軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

地梨子酒つくり

2017-10-27 00:00:00 | 日記
 佐久平方面に車で出かけ、農産物の直売所に立ち寄った時に、地梨子(ジナシ)の実が売られているのに妻が気付いた。とても大きな実で、完熟しているためか袋の外からもいい香りがしており、実の色も黄にピンク色が混じっているものもある。

 地梨子とはクサボケの実のことで、木の丈に似合わずこのクサボケには大きな実がなる。地梨子採りのことは、昨年8月13日のこのブログで紹介したが、元の職場の先輩Tさんに誘われて望月の別荘付近で採りに出かけ、少量の実を得て果実酒を作った。

 香りの良い、おいしい果実酒ができ、すっかり地梨子酒ファンになっていたが、採集できた実の量が少なかったこともあって、すぐに飲んでしまっていた。

 今年は都合でまだ地梨子採りが実現できておらず、残念に思っていたところであったので、この偶然の出会いに感謝しつつ、さっそくこの実を買って帰り、地梨酒を作ることにした。


A農産物直売所で買った地梨子の実、大きいものは1個で70gほどある(2017.9.23 撮影)

 地梨子酒の作り方は梅酒などと同じで、いたって簡単である。ネット検索で見つけたレシピを参考に、先ず良く洗った実を4-6片に切った。切った実の様子は、種の感じなども梨にとてもよく似ている。地梨子と呼ばれる所以である。


4-6片に切った地梨子の果実(2017.9.23 撮影)

 漬け込むアルコールは、ホワイトリカーが一般的だが、今回はうっかりしていて果実酒用のブランデーミックス品を買ってしまったので、自宅に買い置きのあったホワイトリカーとの2種類になった。

 この地梨子酒のことを教えてもらったTさんから、手造りの地梨子酒を頂いたことがあるが、それらはブランデーやウィスキーに漬け込んだものであったので、今回のブランデーミックスも楽しみではあるが、地梨子そのものの香りを楽しむには、ホワイトリカーもまたいいのではと思っている。

 分量は、35%ホワイトリカー1,800ml に対して、地梨子果実500~600g、氷砂糖300~400gを目安とした。買ってきた地梨子は山採りのもので、一部虫食いがあったが、それらを取り除き使用しても重量は3kgほどあった。


ホワイトリカーに漬け込んだ地梨子1/2(2017.10.10 撮影)


ホワイトリカーに漬け込んだ地梨子2/2(2017.10.10 撮影)


ブランデーミックス・ホワイトリカーに漬け込んだ地梨子(2017.10.10 撮影)

 大量に漬け込むことができたので、今回は慌てることなく1年後、2年後を楽しみにじっくりと熟成させようと思う。

 ところで、こうした果実酒作りに氷砂糖を用いるのは何故だろうか。甘みをつけるだけの目的であれば、どのような砂糖を用いてもよさそうに思えるのであるが。。。

 実は、氷砂糖には3つの役割があるようだ。

1.うまみ成分抽出のスピードアップ
  漬け込んだ果実のうまみ成分を抽出する役割は、ホワイトリカーの中のアルコールと水である。うまみ成分には水溶性のものとアルコールに溶けるものとがあるとされている。

  果実には糖分が含まれているため、浸透圧の関係でホワイトリカーに漬け込んだ果実には、アルコールと水がしみ込んでいき、内部にあるうまみ成分を溶かし込んでいく。

  この時、砂糖を用いるなどして、すでにホワイトリカーに糖分が溶け込んでいると、浸透圧が逆に作用して、果実から水分だけが出てしまい、うまみ成分が果実内に取り残されてしまう。漬け込んだ初めのうちはホワイトリカーには糖分が溶け込んでいないほうがよいことになる。

  次に、氷砂糖がゆっくりと溶けて、ホワイトリカーの糖分濃度が高くなってくると、うまみ成分を伴って果実から水分とアルコールがしみ出てくる。糖分濃度の上昇はうまみ成分を抽出するスピードを上げる効果がある。

2.腐敗防止
  果実酒は数ヶ月から1年以上の期間保存することになる。この期間中のカビの発生や腐敗防止の効果が期待される。氷砂糖を用いる場合にも、使用容器などの殺菌は欠かせないが、用いない場合には35度のホワイトリカーを用いる場合でも、より入念な殺菌が必要とされる。

