軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

SC軽井沢クラブ

2018-02-23 00:00:00 | 軽井沢
 今年のピョンチャン冬季五輪には、当地軽井沢から男子カーリングに代表チームとして「SC軽井沢クラブ」が出場し、健闘した。軽井沢駅の改札口前にはこのSC軽井沢クラブの出場を祝う横断幕などが飾られているが、町内でも盛り上がりを見せていて応援シールも町民に配られている。また、南軽井沢の風越公園にある軽井沢アイスパークでは競技のある日にはパブリックビューイングも開催されている。


軽井沢駅改札口前の風景(2018.2.18 撮影)


軽井沢町民に配布されたSC軽井沢クラブ応援シール

 ジャンプ、ノルディック、ハーフパイプ、スピードスケートでの銀・銅メダル獲得に続き、期待の男子フィギュアスケートでは羽生選手が金メダルをとり、66年ぶりの2連覇達成を喜んでいたら、翌日には選手団長で長野県出身の小平選手が女子スピードスケート500mで初の金メダルを獲得、21日には女子団体追い抜き(パシュート)ではオランダを破り五輪新で金メダルを獲得するなど、後半に入り金メダルラッシュになり、連日目が離せない状況になっている。

 そうした中で、我が家では熱心にSC軽井沢クラブが出場している男子カーリングを見て応援をしてきた。長野県はもともと冬季五輪には多くの選手を送り出してきているが、カーリングでは初出場で、日本全体でも男子の出場は開催国出場した1998年の長野五輪以来だという。

 カーリングでは、他の団体競技とは異なり、五輪に向けた選抜チームというものを作らない。国内戦で勝ったチームがそのまま代表チームとして出場するルールになっている。

 より優れた選手を選び、最高のチームを結成して臨めばいいように思うのだが、カーリングの場合はどうもそうではないらしい。

 これまでカーリングでは女子チームの方が話題になることが多く、男子の方はあまり取り上げられることはなく、地味な存在であったように思う。

 軽井沢は、長野県内でもカーリングに力を入れている地域で、長野オリンピックの時には、軽井沢でカーリングの試合が行われた。そうした経緯もあって、町内に新たにとても立派な施設、軽井沢アイスパークが2013年に建設された。ここには国内最大級、6シートを備えた通年型カーリングホールがある。2階には、20年前の長野オリンピックの時に軽井沢でカーリング競技が行われた様子や、カーリング関連の展示を行うカーリング・ミュージアムが設けられている。

 
軽井沢アイスパーク外観(2018.2.18 撮影)


6シートあるカーリングホール(2018.2.18 撮影)


2階にあるカーリング・ミュージアム展示スペース(2018.2.18 撮影)


1998年長野オリンピック時の様子を伝える展示(2018.2.18 撮影)


カーリング用ストーンの変遷を示す展示(2018.2.18 撮影)


カーリング・ストーンの伝統的な製法と運搬用革袋を示す展示(2018.2.18 撮影)

また、カーリング競技のある日にはパブリックビューイングも開催されていて、三々五々観客が集まり、応援をしている。


軽井沢アイスパーク玄関のパブリックビューイングの案内板(2018.2.18 撮影)


2階のパブリックビューイング会場(2018.2.18 撮影)
 
 ピョンチャンでの「SC軽井沢クラブ」の戦いぶりを見ると、2月14日の初戦では、元世界王者の格上ノルウェーを撃破した(産経新聞の記事)。私も見ていたが、危なげない戦いぶりで、最終第10エンドで同点に追いつくことを狙ったノルウェーの第7投目がアクシデントだろうか、目標のサークル(ハウス)に届かなかった。次の日本の第8投でノルウェーの敗北が決まり、ノルウェーは最終投球をしないままに勝負が決し、日本が勝利した。

 このノルウェー戦での戦いぶりを再現してみた。


初戦のノルウェーとの戦いにおける、各エンドの最終ストーン配置

 その後、イギリス、スイスに敗れたが、イタリア、アメリカに勝ち、続いてスウェーデン、カナダに敗れ、デンマークに勝った結果、4勝4敗になった。次の最終戦で勝利すれば決勝トーナメント進出の可能性もあったが、残念なことに韓国に大敗する結果となり、通算4勝5敗で8位となり、4強進出はならなかった。しかし、初出場での4勝5敗は大健闘であったと思う。

 ちなみに、女子カーリングの方は5勝4敗で、決勝トーナメント進出を果たし、メダルの期待が膨らんでいる。こちらも大健闘である。

 さて、男子の戦いぶりにもどり、快勝となった2月18日のアメリカとの試合を見ると、第7エンドを終了した段階で、日本が8対2と圧倒していたので、アメリカがコンシードというルールに従い、敗北を認め3エンドを残して、日本が勝利している。この時の最終第7エンドの戦いぶりを見ると次のようである。日本は不利な先攻で2点を取り、試合を決定づけた。









