軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

山野で見た蝶(5)北軽井沢探チョウ(2/4)

2019-08-30 00:00:00 | 
 前回に続いて北軽井沢で7月下旬に撮影した蝶を紹介させていただく。

 最初はトラフシジミ。前翅長16~21mm。本州の寒冷地では年1回の発生、暖地では年2回発生し、春型(4~5月)と夏型(7~8月)があるとされる。食草はフジ、クズ、ハリエンジュ、ウツギ、ノイバラなど。蛹で越冬する。

 このチョウにも今回は2日とも出会うことができた。7月17日が私にとっては初めてのトラフシジミとの出会いであったが、その姿は図鑑などでよく知っているものであったので、すぐにそれと判った。その時は、写真を1-2枚撮影したところで、飛び去ってしまい、満足のゆく撮影はできなかった。2回目の24日は複数の個体が見られ、スジボソヤマキチョウや数種類のヒョウモン類などと共に、夢中になってオカトラノオの花で吸蜜しているところであったので、ゆっくりと撮影することができた。

 翅はずっと閉じていたので、翅表の写真は撮ることができなかったが、飛び立つ時にチラと青い色を確認することができた。雌雄の判別は、翅表にある性標で行えるとされているが、そのようなわけで、翅裏だけからでは難しく、できていない。

 撮影日が7月17日と24日ということで、夏型発生の時期であるが、写真で見ると7月17日に撮影したものの翅裏の色はやや春型に近いように見える。24日に撮影したものは夏型特有の翅色を持っている。

 ところで、トラフシジミの2つの型については、いつもの「原色日本蝶類図鑑」(横山光夫著 1964年保育社発行)には次のような興味深い記述がある。

 「・・・この2つの型は同じ雌によって産卵されて蛹化し、その一部は第2化の夏型として現われ、残りの一部は蛹のまま夏から秋・冬を越して翌春発生する。・・・本種のように同時に行われた産卵によって発生が1回と2回の混合というのは極めて珍しい例といえる。」

 「信州 浅間山麓と東信の蝶」には次のように紹介されている。「長野県ではほぼ全域の山麓部平地から山地にかけ分布し、生息域も比較的広い。東信地方でも普遍的に生息し、樹林地林縁部などで比較的よく見られる。平地、低山地では開発などの影響を受けることもあるが、目立った個体数の増減は認められない。」


葉上で休息するトラフシジミ夏型1/8(2019.7.17 撮影)


葉上で休息するトラフシジミ夏型2/8(2019.7.24 撮影)


草の間を動き回るトラフシジミ夏型3/8(2019.7.24 撮影)


草の間を動き回るトラフシジミ夏型4/8(2019.7.24 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するトラフシジミ夏型5/8(2019.7.24 撮影)


葉上で休息するトラフシジミ夏型6/8(2019.7.24 撮影)


草の間を動き回るトラフシジミ夏型7/8(2019.7.24 撮影)


草の間を動き回るトラフシジミ夏型8/8(2019.7.24 撮影)

 次はウラゴマダラシジミ。前翅長17~25mm。年1回の発生で、食草はイボタノキ、ミヤマイボタなど。卵で越冬する。

 この種もまた、私には今回初めて見るものであった。

 草原を取り巻く林辺の高木の枝の周りを飛び回っている小さい白い蝶を目で追っていると、やがて下のほうの枝先にとまり、長い間そこにとどまってくれたので、じっくり撮影することができた。それがこのウラゴマダラシジミであった。その後枝先から飛び立って、少し離れた場所にある白い花に止まり吸蜜を始めた。

 このチョウは、ゼフィルス類の筆頭に挙げられることが多いようであるが、尾状突起もなく他のミドリシジミ類とは外観が大きく異なっていて、何故?と思ってしまう。前出のカラスシジミの方がよほどゼフィルスに相応しい翅裏の紋様を持っている。

 このチョウについての「信州 浅間山麓と東信の蝶」の記述は次のようである。「長野県では山麓部平地から山地にかけて、ほぼ全域に生息する。東信地方でも普遍的に見られるが、減少した産地も聞かれる。里山のチョウであり、開発や雑木林の荒廃は、本種の発生にも影響すると考えられる。」

 このチョウもまた、翅を閉じたままであったので、翅表の写真はない。前翅の形状の丸みが強いことから雌ではないかと判断している。


枝先にとまるウラゴマダラシジミ1/4(2019.7.24 撮影)


枝先にとまるウラゴマダラシジミ2/4(2019.7.24 撮影)


枝先にとまるウラゴマダラシジミ3/4(2019.7.24 撮影)


花にとまり吸蜜を始めたウラゴマダラシジミ4/4(2019.7.24 撮影)
 
 次は、スジボソヤマキチョウ。前翅長28~40mm。年1回の発生で、6月下旬頃から羽化する。盛夏は活動を休止して越夏し、秋に一時的に活動して成虫越冬する。越冬個体は翌春、4月頃から活動を開始し、産卵行動をとり、5月頃まで見られる。食草はクロウメモドキ、クロツバラ。

 この種は、比較的よく見かける種で、これまでにも何度も草原で出会い、撮影もしている。また、白糸の滝に出かけたときに、観光客の周りを飛んでいるのを目撃したこともある。今回は車道を走っている時に道路わきのアカツメクサに止まっている個体を見つけて、その場で車を停めて撮影した。その後、駐車場に車を停めて登って行った丘の上の遊歩道沿いに咲いているオカトラノオの花で吸蜜中の個体を見つけ撮影した。

 ヤマキチョウに酷似していて、素人目には両種の区別が付きにくいが、独特の翅形状を持つので、この2種以外との差は明瞭。前出の本「信州 浅間山麓と東信の蝶」には両者がそれぞれ、次のように記されていて、ヤマキチョウの方は減少が顕著である。

 「ヤマキチョウは、長野県では中部を中心に低山地から高原にかけて生息するが、東信地方を含め産地、個体数は減少しており、近年の記録も少ない。環境省版、長野県版ともレッドリストで絶滅危惧Ⅱ類に区分されている。」

 「スジボソヤマキチョウは、長野県では全域で山麓部平地から山地にかけて生息している。東信地方でも広く確認されており、比較的普通に見られるものの、開発等で個体数が減少している産地もある。」

 両種の幼虫の食草は共にクロツバラが挙げられているので、減少傾向に大きな差があるのは不思議な気もするが、スジボソヤマキチョウの方は、クロウメモドキも食草としているので、食草に対する選択股の多寡が生息個体数の差になっているのかもしれない。


オカトラノオの花で吸蜜するスジボソヤマキチョウ♂1/5(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するスジボソヤマキチョウ♂2/5(2019.7.24 撮影)


アカツメクサの花で吸蜜するスジボソヤマキチョウ♂3/5(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するスジボソヤマキチョウ♂4/5(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するスジボソヤマキチョウ♂5/5(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するスジボソヤマキチョウ♂とヒョウモンチョウ1/2(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するスジボソヤマキチョウ♂とヒョウモンチョウ2/2(2019.7.24 撮影)

 スジボソヤマキチョウとヤマキチョウの同定ポイントは、前翅の尖り具合とされている。今回撮影した種は、スジボソヤマキチョウと見てよさそうである。雌雄の別については、ピントははずれてしまったが、飛び立つ姿を捉えることができて、黄色い翅表が見えるので、雄と判定できる。


飛翔するスジボソヤマキチョウ♂(2019.7.24 撮影)
 
 今回はお目にかかることができなかったヤマキチョウの方だが、「信州 浅間山麓と東信の蝶」の巻頭寄稿「舞姫たちよ、永遠に!」の中の、「今、ヤマキチョウに熱い」で故鳩山邦夫氏は次のように記している。