3.おいしさ
  これは好みの問題でもあるが、甘みをつけることでホワイトリカー特有の味を消し、おいしさをつけることができる。

 さて、果実酒の王者といわれる地梨子酒、今回の完熟果実を用いたものがどんな風に仕上がるのかとても楽しみである。


  
 

 

 

 
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庭にきた蝶(15)ヒメアカタテハ

2017-10-20 00:00:00 | 
 今回はヒメアカタテハ。前翅長25~33mmの中型の蝶。タテハチョウ科、アカタテハ属に属し、世界共通種として有名とされる。同属のアカタテハとはとてもよく似ているが、それ以外に近似種はいないので、他種との識別は容易である。

 アカタテハとの区別は、後翅表の赤色部がほぼ全体に広がっているのがヒメアカタテハで、外縁に沿って帯状になっているのがアカタテハということで、比較的見分けやすい。一方、雌雄の区別はとても難しい。

 食草は、ハハコグサ、ヨモギ(キク科)、カラムシ(イラクサ科)などで、都市部などでもよく見かけ、分布は全国に広がっている。

 年3回程度の発生と推定されており、関東南部では幼虫で越冬しているが、西南日本の暖地では、成虫でも越冬するなど、決まった越冬態を持たない(「信州 浅間山麓と東信の蝶」鳩山邦夫・小川原辰雄 著 2014年4月30日 信州昆虫資料館 初版第一刷発行)。

 名前の「ヒメ」はアカタテハに比べてやや小型ということでつけられたものと思われるが、次に示すようにその性質はアカタテハよりむしろ強いようである。

 愛用の「原色日本蝶類図鑑」(【増補版】江崎悌三校閲・横山光夫著、昭和39(1964)年、保育社発行)のヒメアカタテハの項には次のような興味深い記述がある。

 「本種は全世界を征し、世界いずれの国にも分布し、おびただしい大群をなしアフリカから遠く地中海を渡ってヨーロッパに移動する情景は、驚異的な壮観として多くの文献絵画に示されているのは、あまりにも有名である。・・・」

 北米大陸のオオカバマダラやアジア・日本のアサギマダラとはまた違った形で、長距離の移動をする蝶ということになる。日本に生息しているヒメアカタテハはこの移動に関してどのような行動をとっているのか興味深いが、手元にある関連の図書にはそうした記述は見当たらない。

 我が家の庭のブッドレアには毎年吸蜜にやってくるが、撮影できたのは今年3回であった。


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ1/9(2017.8.18 撮影)


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ2/9(2017.8.18 撮影)


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ3/9(2017.8.18 撮影)


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ4/9(2017.8.18 撮影)


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ5/9(2017.8.18 撮影)


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ6/9(2017.8.18 撮影)


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ7/9(2017.8.18 撮影)


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ8/9(2017.8.18 撮影)


ブッドレアで吸蜜するヒメアカタテハ9/9(2017.8.18 撮影)


木道上で翅を広げるヒメアカタテハ(2017.8.18 撮影)

 ブッドレアで吸蜜しているヒメアカタテハを撮影している時に、キイロスズメバチがこのヒメアカタテハを襲うという事件が起きた。このキイロスズメバチはブッドレアの蜜を吸っているのではないようだが、次々と花を巡りながら、そこに蝶などがいると猛然と攻撃して追い払っていく。撮影にはとても邪魔な存在である。

 ヒメアカタテハも同様に追い払われたわけであるが、後で写真を見ると羽ばたいてキイロスズメバチを一蹴しているようにも見え、なかなか気が強いのではと思う。








ブッドレアで吸蜜中に、キイロスズメバチに襲われるが、これを一蹴する(ようにみえる?)ヒメアカタテハ(2017.9.5 撮影)

 ちょうどこの原稿を書いているときに、アメリカ・デンバーのレーダーにヒメアカタテハの幅110キロにも及ぶ大群が捕らえられたとの2017年10月10日付のニュースが入ってきた。上記の「原色日本蝶類図鑑」に書かれていたことが、ヨーロッパだけではなく北米大陸で現在も起きているのである。

