも、まずガラスが最初であった。
 ガラスは文化伝達の露払いとして、また文化交流の尖兵として常に先端を歩んできたが、そればかりではなく、文化の栄えている社会のなかでは、それは美しい蕾となり、みごとな花を咲かせていた。
 古代エジプトのガラス、ローマン・グラス、イスラム・グラス、ベネチアン・グラス、ボヘミアン・グラス、そしてアール・ヌーヴォーのガラス。すべてそれらは文化の絶頂期に咲いた花だといっていい。----」

 ここで紹介されている話は、前出の由水氏の著書「火の贈りもの」に紹介されている内容とほぼ一致している。 

 こうした縁もあって、由水氏の著書に太田氏所蔵のガラス器が紹介されたことが幸いして、今こうしてコレクションの一部を確認することができたのである。

 「火の贈りもの」が出版された1977年(昭和52年)といえば、太田さんが大阪ロイヤルホテルの地下に、ガラスショップ「ナンシイ」を開業してしばらくたった頃であるから、あるいはショップに置かれていた商品から選ばれたものであったかもしれない。

 これらのガラス作品が、著者が夢見ていた「ナンシイ・ガラス・ハウス」を誰かに作ってもらい、そこで展示されたかどうか、彼女がそこの館長さんに収まることができたかどうか私は知らない。。。

 ところが、話はこのあと思いがけない展開になっていった。

 偶然、同時に太田恵子氏作のパート・ド・ヴェール作品「花のある盃」と、彼女が開いた個展の作品集を入手することが出来たのである。

 ガラス・ハウスの館長さんにはなれなかったのかもしれないが、彼女はガラス工芸の技法のひとつ、パート・ド・ヴェールの作家になっていたのである。

 作品集は、1993年4月19日から6月12日にかけて、サン・ギョーム(東京)、江戸堀画廊(大阪)、ギャラリー・パサージュ(名古屋)の3か所で行われた2回目の個展のものである。

 タイトルは「Pate de verre・パート・ド・ヴェール 太田恵子作品集」であり、1993年4月に発行されている。序にはサントリー元社長の佐治敬三氏が書いた次の文が寄せられている。

 「太田恵子さんは1988年に第一回のパート・ド・ヴェールによる個展を開催された。今回は二回目の発表で、やはりパート・ド・ヴェールによる新作展である。・・・
 太田さんは著書『ガラスの旅』の中で、『道なかばというより、おそらく一生かかっても、気に入ったものができるかどうかはわからない。とにかくパート・ド・ヴェールとはこんなものですよ、という展覧会が出来ぬものかと考えている。』と記しておられる。・・・
 遺恨十年一釼を研くということがあるが、太田さんの場合は、この技法に取り組んで、すでに20年。今回の個展は、これまでの成果を世に問うものである。
 パート・ド・ヴェールといえば、アンリ・クロやダムース、アージー・ルソーといった作家の小振りな作品を連想するが、太田さんの場合は、これらの古典をはるかに超えた、現代の造型そのものである。例えば、出品作品の主流を占めるフォルムは四角い箱である。箱の中には微妙に調整された光が内包されており、厚い色がガラスの層を通して、パステル調の淡い色彩が生まれてくる。・・・
 『ガラス作家の道は、いばらの道』とは、世紀末のガラス工芸家、エミール・ガレの言葉であるが、太田さんの今日までの生き方も、まさに『荒野に道を拓くことにしか興味をもたない人』のそれである。・・・」


図録【 Pate de verre パート・ド・ヴェール  太田恵子作品集】(1993年4月 発行)

 この作品集には、「私と四角」という太田さんの次の文が収められている。

 「昨年六月パリに行ったとき、H氏に案内を頼んだ。
 彼の奥さんがルーヴル・アンティック街にある、唯一、日本女性が経営するアール・ヌーヴォーガラス専門店に勤めているというので、車を止めて立ち寄ることになった。ちょうど店にいた女主人は、『ほんとうに太田恵子さんなのですか。もっと年輩の方かと思っていました。』
 前回展覧会の私のカタログは店に置いてあったし、著書である『硝子の旅』も読んだという。どうして知っているのか訊くと、『この世界では太田恵子さんは有名です。おめにかかれて光栄だと思います』
 四十歳代半ばと思える女主人は、私を同じ仕事の先輩として、きちんと挨拶してくれた。