アメリカ戦・第7エンドの第1投から最終投球までのストーン配置の様子

 このカーリングという競技、これまでにも女子チームの活躍が話題にはなったものの、まだまだルールがよく判らなかったが、今回、SC軽井沢クラブが出場したこともあり、TVで連日観戦するようになり、ようやく得点の計算方法が理解できるようになってきた。

 そこで、競技を行う場所やルールの詳細について調べてみたところ、意外にも競技場の構成には、世界カーリング連合、日本カーリング協会、軽井沢アイスパークの展示の間で微妙な表現の違いがあることに気づいた。

 下の図で、世界カーリング連合と日本カーリング協会とでは、Free Guard Zone が塗り分けられているが、その領域が異なっている。

 また軽井沢アイスパークのミュージアム展示図では、ハックという選手が投球時に足をかける部分の位置からバックボードというシートの端部までの距離が規定の1.829mに対して、1.22mと短くなっている。
 

世界カーリング連合の規定によるカーリングシート構成図


公益社団法人 日本カーリング協会 公式ホームページ記載のカーリングシート構成図


軽井沢アイスパークのカーリング・ミュージアムの説明パネル記載のカーリングシート構成図(2018.2.18 撮影)

 このほか、SC軽井沢クラブの試合のストーン配置図を作成していて、ハウスの中心部にある一番小さい円(ボタンと呼ぶ)の大きさが、TV画面で見ているものは規定の寸法とは異なることに気づいた。

 世界カーリング連合と日本カーリング協会の規定では、サークル半径は、外側から6-ft(1.829m)、4-ft(1.219m)、2-ft(0.610m)、6in(0.152m)とされている。

 TV画面に映し出されているピョンチャン五輪会場のボタンの大きさは、一回り大きく半径はおよそ8inである。

 また、TV観戦後に出かけた軽井沢アイスパークで撮影したハウスの写真から見ると、ここのボタンの大きさは更に大きく、半径は1-ftほどあるように見える。

 これはどうしたことか、恐らくは、規定には許容範囲があり、会場ごとに許される範囲が別途定められているものと思われるが、競技内容以外のちょっと面白い発見であった。


国際カーリング連合・日本カーリング協会の規定によるハウスの構成(前記の規定に従い筆者作成)


TV放送で見たピョンチャン五輪会場のハウス構成(2018.2.14 TV画面より)


軽井沢アイスパークのカーリングホールのハウス構成(2018.2.18 撮影)

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五目並べ

2018-02-16 00:00:00 | 日記
 囲碁・将棋界から初の国民栄誉賞が今年1月5日(囲碁の日)に決まり、2月13日に井山裕太十段と、羽生善治棋聖の授与式が行われた。また、このところ囲碁の世界では、コンピュータと人との対決の話題があったり、将棋の世界では中学生の5段の棋士が誕生するなど、比較的地味なこの分野がなかなかにぎやかである。

 人の能力の限界というものについて考えさせられてしまうのであるが、私自身はというと囲碁・将棋は子供の頃に少しやった程度で、それ以後ほとんど実戦の記憶がない。大学時代に片道1時間45分の通学をしていた頃に、電車内での読み物に詰め将棋の本を買って読んだことがあるが、それどまりであった。

 子供の頃の相手は小学校の同級生や父であった。父は同居していた母方の祖父と碁をやっていた記憶があり、そこそこ楽しんでいたようであった。私に将棋を教えてくれたのも父であった。負けることが嫌いだったが、かといって強くなるための勉強もしなかったので、私の方はしだいに碁や将棋からは遠ざかってしまった。

 高校時代には相当将棋が強いという噂の同級生のI君がいたし、大学や職場でも周りでは結構囲碁・将棋を楽しんでいる仲間もいたのだが、ただただ尊敬のまなざしで見るだけであった。

 ところが、一昨年に毎月実家の母のところに来るようになってからすぐに母が「五目並べ」をしようと言い出したので、付き合っている。父が亡くなってからは相手をしてくれる者がいなくなっていたようである。一応ルールは知っているつもりであったので、毎日夕食後の1時間ほどを、この五目並べの時間に割いてきた。風呂のスイッチを入れてから始め、18番勝負を終える頃には風呂も沸いてくるので、ちょうどいいタイミングというわけである。

 18番勝負というのは、勝負がつくとどちらか勝ったほうが、碁盤の1辺の端から自身の色の碁石を1つづつ置いていくと、18個並んだところで、「今日はここまで!」という具合に終わることができるのである。