 以下にそのニュースの一部をを引用する(https://irorio.jp/sophokles/20171010/420923/より引用)。

「気象レーダーに映った『謎の雲』は幅110キロにわたる蝶の大群だった!
 Text by Sophokles,US National Weather Service Denver/Boulder Colorado/Facebook
 アメリカ国立気象局の発表によると、コロラド州デンバーの気象レーダーが、巨大な蝶の「雲」を観測したとのこと。・・・

 専門家が誤解した謎の雲
 アメリカ国立気象局(コロラド州ボルダー支局)が、その映像をGIF画像でTwitter上に公開している。
 同局の専門家たちは当初、この「雲」を渡り鳥の大群だと誤解した。・・・

 風に流された蝶の大群
 気象局が蝶であると信じなかった理由は、謎の雲が動く方向だった。この季節に大移動する蝶は南に行く。だが、映像では北北東に動いている。

 この件を報道した海外メディアによると、コロラド州デンバー地域に住む多くのTwitterユーザーがヒメアカタテハ蝶の大群を実際に目撃していたそうだ。」

 一体、どれくらいの数のヒメアカタテハがこうして移動しているのであろうか。
























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軽井沢文学散歩(1)室生犀星

2017-10-13 00:00:00 | 軽井沢
 今日は軽井沢文学散歩。といっても、文学を語ることができるわけではないので、軽井沢ゆかりの文士に関連する場所の紹介をしてみたい。初回の今回は大正期から昭和中期までのあいだ活躍した日本文学を代表する詩人・小説家の一人とされる室生犀星。
  
 北陸新幹線が2015年3月に開通し、軽井沢と金沢が1時間あまりで結ばれたことを、室生犀星がもし生きていれば大層喜んだのではないだろうか。

 室生犀星(本名照道)は明治22(1889)年8月1日、石川県金沢市の生まれ。加賀藩・足軽組頭を勤めた小畠弥左衛門吉種を父に、女中はるを母として生まれたが、生後1週間後に赤井ハツのもとに養子として出され、命名されている。

 室生姓は、この養母赤井ハツが内縁関係にあった雨宝院住職の室生真乗の養嗣子になったことで、7歳のころから名乗るようになった。

 犀星の名は、金沢市内を流れる犀川の西で生まれ育ったことから思いついたとされ、西を星に変えて犀星としている。

 秋の連休の三日目、妻と二人で旧軽井沢銀座の人ごみの中を抜けて、ロマンステニスコートとユニオン
チャーチの間の道を歩き、万平ホテルに向かう。その途中、道を左に曲がるとすぐに、室生犀星旧居(記念館)の案内板が目に入る。


室生犀星旧居の案内板(2017.10.8 撮影)

 この案内板と道路をはさんで反対側には、軽井沢町内のあちらこちらに見られる、軽井沢観光協会が設置した金属製の道案内標識がある。内部には浅間石の小石が詰められていて、上部のプレートには説明文が記されている。


「犀星の経」の道案内標識(2017.10.8 撮影)


「犀星の経」道案内標識の上部に記された説明文(2017.10.8 撮影)

 この案内板を左に曲がり少し行くと右側に室生犀星旧居がある。現在軽井沢町教育委員会が記念館として管理していて、入場料は無料である。


室生犀星旧居入り口(2017.10.8 撮影)

 入り口を入るとすぐに美しい苔が目に入る。苔の向こうに見える左側の建物が母屋であり、正面に見えるのは来客用の離れである。また、母屋の左側には別棟の書斎がある。


室生犀星旧居の母屋(2017.10.8 撮影)


室生犀星旧居の離れ(2017.10.8 撮影)


室生犀星旧居の書斎(2017.10.8 撮影)

 室生犀星記念館で配布しているパンフレットには次のように記されている。

 「室生犀星がはじめて軽井沢を訪れたのは大正9(1920)年の夏のことです。軽井沢の清涼な空気と美しい自然に魅せられた犀星は、つるや旅館を常宿とし、萩原朔太郎・芥川龍之介・松村みね子らと交友を深めました。・・・