 私はエミール・ガレの作るガラス器を、ひとつ買ったことが始まりとなり、昭和三十年代の終わり頃からアール・ヌーヴォーのガラス器に興味を持つようになった。
 パリから三百キロ離れたナンシイで、日本の蝶を図柄にした作品を、ガレが制作していることに私は魅かれた。当時、ヨーロッパでは万国博が繰り返し開催され、日本の美術品が海を渡り、アール・ヌーヴォー運動に大きな影響を与えたことは有名だが、ナンシイで生まれた日本の蝶に興味が湧いた。・・・
 ガレの作品はただ見て美しいだけではなく、ガラスの詩人といわれるように、心の世界がある。作品に刻み込まれたメーテルリンクを読み、哲学者でもあったガレに思いを走らせるのを楽しみにしていた。
 クラブや喫茶店を経営するかたわら、ガレやアール・ヌーヴォーにどっぷりつかっていた。そのうち私はロイヤルホテルの地下にグラスギャラリーを開くことになり、バカラやラリック、ドームのようなクリスタルガラスの作品の他にガレの作品も紹介した。
 日本でこんなにガレが有名になる先鞭をつけたのは太田さんですよと、いまもいうひとがある。
 アール・ヌーヴォーというのかエミール・ガレというのか、それとプッツリ縁が切れたのは昭和五十五年、日本で開催された『ガレ展』の故である。・・・
 私のコレクションするガレも数点出展となり、世界で初めての『ガレ展』は東京、大阪、名古屋と廻って大盛況であった。
 『知ってしまえばそれまでよ。知らないうちが花なのよ』という歌の文句どおり、『ガレ展』の終わりとともに私のアール・ヌーヴォー熱というのか、ガレ熱は消え去った。
 買い付けのためにパリの蚤の市にゆくと
『ケイコがきたよ』
 伝令が走るらしく、値札が高く変えられた話、ずっと通訳を頼んでいた男は案内して買物の世話をすると、一年間は寝てくらせるくらい懐がふくらんでいた話など、どの世界にもある裏ばなしだろうが、ガレ熱が醒めてから耳に入ってくる。いずれにしても高い月謝を支払って勉強したというのか、躰につけたアール・ヌーヴォーのガラスである。・・・
 商売の仕事はすっかり整理し、この元旦は妹と小犬との三人家族が、並んで窓の外の見事に昇る初日の出を拝んだ。
 銀座の画廊サン・ギョームの女あるじに言っている。『私の四角は年季が入っているわ。アール・ヌーヴォーに一財産入れあげた、あげくの果てのしかくなのだから。』と」

 作品集には四角をテーマにした作品が多く収められているが、「朝顔碗」と名付けられた口径
150㎜の作品と、口径70㎜のぐい吞みもいくつかみることができる。

 私が入手した次の「花のある盃」は形は朝顔碗に近いが、大きさは半分ほどのぐい吞みサイズである。側面には彼女が好きだった蝶の刻印が見られる。



太田恵子氏作のパート・ド・ヴェール「花のある盃」(高さ30mm、口径75mm)

 太田恵子さんは、はじめ由水常雄氏の開くガラス学校でパート・ド・ヴェール技法を学んだ。その後、吉祥寺にあった、内田邦太郎氏の教室に2年間通ったあと、自宅のガレージに窯を作っている。

 由水氏の学校で1日だけパート・ド・ヴェールのレクチャーを受けたことのある作家の五木寛之氏は、太田恵子さんの1回目の個展の時に次の文章を寄せている。

 「この人がかつて大阪の”夜の商工会議所”とうたわれた<クラブ・太田>の女経営者であり、さらに人生の転機に立って惜しげもなくその店を閉めて、ガラス作家への道を選んだことを知ると、妖しい光を放つガラス器の奥にとじこめられた何かが、かすかにほの見えてくるような気がする。
 人間の一生はおもしろいものである。一場の夢としても、興味はつきない。美しいものを道づれに生きてゆけばなおさらだ。いくつかのガラス器を前にして、ぼくはあらためてそう思う」

