軽井沢からの通信ときどき3D

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エントロピー・2/2

2022-01-28 00:00:00 | 日記
 さて、前回最初に紹介したシュレーディンガー博士の本は、同じく2番目に紹介した本の著者ジャック・モノー博士をはじめ多くの分子生物学者に、多大な影響を与えたという。
 DNAという世紀の発見に対しても同様である。

 「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著 2007年講談社発行)の中で、著者はこの事を次のように記すとともに、シュレーディンガー博士のエントロピーについての考察にも言及している。


「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著 2007年講談社発行)の表紙

 「DNAの構造解析に挑んだワトソン、クリック、ウィルキンズたちは、等しく、一冊の小著にインスピレーションを与えられたと語っている。量子力学の先駆者エルヴィン・シュレーディンガーが1944年、隠遁したアイルランド・ダブリンでの講義録をもとに著した『生命とは何か』である。
 ・・・ワトソンたちが鼓舞されたのは、生命現象は最終的にはことごとく物理学あるいは化学の言葉で説明しうる、というシュレーディンガーの総括的な予言に対してであった。・・・
 ・・・遺伝子の本体が、デオキシリボ核酸(DNA)という化学物質であり、その二重ラセン構造は遺伝子の複製機構を担保するものであるというワトソンとクリックの発見は、シュレーディンガーの、予言の光に満ちた見事な成就だった。・・・」

 福岡博士は続いて次のように述べている。

 「・・・生命は、物理学的な枠組みの中に自らをしたがわせつつも、単に、その熱運動に身をゆだねているわけではなく、そこから複雑な秩序を生み出しているのである。・・・つまりその秩序は動的なものだ。
 むろん、シュレーディンガーもそのことにはきわめて自覚的だった。・・・
 エントロピーとは乱雑さを表す尺度である。すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動き、そこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則と呼ぶ。
 ところが生物は、じぶんでは動けなくなる『平衡』状態に陥ることを免れているようにみえる。・・・少なくともヒトの場合であれば何十年もの間、熱力学的平衡状態にはまり込んでしまうことがない。・・・
 つまり生命は、『現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力を持っている』ということになる。
 このようなことはどのようにして実現できるのだろうか。シュレーディンガーはこの疑問に対して具体的なメカニズムを示すことはできなかった。・・・
 そのかわり、シュレーディンガーは、生命が、エントロピーの増大の法則に抗して秩序を構築できる方法の一つとして、『負のエントロピー』という概念を提示した。・・・
 ・・・すなわち生き続けていくための唯一の方法は、周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れることである。実際、生物は常に負のエントロピーを”食べる”ことによって生きている。・・・
 シュレーディンガーは、ここで誤りを犯した。このかんがえはナイーブすぎたのである。実は、生命は、食物に含まれている有機高分子の秩序を負のエントロピーの源として取り入れているのではない。生物は、その消化プロセスにおいて、タンパク質にせよ炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収しているのである。・・・
 とはいえ、シュレーディンガーの省察のうち、食べることが、エントロピー増大に抗する力を生み出すという部分は、彼の意識のレベルにかかわらず、的確なものであった。・・・」

 福岡博士はこのあと、「動的平衡」について述べる。生物が摂取したタンパク質はアミノ酸に分解され、身体のあらゆる場所に取り込まれるというルドルフ・シェーンハイマー実験について紹介して上記指摘の正しいことを説明している。

 一方、福岡博士は本の後段で自身の行った研究結果について次のようにも記している。
 
 「・・・私たちは何か重大な錯誤と見落としがあったのだ。重大な錯誤とは、端的にいえば『生命とは何か』という基本的な問いかけに対する認識の浅はか(ナイーブ)さである。そして、見落としていたことは『時間』という言葉である。
 生命とは、テレビのような機械ではない。このたとえ自体があまりにも大きな錯誤なのだ。・・・
 機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することが出来る。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
 生物には時間がある。その内部には常に不可逆な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることが出来る。・・・
 結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。・・・
 私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。・・・」
 分子生物学者の言葉なので重みのあるものではある。