 この旧居は、昭和6(1931)年に建てられたもので、亡くなる前年の昭和36(1961)年まで毎夏をここで過ごしました。また、昭和19年から24年まで、一家をあげて疎開生活を過ごしたのもこの旧居です。

 この家には、堀辰雄・津村信夫・立原道造ら若き詩人たちが訪れたり、近くに滞在していた志賀直哉・正宗白鳥・川端康成ら多くの作家との交流もありました。・・・」

 犀星は母屋の縁側に座り、前にある離れのほうを眺めるのが好きであったと、管理人の女性から説明を受け、我々も同じように縁側に座って庭を眺めた。

 *このブログ記事を読んでくれた友人のNさんから、さっそく犀星の次の句があるよと連絡をいただいた。まさに、この縁側から庭の苔を眺めようとして立ち上がる情景が浮かんでくる句である(2017.10.13 追記)。

 ”庭石の苔を見に出る炬燵かな”


犀星が好きであったという縁側から離れと庭を眺める(2017.10.8 撮影)


母屋の縁側から見た離れの眺め(2017.10.8撮影)


母屋の縁側から見た庭の眺め(2017.10.8 撮影)

 当時も同じ様子であったかどうか定かではないが、現在庭は軽井沢特有の厚い苔で覆われていて、大切に保護されている。苔の種類は10種以上もあるということで、「コウヤノマンネンゴケ」という名前の、軽井沢ではここだけにしかないという珍しい苔も含まれている。この苔を川端康成が自宅に持って帰ったという逸話も残されている。


「コウヤノマンネンゴケ」(2017.10.8 撮影)

 軽井沢の冬はとても寒い。冬は今でもマイナス18度くらいになることがあるが、この建物の中でどのようにして冬を過ごしたのであろうか、厳冬期のきびしい暮らしが想像される。

 当時はまだ、水道は無く、玄関脇にある井戸を使用していたのであるが、水道はあったとしても、冬は凍結してしまう。現在でも別荘など冬には水が利用できなくなるところも多い。

 犀星の文学活動は大正7(1918)年の処女詩集「愛の詩集」とそれに続く「抒情小曲集」に始まる。最近の義務教育で教えられているものかどうか定かではないが、我々の年代の者には、「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの、よしや、うらぶれて異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや」という一節はよく記憶に残るところである。

 小説では翌年大正8(1919)年に自伝的小説「幼年時代」を「中央公論」に発表している。これに続く幾つかの作品で小説家としての地位を築くがやがて長い沈滞期を迎え、再出発したのは昭和9(1934)年の「あにいもうと」をはじめとする作品であった。

 軽井沢には堀辰雄を伴って来ており、これが契機になり堀辰雄は軽井沢と信濃追分を舞台とした作品を書くことにつながる。

 多くの作家との交友は続くが、昭和14(1939)年に立原道造が24歳で逝き、その後17(1942)年に萩原朔太郎、北原白秋、翌18(1943)年に徳田秋声、19(1944)年に津村信夫を相次いで失うことになる。

 昭和24(1949)年からの2度目の空白期間を経て、昭和30(1955)年に連載「女ひと」を「新潮」に発表して復活し、その後「杏っ子」で読売文学賞を受賞する。

 この後も旺盛に作品を書き続けたが、昭和34(1959)年に「かげろふの日記遺文」で野間文学賞を受賞した際の記念として、「犀星文学碑」を昭和36(1961)年、自らが土地の選定・設計を行い建設費を出し、矢ケ崎川のほとりに建立させた。そして、翌年昭和37(1962)年に肺がんのために永眠している。72年余の生涯であった。

 この文学碑は記念館から少し離れた場所にある。旧軽井沢銀座通りを抜けて碓氷峠の方に向かうと、矢ケ崎川にかかる二手橋に出る。橋を渡り右側に進むと碓氷峠であるが、道を左側にとり川に沿ってしばらく進むと左手に文学碑(詩碑)を示す案内柱が見える。


室生犀星詩碑の案内柱(2017.10.8 撮影)

 文学碑は右側の石垣に埋め込まれた形で造られている。その傍には、犀星が旧満州国旅行の帰途、京城(現ソウル)で買い求めたという石の俑人像が2体設置されていて、この文学碑を見守っている。


矢ケ崎川畔にある室生犀星の文学碑周辺の様子(2017.10.8 撮影)