 「最近、私が少し熱くなっているのがヤマキチョウ、・・・。東御市地籍の浅間山麓へ車を向かわせたところ、何とヤマキチョウの♀とスレちがう幸運に出会ったのである。ときは2012年5月16日のこと。越冬したヤマキチョウの♂が3頭で広大なテリトリーを全く止まることなく飛翔をくり返す光景に感動した。・・・
 ヤマキチョウ。かつて地蔵ヶ原とも呼ばれた軽井沢の湿性草原に、このチョウはそれこそ山ほどいて、越冬前の個体は飛んでもすぐ止まるので、小学2~3年生の私には、もっとも採りやすいチョウであった。
 Nさんと知り合った頃は、彼の案内で何ヶ所も佐久地方のヤマキ産地へ行って採集した。もちろん母チョウに産卵させて大量飼育に成功もしている。
 では軽井沢町のヤマキチョウはどうなったのだろうか。巨大なゴルフ場が次々とできて、昔の産地は完全につぶれている。そこで1980年ごろ、ゴルフ場の脇を探したところ、たしかに数頭のヤマキチョウを見出したが、減りゆくチョウは採るべきでないと考え全く採集しなかったのが、今では残念に思う。そしてそれが軽井沢地籍のヤマキと私の最後の出会いとなってしまっている。この2年ばかり、南軽井沢や1000メートル林道でクロツバラを見つけて卵や幼虫を探してみたが、成果ゼロが続いている。軽井沢町のヤマキチョウは、かなりシビアーな状況にちがいない。でも、どこかには生き残っていることを祈りたい。」

 私はまだ見たことのないヤマキチョウ。軽井沢のどこかで出会うことができるだろうか。

 以下、次回。

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山野で見た蝶(4)北軽井沢探チョウ(1/4)

2019-08-23 00:00:00 | 
 8月に入ってからは軽井沢も30度を超える日が続き、夏本番になったが、少し前の、本格的な梅雨が長く続いた7月下旬、チョウの撮影がしたくなり、梅雨空の合間を縫いショップの定休日に、2週連続して北軽井沢に出かけてきた。うまくすれば前回6月には空振りに終わったアサマシジミも見られるのではという期待もあった。
 下草などがよく手入れされた高原に着くと、足元のヒメジョオンやナワシロイチゴと思われる花にたくさんのヒメシジミが群がっているのが見られ、交尾中の姿も見られた。吸蜜中のヒメシジミは夢中になっていて、簡単に手で捕らえることができる位である。前翅裏の黒い斑点を確認するためであるが、殆んどがヒメシジミ特有の丸い形状をしている。

 中には、黒斑の形状がミヤマシジミやアサマシジミの特徴とされている楕円~長楕円のものも含まれているが、♂の翅表の青色の広がり具合がミヤマシジミのものと違っていたり、色あいがアサマシジミの色とされる青灰色とは違っているようである。

 1回目の7月17日に出かけた時は、丘陵地の上の花々で多くのヒメシジミを見ることができた。また2頭だけであるが、カラスシジミも見られ、撮影することができた。翌週7月24日に2回目に出かけた時には、元の場所にあったヒメジョオンなどが刈りとられてられてしまっていて、ヒメシジミは、少し離れた場所にある林辺の花に集まっていた。

 背後の、高い樹の枝先にはウラゴマダラシジミがいた。長い間じっと止まっていたので、じっくり撮影ができた。このウラゴマダラシジミは、私には意外に思えるのであるが、日本に25種生息しているとされるゼフィルスの仲間である。尾状突起がなく、翅裏の紋様などゼフィルスらしさは全くない。カラスシジミのほうがよほどゼフィルスらしいのであるが、こちらはゼフィルスの仲間には入っていない。

 このほか、丘陵地の歩道脇に咲いているオカトラノオの花には、たくさんのヒョウモンチョウの仲間とスジボソヤマキチョウ、カラスシジミ、トラフシジミが集まっていた。

 今回は、これら北軽井沢で出会ったチョウを中心に、最近撮影した種を紹介させていただく。

 先ずヒメシジミから。前翅長11~17mmの小型のシジミチョウ。前翅裏の5番目の黒斑はヒメシジミではほぼ円形であるのに対して、ミヤマシジミとアサマシジミでは、これが大きく、楕円形をしているとされる。今回見た中には、このような楕円形の黒斑を持つ個体も多少混じっているのだが、これがヒメシジミの中の個体差の範囲内なのか、アサマシジミなのかの判定が私にはつかない。そのため、ここでは、ヒメシジミの中で紹介する。

 ヒメシジミ、ミヤマシジミ、アサマシジミの生態については、以前本ブログ(2019.6.28 公開)で紹介しているので、一般的なことは割愛するが、東信地方でのヒメシジミの分布と全般的なチョウ相については、「信州 浅間山麓と東信の蝶」(鳩山邦夫・小川原辰雄著 2014年 信州昆虫資料館発行 )に次の記述がある。今も逞しく生き続けているヒメシジミに比べると、アサマシジミは生息域が次第に限定されてきている。

 「ヒメシジミは、長野県では南部の大部分の地域を除き、低山地から亜高山帯にまで広く分布する。東信地方でも里山や渓谷、高原などの草地で広範囲に生息し、多産地も見られる。低山地では、里山の荒廃や開発などの影響を受ける場合もあるが、全般的に極端な減少は認められない。環境省版レッドリストで準絶滅危惧種、長野県版では留意種に区分されている。」

 「東信山麓は、なだらかな裾野が広がり、冷涼な気候を利用して古くから牧草地や高原野菜の好適な産地として利用されてきた。農村での生活は、燃料としての薪を取り、家畜の餌とするために採草を行った。牧場道は、藪にならないように定期的に潅木を刈り払った。こうして維持された草原や疎林には、秋の七草に代表されるような日本古来の植物が咲き乱れ、寒い大陸を起源とする草原性のチョウ達が乱舞した。現在でも、草原のアザミの花などには、ヒメシジミやキアゲハ、各種ヒョウモンチョウ、ヒメシロチョウ、ジャノメチョウ、アカセセリなどが訪れる姿を見かけるが、コヒョウモンモドキやヤマキチョウ、アサマシジミ、ヒメヒカゲ、ホシチャバネセセリをはじめとして多くの草原性のチョウたちは、最近ほとんど姿をみかけなくなった。」

 今回の短時間の撮影でも、まさにこのことが感じられる結果であった。

 では、今回撮影したヒメシジミを以下に見ていただく。先ず雌の方から。


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♀1/9(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♀2/9(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♀3/9(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♀4/9(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♀5/9(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♀6/9(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♀7/9(2019.7.24 撮影)


葉上で休息中のヒメシジミ♀8/9(2019.7.24 撮影)


葉上で休息中のヒメシジミ♀9/9(2019.7.24 撮影)

 続いて雄の写真を見ていただく。


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♂1/9(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するヒメシジミ♂2/9(2019.7.17 撮影)


オカトラノオで吸蜜中のヒメシジミ♂3/9(2019.7.17 撮影)


オカトラノオで吸蜜中のヒメシジミ♂4/9(2019.7.24 撮影)


オカトラノオで吸蜜中のヒメシジミ♂5/9(2019.7.24 撮影)


葉上で休息中のヒメシジミ♂6/9(2019.7.17 撮影)


葉上で休息中のヒメシジミ♂7/9(2019.7.17 撮影)


葉上で休息中のヒメシジミ♂8/9(2019.7.17 撮影)


オカトラノオで吸蜜中ヒメシジミ♂9/9(2019.7.17 撮影)

次は雌雄ペアの写真。


ヒメジョオンで吸密するヒメシジミのペア1/3(右手前♂、左奥♀ 2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸密するヒメシジミのペア2/3(左手前♂、右後♀ 2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸密するヒメシジミのペア3/3(左♂、右♀ 2019.7.17 撮影)

交尾中の姿もわずかながら見られた。


葉上で交尾するヒメシジミ1/3(左♀、右♂ 2019.7.17 撮影)


葉上で交尾するヒメシジミ2/3(下♀、上♂ 2019.7.17 撮影)


葉上で交尾するヒメシジミ3/3(手前♀、後♂ 2019.7.24 撮影)

 この草原では随所で多数のヒメシジミが群れている姿が見られた。


ヒメジョオンに群がるヒメシジミ♂(2019.7.17 撮影)


ナワシロイチゴの花で吸蜜するヒメシジミ♀、♂(2019.7.24 撮影)


ナワシロイチゴの花に群れるヒメシジミ(2019.7.17 撮影)