五目並べに勝つと、碁盤の一辺の端に自分の色の石を一個置いて勝敗の数を示す

 ルールを知っていると書いたが、我が家流のローカルルールで、次のようなものである。

 先ず、はじめに黒・白2個づつを碁盤の中央に互い違いに置く。そして、その後は好きなところに石を置いていくのである。禁手は黒・白共に三三、石を三個あるいは四個並べたところで、「さん」・「し」と相手に伝える、六個以上並べることは構わないが勝ちにはならない、また前の勝負で負けた方が次は先手になるといったところである。石は母が黒を、私が白を勝敗に関係なく使い続けることになっている。


我が家流の「五目並べの」スタート法、黒・白2個づつをこのように配置して始める


禁手の「三三」、この図ではAの位置に石を置くことはできない

 ここでお気づきのことと思うが、我が家(母)のルールでは、碁石は碁盤の線の交点ではなく、マス目の中に置く。初めのうち何度か指摘して、交点に置くように言ったが、いっこうに聞く様子がないので、根負けして今はこのようにマス目の中に置くようになった。ただ、最初に石を黒白2個ずつ、四個置いてからスタートする我が家のローカルルールの場合には、この方が対称性の点ではより美的ではあるとしばらくして気がついた。

 「さん」・「し」と三個あるいは四個並んだ時にはそのことを相手に伝えるのがルールと書いたが、これは私の子供の頃の記憶であって、今の母は自身が三個並べようが、四個になろうが無言である。従って、私も同じようにするようになったが、そうしていると三個並べても気がついてくれないことが時々あるので、結局私の方からは、そんな時には「さんだよ!」と言うことになる。

 この五目並べを始めたころ、最短で勝負が着いたことがあったが、それは次のような手順であった。


最短で勝負が着いた手順

 自分の手だけを考えていると、こうした落とし穴があることに早々に気がついたのだが、馬鹿にはできない、その後も何回か同じ手で勝負が着いたことがある。

 ところで、我が家流のローカルルールと書いたが、正式な「五目並べ」のルールについてはこれまできちんと調べたことがなかったことに今回思いが至り、早速調べてみたところ、ずいぶん違っていることが判った。

 正式なルールは次のようなものであった。

 先ず碁盤中央の目(天元)に黒石を1個置いて始める。次に、白は黒に接する位置AまたはBに置き、その後は自由に黒、白と置いていく。


五目並べ正式ルールのスタートから3手目まで

 禁手は、我が家の「三三」のほか「四四」と六個以上並ぶ「長連」がある。また、この禁手は先手の黒だけに適用され、白には禁手はない。先手は専ら「四三」を目指すことになる。次の図で、黒がA、B、Cに置くと禁手になり負ける。


五目並べ正式ルールの3種の禁手

 この禁手のうち、長連に関しては例外があり、次のように黒がAに置いて5連になると同時に長連になる時には、5連の方が優先されて、黒の勝ちになる。


長連が禁手にならない場合

 リーチ(麻雀のようだが、こう呼ぶらしい)は次の4通りがある。リーチとは、相手が正しく対応しないと勝負が着いてしまう状態であるが、正式ルールではこのリーチの状態になっても「さん」、「し」と相手に告げなくてもいいようである。気がつかないのが悪いということになる。もっとも、伝えようにも、こちらが気付かないうちに三個並んでいたということも起きるので仕方ないことかもしれない。


4通りのリーチの石の並び

 「五目並べは先手必勝」という言葉を聞いたことがあるので、それについてもこの際調べてみたところ、確かに禁手の有無にかかわらず、先手必勝のようである。これでは、まともな試合にはならないということで、もう少し細かなルールを定めた「連珠」というものが考案されている。

 この連珠では、碁盤の大きさも小さく変更され、通常の碁盤の19x19の目数に対して、15x15と定められている。禁手については通常の五目並べと同様のようであるが、3手目までの打ちかたには制限が設けられ、以下に示すような26通りの内のいずれかで進めることがルール化さている。(注:破線内の他の位置にも打つことはできるが、対称性から等価なので図では略している)

 そして、ご丁寧にこの26通りの石の配置にはそれぞれ名前までつけられている。


連珠で、白の2手目が直接黒に接する場合に、次に黒が打てる13通りの位置

 イ:寒星、ロ:渓月、ハ:疎星、ニ:花月、ホ:残月、ヘ:雨月、ト:金星、チ:松月、リ:丘月、
ヌ:新月、ル:瑞星、オ:山月、ワ:遊月


連珠で、白の2手目が間接的に黒に接する場合に、次に黒が打てる13通りの位置

 カ:長星、ヨ:峡月、ラ:恒星、レ:水月、ソ:流星、ツ:雲月、ネ:浦月、ナ:嵐月、ラ:銀月、
ム:明星、ウ:斜月、ノ:名月、ク:彗星

 である。

 この場合でも、二の花月(カゲツ)とネの浦月(ホゲツ)には必勝法が見出されているとされていて、このほかにも形によっては後手有利、あるいは互角ということも判っている。このため試合では更なるルールが付け加えられ、先手・後手の差をなくす工夫が行われているそうである。

