軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

バラの季節

2018-06-29 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢に住んで感じていることの一つは、軽井沢だけに限らず佐久平方面にでかけてもそうなのだが、バラがとても元気に咲いているということである。住宅の周辺などのバラの花がとても美しい。庭先や玄関脇などのほんの少しの場所などに植えられたバラが大きく生育して立派な花をつけているのをよく見かける。この地方の風土がバラに合っているのだろうと思う。

 当然、そうした好環境に恵まれている軽井沢にはいくつものバラ園があって、今の季節はバラが美しく咲き競っている。

 観光地として知られる南軽井沢タリアセン内のイングリッシュローズ・ガーデンに、まだ軽井沢にくる前に母と妹2人とを案内したことがあって、この園内のバラがとても美しかったことを思い出す。ここには現在200種、1800株のバラが植えられているとされる。

 移住後には、所用で南軽井沢にある別荘地・レイクニュータウンに時々出かけることがあるが、ここにあるレイクガーデンのバラ園もまたとても管理が行き届いていて、別荘に住んでいる人達だけではなく、観光客にも有料ではあるが開放されているので、訪れる人も多いようである。

 昨年、ちょうど今の季節に出かけて、このたくさんのバラを撮影してきているので、紹介させていただこうと思う。

 レイクニュータウンの別荘地内に入ると、管理事務所の建物があるが、この周囲がバラでとり囲まれるようになっていて、実に美しい。


レイクニュータウンの管理事務所周辺に咲くバラ(2017.6.30 撮影)

 この管理事務所の斜め前、道路をはさんだ対角線方向にバラ園への入り口がある。一般の観光客は入場料が必要だが、先日でかけた軽井沢周辺の蕎麦屋にもこのバラ園の優待券が置かれているのを見かけたので、それなどをうまく利用すればいいようである。


バラ園と付属施設の入り口(2017.6.30 撮影)

 私は、バラのことには詳しくないが、バラにはモダンローズとオールドローズと呼ばれる種類(群)があることは聞き知っている。では、その違いはというとあいまいであったので、今回調べてみた。

 オールドローズとは、北半球に150種ほど自生していたとされている野生のバラの中から10種あまりを基にして、人類が品種改良を始めた約4000年前から1867年までの間に開発された品種のことを指すという。一方、モダンローズの方は1867年以降に開発された新種のバラを指している。

 そして、この1867年という年に何があったかといえば、バラの新種開発の歴史の中でも画期的とされる品種が、それまでもバラの品種改良の先頭を走ってきたフランスで生み出された年ということになる。

 そのバラの名前は「ラ・フランス」とされた。このバラは、フランスのリヨンで育種に携わっていたジャン=バティスト・ギョ・フィスが1866年に偶然に圃場に生えた実生株を発見し、翌年の1867年に命名され公表されたものという。

 「ラ・フランス」は当時人気のあったバラに比べて、壮麗で花弁数も多く、淡いピンク色の花弁は外側のものでも平開することなく、花の中心部分のものは直立していた。また花の中心部はやや盛り上がって高くなり、花弁の縁は背側に巻き込む、今日言うところの剣弁高芯咲きの花型をしていたとされる。そして、何よりもそれまでのバラは、ほとんどが春のみの一季咲きであったのに対し、「ラ・フランス」は四季咲きであったことによる。

 「ラ・フランス」の両親とされるバラは、共に自然界には存在しない、純然たる人工のバラであったことから、この記念すべき年をもって、園芸バラのグループを新旧に2分することが、全米バラ協会から提唱され、その後定説として世界で広く受け入れられているというのが、その由来であった。

 さて、この分類を念頭に、レイクガーデン内のバラの写真を改めて眺めているが、そうかんたんには新旧ローズの区別がつかない。

 バラ園内では、それぞれのバラの脇に名前が記されていたので、それらを写真に転記しておいた。注意して記録したつもりであるが、あるいはミスで間違って書き写したものもあるかもしれない。その点は、なにしろバラの名前をまったく知らない素人なのでご容赦いただきたく思う。

 これら新品種の名前は、開発者が自由に命名できるとあって様々で、現在3-4万種あるとされる中から、今回撮影した品種を探し出すのは容易ではなく、バラ図鑑では見つからない名前も多い。それぞれの写真の下に、判ったものについては、作出年や国名、花の大きさ、香りの有無などの説明を付記しておいた。その作出年を見ると、ほとんどモダン・ローズであることがわかる。

 バラの種類は、樹形、花形、花色、香り、一季/多季咲きなどで分類されるが、今回は花の色ごとに分けて紹介させていただく。先ずはバラといえば・・・真っ赤なバラから。


イル・ルージュ、2007年作出、フランス、8cm、微香(2017.6.30 撮影)


サン・テグジュペリ、2003年作出、フランス、10cm、中香(2017.6.30 撮影)


テス・オブ・ザ・ダーバーヴィルズ、1998年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


オマージュ・ア・バルバラ、2004年作出、7-8cm、 微香、フランス(2017.6.30 撮影)


トゥール・エッフェル2000、1998年作出、フランス、微香(2017.6.30 撮影)

 そして、妖艶な紫色系の花。


シャトルーズ・ドゥ・パルム、1996年作出、フランス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)


ミステリューズ、2013年作出、フランス、6cm、スパイス系香(2017.6.30 撮影)


ムンステッド・ウッド、2008年作出、イギリス、7-8cm、ダマスク系強香(2017.6.30 撮影)


パープル・ロッジ、2007年作出、フランス、強香(2017.6.30 撮影)


ディオレサンス(2017.6.30 撮影)


ヴィオレット、1921年作出、フランス、微香(2017.6.30 撮影)


ラプソディー・イン・ブルー、2000年作出、イギリス、7-8cm、スパイス系香(2017.6.30 撮影)