 次は、前翅の5番目の黒斑が楕円形をしている個体。最初から3枚目までの写真の♂は同一個体のもの。


黒斑が楕円形をしているヒメシジミ♂1/3(2019.7.17 撮影)


黒斑が楕円形をしているヒメシジミ♂2/3(2019.7.17 撮影)


黒斑が楕円形をしているヒメシジミ♂の翅表3/3(2019.7.17 撮影)


黒斑が楕円形をしているヒメシジミ♀(2019.7.17 撮影)

 1,2枚目の♂の写真は、前翅裏の5番目の黒斑がかなり大きく、長楕円形をしている。3枚目の写真に見るように、翅表の縁の黒帯の幅は広く、ミヤマシジミでないと判定されるのであるが、ではアサマシジミかというと、そうとも言い切れない。というのは、翅表の色が青紫でヒメシジミの特徴だと思えるのである。

 アサマシジミの分布について、前出の「信州 浅間山麓と東信の蝶」には次のように記されていて、減少傾向が著しく、残念ながらそう簡単にはお目にかかることができないようである。

 「東信地方でも各地の草地・草原で多産したが、1980年代から急速に減少し、消滅した産地も多い。現在は確実な産地も数える程度となっている。環境省版レッドリストで絶滅危惧Ⅱ類、長野県版では準絶滅危惧種に区分されている。」

 次はカラスシジミ。前翅長15~19mm。年1回発生し、食草はハルニレ。卵で越冬する。

 カラスシジミは以前自宅庭のブッドレアに吸蜜にやってきたことがあり、「庭に来た蝶」(2017.3.17 公開)で紹介した。今回、北軽井沢に2回にわたり出かけたが、そのつど出会うことができた。ただ個体数は多くはない。「信州 浅間山麓と東信の蝶」には次のように記されている。

 「長野県では県南部を除き、低山地から山地にかけて分布する。東信地方でも個体数は多くはないものの、各地の沢筋の樹林地などで見られる。低山地では開発などの影響を受けることもあるが、個体数の変動は少ないと考えられる。」

 今回見られた個体は、24日の1頭は尾状突起付近にやや傷みが見られたが、17日の2頭は翅の傷みもなく美しいものであった。ただ、両日ともずっと翅を閉じた状態であったので、翅表を撮影することはできなかった。そのため雌雄の別については、翅裏からだけの判定であるが、翅形は♀では♂より丸みを帯びること、裏の地色が♂ではより濃くなること、尾状突起は♂では短く、♀では長くなる傾向があるなどの特徴から、17日の2頭は♀と♂の両方、24日の1頭は♂であったと思われ、その旨記載した。

 先ず17日撮影の雌から。


ヒメジョオンで吸蜜するカラスシジミ♀1/2(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するカラスシジミ♀2/2(2019.7.17 撮影)

 続いて17日と24日撮影の雄。


ヒメジョオンで吸蜜するカラスシジミ♂1/6(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するカラスシジミ♂2/6(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するカラスシジミ♂3/6(2019.7.17 撮影)


ヒメジョオンで吸蜜するカラスシジミ♂4/6(2019.7.17 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するカラスシジミ♂5/6(2019.7.24 撮影)


オカトラノオの花で吸蜜するカラスシジミ♂6/6(2019.7.24 撮影)

 写真でみるとおり、カラスシジミの翅の裏面はミドリシジミ類によく似ている。しかし、前記の通りゼフィルスの仲間ではない。
 
以下次回。






 
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ヤマカマスの成る木とウスタビガ2019年

2019-08-16 00:00:00 | 飼育
 今回は、蛾やその幼虫の映像・画像が多く出ますので、苦手な方はご注意ください。

 3年前の2016年、20匹ほどのウスタビガの幼虫を飼育し、多くを成虫になるまで育て、その成長過程を観察・3D撮影した。その一部は本ブログでも紹介させていただいた。この時、羽化した成虫から、卵を得るべく努めたものの果たせず2017年からは、我が家のウスタビガは途絶えてしまっていた。

 昨年、2018年の秋、南軽井沢の山荘で誘蛾灯を点けて蛾の採集を行った。主目的は、過去に途中まで飼育したものの、繭作り段階で撮影に失敗していたヒメヤママユの♀を得ることであったが、肝心のヒメヤママユの♀はやってこないで、♂ばかりが集まり、♀は一頭も採集することができなかった。集まってきたヒメヤママユの♂は、翅の色や文様が実に多様で、これはこれで興味深いものであった。


誘蛾灯を使って蛾を集める(2018.10.23 撮影)




誘蛾灯に集まってきた翅の色の異なるヒメヤママユの♂(2018.10.10 撮影)

 
 1週間ほど誘蛾灯を点灯し続けて様子を見たが、ヒメヤママユの♀は結局一頭も誘蛾灯に来ることはなかった。その代わりに、ウスタビガの♀3頭が集まってきたので、これを傍らの網かごに入れておいたところ、そこに産卵していた。この卵は、網かごに着いたまま冬の間外の軒下に吊るしておいた。


網かごに産卵したウスタビガの♀とその卵(2018.10.23 撮影)

 今年春、その卵から幼虫が孵化してきたので、再び飼育し、前回飼育時の疑問点の確認と、以前から考えていた「ヤマカマスの成る木」(後述)の作成を試みた。

 2016年にウスタビガを飼育した時の疑問点とは、①1齢幼虫も脱皮後に殻を食べるかどうか、②オオヤマザクラの葉がウスタビガにとって有害なものかどうか、という2点である。①は単純に撮影するチャンスを逃していたためであったが、②は飼育していたウスタビガの終齢幼虫が、餌の葉をそれまでのヨシノザクラからオオヤマザクラの葉に替えた際、数匹死んでしまうという事故が起きていた。

 今回は、約50-60匹ほどの幼虫が孵化してきたので、こうした疑問点についての確認ができそうであった。孵化直後の1齢幼虫には、今回もちょうど芽が出始めた鉢植えのヨシノザクラにとまらせて、自由にその葉を食べさせ、大きくなるにつれて、庭木のヨシノザクラの枝先を切ったものにし、そして一部は試験的に庭木のオオヤマザクラの葉に切り替え、さらに3~4齢になった頃からは、餌の量的確保の問題もあり、ほとんどをコナラの葉に切り替えた。軽井沢ではこのコナラがいちばん確保しやすいのである。

 孵化したばかりの1齢幼虫は、3㎜程度の長さで、小さく弱々しいが、鉢植えのヨシノザクラの新芽を食べて10mmほどに大きくなっていった。脱皮のタイミングを捉えて撮影することは、意外に難しいが、多くの幼虫を育てているので、数匹が先に脱皮を終えたところで、眠状態に入って餌の葉を食べなくなっている個体にターゲットを絞り、撮影した。その結果、先に脱皮を終えた、兄貴分の2齢幼虫が見守る中、うまく脱皮する1齢を撮影することができた。この1齢幼虫は、脱皮後その抜け殻を食べてくれたので、年来の疑問点はこれで解消した。30倍のタイムラプスで撮影した様子は次のようである。


ウスタビガ1齢幼虫の脱皮(2019.5.10 30倍のタイムラプスで撮影)

 前回の2016年に、この様子だけを撮影することができず、宿題になっていたが、こうして全ての齢段階で、脱皮後の幼虫がその抜け殻を食べる様子を撮影することができたことになる。

 幼虫が2齢、3齢と成長するに従い、食べる食葉の量も増え、鉢植えのヨシノザクラの葉を食べつくしてしまいそうになるので、この段階で庭に植えてあるヨシノザクラに切り替えるとともに、オオヤマザクラの葉を一部の幼虫に試験的に与えてみた。前回は、終齢幼虫になった段階で、今回と同じようにそれまでのヨシノザクラからオオヤマザクラに切り替えたところ、終齢幼虫は口から赤褐色の液体を吐いて、弱っていったのであった。

 この経験があったので、オオヤマザクラの葉は、ウスタビガにとり何かよくない作用をしているのではないかと思っていた。今回、一部の幼虫でそれを再確認しようと思い、実験台になってもらったのであった。