 しかし、当然ながら我が家の場合そんな心配は全く無用で、今日もローカルルールでのどかに五目並べをしている。ちなみに、縁に並んだ18個の石のうち、だいたい2個から5個は黒が占めている。
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軽井沢文学散歩(3)立原道造

2018-02-09 00:00:00 | 軽井沢
 今回は立原道造。1914年(大正3年)7月30日、父立原貞次郎、母立原登免(とめ)の次男として東京市日本橋区(現・東京都中央区)に生まれる。昭和初期に活動したが、1939年(昭和14年)3月29日、結核性肋膜炎のため24歳と8か月の若さで急逝した詩人である。

 軽井沢とのかかわりについては、先に紹介した室生犀星や堀辰雄が軽井沢に住み、ここを拠点として作品を発表しているが、立原道造は滞在期間も比較的短く、また、若かったこともあり定住する場所を持つことはなかった。

 師事した室生犀星と堀辰雄との関係を年表で見ると次のとおりである。また、最下段には軽井沢で交流のあった、画家の深沢紅子を付記しておいた。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星、堀辰雄と立原道造(赤で示す)

 立原道造の略年譜は次のようなものである(信濃デッサン館の展示内容を基に編集)。

1914年(大正 3年) 7月30日、誕生。
1923年(大正12年) 関東大震災で自宅消失のため、千葉県新川村(現・流山市)の親戚宅に避難する。
1924年(大正13年) この年の夏から武州御岳山での避暑生活をほぼ恒例とする。
1927年(昭和 2年) 東京府立第三中学校(現・都立両国高校)に入学。13歳のこのころ、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていて、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』・『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど、才能を発揮していた。
1928年(昭和 3年) 三中の教師で歌人の橘宗利の指導で作歌を開始。同級生の妹・金田久子にひそかな思慕を寄せ、片恋を主題とした短歌や詩を制作。
1929年(昭和 4年) 1学期間を神経衰弱のため休学し、新川村で静養。自宅の本建築が完成し、2階テラスで天体観測に耽る。
1931年(昭和 6年) 第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した。一高短歌会の会員となり、高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。前田夕暮主催の『詩歌』に三木祥彦(さちひこ)の筆名で投稿し、採用される。この年、堀辰雄と面識を得、以後兄事する。
1932年(昭和 7年) 内外の文学書を耽読し、次第に詩への関心を深める。自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、手書きの四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。
1933年(昭和 8年) 高校最後の年を迎えた詩集『日曜日』・『散歩詩集』を制作。
1934年(昭和 9年) 東京帝国大学工学部建築学科入学。夏、堀の誘いで軽井沢を訪問し、初めて信濃追分に滞在、この地の風光を愛し、以後多くの詩の背景としている。室生犀星の知遇を得る。秋、萩原朔太郎を訪ねる。この年から1937年(昭和12年)までは、建築学科で岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三・浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった。
1935年(昭和10年) 課題設計「小住宅」が」辰野賞を受賞(以後在学中3年連続で受賞)。夏、信濃追分の油屋旅館に滞在し、洋画家深沢紅子が油屋旅館を描いているところを、部屋の内から見かける。その後、再び松原湖で出会い、その後5年間の交友が始まる。
1936年(昭和11年) 大学卒業年次を迎えたこの年に、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。
1937年(昭和12年) 卒業設計「浅間山麓に位する藝術家コロニイの建築群」を提出、東京帝国大学建築科を卒業。石本建築事務所に入社し、「豊田氏山荘」を設計。また、浦和の別所沼付近に独居住宅「ヒアシンス(風信子)ハウス」を計画。10月、肋膜炎で発熱。翌月、静養中の油屋で火事に遭うが、辛うじて救出される。詩作の方面では初め前田夕暮主宰の『詩歌』に自由律短歌を発表したが、三好達治の四行詩に触発されて詩作に転じ、ついで堀辰雄、室生犀星に師事、津村信夫や丸山薫、リルケ、『新古今和歌集』などの詩風を摂取しながら、繊細な詩語を音楽的に構成した独自な十四行詩型(ソネット)を創出した。物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。
1938年(昭和13年) 同じ建築事務所のタイピスト水戸部アサイと愛を深める。肺炎カタルのために休職し、大森の室生犀星宅で静養。8月11日、軽井沢の室生犀星別荘を水戸部アサイと共に訪問。9月15日-10月20日、北方旅行。盛岡の深沢紅子女史の父の別荘に滞在。11月、近畿、中国を経て九州へ旅行するが、12月6日に長崎で発熱・喀血し帰京。年末に東京市立療養所に入所、アサイの献身的な看護を受ける。
1939年(昭和14年) 第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞。3月、小康状態が続き、「五月のそよ風をゼリーにして持ってきてください」と友人に依頼する。29日、病状が急変し結核性肋膜炎のため24歳の若さで急逝。没後、堀辰雄により『優しき歌』(1947)が刊行された。

