軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

軽井沢文学散歩(3)立原道造

2018-02-09 00:00:00 | 軽井沢
 今回は立原道造。1914年(大正3年)7月30日、父立原貞次郎、母立原登免(とめ)の次男として東京市日本橋区(現・東京都中央区)に生まれる。昭和初期に活動したが、1939年(昭和14年)3月29日、結核性肋膜炎のため24歳と8か月の若さで急逝した詩人である。

 軽井沢とのかかわりについては、先に紹介した室生犀星や堀辰雄が軽井沢に住み、ここを拠点として作品を発表しているが、立原道造は滞在期間も比較的短く、また、若かったこともあり定住する場所を持つことはなかった。

 師事した室生犀星と堀辰雄との関係を年表で見ると次のとおりである。また、最下段には軽井沢で交流のあった、画家の深沢紅子を付記しておいた。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星、堀辰雄と立原道造(赤で示す)

 立原道造の略年譜は次のようなものである(信濃デッサン館の展示内容を基に編集)。

1914年(大正 3年) 7月30日、誕生。
1923年(大正12年) 関東大震災で自宅消失のため、千葉県新川村(現・流山市)の親戚宅に避難する。
1924年(大正13年) この年の夏から武州御岳山での避暑生活をほぼ恒例とする。
1927年(昭和 2年) 東京府立第三中学校(現・都立両国高校)に入学。13歳のこのころ、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていて、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』・『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど、才能を発揮していた。
1928年(昭和 3年) 三中の教師で歌人の橘宗利の指導で作歌を開始。同級生の妹・金田久子にひそかな思慕を寄せ、片恋を主題とした短歌や詩を制作。
1929年(昭和 4年) 1学期間を神経衰弱のため休学し、新川村で静養。自宅の本建築が完成し、2階テラスで天体観測に耽る。
1931年(昭和 6年) 第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した。一高短歌会の会員となり、高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。前田夕暮主催の『詩歌』に三木祥彦(さちひこ)の筆名で投稿し、採用される。この年、堀辰雄と面識を得、以後兄事する。
1932年(昭和 7年) 内外の文学書を耽読し、次第に詩への関心を深める。自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、手書きの四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。
1933年(昭和 8年) 高校最後の年を迎えた詩集『日曜日』・『散歩詩集』を制作。
1934年(昭和 9年) 東京帝国大学工学部建築学科入学。夏、堀の誘いで軽井沢を訪問し、初めて信濃追分に滞在、この地の風光を愛し、以後多くの詩の背景としている。室生犀星の知遇を得る。秋、萩原朔太郎を訪ねる。この年から1937年(昭和12年)までは、建築学科で岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三・浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった。
1935年(昭和10年) 課題設計「小住宅」が」辰野賞を受賞(以後在学中3年連続で受賞)。夏、信濃追分の油屋旅館に滞在し、洋画家深沢紅子が油屋旅館を描いているところを、部屋の内から見かける。その後、再び松原湖で出会い、その後5年間の交友が始まる。
1936年(昭和11年) 大学卒業年次を迎えたこの年に、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。
1937年(昭和12年) 卒業設計「浅間山麓に位する藝術家コロニイの建築群」を提出、東京帝国大学建築科を卒業。石本建築事務所に入社し、「豊田氏山荘」を設計。また、浦和の別所沼付近に独居住宅「ヒアシンス(風信子)ハウス」を計画。10月、肋膜炎で発熱。翌月、静養中の油屋で火事に遭うが、辛うじて救出される。詩作の方面では初め前田夕暮主宰の『詩歌』に自由律短歌を発表したが、三好達治の四行詩に触発されて詩作に転じ、ついで堀辰雄、室生犀星に師事、津村信夫や丸山薫、リルケ、『新古今和歌集』などの詩風を摂取しながら、繊細な詩語を音楽的に構成した独自な十四行詩型(ソネット)を創出した。物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。
1938年(昭和13年) 同じ建築事務所のタイピスト水戸部アサイと愛を深める。肺炎カタルのために休職し、大森の室生犀星宅で静養。8月11日、軽井沢の室生犀星別荘を水戸部アサイと共に訪問。9月15日-10月20日、北方旅行。盛岡の深沢紅子女史の父の別荘に滞在。11月、近畿、中国を経て九州へ旅行するが、12月6日に長崎で発熱・喀血し帰京。年末に東京市立療養所に入所、アサイの献身的な看護を受ける。
1939年(昭和14年) 第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞。3月、小康状態が続き、「五月のそよ風をゼリーにして持ってきてください」と友人に依頼する。29日、病状が急変し結核性肋膜炎のため24歳の若さで急逝。没後、堀辰雄により『優しき歌』(1947)が刊行された。

