軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ガラスショップ(2)

2018-03-30 00:00:00 | 日記
 ガラスショップオープンまであと2日となったが、4月1日にはご招待した方々を主な対象とする内覧会を開催することにしている。

 買い集めた商品をすべて展示するスペースはないので、複数ある商品は1、2点だけを展示するにとどめるなどして、できるだけ多くの種類を展示できるようにしたが、それでもウェブサイトのギャラリーでご紹介しているものすべてを棚に並べることはできていない(ガラスショップのウェブサイト http://karuizawanouveau.com をご覧ください)。

 さて、前回に続きこれらのガラス器に盛り込まれた種々の技法についてもう少し紹介を続ける。

 成形後のガラス器を豪華に見せる方法に金彩がある。単に縁取りなどに使う場合もあれば、カットやエングレーヴィング法で彫った箇所に、さらに金彩を施し、より一層豪華に見せる方法も採られている。

 ガラスや陶磁器に金彩を施す技術は古く、イスラムの時代(8世紀中ごろに始まる)にはすでに、その基となる材料である王水(硝酸1部、塩酸3部の混酸)が発明されていた。金を王水に溶かし、さらに樹脂やガラス粉と混ぜたものを塗って焼成することで、ガラスを金色にすることができた。

 ただ、この金彩は剥がれやすいものもあるようで、古いものではしばしば金が薄くなったり、剥げ落ちているものがある。


金彩の縁取りと、エングレーヴィングを施した1900年頃のワイングラス(高さ約16cm)


縁取り部と、エングレーヴィングの上に金彩を施したリキュールグラス(高さ約8.5cm)


金彩とカット、エングレーヴィングを組み合わせた小皿、金彩のほとんどが剥がれている(長さ約8.5cm)


紫色の着色をしてさらにエングレーヴィングの上に金彩を施した皿(径約22cm)


エングレーヴィングの上に金彩を施した豪華なキャヴィア・ボウル(径約18cm)


エングレーヴィングの上に金彩を施し、さらに多色のエナメルで男女像を描いた華麗なボウル(径約23cm)


同上の部分

 最後の写真には、エングレーヴィング、金彩に加えて多色のエナメルで男女像が描かれていて、一層華麗なものに仕上がっている。当時どのような人々がこのようなものを使っていたのであろうか。

 このエナメル技法も古い技法で、ローマ時代にはすでに使われていたとされる。濃い色ガラスを松脂が入った油で溶き、絵や紋様を描いている。これを高温で焼き付けているので、基体のガラスと融合するため保存状態は良い。

 エナメル技法だけを用いて、グラスに精密な人物像を多色や単色で描いたもの、あるいは花柄などを描いたものもある。


多色のエナメルで男子像を描いたグラス(高さ約13.5cm)


ピンクのエナメルで男女像を描いたグラス(高さ約15cm)


同上の部分


エナメルで花柄を描いたシャンパングラス(高さ約20cm)

 ヴェネチアで発明された技術に、レース・ガラスという技法がある。レース編みが盛んであったヴェネチアで、そのレースをガラスに写しとろうとして、工夫の末に16世紀後半にムラーノ島で生み出されたもので、ヴェネチアは独占的技法として外部に漏れることを固く防止し、ガラス職人たちは一生をムラーノ島に閉じ込められて過ごしたとされている。


レース・ガラス皿(径約23cm)


レース・ガラスボウル(径約15cm)

 その工程の概略については、以前このブログで紹介したことがあるので(2017.3.24 付)それを参考にしていただきたいが、このレース・ガラスはヴェネチアの秘法として200年以上もの間、一切技術を明かされることなく、ムラーノ島内だけで守られてきたというが、さすがに徐々に外部に漏れ出し、こうしたレース技法をワイングラスのステム部分に用いたものが、イギリスで盛んに造られるようになった。

 これらはオペークツイストステムと呼ばれている。またレースガラスに代わり空気を封じ込めたものはエアーツイストステムと呼ばれている。


ブドウ柄のエングレーヴィングとオペークツイストステムのワイングラス(高さ約20cm)


オペークツイストステムビアグラス(高さ約19cm)


エアーツイストステムのワイングラス(高さ約17cm)

 日本製品でおなじみの、切り子・カッティング技法の歴史も古く、アケメネス朝に始まり、ローマ、ササン朝、イスラムに引き継がれ、ビザンチンを経由して、十七世紀以降、ボヘミアやイギリスで隆盛したとされる。

 正倉院宝物として知られる、白瑠璃碗もこのカット技法で作られたもので、ササン朝ペルシャで作られ、日本にもたらされたと考えられている。ガラス工芸史家として知られる、由水常雄氏が再現した白瑠璃碗と同型のぐい呑みが次の写真である。

 
正倉院宝物・白瑠璃碗を再現したぐい呑み(径約5.5cm)

 ヨーロッパの製品には大胆なカットを用いたものが多くみられるが、カットとエングレーヴィングを組み合わせたものもあり、日本の切り子とは趣を異にしている。


豪快なカットとエングレーヴィング彫りが組み合わせられたボウル(径約22.5cm)


透明ガラスにアンバーガラスを被せてからカット加工した大型ボウル(径約23.5cm)

 カット技法を多用したボヘミアのガラス器の中でも、史上最高のデザインとされているものが500PKである。これは、カットデザインの500番目のものという意味であるが、このデザインを取り入れた種々のガラス器が現在も製造されている。