 ところで、この福岡博士が行った、シュレーディンガー博士の本の記述に対する指摘に対して、もちろんシュレーディンガー博士は反論することはできない。代わって、本「生命とは何か」の翻訳者の1人である鎮目恭夫氏が、「訳者あとがき」の註1で次のように書いて反論を試みているので採りあげておこう。

 「『負エントロピー』という言葉は、その直後の原註にもかかわらず、やっぱり誤解を招きやすい言葉だ。なぜなら、今日の物理的科学には熱力学のエントロピーと通信工学に由来する情報理論のエントロピーという二種類のエントロピーがあって、この両者が分子生物学の大学教授などによっても、しばしば混同され過誤や混乱を助長しているからだ。私はたまたま最近(2007年)出版された通俗科学書のベストセラーものの一つに、この混同と過誤の誠に見事な標本を見つけたので、ここに引用する。」として、先に紹介した福岡博士の著書の言葉を引用して示し、さらに次のように続ける。

 「この文中の『生物』を『動物』と書き換えれば、少しはましだ。それにしても、シュレーディンガーは、本書をまともに読めば分かるように、タンパク質などのような有機高分子の秩序を負のエントロピーの源だなんて言ったのではない。そして彼は、遺伝物質を構成する大型分子(彼が非周期性結晶と呼んだもの)は、時計の歯車のように熱力学を一応超越した(エントロピーとは無関係な)個体部品だと言ったのである。」

 さて、今年新たな本が出版された。2020年にもう一つの「WHAT IS LIFE?」(Paul Nurse 著)がイギリスで出版されたが、その日本語訳が出版されたのである(日本語訳:「生命とは何か」⦅竹内薫訳 2021年ダイヤモンド社出版⦆)。シュレーディンガーの本が出てから76年ぶりということになる。

「WHAT IS LIFE?/生命とは何か」(Paul Nurse 著 竹内薫訳 2021年ダイヤモンド社出版)のカバー表紙

 この本の「まえがき」には次のような文章がある。

 「生命って、何だろう?
 私は人生を通じてこの問題を考えてきたが、満足のいく答えは簡単には見つからない。意外かもしれないが、生命についての標準的な定義などないのだ。それでも、科学者たちは年月をかけ、この問題と格闘してきた。
 本書の『生命とは何か』という題は、物理学者エルヴィン・シュレディンガーの著書へのオマージュだ。彼は1944年に同書を出版したが、その影響は大きかった。
 シュレディンガーは、生命のある重要な側面に焦点を当てていた。熱力学の第二法則によれば、つねに無秩序や混沌へと向かっていく森羅万象の中で、生き物たちが、どうやって、こんなにも見事な秩序と均一性を何世代にもわたって保っていられるのか。これが大問題であることを、シュレディンガーは的確に捉えていた。彼は、世代間で忠実に受け継がれてゆく『遺伝』を理解することが鍵だと考えたのだ。・・・」

 ナース博士は最初の章「細胞」の中で、早速エントロピーについて説明している。次のようである。

 「・・・生命は二つの大きな枝に分けられる。・・『真核生物』と『原核生物』だ。・・・真核生物か原核生物かに関わらず、細胞のきわめて重要な部分は『外膜』だ。・・・
 最終的に外膜は、宇宙全体を覆っている無秩序や混沌へと向かう力に、生命が首尾よく抵抗できる理由を説明する。細胞は隔離してくれる膜の内側で、自分たちが稼働するために必要な秩序を定め、それをたかめてゆく。同時に、自分を取り巻く周囲の環境に無秩序を生むことができる。こうやって帳尻合わせをすれば、生命は熱力学の第二法則に背くことはない。」
 この後に、熱力学第二法則に対する次のような翻訳者の訳注が続く。
 「訳注:あらゆるものは時間とどもに秩序立った状態から無秩序な状態へと向かう、という物理法則。生き物は秩序あるものを食べて無秩序なものを排泄することで、体内の秩序を保っている。」