 立原道造は、詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。また存命中に今井慶明が立原の2つの詩を歌曲にして以来、柴田南雄、高木東六、高田三郎、別宮貞雄、三善晃などが作曲しているとされる。

 1997年(平成9年)3月29日、立原道造の58回目の命日に、東京都文京区弥生に私立の「立原道造記念館」が設立され、堀辰雄夫人・堀多恵子氏が館長に就任している。

 私は訪れる機会がなかったが、設立記念プレートには次のように記されていた(立原道造記念館HPより抜粋)。

 暮 春 嘆 息
  -立原道造君を憶ふて-

 人が 詩人として生涯ををはるためには
 君のやうに聡明に 清純に
 清潔に生きなければならなかった
 さうして君のやうに また
 早く死ななければ!
    三好達治

 立原道造(1914.7.30~1939.3.29)
 
 東京生まれの詩人、立原道造は、詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめています。
また、立原は、建築家でもありました。東京大学在学中、3年連続して「辰野賞」を受賞し、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を構想して壮大なリゾート計画を示し、「風信子ハウス」に象徴される小住宅設計にも意欲を燃やしました。
 立原の魅力は、多くの文学者や建築家によって今日もなお語り継がれてきていますが、24歳8か月という夭折の生涯を惜しんだ三好達治は、上記のような追討詩を寄せました。私どもは、現代文学に少なからぬ影響を与えた才能と資質とを普遍であると確信し、立原が旧制一高以来の青春を過ごした向ヶ岡弥生の地に記念館を設立し、新しい世紀に向けて永続的に顕彰していく所存です。
      (1997年3月29日/立原道造記念館 館長 堀多恵子/理事長 鹿野琢見)

 この記念館は、その後2010年9月27日に休館し、展示品などは翌2011年2月、長野県上田市郊外の「信濃デッサン館」内に「立原道造記念展示室」を新設し移設した後、2011年2月20日に閉館されている。


前山寺参道から見た信濃デッサン館(2018.2.7 撮影)


信濃デッサン館に新設された「立原道造記念展示室」の案内板(2018.2.7 撮影)


信濃デッサン館入口(2018.2.7 撮影)

 この「信濃デッサン館」は作家・水上勉氏の子息窪島誠一郎氏が建設し、1979年に開館したもので、大正時代の天才といわれた村山槐多や関根正二をはじめ、主に大正期から昭和にかけて活躍し、結核や貧困の中で早く世を去った画家たちの作品を中心に展示している美術館である。

 この美術館の展示室内に、特別に部屋を設けて立原道造の残した詩「窓」・「ある人は」などの自筆原稿、若いころの「無題・二匹の魚」などの多くのパステル画、信濃追分滞在時(1983年)に描いた「観音像のある追分風景」・「ゆうすげの咲く追分風景」のペン画スケッチ、石本建築事務所勤務時に取り組んだ「秋元邸新築工事設計案Ⅰ(1938年5月6日)」図面などが展示されている。

 スケッチに描かれた「観音像」と思われる像は、今も国道18号線沿いにある追分別去れの石碑の奥に建っている。


「観音像のある追分風景」に描かれたものと思われる「観音像」(2018.2.6 撮影)

 また、立原道造が詠んだ次の詩『むらはづれの歌』の中に「馬頭観世音」として登場するのもこの観音像であろうか。

 咲いてゐるのはみやこぐさ と
 指に摘んで 光にすかして教へてくれた-
 右は越後へ行く北の道
 左は木曽へ行く中仙道
 私たちはきれいな雨あがりの夕方に
  ぼんやりと空を眺めて佇んでゐた
 さうして夕やけを背にしてまっすぐと
  行けば私のみすぼらしい故里の町
 馬頭観世音の叢に 私たちは生まれて
  はじめて言葉なくして立ってゐた
        (「立原道造詩集」より)

 東京の「立原道造記念館」の機能の一部は、南軽井沢にある「軽井沢高原文庫」移されたが、ここには「立原道造記念館」開設の4年前に、前庭に「立原道造詩碑」が設置されたゆかりの地であった。


「軽井沢高原文庫」の前庭に設置されている「立原道造詩碑」(2016.11.13 撮影)


代表作「のちのおもひに」の刻まれた立原道造詩碑(2016.11.13 撮影)


立原道造詩碑の設立趣意文の書かれているパネル、1993年7月30日付(2016.11.13 撮影)