 結果は、今年の2、3齢幼虫の場合は、オオヤマザクラの葉を平気で食べて、何の異変も起きなかった。前回の終齢幼虫の場合と、今回の2、3齢幼虫のこの違いが何によるものか、今のところ判らず、別な疑問に変わってしまった。

 前回の経験で、ウスタビガの幼虫は、1齢、2齢段階ではその色の違いで区別は容易であるが、3齢、4齢になると2齢で見られたツートンカラーの黒色の紋様がなくなり、外観が緑一色になって、とてもよく似ているため区別がつきにくいと感じていた。
 ところが、今回の飼育では様子が随分異なっていた。3齢、4齢でも2016年と同様、黄緑色一色のものもいるが、黒い模様が体に残っている個体も多く見られた。こうした体色の違いは、今回得た卵が3頭の異なるウスタビガの雌からであったためかと思う。改めて、イモムシハンドブック(安田 守著 2014年文一総合出版発行)を見直してみると、2-4齢の体色は黄色-薄黄緑色で黒化の程度に異変があると書かれているので、その通りの状況といえる。

 今回はそうした個体の体色の変異も観察してみた。4齢の黒化度の違いは次のようである。





体色の異なるウスタビガの4齢幼虫(2019.5.25 撮影、マス目は1cm、4番目の写真の小さい方の幼虫は3齢)

 このように、さまざまに黒化度の異なる4齢幼虫だが、脱皮して終齢幼虫になるとこうした違いはなくなり、全て一様に緑と黄緑色のツートンカラーになっていった。次の映像は、最も黒い部分の多かった4齢幼虫が脱皮して終齢幼虫になる様子と、脱皮後この終齢幼虫が抜け殻を食べる様子である。


体色の黒い部分の多い4齢幼虫の脱皮(2019.5.30 15:02~17:55 30倍タイムラプスで撮影)

 ところで、たくさんの幼虫を飼育していると、いろいろなことが起きる。今回は飼育用のハウスから脱走して、近くに置いてあった自転車の車輪で繭を作ったものと、他の昆虫に襲われたためか、頭部に黒点が見られ、発育が異常に悪いものなどが出た。


車輪で繭作り(2019.7.1 撮影)

 自転車の車輪で繭を作ってしまったものは、悪いがそのままにしておくわけにいかず、剥がしてみると、車輪に接していた部分には充分に糸を吐いていなくて薄く、中が透けて見える状態であった。そこで、この部分を切り取り、代わりにペットボトルの容器から切り抜いた透明なフィルムを貼り付けて完全に中が見えるようにした。 こうすることで、通常は見ることができない繭の中の幼虫の様子をビデオ撮影することができる。以前、ヤママユの繭で同じことを行っているが、その時は、正常にできた繭の一部を切り取ったのであったが、今回は、状況が少し違っていて、無理やりではない。

 このようにして撮影した映像は次のようである。撮影はタイムラプスの30倍、300倍、2400倍を適宜使用し、それらを編集したものである。ウスタビガの終齢幼虫は、作った繭の中でどんどん小さく縮んでいき、やがて狭い空間内で器用に脱皮して蛹になる。初め緑色で一部だけが薄い茶色をしていたものが、次第に色が濃くなっていき、数日で濃褐色の蛹になる。この間も、繭の中では前蛹の時も、蛹になってからも結構動いているのが判る。

 ウスタビガの終齢幼虫は、触ると「キュー」と鳴くことが知られているが、繭の中の前蛹も同じようで、撮影していて、繭を揺らしたりすると鳴き声が聞こえていた。しかし、蛹になるとさすがに鳴き声は聞かれなくなった。

 シースルーの繭の中で蛹になった、脱走ウスタビガ。触角の形が見え、♂であることが判る。


繭の中のウスタビガの蛹化(2019.7.10 18:30~7.15 8:50 30倍、300倍、2400倍T/L撮影動画を編集)

 今回は最終的に40個ほどの繭が得られた。多くは、食葉として与えた瓶差しのコナラの枝にぶら下がる形となったが、毎日のように観察をしていると、終齢幼虫が繭つくりにとりかかるタイミングが判るようになる。餌を食べなくなるとともに、幼虫の形状が短く横幅が太くなってくる。

 撮影する場合は、この段階のものを、枝ごと室内に持ち込むと、幼虫は移動しないで、その場所で繭作りを始める。また、希望の場所に繭を造らせたい場合には、幼虫だけをその場所に移動させる。

 今回、ヨシノザクラの鉢植えの枝先に繭をできるだけ多く作らせたいと思っていたので、繭作りの態勢に入った終齢幼虫を、瓶挿ししているコナラの枝からこの鉢植えのヨシノザクラの枝に移動した。

 思惑が外れて、再びヨシノザクラの葉を食べ始めるものも出て、鉢植えの葉がなくなってしまうのではないかと案じたが、それも少数で、結局9個の繭を鉢植えのヨシノザクラの枝先に作らせることができた。ウスタビガの繭は別名ヤマカマスであるが、こうして「ヤマカマスの成る木」の完成である。


ヤマカマスの成る木(2019.7.31 撮影)

 同様の方法で、庭木のオオヤマザクラの枝先にも終齢の幼虫を移して、10個ほどの繭を作った。餌として与えていたコナラの枝先で繭を作ったものも、枝ごと切って、庭木の枝先にくくりつけている。このほうが風雨にさらされたりしながら、より自然に近い状態で羽化の時期を迎えるのではと思っている。繭になってしまえば、外敵に襲われることもない。


庭のオオヤマザクラの枝先にぶら下がるヤマカマス(2019.7.31 撮影)

 6月24日に、最初の1匹から始まったウスタビガの繭つくりは7月28日にすべて終了した。ほぼ同時に孵化してきた幼虫であったが、繭作りの段階では1か月以上の開きが出ることになった。繭は前半にできたものは小さく、後半にできたものは大きい傾向があったが、これは雌雄の差が出たものと思われる。羽化するタイミングは雄よりも雌の方が遅い。繭になるタイミングも同様で、雌の方がたっぷりと餌の葉を食べて大きな幼虫になってから蛹になるので、結果的に雌の繭は大きく、遅く作られることになるようである。


最後の繭(左)と先にできた繭(右)の大きさ比較(2019.7.31 撮影)

 こうして、しばらくの間繭の中で眠りについた幼虫達は、秋になると美しい成虫になった姿を見せてくれるはずである。

 次は「ウスタビガの成る木」が見られることを楽しみにしようと思っている。



 
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浅間山とヴェスヴィオ山(2/2)

2019-08-09 00:00:00 | 浅間山
 ヴェスヴィオ山、浅間山がよく似た山容をもつと共に、時代は異なるものの、過去によく似た規模の噴火・山体崩壊を起こしていたことを、前回紹介した。そして、今後予想されるヴェスヴィオ山の噴火については、イタリアでは国をあげての防災対策が作られていることを見た。

 今回は浅間山と桜島という、日本の2大火山の噴火の歴史と、2地域における現代の防災対策について見ておこうと思う。桜島を加えたのは、前回紹介したように、鹿児島市とナポリ市が姉妹都市提携をしていることによる。

 ヴェスヴィオ山、浅間山、桜島の3火山を中心に、過去の火山噴火規模を、前回紹介したVEI基準で分類すると次のようである。尚、発生頻度と過去1万年間の発生回数は、全地球規模の数字で、この3火山についてのものではない。


VEIで分類したヴェスヴィオ山、浅間山、桜島などの噴火の歴史

 小山教授も前記著書の中でヴェスヴィオ山と浅間山の類似性を指摘しているが、79年のヴェスヴィオ山と2.4万年前の浅間山の噴火はほぼ同規模と考えられている。1108年の浅間山の天仁の噴火は、2.4万年前と同じVEI区分「5」にあるが、噴火の規模はその約1/3である。また1783年の天明噴火は、さらにその1/2で、79年のヴェスヴィオや2.4万年前の浅間の噴火規模と比べると約1/6ということになる。

 ヴェスヴィオについては前回、小山教授の著書から、詳細を引用したが、今回は浅間山について、村井 勇著「浅間山」(2013年 浅間火山博物館発行)を参考に、過去の噴火と、それによる災害の発生状況を見ておこうと思う。