 最後に太田恵子氏の略歴を記しておく。健在であれば、現在95歳になられているはずである。

・1925年(大正14年) 大阪市港区生 父は船乗り
・1944年(昭和19年) 19歳、父死亡、 女学校を卒業し船場の大建産業(丸紅)に就職
・1945年(昭和20年) 20歳、大阪大空襲で家を失う、大和の古市に疎開
           このころ、蝶のカット皿、赤のベネチア・グラスに出会う
・1956年(昭和21年) 21歳、十三に移る
・1948年(昭和23年) 23歳、会員制クラブ「ツーリスト」に女給として勤める
・1949年(昭和24年) 24歳、「ツーリスト」をやめ、バー「えんじや」を開店
           店にガラスの灰皿、ベネチアのシャンデリア、ボヘミアのワイング
           ラスを置く 
・1951年(昭和26年) 26歳、バー「紫苑」開店
・1959年(昭和34年) 34歳、週刊文春に「夜の商工会頭」と紹介される
・1960年(昭和35年) 35歳、世界旅行に出かける
・1961年(昭和36年) 36歳、クラブ「太田」開店
・1970年(昭和45年) 45歳、大阪万博にアイス・かき氷店出店
             マダム引退と、ガラスを仕事にと考えはじめる
・1973年(昭和48年) 48歳、マダムを引退しオーナーに 
           グラス・ギャラリー「ナンシイ」を大阪ロイヤル・ホテル地下に開店
・1975年(昭和50年) 50歳、クラブ「太田」閉店 「経済界」に連載記事
・1976年(昭和51年) 51歳、「彩蝶」出版
・1981年(昭和56年) 56歳、グラス・ギャラリー ナンシイ閉店
・1988年(昭和63年) 63歳、サン・ギョーム(東京)、梅田画廊(大阪)にてパート・ド・
           ヴェールの個展を開く
           「ガラスの旅」出版                            
・1990年(平成2年)   65歳、第一回日本グラスアート展、第二部佳作入選
・1993年(平成5年)   68歳、第二回のパート・ド・ヴェールの個展を開く
・1995年(平成7年)   70歳、阪神大震災に遭遇、コレクションを失う
・1997年(平成9年)   72歳、大下英治著「大阪 夜の商工会議所ー太田恵子物語」発行
          
 「彩蝶」の舞台となった北新地の地図を参考までに。


JR大阪駅周辺と北新地の現在の地図(筆者作成)


昭和35年当時の北新地とバー「紫苑」
(大下英治著「大阪 夜の商工会議所ー太田恵子物語」掲載の地図を参考に筆者作成)



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太田恵子「彩蝶」(1/2)

2020-07-31 00:00:00 | ガラス
 「小さなナンシイ・ガラス・ハウスをつくってもらって、私はそこの館長さんになりたい。白髪でオカッパの館長さんに。
 若い人にガラスの説明をして、おいしいコーヒーをごちそうする。そんなひそかな夢をもっている。
 ガラスが私に話しかけてくる。皆さんに、みてもらってほしいと。
 人間の意志と人間の知恵を傾けて作り出した、これほど素晴らしい過去の歴史をありのまま語ってくれる歴史的産物は、他にないのだから。」

 著者が本「彩蝶」の最後のところに書き記した文章である。

 古書店が通路にはみ出して設置した台に、背表紙を向けてぎっしりと並べられている中から、面白そうな本を探し出すのが楽しみになっていたのは、2年前まで母の見守りに通っていた大阪・堺の駅前のことである。