 次に、ピンク系のバラ。園内で最も多いのがこのピンク系のバラ。濃いものから白に近いものまでとても幅広い。


ローズ・オブ・ピカーディー、2004年作出、イギリス、微香(2017.6.30 撮影)


ドクトール・マサド(2017.6.30 撮影)


ジェネラシオン・ジャルダン、2009年作出、フランス、7-8cm、中香(2017.6.30 撮影)


ゼフィリーヌ・ドリーアン、1868年作出、フランス、強香(2017.6.30 撮影)


レジス・マルコン、2014年作出、フランス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)


ブルノ・ペルプワン(2017.6.30 撮影)


メアリー・ローズ、1983年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


ブラザー・カドフィール、1990年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


プリンセス・アレキサンドラ・オブ・ケント、2007年作出、イギリス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)


レイモン・ブラン(2017.6.30 撮影)


ガートルート・ジエキル(2017.6.30 撮影)


ラヴェンダー・ラッシー(2017.6.30 撮影)

 以下はより白味の強い種類。


ペッシュ・ボンボン、2009年作出、フランス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)


ピエール・ド・ロンサール、1986年作出、フランス、9-14cm、微香、日本で最もポピュラーな種類(2017.6.30 撮影)


アベイ・ドゥ・ヴァルサント(2017.6.30 撮影)


ワイフ・オブ・バス、1969年作出、イギリス、微香(2017.6.30 撮影)


セプタード・アイル、1996年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


キャスリン・モーリー、1990年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


クイーン・オブ・スウェーデン、2004年作出、イギリス、7-8cm、強香(2017.6.30 撮影)


アンヌ・ボレイン、1999年作出、イギリス、微香(2017.6.30 撮影)


シャポー・ド・ナポレオン、1827年作出、フランス、7cm、強香(2017.6.30 撮影)

 ややニュアンスの異なる色のものもある。


スウィート・ジュリエット、1989年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


ラ・パリジェンヌ、2009年作出、フランス、中香(2017.6.30 撮影)

 次に黄色~オレンジ色のバラ。


ブライス・スピリット、1999年作出、イギリス、中香(2017.6.30 撮影)


シャルロット、1993年作出、イギリス、中香(2017.6.30 撮影)


ソレイユ・デュ・モンド(2017.6.30 撮影)


バターカップ(2017.6.30 撮影)


ソレイユ・ヴァルティカル(2017.6.30 撮影)


ゴールデン・セレブレーション、1992年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)
 
 次は白いバラ。


アンナプルナ、2012年作出、フランス、7-8cm、さわやかな香り(2017.6.30 撮影)


シフォナード(2017.6.30 撮影)


パール・ドリフト(2017.6.30 撮影)


ウィリアム・アンド・キャサリン、2011年作出、イギリス、7-8cm、中香、2人の結婚を祝して命名(2017.6.30 撮影)


ブランシェ・カスカドゥ(2017.6.30 撮影)

 最後にモザイク状の斑入りのバラ。


モーリス・ユトリロ、2003年作出、フランス、強香(2017.6.30 撮影)


アルフレッド・シスレー、2004年作出、フランス、中香(2017.6.30 撮影)


カミーユ・ピサロ、1996年作出、フランス、中香(2017.6.30 撮影)


ギー・サヴァオ、2001年作出、フランス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)

 ずいぶん多くのバラを見ていただいたが、もちろんこれでも園内で撮影した写真の一部である。お気に入りのバラは見つかっただろうか。

 これらの美しいバラに魅せられ、これまでは山野草にばかり関心を持っていたのであるが、昨年我が家にも数種類のバラを植えることにした。冒頭、軽井沢の風土にはバラがよく合っているようだと書いた。実際ご近所の庭ではバラがよく育っていて、美しく咲いているのを見ている。

 しかし、実際に植えてみるとなかなか難しいことがわかってきた。微妙な日当たり条件や、土質によって生育と花付きが大きく異なる。 アリマキもつくし、病気にもなる。当然のことだが、庭先にごく自然に咲いているように見えていたバラも、それぞれの家庭で、きちんと管理されていたのだといまさらのように気がついた。

 我が家でも頑張って美しい花を咲かせたいと思うのだが。

 

 

 






 



 
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軽井沢文学散歩(4)正宗白鳥

2018-06-22 00:00:00 | 軽井沢
 今回は正宗白鳥(まさむね はくちょう)。明治から昭和にかけて活躍した小説家、劇作家、文学評論家。1879年(明治12年)3月3日、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)の生まれ。本名は正宗忠夫(まさむね ただお)。

 名前は知っているものの作品を挙げてみろと言われると出てこないということで、私には馴染みの薄い存在である。ただ、「現代日本文学大系16・正宗白鳥集」(1969年 筑摩書房発行)には次のような記述も見られるので、代表作が思い浮かばないのは私だけではないのかもしれない。

 「百科事典や文学辞典の『正宗白鳥』の項には、『小説化・戯曲家・評論家』とあるものの、評論家の彼には権威があるが、小説家、戯曲家の彼は、あまり人気がない。
 しかし、小林秀雄は、白鳥の小説は『みなおもしろいよ。ただ正宗さんという人物がわからないとおもしろくない。自然主義ではない。才はないさ。才というよりはもっと違ったものを持っちゃった人だ。』と言っている。
 数年前、私は『正宗白鳥・文学と生涯』という本を書いた時、明治末葉の自然主義台頭期に、花々しく売り出した当時と、功成り名遂げて老熟した年代の彼の本が、どれだけ売れたかを調べてみて、それが近年の純文学の新人にすら、遥かに及ばないのを知って、唖然とした。・・・
 ・・・白鳥の代表作と言えば、何だろう。戯曲なら『人生の幸福』『安土の春』、評論なら『作家論』『自然主義盛衰史』を挙げることが出来るが、小説となると、容易ではない。さきに述べた『何処へ』や『微光』、それに『入り江のほとり』『牛部屋の臭ひ』『人間嫌ひ』『今年の秋』などを挙げるのが、通説であろうが、私に言わせると、代表作がない、というのが彼の特色である。・・・」(付録、正宗白鳥の生涯 後藤 亮)