 ここには次の文が刻まれている。

 立原道造詩碑

 詩人であり、建築家でもあった立原道造(1914.7.30~1939.3.29)は、1934年の夏、初めて軽井沢を訪れ、以後38年の夏まで幾度となく滞在し、ソネットに代表される詩や物語を生み出した。詩人が愛した浅間山麓の自然と風景は、昭和の抒情詩を代表する作品になるとともに、壮大な都市計画構想「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」にも示された。現代文学に少なからぬ影響を与えたその才能と資質を、私たちは普遍であると確信し、磯崎新氏に設計を依頼して、有志971名が相集い「立原道造詩碑」を建立した。

    碑文 立原道造自筆    詩碑 チタン鋳造    台座 イタリア産
   「のちのおもひに」より   CAST TITANIUM   PIETRA CARNIGLIA

                                  1993年7月30日
                             立原道造詩碑建立発起人会


新しい立原道造詩碑の説明パネル(2016.11.13 撮影)

 この設立趣意文にも書かれているとおり、定住はしなかったものの、立原道造と軽井沢・信濃追分とのつながりには深いものがある。

 室生犀星の「我が愛する詩人の傳記」の立原道造の章には、犀星がかつて住み現在は記念館として保存されている住居を、立原道造が訪れた時のことなどを次のように記している。

「立原道造の思い出というものは、極めて愉しい。軽井沢の私の家の庭には雨ざらしの木の椅子があって、立原は午後にやってくると、私が仕事をしているのを見て声はかけないで、その椅子に腰を下ろして、大概の日には、眼をつむって憩んでいた。・・・部屋では仕事をしながら私はそれを見て、或るしめくくりに達しるまで原稿を書いていた。・・・いつ来ても睡い男だ、そよかぜが顔を撫で、昏々と彼はからだぐるみ、そよかぜに委せているふうであった。・・・
 
・・・私の家を訪ねる年若い友達は、めんどう臭く面白くない私を打っちゃらかしにして、堀辰雄でも津村信夫でも、立原道造でも、みな言いあわせたように家内とか娘や息子と親しくなっていて、余り私には重きをおかなかった。・・・

・・・
    夢のあと
  《おまへの  心は
   わからなくなった
  《私の  こころは
   わからなくなった  (後略)

 追分村の旧家に一人の娘がいて、立原はこの娘さんを愛するようになっていた。この「夢のあと」一篇は立原にはめずらしく、心に突きこんだ現れを見せている。抒情の世界で溜息をつく詩の多い中で、この「夢のあと」は或日の机の上で書きちらしている間に、突然、殆んど自然にこんな現われを見せた四行を彼は別の紙に書いて、のこしても宜い詩のうちへ入れたものらしい。・・・

・・・私はその娘さんを一度も見たことはないが、一緒に散歩くらいはしていたものらしく、その途上にあった雑草とか野の小径や、林の上に顔を出している浅間山なぞが、娘さんのからだのほとぼりを取り入れて、匂って来るような彼の詩がいたるところにあった。娘さんとの交際は一、二年くらいのみじかさで終り、東京の人と結婚したらしい。いわば失恋という一等美しい、捜せば何処にでもあってしかも何処にもないこの愛情風景が温和しい立原に物の見方を教えてくれただろうし、心につながる追分村が、ただの村ざとでなくなっていたのであろう。

・・・また夏が来て或る日立原が軽井沢の私の家に、午前にやってきた。いつもとは違う気合が見え、そわそわとして私の言葉がよく彼の耳に落ち着いて聞こえぬらしかった。そうして今日は戸隠にいる津村信夫を訪ねるかたわら、戸隠にしばらく滞在するつもりだといった。戸隠に行くのに、何も態々来なくともよいのに、変だと私は彼の顔を見ると、立原はうわのそらにある眼付に狼狽の色をあらわし、突然、庭に出ていって表の道路の方を見たりした。その時分、立原に東京の人で第二の愛人ができているということを聞いていたので、私は彼をおちつかせるために言った。
「誰かと一緒に来たんじゃないか。」
「浅路(筆者注:水戸部アサイのこと)さんが東京から来ているんです。」
「それで、」
「前の土手に待って貰っているんです。」
「この暑いのに表に待たせるなんて、早く呼びたまえ。」・・・

・・・この浅路さんは二十六歳の若さで、中野療養所で昭和十四年三月に亡くなるまで、立原に付添って看護をしてくれた。・・・
・・・この長身痩身の詩人がたった二十六歳で死んだことは、死それ自身もあまりに突飛で奇跡的だ。・・・晩年、盛岡の深沢紅子の生家に滞在し、途中、山形の竹村俊郎の家に寄り、帰京後、旅の魔にとりつかれた彼は、山陰道を廻って長崎に着き、そこで一ヵ月近く滞在すると、暮の十二月に帰京した。この間の旅行の疲れがたたり肺を悪化させ、クリスマス前後に市の療養所に移った。・・・