 100歳に近くなった母が、1人暮らしをしていたので、毎月10日間程度出かけ、妹たちと交代しながらの見守りであった。

 母は、自分のことはほぼできるので、週に3回のデイサービスに、朝出かけるのを見送ってから夕方までの間、買い物に行ったり、掃除をしたり、本を読んだりの毎日である。

 最寄りの駅ビルに、天牛という書店が店を開いていて、新刊本と共に古書も扱っている。古書は店の外、通路にはみ出して設置した台の上に並べられていた。

 台はいくつかあって、台ごとにジャンル分けした本が並んでいた。私の目当てはチョウ、ガラスなどに関したものであったが、どうしたわけかこの当時、今思えばガラス工芸に関する貴重な本を何冊も見つけることができた。

 チョウについては7年ほど前から、学生時代に再び戻ってしまい、写真を撮り歩くようになっていたし、ガラスについては軽井沢でアンティーク・ガラスショップを開こうと計画しはじめていた頃である。

 ガラスに関連した本では、由水常雄氏の「ガラスの道」、「ガラス工芸」、「火の贈りもの」や佐藤潤四郎氏の「ガラスの旅」などを見つけていたが、そんな中でふと目に留まったのが「彩蝶」(太田恵子著 1976年 経済界発行)というタイトルの本であった。

ガラスの道(由水常雄著 1973.6.15発行)

ガラス工芸(由水常雄著 1975.6.30発行)


ガラスの旅(佐藤潤四郎著 1976.4.25発行)

火の贈りもの(由水常雄著 1977.1.20発行)



著書「彩蝶」(太田恵子著 1976.3.31発行)


 知らない名前の小説家の本かと思い、箱から出してパラパラと見ていくと、著者は小説家などではなく、まったくの素人の著作で、大阪でバーのマダムをしていた人であると判った。では、蝶とは「夜の蝶」のことかと見ていくと、もちろん全体としては夜の世界を描いているので、その意味合いも含んでのことではあるが、それと共に、ナンシイの蝶、ガレの作品に登場する蝶をも意味していると判った。

 内容の大半は著者が過ごした大阪・北新地の「夜の街」のことについてであるが、最終章はガラスの話になっている。チョウとガラス、これは買うしかないということでこの本は今、手元にある。

 私自身、学生時代まで大阪で暮らしたが、卒業・就職と共に関東に移り住んだので、大阪のことは意外に知らないことが多い。特に大阪の「夜の街」については当然ながら全く知らない。

 この本は1975年に「経済界」に連載されていたものをまとめて単行本としたもので、1976年に同じく株式会社経済界から発行されている。
 話の中には関西財界の大物が実名で登場する。私も名前だけは知っている方々も多くみられ、中には私が通っていた大学の関係者も。

 著書の内容をざっと紹介すると次のようである。

青春時代:
 「私は、大阪湾の青い海が眺望できる大阪市港区で生まれた。大正十四年一月十二日。父は船乗りで、戦前の私はごく平凡な下町娘だった。上陸するごとに成長している私を抱きあげては、『ええ嫁はんになれる』といった。・・・小学校のころから、おけいこごとに通わされた。舞踊をならわせても器用だし、家事を手伝わせてもソツがなかった。このまま世の中が平和でさえあったら、私はええ嫁はんになっていたに違いない。・・・
 大東亜戦争に突入したのは、私が女学校四年生の時。当時はまだ戦争といってものんきなもので、日本舞踊のけいこを続けていた。・・・
 しかし、運命という彫刻家は、この私を素材に、奇妙な彫刻をきざみはじめた。父が死んだ。運命が、私をきざみあげるために入れた最初のノミといっていい。
 女学校を卒業して、船場の大建産業(今の丸紅)に就職した。
 昭和二十年三月十三日の大阪大空襲で家も失った。私が二十歳の時。市内は焼夷弾でなめつくされ、たたきつぶされた。
 大和の古市に疎開して、そこで二年間過ごした。母は(兵庫県)龍野女学校の出身で、なかなかきかんきの男まさり、バレーボールのキャプテンもしていた。グチひとつこぼさず、父の郷里の広島へ買い出しにでかけては、私たちにみじめな想いはさせなかった。
 終戦。疎開先の古市の家は出なければならなかった。・・・終戦の年の夏はこうして終わった。
 昭和二十一年の夏のある日、十三大橋を、家財道具を積んだ一台の大八車が渡っていた。私はこの荷車を指図している。和服をつぶしたブラウスを着ていた。老母をつれ、カジ棒をまだ少年だった二人の弟にひかせている。・・・
 橋の向こうに、大阪の廃墟が見えていた。
 私はその焼けビルの町を遠い目で見た。人には自分の明日を予知する能力がない。十数年後に、いま遠望しているその大阪の街に、どっかりと腰をおちつけて商売する身になろうとは、私自身も予測することはできなかった。・・・」