 立原道造は、詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。また存命中に今井慶明が立原の2つの詩を歌曲にして以来、柴田南雄、高木東六、高田三郎、別宮貞雄、三善晃などが作曲しているとされる。

 1997年(平成9年)3月29日、立原道造の58回目の命日に、東京都文京区弥生に私立の「立原道造記念館」が設立され、堀辰雄夫人・堀多恵子氏が館長に就任している。

 私は訪れる機会がなかったが、設立記念プレートには次のように記されていた(立原道造記念館HPより抜粋)。

 暮 春 嘆 息
  -立原道造君を憶ふて-

 人が 詩人として生涯ををはるためには
 君のやうに聡明に 清純に
 清潔に生きなければならなかった
 さうして君のやうに また
 早く死ななければ!
    三好達治

 立原道造(1914.7.30~1939.3.29)
 
 東京生まれの詩人、立原道造は、詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめています。
また、立原は、建築家でもありました。東京大学在学中、3年連続して「辰野賞」を受賞し、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を構想して壮大なリゾート計画を示し、「風信子ハウス」に象徴される小住宅設計にも意欲を燃やしました。
 立原の魅力は、多くの文学者や建築家によって今日もなお語り継がれてきていますが、24歳8か月という夭折の生涯を惜しんだ三好達治は、上記のような追討詩を寄せました。私どもは、現代文学に少なからぬ影響を与えた才能と資質とを普遍であると確信し、立原が旧制一高以来の青春を過ごした向ヶ岡弥生の地に記念館を設立し、新しい世紀に向けて永続的に顕彰していく所存です。
      (1997年3月29日/立原道造記念館 館長 堀多恵子/理事長 鹿野琢見)

 この記念館は、その後2010年9月27日に休館し、展示品などは翌2011年2月、長野県上田市郊外の「信濃デッサン館」内に「立原道造記念展示室」を新設し移設した後、2011年2月20日に閉館されている。


前山寺参道から見た信濃デッサン館(2018.2.7 撮影)


信濃デッサン館に新設された「立原道造記念展示室」の案内板(2018.2.7 撮影)


信濃デッサン館入口(2018.2.7 撮影)

 この「信濃デッサン館」は作家・水上勉氏の子息窪島誠一郎氏が建設し、1979年に開館したもので、大正時代の天才といわれた村山槐多や関根正二をはじめ、主に大正期から昭和にかけて活躍し、結核や貧困の中で早く世を去った画家たちの作品を中心に展示している美術館である。

 この美術館の展示室内に、特別に部屋を設けて立原道造の残した詩「窓」・「ある人は」などの自筆原稿、若いころの「無題・二匹の魚」などの多くのパステル画、信濃追分滞在時(1983年)に描いた「観音像のある追分風景」・「ゆうすげの咲く追分風景」のペン画スケッチ、石本建築事務所勤務時に取り組んだ「秋元邸新築工事設計案Ⅰ(1938年5月6日)」図面などが展示されている。

 スケッチに描かれた「観音像」と思われる像は、今も国道18号線沿いにある追分別去れの石碑の奥に建っている。


「観音像のある追分風景」に描かれたものと思われる「観音像」(2018.2.6 撮影)

 また、立原道造が詠んだ次の詩『むらはづれの歌』の中に「馬頭観世音」として登場するのもこの観音像であろうか。

 咲いてゐるのはみやこぐさ と
 指に摘んで 光にすかして教へてくれた-
 右は越後へ行く北の道
 左は木曽へ行く中仙道
 私たちはきれいな雨あがりの夕方に
  ぼんやりと空を眺めて佇んでゐた
 さうして夕やけを背にしてまっすぐと
  行けば私のみすぼらしい故里の町
 馬頭観世音の叢に 私たちは生まれて
  はじめて言葉なくして立ってゐた
        (「立原道造詩集」より)

 東京の「立原道造記念館」の機能の一部は、南軽井沢にある「軽井沢高原文庫」移されたが、ここには「立原道造記念館」開設の4年前に、前庭に「立原道造詩碑」が設置されたゆかりの地であった。


「軽井沢高原文庫」の前庭に設置されている「立原道造詩碑」(2016.11.13 撮影)