室生犀星文学碑(2017.10.8 撮影)

 この文学碑には、昭和3(1928)年に刊行された詩集『鶴』の中の一編「切なき思ひぞ知る」が刻まれている。

 我は張り詰めたる氷を愛す
 斯る切なき思ひを愛す
 我はそれらの輝けるを見たり
 斯る花にあらざる花を愛す
 我は氷の奥にあるものに同感す
 我はつねに狭小なる人生に住めり
 その人生の荒涼の中に呻吟せり
 さればこそ張り詰めたる氷を愛す
 斯る切なき思ひを愛す。

      昭和三十五(年)十月十八日
            室生犀星
                之建


室生犀星詩碑説明板(2017.10.8 撮影)


室生犀星文学碑を見守る俑人像(2017.10.8 撮影)

 この犀星文学碑から200m先で道を右にそれて、ゆるい上り坂の山道を行ったところに、交流のあった正宗白鳥の詩碑がやはりひっそりと建っている。


正宗白鳥詩碑の案内板(2017.10.8 撮影)


正宗白鳥の詩碑(2017.10.8 撮影)

 旧軽井沢銀座の喧騒を離れて、この2箇所の文学碑・詩碑の回りにはこの時期訪れる人も無く静かである。


観光客で賑わう旧軽井沢銀座通り(2017.10.8 撮影)
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庭にきた蝶(14)ナミアゲハ

2017-10-06 00:00:00 | 
 今回はナミアゲハ、種名は単にアゲハと呼ぶのが正式のようで以下この「アゲハ」を用いるが、アゲハチョウ科、アゲハチョウ亜科、アゲハチョウ属に属する。前翅長35~60mm。北海道から南西諸島、小笠原諸島にまで、ほぼ日本全土に棲息する種で、日本以外でも朝鮮半島、中国、台湾、グアム島などに広く分布する。

 もっともよく目にすることのできるアゲハチョウの仲間のひとつといえる。ナミアゲハとは気の毒な呼称であるが、「アゲハ」が科全体のことを指す場合があるので、この名前もやむを得ない。

 大阪市内に住んでいた子供の頃、この蝶をカミナリチョウと呼んでいた記憶がある。調べてみると確かに大阪ではそのように呼ばれていたとの話もあるが、キアゲハやアオスジアゲハのことをカミナリチョウと呼ぶ場合もあるようで、いまひとつはっきりとしない。

 母などは、今でもアゲハを見ると、カミナリチョウと呼んでいるが、キアゲハやアオスジアゲハとの区別がついていないので参考にはならない。もう死語に近いのではと思う。

 とてもよく似た種にキアゲハがいて間違いそうだが、前翅中室付け根部分の線状の模様の有無で区別できる。

 食草(樹)も異なり、アゲハはサンショウ、カラタチ、ミカン類(ミカン科)であるが、キアゲハはセリ、ミツバ、ニンジン、パセリ、アシタバ、シシウド(セリ科)を食べる。

 都会でも庭木のミカン類にはよくこのアゲハの幼虫を見かける。小さな鉢植えなどでは、数匹の幼虫がいると葉がなくなり丸坊主になってることがある。

 暖地では年3~5回、寒冷地では年2回発生するとされ、蛹で越冬する。

 軽井沢にももちろん棲息しているが、目撃頻度はというとそれほど多くはない。庭のブッドレアに吸蜜に来ているところを撮影できたのは、ここ2年間で数回にとどまる。


ブッドレアの花で吸蜜するアゲハ 1/7。後翅裏にユリのものだろうか、赤い花粉をつけている(2016.8.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するアゲハ 2/7(2016.8.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するアゲハ 3/7(2016.8.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するアゲハ 4/7(2016.8.1 撮影)


ブッドレアの花の近くで飛翔するアゲハ 5/7(2016.8.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するアゲハ 6/7(2016.8.1 撮影)


ブッドレアの花で吸蜜するアゲハ 7/7(2016.8.1 撮影)