 一方、軽井沢町の公式HPによると、軽井沢とのかかわりは深く、正宗白鳥が初めて軽井沢を訪れたのは1912年(大正元年)、伊香保を訪れた折のことで、33歳であった。その後、1940年(昭和15年)61歳の時に六本辻に別荘を建て、以後夏を中心に過ごしている。第二次大戦中の1944年(昭和19年)8月に疎開してから1957年(昭和32年)まで同所に住んだということなので、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造と同時期に軽井沢に滞在していた。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星、堀辰雄、立原道造と正宗白鳥(赤で示す)

 立原道造は1939年に没しているので、軽井沢での正宗白鳥との直接のかかわりはないようだが、堀辰雄が軽井沢に最初の住まいを構えたのが1938年のことで、1941年には1412番山荘を手に入れ、以後、1944年(昭和19年)までは夏になるとこの山荘で過ごしている(当ブログ2017.11.10付参照)から、同時期に軽井沢の住人であったことになる。

 また、室生犀星記念館のパンフレットには次のような記載がある(当ブログ2017.10.13 公開)ので、交流のあったことが知れる。

 「この旧居は、昭和6(1931)年に建てられたもので、亡くなる前年の昭和36(1961)年まで毎夏をここで過ごしました。・・・この家には、堀辰雄・津村信夫・立原道造ら若き詩人たちが訪れたり、近くに滞在していた志賀直哉・正宗白鳥・川端康成ら多くの作家との交流もありました。・・・」

 この交流の具体的内容が、前記の「現代日本文学大系16・正宗白鳥集」に室生犀星が寄せた「正宗白鳥論」の中で次のように書かれている。

 「娘が結婚をするので正宗さんになこうど役をおたのみしようかという相談が、娘や息子や妻やむこの青木和夫の間で起った。堀辰雄君は臥ているし夫人も病勢によっては出席不可能かもしれないから、兎も角、正宗さんより外にはなこうどになって貰う人はいない。・・・
 ・・・その日にすぐ正宗さんをお訪ねして話をすると、私は殊更になこうど役を正面から切り出しもしない世間話のなかに含み込ませて、式も軽井沢で挙げ諸事簡単にやるつもりだと言ったが、有耶無耶の間にどうやら正宗さんは話が解ったらしく、若しご都合がお悪いようだったら出席していただかなくてもいいんですよと遠慮していうと、旅館は近くではあり暇もあるから出ますよと、もう話が決められて了ったように承諾してもらえた。・・・
 おなじ土地の旅館で式を挙げたが、なこうど役というものは末座にすわるようになっているから、正宗さんは先生は此方へとあんないする女中の言葉に、一番末座にきゅうくつそうなフロック姿を四角にたたみこむように座られた。・・・
 式が済むと一人でこつこつと冬の日の往還をかえって行かれるのを、私たちは旅館の玄関まで見送りに立った。肩の上がったフロックの背後姿は正宗白鳥の感じであるよりも、普通の田舎人の感じであった。・・・」

 「正宗さんと私の家は軽井沢でも、二十五分くらいかかる道のりだったが、戦時中、新聞は配達してくれないので販売店まで取りに行かなければならなかった。私の家からは近くであったが、正宗さんのお宅からは浅間下ろしの吹きさらしになっている長い街道を行かなければならず、その街道の冬はさえぎるものがないから、寒さは想像外のものだった。正宗さんは毎朝防空頭巾を深々とかむって、新聞を朝ごとに取りに行かれた。・・・
 防空頭巾といえばそれをかむって歩いていられるものだから、或る時、家で通いの縫物婆さんを雇っていて仕事をさせていると、そこに正宗さんが見えたので婆さんは驚いて、いまお宅に見えた方は一たい何をしている方でしょうか、と彼女は敢てたずねて素性の分らない一老人の身元をたずね、そこで人がらを説明するとそんなに名のある方だとは思わなかった、宅の前を変な格好をして毎日新聞を取りに行かれるものだから、何処で何をしている人かと皆で噂していたんですよ、そうですか、こちらの先生のようなお仕事で、先生の先生のような方ですかと、婆さんはあきれたふうであった。こういう不思議な思いをしていた人は軽井沢ではどれだけいたか分らない、・・・」

 軽井沢町公式HPの文学者プロフィールには、「戦後まもない頃、ニッカーボッカー姿で街を歩く正宗白鳥の姿は有名だった。」と紹介されていて、写真集「思い出のアルバム軽井沢」(幅 北光編 1979年 郷土出版発行)には旧軽井沢入り口を、帽子をかぶり、コート姿でとぼとぼ歩いて行く正宗白鳥の後ろ姿(昭和22年)と前からその姿を捉えた写真(同年)の2枚が掲載されている。

 この写真の頃書かれた小説「日本脱出」は軽井沢が舞台だとされていて、戦時中に山中にある別荘の地下室へ十人ばかりの戦争忌避者が集まって、世忘れの会を催すという小説である。室生犀星はこの「日本脱出」を引き合いに出して、「正宗白鳥は五年とか十年めくらいに、人の気を引きもどして白鳥を見直させるものを書かれていた。戦後の『日本脱出』がそれだ、そういう五年十年めに立ち直りを見せている波の起伏は、自然にそうなっているものか、勉強をしてそうなったのか、・・・」(正宗白鳥論 前出)

