1990年栃木県足利市で起きた少女誘拐殺人事件。栃木県警は菅家利和さんを犯人として逮捕。裁判で無期懲役が確定した。しかし、取り調べでは自供した菅家さんは、裁判では無罪を主張していた。
この事件に疑問を感じた著者は、足利市周辺で起きた事件、さらには群馬県で起きた事件の5つに類似性を感じ、真犯人は他にいるのではないかと考える。調べてみると捜査や取り調べに大きな問題があり、DNA鑑定も杜撰なものであったことが徐々に判明してくる。筆者が中心になり、再審請求が高まり、DNA再鑑定の結果菅家さんと犯人のDNAが不一致であることが判明し、菅家さんは釈放される。再審の結果も無罪となる。
筆者は真犯人は他の証言から「ルパン3世」に似た、ある特定の人物と目星をつけ、警察に働きかける。しかし今現在警察は動きがない。筆者は真実の解明を最後まで要求する。
以上が本書のだいたいの内容であり、筆者の行動が細かくリアルに表現され、冤罪の恐ろしさがひしひしと伝わってくる。圧倒される。すごい本である。
背景にあるのは権力者側の無能さだ。
おそらく警察だって冤罪を作りたくて作っているわけではなかろう。誰もが真犯人を捕まえたくて努力していたはずだ。しかし、一度その流れができるとその流れしか見えなくなり、間違った結論でも正しいものと思いこんでしまう。これは何なのだろう。いつの間にか結論ありきの捜査に変わってしまうのだ。
先日、地元劇団が井上ひさし作の『闇に咲く花』という芝居を上演して見に行った。とても素晴らしい劇だった。この中のセリフにこういうものがある。
「ついこの間あったことを忘れちゃいけない。
忘れたふりはなおいけない。」
戦争について語っているセリフである。まさにその通りである。私たちはすぐに忘れすぎている。東日本大震災の際の原発の問題などは、いまや忘れたふりと言ってもいい。
権力者は過ちを忘れてはいけないし、忘れたふりをしてはいけない。権力者こそがつねに批判精神を持ち、過ちをを正そうとしなければこの世の中すぐにとんでもない方向に転がっていってしまう。
そして、われわれ一般の人間はやはりしっかりとチェックしていかなければならない。すべてを権力者のせいにしてはいけない。たったひとりになろうが、正しいことを正しいと言い続ける勇気を持たなければならない。筆者はそう教えてくれている。
この事件に疑問を感じた著者は、足利市周辺で起きた事件、さらには群馬県で起きた事件の5つに類似性を感じ、真犯人は他にいるのではないかと考える。調べてみると捜査や取り調べに大きな問題があり、DNA鑑定も杜撰なものであったことが徐々に判明してくる。筆者が中心になり、再審請求が高まり、DNA再鑑定の結果菅家さんと犯人のDNAが不一致であることが判明し、菅家さんは釈放される。再審の結果も無罪となる。
筆者は真犯人は他の証言から「ルパン3世」に似た、ある特定の人物と目星をつけ、警察に働きかける。しかし今現在警察は動きがない。筆者は真実の解明を最後まで要求する。
以上が本書のだいたいの内容であり、筆者の行動が細かくリアルに表現され、冤罪の恐ろしさがひしひしと伝わってくる。圧倒される。すごい本である。
背景にあるのは権力者側の無能さだ。
おそらく警察だって冤罪を作りたくて作っているわけではなかろう。誰もが真犯人を捕まえたくて努力していたはずだ。しかし、一度その流れができるとその流れしか見えなくなり、間違った結論でも正しいものと思いこんでしまう。これは何なのだろう。いつの間にか結論ありきの捜査に変わってしまうのだ。
先日、地元劇団が井上ひさし作の『闇に咲く花』という芝居を上演して見に行った。とても素晴らしい劇だった。この中のセリフにこういうものがある。
「ついこの間あったことを忘れちゃいけない。
忘れたふりはなおいけない。」
戦争について語っているセリフである。まさにその通りである。私たちはすぐに忘れすぎている。東日本大震災の際の原発の問題などは、いまや忘れたふりと言ってもいい。
権力者は過ちを忘れてはいけないし、忘れたふりをしてはいけない。権力者こそがつねに批判精神を持ち、過ちをを正そうとしなければこの世の中すぐにとんでもない方向に転がっていってしまう。
そして、われわれ一般の人間はやはりしっかりとチェックしていかなければならない。すべてを権力者のせいにしてはいけない。たったひとりになろうが、正しいことを正しいと言い続ける勇気を持たなければならない。筆者はそう教えてくれている。