代表作「のちのおもひに」の刻まれた立原道造詩碑(2016.11.13 撮影)


立原道造詩碑の設立趣意文の書かれているパネル、1993年7月30日付(2016.11.13 撮影)

 ここには次の文が刻まれている。

 立原道造詩碑

 詩人であり、建築家でもあった立原道造(1914.7.30~1939.3.29)は、1934年の夏、初めて軽井沢を訪れ、以後38年の夏まで幾度となく滞在し、ソネットに代表される詩や物語を生み出した。詩人が愛した浅間山麓の自然と風景は、昭和の抒情詩を代表する作品になるとともに、壮大な都市計画構想「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」にも示された。現代文学に少なからぬ影響を与えたその才能と資質を、私たちは普遍であると確信し、磯崎新氏に設計を依頼して、有志971名が相集い「立原道造詩碑」を建立した。

    碑文 立原道造自筆    詩碑 チタン鋳造    台座 イタリア産
   「のちのおもひに」より   CAST TITANIUM   PIETRA CARNIGLIA

                                  1993年7月30日
                             立原道造詩碑建立発起人会


新しい立原道造詩碑の説明パネル(2016.11.13 撮影)

 この設立趣意文にも書かれているとおり、定住はしなかったものの、立原道造と軽井沢・信濃追分とのつながりには深いものがある。

 室生犀星の「我が愛する詩人の傳記」の立原道造の章には、犀星がかつて住み現在は記念館として保存されている住居を、立原道造が訪れた時のことなどを次のように記している。

「立原道造の思い出というものは、極めて愉しい。軽井沢の私の家の庭には雨ざらしの木の椅子があって、立原は午後にやってくると、私が仕事をしているのを見て声はかけないで、その椅子に腰を下ろして、大概の日には、眼をつむって憩んでいた。・・・部屋では仕事をしながら私はそれを見て、或るしめくくりに達しるまで原稿を書いていた。・・・いつ来ても睡い男だ、そよかぜが顔を撫で、昏々と彼はからだぐるみ、そよかぜに委せているふうであった。・・・
 
・・・私の家を訪ねる年若い友達は、めんどう臭く面白くない私を打っちゃらかしにして、堀辰雄でも津村信夫でも、立原道造でも、みな言いあわせたように家内とか娘や息子と親しくなっていて、余り私には重きをおかなかった。・・・

・・・
    夢のあと
  《おまへの  心は
   わからなくなった
  《私の  こころは
   わからなくなった  (後略)

 追分村の旧家に一人の娘がいて、立原はこの娘さんを愛するようになっていた。この「夢のあと」一篇は立原にはめずらしく、心に突きこんだ現れを見せている。抒情の世界で溜息をつく詩の多い中で、この「夢のあと」は或日の机の上で書きちらしている間に、突然、殆んど自然にこんな現われを見せた四行を彼は別の紙に書いて、のこしても宜い詩のうちへ入れたものらしい。・・・

・・・私はその娘さんを一度も見たことはないが、一緒に散歩くらいはしていたものらしく、その途上にあった雑草とか野の小径や、林の上に顔を出している浅間山なぞが、娘さんのからだのほとぼりを取り入れて、匂って来るような彼の詩がいたるところにあった。娘さんとの交際は一、二年くらいのみじかさで終り、東京の人と結婚したらしい。いわば失恋という一等美しい、捜せば何処にでもあってしかも何処にもないこの愛情風景が温和しい立原に物の見方を教えてくれただろうし、心につながる追分村が、ただの村ざとでなくなっていたのであろう。

・・・また夏が来て或る日立原が軽井沢の私の家に、午前にやってきた。いつもとは違う気合が見え、そわそわとして私の言葉がよく彼の耳に落ち着いて聞こえぬらしかった。そうして今日は戸隠にいる津村信夫を訪ねるかたわら、戸隠にしばらく滞在するつもりだといった。戸隠に行くのに、何も態々来なくともよいのに、変だと私は彼の顔を見ると、立原はうわのそらにある眼付に狼狽の色をあらわし、突然、庭に出ていって表の道路の方を見たりした。その時分、立原に東京の人で第二の愛人ができているということを聞いていたので、私は彼をおちつかせるために言った。
「誰かと一緒に来たんじゃないか。」
「浅路(筆者注:水戸部アサイのこと)さんが東京から来ているんです。」
「それで、」
「前の土手に待って貰っているんです。」
「この暑いのに表に待たせるなんて、早く呼びたまえ。」・・・