 浅間山は、周知の通り日本で最も活発な活火山の1つであり、世界でも代表的な活火山で、標高2,568m、東西約15km、南北約35km、面積約50km^2(平方キロメートル)、体積約56km^3(立方キロメートル)の成層火山である。

 浅間山は新旧の3つの火山体によって作り上げられており、その最も古い火山体は黒斑火山である。この黒斑火山は、標高2800mほどのほぼ完全な円錐形の火山であったが、約2.4万年前の噴火の際に火山錐の東半分が崩れ、その後さらに山体の東部が陥没し、そのあとに仏岩火山が形成された。さらにその上に一番新しい前掛山が成長した。以前、当ブログ「山体崩壊」(2017.4.28 公開)で紹介したが、改めて今回掲載の写真で書き直したものと、ヴェスヴィオ山とを比較してみると次のようである。


2.4万年前の噴火前の旧浅間山(黒斑火山)の姿の想像図


79年の噴火前のヴェスヴィオ山の姿の想像図

 前掛火山の頂上部には、天仁の噴火(1108年)の際に陥没してできた大きなくぼみがあり、その中に成長した中央火口丘の釜山の頂上に現在の噴火口がある。

 黒斑火山の活動の末期(2.4万年前)に起きた大規模な噴火は山体の崩壊を伴い、南は現在の佐久市、軽井沢町、北は長野原町に岩塊や土砂が流れ、小丘状の流れ山を作っている。南軽井沢では岩屑なだれの堆積物により湯川がせき止められ、湖沼ができた。

 岩屑なだれは北の吾妻川に流れ込み、さらに泥流となって下流を襲い、中之条盆地では30m~40mも河床が上昇し、利根川合流点付近でも40mの河床上昇があった。前橋付近まで流れて土砂を15mも堆積させた。現在の前橋市街はこの体積土砂の上にある。

 南麓では岩屑なだれが佐久平で千曲川に入って泥流が発生し、上田盆地にまで達して厚い堆積層を残した。

 これに次いで起きた、有史以来の記録に残る最初の噴火は、嘉承三年/天仁元年(1108年9月)の、現在の火山体である前掛火山の噴火であった。噴火は8月下旬から10月にかけて発生し、最初はブルカノ式爆発的噴火で始まった。初めは主に火山灰を降らせたが、やがて噴火の勢いが激しくなり、軽石を噴きだし、続いて莫大な量のスコリア(暗色の多孔質塊)、軽石、火山灰が噴出した。現在でも中腹の峰の茶屋付近では2mのスコリア、火山灰の層が見られるという。

 8月30日頃に莫大な量のスコリア質の岩塊と火山灰が一度に火口から噴き出され、一団となって火砕流を形成し、山腹を流れ下って、南側と北側の山麓に広がった。火砕流は南麓の御代田町東半分から軽井沢町追分付近の湯川までに達し、北麓でも山麓一帯に広がり、大笹付近で吾妻川に達した。その面積は80平方km、体積0.6立方km、平均の厚さ8mほどになった。この火砕流は追分火砕流・嬬恋火砕流と呼ばれ、キャベツのような形の火山弾状の本質火山岩片(浅間石)を含むことが特徴である。

 南麓では御代田町から軽井沢町にかけての広い地域が火砕流堆積物により完全に埋没してしまった。軽井沢付近から碓氷峠を通る東山道はこのために路線変更をしたと思われるという。

 この噴火の総噴出量は1.0立方kmを超えると計算されている。

 これに続く天明三年(1783年8月)の噴火は日本の災害史上最も重要な噴火で、噴出物の総量は0.5立方kmに達し、天仁噴火の半分ほど、1991年の雲仙普賢岳噴火の1.5倍ほどであった。この時の噴火による被害は主に群馬県側に集中した。特に鎌原火砕流・岩屑なだれの発生と、それに伴って起こった吾妻川と利根川の泥流による被害がほとんどすべてであった。一方長野県側では軽井沢宿が噴石の降下で家屋が潰れ、火災を起こし、噴石に当たった1~2名が死亡した。沓掛(中軽井沢)では泥流が発生したのみで、大きな被害はなかった。特に著しい被害をこうむったのは北側の鎌原集落で、100軒ほどの家があったが、全村が岩屑なだれの下に埋まってしまい、住民560~570人のうち477名が死亡し、93名が助かった。この岩屑なだれは、熱いガス雲を伴っていなかったため観音堂に駆け上った人は無事であったという。

 全体での死者の数はいろいろな数字があげられているが、当時の幕府が派遣した根岸九郎左衛門の覚書によると、おそらく1,500名を少し超えるほどと考えられるとされる。

 岩屑なだれに埋没した鎌原集落の発掘調査は1979年に浅間山麓埋没村総合調査会が組織され、本格的に進められた。これにより、3軒の潰れた家と多くのガラス製の鏡などの生活用品が発見され、30~40歳の女性の遺体も見つかっている。また、観音堂の前の石段が掘り下げられ、50段の石段が現れ、5.9mの最下部から2名の女性の遺体が発見されている。テスト・ピット調査の結果によると、鎌原地区での岩屑なだれ堆積物は厚いところで9m、薄いところで2~3mに達していた。

 こうしたことから、鎌原村は日本のポンペイと呼ばれることがある。観音堂近くに建てられた「嬬恋郷土資料館」では天明の大噴火に関する資料の数々を見ることができ、また火山災害という共通の歴史を持つ事が縁でポンペイの噴火犠牲者の人型レプリカも展示されている。

 多くの被災者を出した浅間山の天明の大噴火であるが、この噴火の影響は直接的なものだけに留まらなかった。この時代は世界的に火山活動が盛んであり、1766年フィリピンのマヨン、1772年ジャワのパパンダヤン、1775年グアテマラのパカヤが噴火し、大量の火山灰が上空高く吹き上げられた。浅間山の噴火と同じ年1783年6~8月にはアイスランドのラガキガル(アイスランド語、英名はラキ)でも有史以来世界最大級の噴火があった。吹き上げられた火山ガスと火山灰は成層圏に停滞して日照を妨げ、気象に大きな影響を及ぼす。中でも浅間山とラガキガルの噴火は特に規模が大きく、両者とも気候に対して同程度の影響があったとされる。この影響は全世界、特に北半球に及んで、気温低下が起こった。

 ヨーロッパでは1783年から1784年の冬は平年より5℃も低下した。日本でも1783年から1787年にかけて冷夏が続いた。吾妻川や利根川沿いの村々では田畑に泥が入って使えなくなり、関東地方一帯の降灰が厚く覆った地域も耕作に大被害を受け、秋頃から飢饉が起こった。吾妻川の谷合の村々では多くの餓死者が出た。

 降灰の被害を受けた群馬県だけではなく、東日本、特に奥羽地方一帯が凶作となり、破壊的な飢饉となった。東北地方だけで数十万人の餓死者が出、疫病の流行もあって、天明の飢饉による餓死者・病死者の総計は全国で100万人近いという途方もない結果を招いた。

 次に桜島について見ておく。今年3月に九州旅行をした時に立ち寄った鹿児島市の仙厳園では、折から噴煙を上げる次の写真のような桜島を見ることができた。


仙厳園から見た噴煙を上げる桜島(2019.3.15 撮影)

 桜島(さくらじま)は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77平方キロメートルの火山。かつては島であったが、1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなった。

 明治以前は2万以上であった島内の人口は、大正大噴火の影響によって9,000人以下に激減。その後も減少が続き、1985年(昭和60年)には約8,500人、2000年(平成12年)には約6,300人、2010年(平成22年)には約5,600人となっている。
 
 約1.3万年前に発生した噴火によって噴出したテフラ(火山灰)で、火砕物の総体積は11立方kmに及び、2.6万年前〜現在までにおける桜島火山最大の活動であったとされている。VEIは6。他の桜島火山起源のテフラで火砕物噴出量が2立方kmを越えるイベントはないので、桜島-薩摩テフラは他のテフラとくらべ桁違いに大きい。この噴火によって、桜島の周囲10km以内ではベースサージが到達したほか、現在の鹿児島市付近で2m以上の火山灰が堆積しており、薩摩硫黄島などでも火山灰が確認されている。
 