 エントロピーの問題はここでひとつ回答が示されたといっていいのだろうと思う。生命の最小単位である細胞はそれ自体が生命としての機能を有している。そこで展開される化学反応は、外部からエネルギーと物質とを取り入れ、内部の秩序を維持し、つくり出すが、その際外部には無秩序を排出して、全体としてはエントロピーが増大している。こうして、熱力学の第二法則に背くことなく、また神秘的な法則に頼ることなく細胞は生き続けることが出来るというものである。

 ナース博士は後段の別の章「生命とは何か?」で、シュレーディンガーの著書について、次のようにも述べている。

 「これまでも、多くの人々が、この問いの答えを模索してきた。エルヴィン・シュレディンガーは、先見の明がある著書『生命とは何か』で、遺伝的形質と情報を強調した。彼は生命は『暗号で書かれている』と提案した。
 これはDNAに記されていることが現在では分かっている。しかし、シュレディンガーは、ほとんど生気論もどきの意見で本を終らせた。生命の働きを本当に説明するには、未知の物理法則が必要かもしれないと、主張したのだ。・・・」
 
 このように、分子生物学者であるナース博士もまた福岡博士と同様、物理学者に対してはなかなか厳しい視線を送っている。

 しかし、私の理解するところでは、シュレーディンガー博士は、生気論に向かうことなく、「今日の物理学と化学とが、このような(生物体で起こる)事象を説明する力を明らかに持っていないからといって、これらの科学がそれを説明できないのではないか、と考えてはならないのです、と。」と述べているのである。

 ナース博士はまた、ステップ4「化学としての生命」の最後のところで、「細胞ひいては生体構造は驚くほど複雑だが、突き詰めていくと、理解可能な化学的かつ物理的な機械だ。この見解は、今では、生命についての一般的な考え方になっている。・・・」と、シュレーディンガー博士以降の分子生物学の研究結果を踏まえた上で記している。

 エントロピーの問題は、現に存在している生命体の中で繰り広げられているできごとについて、上記のように、生気論を持ち出すことなく物理と化学で説明可能であることが具体的に理解されるされるようになってきた。

 ナース博士は後段の「合成生物学」のインパクトという章で、生物学は工学と結びついて、遺伝子操作により、生き物の遺伝子プログラムを根本から書き換えようとする試みを始めていることを紹介している。

 さらに、この合成生物学は微生物レベルであれば、そのDNA配列の設計から始めて一から合成することに成功しているのだという情報もある。

 そして、すでに合成生物学の世界では、ヒトをそのDNA配列から「合成」し、10年程度で組み立てようというプロジェクトが始まっているという。

 新型コロナウイルスに世界が翻弄されている現在、こうした分子生物学の進歩と、世界がパンデミックに対応する姿とのギャップに当惑するのであるが、そういえばPCR検査も、mRNAワクチン製造もまた分子生物学の成果であることを思い出すのである。

 一方、宇宙に最初に生命が誕生する過程についてはどうだろうか。生命をそのDNAを一から合成できるようになったとされる現在、いまだ完全に解明されていない地球生命誕生のプロセスが明らかになる日も近いのではと予感させられるのだが。
 
 生命とは何か?、生命はいつ、どこで、どのようにして生まれたか?、この繰返して発せられる問いかけに対して、ポール・ナース博士はこの本を次の言葉で締めくくっている。

 「宇宙は想像を絶するほど広い。すべての時間と空間を見渡せば、意識を持つ生命体は言うまでもなく、生命がここ地球だけ、たった一回しか花開いていない確率はきわめて低い。
 われわれが、異星人の生命体と出会うことになるかどうかは別の問題だ。しかし、もし出会ったとしたら、彼らは、われわれと同じような仕組みで作られているはずだ。自然淘汰による進化によって、情報が暗号化された高分子の周りに築かれた、自律的で化学的かつ物理的な機械にちがいない。・・・」

 さてここでもう一度、今回、このエントロピーについて改めて考えるきっかけを作った松井孝典さんの考えを紹介して「エントロピー」についてのつきない話を一旦終ろうと思う。

 軽井沢の夜話で講演をしていただいた、千葉工業大学学長・松井孝典さんは、その少し前に、NHKのラジオ放送で、13回にわたり「地球外生命を探る」という話をされているが、その第3回「生命の定義」の中で次のように話している。