北新地の城:
 「私が初めて水商売に手を染めたのは昭和二十三年のこと。・・・今はパチンコ屋に変わっている、大阪駅前すぐ西の桜橋交叉点北西角。三階建て鉄骨モルタルでじゅうたんを敷きつめた、豪華な会員制クラブ「ツーリスト」が開店し、私は紹介されてそこの女給、いまでいうホステスになった。・・・
 私の月給は当時のお金で八千円。しかし何よりも嬉しかったのは、暗いみじめな環境から、一晩中電気の明るい、華やかな場所に出られたことだった。・・・
 昭和二十四年、八か月で「ツーリスト」をやめた私は、小さなバー「えんじや」を開店した。
 北新地の西寄り、本通りと裏通りを結ぶ小路の東側にある十五坪ほどのお店が、私の最初の”城”となった。・・・
 当時は これといったバーも少なく、本当にお茶屋さんばかり。・・・「ああ、自分の店で、自分が働いて、お客さまが来て下さる。それでゴハンが食べられるなんてホンマにありがたいことや」としみじみ実感を味わったものだった。

夜の商工会議所:
 「私の店が『夜の商工会議所』といわれるようになったのは、昭和三十四年から。『週刊文春』が『紫苑』(二番目の店)を取材し、記事にしたのが初めてであった。・・・
 実は、この『週刊文春』の記事が書かれるにはいきさつがあった。
 昭和三十四年、月刊『文芸春秋』が日本を代表するバーのマダムを書き、東京の『エスポアール』、京都の『おそめ』、福岡の『みつばち』を紹介した。
 すると文芸春秋社の池島信平さんのところへ、川口松太郎先生が、『太田恵子載ってないじゃないか』と苦情。
 また毎日放送の後藤基治さん(故人)からも、『大阪どうして載ってないのや』と相次いで声がかかった。文芸春秋社も、それじゃ『週刊文春』でということになったのだった。」

勇婦ふたり世界旅行:
 「『紫苑』を開店してちょうど十年。夜の会頭にしていただき、大阪経済界の後援も得て、商売はうまくゆくのだけれど、永年交際(付き合)っていた彼、Kとの仲はだいぶ前から亀裂が出来ていた。・・・
 (このままでは両方ともダメになってしまう)・・・
 そして、二か月の世界旅行を思いたった。一人旅は不安なので、博多『みつばち』のマダム武富京子さんに相談すると、『一緒に行こう』と言ってくれた。・・・
 最初の海外旅行というので美しい訪問着八枚、それに合わせて帯も三本、東京の呉服店『ちた和』でこしらえた。
 お客様が壮行会を催して下さった。壮行会の案内状は・・・・・・。

   太田恵子・武富京子を送る会
 関西と鎮西に名も高き勇婦ふたりが、いよいよ欧米へ武者修行にゆくことに相成りました。・・・
 ご多用の中恐れ入りますが、御寸暇を御割き下さいまして、来る三月二十四日御つどい賜りますよう伏してお願い申します。
                         代表世話人 今 東光
   発起人  山脇義勇 吉原治良 中司清 八谷泰造 松島清重 小林米造
        小原豊雲 正田健次郎 平山亮太郎 弘世現 杉道助
   場所   クラブ 『井戸』 大阪市北区堂島浜通り」