ボヘミアカットガラス史上最高のデザインとされる500PKデザインの花瓶(高さ約30cm)


500PKデザインのコンポート(径約30cm)


500PKデザインのワイングラス(高さ約15cm)

 1929年に始まる世界大恐慌。この時代背景の下、アメリカで作られたガラス器はデプレッションガラスと呼ばれている。プレス型により大量生産されたもので、高価なものではない。無色透明のものだけではなくピンク、グリーン、ブルー、イエローなど種々の着色ガラス生地が用いられていて、コレクターも多いと言われている。


ピンクのデプレッションガラスカップ(径約9cm)&ソーサー(径約15cm)


グリーンのデプレッションガラス皿(径約20cm、ウランガラスの発光が見られる)


イエローのデプレッション期のピッチャー(高さ約23cm)とグラス(高さ約12cm)のセット

 ガラス器を手にとりながら、こうした技術背景や、歴史に思いを馳せてみるのもまた楽しいものである。
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ガラスショップ(1)

2018-03-23 00:00:00 | 日記
 妻と2人で今年4月1日、軽井沢にアンティークガラス器を中心に扱うショップをオープンする運びになった。店の名前は「軽井沢ヌーヴォー」とした。ガラス器といっても種々あるが、今準備しているものは、軽井沢が別荘地としてスタートした、今から130年前の1888年頃から1950年くらいまでのものをひとつのテーマとしている。

 軽井沢が別荘地としてスタートしたのは、宣教師のショー師が別荘を建てた1888年とされている。その別荘は現在旧軽井沢銀座通りを碓氷峠・見晴台方面に行った旧中山道沿いに復元されていて見ることができ、現地建物の内部には次のように記されている。

 「明治十九年(1886年)英国聖公会宣教師A.C.ショー師(カナダ人;筆者注)は宣教途中、軽井沢に立ち寄り、当地の気候に故郷を偲び明治二十一年(1888年)大塚山に避暑用の別荘を建てた。人々はこれを『ショーハウス』と呼んだ。これが軽井沢別荘第1号である。
 ショー師は毎夏をこの別荘で過ごし村人達に文化的な生活や習慣を指導しながら、この地を『屋根のない病院』として内外の人に広く紹介して来軽を勧めた。現在までに別荘や寮の数は一万件を越えるに至った。
 昭和六十一年(1986年)保険休養地”軽井沢100”を記念して地元有志の方々を中心に『ショーハウス復元委員会』を組織して、軽井沢開発の父とも仰ぐショー師の功績を称え、浄財を募り『ショーハウス』をここに復元しました。平成八年(1996年)同委員会から軽井沢町に寄贈を受け、軽井沢町教育委員会が維持管理しています。
                                            平成八年四月一日
                                               軽井沢町教育委員会 」

 
旧中山道沿いにある「避暑地軽井沢発祥の地」の表示と「軽井沢ショー記念礼拝堂」(2017.4.24 撮影)


ショー師〔Alexander Croft Shaw; 1846-1902〕胸像(2017.4.24 撮影)


軽井沢ショー記念礼拝堂の後方にある、復元されたショーハウス(2017.4.24 撮影)

 ショー師が伝えたという、文化的生活とはどのようなものであったのか、その中には食事の際に使用する各種ガラス器なども含まれていたのではないかと想像している。

 100年ほど前のガラス器を見ると、このころのものには、成形後の表面にカットやエングレーヴィング法(英語、フランス語ではグラヴィール)で繊細な加工が施されているものが結構含まれている。

 カット技法によるグラス類は、日本では「切り子」と呼ばれているが、この技法はガラス器の表面を各種のグラインダーで削り、幾何学的な模様を作る方法である。

 カットパターンには、平面、線、凹面の3種があり、これらの大きさの異なるものを組み合わせることで、複雑なパターンを創りだしている。

 小さな銅製のグラインダーを用いて、これに研磨砂に油を混ぜたものを塗りながら削っていくカット技法がエングレーヴィング法で、驚くほど細密な加工が可能になる。

 こうしたカットによる加飾加工はグラスのボウル(カップ)部分だけでなくフット(足)やステム(グラスを持つための脚部)にも及んでいる。いくつか例を見ていただく。


ボウル部分にカット加工を施したグラス-1


ボウル部分にカット加工を施したグラス-2


ボウルとフットにカット加工を施したグラス

 この3種のグラスのカットは、グラインダーや砥石で研削したままの状態で、削った部分が不透明になっているため、写真では白く写っている。

 カットされた部分をさらに細かい砥石で削り、最後はフェルト盤で磨くなどして透明になるまで加工したものもある。この工程は近年、フッ酸/硫酸の混酸で表面を溶かして仕上げる「酸磨き」が行われることもあるが、加工部分が透明になることで印象の異なるものに仕上がっている。


カット後の表面を磨いたグラス-1


カット後の表面を磨いたグラス-2


カット後の表面を磨いたグラス-3

 ワイングラスやシャンパングラスのほか、コンポート(足つきの皿)にもこうしたカット加工が施されたものがある。


カット後の表面を磨いたコンポート-1


カット後の表面を磨いたコンポート-2

 中には、未研磨のすりガラス状態と表面を磨いた部分とを混在させ、それぞれの特徴を活かしているものもある。


未研磨のすりガラス状態と表面を磨いた部分とを混在させているグラス

 非常に繊細な表現をすることができるエングレーヴィング法では、ボヘミアガラスの特徴的なモチーフである鹿を描いたものやその他動物、人物、建物、紋章などを描いたものも多く見られる。