 ここで、前出書などから主に軽井沢との関連項目を中心に、正宗白鳥の経歴をたどると次のようである。

1879年(明治12年)3月3日 岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に父浦二、母美禰の長男としてまれる。本名は、忠夫。
1892年(明治25年)13歳 9歳から通った隣村の片上村の小学校高等科から漢籍を主とする藩校閑谷黌(しずたにこう)に進む。
1894年(明治27年)15歳 近村香登(かがと)村のキリスト教講義所に通う。ついで、岡山市に寄宿し、米人宣教師経営の薇陽学院で英語を学ぶ。
1895年(明治28年)16歳 薇陽学院閉鎖に伴い故郷に帰る。
1896年(明治29年)17歳 上京を決意し、牛込横寺町に下宿し、東京専門学校(後の早稲田大学)英語専修科に入学。
1897年(明治30年)18歳 市谷のキリスト教講習所で植村正久・内村鑑三の影響を受け、植村正久牧師によりキリスト教の洗礼を受ける。
1898年(明治31年)19歳 東京専門学校英語学部卒業、さらに新設の史学科に入学。ローマ史に興味を持つ。
1899年(明治32年)20歳 史学科が廃止になり、文学科に編入。 
1901年(明治34年)22歳 文学科を卒業。早稲田の出版部に勤務する。この年、内村鑑三に対する畏敬の念を失い、「基督教を棄てた」と後年作成の年譜に自らの手で記載し、後に否定。
1903年(明治36年)24歳 「読売新聞」に入社。文芸・美術・演劇を担当した。
1904年(明治37年)25歳 処女作品となる「寂寞」を『新小説』に発表し文壇デビューする。
1907年(明治40年)28歳 本格的に作家活動に入り、1月に「漱石と二葉亭」、2月に「塵埃」を発表、文壇の新人として認められる。
1908年(明治41年)29歳 日露戦争後の青年像を描いた「何処へ」を『早稲田文学』に連載し、10月に貿易風社から刊行。自然主義文学に新分野を開き注目された。
1909年(明治42年)30歳 多くの作品を手がけ、最初の新聞小説「落日」を『読売』に連載。秋、京都に遊び、有馬、大阪を経て帰郷。
1910年(明治43年)31歳 6月、7年間勤めた『読売』を退社して、信州に遊ぶ。10月「微光」を『中央公論』に発表し、この時期の代表作として推称された。この年、森鴎外が「青年」を発表、なかの一人物大石路花は、自然主義の新人白鳥をモデルにしたものといわれている。
1911年(明治44年)32歳 甲府市の油商清水徳兵衛の二女つね(後につ禰、明治25年生まれ、19歳)と結婚、牛込矢来下天神町に住む。
1912年(明治45年/大正元年)33歳 伊香保を経て、軽井沢にはじめて行く。
1918年(大正07年)39歳 これまで毎年多くの作品を手がけていたが、この頃、人生に対する倦怠感が強まり、執筆難となる。
1919年(大正08年)40歳 10月、夫妻で伊香保に行き、京阪に遊び、11月帰郷。一時文学を捨て、都会生活を止めようとまで思ったりした。
1920年(大正09年)41歳 5月、郷里の生活にも堪えられず、伊香保、軽井沢で四、五ヶ月生活する。9月、「浅間登山記」を『人間』に発表。10月、大磯に移住。
1923年(大正12年)44歳 9月、関東大震災で家は半壊、生命の難は免れた。
1928年(昭和03年)49歳 11月下旬に、夫人同伴で、世界漫遊の旅に出発。
1929年(昭和04年)50歳 1月、米・仏・伊・英・独の各国を廻り、その紀行文を『読売』『大阪朝日新聞』『中央公論』などに寄稿。
1933年(昭和08年)54歳 東京洗足池畔に家を買い、大磯から転居。
1935年(昭和10年)56歳 外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。北海道、樺太、北支を旅行。
1936年(昭和11年)57歳 再び欧米旅行に出発、ソ連・仏・独・米の各国を訪れ、その紀行を『読売』や『中央公論』に寄せた。
1937年(昭和12年)58歳 ニューヨークで新年を迎え、2月に帰国。6月、帝国芸術院会員に推薦されるが辞退。
1940年(昭和15年)61歳 2月、財団法人国民学術協会理事となる。4月、弟の丸山五男の三男有三(昭和9年生まれ)を養嗣子とした。8月、軽井沢に小宅を建てる。再び勧められて帝国芸術院会員になる。
1943年(昭和18年)64歳 11月3日から1947年(昭和22年)2月12日まで日本ペンクラブ会長(2代目)。
1944年(昭和19年)65歳 8月17日、一家、軽井沢に疎開。
1946年(昭和21年)67歳 この年は『新星』などに多く書き、永井荷風とともに、大家の復活とみられた。
1949年(昭和24年)70歳 1月、「日本脱出」を『群像』に連載。8月、「日本脱出」を講談社より刊行。
1950年(昭和25年)71歳 3月、「日本脱出」後篇を『心』に連載。11月、文化勲章受章。
1957年(昭和32年)78歳 4月、軽井沢住まいをよして、大田区南千束に移る。
1958年(昭和33年)79歳 10月、「軽井沢と私」を『群像』に発表。
1960年(昭和35年)81歳 11月、「一つの秘密」を『中央公論』に発表。
1962年(昭和37年)83歳 3月、室生犀星の葬儀で、弔辞を読んだ。8月下旬、飯田橋の日本医大付属病院に入院。10月28日 膵臓癌による全身衰弱のため、同病院で死去。30日、大久保の柏木教会で、牧師植村環(18歳で受洗した時の、植村正久牧師の娘)の司式で葬儀。死後、終始クリスチャンでありながら、生涯棄教者を装っていたのではないかとされるなど、キリスト教への回帰をめぐり、論議さかん。11月、「一つの秘密」を新潮社より刊行。墓所は多磨霊園にある。
1965年(昭和40年)   7月、丹羽文雄の発案、ジャーナリズム、文壇からの醵金で、東京工業大学教授谷口吉郎氏の設計による十字型の「正宗白鳥詩碑」が軽井沢町に建立された。