・・・彼はいつも軽井沢の私の家に先き廻りして、追分から出てくると、次の列車で堀さんも今日は出てくると言い、それがその日の一等愉しい事であるらしかった。・・・そんな日の帰りには堀の買い物をもってやり、一緒に追分村に夕方には連れ立って帰っていった。絶対に彼を好いていた彼は、堀辰雄のまわりを生涯をこめてうろうろと、うろ付くことに心の張を感じていたらしかった。・・・
・・・(津村信夫を交え)異様ともいえるこの四人づれは結局、私の家にもどるのがせいぜいだったが、話もせずただむやみに機嫌好くぶらつくことが、心を晴れやかにする重要な要素であった。しかもこの若い三人の友達はさっさと先に死んでしまい、私は一人でこつこつ毎日書き、毎日くたびれて友を思うことも、まれであった。こういう伝記をかくときだけに彼らは現われ、私は話しこむのである。・・・」(以上、室生犀星著 「我が愛する詩人の傳記」1974年中央公論社発行から抜粋)

 立原道造は追分村の油屋旅館で、生涯の夏の大半を送ったともいわれているが、その油屋旅館の建物は、立原道造の遺志を継ぐ活動を目的に、2012年NPO法人「油やプロジェクト」が発足し、その拠点として活用されている。


現在の油屋旅館の入り口に建つ看板(2018.2.4 撮影)


NPO法人「油やプロジェクト」の説明板(2018.2.4 撮影)


現在の油屋旅館の建物(2018.2.4 撮影)

 この油屋旅館の近くに新築された追分公民館の玄関脇の壁には立原道造のレリーフ(加太彫江作)があり「村はずれの歌」が刻まれているのは余り知られていないようだが、立原道造は、この信濃追分の人々から深く愛されていることが知れる。


追分公民館の外観(2018.2.4 撮影)


壁面に埋め込まれている立原道造のレリーフ(2018.2.4 撮影)

 最後に、軽井沢を離れて、埼玉県さいたま市南区別所沼公園に、2004年に「ヒアシンスハウスを作る会」が建設した既述の「ヒアシンスハウス」について紹介する。

 このヒアシンスハウスは立原道造が自分の別荘としてこの地に建て、水戸部アサイと共に利用することを夢見ていたもので、ヒアシンスハウスを作る会は次のように記している。

 「・・・立原は、この五坪ほどの住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼び、五十通りもの試案を重ね、庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼した。さらに、住所を印刷した名刺を作り、親しい友人に配っていた。しかし立原が夭折したため、別所沼畔に紡いだ夢は実現しなかった。

 立原が、「別所沼のほとりに建つ風信子ハウス」を構想してから六十六年の時が過ぎた二〇〇三(平成十五)年、別所沼公園が、さいたま市の政令指定都市移行に伴い、埼玉県からさいたま市に移管された。これを機に、別所沼周辺の芸術家たちの交友の証として、立原がかつて夢みた《ヒアシンスハウス》は、「詩人の夢の継承事業」として建設の機運が高まり、二〇〇四(平成十六)年十一月、多くの市民たちや企業、行政の協調のもと、ここに実現することとなった。

                                  二〇〇四年十一月 ヒアシンスハウスをつくる会」


埼玉縣浦和市外六辻村別所ヒアシンスハウスの住所が記された名刺(ヒアシンスガイド、ヒアシンスハウスの会発行より)

 私は、現地に出向いて写真撮影する機会を持てなかったが、妻の友人Kさんが快く応じてくださって、現地の写真を送っていただいた。お礼を申し上げて、その写真を掲載させていただく。


さいたま市の別所沼公園内にある「ヒアシンスハウス」外観(2018.2.2 K女史撮影)


さいたま市の別所沼公園内にある「ヒアシンスハウス」の内部(2018.2.2 K女史撮影)
 



 

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庭にきた蝶(21)ヤマトシジミ

2018-02-02 00:00:00 | 
 今回はヤマトシジミ。前翅長9~16mmの小型の蝶で、全体として小型であるシジミチョウの中でも小さい部類である。年4-6回発生し、暖地性の蝶に属する。食草はカタバミ科のカタバミだけとされるが、このカタバミは繁殖力が強く庭の雑草として嫌われものの部類に属するくらいであり、そのおかげかこのヤマトシジミは、北海道と青森県を除く全国津々浦々どこででも普通に見かける種である。近年、分布が北上しているとされる。

 類似種にシルビアシジミがいるが、ヤマトシジミの方がより大きく、シルビアシジミでは前翅の裏面の中室内に黒点のないこと、後翅裏面の外側より3列目の黒点列のうち、前より2番目の黒点が内方にずれるため、黒点の形成する円弧がここで分断される点で区別される。また、シルビアシジミの生息域は離散的で限定されているので、長野県のこの地方ではシルビアシジミに出会うことはまずなさそうである。