 「宇宙で生命をどのように定義できるかと言う問題について考えてみます。言葉を変えて言うと、生命の普遍的定義が与えられるか否かということです。先ず第一に考えられることは、生命を物理的に考えるとどうなるかということになります。物理学は明らかにこの宇宙で成立しています。・・・
 生命の物理学的観点からの議論は、シュレーディンガーという人が行っています。彼は1944年に本を出しています。『生命とは何か』というまさに本質を衝いたタイトルですが、シュレディンガーが問うたのは何かというと、生命体の空間的境界の内側で起きる時空内での出来事を物理学と化学で説明するにはどうすればいいのかという問いです。

 彼が得た結論は、生命は環境から負のエントロピーを抽出するという性質を持っているということです。エントロピーというのはエネルギーや物質が拡散してやがて熱力学的平衡に達する、そういうふうな傾向がありますよと言うことを言っている法則です。彼の答えは生命は環境から負のエントロピーを抽出する性質を持つというのですが、負のエントロピーというのは何なのか全くわからないのですね。もう少し具体的に言うと、生命が無秩序から秩序を生み出して、熱力学の第二法則に背くには、生命体を作るための指示書を何らかの形でコード化した分子的実体が存在しなくてはならないというのが彼の答えだったのです。・・・
 生命と熱力学第二法則について触れておきますと、ある化学反応において、エントロピーが増大する場合は、その産物は反応物に比べて、より無秩序で乱雑であります。生命は化学反応の上で成り立っていますね、たくさんの化学反応をまとめて代謝と言いますが、その化学反応によって秩序が生まれるか生まれないかというのは次のたんぱく質について考えてみると、判りやすいんですが、タンパク質はアミノ酸という分子からできています。(タンパク質が)アミノ酸に加水分解される場合は、反応物に比べて産物の数が多くなりますので、アミノ酸という産物は自由に動き回れるので自由度が増えるわけです。だから、加水分解反応ではエントロピー変化はプラスになる、要するに無秩序になるということですね。アミノ酸がつながっている大きなタンパク質ができる場合は、当然材料となる数百・数千のアミノ酸の溶液に比べると自由度は低いわけでして、タンパク質という形になっているものは秩序があり、エントロピーは低くなります。
 結論的に、生命は秩序を維持するために絶えずエネルギーを入力しなければならない、これは第二法則と矛盾しないということになります。このエネルギーは利用できるエネルギー=自由エネルギーということになりますが、自由エネルギーとエントロピーは関係しているということです。・・・」

 「結局、物理的に生命を考えようとすると、生命の性質を列挙するだけでは足りません。ポール・デーヴィスはシュレーディンガーとはまったく違う観点でそれを言っています。物理学が取り扱うべきなのは生命力という単なるもう一つの力ではなく、物質と情報、全体と部分、単純さと複雑さとを結びつけるもっとずっと捉えがたい何かを論じなければいけないと問題を整理しています。・・・
 生命体というのは、平衡状態からはるかに遠くかけ離れていますし、生物が機能し続けるためには環境からエネルギーをとりこんで、何かを排出し続けなくてはなりません。そのために環境との間で常にエネルギーと物質の交換を行っています。そのライフプランの詳細を保存しているのが核酸でして、タンパク質がその生命体を機能させ生きるための下働きをしているというのがこういう視点からの構図になります。生命の定義には化学+情報の両方を取り込まなくてはなりません。・・・
 ここで視野を宇宙にまで拡げるとどんな問題が出て来るかということですが、逆説的ですが宇宙における秩序の乱れを加速する作用を生命は持っているという言い方もできるのです。その営みはエネルギーの散逸を加速させ、宇宙の死期を早めているという風にも考えられています。生命というのは開放系で外側が環境だとすると、開放系が生まれるということは外側に無秩序をたくさん生み出しているわけです。生命が作られれば作られるほど宇宙は無秩序が増えてくるようなもんで、逆説的ですが宇宙における秩序の乱れを加速するようなものが生命なんだということもできるわけです。・・・」
 
 最後に、ここまで引用した本の著者・講演と関連する受賞、発見についてまとめると次のようである。





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