そしてクラブ「太田」:
 「『紫苑』を出てのんびり生きようと考えていた私に思いがけない話が舞い込んだ。『紫苑のすぐ近くに五十五坪の正方形の土地を持っているが、あなたなら売ってもよい』という方が現れた。・・・
 大阪経済界の皆様から『やらせてやろう』と暖かい後援をいただいたこと、これがクラブ『太田』を誕生させる一番の力になった。・・・
 昭和三十六年二月九日、クラブ『太田』開店。・・・
 この日を期して、私は再び、クラブ『太田』に全力投球をはじめた。・・・」

マダムを引退:
 「昭和四十八年、私は二十三年間のマダム生活に一応の別れを告げた。
 クラブ『太田』は『夜の大阪商工会議所』といわれ、私を『夜の会頭』と呼んで下さる方も多かったが、何といっても引き際が肝心。・・・思い切って幕を引いた。・・・
 引退パーティーは・・・大阪一のレストラン『アラスカ』の飯田さんが腕によりをかけてご馳走をつくってくれた。お客様のお土産には、スウェーデン製(コスタ社)のガラス皿に決めた。・・・
 マダムをやめるとはいえ、私は『太田』のオーナー。完全にふっきれるといえば嘘になる。
 その日、住友金属の日向方斉さん(現会長)からも、
『きみ、二頭政治はよくないよ』と小さな声で注意されていた。・・・
 また、鐘淵化学の中司清さん(現相談役)からは、
『院政をしくのじゃないか? きっとそうだよ』と予言されていた。出処進退の難しさを、経済界の方はさすがによくわかっておられる。
 しかし、私の新しい仕事ガラスの店はもう歩き始めている。(もうあとへはかえれない)・・・」

キャンドルの灯は消えて:
 「私は、決心をした。年内閉店をーーー。
 昭和五十年十二月十八日。クラブ『太田』閉店ーーー。
 お別れパーティーの時、・・・四百名を上回る方々が、名残りを惜しんできてくださった。
 まず、サントリーの佐治敬三社長から、『ママありがとう。ご苦労さん』とのご挨拶を受けたあと・・・パッと、店内の照明がつくと、佐治さんのリードで『星影のワルツ』の斉唱に移る。・・・
 いの一番に来られた阪急電鉄の清水雅さん(会長)は、・・・お別れにと、ドーム作のルビー色の美しいガラスの蓋物をくださった。・・・
 住友ゴム工業の下川常雄さん(会長)からいただいた、『大阪のひとつの灯が消えたね』という言葉を背にして、私は深夜の北新地を後にした。」

ナンシイの蝶/ガラスに魅かれて
 「ガラスとの出合いは、戦後まもなく、まだ街には焼け跡がそのまま残っており、きれいなものも少なかったころのこと。西洋骨とう屋の店先で、ふと眼に入った蝶のカット皿と、ベネチアの赤のグラスに心魅かれたのが始まり。
 昭和二十五年にバーを開店しているのだが、北新地の数ある店の中でガラスの灰皿を使ったのは私が初めてだそうで、『紫苑』の店では、ベネチアのシャンデリアを飾り、カウンターにもボヘミアのワイングラスを並べて大切にしていた。・・・
 
 私は数年前、フランスのナンシイに蝶をみた。
この蝶のことは誰にも話さず、大切にあたためてきた。どんな言葉で表現すれば、この蝶にいだいている強烈な印象が判ってもらえるのか、まったく自信がなかったから。
 フランスのナンシイ市にあるエコール・ド・ナンシイ・ミュージアムを訪れた時、ガレの家具(ベッド)にはめ込まれた二匹の蝶に心うばわれた。・・・