ヤマトシジミ(上)とシルビアシジミの後翅裏の黒点の違い

 両種は混棲し、且つ酷似していたことからシルビアシジミの存在は長く知られなかったが、1941年以来話題の蝶として注意されるに至ったという(原色日本蝶類図鑑)。

 それにしても、かたや最も日本らしい「ヤマト」を冠した名前をつけられ、もう一方は西欧風の「シルビア」という名前をつけられたこの2種。この「シルビア」の命名の由来は何なのかが気になり調べてみたところ、次のようなことが判った。

 鳥取県東伯郡羽合町(現・湯梨浜町)生まれの中原和郎(わろう)博士(1896-1976)は1918年にコーネル大学を卒業後、ロックフェラー医学研究所、理化学研究所、東大伝染病研究所などで研究を進め、1923年 京都大学医学博士、1948年から財団法人癌研究会所長を務め、1962年、国立がんセンター研究所初代所長となるが、留学中の1918年にドロシー婦人と結婚、翌1919年には二人の間に生まれたシルビア嬢を授かるも、その娘は生後7か月半で夭折する。

 中原博士は、外国産蝶コレクションの草分け、日本産蝶の分類研究者としても知られ、『世界の蝶 原色図鑑』黒沢良彦共著(1958 北隆館発行)もあるが、娘を失った直後に2種類の蝶を発表し、1種はドロシー夫人の名前にちなんだ学名を、もう1種類にはZizerasylviaという学名を与えている。この学名はその後の研究で無効となるが、和名「シルビアシジミ」は今も使われ続けているという。

 シルビアシジミそのものについては、1877(明治10)年7月12日、東京大学で英語教師をしていたフェントン氏が、栃木県の鬼怒川で日本初となるシルビアシジミを発見したとされる。世界初ではなかったものの、日本初のシルビアシジミは今でも大切に大英自然史博物館に保管されているという。

 シルビアシジミのことが長くなったが、元に戻る。義父のコレクションに両種があるので、比較すると次のようである。


左側上からヤマトシジミ♂、同♀、同裏面♂、右側シルビアシジミ♂(2018.2.1 撮影)

 雌雄の判別は、♂が翅表全体が紫青色で、縁が黒く、♀は暗灰~黒色部が広いことで容易である。翅裏では♂♀で色彩・斑紋はほぼ同様とされるので、判別は困難である。
 
 卵は0.5mmの扁平なまんじゅう型、終齢幼虫は体長12mmの緑色、4-5齢で蛹化し、蛹は細長いだるま型、黄緑色や褐色で体長9mm、帯蛹とされる。越冬態は幼虫と断定している文献(「信州浅間山麓と東信の蝶」 信州昆虫資料館発行、チョウ② 保育社発行)と、不定(「イモムシハンドブック」 文一総合出版発行」)としているもの、そして蛹(ウィキペディア 2015.3.24付け)とするものなどと異なっていて、身近な蝶だけに不思議である。私はまだ幼虫や蛹の姿を見たことは無い。どちらかというと、地味で無視され続けている存在である。この蝶もいずれ生活史を3D撮影しなければならないと改めて思う。
 
 いつもの「原色日本蝶類図鑑」には次のような表現で、ヤマトシジミのことが書かれている。

 「春秋好天の日は忘れることなく庭の一隅に飛来して、草花を訪れるやさしい蝶の一つである。4-5月から路傍いたるところの叢に現われ、秋もおそくまで姿を見かける。・・・」

 長野県でもほぼ全域の市街地を含む平地から低山地にかけて生息し、垂直分布の上限は1000mとされているが、軽井沢でもときどき見かける。我が家の庭では、花に吸蜜にくることはあまりなく、気がつくとチラチラと辺りを飛んでいる姿にであうといった具合である。写真の方も、吸蜜に来た姿を撮影できたのは次の1枚だけと言う状況であった。翅を閉じていると、前記のように雌雄の判別ができない。ただ、同じ時に撮影した他の写真で僅かに開いた翅表が見える場合には、そこからの判断で雌雄を示しておいた。
 

キャットミントに吸蜜にきたヤマトシジミ♂(2016.10.4 撮影)

 とても小さいので、よく見ないとわからないが、♂の翅表の色はなかなか美しい。一方♀のほうは暗灰色で目立たない。


庭の葉の上で休息するヤマトシジミ♂(2016.7.28 撮影)
 

枯れ草の上で休息するヤマトシジミ♂(2017.4.15 撮影)


庭の葉の上で休息するヤマトシジミ♂(2016.7.28 撮影)

 次の交尾写真は雌雄の大きさの違いが際立っているが、資料をみても、自宅にある標本写真を見ても、これほどの差は認められない。また、翅裏の色の違いも明確ではあるが、翅表がはっきり見える写真が撮れていないので、雌雄の判別はできなかった。


庭の葉の上で交尾するヤマトシジミ(2016.4.30 撮影)






 
コメント (2)
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