とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

グルーバル社会の終焉と理想を語るのをやめた教育

2019-01-23 09:25:49 | 社会
 アメリカは最近まで「グローバル」とばかり言っていた。しかし最近はナショナリズムが強くなり、「グローバル」は後退した。

 「グローバル」とは全世界が裕福になり、平和になるという考え方である。これはリベラルな人にとって理想的な社会である。一方で愛国主義者にとっても、自国の製品を外国に売ることによって裕福になるわけだから、反対する必要もなかった。しかし「グローバル」が進み、実際に多くの国が裕福になり始めると、自国の製品はあまり売れず、逆に外国の製品が安く輸入され、自国の経済は悪くなることに気が付く。だから全世界の先進国の右傾化が始まっているのだ。

 もともと自国優先であった中国やロシアがどんどん力をつけていき、またかつての発展途上国が台頭してきている中で、かつての資本主義先進国が焦り始めている。その結果、トランプ政権が生まれ、安倍政権が支持され、イギリスがEUを離脱を決めたのである。

 リベラルは力を失い、負け組に追い込まれていく。理想を語っていた教育も、理想を語らなくなり、経済界のいいなりに成り下がろうとしている。つまり、教育は理想を語るのをやめ、国家の道具となる人材の輩出ばかりするようになる。今回の教育改革の本質はそこにあったのではないか。

 今、世界は絶望的な方向に向かっている。これを食い止めなめればいけない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦織圭の試合に興奮

2019-01-22 07:30:23 | スポーツ
昨日、錦織圭とP・カレノ=ブスタの全豪オープンの4回戦をテレビ観戦した。ものすごい試合で興奮し、感動した。

 テレビを見始めたのは2セットの終盤から。下馬評から簡単に勝てると思っていたが、1セットを取られ、2セット目も劣勢であった。カレノ=ブスタのショットはするどく、錦織の動きを読んでいるような球筋で、2セット目も奪われた。3セット目も最初は劣勢であった。錦織もいいようにやられているというような状況にまでなり、これは勝負あったかと思われた。

 しかしそこから挽回がはじまった。とはいえ、ぎりぎりのところでゲームを取るという状況はかわらなかった。

 3セット、4セットをなんとか取り、5セット目も五分の戦いのまま、10ポイントタイブレークへ。錦織が劣勢のまま、5-8になった。その次のポイントが試合の流れを変えるものとなった。

 カレノ=ブスタの打ったショットに錦織はリターンして相手コートに見事に決まる。しかしそれと同時にカレノ=ブスタのショットに対して線審のアウトのコール。カレノ=ブスタはチャレンジを要求して、判定はインだったが、ポイントは、そのコールに関わらず錦織のポイントとなるのが妥当な状況だったとの判断から錦織のものとなった。カレノ=ブスタはその判断に納得せず、冷静さを失ってしまった。そこから5ポイントを連続で錦織が奪い、錦織の勝利となった。
テレビで客観的に見ていたら、審判の判断は妥当だったと思う。しかしカレノ=ブスタの抗議も気持ちもわかり、同情できるものであった。

 トップレベルの選手というのは本当に紙一重のところで戦っている。冷静さと、気持ちの強さ、そして我慢を維持しながら、ぎりぎりのところで戦っているのだ。しかしそんな時にも偶然に勝負の綾がやってくる。その時に本当に自分を保つことができるのか、それは難しいことであるが、大切なことなのだということを学ぶことができる素晴らしい「ドラマ」であった。

 いい試合だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稀勢の里引退 力士がもっと休める環境を

2019-01-16 13:54:53 | スポーツ
 稀勢の里が引退する。残念である。この件に関してひとつ申し上げたい。相撲界も成り立ちから考えると伝統を大切にしたい気持ちもわからなくもないが、少なくとも健康面に関しては前近代的な伝統よりも近年のスポーツ医学に依るべきである。ケガをした力士はそれに応じて休める環境を整えるべきであり、改革すべきである。。

 稀勢の里は何度も横綱に挑戦しそのたびにぎりぎりのところで昇格ならず、それでも挑戦し続けようやく横綱になれた。しかしその直後に大きなケガをしてしまい、そのケガが完治しないまま土俵に上ったため満足な活躍ができなかった。結果として横綱としてはそれほどの成績を残せないままの引退だ。悔しいだろう。しかし、その強さは本物だった。大関としての成績はものすごい。史上最強の大関であろうと。その結果としての横綱なのだから胸をはっていい。

 それにしても、相撲は少し前までは八百長めいたものもあったのは事実であろう。だから大きなケガは少ないし、ケガがあってもごまかしが効いた。しかし今は真剣勝負であり、大きなケガがさけられない。近代スポーツにおいてケガはつきものなのだ。