ボヘミアガラスの特徴的なモチーフ・鹿がエングレーヴィング法で彫られたグラス


ボヘミアガラスの特徴的なモチーフ・鹿がエングレーヴィング法で彫られたゴブレット


ボヘミアガラスの特徴的なモチーフ・鹿がエングレーヴィング法で彫られた皿


動物がエングレーヴィング法で彫られたショットグラス


動物がエングレーヴィング法で彫られたショットグラスとデキャンターのセット


微細な紋様がエングレーヴィング法で彫られたカップ&ソーサー


微細な紋様がエングレーヴィング法で彫られたポット

 この時代のガラスのもうひとつの特徴に、1830年に発明され、1940年頃まで生産されていたウランガラス(ドイツ語、英語ではワセリンガラス)というものがある。ガラス組成にウランを微量(0.1%程度)添加したものである。ウランを添加する目的は、ガラスに緑や黄などの色をつけることであったが、紫外線ランプのなかった当時、窓際などに置くと太陽光線中の紫外線を受けて緑色に発光するため、この発光色が加わり、一種不思議な印象を与えることから珍重されたという。

 製品としては問題がないものの、ガラス製造現場での放射線被爆の危険があり、製造は中断されていたが、最近一部チェコ共和国やアメリカなどで復活したと言われており、日本でもウランの産地として知られる人形峠で、日本産ウランを使用したウランガラスが開発されたという。

 このウランガラスにカット加工や酸によるエッチング加工が施されたものも見られる。技術的な面白さからこうしたものも少し集めている。


ボウル部がウランガラスにエッチング加工が施されたワイングラス(左:通常光下、右:紫外光下で撮影)
 

ボウル部がウランガラスにエングレーヴィング加工が施されたワイングラス(左:通常光下、右:紫外光下で撮影)


フット部がウランガラス製のワイングラス(上:通常光下、下:紫外光下で撮影)


ウランガラス製のデキャンタとリキュールグラスのセット(右下:通常光下、左上:紫外光下で撮影)


ウランガラスを一部に使用したジャムディッシュ(左:通常光下、右:紫外光下で撮影)

以下、次回に続く。 

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フキノトウ

2018-03-16 00:00:00 | 山菜
 新しく始める仕事の関係で、このところ軽井沢警察署の生活安全課にときどき出かけている。先日、先方から電話があり、お願いしてあった品物を受け取りに出かけた時、警察署の建物に沿った狭い地面にフキノトウが生えているのに気づいた(下の写真は後日改めて行き、撮影したもの)。

 軽井沢はまだ冬枯れの中にあり、自宅庭にもまだ去年の落ち葉が積もったままになっているが、2月上旬には溶け残っていた雪の中から名前通りスノードロップが芽を出して、小さな花を付け、それが寒さのせいか今もまだ咲き続けているし、陽だまりにはオオイヌノフグリが咲き始めている。3月に入ると、群馬県にある妻の友人の畑脇から移植したフクジュソウも咲き始めた。

 そろそろ、軽井沢にも春の兆しが見えてきたという感じでやはりうきうきとしてくる。


軽井沢警察署の建物の脇に芽を出したフキノトウ(2018.3.12 撮影)


同上(2018.3.12 撮影)


2月上旬に咲き始めた自宅庭のスノードロップ(2018.3.14 撮影)


自宅庭のフクジュソウ(2018.3.14 撮影)

 昨年は妻の友人のMさんからのお誘いでフキノトウを摘みに、群馬県の畑に出かけてきた。畑の脇に大きな栗の木が4本並んでいるが、その樹下一面に春になるとフキノトウが芽を出す。これを摘ませてもらう。摘んできたこのフキノトウをフキミソや天ぷらなどにしていただいたのであった。

 「軽井沢でフキノトウが出始めたのだから、群馬の畑ではもう盛りを過ぎてしまったかな」。
 「友人のMさんも、我々が今年は新たに仕事を始めるのを知っていて、忙しいだろうからと気遣ってフキノトウ摘みの連絡をしてこなかったのかな」などと妻と話し合っていたところ、その友人のMさんから電話がかかり、「フキノトウを収穫したから送った」とのことであった。

 「我々の会話、Mさんに聞こえていたようだね!?」ということになった。

 翌日届いたフキノトウには2種類あった。一つは昨年我々も摘んだMさんの畑脇のもので、もう一つはこの畑のすぐ隣に住むMさんのいとこが販売用に栽培しているものであった。仮にこれらを天然品、栽培品と名前を付けて区別することにする。一見してその違いが判るもので、栽培品は一回り以上大きい。


Mさんから届いたフキノトウ・天然品(2018.3.11 撮影)


Mさんから届いたフキノトウ・栽培品(2018.3.11 撮影)

 ことしもフキミソを作ることにして、さっそく準備にかかった。昨年作った時のレシピを探し出して確認したが、大きく分けて二通りの方法がある。根部分を切り落とし、汚れた葉を取り除いて、水洗いするところまでは共通であるが、その後すぐに細かく切り刻んで使うものと、2分間ほど茹でてから刻んで使う方法とがある。

 下茹でしないと、刻んでいる間にも変色していくので、これを嫌う場合や、茹でると苦みがすくなくなるようなので、苦みの苦手な場合は茹でてからということになる。昨年は下茹でしないで作業を進めたので、今年は軽く茹でてから刻む方法を選び、2種類のフキノトウの食べ比べをするために、天然品と栽培品とを別々に作ることにした。