 有史以降の噴火としては、30回以上の噴火が記録に残されており、特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火であった。

 1471年(文明3年)9月12日に大噴火(VEI5)が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録がある。

 1779年(安永8年)11月7日の夕方から地震が頻発し、翌11月8日の朝から、井戸水が沸き立ったり海面が紫に変色したりするなどの異変が観察された。正午頃には南岳山頂付近で白煙が目撃されている。昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、その直後に桜島北東部からも噴火が始まった。夕方には南側火口付近から火砕流が流れ下った。夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸や長崎でも降灰があった。

 11月9日には北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、翌11月10日には海岸に達した(安永溶岩)。翌年1780年(安永9年)8月6日には桜島北東海上で海底噴火が発生、続いて1781年(安永10年)4月11日にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。一連の海底火山活動によって桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。島々のうちいくつかは間もなく水没したり、隣接する島と結合したりして、『薩藩名勝志』には八番島までが記されているという。死者は150人を超えたが、最も大きい燃島(現・新島)には1800年(寛政12年)から人が住むようになった。

 噴火後に鹿児島湾北部沿岸の海水面が1.5–1.8 m上昇したという記録があり、噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられている。一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方km、軽石が約0.4立方kmにのぼった。VEIは4。薩摩藩の報告によると死者153名、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上になった。

 1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5立方km、溶岩に覆われた面積は約9.2平方km、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。この時の噴火はプリニー式噴火であり、火山爆発指数4、被害は死者58、傷者112、焼失家屋2,268であった。

 桜島の黒神集落にあった鳥居は、1914年噴火で上部をわずかに残し約2mの噴石や火山灰に埋もれてしまい、埋没鳥居として残されている。

 ここで、ヴェスヴィオ山、浅間山、桜島とその周辺の都市の位置関係を見ておくと次のようである。


ヴェスヴィオ山と周辺の都市


浅間山と周辺の都市


桜島と周辺の都市

 さて、ヴェスヴィオ山では、地質学者協会会長のフランセスコ・ルッソ氏による『今後100年間に大噴火が起きる可能性は27%』との予測に基づいて各種防災対策がとられていることを前回紹介したが、日本ではどうか。

 日本には、北方領土を含めると111の活火山があり、その内50の火山では24時間体制で監視が行われている(常時観測火山、気象庁資料による)。そのうち13の火山がAランク(気象庁ではこの分類は用いていない)に位置付けられているが、その中に浅間山と桜島が含まれている。

 浅間山では、以前から防災マップが作られていた。ここには最近100年間に発生した小~中規模噴火の場合と、天明噴火(1783年)の場合を想定した「火山ハザードマップ」が記されている。この場合、噴火により火口から噴出した高温の岩塊や火山灰、軽石などが高温のガスと混合し、それらが一体となり地表を流下する「火砕流」だけではなく、これに加えて、冬期間、山頂付近で雪が積もっている時期に中規模の噴火をし、火砕流が発生した場合、この火砕流により雪が解け、土砂や火山灰と一緒になり、斜面を高速で流れ下る「融雪型火山泥流」のシミュレーション結果が公表されていた。

 これに加え、過去に発生した大規模噴火と同等の噴火に備え、避難計画等の策定を進めるため、大規模噴火を想定したハザードマップが検討された。浅間山火山防災協議会に県、市町村、関係庁など19機関により構成された専門部会が設置され、平成28年10月18日~平成30年3月31日の期間をかけて、ハザードマップを新たに作成するとともに、平成15年に作成した小~中規模ハザードマップをわかりやすくするため、一部改訂が行われた。

 この結果は、関連する県、市町村からホームページなどを通じて発表されることとなったが、軽井沢町では2018年6月1日に公表されている。また、2019年7月初旬にはこの新たな内容を盛り込んだ浅間山火山防災マップが各家庭に配布された。

 新たに作成され、ホームページで公開された大規模噴火(噴火警戒レベル4・5相当)のハザードマップは次のようなものであり、少なからず関係地域住民に衝撃を与えたようである。図で、濃い赤の部分は「火砕流」の到達範囲を示し、その周囲の淡い赤の部分は、「火災サージ」(火山ガスを主体とする希薄な流れ)の到達範囲を示している。


浅間山、大規模噴火時のハザードマップ(軽井沢町公式HPより)

 浅間山では、1933年に東京大学地震研究所の浅間火山観測所が開設し、以来観測網を整備しつつ、監視活動を継続しているが、今のところ大噴火につながる兆候は見られておらず、ハザードマップの利用についても、私の住む軽井沢町では個々の家庭に実態を周知し、避難場所情報の提供などが行われているレベルであり、ヴェスヴィオ山のような緊迫した状況にはない。

 一方、桜島には1950年に京都大学の桜島火山観測所が設置され、監視活動を行ってきている。鹿児島市では「一人の死者も出さないために」というスローガンを掲げて、桜島を中心とした避難訓練も、大正大噴火発生日に因んだ毎年1月12日に桜島の噴火を想定して行われている。この訓練には桜島フェリー等の船舶や海上保安庁の巡視船艇による海上脱出訓練等が含まれているという。


桜島のハザードマップ

 ちょうどこの原稿を書いている最中、2019年8月7日の22時10分頃に、軽井沢町の広報放送が流れ、浅間山の噴火を伝えた。同時に、気象庁発表の鬼押出しのカメラ映像がネットを通じて発表されたが、火口からまっすぐに吹き上がる噴煙が映し出されていた。また、これを受けて浅間山の噴火警戒レベルは従来の1から3に引き上げられた。これにより、火口から4km以内への入山は規制されることになる。また、今回の浅間山噴火は従来とは異なり、前兆を捉えることができなかったと気象庁は発表している。


気象庁発表(2019.8.7 22:09:55)の鬼押出しのカメラ映像
 
 一夜明けた今朝の浅間山は元の状態に戻っており、噴煙は見られなかった。


南軽井沢から見た小噴火後の浅間山(2019.8.8 5:46 撮影)

 御嶽山や草津白根山の例を引くまでもなく、いつ起きるか判らない火山噴火であるが、最新の情報を基にした被害想定と対応計画の策定や、常日頃の訓練がやはり重要なのだと改めて感じさせられる。



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浅間山とヴェスヴィオ山(1/2)

2019-08-02 00:00:00 | 浅間山
 先日TVの人気長寿番組「世界ふしぎ発見」で、ポンペイ遺跡のことを扱っていたので、妻と見ていたら、ポンペイの街の背後にヴェスヴィオ山が映し出され、その姿が浅間山にとてもよく似ていることに気が付いた。私はまだイタリアには行ったことがなく、当然ポンペイも同じである。


南軽井沢からの浅間山(2015.7.14 撮影)


ナポリ側からのヴェスヴィオ山(ウィキペディア 「ヴェスヴィオ山」2019年7月17日から引用 )

 ヴェスヴィオの姿は、南東のポンペイ側からと西のナポリ側からでは、左右が反転し、異なって見えるが、ナポリ側からの姿がより軽井沢から見える浅間山に近いので、上の写真ではこちらを紹介した。

 また、この番組の回答者の一人が、映画「テルマエ・ロマエ」の原作者ヤマザキマリさんで、彼女が今「プリニウス」を取り上げ、新たな漫画を描いていることが紹介された。

 プリニウスのことがこの番組で話題になったのは、ポンペイの悲劇を後世に伝えたのが、(大)プリニウスの甥である(小)プリニウスであったということだが、大プリニウスが友人からの手紙でポンペイの町がヴェスヴィオ火山により被災していると知り、自らが司令官であった艦隊を率いてポンペイ救援に赴いている中で命を落としていたこともまた、小プリニウスが残した書簡によって伝えられていたのであった。

 大プリニウスといえば、「博物誌」の著者として、これまでにも度々当ブログでも紹介する機会があったが、ヴェスヴィオ火山噴火時に亡くなっていたことは寡聞にして知らなかった。そんなこともあって、大プリニウスについてもっと知ろうと思い、私としては珍しく、ヤマザキマリさんととり・みきさんの漫画「プリニウス」を買って読み始めたところである。


