軽井沢からの通信ときどき3D

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軽井沢飛行場

2016-12-16 00:00:00 | 軽井沢
 北陸新幹線が東京-長野間で開業し、軽井沢に新幹線が乗り入れたのが1997年10月、そして北陸新幹線が金沢まで延伸され、金沢と軽井沢が繋がったのが昨年2015年3月である。

 関西方面からは東京経由と金沢経由の2つのルートに新幹線が利用できるようになり、とても便利になった。私は大阪に出かけるときには主に金沢ルートを選択している。

 新幹線により最短で東京-軽井沢間が1時間3分、金沢-軽井沢間が1時間41分で結ばれることになった。

 このように東京へのアクセスが便利になっている現在、東京-軽井沢間を飛行機で移動しようと考えることはまず無いと思うのだが、大正から昭和初期には実際に軽井沢に飛行場があり、東京との間に定期便が就航していたということを知る人は少ない。

 その昔、碓氷トンネルが開通しアプト式軌道を新型機関車で登れるようになった明治26年(1893年)に、横川-軽井沢間だけでも1時間15分かかったといわれている。

 東京-軽井沢間となると、朝東京を出て、軽井沢には夕方到着するという状況であった(「軽井沢物語」宮原安春著、1994年7月15日 講談社発行)。

 そうした状況を考えると、東京-軽井沢間を飛行機で結ぼうとの考えが出るのももっともなことと思える。

 飛行場建設よりも少し前、大正4年(1917年)8月には陸軍飛行機が東長倉小学校庭に初着陸したという記録があり(http://karuizawa-kankokyokai.jp/knowledge/265/)、大正6年(1919年)8月29日には徳川大尉のプロペラ機がはじめて軽井沢の離山上空を飛行したという記録が残っているので、飛行場建設の機運は高まっていたのかもしれない(「思い出のアルバム軽井沢」)。

 「避暑地軽井沢」(小林収 著、1999年 株式会社櫟 発行)には、軽井沢飛行場のことが次のように記されている。

 「堤(康次郎)は千ヶ滝の別荘開発が一段落すると、南軽井沢の開発に着手した。彼は大正13年(1924年)に新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅20間(約36m)長さ20町(約2180m)の道路建設に取りかかった。この道路は南の押立山の麓まで、翌14年(1925年)夏にはほぼ完成し、道路の両側には別荘を建設して売り出した。

 道路の西側には飛行機が発着できる滑走路をつくり、昭和2年(1927年)8月16日から東京-軽井沢間の定期連絡飛行の認可を逓信省からうけた。

 飛行機は十年式偵察機を使って、一日おきに東京-南軽井沢間を往復する計画であった。
午前9時に国立飛行場を出発し、50分で馬越飛行場に着陸し、午後4時に帰航する時刻表で、運賃は一人片道10円、荷物は1キロ60銭となっていた。

 また昭和3年(1928年)8月には浅間遊覧飛行を行った。9月1日より25日まで、毎日午前10時より午後3時まで鈴木一等飛行士が操縦することになった。

 600mの上空から浅間山や日本アルプスの山々を鳥瞰して一回一人10円であった。(中信毎日 昭三・八・三○)

 (中略)この飛行場は戦争が激しくなると昭和18年(1943年)に整備されて、熊谷飛行学校の飛行訓練場として使われ、19年には、陸軍特別航空隊学徒が使用することになって軍事色をつよめていくことになる。」とその変遷が記されている。

 軽井沢の飛行場の歴史にはもう一つの飛行場が登場する。「軽井沢という聖地」(桐山秀樹、吉村祐美 著、2012年5月1日 NTT出版発行)には次のように紹介されている。

 「軽井沢の「戦後」は、戦勝したアメリカ軍の「保養地」として始まった。(中略)
旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで作られた。

 やがて、この飛行場で、事故が起こったため、軽井沢から南に延びる20間道路(現プリンス通り)の南半分を“臨時飛行場”とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一次遮断して、飛行場の離発着を助けていた。(中略)

 ところが、臨時飛行場のままでは占領軍も不便なため、当時、地蔵ヶ原と呼ばれていた南軽井沢の湿地帯を飛行場用地に選び、所有者の箱根土地株式会社(現国土計画)の社長だった堤康次郎と交渉した。

 そして占領軍の手で地面を掘り下げ排水した後、浅間山の砂利を敷き詰め、現在の72ゴルフコース西コースに「軽井沢飛行場」をオープンさせた。

 この軽井沢飛行場は、昭和27年(1952年)の講和条約締結まで約3年余り、東京-軽井沢間を僅か25分で結ぶ米占領軍の将校専用飛行場として利用されていた。」とある。

 その後、この軽井沢飛行場は遊覧飛行場として使用されたとの記録はあるがやがて消滅し、1971年7月にはその一帯に広大な72ゴルフ場がオープンしている。

 軽井沢ではこのように飛行場建設が何度も試みられてきた。昭和初期に作られた軽井沢飛行場と、戦後米占領軍により作られた飛行場とは共に南軽井沢の20間道路の西側ではあるが、滑走路が同一居場所であったのかどうかは前出の2冊の本の記述からは判らない。


現在の20間道路の南軽井沢交差点付近から軽井沢駅方面を望む(プリンス通り)(2016.12.5 撮影)


現在の20間道路の南軽井沢交差点付近から72ゴルフ場方面を望む(2016.12.10 撮影)

 今その痕跡を探すこともできないようだが、飛行場の跡地である72ゴルフ場はゴルファー憧れの地として多くの客を集めていつも賑わっている。どれだけのゴルファーが、この場所に飛行場があったことを知っているのだろうか。


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