フキノトウを刻んだところ・天然品(2018.3.11 撮影)


フキノトウを刻んだところ・栽培品(2018.3.11 撮影) 

 味噌やみりんなどの量はレシピごとに結構異なるようだが、昨年は次の表のAで作ったので、今年はBを採用して作ることにした。


3種のフキミソレシピ 

 少量のごま油で、フキノトウを炒めてこれに、あらかじめ味噌・みりん・砂糖・(日本酒を追加した)を合わせておいたものを加えて更に過熱して、水分が飛んで少し硬めになったところで火を止めると出来上がり・・と簡単である。


できあがったフキミソ天然品(左)、栽培品(右)(2018.3.11 撮影)

 フキミソになったものを比較すると、天然品の方が色が濃く、試食してみるとコクのある感じがした。

 送られてきたフキノトウはかなりの量があったので、一部は妻が天ぷらにしてこれを夕食時にいただいた。こちらは栽培品の方が香りがよく、食感もふわりとした感じがしてよりおいしく感じた。

 それでもまだ、二人では食べきれないということで、ご近所のIさんにお裾分けをしてあったのだが、翌日Iさんから、ナス、ウドといっしょに天ぷらになって帰ってきた。

 天ぷらになったフキノトウは、どちらもさっさと食べてしまったので、写真が残っていないことに気が付き、まだ残っていたフキノトウはさらに翌日もう一度天ぷらになったが、こちらは冷静に写真を撮ることができた。結局、フキノトウのてんぷらは三日連続して我が家の食卓に上ることになった。フキノトウのてんぷらは日を追うごとに苦みが増している・・これは妻の感想である。


葉を開いて花が見えるようにして揚げたフキノトウの天ぷら(2018.3.13 撮影)

 軽井沢に住んだことのある作家水上勉さんの「土を喰う日々」(新潮文庫)には、「二月の章」に「こんにゃくの木の芽田楽」、「小かぶらの山椒味噌かけ」と共に「蕗の薹のあみ焼き」が次のように紹介されている。

 「・・・たとえば、ぼくが、こんどやってみた、蕗の薹のあみ焼きはおもしろいではないか。形のいいのをえらんで、串に二つ三つさし、サラダオイルにつけてから、唐辛子を焼くみたいにあみ焼きするのである。色が変わってきて、狐いろになるころ皿へ盛り、わきに甘い味噌を手もりしておくのである。酒客でよろこばぬ人はめったにいない。・・・」


水上勉さんの「土を喰う日々」に紹介されている「蕗の薹のあみ焼き」の写真

 まだ、フキノトウは残っているので、試してみようと思っている。




 
 
 

 

 

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雷電くるみの里

2018-03-09 00:00:00 | 信州
 軽井沢から小諸・上田方面に行く時や、長野方面に出かけるため高速道路に乗るまでの間を利用するのに便利で、かつ国道18号よりも一段高い高原地帯を走っているため、とても眺望の良い道路に「浅間サンライン」がある。この道路は信濃追分の追分別去近くで国道18号から分岐し、上田市までを結んでいるバイパスで、正式名称は浅間山麓広域農道であり、1993年に全区間が開通している。

 この道路の小諸インター入口の少し先の道路沿いに、「雷電くるみの里」という道の駅があって、長野市や新潟の上越方面に出かけるときにはたいていここに立ち寄り、少し買い物をしてから東部湯の丸インターで高速道路に乗るようにしている。


道の駅「雷電くるみの里」(2018.3.4 撮影)

 この道の駅では、名称通りクルミを使った商品が多く販売されている。この辺りではクルミの木が多く、クルミの生産量が多いためである。

 先日の日曜日に、今回のブログ用の撮影に出かけた時、一人一回のだけの無料「クルミ掴み」のイベントが行われていたので挑戦してみたところ、私が12個、妻が8個掴むことができた。私達よりも先にこれに挑戦した同年齢のご婦人は8個掴むことができたのだが、そのすぐ後で私が12個掴んだものだから、「指が長くてずるい!」と叫んでいた。

 この道の駅の建物内にはクルミについて説明したボードが掲げられていて、次のように書かれている。

 --胡桃 「クルミの世界」 Walnut--
「クルミは高木性の落葉樹で、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカの温帯地域に分布しており、およそ15種類といわれています。
 このうちオニグルミとヒメグルミは日本原産の野生種で、河川に沿って自生しているものが多く、古くから食用され、現在も料理や菓子に利用されています。
 一方、世界各国で果樹として営利栽培されているのは、ペルシャクルミとその変種です。原産地は西アジア一帯、かつてのペルシャ地方からヨーロッパ東南部までの広い範囲です。
 栽培は紀元前の古代メソポタミア文明と共に周辺に広がり、東回りはシルクロードを経て中国に伝わり、江戸時代頃日本に伝来し、テウチグルミ(カシグルミ)の名で栽培されるようになりました。
 また、西回りでヨーロッパ各地に伝わったものは、栄養価が高いことから”生命の樹”として盛んに栽培され、新大陸発見と共にアメリカへ持ち込まれ、大生産地に発展しました。
 日本へは明治時代、通商のため訪れた欧米人がペルシャクルミ(セイヨウクルミ)を持参し、避暑に訪れた軽井沢で、地元の人に与えたことが栽培の始まりです。
 これが発端となって、長野県東部で集団栽培が始まり、在来のカシグルミと交配した新種のシナノグルミ (信濃胡桃)を誕生させました。さらに苗木も全国に発送を始め、この地は日本のクルミ栽培の中心地として発展し「くるみの里」と呼ばれるようになりました。
 世界にはこの栽培種のほかにも独特のクルミがあり、各国で利用されています。」とある。


日本原産の野生種オニグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「日本原産で殻の表面に溝や突起があり、ゴツゴツしていることから、オニグルミ(鬼胡桃)と言います。全国に自生していて殻果の形は多様ですが、独特の風味が喜ばれ、昔から食用されています。中には自然に殻の開く種類があり、名付けて栽培もされています。」とある。


日本原産の野生種ヒメグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「日本原産で殻の表面がなめらかで、ハート形のやさしい形からヒメグルミ(姫胡桃)と言います。オニグルミと混じって自生していて、殻果の形も多様ですが、昔から食用されています。中には自然に殻の開く種類があり、改良され名付けて栽培もされています。」とある。


セイヨウクルミとカシグルミの交配種シナノグルミ(2018.3.4 撮影)

 説明には「地球を東西に分かれ伝播したカシグルミとペルシャグルミが、長野県東部でめぐりあい交配されました。その中から大粒で殻の薄い優良品種が誕生し、シナノクルミ(信濃胡桃)と名付けられました。日本生まれの栽培推奨品種で、世界に誇れるクルミです。」とある。

 さて、この「道の駅」の名称のもう一方の雷電についてであるが、「雷電」とはもちろん江戸時代の力士「雷電為右衛門」のことである。建物の入り口付近に地元東御市出身の竹内不忘作の大きな銅像が建てられていて、周りを圧している。そして、建物の一角には「雷電資料館」が設けられていて、力士雷電に関する貴重な資料が展示されている。物産販売所や食堂は混雑していたが、この資料館を訪れる人はあまりいない。

 
竹内不忘作・雷電立像(2018.3.4 撮影)


雷電資料館の入り口(2018.3.4 撮影) 

 雷電為右衛門は1767年(明和4年)、信濃国小県郡大石村(現東御市滋野)に父半右衛門、母けんの長男として生まれ、幼名を太郎吉と称した。幼いころから怪力の持ち主であったが、この噂をきいた隣村・千曲川の対岸の庄屋・上原源五右衛門方が1781年(天明1年)、太郎吉14歳の時に引き取って寄宿させ、道場「石尊の辻」で学問と相撲を教えた。

 そんな折、1783年(天明3年)の浅間山の大噴火が起きた。このため全国的に大飢饉となり、ちょうど北陸巡業中の浦風一門一行の力士たちが、上原源五右衛門の元で長らく逗留することとなり、太郎吉との運命的な出会いがあった。

 翌1784年(天明4年)17歳で、浦風の門人となり、当時江戸で第一人者だった谷風梶之助の預かり弟子となり、初土俵までの6年間を谷風の元で過ごしている。

 このころの力士は各大名のお抱えであったが、太郎吉の力と技と学徳の傑出しているところを見てとり、また推挙もあって1788年(天明8年)21歳の時に雲州松江藩主、松平治郷(不昧公)に召し抱えられることとなった。そして、翌1789年(寛政元年)雲州力士の四股名を冠し「雷電為右衛門」となった。22歳の時のことである。

 ちなみに、雷電という四股名の力士は歴史上この為右衛門のほかにも8人いるとされる。雷電為右衛門はその中で7番目で、後には1790年代(寛政)の雷電灘之介(明石藩)と明治初期の雷電震右衛門がいる。

 雷電為右衛門は1790年(寛政2年)23歳の時に、江戸本場所西の関脇で初土俵し、8勝2預かりで鮮烈なデビューをしたとされる。横綱小野川を投げるも「預り」(注:物言いのついたきわどい勝負で、あえて勝敗を決めない場合に適用)となっている。

 1795年(寛政7年)には大関に昇進し、その後16年(27場所)の長きにわたり大関の地位を保持し、1811年(文化8年)45歳で引退するまでに254勝10敗14預り、9割6分2厘という勝率をあげた。資料館には大関雷電の名前の記された1797年(寛政9年)三月場所の大相撲番付が展示されている。


1797年(寛政9年)三月場所の大相撲番付(2018.3.4 撮影)

 この資料館では雲州松江藩主、松平治郷(不昧公)より拝領した雷電所用の化粧まわし(レプリカ)がまず目を引く。


松平不昧公より拝領した雷電所用の化粧まわしのレプリカ、外国製の臙脂色の別珍製生地に金糸で稲妻模様を刺繍している(2018.3.4 撮影)

 また、雷電は身長197cm、体重188kg(注:いつの体重かは不明、これとは別に初土俵時には169kgであったとの数字がある)であったとされるが、その雷電の体格を示す図や、長さが約23.5cmあったとされる手形などが展示されていて、雷電の実像を感じとることができる。

 雷電の身長と体重とを現役の力士と比べてみると次の図のようになり、現代の力士と比較しても、非常に大きいことが実感される。ちなみに、ここでは身長が2mを超えているのは琴欧州ただ一人である。


雷電の身長・体重(赤で示す)と現代の力士との比較(筆者作成) 


雷電の手形(2018.3.4 撮影、左は筆者)

 雷電にまつわる逸話は、信濃の民話集、「信州の民話伝説集成」(和田 昇編集 2006年 一草舎発行)にも2題採り上げられている。「雷電の力持ち」と「」雷電と陳景山」である。

 雷電の力持ちの話は、資料館にも絵物語として展示されているが、「ある夏、母が庭で風呂に入っていたところ、急に雷鳴をともなう激しい夕立がやってきた。太郎吉は、母を風呂桶ごとかかえて、家の中に運び込んだ」という話である。

 民話集には出ていないが、この絵物語にはもうひとつある、「細く険しい碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたところ、加賀百万石の殿様の行列に出会ってしまった。狭い道、よけることもできず困った太郎吉は、荷を積んだ馬の足を持って目よりも高くさしあげ、無事行列をお通しし、『あっぱれじゃ。』と殿様からお褒めにあずかった」という話である。この後者については、以前どこかで聞いたような気がするが、思い出せないでいる。


雷電と同じ滋野出身の寺島武郎氏の描いた「雷電の一生」から、③風呂桶を抱える太郎吉(2018.3.4 撮影)


雷電と同じ滋野出身の寺島武郎氏の描いた「雷電の一生」から、④馬を抱え行列を通す(2018.3.4 撮影)

 民話集に出てくるもう一つの話は、陳景山との飲み比べの話である。「長崎巡業において、中国の学者で『李白の再来』と噂された酒豪『陳景山』と飲酒対決を行った。一斗飲んで陳景山がダウンした後、雷電はさらに一斗を飲み干し、高下駄をつっかけて宿へ帰った。陳は雷電の酒豪ぶりに脱帽し、自筆の絵や書を贈ったと伝えられている」というものである。


陳景山が贈ったとされる掛け軸(レプリカ)、雷電の生家(再建)に飾られている(2018.3.4 撮影)

 ところで、現役時代の雷電の輝かしい成績にもかかわらず、横綱になることはなかった。当時の相撲番付の最高位は大関で、横綱の地位は強豪力士への称号として肥後熊本藩の細川家に仕える吉田司家から与えられた。同時代の横綱には谷風梶之助(第四代横綱 仙台藩)と小野川喜三郎(第五代横綱 久留米藩)がいた。

 この二人の横綱に続いて現われ、強さにおいては二人を凌駕していたとされる雷電に横綱が与えられなかったのは、不思議というほかないのであるが、その背景には、当時の大名家の関係があったのではとされる。「吉田司家を抱える細川公と雷電を抱える松平不昧公の相撲をめぐる確執を考えると、薄々想像がつく」との話が紹介されている(両国大相撲殺人事件 風野真知雄著 大和書房発行)。

 第七代横綱稲妻雷五郎は雲州藩のお抱えであったが、吉田司家から正式に横綱を授与されたのは、松平不昧公(1751年~1818年)没後の1830年のことであった。また、第八代横綱不知火諾右衛門は雲州藩から肥後藩に、第九代横綱秀ノ山雷五郎は雲州藩から盛岡藩に転向後横綱免許を授与されている。

 同じ雲州藩であった雷電と稲妻のことをうたった次の川柳がある。

 ・・・雷電と稲妻雲の抱えなり・・・

 大関を引退した後の雷電は松江藩相撲頭取に任ぜられ、引退後も巡業では相撲を取っていたとされる。晩年の雷電は妻八重の生地、下総国臼井(現千葉県佐倉市)で永く暮らしていたが、1825年(文政8年)2月に江戸四ツ谷伝馬町本宅で妻にみとられながら59歳の生涯を閉じた。遺骨は、江戸赤坂三分坂の松江藩ゆかりの報土寺に葬られ、遺髪は、故郷の大石村、松江市西光寺に分葬されたと伝わる。また、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市臼井台の浄行寺跡地には、雷電自身と妻子の墓があるとされる。

 雷電くるみの里からほど近い場所に、再建された雷電の生家や墓、石碑を見ることができる。


東御市教育委員会監修によるパンフレット記載の「雷電ゆかりの地マップ」


雷電の生家(2018.3.4 撮影)

 出世した雷電は、1798年(寛政十年)に生家を改築しているが、その後183年が経過し老朽化したため、1982年(昭和57年)に復元し永く保存しようとの気運が盛り上がり、地元および同郷の寄付により1984年(昭和59年)12月に復元を完成している。内部の土間には稽古土俵があり二階の桟敷席から相撲ぶりが観覧できるようになっている。


生家内の稽古土俵(2018.3.4 撮影)


故郷大石村の関家墓地の雷電の墓(2018.3.4 撮影) 

 雷電の法名は雷聲院釋関高為輪信士である。雷電の墓の右手前にあるのは、こよなく酒を愛した父半右衛門のために雷電が建てたもので、台座には枡、本体が酒樽に盃を伏せた独特の形状をしている。ここには雷電の力にあやかろうという参詣者が絶えないという。
 

雷電の石碑、正面の南面するものが新碑、右にある西面するものが旧碑(2018.3.4 撮影)

 雷電の没後、旧北国街道牧家一里塚のかたわらに、雷電の徳をしのんで建てられたという石碑を今も見ることができる。この碑は雷電の妹の子・関義行の求めに応じた松代藩士・佐久間象山が碑文を自らしたため、1861年(文久元年)に建立された。

 碑を欠き取り身に付けると、立身出世するとか勝負事に勝つとか強い子が授かるというような俗信により、碑面が全体に欠き取られ、碑文が読めなくなってしまったため、象山の未亡人と象山門下の勝海舟・山岡鉄舟や多くの関係者により、1895年(明治28年)に新碑が建てられ、その後道路工事に伴い現在の場所に移されたとされる。

 碑文には、雷電が禁じられたという手が三つあったことが記されている。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」のことである。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。それでも雷電は今なお破られることのない、歴代最高の記録を残している。

 碑文全文は次のとおりである。


石碑・雷電顕彰碑の碑文拓本(2018.3.4 雷電資料館にて撮影)


石碑・雷電顕彰碑の碑文現代語訳(2018.3.4 雷電資料館にて撮影) 


自ら雷電のために文を選び字を書いた佐久間象山(2018.3.4 雷電資料館にて撮影)
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ガラスの話(6)生物とガラス

2018-03-02 00:00:00 | ガラス
 数年前、鎌倉に住んでいたころは時々江ノ島方面に出かけていた。江ノ島水族館に孫娘を連れて行き、イルカショウを見せたり、妻と江ノ電の駅で下車して駅から江ノ島に続く商店街にある骨董店を覗いたりしていたのだが、あるとき、久しぶりに橋をわたり江ノ島まで行ったことがあった。

 江ノ島側にはたくさんのみやげ物店が続いているが、大小さまざま色とりどりにきれいな貝殻などが並んでいるのを見て歩くのもなかなか楽しく、ショウウインドウを眺めながら歩いていて、ちょっと珍しいものに目が留まった。

 真っ白な網目の筒状のもので、その名前を見ると「カイロウドウケツ」とあった。そのもの自体も不思議なものであったが、名前もまたなんとも奇妙な印象を与える。

 次にこのカイロウドウケツに出会ったのは、上野の科学博物館の展示室であった。ここでは、生物としてのきちんとした説明があり、これが相模湾、駿河湾、土佐湾などに分布し、海底に根毛状の骨片の束を突き刺して、生えるようにして棲息する海綿の一種であることを説明していた。

 改めて、ウィキペディアの説明を見ると、次のように書かれている。「『カイロウドウケツ』(偕老同穴、英名Venus's Flower Basket(ビーナスの花かご))は六放海綿綱に属する海綿の仲間で、二酸化ケイ素(ガラス質)の骨格(骨片)を持ち、ガラス海綿とも呼ばれる。その外見の美しさから、しばしば観賞用として利用される。日本では相模湾や駿河湾などで見られる。」とある(ウィキペディア2104年11月25日(火)15:50から引用)。

 その生態に関しては、「円筒状の海綿で、海底に固着して生活している。体長は5-20cmほど、円筒形の先端は閉じ、基部は次第に細くなって髭状となり接地している。円筒の内部に広い胃腔を持ち、プランクトンなどの有機物粒子を捕食している。分布は1000mほどの深海に限られており、砂や泥の深海平原を好む。・・・
 ・・・カイロウドウケツの骨片は人間の髪の毛ほどの細さの繊維状ガラスであり、これが織り合わされて網目状の骨格を為している。これは海水中からケイ酸(H2SiO3など)を取り込み、二酸化ケイ素(SiO2)へと変換されて作られたものである。・・・カイロウドウケツのガラス繊維は互いの繊維が二次的なケイ酸沈着物で連結されており、独特の網目構造を形作っている。ガラス繊維には少量のナトリウム、アルミニウム、カリウム、カルシウムといった元素が不純物として含まれる。なお、普通海綿綱の海綿が持つ海綿質繊維(スポンジン)は、カイロウドウケツには見られない。」(ウィキペディア 同上から)

カイロウドウケツの上端部(ウィキペディア 同上から)

カイロウドウケツのガラス繊維の拡大(ウィキペディア 同上から)

カイロウドウケツの基部(ウィキペディア 同上から)
 
 おもしろいことに、このカイロウドウケツの網目構造内、胃腔の中には、「ドウケツエビ」と呼ばれる体長 3cm内外の小さなエビが住んでいるという。このエビは幼生のうちにカイロウドウケツ内に入り込み、そこで成長して網目の間隙よりも大きくなり、外に出られない状態になって、生涯ここに住み続ける。

 多くの場合、一つのカイロウドウケツの中には雌雄一対のドウケツエビが棲んでおり、このエビがカイロウドウケツの網目から中に入るときの二匹は雌雄が未分化で、内部でやがて雌と雄にそれぞれ分化するというから、よくできている。

 ドウケツエビは、海綿の食べ残しや網目に引っかかった有機物を食べて生活し、カイロウドウケツにより捕食者から守られるという片利共生状態にあるとされる。

 さて、この不思議な名前の由来であるが、カイロウドウケツには「偕老同穴」の字を充てる。「偕老」及び「同穴」の出典は中国最古の詩篇である詩経に遡る。これらを合わせて「生きては共に老い、死しては同じ穴に葬られる」という、夫婦の契りの堅い様を意味する語とされる。

 この語がカイロウドウケツ中のドウケツエビのつがいを評して用いられ、後に海綿自体の名前になったと言われている。現在でもカイロウドウケツは結納の際の縁起物として需要があるとのことである。

 それにしても、海水中のケイ酸化合物を取り入れて、これを非晶質のガラス状二酸化ケイ素に変えるというこの生物の働きには感心する。

 地球上に8,350種が知られているという海綿動物であるが、その内95%は普通海綿綱に属するもので、骨格はかなり柔軟性のある海綿質繊維(スポンジン)で構成されている。この綱に属する6種の海綿は海綿質繊維からだけからなり硬い骨片を持たないため、スポンジとして私たちが利用している。

 残りの5%は、石灰海綿綱、六放海綿綱、硬骨海綿綱という仲間に分類されるが、石灰海綿綱は骨格の主成分が炭酸カルシウムでできていて、六放海綿綱はガラス海綿とも呼ばれているもので、六放射星状のケイ酸質の骨片を主とする骨格を持つとされる。カイドウロウケツはこの六放海綿綱の仲間である。

 硬骨海綿綱では炭酸カルシウムの骨格の周囲をケイ酸質の骨片と海綿組織が取り巻いているとされるから、石灰海綿綱と六放海綿綱の両者の性質を併せ持っていることになるが、多くは化石種とされる。

 偶然であるが、先日中欧を旅行した際に、オーストリアのウィーンのクリスマスマーケットを覗いていて妻が海綿の店を見つけ、孫娘のためにとお土産に1個買ってきたことがあった。

ウィーンのクリスマスマーケットで海綿を売る店(2017.12.5 撮影)

購入した海綿に付いていたパンフレットの表紙

 その時にもらったパンフレットによると、この海綿はアドリア海産ということで、次のような説明がなされている。
 『・・・透明度が高く暖かいアドリア海では、1000を超えるタイプの海綿がいます。しかし、唯一1種類だけが商用利用が認められています。それが、「アドリア海の海綿スポンジ」です。・・・アドリア海の海綿スポンジは、平均15cmに成長するためにおよそ3年はかかり、成長が遅いカテゴリーに属しています。引き揚げ年間取扱量は、農林水産省の規定により制限されています。・・・』

 話が少し横道にそれたが、元に戻る。カイロウドウケツのガラス質構造に関する記事が、2017年2月5日付け読売新聞の「サイエンス View 」というページに「海綿 全身がガラス繊維」という見出しで紹介された。

読売新聞、2017年2月5日(日曜日)のサイエンス View 記事から

読売新聞、2017年2月5日(日曜日)のサイエンス View 記事から

 その記事によると、『光ファイバーなどに使うガラス繊維を人工的に作るには、超高温でガラス成分を溶かす工程が不可欠だが、カイロウドウケツはこれを低温の海底でやってのける。鳥取大学の清水克彦准教授は2015年、カイロウドウケツの繊維に含まれるたんぱく「グラシン」が、鍵を握っていることを解明した。ガラス成分を含む溶液にグラシンを加えると、室温でガラス粒子ができた。』とある。

 通常、工業的に普通のガラス繊維を作る場合でも700~1000度の高温が必要であり、これが光ファイバーに用いられる石英ガラスファイバーになると2000度という超高温が必要になるから、カイロウドウケツに学んで、「ガラス機器を常温で作る技術につなげたい(清水准教授)」という 計画とのことである。

 また、カイロウドウケツのガラス繊維はこの光ファイバーと同様、屈折率の異なるコアとクラッドの構造を持つというから、さらなる驚きである。カイロウドウケツが発光器を持つという話はないので、そうではないのだが、発光生物も多く存在しているから、生体内で光通信が行われているという例も存在するのではとの思いがよぎったりする。

 地球を構成する元素は、表層部の地殻と呼ばれる部分では多い順に、酸素、ケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウム、カリウム・・・とケイ素は酸素に次いで多い元素である。

 一方、海水中に溶け込んでいる元素は多い順に、塩素、ナトリウム、マグネシウム、硫黄、カルシウム、カリウム、臭素、炭素、窒素、ストロンチウム、ホウ素、ケイ素、フッ素・・・の順になる。

 海水中の濃度は、カルシウムが412ppmに対して、ケイ素は僅か2.8ppmである。こうしたこともあってか、多くの海生生物がカルシウムを利用して炭酸カルシウムの骨格や外殻を形成しているが、中にはガラス海綿同様ケイ素を利用している生物もいて、よく知られたものに藻類の一種の珪藻や海のプランクトンである放散虫などがある。

 この珪藻の殻や放散虫の骨格もまたガラス質の二酸化ケイ素でできている。珪藻の殻の化石よりなる堆積物は珪藻土として知られていて、多くは白亜紀以降の地層から産出される。珪藻や放散虫の殻そしてガラス海綿などの(微)化石が堆積し岩石化の進んだものはチャートとして知られていて、珪藻土よりも古い三畳紀やジュラ紀の地層からも産出されている。

 実際の珪藻土には、珪藻由来のガラス質二酸化ケイ素だけではなく粘土粒子など夾雑物が含まれているのでSiO2の純度はそれほど高くはない。

 チャートの方は海底への堆積物が固まり、次第に堆積岩となる(続成作用)過程で、非晶質シリカの結晶化が進み、石英に変化している。 
 
 2013年10月22日付けのナショナル・ジオグラフィックはカナダのブリティッシュ・コロンビア州ハウ・サウンド沖のガラス海綿類が形成する礁(reaf)について報じた。ガラス海綿は世界中の海に生息するが、死んだ海綿の上に新たな海綿が成長、深海で大規模な礁を形成しているのは、ガラス状骨格形成を促進する高濃度のシリカが溶け込んでいる寒流が流れる、ブリティッシュ・コロンビアの大陸棚だけだという。

 こうした過去の大規模なガラス海綿の礁が地殻変動により地上に現れ、石英ガラスの山塊を作るということはないのだろうかなどと空想が広がる。

 今度、江ノ島に行ったら、ぜひカイロウドウケツをお土産に買いたいものと思っている。
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