ヤマザキマリ、とり・みき作の漫画「プリニウス(Ⅰ)」の表紙

 今回の、TV番組「世界ふしぎ発見」の主要テーマは、1748年以来続けられている、ポンペイ遺跡発掘の最新成果の紹介で、ポンペイの街がヴェスヴィオ火山の噴火により壊滅した日が、小プリニウスが書き記したとされる西暦79年8月24日ではなく、同年の10月17日以降である可能性が出ているということであった。

 2018年にポンペイの第五地区という場所の発掘を行った際、家屋の室内の壁に「11月の最初の日からさかのぼって16番目の日」と書いたメモがが発見されたからである。また、この記録以外にも、遺跡からは秋に実る果物が枝に付いたままの状態で発見されていることもあり、季節が夏ではなく、秋であったことの証拠とされ、この新発見を裏付けるものとされている。

 これに伴って、従来、小説や映画の「ポンペイ最後の日」で示されていたような、贅を極めた当時のローマの上流階級が、天罰を受けるようにしてヴェスヴィオの噴火による火砕流にに襲われて亡くなって行ったというイメージが変わることになるという。

 ヴェスヴィオ火山の火砕流がポンペイを埋め尽くした日がこれまで信じられていたように、夏のことであれば、ローマから避暑のために別荘を訪れていた多くの上流階級の人々がいたと想像されるが、季節が秋だとすると、避暑客はすでにローマに戻っていて、ポンペイに居たのは、この地のもともとの住民であり、上流階級の人達を支える立場の人達であったと考えられている。

 その中には奴隷もいたとしていたが、当時のローマの奴隷は、今日われわれが想起するものとは違っていて、努力次第では奴隷の立場からも開放され、財を成すことも可能であったとされていた。

 今回のこの番組を機に、ポンペイを埋め尽くしてしまった火山「ヴェスヴィオ」について調べてみたくなった。そして、ヴェスヴィオと形がよく似ている「浅間山」や、火山と周辺市街地との関係が似通っている「桜島」とを比較してみようと思う。この「桜島」を加えたのは、その麓に位置する鹿児島市が、ナポリと姉妹都市提携をしているということもある。

 さて、番組の紹介はこれくらいにして、まずヴェスヴィオ山について見ていこうと思う。

 手元にある、火山学者の静岡大学・小山真人教授の著書「ヨーロッパ火山紀行」(1997年筑摩書房発行)には、ギリシャ・イタリア・アイスランド・フランス・ドイツにある多くの火山が紹介されているが、その中の一つにヴェスヴィオが取り上げられていて、ヴェスヴィオの噴火の様子とポンペイの町が噴火に伴って放出された軽石や、火砕流により埋もれていく様子が、科学的な立場で、次の様に記されている(噴火の日付けは本の出版当時のままとした)。


小山真人教授著「ヨーロッパ火山紀行」の表紙

 「79年噴火の推移は、山麓に分布する火山灰などの噴火堆積物の地質学的な研究と,噴火を記述した古記録の研究から、かなり明らかになっている。・・・8月24日の昼ごろに最初の水蒸気マグマ噴火が生じた後、午後1時ころに火口から巨大な噴煙が立ちのぼり、高度30km付近の成層圏に達した。この噴煙は北西の風にのって南東方向に広がり、その方角にあったポンペイの町におびただしい白色の軽石を降らせ始めた。
 ・・・町の人々の多くはその場所にとどまったらしい。巨大な噴煙は絶えることなく続き、ヴェスヴィオ火山周辺は日没前から闇に包まれた。・・・ポンペイの町に降りそそぐ軽石は衰えを見せず、徐々にその厚さを増していった。
 翌日8月25日未明、噴火活動に重大な変化が生じた。火口の大きさが拡大したことと、マグマ中のガス成分の減少によって、それまでの安定した噴煙の形が崩れて火砕流が発生し始めたのである。火砕流はおもにヴェスヴィオ火山の西斜面と南斜面を流れ下り、そのうちのひとつがヘルクラネウムの町を全滅させて海岸に達した。
 つづいて8月25日の朝,南斜面をやや規模の大きな火砕流が流れ下り、すでに2m以上の厚さの降下軽石に覆われていたポンペイの町を襲った。ポンペイの町に残っていた2000人(筆者注:3,500人という説もある)はこの時に焼き殺された。死の町となったポンペイとヘルクラネウムの上を、さらに数度の火砕流が通りすぎた。・・・79年噴火全体で噴出したマグマの量は、およそ4立方kmと推定されている。噴火による降灰はイタリア半島だけでなく。北アフリカから中東までの広い範囲におよんだ。」
 
 ここで挙げられているマグマの量の、4立方kmという数字は、後に紹介する浅間山の山体崩壊時のマグマの量および岩屑なだれで流下した土石の量を合わせたものと同じレベルである。
 
 また、この著書には”コラム”としてやや専門的な解説が書かれているが、その一つに次のようなものがあり、大プリニウスとその最期の様子が書かれている。

 「79年8月24日午後1時ころ、小プリニウスはヴェスヴィオ山の方角にたちのぼる異常な形の雲を見た。ミセヌムからヴェスヴィオ山頂までは25kmほど離れており、間にはナポリ湾が横たわっている。
 彼の叔父の大プリニウスも、その時ミセヌムにいた。ローマ帝国海軍提督の任にあった大プリニウスは、『博物誌』の著者として知られる学者でもあった。『博物誌』には当時知られていた活動的火山のリストまでが載せられていたから、大プリニウスが異常な形の雲に興味を示したのは不思議ではなかった。
 ちょうどそこへ、ヴェスヴィオ山麓に住む友人から救助を求める手紙が届いた。大プリニウスは軍船を一隻用意させると、部下とともにみずからそれに乗り込んだ。
 北西の風にのってナポリ湾を横断した大プリニウスとその部下たちは、やがてヴェスヴィオ山麓に展開されるすさまじい噴火の地獄絵を船上から眺めることになる。彼らはポンペイ港への上陸を果たせず、ナポリ湾の南東最奥にあるスタビアエStabiaeの町(ヴェスヴィオ火口から14km)に上陸する。
 北西風は,噴煙を火口の南東に位置するポンペイとスタビアエの方向へなびかせたため、2つの町にはおびただしい量の軽石が降りそそいでいた。強い北西風のために船での脱出ができなくなった大プリニウスたちは、そのままスタビアエにとどまることを余儀なくされた。噴火にともなう地震と降り積もった軽石の重みによって、次々に家屋が倒壊した。火口や噴出物を起源とする有毒ガスも町に充満した。
 そして、ミセヌムを出航した2日後の夕方、疲れ果てた大プリニウスはついに息絶えることになった。死因は有毒ガスとも心臓マヒとも言われている。」

 この手紙を残した小プリニウスにちなんで、噴火の名前が付けられたのであるが、次のように説明されている。

 「一方、地震と降灰はミセヌムにいた小プリニウスをも襲っていた。地震による建物の倒壊をおそれた小プリニウスは、8月25日の朝に彼の母とともに屋外へと避難し、降りそそぐ灰を振り払いつつ郊外の丘から噴火の一部始終を観察することになった。
 ・・・彼の観察記録から、ヴェスヴィオ山体を駆け下って海上をつき進んだ火砕流や、ナポリ湾で生じた津波などの事件を読みとることができる。やがて噴火はピークを越え、ミセヌムに戻った小プリニウスは、生き残って帰還した大プリニウスの部下から叔父の死の知らせを聞いた。
 小プリニウスが書き残した79年噴火は、有史以来現在までの間にヴェスヴィオ火山で起きた最大かつもっとも激しい噴火であったことが地質学的調査によってわかっている。・・・世界で初めてこのような破局的噴火の克明な様相を書き残した小プリニウスの名にちなんだプリニー式噴火(plinian eruption)の名前が、大規模な降下軽石をおこす噴火をあらわす火山学用語として使われている。」