 軽井沢町が発行している「軽井沢文学散歩(改訂新版)」の最初のページにこの美しい碑の写真が掲載され、目を引いている。

 旧軽井沢から碓氷峠に向かう旅人を宿の女人が送って二手に分かれたという二手橋を渡り左に川に沿って進むと、先ず室生犀星の詩碑が左側にあり、さらに少し進むとすぐ右の足下にこの碑の案内板がある。細いのぼり道を右にとり進むと、今は使われていないユースホステルの建物があり、これを過ぎて更に進むと道が大きくカーブするところに正宗白鳥詩碑がある。


今は大きな杉木立が詩碑のすぐそばに見られる(2017.10.8 撮影)


正宗白鳥詩碑周辺の様子(2017.10.8 撮影)


黒御影石で作られている十字型の詩碑(2017.10.8 撮影)


詩碑の横に設けられている説明板(2017.10.8 撮影)

この説明板には次のように書かれている。

 「この碑は、こよなく軽井沢を愛し、ここに居住した文士の一人である正宗白鳥が日常愛唱したギリシャの詩を、自筆で描き刻まれています。また、この文学碑に使用したみかげ石は、遠くスウェーデンから取り寄せ、碑の台下には故人愛用の万年筆が埋められています。碑は東京工業大学教授谷口吉郎氏の設計により昭和40年建立された。

 花さうび 花のいのちは いく年ぞ 時過ぎてたずぬれば 花はなく あるはたゞ いばらのみ 」

 ところで、正宗白鳥が住んだという六本辻の住まいとはどのようなもので、今はどうなっているのだろうか。室生犀星と堀辰雄の住まいは現在記念館として保存・公開されていて訪れる人も多い。軽井沢町のHPと書籍・軽井沢文学散歩をあたってみたが正宗白鳥の旧宅については何も書かれていない。

 そこで、地元の年配者に聞いてみると、六本辻のラウンドアバウトを雲場池の方に進んだところに、今も建物が残っているという。その場所に行ってみると次のような状況であった。


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘1/3(2018.6.9 撮影)


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘2/3(2018.6.9 撮影)


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘3/3(2018.6.9 撮影)

 正宗白鳥が没したのは1962年のことで、現在すでに56年が経過している。没後にどのような形で管理されていたのかは不明であるが、今は荒れ放題で、全く管理されていないように見える。後を継ぐ方が誰もいなかったためであろうか。

 正宗白鳥が残した、詩碑に刻まれている詩が妙にこの住まいの現状を現しているように思えて心痛む思いである。

 <花さうび 花のいのちは いく年ぞ 時過ぎてたづぬれば 花はなく あるはたゞ いばらのみ>

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生まれて初めての食事

2018-06-15 00:00:00 | 
 以前このブログで、庭にきた蝶(20)としてモンキチョウを紹介し、モンキチョウの幼虫が卵から孵化してでてくるところを静止画で示したことがあった(2018.1.12 公開)。このシーンも実は動画撮影をしていたのだが、PCにバックアップしてあったその動画を誤って消去してしまいその時は掲載することができなかった。掲載できたのは、PCに残っていたこの動画から得た一連のキャプチャー画像であった。

 カメラ本体にある元の映像は、通常バックアップした時点で削除するので、この時もそうしたものと思い込んでいた。ところが、消したと思っていた、モンキチョウの孵化の様子を撮影した映像はメモリーカードの方に残っていたことに最近になって気が付いた!。

 今回は、これを見ていただこうと思う(幼虫の苦手な方は視聴ご遠慮ください)。題して「生まれて初めての食事」。長さが1.5mmほどの細長いモンキチョウの卵。ここから幼虫が這い出して、すぐに幼虫は自分が入っていた卵の殻をムシャムシャときれいに食べてしまう。

 こうした行動は、このモンキチョウの幼虫だけではなく、多くの蝶・蛾はじめ昆虫の幼虫で見られるものであるという。先ずは動画からのキャプチャー画像から見ていただく。


1.産みつけられた直後白かった卵は、黄~オレンジと変化し孵化直前には上部が黒くなる
(2017.7.8 16:20 撮影動画より)


2.上部右側に小さな穴が開く(2017.7.8 16:50 撮影動画より)


3.左にもう一つ穴が開き、幼虫は中からその穴を齧り広げていって一つにする
(2017.7.8 17:00 撮影動画より)


4.穴を頭の大きさにまで広げる。黒く見えていたのは幼虫の頭だった(2017.7.8 17:10 撮影動画より)


5.頭が出るところまで齧ると、幼虫はそこから這い出して来る(2017.7.8 17:11 撮影動画より)


6.よいしょ!、幼虫の体は腹部を卵の中で2つに折りたたんで入っているようだ(2017.7.8 17:12 撮影動画より)


7.もう少し(2017.7.8 17:12 撮影動画より)


8.頭がアカツメクサの葉に届いた(2017.7.8 17:13 撮影動画より)


9.身体が完全に出た。身体は折りたたまれていたこともあり、2mm以上と卵の長さよりもだいぶ長い(2017.7.8 17:15 撮影動画より)


10.一度卵の抜け殻から離れていくが、何を思ってか後戻り(2017.7.8 17:17 撮影動画より)


11.抜け殻の方に近づいていく(2017.7.8 17:17 撮影動画より)


12.抜け殻に戻る(2017.7.8 17:17 撮影動画より)


13.頭を持ち上げて(2017.7.8 17:20 撮影動画より)


14.上の方から食べ始め(2017.7.8 17:25 撮影動画より)


15.どんどん食べていく(2017.7.8 17:29 撮影動画より)


16.休まず一気に食べ進め(2017.7.8 17:40 撮影動画より)