 だからケガをした場合は医師の診断をもとに、ある程度の期間休めるようにする方向での改革が必要だ。どんなスポーツでも大きなケガをすれば長期間休まざるを得ない。そんな中で相撲だけが2、3場所程度の休場しかゆるされないような風潮がある。これはいけないことである。力士は無理をして出場し、さらに悪化させ、引退を余儀なくさせられる。これでは本気で相撲を取るのをやめるか、けがをして相撲をやめるかどちらかしかなくなってしまうであろう。

 相撲もこれだけの人気スポーツなのだから、改革すべきことは改革しなければならない。そうしなければ、新しい血は入らない。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「羅生門」③〔オーソドックな授業〕

2019-01-16 07:30:56 | 国語

〔オーソドックな授業〕
 「羅生門」のオーソドックスな授業はどういうものか。確認しておきたい。

①「段落分け」

 場面展開によって4つの段落に分ける。
 1段落 下人が羅生門の下にいる場面
 2段落 下人が梯子から老婆の行動を覗いている場面
 3段落 下人と老婆との対峙の場面
 4段落 下人が羅生門から去ったあとの場面

② 1段落の読解

 段落分けの後は段落ごと読んでいく。

 1段落は下人が羅生門の下にいるだけで、下人のセリフもなく、行動もほとんど何もしていない。状況描写、心理描写によって進められる。授業において定番となる話題は次の通りである。

・状況描写といしては、「鴉」、「蟋蟀(きりぎりす)」、「にきび」などが目につき、それによってどういうことが読み取れるのかを考えさせることになる。とくに「にきび」に関しては、若さの象徴であることが指摘され、それと3段落における「不意に右の手をにきびから離して」という記述との対応を考えさえることもよく行われる。

・心理描写としては、下人の心の迷いを読み取らせることになる。特に
「下人の考えは、何度も同じ道を低徊したあげくに、やっとこの局所に逢着した。」
の記述に注目させ、「この局所」はどういうものかを考えさせるのは定番である。

・もうひとつこの段落で言及されることが多いのは、「作者はさっき、(以下略)」と「作者」が小説に介入していることに注目させることもよく行われる。

③ 2段落、3段落の読解

 2段落から3段落は下人の心理の変化を追うことになる。恐怖感から、正義感へ、そして最後には追いはぎをする心理への変化を追い、その変化を引き起こした原因を探ることになる。

 正義感によって盗人になることを思いとどまっていた下人が、自分を守るために正当化しようとする老婆のセリフによって、逆に老婆を襲うという行動にでてしまい、正義感を捨ててしまう。この逆説的な行動を説明しようと授業者はやっきになる。

④ 第4段落の読解

 最後に下人はその場から駆け出す。
「下人の行方は誰も知らない。」
と終わるこの小説の、下人の今後を考えさせたり、あるいは下人の行動が許されるか、許されないかを考えさせたり、それをディベートにしたりして授業は終わる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大人しくなる高校生とSNSの関係

2019-01-13 14:39:28 | 社会
 最近高校生が大人しくなっている。静かになったという意味ではない。逆に明るく元気になった。では「大人しくなった」というのはどういうことか。昔みたいに反抗的な生徒が急激に少なくなったのである。20年前はギラギラと教師に対して睨みつける生徒や、まったく教師の言うことなど聞く耳持たない生徒がたくさんいた。しかし最近はそういう生徒はほとんどいなくなった。みんな「いい子」なのである。おどろくほどの変化だ。

 なぜこうなったのか。私はSNSのせいではないかと考えている。

 普通の人間ならば、日常生活において、自分の欲求が満たされず不満を抱えている。そして多くの人間はそれをうまく処理できないでいた。自分でうまく処理できなければ、反抗したり無気力になるしかない。だからある意味において、高校生が反抗的だったり、無気力であったのはしょうがないことであったのだ。

 自らの不満を処理するには不満を吐き出す必要がある。穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫ぶことでも少しは欲求不満が解消される。なんでもかんでもへらへらしゃべる人がいて、周りの人間は迷惑するのであるが、その人間だけは不満が解消されることになる。最近それがうまくできるようになった。それがSNSなのだ。

 高校生はSNSで毒を吐き、自分を解放しているのではないか。そしてそれが時にネットいじめになっている。

 そう考えると、問題が周囲に見えずらくなってしまい、実は逆に解決しずらい場所に移っていってしまったと考えることもできよう。はたしてこれはいいことなのかよく見極める必要があるように思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする