まっしゅ★たわごと

街歩き、建築、音楽、フランス、それに写真の話題を少々

写真を撮ること、そしてデジカメについて

2004年10月15日 23時32分30秒 | サイバー
 今年の2月まではNIKONの一眼レフカメラを使っていたが、2月に一念発起してCANONの一眼レフデジタルカメラを買ってみた。これがなんとも使い勝手が良く、もう手放せなくなっている。その日使ったカメラを自宅に持ち帰りUSBにつなげば、たちまちデスクトップ上でスライドショウが出来、メールに添付が出来、またサイトにアップが出来るのだ。更には、今までごみの山と化していた撮影後のネガや現像された印画紙の整理の手間が不要になり自室のエントロピーが格段に減るという利点もある。

 また、撮影したすぐあとに、カメラの液晶を覗き込めば記憶された「画像」を確認することができる。つまり、それは「写真」ではなく「画像」なのである。私が毎夜毎夜足繁く通っている写真投稿サイトではこの『「写真」?「画像」?論争』が起きたことがある。つまり・・・

    『どこからどこまでが「写真」で、どこからどこまでが「画像」なのか?』ということ。

 それは、決して確立された境はなく、かつ曖昧で個人の撮影に対する姿勢でその位置は変わる。この8ヶ月間、ずっとデジカメで写真を撮ってきた中で、一つだけ残念に思うことがある。それは・・・

    『一枚にかける「想い」(または「鮮度」、でなければ「価値」)が落ちた』ということ。

 その昔、巷で「仮想現実(バーチャルリアリティ)」という言葉が流行った。当時は「新しい世界、そしてものの考え方」として脚光を浴びたが自宅のパソコン・会社のパソコン・小学生の持つ携帯電話までがネット社会にボタン一つで繋がるようになってから、いつの間にか『その感覚』は既に「バーチャル」ではなくなっていたのではないかと思う。

 今、「そこにある美しい風景」を切り取るために、ファインダーを覗きシャッターボタンを押す・・・すると、フレーム越しに私の左右一組の水晶体に映った風景がカメラという箱に記憶される。これが、銀塩写真であれば、ブラックボックスを開けるとフィルムに光が焼きついた状態で我々の眼前に姿を現す。だが、ブラックボックスに入ったデジタルデータはそこを開けて顕微鏡を覗けど、一向にその実像の片鱗すら見ることはできない。いわば視認不能な状態、やるせない表現を敢えて用いるとするならば、実態のない「0」と「1」の無数の繰り返しで構成された電気信号と化してしまっているのである。・・・実体はどこにもない。

 最近売り出されている高級一眼レフデジカメは、既に1000万画素を越えているし、研究開発用に用いられる業務用カメラは8000万画素を超えるものが使われているという。この画素数の進化も、商業的に覚めた見方をすれば、一般ユーザーの手に渡るのはハードディスクの容量・CPUの周波数と同じく「メーカーやバイヤーの決算に合わせて段階的に遅々として進まないように見せられている技術開発の進化を待たなければいけない」というシステムの一部と化してしまっているのも実情なのである。

 そんなことを考えつつも、この前新しくコンパクトデジカメを買ってしまった。

     RICOH CAPLIO R1

 ズームするときに、液晶が勝手にオンになるというトンデモナイ機能が標準装備というイタダケナイカメラだけれど、コンパクトデジなのに28mmの広角で撮れるというところに惚れて購入。まだ、使用はしていないので後日レポを書く予定にしている。