 2015年の秋、アゲハの幼虫を数匹飼育して、蛹化の様子を3D撮影していた。

 終齢幼虫が餌を食べなくなり、歩き回り始めるのを見計らって枯れ枝に誘導すると、そこで蛹化するが、よく似た枯れ枝にもかかわらず蛹の色が緑色、オレンジ色、褐色と異なる結果になった。蛹の色は周囲の色に合わせた保護色になるものと思っていたが、それだけではなさそうである。この蛹はそのまま越冬し、翌2016年5月に羽化したが、蛹の色は幾分変化したものの、そのままであった。


2015年10月に蛹化して越年した緑色とオレンジ色の蛹(2016.5.6 撮影の3D 動画からのキャプチャー画像)

 この蛹の色を決める要因について調べたところ、大変興味深い内容が書かれている書籍に出会った。「蝶・サナギの謎」(平賀壮太著 2007年3月20日 トンボ出版発行)である。


アゲハの蛹の保護色決定のしくみについて書かれている「蝶・サナギの謎」の表紙

 この本によると、アゲハの蛹の色は、「周りの色」を見て決めていたのではなく、蛹化する場所の表面の粗さから受ける触覚刺激の累積により決まるという。この触覚刺激の累積値が、「しきい値」を超えると褐色の蛹になり、それ以下だと緑色の蛹になるというのである。

 また、褐色か緑色かを決めるこの「しきい値」は周囲の明るさ、環境の湿度、食草の種類により変化することも示されている。

 その結果、「周りの色」を直接見なくても、結果的に、蛹はうまく周囲の色に合わせた保護色を獲得しているものと考えられている。

 私が今回飼育したアゲハは、蛹の状態で越冬する休眠サナギであったが、この場合にはサナギの色は褐色と緑色のほかに中間的なオレンジ色になることがある。この休眠サナギの場合の色の決定メカニズムは、この本に示されている非休眠サナギとはまた異なる生理的要因があるということで、その解明が待たれる。

 さて、このアゲハの終齢幼虫が蛹化するところを(3D)撮影していたので、ご覧いただこう。その様子は、以前キアゲハの時に紹介したものととてもよく似ている。

 映像からでは判りにくいが、よくみると糸山作りをしている時には、頭部の口の両脇にありアンテナ役をしている機械感覚毛とされているヒゲが木の枝の表面に接触しているのが判る。このアンテナで蛹化する場所の粗さからの刺激を受けていることになる。

 終齢幼虫は、糸を吐きながら何度も枝を行ったり来たりして、尾脚を固定する場所には特に念入りに、たくさんの糸を吐いて糸山を作る、そしてここに尾脚をしっかりと固定する。

 次に、左右に頭を振りながら帯糸をかける。今回この個体の場合は、6往復半し、13本の糸をかけたところで頭をこの糸束にくぐらせて体を糸にあずける。


アゲハの糸山作りと帯糸作り(2015.10.6 11:40~13:30 30倍のタイムラプスで撮影したものを編集)

 そしてしばらくすると頭部が割れて、幼虫時の表皮を尾の方にたぐり寄せて脱皮し蛹になる。表皮が尾脚近くまできたところで、蛹のしっぽの先を抜いて、糸山に押し付けしっかりと固定し、その後激しく体をくねらせて、表皮を完全に脱いでしまう。蛹のしっぽの先には、かぎ状の突起がたくさんついていて、これが糸山の糸に絡むので容易にははずれないという具合である。


アゲハの蛹化(2015.10.6 14:20~10.8 7:20 30倍のタイムラプスで撮影したものを編集)

 越冬した蛹の色は相変わらず緑色とオレンジ色をしている。5月になると、蛹の殻を透して中で翅が成長している様子が見えるようになる。こうなるといよいよ羽化が始まる。


アゲハの羽化(2016.5.6 03:05~5.7 07:15 実時間撮影したものを編集)

 まるまる一日断続的に撮影をしたが、朝見てみると羽化して飛び立ち、窓枠に止まっていたので、そのまま窓から外に逃がしてやった。外の庭木に止まりしばらくは羽を広げて休息していたが、やがて大空に飛び去っていった。


羽化後飛び立って、庭木にとまり翅を広げるアゲハ 1/2(2016.5.7 撮影)


羽化後飛び立って、庭木にとまり翅を広げるアゲハ 2/2(2016.5.7 撮影)

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