ショスタコーヴィチの交響曲第5番を『革命』と呼ぶ人がショスタコ好きを自称するならば、それはモグリ以外の何物でもないと思う。そしてショスタコ好きならば、みなそう思っているに違いない。
ショスタコーヴィチ好きによるショスタコーヴィチ好きのためのショスタコーヴィチ演奏会はどこの演奏会かと聞かれてオーケストラ・ダスビダーニャと答えられないことも、またモグリではないかと疑ってしまう。
そして今回、オーケストラ・ダスビダーニャに巧妙に張り巡らされた罠にまんまとハマった私。ショスタコ好きであるから余計にそう思うのではないかとも思っている。
まずは公式ホームページ。ここには「《革命》と呼ばないで」とある。そして、冒頭の写真のように会場で手渡されるパンフレットにも「《革命》と呼ばないで」とある。しかもパンフレットはあたかもショスタコーヴィチがそう言っているかのように演出が施されている。
私が学生の頃は(もう20年経つのか・・・遠い目)まだ、ヴォルコフ氏による「ショスタコーヴィチの証言」という書籍に対する扱いが曖昧で、その内容を真とするか偽とするかで揺れていたころだと思う。。。が、『近年は研究が進み、今世紀に入り新たな説が登場した』とパンフレットの曲目解説は語りだすのである。
詳しい内容は割愛するが、何でもビゼーのカルメンのモチーフを引用し、自身の経験に基づく男女の間の心境を反映させているのだとか。そして終楽章のコーダに現れる金管楽器と弦楽器、そしてティンパニーで連打されるAの音はすなわち「ラーラーラー・・・」とかつての愛人の名前「リャーリャ」を呼び続けているのだと結論付けている。それはまた、終楽章のテンポ記号問題にも周到に結び付けられていて、これまで論争となっていた「♩=188」説と「♩=138」説に加え、ショスタコーヴィチからムラヴィンスキーに献呈された筆写譜には「♩=88」と指定されていて、これはもしかしたら故意に書き間違えたのではないかというもの。
曲目紹介は観客にクイズを出している。【問:「カ○メ○」---2つの○に一文字ずつ入れてショスタコーヴィチの交響曲第5番に関する言葉をまとめよ】答えは掲載されていなかったが、その答えは演奏内容にあったのである。
この新しい説を念頭に入れてこのシンフォニーを聴くと、もうそういう風にしか聞こえないし、はたまた、最後の「強制された歓喜」ということになっていたアノ部分の進行速度はやたらに遅く、もうこうなったら「リャーリャ!」「リャーリャ!」「リャーリャ!」って叫んでいるようにしか聞こえないし・・・いろいろな意味で濃いい演奏やった。
アンケートの中で「今回の演奏会について五・七・五・七・七で表してください」という問いがあったので、私はこう書いてみた。『カクメイか? シャレにならない カルメンか? そこ問題よ ショスタコさん!』
それともう一つ、これもさすが、ダスビ!!と思ったのが、終楽章のコーダに向かっていく途中、284小節のヴァイオリンとヴィオラの音型が何とムラヴィンスキー版の音型であったこと。地味な改変だけどこだわりがあるね、素敵だよダ・ス・ビ!!・・・いやいや、もしかしてこの部分をムラヴィンスキー音型とすることで、『その昔、ショスタコーヴィチからムラヴィンスキーに献呈された筆写譜版に基づいた演奏である設定』ということを暗に主張しているのかもしれない。。。ということに、今気が付いた。
いや奥深い演奏やった。今回の演奏は、私が今まで聴いた幾多のショス5の演奏を完膚までに無きモノにしたと言っても過言ではない。
ちなみに第一部のアンコールは
チェロ協奏曲初演の年にニューヨークで演奏されていた曲だとか。とても同じ時代の曲とは思えん。しかしながら、このアンコールを演奏する演奏者の目が死んでいるように見えたのは気のせいか?彼らのショスタコを演奏するときのあのキラキラした感じはどこにもなかったように感じた。
第二部のアンコールは2曲あって、2曲目のレスギンカは・・・こんな高速回転超絶爆走モードのレスギンカは初めて聴いた。いや、ほんとはっちゃけ過ぎですってば!!