 私は五千年の歴史をもつガラスをみてきて、十九世紀末のガラス工芸にハタと足が止まった。・・・」

パリの休日/美術館めぐり
 「昭和五十年五月の連休、いつものように『みつばち』のママ京子さんを誘い、由水先生とヨヨさんと呼んでいる西洋美術のパリ在住の方と四人でガラスを中心に美術館巡りに出かけた。・・・
 まずバルセロナに。・・・カーサ・ミラ、カーサ・バリリヨ、サグラダ・ファミリア教会、グエル公園、グエル邸など見て歩いた。
 グエル公園の広場にはめ込まれた美しいモザイク模様の中に、私はピンクの蝶をみつけた。グエル邸は、有名なドラゴン・ゲートのみ残して、大部分とりこわされていたが、塀にそって歩いてみると、リラの花が咲き、十九世紀末のよき時代に誘い込んでくれた・・・・
 そしてリェージュに。マース側に面したクルチュース美術館の中のガラス館を見る。小さいながら、これだけまとまっているのは珍しい。
 エジプトから始まって、ローマ、ササン、ビザンチン、イスラム、そしてアール・ヌーヴォー期のものはティファニー、ガレ、ドーム、マリーノ、デコルシュモン、ワルター、ルソーなど、そして現代のものまでこじんまり入っている。こんな美術館が日本にあってもよいのにと考える。・・・
 そこから一時間十五分でケルン着。まっすぐローマ・ゲルマン美術館に。
 ここは二年前に新しくできた。ローマ時代のものの展示が中心である。ガラスの量の多いのでは世界一。・・・」

私の夢「ガラス美術館」
 「・・・昭和四十五年の万国博で、漠然とマダム引退を考え始めた私は、それまで趣味だったガラスを仕事にする以外に道はないと、考えるようになっていた。
 そこで、まず、西洋美術の社長の渡辺朗さんに相談をもちかけた。・・・『ガラスを仕事にしようと思いますのやけど』・・・
 ガラスのことについて教えていただき、開店の日には値段から並べ方まで、手にとるようにお世話になった。
 現代硝子は、銀座サン・モトヤマの社長茂登山さんに相談した。『ガラス、いいですね。いいと思いますよ』といってくださる。・・・ 

 私は、芦原重義(関西電力会長)にテープカットしていただき、昭和四十八年六月にグラス・ギャラリー『ナンシイ』をロイヤルホテル地下に開店している。・・・
 開店のお祝いにきてくださった吉村清三さん(関西電力副会長)は、『太田さん、こんなに高いものばっかり・・・・。何か買おう思うても買うものありませんがな。ネクタイ屋でも開店したら、私かて二本ぐらい買いますよ』・・・浅井孝二さん(住友銀行相談役)も、『高いものですね』とくりかえされる。もっともだと思う。・・・
 ある日、松下幸之助さん(松下電器産業相談役)が入ってみえて、ラリックを指さし『これ、おくなはれ』といわれた。・・・
 ラリックの香水瓶と、ブランデー・グラスをお買いになった森英恵さん。
 金彩入りのアイス・バケツと、にぎりしめたらこわれそうなやはり金彩入りのバカラのグラスを買ってかえられたカルーセル・麻紀さん。
 好きで仕入れたものが売れた時はやはり嬉しい。・・・
 
 私はガラスを仕事にして、すぐにガラスがとても重荷になった。趣味にしていた時は、私の思うとおりになると思っていたガラスが、仕事にしてみると、きびしくて簡単に人をよせつけなくなった。私はやせた。・・・
 『硝子はひとたび心を許すと、ずるずる引きずり込まれる魔性を持っている』と、美術史家の由水常雄先生は書いておられる。」

大阪にガラス美術館を
 「私には、ひそかに育てている夢がある。・・・
 若い人の間で、ガラスをつくってみたいという人がふえてきている。よいものをみてないひとに、よいものがつくれるはずがない。
 クルチュース美術館のガラス館のようなものがつくれないものか。昨年、皇后様のゆかれたアメリカのサンドウィッチ・ガラス・ミュージアムも決して大規模なものではない。
 ガラス、太陽の光線、とくに朝日の時が一番美しい。温度も採光もむつかしくはない。大阪にこじんまりしたものがつくれないものか。・・・
 ガラスに対する世の中の評価はまだ低い。いまのうちなら値段もやすい。少しお金をかければ、国際的にははずかしくないものができるように思う。・・・」

 「小さなナンシイ・ガラス・ハウスをつくってもらって、私はそこの館長さんになりたい。白髪でオカッパの館長さんに・・・・・・」

 彼女の夢はかなえられたのだろうか。

次回に続く。

コメント (2)
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