17.完食、この間23分(2017.7.8 17:43 撮影動画より)


18.食べ終わると、アカツメクサの葉の中心葉脈上の定位置に移動(2017.7.8 17:47 撮影動画より)

 では、この様子をYouTubeのタイムラプス機能を使って、6倍の速さにした動画で見ていただこう。


生まれて初めての食事(2017.7.8 16:20~17:45 6倍のタイムラプス)

 多くの蝶で卵は食草の葉に産み付けられる。モンキチョウの場合、卵は食草であるアカツメクサの葉上に産みつけられるから、孵化した幼虫はすぐ目の前に餌があるので、わざわざ卵の殻を食べるには何か理由があるに違いない。その理由については次のようにいくつかの説があるが、まだ確定したものはないようである。

1.卵の殻には幼虫が最初に必要な栄養が含まれている。
2.卵の殻があると、天敵に見つかる恐れがあるので、食べてしまう。
3.昆虫の卵には親虫由来の微生物が付着していて、幼虫はその卵の殻を食べることでそれらの微生物を受取る。

などである。1の説については実験例があるようで、殻を食べた場合と食べなかった場合では成長に多少の差は見られるものの、決定的なものではないようである。2の説については、卵が葉上に産み付けられてから、長くそこにあったわけで、やや説得力に欠ける気がする。3の説もなるほどと思わせるが、1と同様で実験例があるので、必須かどうかわからない。もっとも、1.3.の説については、幼虫は卵から抜け出す際に殻を食い破って出てくるのだから、量は少ないにせよ、必ず殻を食べていることになるので、実験がどのようにして行われたのかを確認しなければならない。

 もう一つ付け加えるなら、産み付けられた葉が枯れてしまったりした場合に、幼虫が無事新たな食草にたどり着くまでのエネルギーの確保のために先ず殻を食べるというのはどうだろうか。

 定年後、蝶と蛾の幼虫を飼育して、その成長過程を3D撮影して楽しんでいるが、驚いたり感心したりすることばかりである。蝶の幼虫が生まれて最初に示す今回の食殻行動も、とても興味深いものであった。昆虫が、進化の過程で獲得したに違いないこうした行動が、過去のどのような経過に由来するものか、あれこれ想像するのは楽しい。

 今回の食殻行動も、幼虫は孵化してから一旦は殻から離れていくが、思い出したように卵の抜け殻に戻って行ってその殻を食べ始める。何故だろうか。幼虫の成長に必要なものだから食べてしまうとすれば、何故、卵から出たらすぐに食べ始めないのだろうか・・・などなど。

 いずれにしても、今後明快な答が得られることを期待したいものだ。



  
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エッシャーとダヴィンチ

2018-06-08 00:00:00 | 3D
 もう随分前のことになるが、仕事でオランダのアイントホーヴェンにあるP社の研究所を訪問した際、付属施設の売店で、同国生まれの版画家エッシャー(M.C.Escher、1898.6.17-1972.3.27)の版画メタモルフォーゼ(Metamorphose)のレプリカ版をお土産に買った。円筒形のケースに、20cm幅 x 1m 、4枚に分割して3色のカラーで描かれたものが納められている。自宅に持ち帰ってからはしばらくの間、壁面上部にぐるりと貼って眺められるようにしていた。


お土産用のエッシャーの版画「メタモルフォーゼ」の入っている円筒ケース(2018.6.2 撮影)

 このケース内には次の4枚が収められている。


エッシャーの版画「メタモルフォーゼ」(2018.6.2 撮影)

 この作品のオリジナルは、1939年-1940年に木版で製作されたもので、長い系列で継続される形態変化が描かれている。平面上の「METAMORPHOSE」という単語から始まり、白と黒の矩形のモザイクが現れ、これがトカゲの形状に変化していくうちに、いつのまにか矩形形状が六角形へと導かれていく。その後もミツバチが現れたかと思うと、その隙間から魚が出現し、さらに鳥から今度はこれまでの2次元から3次元の建物・都市へと変化し、海辺から海上に突き出た塔はチェスの駒の一つであり、チェス盤が出現するとこれは最初の白と黒の矩形のモザイクに戻っていて、ふたたび「METAMORPHOSE」の単語に戻っていくという具合である。

 この作品は4mの長さがあり、正しくは「メタモルフォーゼⅡ」とされているが、更にこの途中にいくつかの形態変化を取り入れた同名の作品があり、こちらは「メタモルフォーゼ」として書籍では紹介されている(「M.C.エッシャー画集」、1981年 河出書房新社発行)。エッシャーの手にかかると、この辺りは変幻自在であるように見える。この、「メタモルフォーゼ」の方は長さが7mあり、「メタモルフォーゼⅡ」の2倍近くになっているが、同じものの壁画がオランダ・ハーグの中央郵便局にかかっているという。


エッシャーの版画「メタモルフォーゼ」(「M.C.エッシャー画集」、1981年 河出書房新社発行より)

 エッシャーの作品の中には、互いに鏡像関係にある2つの絵をタイル状に巧妙にはめ込んだものや、異種形状のものをやはりタイル状にぴったりとはめ込んだものとが見られる。また、ある主題の絵が次第に変化し、背景に溶け込んでいって、その背景の中から主題の絵と鏡像関係にある絵が出現したり、或は別の絵が出現するものがあるが、このメタモルフォーゼはその集大成ともいえるもので、これらの変容する絵を実に巧みに組み合わせている。

 我が家に駐車スペースを作る際に、レンガの配置をどのようにするか考えていて、ふと思いついて2種類のパターンをつなぎ合わせてみた。結果は思ったほどではなく、ただ職人さんたちを悩ませるだけに終わってしまったようであった。


駐車スペースのレンガ配列にエッシャー風の工夫をしたつもりであったが・・・(2018.6.4 撮影)