・・・この浅路さんは二十六歳の若さで、中野療養所で昭和十四年三月に亡くなるまで、立原に付添って看護をしてくれた。・・・
・・・この長身痩身の詩人がたった二十六歳で死んだことは、死それ自身もあまりに突飛で奇跡的だ。・・・晩年、盛岡の深沢紅子の生家に滞在し、途中、山形の竹村俊郎の家に寄り、帰京後、旅の魔にとりつかれた彼は、山陰道を廻って長崎に着き、そこで一ヵ月近く滞在すると、暮の十二月に帰京した。この間の旅行の疲れがたたり肺を悪化させ、クリスマス前後に市の療養所に移った。・・・

・・・彼はいつも軽井沢の私の家に先き廻りして、追分から出てくると、次の列車で堀さんも今日は出てくると言い、それがその日の一等愉しい事であるらしかった。・・・そんな日の帰りには堀の買い物をもってやり、一緒に追分村に夕方には連れ立って帰っていった。絶対に彼を好いていた彼は、堀辰雄のまわりを生涯をこめてうろうろと、うろ付くことに心の張を感じていたらしかった。・・・
・・・(津村信夫を交え)異様ともいえるこの四人づれは結局、私の家にもどるのがせいぜいだったが、話もせずただむやみに機嫌好くぶらつくことが、心を晴れやかにする重要な要素であった。しかもこの若い三人の友達はさっさと先に死んでしまい、私は一人でこつこつ毎日書き、毎日くたびれて友を思うことも、まれであった。こういう伝記をかくときだけに彼らは現われ、私は話しこむのである。・・・」(以上、室生犀星著 「我が愛する詩人の傳記」1974年中央公論社発行から抜粋)

 立原道造は追分村の油屋旅館で、生涯の夏の大半を送ったともいわれているが、その油屋旅館の建物は、立原道造の遺志を継ぐ活動を目的に、2012年NPO法人「油やプロジェクト」が発足し、その拠点として活用されている。


現在の油屋旅館の入り口に建つ看板(2018.2.4 撮影)


NPO法人「油やプロジェクト」の説明板(2018.2.4 撮影)


現在の油屋旅館の建物(2018.2.4 撮影)

 この油屋旅館の近くに新築された追分公民館の玄関脇の壁には立原道造のレリーフ(加太彫江作)があり「村はずれの歌」が刻まれているのは余り知られていないようだが、立原道造は、この信濃追分の人々から深く愛されていることが知れる。


追分公民館の外観(2018.2.4 撮影)


壁面に埋め込まれている立原道造のレリーフ(2018.2.4 撮影)

 最後に、軽井沢を離れて、埼玉県さいたま市南区別所沼公園に、2004年に「ヒアシンスハウスを作る会」が建設した既述の「ヒアシンスハウス」について紹介する。

 このヒアシンスハウスは立原道造が自分の別荘としてこの地に建て、水戸部アサイと共に利用することを夢見ていたもので、ヒアシンスハウスを作る会は次のように記している。

 「・・・立原は、この五坪ほどの住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼び、五十通りもの試案を重ね、庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼した。さらに、住所を印刷した名刺を作り、親しい友人に配っていた。しかし立原が夭折したため、別所沼畔に紡いだ夢は実現しなかった。

 立原が、「別所沼のほとりに建つ風信子ハウス」を構想してから六十六年の時が過ぎた二〇〇三(平成十五)年、別所沼公園が、さいたま市の政令指定都市移行に伴い、埼玉県からさいたま市に移管された。これを機に、別所沼周辺の芸術家たちの交友の証として、立原がかつて夢みた《ヒアシンスハウス》は、「詩人の夢の継承事業」として建設の機運が高まり、二〇〇四(平成十六)年十一月、多くの市民たちや企業、行政の協調のもと、ここに実現することとなった。

                                  二〇〇四年十一月 ヒアシンスハウスをつくる会」


埼玉縣浦和市外六辻村別所ヒアシンスハウスの住所が記された名刺(ヒアシンスガイド、ヒアシンスハウスの会発行より)

 私は、現地に出向いて写真撮影する機会を持てなかったが、妻の友人Kさんが快く応じてくださって、現地の写真を送っていただいた。お礼を申し上げて、その写真を掲載させていただく。


さいたま市の別所沼公園内にある「ヒアシンスハウス」外観(2018.2.2 K女史撮影)


さいたま市の別所沼公園内にある「ヒアシンスハウス」の内部(2018.2.2 K女史撮影)
 



 

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