 ここで、プリニー式という用語を含む火山噴火の規模についてみておくと、下の表のようにVEI指数というものが定められていて、ここでVEIとの関係が示されている。VEIは英語名称 Volcanic Explosivity Index の略で、火山爆発指数(かざんばくはつしすう)というものであり、1982年にアメリカ地質調査所のクリス・ニューホールChristopher G. Newhallとハワイ大学マノア校のステフェン・セルフ(Stephen Self)が提案した区分である。火山そのものの大きさではなく、その時々の爆発の大きさを表す指標である。

 区分は、噴出物(テフラ)の量でなされる。0から8に区分され、8が最大規模である。VEI=0はテフラの量が10^4(10,000)立方メートル未満の状況を指す。VEI=8はテフラの量が10^12立方(1,000立方キロ)メートル以上の爆発を指す。それぞれの区分には噴火の状況を示す名称(「小規模」など)が付けられている。
 注意すべきことは、VEIの決定にはテフラの種類は影響しないということである。噴出物には火山灰、火山弾、イグニンブライト(溶結固化した火砕流堆積物)などさまざまなものがあり、同じ量であってもその噴出に必要とするエネルギーは異なる。従って、VEIは噴火のエネルギーの大小は意味しない。また、静かに流れるマグマの量は、どれだけ多くても考慮されない。


VEI指数と噴火の様子(ウィキペディア「VEI」を参考にして作成)

 その後のヴェスヴィオの噴火活動についても小山教授は次のように記している。

 「1631年12月16日の早朝、ヴェスヴィオ火山は突然眠りから覚めて噴火を開始し、降灰・火砕流・泥流などによって広範囲に大きな被害を生じさせた。犠牲者の数3000~6000人と推定される大変な災厄だった。
 この噴火の前数ヶ月間にわたり、群発地震・鳴動・噴気・火映・井戸水の異常などのさまざまな前兆があらわれたことが、多数の史料から知られている。噴火の24時間前から群発地震はいっそう激しさを増したらしい。
 噴火は、79年噴火とよく似た推移をたどった。初期に水蒸気マグマ噴火が起き、20時間ほどプリニー式噴火が続いた後、17日未明から火砕流を発生するようになった。火砕流は西および南斜面を流れ下り、一部は海に達した。ナポリ湾では津波も観測された。17日の夕方に噴火はピークを越え、数日かけて収束していった。
 噴出したマグマの総量は、79年噴火の8分の1にあたる0.5立方kmであった。噴火にともなう山体の崩落によってヴェスヴィオ山頂は標高が450mも低下し、ソンマ山より低くなってしまった。・・・」

 「1631年の噴火以後も300年あまりにわたってヴェスヴィオ火山は頻繁に噴火を繰り返したが、79年噴火や1631年噴火のような大規模な軽石噴火は起こしていない。それらの噴火の多くは溶岩流出で始まり、やや爆発的な噴火をした後、数年休むということを繰り返した。
 そして、ムッソリーニ体制下の1944年の噴火を最後に、ヴェスヴィオ火山はふたたび眠りについてしまった。この休止期がいつまで続くのか、そして眠りの後には79年や1631年噴火のような破局的な噴火を起こすのかという疑問に、火山学者はまだ明確な回答を用意できないでいる。かりに今1631年と似た噴火が起きるとした場合、ヴェスヴィオ火山周辺から60万人もの住民を避難させねばならないという。」

 79年噴火前のヴェスヴィオ山の高さについては、はっきりとした数字は示されていないが、1800m前後であるとして、TV番組で示されていた当時のヴェスヴィオを想像して描かれた画像から推察して、前掲の写真に追記すると、ヴェスヴィオは次のようなものであったと思われる。噴火に伴って、ヴェスヴィオの形は大きく変化している。これは、旧浅間山の2.4万年前の山体崩壊と同様のことが起きていることを思わせる。


79年の噴火前のヴェスヴィオの想像図(追加部筆者)

 小山教授が著書に記しているのはここまでであるが、近年ヴェスヴィオ火山周辺の都市では次のような取り組みが行われているという。

 歴史上最大の火山被害を起こしたヴェスヴィオであるが、この火山の周辺にはその後、都市が発達して現在60万人が生活するようになっている。この事に関して、ロンドン大学危機管理講座(第5回 世界で最も危険な火山 –ヴェスヴィオ火山の噴火対策)の中で、奥はる奈氏は次のようにヴェスヴィオ火山災害への現地政府の対策について紹介している。

 「現在のヴェスヴィオ山の状態について、地質学者協会会長のフランセスコ・ルッソ氏は『今後100年間に大噴火が起きる可能性は27%』とし、危険を呼びかけています。
 そのため、ヴェスヴィオ山は数十個のセンサーで監視され、地震、地熱、山の傾きや膨張、地下水、ガスなどが24時間体制で計測されています。観測データは9km離れたナポリ市内のヴェスヴィオ火山観測所まで送られます。伝達手段は、故障に備え、有線、電話、無線等複数用意されています。 ・・・
 ヴェスヴィオ火山のリスクは、火山のすぐ近くまで市街地が存在していることにあります。国が最も危険であると指定した、“レッドゾーン”内にある18自治体には65万人、さらに火山からほど近いナポリ市には100万人が生活しているのです。 
 大規模な噴火が起きた場合、ヴェスヴィオ火山周辺から65万人もの住民を避難させねばならないということから、避難においても国をあげての対策が取られています。具体的には、イタリア政府は国家計画の下、・・・レッドゾーンにある18の自治体それぞれに、あらかじめ避難先となるイタリア国内の16の州が指定されています。
 
 まず、噴火が予知されてから2週間以内に、バス、車、鉄道、船舶などの輸送機関、軍隊といった、国のリソースを総動員して、強制的に住民を避難させることになっています。さらに、避難先には、仮設住宅や社会活動や学校再開するための準備が整えられています。
 実際の避難では、ヴェスヴィオ山の北側の住民は、ナポリからローマの方に、南側住民は海に避難します。南西側と北西側の住民の“GoldenMile”と呼ばれる避難経路は混雑が想定されるため、その対策も進められています。 
 大規模な住民避難を想定した訓練も実施しています。1999年には5000人を船で避難させる実働訓練“Vesuvio 99”が行われました。 2006年、2007年には“MESIMEX(Major Emergency SIMulation Exercise)”という、スペイン、フランス、ポルトガル等、他のヨーロッパ諸国の救急サービス機関も参加する訓練が実施されています。

 このように、ヴェスヴィオ山の計画では、イタリア全土を巻き込んだ計画が策定されています。壮大な計画にならざるを得ないのは、避難させる人口が多いからです。今後20年間に危険地域内の居住人口を10%以上減少させ、製造業など企業も移転させ、代わりに観光産業の発展を進めるという長期的な計画も並行して進められています。そのひとつに、“Vesuvia Relocation Programme”という住民を移住させる取り組みがなされています。・・・ 
  大規模な噴火が起きた場合、ヴェヴェスヴィオ火山へは、国のリソースを全て集中させるような国をあげての避難計画に加え、移住による避難者の減少や産業政策まで含めた長期的な減災計画を実施していることは注目すべきことです。いつ噴火するかわからない火山ですが、ボンベイを滅亡させた歴史を顧み、ワーストケースシナリオに備えて対策をしているといえます。・・・」

 このように国を挙げての避難対策が進められているイタリアの状況である。日本ではどうかというと、全国の火山について多くのハザードマップが作成されている。浅間山については、活動火山対策特別措置法に基づいて、浅間山周辺市町村や、群馬県、長野県、防災関係機関、火山専門家等で構成された協議会「浅間山火山防災協議会」が設けられ、昨年、2018年3月にハザードマップが作成・改訂された。関係市町ではそれぞれホームページでこれを公表し、周知を図っている。軽井沢町では、この内容の一部を、従来からある、浅間山火山防災マップに記載して、2019年7月に各戸に配布している。

 また、鹿児島市では、一足早く2000年3月にやはりハザードマップを作成し、現在、市の公式ホームページで英語版、韓国語版、簡体字版、繁体字版の各言語での情報を公開するとともに、毎年1月には「1人の犠牲者も出さないために」とのテーマのもと、「桜島火山爆発総合防災訓練」を行っているという。
(以下次回)

 

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