 エッシャーの作品には2次元の繰り返しパターンから生まれる不思議な面白さのほかに、3次元を描いたシリーズがある。次の図は、1961年に発表されたリトグラフ・「滝」だが、成立不能の非現実空間が描かれているものとして、よく知られている。


エッシャーの成立不能な3次元画像「滝」(「M.C.エッシャー画集」、1981年 河出書房新社発行より)

 この「滝」に用いられたモチーフは、1934年、スウェーデンの芸術家オスカー・ロイテルスパルトと、ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・サイコロジー1958年2月号に掲載されたL.S.R.ペンローズの文章中に、それぞれ独立に示された透視図「ペンローズの三角形」から得たものとされていて、この三角形が繰り返し用いられている。


ペンローズの三角形

 ここでは、各細部のひとつひとつを辿っていく分には、何ら異常を感じることはないが、全体としてみると成立不能なものであることがわかる。ただしかし、この「ペンローズの三角形」を実際に作った例が、オーストラリア・パースに展示されているというので面白い(ウィキペディア、「ペンローズの三角形」2017年9月18日(月)22:52 参照)。

 これを再現すると、次のようなもので、角柱を互いに直角に接合して得られるものを、特定の角度で見るときに得られるものである。2次元画像で見ていると成立不能に見えるが、3D、三次元でみるとたちどころにその構造が理解できる。


ペンローズの三角形・立体モデル(2018.6.6 撮影)

 こうした不思議は、3次元物体を、2次元に写し取るとき起きる錯視といえる。奥行に関する情報が欠落してしまうために起きるものであるが、エッシャーの作品では楽しく眺めることができても、実社会ではこの奥行情報の欠如が問題になることがある。

 現在、最先端の医療技術のひとつとして、手術ロボットが導入されている。その代表が「ダヴィンチ」であるが、東京医科歯科大学のHPなどで詳しい説明を見ることができ、次のように記されている(http://hospinfo.tokyo-med.ac.jp/davinci/top/index.html)。

 「万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ。その名を冠した医療ロボットが今、手術の現場に大きな変革をもたらしています。患者に触れず、医師が患部の立体画像を見ながら遠隔操作でアームを動かす、ハイテク技術を駆使した画期的な手術法、すでに世界での臨床実験は28万例、国内でも積極的な導入が進む手術支援ロボット「ダヴィンチ」・・・」

 直接肉眼で見ることが困難な、細かい手術が求められる脳外科手術では、実体顕微鏡を用いた顕微鏡下での手術が早くから行われていて、その様子を3D・立体映像として記録したものは、教育現場でも使われてきている。

 「ダヴィンチ」では、従来の顕微鏡下手術にロボットの機能を組み合わせ、3D内視鏡カメラとアームとを挿入し、術者が3Dモニターを見ながら遠隔操作で装置を動かして手術を行う。

 こうした手術の現場では、奥行き情報の欠如は、手術の成否にかかわり、3D視が非常に有効なものとなっている。

 
手術ロボット「ダヴィンチ」(東京医科歯科大学のHP・http://hospinfo.tokyo-med.ac.jp/davinci/top/index.htmlより) 
 
 今年はエッシャー生誕120年にあたり、「上野の森美術館」ではこれを記念してエッシャー展が開かれている(2018.6.6~2018.7.29)。ぜひ出かけてみたいと思っている。

 
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クモマツマキチョウ

2018-06-01 00:00:00 | 
 昨年、浅間山系にある湿原に、高山蝶のミヤマモンキチョウを一緒に見に出かけた元の職場の同僚のHさんと、今年はクモマツマキチョウを見に行きましょうと約束していた。クモマツマキチョウもまた高山蝶の仲間で、しらべてみると生息域は北アルプスと南アルプス、戸隠山系、八ヶ岳連峰の標高1000m~2000m付近の沢沿いを中心としている。

 どこに出かけるのがいいか迷っていたが、4月になりそろそろ具体的に決めなければと思い、我々の蝶の師匠であるMさんに相談して、アクセスのよい場所を教えていただくことができ、場所はここに決めていた。あとは、いつ出かけるかである。

 長野県産チョウ類動態図鑑(信州昆虫学会監修 1999年文一総合出版発行)などで調べると、クモマツマキチョウの発生時期は5月から6月にかけてとされている。私が毎月大阪に10日ほど行く用があるので、その日を避ける必要があり、5月下旬で店の休みである火曜日・水曜日に出かけようとの心づもりをしていた。

 そこに、ここ数年蝶を撮影した写真や目撃情報を交換し合っている、やはり元の職場の先輩であるSさんから連絡があり、昆虫写真家の海野さんのウェブサイト(小諸日記)によれば、この場所では5月1日からクモマツマキチョウの目撃情報があり、海野さん自身も5月5日に現地で撮影したクモマツマキチョウ♂のきれいな写真をこのサイトに掲載(5月14日付け)しているとのことであった。今年は例年に比べると、2週間程度発生時期が早くなっているようである。

 予定を前倒しして出かけたほうがいいと思われたがしかし、急に日程を変えるわけにもいかず、Hさんから天候などを考慮し、現地行きは5月25日がいいようだとの情報もありこの日に決めた。店の方は営業日であったが臨時休業することにした。

 25日当日は予報通りの晴天で、前日までやや曇り空で気温の低い日が続いていたが、Hさんを朝軽井沢駅に迎え、妻と3人で車で軽井沢を出るときにはすでに外気温は22℃になっていた。

 目指す現地には11時半ころに着き、案内所でルートを確認してさっそく歩き始めた。


周囲の山々(2018.5.25 撮影)

 目指すクモマツマキチョウを含む高山蝶は当然ながら、採集は禁止されているが、注意を喚起する表示が行われていた。


クモマツマキチョウなどの捕獲禁止を告げる注意書き(2018.5.25 撮影)

 登山道を歩いていると、下山して来る何人ものカメラを持った人たちに出会った。聞くと、やはりクモマツマキチョウの撮影のために集まった方々であったが、「今日は全く見ることができない」とのことで、早々に諦めて下りてきたようであった。中には、「今日はもうだめで、あとは夕方まで待つしかない」との声もあったので、我々も諦めかけたが、もう少し行ってみようということでしばらく歩き、ここで昼食をとることにした。

 昼食後に、白い蝶が1頭辺りを横切るのが見え、少し追ってみたが見失なってしまった。ここまでくる間にも、スジグロシロチョウとモンキチョウの♀を目撃していたので、またそうかもしれないと思い、今日は我々も引き上げて、途中の「田淵行男記念館」に寄って帰ろうかと話し合っていたところであった。

 Hさんが、周囲を見に行っている姿を少し離れたところから見ていると、Hさんのすぐ横を飛ぶ先ほどの白い蝶の姿が再び見えたので、妻と私も近くに行ってみると、スジグロシロチョウでもモンキチョウの♀でもないなということになり、俄かに色めき立った。

 この白い蝶は、しばらく辺りを飛び回っていたが、やがて道路脇に生えている白い小さな花に止まったので、3人でかけつけて観察したが、間違いなくクモマツマキチョウの♀で、翅の痛みもなくとても美しい状態の個体であった。

 翅はずっと閉じたままだったので、裏側の写真だけになったが、左右両側のきれいな姿を捉えることができた。ここでは妻が撮影した3枚の写真を見ていただく。


クモマツマキチョウ♀ 1/2(2018.5.25 妻撮影)


クモマツマキチョウ♀ 2/2(2018.5.25 妻撮影)


口吻を見せるクモマツマキチョウ♀ (2018.5.25 妻撮影)

 クモマツマキチョウを見るのは我々3人とも初めてのことで、何とも幸運なことであった。願わくば♂にも出会いたかったのであるが、また次の機会に残しておくのもいいのかもしれない。

 帰路立ち寄った「田淵行男記念館」では、田淵行男 作品展 「高 山 蝶-美しいナイン-」(2018.2.6~2018.5.27)が行われているところで、氏が撮影した写真と氏が描いた細密スケッチなどを見ることができた。田淵行男氏は、このクモマツマキチョウを含む、本州に棲む高山蝶9種類を「美しいナイン」と呼んだという。


田淵行男 作品展 「高 山 蝶-美しいナイン-」のパンフレットより

 展示解説をみていくと、クモマツマキチョウのところには、9種の高山蝶の中では最も低地にまで生息域が広がっている種であるにもかかわらず、オオイチモンジと共に最も人気が高いことに、やや不満を示すような文章が見られオヤオヤという感じであった。

 ところで、このクモマツマキチョウ、田淵氏が書き残しているとおり、9種の高山蝶の中ではいちばん生息域が低地にまで広がっていて、姫川流域では標高2-300mほどの場所でも見ることができるという。

 自宅にある義父のコレクションの中に、このクモマツマキチョウの♂があるので、時々眺めているが実に美しい。いつもの原色日本蝶類図鑑(江崎悌三校閲・横山光夫著 1964年保育社発行)のクモマツマキチョウの項にも「アルプスの高峰残雪もまだらな白樺の林を飛翔する姿は春の女神ともたたえたい」と記述されている。

 この標本は義父が自身で採集したものではなく、どなたかから頂いたものとのことで、ラベルには 「Matsumoto-Kaido,(203m,) (Nigata,P.) V,1,1953 Hara・A」とある。このMatsumoto-Kaido は糸魚川市から松本市に至る街道のことで、詳細は分からないものの、新潟県内ということから判断すると、ちょうど田淵氏が書き記している姫川辺りで採集されたもののようである。


義父のコレクションにあるクモマツマキチョウ♂の標本(2018.5.29 撮影)

 日本では希少種のこのクモマツマキチョウも、ヨーロッパでは平地でふつうに見ることができるらしく、ドイツ人・シュナック著の「蝶の生活」(岡田朝雄訳 岩波文庫)には次のように書かれている(2018.6.25 追記)。

 「・・・五月に現れるクモマツマキチョウである。これはモンシロチョウよりもランクの高い蝶である。その前翅には新時代の朝焼けの色が輝いている。クモマツマキチョウはそのやわらかい白い羽の先端を日の出のオレンジ色の中に浸したのである。その愛らしい衣装は私たちを陽気にしてくれる。農家の娘たちが籠をもって、朝の女神のように牧場の谷間へ降りて行くとき、この蝶は娘たちの露にぬれた足を追いかけていく。
 この赤い金色の光の帯の勲章は雄にだけ与えられている。雌は依然として古くさい白い衣装をまとっている。一般に蝶の雌は少し流行遅れである。華麗さや、飾りや、隠喩は男の発明である。クモマツマキチョウの未来の雄がその前翅に青い太陽の輪をもつようになるとすれば、雌は現在雄がもっている黄金色の縁飾りをつけるようになると、私は確信している・・・
 この蝶は小さな森の草地の日だまりを好む。また、庭にも訪れてくる。雑草や木の葉が風の愛撫を受けてため息をつくとき、緑の中心部から、白地に金色の条(スジ)のあるクモマツマキチョウは飛び出してくる。この蝶が好むつつましい牧歌的な風景に、真昼の弓が矢を射ると、そこへツグミがうっとりするような森の歌をもたらす。」

 また、食器のモチーフに使われることも多いようである。その場合はやはり♂の姿が描かれている。次の機会にはぜひとも♂に出会いたいものと思う。


クモマツマキチョウ♂をデザインしたイギリス製の皿


クモマツマキチョウ♂をデザインしたイギリス製のマグカップ


 
コメント (2)
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